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For me?

2012/01/11

 執務室に入った途端、突然の熱風を顔に受けて彼女は小さく悲鳴を漏らす。
 魔法の風でもなさそうだがどうして部屋に主がいるはずなのに窓が開いているのかと目を瞬いてそちらに視線をやれば、なんのことはない痩身の吸血鬼本人が窓を開けたと知って小さく唇を尖らせた。普段からプリニーたちが心を込めて掃き清めているので埃は少ないが、この部屋には飛び散ってはならない書類も多いだろうに。
 案の定、熱風に煽られていまだ机に残っていた書類が軽快な音を立てて宙を舞い、その音色に外套の肩を強張らせた吸血鬼は慌てて窓を閉める。
「……もう、一体急にどうなさいましたの?」
「い、いや。何故かイワシの匂いを幻嗅したので換気しようと思ったのだがな……」
 どうやら開けた本人も部屋に入り込んでくる風がここまで強いと思っていなかったようだ。黒髪の青年は扉側を一瞥する余裕もなく、閉めた窓に鍵までかけて、すぐさま近くに落ちた書類を拾い始める。
 それを手伝う前にバスケットを一旦どこかに置こうとした彼女は、口の中で小さく呻いた。必要不可欠なはずの布ナフキンが、先の強風に煽られて部屋の隅の床にへたりと張り付いたのを目撃してしまったため。
 反射的に拾い上げるも布ナフキンは無地だからすぐさまどちらが床に付着した面なのかわからなくなるし、床に落ちたものでパイを掴んで食べるなど、どれだけ清潔を保たれているとは言え気分が悪い。
 最後の最後でこれとは。運があるのかないのか本格的にわからなくなってきたが、これについては自分のミスでも――いや、原因には違いないかと、彼女は軽く落ち込み書斎机の前に立つ。
「イワシの匂いは幻ではありませんわよ」
「は?」
「プリニーさんたちの代わりに差し入れを持って参りましたの。……今のあなたにとっては、色々とご迷惑になりますけれど」
「差し入れで迷惑……? 一体何を言っているのだお前は」
 おおよそ舞い散った書類を拾い終わったらしい吸血鬼は、いきなり声の調子を沈ませた天使の娘の方へとようやく身体を向ける。
 そうして軽く目を見張った吸血鬼の愛しくも鮮やかな血の色の瞳と焦点が合うと、彼女は無理からに微笑を浮かべてバスケットをかざした。初めて会ったときより幼くなってしまったけれど、それでも長く焦がれた黒髪の彼を前にして心がそれほど明るくなれないのは、少し残念ではある。
「強いて言うなら……日頃の感謝と労いの気持ち、ですかしら。一応お金は取りませんから、ご安心なさって?」
 白い手中のバスケットの中身を認識し、パイの具材がイワシであるとまで瞬時に嗅ぎ取ったらしい。扉の前で執事がぼやいていた通り空腹らしかった青年は一瞬少年さながら目を輝かせたが、すぐさま現在自分が置かれた状況を察して悄然となり、渋々首を横に振る。やはりそう来ると思っていたのに、うっかり女も肩を落とす。
「今はその……気持ちだけ受け取っておく。生憎と、書き仕事中に油分の強いものはな……」
「そうですわよね……。わたくしも、そのために用意はしていたのですが……」
 熱風に吹き飛ばされた布ナフキンを取り出すと、革張りの椅子に腰掛けた悪魔は怪訝な表情を見せる。あるならそれで構わないとでも言いたげに身を乗り出し手を伸ばしてきたが、さっきの風で床に落ちてしまいましたのと彼女が説明すれば、その手もすぐに引っ込んだ。
 それから痩躯の吸血鬼は風を巻き起こした原因が自分にあると得心して、イワシの内蔵を五つほどを噛み潰した面で頭を下げる。
「……すまん。俺のせいか」
「いいえ違います。わたくしが最初に説明しなかったせいで……」
「お前の差し入れの匂いを幻だと思い込んでいた俺にも責任はある。……ま、今は食えんが、それは夜食にでもさせてもらうとしよう」
 残念そうに苦笑を滲ませつつ、なんでもないように告げる彼の態度は潔い。それに倣って未練はあるが彼女もすぐに退散しようとしたのだが、誰かの腹の虫が盛大に、かつ未練がましく鳴くのを耳にする。
 腹の虫の飼い主は、言うまでもなく黒髪痩身、約束の相手と死別して以降も自らに血を禁じ続け、現在はイワシが好物と成り果てた風変わりな吸血鬼。長々とした鳴き声が終わっても重く横たわる沈黙に対し、本人は尋常でなく気まずそうに格好を取り繕おうと書類を自分の顔の前に立てるが、そんなことでもう一人が誤魔化される訳がない。
「やっぱり無理をしてらっしゃるんじゃないですか……」
