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Riding hag

2012/01/28

 魔界の淀んだ空と濁った空気を抜け、人間界の澄んだ空の下に降り立った直後。温かいのに爽やかな風を真っ向から顔に受けて、彼は知らず目を瞑り呼吸を止めた。
 それでも風は風でしかない。敵を切り裂く魔風ほど危なっかしくないし、眠りの鱗粉を撒いたり戦意を恐れへと変貌させることもなく、見事彼の不意を打っただけのただの風は害意など皆無とばかりに通り過ぎていく。
 息を止めたのは瞬きの間。だがその動きをなす瞼は先からのどんよりとした薄暗い空と反する鮮やかな青空と太陽の白光に馴れていないためきつく閉じられたままで、彼は風が通り抜けての更に数秒後、ようやく目元の緊張を解いた。
 吐息をついて、自然吸い込むのは先の他愛ない急襲と同じ薫りの温かく、なのに清水のような甘さと澄明さを含んだ空気。辺りを改めて眺めれば鮮やかな萌葱に瑞々しい深緑や黄緑が光の加減で重なって、その中に転々と白やら黄色やら素朴な色味の野の花が風に揺れている。木陰の多い林の木々だって、照りつける陽光の白さを反射したように明るい色味で心なしか活き活きとざわめく。その奥からは鳥の囀りが長く響き、つがい探しの真っ最中と伺い知れる。もっと注意すれば兎や鹿や栗鼠などの足音も耳にできただろう。
 もうすっかり春だった。
 ここ最近は陽が落ちた頃合いに顔を出すばかりだったから、寒さも和らいだ程度の認識しかなかったが昼間はこんな調子とは。人間界の自然の美しさなんぞ正直なところ興味は薄いが、こんな陽気は悪魔の彼とて悪くない。もっと早くこの時間帯に来るべきだったと内心悔やむが、魔界と人間界は当然ながら同じときを刻まないし、自分がここに何時間の間隔を置いて訪問しているのかも明確に覚えていない彼にとっては詮無きこと。
 それに夜は夜で悪くない。むしろここ最近の自分は夜の訪問を狙っていた節があると思い出すと、誰にともなく後ろめさを覚える。結果どんな時間にも一長一短あるものだから、後悔するほどのものではないと先の自分を白々しく慰めてから歩き出した。
 向かう先は案外すぐ。ここに彼が現れたときから視界の隅にちらちら入っていたその建物は、小ぢんまりとした石煉瓦の、一見するところ玄関を広く開けた古めかしい民家にしか見えない。だが近付けば小さいなりに看板があり、更に近付けばそこに掠れた文字で診療所と書いてあるのがわかるはずだ。
 しかし診療所を直接訪ねるかどうかは曖昧で、むしろ今の時間帯なら入りたくないとさえ思う男は期待と不安を胸中でない交ぜにしながら足を早める。この辺りは大きな湖に面しているためか、それなりに強い風がよく吹いて彼の外套をこまめに弄んできた。
 本当のところこの歩く距離さえも惜しいのであの診療所のすぐ近くで現れればそれが一番いいのだが、患者なり住民なりに現れる瞬間を目撃されてはややこしいことになるので避けている。とは言えそれも自主的な判断ではなく、ある事件から慎重になった診療所の主からのお願いによるものだ。
 それに対して心配するなと一笑に伏せれば良かったのだが、生憎と彼もあの件では随分と肝を冷やした。だから渋々従って、人間界を訪問する際は常に人気のないところから現れるようにしている。それでも近隣の住人や患者の一部からは疑いの視線を浴びもするが、連中はこちらが堂々としておればそれ以上深入りしてこないことは既に学習済みだ。
 以前の自分なら不特定多数の人間に気を配るなんて考えもしなかったと省みれば、口の端に苦い笑みがつい滲んでしまう。いまだこちらに来るときにはひとりでいるが、いつかあちらで待つ僕にこちらの出来事全てを話せばどんな反応を寄越すやら。少なくとも狂ったのかと疑われかねないし、それを否定できそうにないのがどうにも口惜しい。
