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門出

2012/02/24



 柔らかな紫掛かった黄金の空は、色味の通り優しい光を注いで暖かい。下方で金に煌めく雲は果てまで続いてこの世界の広大さを教えてくれるが、そこに覚えるのは孤独ではなく母なる自然に包まれる安心感。あちらこちらに漂う浮島はそのどれもが緑に満ち、花を咲かせて瑞々しい。夏の涼しさと春の暖かさを矛盾なく含んで吹く風は、心地良いだけではなくすっきりと薫り高い。
 どこかで聖歌の合唱が行われているようだ。水晶の鈴めく澄んだ歌声と、それに合わせて奏でられる鐘の音は随分と遠くから耳に滑り込んだ。近くで聴き入ってもそれはそれで趣が異なって美しいが今はこれで構わない。
「……朝の斉唱に、加わったことはあったかな。君は」
 軽く瞼を閉じ遠方の歌声に聴き入りながら、背後の、恐らく緊張で過度に縮こまっているであろう娘に声をかける。
 するとやはり不意を打たれたのか。え、と可憐だが軋みがちな小さな声ののち、ええと、と裏返り気味の呻きが聞こえてきて知らず苦笑してしまう。そんなに緊張されるほど威圧感はないはずなのだが、そこまで恐縮されるとこちらも居心地が悪くなる。
「あ……ありません。あの任務は中級以上の天使さまの受け持ちであって、わたくしのような見習いにはとても……」
「そうだったかな? 階級差で持ち回りを決めているなんて、初めて耳にしたよ」
「そ、そうでしたか……」
 落ち込み気味の相槌は、興味を持っても階級を理由にやんわり断られた経験があるからだろうか。それとも自分の預かり知らぬところでそんなふうに勝手に決めた天使たちへの申し訳なさによるものか。まあ他の天使たちも悪気はあった訳ではなかろうと楽観的に判断し、軽く背後へと振り返る。
 それだけなのに、下の段差で跪く華奢な娘はしっかりと身構えた。
 細い背を覆い隠すほど豊かな長髪は、健やかな春に最も馴染み深い桃色。澄んだ空の色でいながら湖面の煌めきを宿す瞳は鮮やかで、それらの土台となる肌は乳色に陶器の艶をまとって麗しい。目鼻立ちもまた丁寧に整えられておりながら、今は全体的に硬直気味なのが男には少し申し訳なかった。
「……君の面倒はフロンに任せていたからかな。こう言うときのために、私からも少しくらいは君に話しかけるようにすべきだったね」
「い、いえそんなっ! わたくしのような若輩者にお気遣いをなさる必要など……!」
「生まれたばかりの若い芽ならば尚のこと、気にかけようと思うものだよ。それが我々古木の背負う義務だからね」
「……そんな。畏れ多いことです」
 畏れ多いと言われても、実際にそうなのだから訂正する気はない。それにしても、この娘はたいへんな甘え下手だといつだったか部下に愚痴を聞かされたものだが、成る程。よもやここまでとはと男は肩を落とす。
「……フロンもなかなか粘り強い。ここまで頑なな子を相手に、深刻な悩みを打ち明けさせるほどの信頼を得るとは大したものだ。尤も、雛の刷り込みのようものかもしれないけれど」
「…………」
 深刻な悩みと口にした途端、娘の体が再び強張る。しかし先の無駄なほどにほとばしる緊張感とはまた違う種類の反応に、臆病風は感じない。むしろ何を言われても構わないと覚悟を決めた末のそれは、嵐の中を突っ切る船舶を連想させる――勇猛果敢にして無理無茶無謀。その胸に秘めた願いを聞けば、とても正気の沙汰とは思えないと常人ならば揃って口にするはずだ。
 しかし彼は、娘の前で悠然と佇む涼やかな銀髪の男は常人ではない。悲劇も喜劇もそうあれかしと受け入れる、青年の容姿に老人、いやそれをも超えて仙人の気配を漂わせる端正な男は、天界広しとは言え片翼ずつに三重の羽を持つただ一人の存在。天界に住まう神の使途たちの長にして代表者、天界の住人たちは畏敬の念を籠めて彼をこう呼ぶ。
「……大天使様」
「何かな、アルティナ」
 対する娘の羽はなんとも小さい。緩く波打つ豊かな髪に埋もれて、羽ばたく程度でようやく存在が見て取れるほど。それでも彼女がここ天界で暮らした歳月を考えれば、これからの出来事は誰しも快挙と褒め称えるだろう。まあそれは、『生前』の彼女の努力も加わってはいるが。
 そんなことをつらと考える男の心情など読み取る余裕もなく、娘は一つ息を呑み込む間を置いて真剣な面持ちで語り始める。
「大天使様にとって、わたくしはまだ産毛に覆われたままの雛でしかないのは百も承知です。ですから、この件についてあまりいい方向に捉えていらっしゃらないのも、なんとなくはわかります」