「そんなことはないっ!」
「じゃあさっきのあれはなんです?」
「茶だ! 茶で少し胃が動いただけであって、別に俺は空腹でも何でも……」
 党首が使うには朴訥な印象の素焼きのカップを掲げる彼の説明を聞きながら、彼女は同じ柄の大きなポッドを掴んで中身の重さを推し量る。まだ一杯半程度は残っていそうだが、それにしたってかなり軽い。あの短時間で空腹を紛らわせるためたっぷり飲んだのは、どうやら間違いないようだ。しかし水分は生憎と腹持ちがよろしくない。むしろ胃が活性化される可能性もあるくらいだ。
「そうなれば、更に辛いと思いますけど?」
「根性で耐えればどうと言うことはない」
「辛いのは否定なさらないんですね……」
 手痛い指摘を受け、虚勢を張る男は書類の隙間から忌々しげな視線を天使に向ける。目つきもそこに籠められた感情も普段に比べて剣呑なのに妙に気迫に欠けている辺り、多くの悪魔に気のせいだと受け止められていた『イワシパワー』は存外影響力があったと伺い知れた。
 しかしここまでやせ我慢を強いるなど、もとより吸血鬼の魔力の源である血を些細なはずの約束により現在進行形で絶たせている彼女としてはやるせない。
 だから頭の中の靄を振り払い、仕方ないとため息一つで割り切って、天使は布ナフキンで覆っていたため少ししっとりとした長方形のパイを素手で掴む。自分の差し入れに手を出された青年は一瞬眉根を寄せるも、相手が製作者ならばとばかりの渋い顔。
「なんだ。お前も食うのか」
「いえ、そうではなくて……」
 ではなくて。
 躊躇いながらもパイを掴んだその手を、彼女は自分の口元ではなく更に前へと持っていく。書類に囲まれた机を挟んだその向かい、このパイを本来食べてもらいたかったひとの口元に届くように、軽く身体さえ乗り出して。
「…………どうぞ」
 少し、顔が赤いかもしれない。けれどこれしか今の彼に食べてもらう方法がないから、天使の娘は湧き上がる恥ずかしさにも耐え忍び相手が食べられる位置にまでパイを掲げて一旦停止する。
 対する悪魔の青年は、ぽかんと阿呆のように口を半開きにしていたがすぐさま正気に戻って、顔を通り越し耳まで一気に赤くする。手中の書類がくしゃりと歪み、その光景に女の背筋に冷たいものが走った。
「な……な、ななな何をしているお前はっっっ!!」
 裏返り気味の声で放たれた叱咤に、彼女は憮然と頬を膨らませる。このままぐだぐだと押し問答が続けばますます恥ずかしくなるだろうから、できればあっさり流して欲しかったのにと――まあ彼にはどだい無理な話だが。
「いいからこのまま召し上がってください。あなた、お腹が空いていらっしゃるんでしょう?」
「だ、だからと言って……!」
「血だけでなくイワシまで我慢させた上に、差し入れをお持ちしてこのまま夜遅くまで食べてもらえないなんて、わたくしとしても心苦しいものがありますの。かと言ってあなたの手袋を油で汚す訳には参りませんし、ナプキンも使えないとなると、こうするしかありませんでしょう?」
 理屈っぽくも立て板に水とばかりの反論を並べ立てる彼女に、いまだ落ち着きそうにない男は口の中で何やら呟いていたが、それらは明確な意味を持って僅かに赤らんだ丸い耳にまでは届かない。とにかく吸血鬼はそれはしたくないとでも言いたげに強い視線を飛ばすが、それしきでこの天使が引っ込むはずもなく。逆に肩の力をふと抜いて相手を宥めようとする。
「このくらいで恥ずかしがらないでください……。別にわたくしだって、あなたを子どもや要介護老人扱いしたい訳ではありませんのよ?」
「されてたまるかそんなもの!」
 かと言って、脳みそまで蕩けているのかと思しき恋人たちの模範行為に挙げられるであろうことをしたい訳ではない。ただ必要に迫られただけだ。
 実際にそう考えているし、その主張を貫き通す気でいる彼女は、恥ずかしさはどうにも消せないがこれは仕方ないことなのだとばかりに相手の鼻面へパイを突きつける。
 しかしそんな天使の娘の、眉や目つきは険しいのにどこか熱っぽく潤んだ薄青い瞳が、ほのかに赤く鮮やかな頬が、軽くすぼんだ柔らかそうな唇が、青年の頭の中を乱暴なくらい掻き乱してしまって。