 ああそうとも狂っている。そうでなければみすぼらしい診療所を訪れるだけで、こうも心が弾むまい。
 ああそうだそうとも。狂っていなければ説明がつくまい。愚かな人間を恐怖によって戒める闇の使者が、人間の生き血を啜るがさだめの吸血鬼が、その人間と昵懇の仲になるなど。
 しかしそれさえも今の彼にはどうでもいい。あれを手放すくらいなら狂ったままで構わないとさえ思いながら、ようやく目と鼻の先の距離にまで詰めた診療所を改めて仰ぎ見る。
 以前と同じく診療所は雨風を凌げる最低限の環境をどうにか維持しているような状態で、相変わらず修復は行われていないらしい。それに見合うだけの金子を与えたはずだが、慎重を要して貯蓄中かそれとも別のことに使ったか。どちらもありうるとため息をついて、まず庭のほうへと足を向ける。
 途中、窓の向こうに好奇の視線らしきものを感じはしたがそれも無視して裏手に回ると、やはりそこにいた。
 ふんわり波打つ桃色の髪に、墨染めの法衣。そうして垣間見る白い肌と、同じ白でもまた色味の違うシーツの海のコントラストは自然界にはない鮮やかさで、春の陽気よりもこちらのほうが彼には余程心に染み入った。だが眺めているだけではとても心は満たされやしない。
「アルティナ」
 水蜜桃が帯びる汁気よりも潤沢な情を込めて、男はその背中に声をかける。呼びかけられた娘は洗濯挟みを掴もうとする手を止め、花のかんばせをこちらに見せてくれると同時にすぐさま微笑んだ。たまらなく華やかに、たまらなく美しく。
「まあ、今日は随分とお早いのね」
 あの湖より目映い青い瞳をこちらに向けられ、話しかけられる甘美感と来たら。『暴君』などと大仰な異名で他の悪魔たちに一目置かれるよりも、こちらのほうが心に響く。
 そんな気持ちを隠しもせずに薄い笑みを含みながら娘のほうへと駆け寄ると、相手も同じように近付いてこようとするものだから慌てて手で制した。
「お前はそこにいろ。転びでもしたらどうする」
「わたくし、そんなにぼうっとしておりません」
 むすっと頬を膨らませる仕草は普段の大人びた娘が作る表情とはまた違い新鮮で幼さく可愛らしいが、脳天気なのはいささか困る。
 呆れ気味に息を吐き出しようやく手に届く範囲にまで近付くと、淡い芍薬色の頬に静かに触れた。手袋越しに伝わる肌のなめらかさに、どうしようもなく胸の奥が疼く。
「……別にお前が胡乱だとは思っていない。お前ひとりの身体ではないのだから、慎重に慎重を重ねろと言っているだけだ」
 娘は相手の手に自分のものを重ねて、そっと男の筋張った手の甲を撫でる。頬に手を添えるのが彼なりの挨拶なら、その手を撫でるのが彼女なりの挨拶だとばかりに。
「慎重に慎重を重ねたら、一つのことにいつもより何倍も時間をかけてまうでしょうに」
「それでも構わん。大体、お前は一人でなんでもかんでも背負いすぎる。あの金で従業員でも雇えばお前の負担も減るだろうが」
「今まで一人でやってきましたもの。このくらいは平気です」
「俺は平気ではない。いいから雇え。金が足りぬと言うなら出す」
「お金の問題ではないの。わたくしがいやだから雇いません」
「雇え」
「いやです」
 意見の衝突に、それぞれ相手に触れていた手を離してからお互い一歩も譲る気なく睨み合う。しかしそれも束の間のこと。
 唐突に空気が強張る沈黙のあと、わざとらしいくらいきつい視線を投げかけてきた娘のほうが耐えきれずぷっと吹き出せば、つられて彼も喉奥を振るわせてしまう。以降ふたりはにらめっこの引き分けめいてくすくすと笑いあうが、何がおかしいのかわからないためどうにかもとの空気を取り戻そうとしかめ面を作ろうと試みた。けれど結局のところ笑いのほうが先にこみ上げて、それからあとは言うまでもない。