「……そんなことはない。ただ最近は、人間から天使となるケースは少ないからね。それにスカウトしたのはフロンだ。君にもしものことが起きてあの子が嘆き悲しむ顔は見たくないし、私も君にはなるべく危険な場所に赴いてほしくはない」
「……お気持ちは、大変嬉しく思います」
 軽く俯き、唇を噛む娘の顔は一見すれば項垂れているようでも、水色の瞳は煮えたぎる溶岩の熱さを孕んでいる。その下の、堅く握られた両の拳が彼女の胸の奥に宿る激情を更にはっきりと示しており、男は小さく嘆息させられた。
 この調子なら、止めたところで勝手にここを飛び出していく可能性は大いに高い。本当にこの娘のためを思うなら、厳重な違法者として取り締まろうとする過激派が現れる前に、こちらが娘の背を押してやらねばならないのだろう。いつかの焼き直しのようになってくれればいいものだが、あの滅び行く地にはそんな余裕はないことくらい知っている。
 そう考えたからこそ普段は楽観的な男も暫く渋ったが、結局自分がこの娘の障害になろうとする気も湧いてこないため、選ぶ道は自ずと知れていて。
「しかし。君の決意を我々が害する権利はない」
「大天使様……!」
 簡素な一言にぱっと顔を明るくする娘に、大天使はほのかな苦みを覚えながらも、しかし心は穏やかなまま浮かべる笑みの種類を変える。ただそれだけで、周囲の空気も芝居の幕が下りるように一変した。
 朝焼けの光が降り注ぐ空間に、夜に近しき静寂が広がる。ともに高まる霊力に儀式が始まったと知らされ、娘は慌てて跪き直し、男が軽くかざした手の位置に自分の頭を固定する。その様子は人間界では洗礼と称される教会での儀式と酷く似ていたが、もとより天使は生まれたときから光の加護を手厚く受けたもの。ではこれは何かと問われれば。
「……天使見習いアルティナ。これより君に下級天使兵の位を授ける。以降は髪を結い、己の心身を鍛え、光の使者として世の平和に尽力せよ」
「はい。謹んでその任、承ります」
 昇格の報告に打てば響く、どころか弾むような返事を寄越した娘にくすり笑って、男は一度、桃色の頭に軽く触れる。
 それだけの行為なのに華奢な娘の霊格が増し、じわりと力がみなぎっていく感覚が全身を駆け巡ったのだろう。恍惚に似た熱い吐息をほうと漏らすと、元天使見習いはゆっくりと面を上げた。しかしその瞳は、努力の成果を実らせた歓喜に酔いもせず、何やら居心地悪そうな。
「……本当に、この度は申し訳ありませんでした。わたくしのわがままで、期間外だと言うのに昇格試験を受けたいなどと……」
「君の評判は他の天使からもよく聞いている。何より別の使命を帯びている君の努力を、ただの決まりで縛るのは私も気分が良くない」
 のんびりとした物言いに、娘は何が引っかかったものやら。目を見開いた途端に眉をしかめて、背後の門をおっかなびっくり見返した。人払いはもう済ませているから、それを気にする必要はないとついさっき伝えたはずなのだが。
「あ、あの。き……気持ちの問題、なのでしょうか?」
 天界の頂点に立つ、即ち天使たちの模範ともなるべき大天使が口に出すべきではなかろうと言外に含んで尋ねる娘に、男は全く微動だにしない微笑で頷く。
「法は確かに必要だが、何事にも例外はある。君もそのうち、気持ちの問題で法を破る経験もするだろう」
「……そう、なのですか?」
 その辺りはいまだ未熟な天使らしく、戸惑い気味の顔にはそんなことはないと思いますと控えめに書いてある。しかし真正面から大天使相手に口答えする勇気はさすがになく、視点が蛇のようにうねって下方に降りていった。容姿は一人前だがこの色々足りない中身の組み合わせとは、なかなか愛らしいものだ。
「……さて。お喋りはここまでにしておこうか。君は一刻を争うからね」
「はい」
 居心地悪くさせたままなのも可哀想だから話を本筋に戻してやると、娘もすぐに姿勢を正す。表情もまた先の話題を自分から引っ張る気配は皆無で、良かれ悪かれ真面目な子だと受け止めていたが、それなりに柔軟性もあると見える。――それは彼女の今後を思えば実に結構。かの地では天界の善意の常識を過信してはならぬのだから。
「では下級天使アルティナ、君に最初の仕事だ。天使長フロンの与える任務を遂行せよ。詳細は追って彼女が君に伝えよう」
「畏まりました。……ありがとうございます、大天使様」
 肯定だけでいいのに、わざわざ礼までしてから退出する娘に大天使は苦笑を滲ませる。