 先の理由を聞くに当人はそんなつもりなどないようだが、これで、こんな顔をされて、甘い意味合いとしての行為を意識しないほうがおかしい。百歩譲って普段の態度ならまだ赤子にやるような食べさせられ方でもどうにか耐えれたかもしれないが、眩暈さえ起こしかねない破壊力の表情を晒しておいて、自分の手ずから食えなどとは一体どんな誘惑だ。大体、大口を開けて頬張ってしまったら相手の指も口に運んでしまいそうではないかこれでは。いやそれともあれか、もしかしてそれが狙いなのか。親指を軽く食むどころか舐めしゃぶってやればどんな反応を寄越す気なのか。掠れるような甘い悲鳴を漏らすくせに、健気に身を乗り出したままの体勢を維持しようとするのか。そう言う遊びか勿論大人の意味合いの。
 らしくなく感情的に意地を張るような顔の、それでも身を乗り出したまま腕を下げようともしない彼女の姿は、男に奇妙な期待と危うい妄想を掻き立てる力を持っていたようだ。ついに気持ちが抑えきれず、彼は締め上げられそうな胸の切なさから立ち上がりかけたが、別の意味できりきりと締め上げられそうな痛みを放つ胃によって我に返らせられた。
 嗅覚の優れた吸血鬼の鼻先に、好物のイワシを使ったパイなんぞをぶら下げられれば当然胃も活性化する。早く食えとばかりに食欲は内側から青年を急かすが、やはり恥ずかしさと自らの邪念を意識してしまって体は素直に動かなかった。そもそもいい年をした悪魔が、よりにもよって四百年前から並々ならぬ執着心を注ぐ娘の手で直に飯を食わされるなどと。これを強いられる理屈はわかるし納得もしたが、やはり猛烈な羞恥心はそう簡単には静まらない。
 赤面のまま硬直する青年の腹がまた鳴った。それに彼女は呆れ気味の息を鼻から抜いてもうと憤りの声を漏らす。それでも手にしたパイは、彼の口元から頑として動かない。
「一口でもいいから食べてください。感想を伺ったら、わたくしはちゃんとすぐにでも帰りますから」
「……帰る?」
 完全に方向性が違う慰めを受け、赤い瞳が怪訝な色に染まる。これに対し、彼女も恥ずかしさから相手の顔をきちんと見ていないのが悪かった。なんともないように頷いて、彼の期待に見事なまでの冷や水を吹っかける。
「ええ。わたくしがここにお邪魔した目的はこの差し入れをあなたにお渡しすることと、これの感想を伺うことですもの。それを聞けばすぐさま帰りますから、残りを召し上がりたければ……そうですわね、プリニーさんにでもお手伝いしてもらってくださいな」
 それなら恥ずかしさも少しは薄れますでしょう、と天使の娘は完全に方向違いなアドバイスを、よりによって可憐な笑みを浮かべて寄越す。一口食べればもうそれっきり、パイが全てなくなるまで彼女の手で食べさせられると思い込んでいた彼にとって、予想外なほど素っ気なく。
 しかし結果的に彼女の説明は功を奏した。それを青年が聞かされることなく長いこと躊躇っていればそのうち天使の娘は我慢できずに帰ったかもしれないし、一口分彼の口に放り込んでそのまま帰ってしまったかもしれない。だから説明を受けたのちの彼の頭の中には、恥など綺麗に消えており。
「……そうか」
「え」
 短く静かに首肯して、一息分の間も開けず眼前のパイにかぶりつく。
 唐突な行動に娘は多少面食らったものの、彼女が求めていた行動をようやく取ってもらえたため、文句も言わず固唾を飲んで相手の反応を見守る。
 咀嚼の間は長くもなく短くもなく。けれど秒単位で自らの心音が耳や頭に届き始めた天使にとって、立ち眩みでも起こしかねないほどの時間を置き。
 それまで何度か頬や顎と一緒に動いていたが、最後とばかりに喉仏が大きく躍動し、口の中のものがなくなった証明に吐息をついた男は、これから一字一句聞き逃すまいと必死な彼女に向かって一言。
「味がせんな」
 非常に冷酷な感想をくれた。
 当然そんな言葉が返ってくるなど全く予想していなかった彼女は目を見開いて、口の端を引きつらせる。
「…………はい?」
「聞こえなかったか。味がせんと言ったのだ」
 止めとばかりにもう一度。
 ご所望の感想を聞かされた天使の心境はいかばかりか。少なくとも、床下が急にすっぽ抜けるくらいの衝撃は味わっていたことは間違いない。
 具材の水分量も満足感もだが、当然味にも気を配ったのに、なのに味がしないとは何か。それなり料理の経験がある者にとって青天の霹靂に等しい評価に、彼女はぎこちなく狼狽えた。まずいだの好みの味付けではないだのとの感想をもらったほうが余程建設的である。
 しかし彼女はそのまま打ちひしがれるほど軟弱ではない。暫くの放心状態からどうにか立ち直ると、味見役の少女の言葉や自分の嗅覚を思い出して抗議する。
「そ……そんなはずはありません! あなた、きちんと食べてくれました!?」
「お前もさっきから見ていただろうが。どこかに戻す素振りをしたか、この俺が?」