 何がおかしいのやら。本人たちも全くわからなかったものの、とにかく無性におかしかったからひとしきり笑い、娘なぞ目尻に涙を浮かべるほど笑いの発作に身を委ね、ようやくそれが治まった頃にああもう、と肩を竦ませた。
「全く。あなたがいらっしゃったせいで、洗濯物が干せないじゃありませんか。さあさあ、少し離れて?」
 咎めるのは言葉ばかり。実際のところは情に満ちた声と表情で距離を開けるよう促され、彼は仕方ないと竿立てに軽く背をもたせかける。これでも妥協したほうだ。
 腕を組み眼前の女をとっぷり眺める姿勢の彼に、眺められる娘はちらちらと視線を送ってくるもその目元には気まずさよりも照れや茶目っ気のほうが幾分多い。それを受け青年もまた口元をにやにやと緩めてしまいながら、世にある何よりも心惹かれるものをしみじみと目で愛でる。
 娘の横顔は美しかった。遠くから見てもそれははっきりわかるのだから、手が届く距離でおれば思考が溶けかねないほど。人形めいて丁寧に造られた顔かたちは無論のことながら、意思の強さと魂の清さを顕す瞳の薄青い光彩はどんな宝石とて及びもつかぬ。その下のなめらかな頬は花の色を滲ませていながら妙に心掻き乱す鮮やかさを持ち、ふっくらとした線を描く鮮やかな唇は触れれば蕩けそうなほど柔らかい。
 あの唇に触れてしまいたい。化粧気もないのに瑞々しい、花弁の潤いを宿すあれに。指でも構いやしないが今度は手袋を通さずに。もしくは唇同士で。
 そんな邪な思考を受けているとはいざ知らず。娘の四肢はてきぱきと動くも、胴体の一部が普段とは勝手が違うためか少し窮屈そうでもある。しかしそれも仕方ない、と彼は野暮ったい法衣の下からでもわかる、膨らんだ腹を感慨深く見やる。
「……無理はするな」
「ふふ、あなたってば最近はそればかり」
「当然だ。腹の子はお前と一蓮托生だからな。お前が無理をすれば自然それも無理を強いられる」
「わかっています。……けれどだからと言って、あなたのご厚意に甘えすぎるのも申し訳ありませんもの」
「甘えればいい。幾らでも」
 男は嘆息とともに断言する。もっと甘えて、もっと頼ってほしいのにそうしてくれない娘への苛立ちを微かに込めて。とっくに自分は娘に甘えて頼った――いや、あけすけに表現するなら溺れたのだ。それもこれ以上ないくらい情熱的に。
 その結果が娘の月日とともに大きくなっていく腹なのだから、こんなときこそ甘えて頼ってもらわなければ立つ瀬がない。細君となる女を守れず、頼ってもらえなくて何が男だとさえ思う。
「……そんな。あなたに甘えるなんて、できませんわ」
 女は笑う。洗濯物を持ったまま、こちらを見ず恥ずかしげに、ほろ苦く。
 生まれたままの姿を晒し、その上で胎に新たな命を宿すほどの深い仲になってもまだそんな態度を取るのかと、男は眉をひそめる。この娘の自立心の高さは基本的に美点だが、それも過ぎれば短所になる。
「遠慮はするな。いずれ妻となるお前の頼みなら何があろうと聞く」
「あら、本当に? 約束できます?」
「当然だ。俺が今までお前と交わした約束を破ったことがあったか?」
 そう告げたとき、何故だろう。彼の中で最も深く穿たれた杭の奥が、僅かなりに痛みと不快感を覚えたのは。
 しかしそれを気のせいだと受け流し、改めて娘に意識を転じた男は、先の胸に覚えたものと似た、嵐を引き連れる空と同じ色の何かを相手からも感じ取る。
 何故だろう。ただ軽く、遠慮がちに俯いているだけの女に何故そんな。
「……まあ、ふふっ」