 続いて急ぎ遠のいていく桃色の背中と小さな純白の羽に、まさしく雛が必死に羽ばたいて巣立つ光景を連想したからだろうか。ありとあらゆる祝福が彼女を守る楯にならんことを、その背が見えなくなるまで男は粛々と祈ることにした。



 手持ち無沙汰の待ちぼうけを喰らうなんてこと、天使長の身の上ではそう滅多にない。
 特に天使長でも新米の彼女は先輩天使長たちから色々とご指導をいただくことも多々あり、また直下の天使たちの面倒も見なければならないし、しかもそれなりの数の魔界と親交もある上に人間界の監視や文化の吸収も絶対に外せないので、のんびりしているように見えて案外忙しいのが自慢でもあり欠点でもある。
 それでも彼女、天使長フロンは今日このときだけは何もせずに、言い換えればひたすら待つことだけに勤しんだ。多忙なら時間を有効に使って仕事をしろと他者から指摘を受けるかもしれないし、本人も当初はそのつもりだったが何せ落ち着かない仕事が手につかない何かをする気になれやしない。
 しかしすぐ目当ての場所へ飛び出していくのは天使長の威厳に関わる。相手の気持ちも考えれば、部下とは言え過保護に扱われるなんて恐縮させてしまうこと間違いないだろうし、何より自分の力を信じていないと思われるのはいやだ。
 だからこちらから祭壇に赴くことだけは止めようと心に決めて、フロンはひとり部屋で手を組み、つまり祈りながらうろうろと歩き回っていた。
 もう既に吉報を受けたときのための餞別は机の上に広げているし、それに伴う必要なものだって用意した。ほかに今の彼女がやれるべきことはない。いや机の横に置かれた特撮とアニメのディスクは小山のように積まれているし、羊毛紙だって負けていないがそんなこと気にしていられるほどの余裕はなかった。
 多分あとたったの数分。もしくは十数分、半時間ほどで四百年の成果が決まる。そう思えば、いくら他人とは言え緊張してしまうのは当然ではなかろうか。
「……四百年かあ」
 天使にとっては長いような短いような、曖昧な期間だ。きっと、今は昇格試験の真っ最中のはずの過去は人間だった娘からすれば果てが見えないほどの長い上、苦痛と己の無力さをひたすらに感じた時間だったのだろう。
 けれど本当にこの四百年が無駄になるかどうかは、恐らくもうあと少し経てば決まること。いいや、それで決まるのではなくそれを足がかりとして始まるのだ。現段階は辛辣に表現すれば、あの娘の努力が実るための土作りのようなもの。
 だからここで躓いてはならないし、躓かないようあの娘は必死に修行した。フロンもできうる限り協力したし、自信がついたとの報告を受けてすぐに大天使に昇格試験を行ってほしいと頼み込んだ。それを知らされた娘は随分と恐縮していたが、あと数百年も待っていられないだろうと訊ねれば納得してくれたので、この判断は間違っていないはず。
 なのにどうしても不安が消えないのは、こちらの無理強いに今更後悔しているから。
 娘の努力を大天使も汲んでくれるとは思うのだが、いかんせんこちらから強引に願い出た臨時試験となれば多少評価が厳しくなったり、他の天使長の評判を気にしてわざと落とされたりするかもしれない。
 だとすれば娘は一切悪くないのに、自分のせいで躓かせてしまうことになる。そうなればもういっそ自分が全ての責任を被って彼女の願いを叶えてやるしかないが、それはそれで娘にまた迷惑をかける羽目になるだろうと考えれば唸るしかない。
 だからフロンは事が穏便に運べるよう、必死に頭の中で祈り続けた。あの子が正統な評価を下されますように、あの子の心根が理解してもらえますようにと。
 合格しますように、なんて祈りはさすがに即物的な気がして避けたのが結果的に功を奏したのか。二十三回目の往復が始まった辺りで、廊下からヒールで走ってくる誰かの足音を耳にしてふと顔を上げると、丁度短く力強いノックの音も耳にして、どうぞと応じれば今朝昇格試験へ送り出した張本人が肩を激しく上下させながら現れたではないか。
 唐突な出来事に鼓動が跳ね上がり、緊張が極限にまで達する。相手の息苦しそうな顔はどちらの結果が待ち受けているのか全く予想できなくて、訊ねる瞬間はどうしようもなく勇気を要した。
「あ、アルティナちゃん! その、結果は……」
「ご……合格、しました、……っ、フロンさま!」
「…………き」
「き?」
 目を瞬いた次の瞬間、フロンの足が宙に浮く。
 そう、文字通り羽ばたき軽く飛び上がってて歓声を発しながら、彼女は自分より少し背の高い娘をめいっぱい抱きしめてしまっていた。