 パイを口に運ぶときと正反対に冷ややかな彼の態度に、まさか本当にその通りなのかと焦って彼女は既に歯形のついたパイを小さく一口。その光景を目撃した吸血鬼の眉が一瞬ぴくりと反応したが、余裕を失った天使の娘は咀嚼に必死でそれをうっかり見逃す。
 そして自作のパイを味わい飲み込んだ末に、彼女はようやく黒髪の吸血鬼を睨みつけて抗議した。
「……あります。きちんと味は付いてますっ!」
「ほう、そうだったか?」
 しかし青年は平然とそれを受け流し、視線を彼女から外して手元に移動させる。ようやく先程皺だらけにしてしまった書類の状態に気付いたらしく、書斎机に広げて手で伸ばそうとしながら平然と告げた。
「ではこれでお前の目的とやらは済んだな。とっとと帰るがいい」
「………………」
 急に彼の態度が冷たくなってしまった理由は、彼女にはわからない。何か酷いことを言っただろうかとさっきから頭の中を引っ掻き回して記憶を漁っているのにそれらしいものは見つからないし、強いて挙げるならこれかと思うものはあっても青年が怒る理由までは想像できなかった。
 だから彼女は悲しむよりも先に彼の理不尽な振る舞いに対し怒ってしまって。頭ごなしの命令にもええそうしますわねと従う気がまるで湧かず。
 次に天使の娘が取った行動は、パイを片手にしたまま無言で壁の隅に置かれた椅子を掴んで、それを何の断りもなしに書類机の向こうに運び、青年の椅子の真横に置きそれに腰かけること。案の定、吸血鬼は戸惑い交じりの鬱陶しげな視線を寄越してきたが、彼女は凄んだ視線で跳ね返し、またも食べかけのパイを差し出した。
「食べてください」
「感想は言ったはずだが?」
「あれは感想ではありません。今度こそきちんと食べて、味わって、感想を仰ってください」
「……はん。注文が多い奴だ」
 鼻で笑って茶化されて、彼女はますます腹の奥を熱くしながら無言でパイを突き出す。それこそ相手の頬にこれがのめり込んでも構わないくらい身を乗り出しながら。
 そこまでされるのはさすがの彼でもお断りしたいらしく、彼女の細い手首を掴んで自分の口元にまで誘導する。他者の視点に立てばこの光景は随分とお熱く見えただろうに、生憎と怒りの熱で頭から客観性を失った天使はそんなことにも気付かない。
 吸血鬼のほうはと言えば――彼女がここまですると思っていなかったのか。一応女の手ずからまたもパイを頬張るものの、伏せた瞼の奥にある目は落ち着かない。内心やり過ぎたと反省していたのだが、今更態度を変えるのも不自然だし、本人にその気なくともこちらとてしっかり傷付いたので相殺されるだろう多分と願ってもいた。
 二口目は最初のときより互いの緊張感は薄いものの、横たわる感情はむしろ刺々しく、おまけに一方通行気味でいる。彼としては相手をここまで怒らせる気はなかったのだが、はてさて一体どうしたものか。
 無遠慮どころか敵意にも似た天使の娘の眼差しを受けながら、吸血鬼の青年は黙々と咀嚼する。
 実際のところパイはまずくない。むしろ今までイワシを食してきた年月の中でも、五指に入るほど美味だと手放しで賞賛できる。いや、製作者がこの娘だからこそそう評価している部分は正直否定できないが。
 しかしそれを素直に言ってしまえば、天使は恐らくはにかむような笑みを宿してくれるだろうけれど、その後あっさり帰ってしまうのはいただけない。ここ最近ろくにふたりきりの時間を取れずにいたのにそんな呆気なく逢瀬を終わらせるなど、彼女が納得しても彼はそれを許す気などさらさらなかった。だからあんな心ないことを言って――余談だが彼もまたイワシを懇切丁寧に洗って調理したのに、味がしないとの感想を凄腕調理師のプリニーに頂いた屈辱的な思い出がある――、どうにかこの場に繋ぎ止めようとした結果がこれとは。
 さて今度はどう言って誤魔化すものかと頭を巡らせた青年は、口の中に残ったものを飲み込むと茶で咥内の脂っ気を漱いでからふと感想を思い立つ。
「……脂だな」
「当然です」
 バターたっぷりのパイ生地とオイル漬けのイワシのほかに、野菜も炒めているとなれば脂分がないはずがない。だから彼女は相槌を打つ速度で肯定し、続けざまに軽く椅子から身を乗り出して訊ねる。
「それで、その脂はあなたにとって不快なものでしたの? ……よく考えれば、油分が多すぎて気分が悪くなるかもしれませんわね。その辺りは申し訳なく思います。それ以上にお口に合わないと仰るのでしたら、どう言う傾向のものがあなたにとって最善なのか、よろしければ教えてください」