 笑い声は変わらず可憐で、理由もなく感じてしまった不安を払拭された彼はそこで肩の力をふと抜いて。そのままこちらに顔を向ける娘の笑顔をなんの心構えもなしに見てしまう。あのときの。虚ろな。
「うそつき」
 目尻に苦痛の涙のあとを残し、死に瀕する娘が浮かべた精一杯の笑顔を。



「あ」
 滑る。汗が。
「あ、ああ」
 頭が。響いて。鼓動が。割れる。
「あ。…………あ、は」
 息が、掠れ。ながら。それでも。
「は……あ……」
 ようやく。ようやく、あれが。あの光景があの出来事があの記憶が夢だ幻だあり得ないことだと理解したその瞬間、彼はどうと全身から力が抜ける感覚に浸る。過ぎったのは安堵か悲しみかわからない。ただ酷く、酷く。
「……は、……はは……」
 肩が震える。頭が痛い。いやそんなところだけではない。目も背も膝も腹も何より胸も、気持ち悪くて重たくて全ての血管の裏側に蛞蝓にでも這い回るような不快感に襲われて、知らず自分の体に爪を立てる。呆気なく新鮮な痛みの稲妻が二の腕に走り、冷たい身体のくせにそこだけじわりと熱が帯びる。
「ははっ……」
 けれどそれで。
 ようやく、本当にようやく彼は正気に戻れた。
「……あは。ははははははははははは」
 その上で哄笑する。
 どろり濁った闇の中、あのときのあの光景とはかけ離れた孤独の墨色に包まれて、自分が今どんな状況でどんな顔をしているのかも知らず、ただただ腹の底から衝動に身を委ねて笑う。
「はははははははは。はははははははははは!」
 だっておかしかったのだから。そうとも心底おかしかった。これは笑うしかないだろうと思えるくらい、滑稽で悪趣味であ嗚あ呼酷い本当に酷いこんな夢を見せたのは誰だ殺す殺す尊厳など微塵に叩き潰して恥も外聞もなく惨めたらしくひと思いに殺してほしいと涙ながらに乞われても無視して常に身体が頭が耐えきれる瀬戸際の苦痛を与えて息絶える瞬間まで心を壊させることなくただひたすら神経を削り取っていくように嬲り殺す殺す殺す殺す!
「……は」
 しかしありったけの殺意を漲らせたところで誰かが死にもしない。何より自分の夢を操れるのは今のところ自分だけなのだと理解した背年は、それを最後にぷつり糸が途切れた瞬間のように笑いを止める。
 その上で、まず深く息を吸い込んだ。そんな動作だけで冷静になれるのかは曖昧だ。しかし全身を覆う異常な不快感がようやく寝汗によるものだと認識できる程度に頭は醒めたらしい。傷付いた二の腕にも汗が張りついて沁みたが、先の夢に比べればこんなもの。
 無事なほうの片手を患部に添え、傷の深さを確かめる。案外浅い。暫くすれば血も止まると判断し、改めて彼は周囲に意識を向ける。確認したって胸が痛むだけだが、それでもこちらが彼のどうしようもない現実なのだから。
 周囲は闇。窓も閉じているためか、あの春の陽気と鮮やかさに包まれた人間界とはかけ離れて黒い。爽やかさも陽光の暖かさも含まず、湿った冷気がじっとりと肌にまとわりつく感覚は不快で、動揺を引きずる心にどうしようもない孤立感を与える。
 匂いもまた、瑞々しい草木と澄んだ流水の薫りなんて陰もかたちも含まぬ、常冬の氷雪に覆われた不毛の大地独特の。微かに漂う別種の臭いは自分から放たれるもの。汗の塩気に、血の鉄臭さ。
 手に確かめた自分の身体は今でさえみっともなく震え、感触と違ってどうにも頼りない。そう感じてしまうのは血を吸わないことで減る一方の魔力の衰えがつい昨今身体にも及んだ自覚によるものか。それ以上にもしこんな状態では、奇跡が起きてあのときあの瞬間に舞い戻っても、娘を守れるのかさえ曖昧な。
「……そんな、こと!」
 やり遂げてみせる、か。それとも無意味な仮定でしかない、か?