「きゃあああああああああ!!! すごい! さすがよ! アルティナちゃん!!」
「ふ、フロンさま!?」
「おめでとうアルティナちゃん!! あなたなら絶対受かるって、わたしわかってましたよ!」
「……あ、ありがとうございます、フロンさま」
 抱擁まで付いた満面の笑みの祝言に、下級天使兵となった娘ははにかむような笑顔で返して、フロンの気持ちを少しは落ち着かせてくれた。とは言え、たったの四百年で天使見習いからの昇格は快挙である。天使になる以前は人間だったアドバンテージを持っているとしても、ここまでの逸材はなかなか。
「……そうかあ。四百年で……」
 自然、この娘と初めて会ったときのことを思い出す。
 魂だけの存在と成り果て長らく人間界に留まっていれば、それだけで良くないものに染まり悪霊になりがちなのに、この娘は生前の意識と清さを保つ強靱な精神力を保持していたのがまず何よりも驚いた。その上、あれだけの怨嗟を放つ人物の近くにいても、それらの感情には染まるまいとし、それどころか相手を救おうとするその気高き精神は砂漠の中の金剛石のように輝いていたものだから、フロンは迷いもなく彼女を救おうと心に決めたのだ。
 直ちに天界まで引き上げて、用件を率直に告げたあのとき。大泣きされて、今までのあらゆる苦労や懺悔を心赴くままに吐き出されて、確かに他の天使には聞かせられない話も聞いた記憶はある。けれどその上でも、彼女の決意は揺らがなかった。
「……これでようやく、わたくしはあの人を救うための足がかりを得たのですね」
「ええ」
「行けるのですね……魔界に」
 緊張に張り詰めた真剣な声に、感慨に浸るフロンの目が現実感を取り戻す。
 そうだ。先も自分に言い聞かせた通り、これはスタートであってゴールではない。無邪気に浮かれていられるほど、事態は小さく軽くない。
 娘を抱き締めていた両腕を離すと、彼女は机の上に置いていた金の髪留めを渡す。念のためいつかの昔、下級天使でさえなかった見習いの自分がとある魔界に降り立ったときと同じ守護の術を施したものだが、下級天使兵となることで魔界の瘴気に耐えうる霊力を持った今の娘には不要なものだ。
 それでも彼女は、娘に髪留めを差し出した。多分、長い旅に出る娘にお守りの渡す母の気持ちで。
「髪、結いましょうか。アルティナちゃん」
「はい」
 戦地となりうる地に赴くことの多い天使兵は、天界法で定められている訳でもないのだが、自然と髪型を三つ編みにするのが一般的になりつつある。言い換えれば三つ編みの天使は武装を許される立場にあると天界では広く認識されているくらいなので、この娘にとってそれは長らくの目標だった。だから笑顔を浮かべるのも当然のこと。
 姿見と折り畳みの椅子を取り出し座るように指示すると、娘は軽く会釈してからフロンに背を向け腰かける。久し振りに近い距離で目にした彼女の背中の羽は、昇格の証に細やかな光を放って眩しい。
「……あ、あの、フロンさま?」
「なんです?」
 櫛を手にし、丁寧に髪を梳きながら訊ねるフロンに、娘はおずおずと渡された髪留めをかざしてこちらに軽く振り返る。
「髪留めは一つか二つで構わないと思うのですが……。どうして四つもあるのですか?」
「アルティナちゃん髪多いし、沢山用意したほうがいいかなーと思って」
 本当は髪留めにかけた守護の術によりこの娘を念入りに災いから守るためだが、それにしたって多いのは、過保護がひょっこり顔を出したと指摘されれば否定できない。しかしそれでもフロンは悪びれず、黄金の髪留めを受け取りながら続けた。
「それにアルティナちゃん、あんまり飾り気ないんだもの。清潔感も大切だけど行き過ぎると質素になっちゃうし、こう言うところから少しずつお洒落に気を配るべきよ?」
「い、いえあのフロンさま……。わたくしは今から魔界に向かうのであって、お洒落に気を配る暇など……」
「だからこそですっ!」
 髪留めで襟足をきつく縛ると、小さく前から悲鳴が漏れる。つい髪を強く引っ張ってしまったかもしれないが、謝る余裕もなくフロンは櫛を片手にまくし立てた。
「これからあなたは、過酷な環境に身を置いて辛い思いを沢山することになるでしょう。けどだからって、女を捨てていいとは限らないのよ? むしろそんなときだからこそ、常に女の子らしさを意識していてほしいの。それが冷静ってことでしょう?」
 それにあなたは可愛いんだからと付け足すと、照れくさそうな、くすぐったげな否定の呻きが聞こえてきたが、つるっと反論を無視して一つに束ねた髪を三つに分ける作業に専念する。