 たかだかパイの一つでどうしてそこまで必死な顔をするのか。しかも出てくる言葉の数々は、この出来に関わらずマイナス思考で彩られているときた。どれだけ自分の腕に自信がないのやら。
 漠然とした疑問が頭の奥から生まれるが、しかし彼女をこうして独占できるのは悪い気がしないため青年は毅然と言い放つ。
「俺にとっての最善など、お前も知っているだろう。生のイワシそれ以外に有り得ん!」
「…………あの。それはそれで困ります」
「何故だ」
 訊ねて、肘掛けに軽く身を寄せ口を開ける。最後の一片も食べさせろと仕草で命じた彼に、こちらももう気にしていられなくなったか彼女は乞われるまま相手の口にパイの残りを放り込む。
「それでは調理の意味がありませんもの。素材のいいところを引き出して、悪いところを差し引いて、また別の素材を使って美味しさや栄養を補うのがお料理でしょう? ですけど、あなたのお言葉では……」
「……だが俺は、イワシの長短全てをありのまま受け入れる。他の素材など余計でもないが、別になくても構いはせん」
 しかしイワシに秘めた栄養効果を引き立てる調理法があるなら、それを試す気は常に持っている。それを探るものたちが増えればそれだけバリエーションも幅広くなるし、味も豊富に生まれるだろう。だからこそ彼は今も多くのものにイワシを布教しているのだ。そうしてゆくゆくは全ての栄養素がイワシにあると証明される日が訪れ、素晴らしい至高の逸品にして他に比類なき滋養を秘めた食材であると世間が認めることを待ち望んでさえいる。そこには独占欲など欠片もない――ただひとり、今は自分のすぐそばで困ったように眉をひそめる娘と違って。
「お料理は化学ですわよ? それに食材一つ取っても、茹で方焼き方揚げ方、火を通す方法や味をつけることで栄養が変化するものです。ありのままを受け入れては悪いものもあるでしょう」
「例えば」
「ほうれん草のシュウ酸ですとか」
「あれは口内炎に効く」
「シュウ酸そのものが、ではないでしょう。摂りすぎると骨粗鬆症になりますし、殿方には恐ろしい病気も生み出すと聞きましたわ。……それにイワシのプリン体も危険だとあなた、いつか仰っていたじゃありませんか」
 そうだったかもしれないが、そこは悪魔らしく自分に都合の悪いことは聞き流す方向で行く。悪びれもしない横顔にその意図を読み取ったらしく、彼女はむっと口元をへの字に歪めた。
「……それで。まだ味はわかりませんの?」
「ああ。特に何か明確な味を味わった覚えはないな」
 しれっと言ってのけると、負け方面の消化試合の心地でいるのか。天使の娘はどうにもやり切れなさそうなため息をついてから三角形のパイを手に取る。
 少し悪い気がしたが、男としての矜持を失うことなく現状維持を貫くためには仕方ない。そんな矜持さえも正直に口にすれば、子どもっぽいと笑われてしまう可能性が高いため。
「……よろしいですわ。次にイワシの料理をお持ちするときがあれば、それはもうたっっっっぷりと調味料を入れて差し上げますから」
 次に表情を切り替えた女の、ありありと恨みの篭った言葉と妙に迫力がある笑顔を頂戴し、青年の背に冷や汗が流れる。天使の恨みつらみとは悪魔に比べて根深いのか性質が悪いのか。天使の知り合いなど彼女以外ろくに知らないので、その辺りについて学ぶ術は彼にない。
「確かに調味料を入れれば味はわかるがな……それでは美味い不味いを通り越してその味しかせんだろうが。それでもいいのか、お前は」
 とにかく次も寄越せと指で示せば、彼女は言われなくてもとまた身を乗り出し、最初のときよりもずっと乱暴な勢いでパイを彼の眼前に固定する。その際、微妙に首を伸ばさないと食べにくい位置に固定されたのは気のせいではなさそうだ。
「別に構いませんわよ? だってあなた、味がしないと仰るんですもの。辛い酸っぱい苦い甘いでも、感想をいただけるならそれで満足致します」
 どれも度を越すとまずいとの評価を下されかねないが、それさえ今の彼女は気にしていないらしい。少し食べ辛そうにパイを頬張る男の刺々しい視線を傲岸な眼差しで弾き飛ばす。
 しかし折角の彼女の手料理でさすがにそれは勘弁してほしいので、彼はようやく感想らしい感想を、しかしこの状況を維持するための言葉を、どうにか絞り出す。
「……イワシの味はする」
「まあ不思議。なんの味もしないはずなのに、ここに来て今更イワシの味が?」
 嘲る口調はもう既に、この吸血鬼の企みなどとっくに見抜いているような、やはり気付いていないような。どちらにせよ判断に難しいため、彼は意地を張って言い訳を口にする。