 血を吐くように張った声の続きは、結局のところ紡がれなかった。
 しかしもし世界のどこかにそんな秘術があるのなら、自分の命と魔力を無に帰してでも行う気はあるけれど、魔力を失う一方の自分にそれが探し出せるかどうか。
 仮定の虚しさはあれ以来何度も味わったのにまたしてもそれに浸る自分にどうしようもない救いのなさを覚え、彼は再び笑う。今度は小さく、力なく。
 その流れで顔を両の手で覆う。思いのほかしっかりとした感覚に、これは現実なのだと不用意に思い知らされてまたしても胸の奥が鋭い痛みを放った。この痛みはあのとき味わったものと相違ない。いまだ癒えぬ傷跡を自ら掻き毟るのは、これで何度目だったろう。
 普段の彼なら自傷に浸る性格ではないのだが、自然思い出してしまえばこうもなる。しかし今宵は一段と痛む。まあ当然だ、あんな夢。
「……夢、か。そうか、夢か」
 舌で単語を転がす。それだけで更にこちらの世界に現実感が増し、掠れた喉の放つものとはまた別種の痛みがどこかに走って、そんな自分を彼は嘲笑った。
 顔から手を放してみると、どうにも自分は上体を起こした体勢でいたらしいと認識する。棺から外を見ればすぐそばに蓋が落ちていた。壊れていないのは不幸中の幸いか。
 けれどこのまま再び横になる気はないから、仕方なく起き上がり蓋を棺に填めてその上に腰を下ろす。室内を眺める体勢を取りながら、実際のところその鮮血色の瞳は具体的なものを一つたりとも捉えていなかった。
 無論、心の目のほうは違う。人工的な闇の向こうを貪るように見つめる姿勢で、男は先の夢を回想してしまう。悪夢としか言いようのない、ひたすらに輝かしくて幸せそうな、だからこそ今の彼にとっては苦痛でしかない幻想を。
 あの夢の自分が覚えた感情の諸々が輝かしくて魅力的な光を放っていただけに、夢から現世にまで伸びる影がいまだしつこく胸の奥に刻まれ消えそうにないのが恨めしい。約束を交わした人間の娘のもとへと訪れることの期待も。法衣をまとった桃色の髪の後ろ姿を目にしたときの悦びも。笑顔を向けられ、頬に触れ、言葉を交わす感慨も。そして何より。
「は、はは……」
 あれが自分との子を、宿すなど。
 酷い夢だ。本当に。世にあるどんな悪夢よりもこれより惨いものは滅多になかろう。自殺の夢のほうが、まだ幾分かましな心地で目覚められる自信があった。
「……夢、だと……」
 もう一度呟いた言葉は、しかし先のとはまた違った意味合い。眠りの最中、暇を持て余した脳が描く荒唐無稽な映像としてではなく、いずれ訪れる未来への望みを指すそれとして。つまりあの夢は、自分の『夢』であったとでも。
「……ふざけるな!」
 激しく頭を振る。その動作により、いまだ濡れた首や頬に自分の髪が張りついたのが鬱陶しい。しかしそれさえも今の彼には気にならない。
 なんて馬鹿げている。愚かしい。そんなはずはないだろうに。
 悲しいことだが、吸血鬼は好色と見なされがちな種族ではある。事実獲物である人間と子を作るものもそれなりに多く、ダンピールなる吸血鬼と人間の合いの子への総称が人間界でさえ広く知られているほど。
 しかし彼は今まで一度たりとも人間の女にそのような感情を抱いたことはないし、抱くべきではないとさえ考えている。人を戒める闇の使者として、彼らには恐怖を与える以上の接触など不要。世界の秩序を自ら乱す真似など、いかに悪徳を礼賛する悪魔であっても言語道断――ああそうだとも。姿を現し血を吸ってやろうと脅しても、まだあの娘は自分を怖がらなかったから接触が長くなっただけのこと。
 しかし結局のところ、あの人間の娘に恐怖を与えることは永久にできなくなった。それを思い返した途端、胸の無骨な杭が軋んで知らずそこに手が伸びる。娘が、彼女が、自分に唯一触れたところだと彼は気付いていたろうか。
「あいつ、は……」
 その上で思い出す。あの楚々として慈悲深く、自然体でありながらどこまでも美しかった女を。
 脳裏にその姿を描くだけで持て余すほどの切なさがこみ上げて、人間に、いやそれ以前に今まで誰に抱いた経験のない、大切にしたいのに忌々しいなんて矛盾した感情が胸の中に芽生えていたのだと言葉以上の説得力で思い知らされる。