 娘のたっぷりとした桃色の髪は柔らかく芳しく、均一な細さとほんのり宿った光沢が、今までかけてきた手間を自ずと教えてくれる。本人はそうしないとすぐに絡まってしまうからなんて可愛げのない理由を口にしていたが、髪は女の命だと主張しているフロンとしては、その努力は好ましい。
 更に言うならこの娘は髪を垂れ流していたほうが可愛いと思うのだが、それでもうんと可愛く見える三つ編みにしてあげようと気合いを入れて彼女は髪を編み始めた。
「……わたしが以前、大天使様の密命を受けたときの話はしたわよね?」
「はい。見習いにも関わらず魔界に降り立たれたと……。わたくしにとっては、少し羨ましいお話です」
 苦笑気味に呟かれ、まあそうですよねえとフロンは頷く。
 その逸話を語った際、自分も魔界へ行けないものかとこの娘に訊ねられたことがあったが、彼女は駄目だとはっきり首を振った。楽天的なこの天使長をして、そんな判断を下すほどかの魔界は殺伐としているのだ。守護の術を施した装飾品で身を固めても、無事に生きられる可能性は低い。
「あそこは、悪魔の皆さんも結構脳天気でしてね。アルティナちゃんがこれから向かう魔界とは、色々と違うところなんです」
「そうなのですか?」
「ええ。……勇者さんはいましたけど、わざわざ悪魔が人間界に赴くことはなかったんじゃないかしら? むしろ、人間も地球もどうでもいい、と思うくらいに悪魔の皆さんは彼らに無関心で」
「……そんなところがあるんですのね。でしたら悪魔は人間を『畏れ』によって戒める役割を持つと言う常識も、フロンさまが向かわれた魔界では通用しなかったのですか」
「んん~……」
 心底意外そうな感想に、一概には返事をくれてやれないため少々思考に没頭する。勇者は魔王を退治すべく魔界にやって来ていたし、勇者と戦うのは魔王の使命だそうだが、少なくともフロンは悪魔が人間たちを積極的に害し戒める場面は見ていない。逆に魔界侵略を目論んでいた人間もいたくらいで、悪魔と人間の温度差はかなりのものだった。
「正確には、形骸化……かしら。悪魔の使命は人間を戒めることなのは事実ですけど、あちらは『畏れ』エネルギーがないので悪魔が積極的に人間を脅かさねばいけない理由もないの」
「そうなのですか……。悪魔は基本的に怠惰な生き物と伺いましたし、自分たちの魔力がかかっていないのなら、そうなってしまうのも仕方ないのかもしれませんわね」
 その通り、とこっくり頷く。逆に言えば、これからこの下級天使兵が向かう魔界は『畏れ』エネルギーと表される魔力の源が関わってくるだけに人間界との関わりは密接だった。いいや、密接であったはずなのだ。少なくとも四百年前は。
「人間相手でもそうなんだから、多分、あなたが向かう魔界ではきっと天使に対する警戒心もあそこ以上に強いでしょう。しかも目的が資金集めとなれば……」
「それは言わないでください、フロンさま。……使命とは言え罪もない悪魔の方々からお金を巻き上げるなんて、考えるだけで気が重いんですから」
 娘は本気でうんざりした調子でぼやく。だがそんな彼女はこの約百年ほどで盗みの技術から変装術、その他危険を乗り越えるためのありとあらゆる奥義を身に付け、今やどんな魔界に出しても恥ずかしくない一流の怪盗としてやっていけるはずだった。まだ実際に盗みを働いた経験はないが、プロデュースしたフロンがそう思うのだから間違いない。
「ま、その辺りは悪魔さんたちの連帯責任と言うことで。自分たちの存在意義に関わるはずなのに人間を戒める使命をさぼったツケが来たんだと思えば、彼らも心を入れ替えて人間界に顔を出したりするんじゃないですか?」
「……そうですわね」
 深く暗く沈んだ声は、いつか娘が教えてくれた、闇の使者としての使命に忠実な、なのに人間だった頃の娘を看取ってくれた悪魔のことを思い返しているようで。
 もしかして話に聞いた吸血鬼とやらはこの娘の初恋の相手じゃなかろうかと今も勘繰っている彼女としては、思い出のひとがいるかもしれない魔界で盗みをさせるなんて、世界救済のためとは言え心苦しい。
「アルティナちゃん」
「はい?」
「……あの、例の『吸血鬼さん』のことなら」
「ああ。……お気になさらないでください、フロンさま」
 鏡からちらと覗いた娘の顔は穏やかで、強がっているようには決して見えない。まあ四百年前の初恋を今も引きずるほどこの娘はロマンチストではないし暢気でもないから、そんな態度は納得できる。できるがやはり、女としては納得できないし、初恋なら尚のこと大切にすべきだろうと力説したい。