「……ようやく口に馴染んできたからな。天使が自ずから作る料理は、悪魔にとって味覚を狂わせる抵抗力があるのやもしれん」
「さして特別なことをした記憶はありませんのに……」
 でまかせを平気で信じて落ちこむ彼女に趣味悪くうっかり胸が高鳴ったが、そこは嘘だと気付いたようだ。はっと顔を上げ、天使の娘はそれはありませんと鋭く否定するついでに残りのパイを青年の口に詰めた。これは少しやり過ぎだ。
「今回フーカさんに味見してもらいましたけれど、あの子は最初の一口で味がわかっていましたわよ? それまでもエミーゼルさんやデスコさんにもわたくしの手料理は食べてもらっていますし、悪魔でも問題はないはずですっ!」
「……ふぃや、んぐ、いや待て。あいつらにまでこれを食わせたのかお前」
 食い意地の張った吸血鬼としては聞き流せない話だ。今から件の三人に吐き出せとまでは言わないものの、価値相応に給金を天引きしようと心に決めた彼の問いかけに、いえいえと娘はあっさり首を振った。
「今回はフーカさんだけです。それにお菓子を作ってあげたことは以前もお話ししたでしょう?」
 そうだった。しかし幸いなことに逃げ口は残されているので、彼はこれ幸いとそちらに飛びつく。
「奴らは悪魔として半端、もしくは未熟だ。完全な悪魔として長く生きてきた訳ではないなら、天使に対する抗力も未熟なのだろう」
「……ですけど。あなたの仰る通りでしたら、つまり」
 何も手にしていない白い指が、彼の顔にするりと近付いてくる。急に何をしでかすのかと上半身を捩る彼に、天使はもうと呟き椅子から腰を浮かせ、深く刻まれた胸と胸の隙間まで覗かせて男の口元に触れた。すぐさま離れてしまったが、整った指先には茶色い薄い膜のようなものが付着している。パイくずだ。
「こんなふうにわたくしが触れるだけでも、あなたは痛みか何かを感じてしまう、と言うことになりません?」
 娘は笑って訊ねる。言葉の粗を突く意地悪なものではなく、世話をする誰かに振り回されて苦労しているが、それもまた楽しいと言いたげに。
「……そうか?」
 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
 少なくとも、彼は彼女に触れられることに対して特別な何かを感じはした。ほんの微かでしかないのに、触れられた箇所が熱い。いや、そこではなくて。
 もっとこの娘に触れたい触れられたい欲求が、潮が満ちていくように胸の杭の奥から熱く湧き出る。それは天界の住人たちが悪魔に影響を与える力などではなく、ただ彼女が彼女だからこそだと吸血鬼は理解していた。桃色の豊かに波打つ長髪に、きめ細やかな白い肌。何より尊く輝く薄青い瞳の、初めて出会ったときは人間で、四百年振りに再会を果たしたときはその背に天使の翼を生やしたこの娘が、彼に緩やかな渇欲と、そう呼ぶにしては妙に胸に重い、繊細なものに触れることへの躊躇いに近い怯えを催させる。
「……アルティナ」
「はい? お代わりですか?」
 小さく、鳥の雛がやるように首を傾ける。その仕草にさえ胸は息苦しさを増し、喉奥から何かが溢れかねない。そして触れられた以上は触れたい。どことは限らず、強いて言うなら全身を。
「……いや。その」
 触れたい。触れたい。触れてしまいたい。
 つい声で抱いてしまったことを取り繕おうとする舌はろくに動かず、ただそんな欲求だけが高まっていく。まともなはずの思考が秒単位で侵食されて、ひたすらに娘だけを求めてしまう。腕に抱きたい。唇を重ねたい。その瞳に自分だけを映させたい。自分の名を呼ぶ声を聴きたい。甘い、堪らなく心地良く耳を撫でる声を。
「……いい加減、まともな感想を頂ければよろしいのですけど」
 つと視線が逸らされる。甘いことは甘いが吐息混じりのほろ苦い声に唐突な申し訳なさを覚えて、彼はうっかり奥底の衝動に従いそうになった自分を抑え込む。これで名前を呼ばれでもしたら襲っていたに違いない。執務室で女を組み敷くなど、いつ誰に見られるかわかったものではないと言うのに。
「って違うわ! そんな問題ではない!」
「え? ち、違いました?」
 己の脳内のある意味で脳天気な発想を否定するはずが、長方形のパイを手にしかけた娘を混乱させてしまい、彼は今度こそ慌てて言い訳のために頭を回転させた。誤解から彼女を追い出して、手ずからパイを食べさせてもらえないのは困る。欲情している場合ではない。
「い、いやその、あれはお前に向けて放った言葉ではなくてだな……」