 ああいやしかしだからと言って、それは、やはりいけないのではないのか。放蕩に耽る三下ではなく使命に忠実な闇の使者として、自分だけはその境界線を犯すべきではなかろうに。
 それにそうだ、即物に過ぎるのだ。あそこまで輝かしい心身を、悪魔が簡単に穢してはならぬはず。きっとかように都合のよい夢を見た自分のことだ。もしあの娘を衝動のまま手をつけたところで、夢中で貪り尽くしその魂を見る影もなく蹂躙してしまい、嘆く女の背を眺めてようやく我に返り、こんなはずではなかったなどと世迷い事を抜かすに違いない。
 いいやそれ以前に、百歩譲ってあれとそんな関係を結びたい願望がもしも自分にあったとして。
 ならば何故自分はあれから目を離した。あのとき交わした約束を、言葉通り守ってやらなかったのだ。そこまで強い興味を抱いた人間を、どうして。
「……は、はは」
 数多の言い訳よりも覆せない真実として横たわる最大の矛盾が、激痛を伴い男の胸を深く穿つ。もし娘の本来の寿命が尽きるまで沿い遂げたい願っていたとして、いいや願っていたなら尚のこと、その女を守れなかった輩がかような感情を持つ資格などあると思うのかと誰かがせせら笑っているようで。
 その指摘に反論などできるはずもない。しかしあっさりと受け入れられることも異様に難しいから、彼は息を呑み。
「…………アル、ティナ」
 すがる心地でその名を呼んだ途端、――うそつきと。夢で目にしたあの笑顔が、今も脳髄にまで焼きつき消えない臨終間際の娘の笑顔と重なる。眉根を引きつらせてしまいながら、その通りだと喉の奥で笑った。流れのままにまた片手が顔を覆う。隙間から漏れるは悲痛の喘ぎ。
 現実の記憶にある女の心底の優しさと清らかさが、むしろ今の彼には塩として膿が滲んだ生々しい傷に沁みる。
 そうとも、あのときあの娘は自分を罵るべきだった。偉そうに約束などとほざいた吸血鬼に、約束を破った愚かな悪魔として罰を与える正当な理由があった。なのにあれはもう一つの約束さえ反故にして良いと自分の身を気遣い、血を吸わせてやれなくて申し訳ないとさえ謝って。
 どうしてああも気高く無辜の娘が、同じ人間どころか彼らが畏れ何より忌むはずの悪魔へと謝罪せねばならないのか。人の身にあって当然の醜さを一片でも見せてくれれば彼だって深く傷付いたけれど、それはそれとして受け入れたのに。いやむしろ、そうされてしまえばここまで傷が痛むことはなかったのに。
 聖水を注がれて心身を浄化できるのは人間や天使たちであって、悪魔に注がれればそれはこの上ない毒となる。たとえそれを向ける気持ちが心底の善意であっても、効果のほどは変わらない。
 そう言う意味ではまさしく、あの娘は悪魔にとって猛毒だった。その毒に目を留め、惹かれた挙げ句に触れてしまった吸血鬼は今も尚、身を焼くほどの激痛に苛まれる。
 ああしかしその毒はなんと甘美であったことだろう。触れればぬるま湯めいた心地で心のたがを外させ、更に心を委ねればじわりじわりと染み入ってくる感覚さえ気持ちよかった。強固な立場も使命も、その水に洗い清められ忘れてしまいそうになった。
 しかし今。慈悲と称される聖水の源は何かを吐き出すことはない。水脈ごと無惨に枯れ果てて、同じものは二つと世界に現れることはなくなった。その水の甘さに魅了された風変わりな悪魔がひとり、助けられたはずなのに。
 それを再認識しただけなのに、何故だろう。喉が重い。目尻が熱い。全身が何かに押し潰されてしまいそうで、どうしようもなく心細い。誰か、いいやあの娘に、そばにいてほしい。けれどそれは絶対に叶わないとわかっているから、彼はその名を呼ぶしかできない。
「……アルティナ……!」
 だが許してほしいとは言わない。いっそ恨んでほしいくらい。
 そうして怨霊と成り果て自分の眼前に現れてくれるならば、どんな呪いが付き纏おうが喜んで受け入れた。その後いかに我が身が衰弱しようが苦しみの果てに死のうが、またあの娘の存在をそばに感じ取れるならば受け入れるのに。
 けれど現実の、記憶の中で事切れる寸前の娘はいまだ笑ったまま。悲しそうに、なのにどこまでも優しく。自分の命の危機を察することもできず、助けもしなかった吸血鬼を気遣って。
 それが、どれほど男の心を苛むか。
「アルティナ、アルティナ、アルティナアルティナアルティナ……ッ!」