 と櫛を握りしめながら葛藤するフロンの心を皆目知らず、娘は軽く俯きながら呟く。
「……たった三日ですもの。フロンさまくらいは生きているはずのあのひとが、わたくしのことを覚えているなんてあり得ません。それにあのひとには盗人の自分なんか見られたくもありませんから、もしあのひとと遭ったとしても、きちんと逃げおおせますわ」
 まるで芝居の台詞をそらんじるような発言の数々に、フロンの櫛を握る手が青白く強張る。それでいいはずないでしょう、と言いたいところだが娘は筋金入りの頑固者だ。ようやく自分を頼ってくるまで二百年近くかかったほど、自立心が強くて責任感も強い。自らの死によって狂ってしまったあの人間の野望を阻止するためならば、淡い初恋の思い出さえ切り捨てる。そう言う子だ、面倒なことに。
「けれど、……フロンさま、一つお願いしてもいいですか?」
「な、何を?」
 今すぐにでも眼前の両肩を鷲掴みにして、相手の身体を揺さぶりながら女の子にとっての初恋がいかに大切なのかを懇々と語ろうとしたフロンだが、先手を打たれて軽く声を裏返らせる。対する娘は、穏やかな、少しだけ寂しそうな目を鏡越しの天使長に向けて。
「お祈りしていただきたいのです。……任務中のわたくしが、どうかあのひとと遭いませんようにって」
「………………」
 息を呑んだ。
 まだ覚えている、つまり未練を引きずっているであろう初恋のひとと会いたくないなんて。会えないほうがいいなんて。そんなの嘘に決まっている。強がりに決まっている。
 けれどその願いを口に出したと言うことは、娘は覚悟を決めたのだ。正面から自分の思ったような指摘を受けてもそんなことはないと、笑って受け流すほどの愚かしい、しかし悲壮なほどの意気込みで。
 生憎と、フロンはそんな娘の思いを手折れるほど独りよがりを好まない。相手の意思はどんなものであれ、重んじるべきだと考えている。だから一応、頷いて。
「ええ。任せて」
 心の中では反対に、逆のことを祈ってやろうと彼女は己の胸に誓ってから手を差し伸べた。すぐに大きな髪飾りを手渡してもらい、三つ編みの尻尾の部分にそれをぱちんと嵌めて終了となる。何度か密かにほかの天使で練習しただけのことはあり、なかなかいい出来栄えだった。
「むふふ~、いい感じいい感じ。アルティナちゃん、改めて見てもらえます?」
「は、はい……」
 角度を変えて今の髪型を改めて見せてやると、少々戸惑った顔をされた。そうして三つ編みに触れてじっくり眺めると、ああと小さく頷かれる。
「……妙に時間をかけていらしたと思ったら、こう言うことでしたのね」
「ええ。単純な三つ編みより、ハートマークのほうが可愛いでしょー? アルティナちゃんの髪も丁度ピンクだし、こっちのほうが絶対いいと思うの!」
「はあ……フロンさまがそう思われるのでしたら……」
 控えめながら同意を示してくれたのを幸いに、その両手をしっかり握ったフロンはついでとばかりに主張する。
「じゃあじゃあ、魔界に侵入してからは三つ編みはずっとこれでね! やり方、きちんと鏡で見てたでしょう?」
「み、見てはいましたけど……そんな急に言われましても。と言いますか、練習しないと……」
「ええ! 潜入中に練習してください!」
 有無を言わせぬ笑顔を添えて命じれば、軽く頭を抱えられるがそれがどうした。折角件の『吸血鬼さん』がいる魔界へ潜入するのだ。もし会えたときのために彼女ができうる限り魅力的に見えるようめかし込ませねば、と鼻から息を吐き出したフロンは、もう一つ、この日のために用意していたものを思い出す。
「あとは服ね。その格好だと侵入は難しそうだし、専用に動きやすく改造したのも用意したんですよ~。ほらほら、こっちで着替えて~?」
「そんな……! 何から何までしていただかなくても……」
 改造用の装束が入った籠を渡してから、衝立のほうへと追い立てるフロンに新米天使は恐縮しきり。まあ彼女とて装束を用意してもらうくらいならまだ普通に受け入れただろうが、天使長の執務室に急遽設置された衝立の正体が、自分の更衣室だと知ればそうなるのも仕方ない。
 だが真に桃色髪の天使が呻いたのは、それから暫くあとのこと。着替え特有の衣擦れの音が衝立の向こうから漏れてきて、むふうとフロンは満足げに頷いたのだが、直ちにまた別種の声が。
「……えっと、その。ふ、フロンさま?」
「なんです?」
「これ……い、色々と、足りていない気がするのですけど……」