「確かに受け答えにはなっていませんでしたけど、あれはお代わりについて仰っているのだと受け止めるのが一番自然では……」
「だから違うと言っている! ……あれだ、独り言だ。お前は気にせずともよい」
「……はあ」
 この聡い天使相手の言い訳としては、素っ気ない上に強引極まりない。当然娘はあまり納得していない顔をしていたが、少なくともパイを自分が食べさせることについて問題ないと受け止めたのか。穏やかな笑みを宿して、三角形のほうのパイを手に取る。
「では、お代わりは問題ないと受け取ってよろしいのかしら?」
「ああ。問題はない。腹が減っていたのは事実だしな」
 あくまで真っ当な感想を告げないように意識しつつ応じれば、娘は軽く頬を膨らませる。この反応では隙を見て自分がまともな感想を漏らすと思っていたのだろうか。自分に血を飲ませようとする執事とは、また違った意味で油断も隙もない。が、それもまた心躍るのは何故なのか。
「……ようやくイワシの味がわかるくらい味のしないものでも、お腹が膨れれば構いませんの? なんだかおかしな話ですけど」
「この手のイワシとはまた違う脂気のものは食い慣れていない。……ん、ふぁいはい、」
「口の中に食べ物を詰めたまま喋らないで。子どもではないんですから……」
 そんなにふうに呆れながら、子どもに叱る母親のように注意するのも少し矛盾している。頭の中でそう反論しながらも、彼は指摘を受けたまま黙々と咀嚼に集中した。
 こちらも美味には違いないが、彼としては黒胡椒のほうの、あっさりとした辛味がより好ましい。マスタードのまろやかな酸味と辛味も悪くはないが、磯の――つまりは塩気、転じて生のイワシとより馴染み深い味わいの――味が引き立つのは断然にあちらだろう。
 そう言う意味では先程、彼の独り言を気にして彼女がパイを持ち替えたのは幸運だった。この青年、好きなものは最後に食してじっくり堪能する性格であるからして。
「……大体、この手のものは久々に口にする。長らく生のイワシを愛食していれば、味わい慣れぬのも当然だろうが」
「そう言うものですの? ……よくわからない理屈ですけど」
 釈然としない顔をされるのも仕方ない。本人とて、この言い訳は無理があると茶を飲みながらひっそり反省していた。だがまともな感想を言ってやるのは最低でも最後の一つを食べ終わってからだと決めているため、ここは無理にでも意地を張る。
「そう言うものだ。……この際だ。残っていても始末に困る。最後の一つももう寄越せ」
「はいはい……」
 最早ふたりともすっかり慣れた心地で、片方は雛鳥さながら椅子から身を乗り出し大きく口を開け、もう片方は親鳥よろしく掴んだ餌を静かに相手の口へと導く。雛鳥は親鳥の指先にまで触れない程度に餌を咥えると、思いきりそれを噛み千切る。千切ると表現しても、前歯で切れるパイ生地は脆い。お陰でふたりの椅子の隙間の床下は茶色いくずで無残なありさまだったが、翌日になればプリニーどもがきれいに掃除しているだろう。
 そうして今日の彼女の最後の手料理を、吸血鬼は瞼を伏せてまでしっかり味わう。
 それまであまり気にしていなかったが、脂が回った野菜にもオイルサーディンの風味がほのかに移っている。イワシの風味を宿した野菜と言うのも新鮮だし気に入った。これからはオイルサーディン製作係のプリニーには、更に大量に作らせてイワシの旨味を吸った油も調理に使わせるとしようと心に決める。魚嫌いの子どもたちにとっては悪夢でしかないが、そんなこと彼が気にする必要はなかろう。
「もう一口」
「はい」
 最後の一口分もじっくりと堪能しつつ、彼は台所に眠る特製アンチョビの存在を思い出す。
 このパイには全く文句はないが、あちらもいずれ彼女に使って調理してもらいたいところだった。ついでにその際は茶ではなく酒の肴を意識したものを作って欲しい。それをふたりで味わえれば更に満足すること請け合いだが、悲しいことに物事はそこまで上手く運ばないものだと青年も骨身に染みて学んでいる。そのため、願望を口にするのはあっさり諦めて青年は最後の一欠片を喉の奥へと押し流して一言。
「……ん。美味かった」
「はい、お粗末さ……はい?」
 バスケットと椅子を持って退散する気でいたのか。両方に手をやって中腰の姿勢のまま固まった娘に、もう隠しごとはせずに済んだ男は平気な顔で止めを刺す。
「美味かった。……ふむ、強いて言うなら、あれだな。イワシの量を倍にすれば」
「いえ、あの、そうではなくて……!」