 責めてほしかった。恨んでほしかった。憎んで蔑んで見下してほしかった。
 そうすればあの出会った三日そのものを罠として受け入れられたはずなのに。忌々しい人間の娘との約束のせいで自滅の道を突き進む道化として生きられたはずなのに。それが本来の悪魔と人間の関係だろう。なのにどうして人間に向けるべき優しさを、あの娘は悪魔にも向けたのか。その優しさがどれほど我が身に辛いのかさえわからないのか。なんて恐ろしく、罪深い娘なのだろう。
 ああそう考えればあの娘は間違いなく恐ろしい。かの死神王と幾夜も費やして引き分けに持ち越したほどの吸血鬼に、自責の念を与えて血を断たせるなどどんな悪魔も思いつくまい。むしろ誰かが差し向けた罠であったと知らされれば、どれほど心安らぐことだろう。
 けれど彼は内心理解していた。いくら喚き散らして娘の性根の穢れを願っていようが、自分が心底思い込む気がないからこそ、記憶がそのように改竄されることもないのだと。
 そうとも。今はこうして衝動のまま思っていても、本心は揺らぎない。実際、臨終間際のあの娘に悪魔に馴染み深い対応を取られでもすれば、その瞬間自分の心は粉々に砕け散っただろうと思えばむしろそうであってくれるなと願いたいくらい。
 いや、だからこそ。あのとき心が完全に砕けてしまえば、今こんな苦しみを味わわなくても済んだのだろうと思ってしまうのか。あの娘を唯一無二の存在として記憶の中に留めることなく、飢えの苦しみを知ることなく、踏みにじられた憤りだけを胸に宿し、誇りも使命も何もかもを捨てて血を吸う享楽と木っ端悪魔どもを蹴散らすことのみを生き甲斐とするまことの『暴君』として魔界に君臨したいとでも。
 仮定でしかないのに、頭の奥がかっと怒りで熱せられ、彼は棺の蓋に拳を叩きつける。
「そんな、もの……!」
 何の価値がある。悪魔の肩書きさえも似つかわしくない、ただの浅ましい化け物ではないか。
 おぞましい生き物に成り下がった己を想像すれば、吐き気さえ催しかけて男は忌々しく首を左右に振りかぶる。
 なりたくない、そんなものになど。約束を守っていたい。あの輝かしき思い出を、娘の魂を、世にある誰にも穢されたくない。
 ならば結局。今まで通り記憶の中にある娘の優しさに身を焦がし、罪の意識に苛まれ、交わした約束を守り貫く辛苦の道を往くしかないのか。
 そうとも。見返りがなくても、虚しいと理解していても、娘に出会った何よりの証としてあの約束を守り抜くしか、今の自分が満足できる術はない。――それがあのとき娘を守れなかった自分に下す罰であり。あの娘への弔いだから。
 そう、悪夢の果てで決意をより強固にしたところで、男は記憶の中で力なく笑う女にかけるべき言葉を見出し、震える瞼を伏せる。
「……すまない、アルティナ」
 今更に過ぎる謝罪の言葉にも、記憶の娘は反応を寄越さない。
 生きていれば、遅いと文句を言うのか。そんなの気にしないと能天気に笑っているのか。そんな想像さえ、今は無意味。
 その事実に胸が痛んだが、しかしそれもまた自らに架せられた罰と思えば仕方ない。
 ああそうだ。満たせぬ孤独も癒せぬ苦痛も底無しの飢餓さえも受け入れよう。その苦しみの果てがたとえ無惨な死であっても、ただひとりの女を助けられなかった男には相応の末路だ。
 いつの間にか項垂れていた男は深く息を吐き出すと、静かに目を瞑る。それだけで意識が浮ついて、そのまま眠ってしまえそうなほど疲れていたのかと衰えた我が身に驚いた。
 ――二度と見たくはないけれど、再びあの夢の続きを見たとしても構わない。また現実に舞い戻り、苦しみ後悔することさえも、娘を救えなかった自分への罰なのだから。





後書き
 DLCコンプ特典に過去ティナちゃんお着替えがいつまで経ってもこねーじゃねーかよオラッ! 閣下のせいだろオラッッ!! な気持ちを込めて全力で曇らせましたとさ。
 ネタ元はヒでフォローさせてもらってる某さんの「閣下がアルティナちゃんのお腹が大きくなってく白昼夢とか見ちゃったら悶絶しそう」的呟きで、閣下は悶絶で終わるけど暴君時なら死にたくなるよね! って思って即実行。
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