「……ううん、そんなはずはないんだけど。とりあえず着替えてみて? 足りないなら、またそのとき探すし」
「は、はあ……」
 納得していなさそうな声だが、とりあえず着替えることは着替えてくれたらしい。結論として、三つ編みよりも余程短い時間で衝立が動いた。
「あ、あの……」
 そうして隙間からひょっこり顔を覗かせた新米下級天使は、何故か猛烈に居心地悪そうに、衝立の隙間からその姿を現してくれたのだが。
 思わずフロンは遠い目をして唸ってしまった。
「……んーむ」
「や、やっぱりその、色々と足りていないのでは……?」
 恥ずかしそうに肩を竦め、胸の辺りを軽く隠そうとする仕草に釣られ、長い素脚がくねるのがやたらと悩ましい。
 だが天使兵の証たる前帯はきちんと垂れ下がっているし、腰の辺りで二枚重ねて波打たせた白いインナーウェアは、天使見習いの装束に似た可愛らしさがあるはず。けれどかぼちゃパンツや長い付け袖は大人びたこの娘に似合わないし、怪盗の装いではない気がしたから、専用に短くもボリュームを持つグローブと、紺色のぴったりしたズボンに変更して、あげたつもり、なのだが。
「あれぇ~? おっかしいですねえ……」
 着用者の問題だろうか。自分の頭に描いたイメージと眼前の光景の乖離の激しさに、フロンは大いに頭をひねった。
 桃色の髪をハート型の三つ編みにした年若い天使が身に着ける装束は、天使らしい清潔感と可愛らしさを持ちながらも活動的で明るい印象のはずなのに。現実には着用者の白き珠の肌が目立ち、ついで華奢な肩やら豊満な胸元、小振りに引き締まった臀部や太股に目が引かれてしまい、天使なのにちょっといかがわしい雰囲気になりかねない。
「や、やはり、色々と足りていなかったのですか? でしたら、今からでも何か……」
「いえいえ、これで大丈夫なんですけど……」
 上司の態度に救いの道を見いだした新米天使兵に、フロンは首を横に振って相手の希望をあっさり潰す。
 それを受け娘が肩を落とす仕草さえ、殿方の下心を含んだ保護欲をそそりかねない儚い妖しさを漂わせていたのだが、もうフロンはその辺りの空気をまるっと無視することにした。
 この娘は魂同様、容姿も至って清く可憐で、用意したお仕着せもまた単体で見る分には普通に清潔感がありつつ可愛らしい。可愛いものに更に可愛いものを付け足しただけなのだから、唐突に色っぽく見えたりしたのは気のせい。もしくは露出が増えたから見慣れないだけ。きっと。多分。そうに決まった。
「……うんうん。可愛いですよ! 思ったより大胆な感じになったからちょっと驚いただけで!」
 誰にともなく言い聞かせるように宣言し、部下に居心地の悪さを与えたフロンは、続いてにっこり微笑んで完全に二の句を封じる。ちなみに本人にそんな意図は勿論ない。
「それじゃあ、アルティナちゃん。……これが、最後のわたしからの餞別です」
 引き出しから静かに取り出したのは、無骨な鉄の塊。その手入れの複雑さや優美からかけ離れてしまうフォルム、そして手加減が難しい破壊力のせいで天界では使われないし、正直なところ彼女もあまり使った記憶は薄いけれど、それでもきっと彼女の身を守る力になってくれるはずのもの。
「……銃、ですか」
「ええ。あなたの生まれ故郷で発明された武器になりますね」
 銃身を撫でる娘に告げれば、くすりと笑われる。何かおかしなことを言っただろうかと目を瞬くと、静かな声で指摘を受けた。
「その定義は少し広すぎます、フロンさま。……わたくしはこちらで一通りの訓練は受けましたけれど、これを使う側になるとは思っていませんでしたわ」
「そうかもしれませんけど、これが一番、非力なあなたに生き残る力を与えてくれる武器ですから。……いいですか。悪魔と言う種を敵に回せば、近距離で戦えるなんて思ってはいけません」
 薄青い視線がこちらに上がる。堕天使になった経験さえあるフロンは、悪魔であれ人間であれ誰かを傷つける想定をなるべく控えることくらい、この娘も知っているだろう。それでもこの稀有なほど清い元人間の魂が、悪魔の爪で刈り取られる未来なぞ想定したくないから、彼女はあえて厳しい表情でもう一度念を押した。
「だから有事の際は、まず相手と距離を取りなさい。……そして逃げて。生き延びて。あなたも、あなたに立ちはだかる誰かも傷つけないために」
 本来、生きとし生けるものはすべからく、誰かを傷つける必要などない。けれどずっとそれで生きていくのは難しいからと念を押すと、はいと真剣な表情で頷かれた。この娘が人間の頃はどんなふうに生きたのか、そう多くは知らないけれど、自分と同じ考えでいるのならそれでいいとフロンは思った。
「……では。ありがたく頂戴します、フロンさま」
「ええ」
 銃とホルスターを手渡せば、娘は予想よりも余程手早く、けれどしっかりとそれらを身に着ける。きっと彼女にとってこれが覚悟を決めるための儀式なのだろうが、それが終わってしまえばどうなるのか。
 ――迫る別れと、この華奢な娘がたった一人で取りかからねばならない任務の過酷さを思えば、どうしようもない衝動が胸にこみ上げる。だからその衝動に身を任せたフロンは腕を伸ばして、その体を抱きしめた。
「……ふ、フロンさま!?」
「最後に一つ、忘れてました」
 この新米下級天使兵の身長はフロンよりほんの少し高いくらいで、なのに体つきは遙かに女性らしいから、彼女は結構複雑な心中になったりしたものだ。けれど今となってはそんな記憶さえ懐かしさを感じながら、彼女は重々しく口を開く。
「あなたへの正式な任務は門前で告げます。けれどその前に、前提として命令します」
 ぎゅうと腕に力を込めて、願いを込める心地で命じる。告げる、程度ではきっとこの責任感の強い彼女は、我慢してしまうだろうから。
「命の危険を感じたら、いつでも帰ってきなさい。そして天界には、五体満足で帰ってきなさい。これは命令です」
「……フロンさま」
 両手にそっと細い手が重なる。最初はおずおず、しかし次第に彼女の両手を握ってくれた手は力強く反応を返してくれたけれど、フロンは気付いた。
 返事は返ってこなかったことに。
 そのくらい、彼女が覚悟を決めてしまっていることに。


「では、下級天使兵アルティナ。天使長フロンの名の下に任務を与えます」
「はい」
「あなたはこれから向かう魔界で、その地に住まう悪魔たちから金銭を集めてきてください。理由は……まああなたが考えられる理屈でいいです。救世のためにお金が必要なのは、揺るぎない事実なんですから」
「はい。畏まりました」
「あ、そうそう。あと魔界では本名を隠してくださいね。なんたってあなたは怪盗なんですから!」
「は、はあ……」
 力説するフロンの気持ちがわからないまでも、意図を汲み取るくらいの心遣いはある下っ端天使はこくりと頷き、そうですわよねと何やら合点してくれたらしい。
 丁度そのとき、時空間を管理する天使兵がこちらを向いて準備が整ったと知らせてくれたから、二人は軽く姿勢を正す。その上で、めいいっぱいに心を込めて、けれど外見上はあくまでさりげなく微笑んだ。
「では、行って参ります、フロンさま」
「はい、行ってらっしゃい。アルティナちゃん」
 桃色髪の天使が踵を返す。随分高露出になってしまった彼女に天使兵はややも怪訝な顔をしたが、すぐに通して彼女をゲートへと導いてくれた。
 別れの瞬間は実に呆気ない。もう一度こちらに頭を下げた天使の娘は、振り返って光の渦へと飛び込むと、一分もしないうちにその姿が消える。これで終わり。彼女が天界からいなくなった次の瞬間、その翼を魔界で広げていることだろう
 だからあのとき言われた通りのことを部屋に帰ってから実行してあげてもよかったのだが、やはり乙女の初恋を安く見た生真面目なあの可愛い下級天使兵には精々しっぺ返しを喰らってほしいとフロンは思ったから。
「再会してラブラブになりますように! 再会してラブラブになりますように!! 再会してラブラブになりますようにッ!!」
 大声で、早口で、はっきりと。けれど心の底から真剣に、誰の目も憚ることなく強く強く祈ってやって。
「……て、天使長様?」
「えへへ~お騒がせしました~」
 いつも通りの日向の笑顔を周囲に振り撒いてから、フロンは程好い風が吹いてきたのを渡りに船とばかりに、うんと強く地面を蹴り上げ羽を羽ばたかせ空を舞う。
 その上でもう一度、はっきりと。
「アルティナちゃんが初恋のひとと再会してラブラブになりますようにッッ!!!」
 心の底からの願いは、少なくとも多少の浮き島に届く程度に木霊したようだが、はて神様にまできちんと届いたものか。
 わからないが、まあ良いかなとも思う。結果は神のみぞ知る、と言うのもきっと悪くない。




後書き
 1周年記念で以前から温めてたアルティナちゃん魔界に来るまでの前日譚にしちゃおう! と思ったはいいが時間が足りずちょほーな出来になったので今更ながらの追記。
 結果的には長すぎても意味はないな! と思い知る羽目になりましたとさ。
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