 愕然とした表情を張り付けて、彼女は悶えるように首を振る。衝撃が過ぎてそんな仕草でさえぎこちなくなったのか。しみじみと自分は悪いことをしたらしいと思い知らされ、青年は茶を口にしつつ嘆息する。
「……お世辞、にしてもこのタイミングは少しおかしいでしょう」
 動揺を引きずる声に、青年は毅然と首を横に振る。苦しい言い逃れをせずに済んで胸が清々しい辺り、つくづく自分に嘘は向いていないらしい。だからと言ってこの娘に対する全ての想いを吐き出すのは、いまだ多大な勇気と、悪魔としての誇りを一旦よそにやる割り切りの良さが圧倒的に足りていないが。
「世辞でもないし嘘でもない。大体、嘘なら最初から言うわ」
 つまり同情や慰めとして美味いと言ってやるとの意だ。その意図を正しく汲んで、つまり彼の評価が真実であると理解させられ、彼女は水面に顔を覗かせる鯉のようにはくはくと口を開閉する。何もそこまで驚かなくてもいいだろうがと、吸血鬼は自分があまり信頼されていない気分になった。正直な話、面白くない。
「……でも。でしたらどうして、あなた、あんなに感想を避けていたんです!?」
「それは……その」
 これは正直なことを言っていいのか迷う。いや、手ずからに食べさせ続けてもらいたかった点は伏せればいいではないかと気付いて、彼は俯きかけた顔を上げる。それでも少し、いやかなり、これから甘ったれた発言を漏らす自覚はあった。
「……感想さえ聞けばすぐに出て行くとお前が言ったからだろうが! 折角の機会にそんな、……っ」
 勿体無いことを。寂しいことを。無念なことを。
 言葉にしようと思えば思うほど自分が矮小だと知れて、彼は続きを一旦放棄、大きく首を振って自棄気味に吐き捨てる。
「ええい、おめおめと逃がして堪るかっ!」
 そう、逃さないし離さない。
 喧嘩くらいはあるかもしれないし、うっかり傷付けてしまうこともあるかもしれない。傍目からはわからずとも、娘の身体に永遠に消えない傷を付けたい気持ちは恥ずかしながら持ち合わせている。けれどもう四百年前の悲劇は繰り返させないと、吸血鬼は眼前の天使があの人間の娘だと確証を得たとき己に誓ったのだ。
 広義も狭義も含んで言い放った青年に、何を見出したものやら。彼女は暫く惚けていたものの、唐突にぷっと吹き出して、そのままくすくすと顔を隠して笑い始める。笑わせる気もないのに笑われてしまったなど、誇り高き悪魔にとっては恥辱に等しいが、睨みつけるだけで済んだのはこの娘だからこそ。
「……何がおかしい」
「いえいえ、大したことではなくて。その、……ふふっ」
 大したことではないくせに、娘の笑いはなかなか止まない。居心地の悪さも手伝って更に眼光鋭く睨みつけると、ようやく笑いの発作が止まったようだ。目元の涙を拭うと、彼女は妙に幸せそうな、まさしく天使に相応しい笑みを吸血鬼に向ける。
「……わたくしも、あなたと一緒に過ごせて嬉しかったですわ。引き止めてくださってありがとうございます、ヴァルバトーゼさん」
「なっ……!」
 完全に自分の気持ちを把握されて。その上、自分と同じ気持ちだと告げられて。とどめに甘い声で名まで呼ばれて。
 一気に顔を茹で上がらせる彼に、彼女は照れ笑いを浮かべて椅子の背もたれに手をやる。パイもなくなったし、もうこのまま帰るつもりなのだろう。
 まだ頭の中がろくに動かせないけれど、もう少し色々とじゃれたい気持ちを抱えたままの青年は完全に油断しきっていた。天使が帰ってしまうと察し、すぐさま捨てられた小動物めいた視線を無遠慮に彼女に注いで、このまま帰る気でいた娘の後ろ髪をぐいぐい引っ張る。
 しかしそんな顔をしたところで女のほうが切り替えが早いものだ。椅子をもとの場所に戻した彼女は扉ではなく、最後とばかりに書類机の向こうに渡って彼の手に届く範囲にまで近付くと、困ったように微笑みいまだ不貞腐れた口元に張り付いたパイくずを優しく手で払う。唇と白指が掠れる感覚は、予想外にも心地よい。
「……また、お作りしましょうか?」
 今度はアンチョビを使った酒の肴にしてほしいとか。今度はもっとパイに入れるイワシを増やしてほしいとか。今度は黒胡椒だけでいいとか。色々と言いたいことはある。けれど今それらを全て伝えるには少し時間が足りない。
「お前の好きにしろ……」
 だから彼は胸いっぱいの感慨を込めて、低く囁く。要望はある。けれどそれ以上に、この娘が作るものならどんなものだって喜んで食べる自信はあった。
 なのにどうしてだろう。娘は意外そうに目を瞬かせ、あらと意地悪い笑みを口元に滲ませる。場違いにも悪寒がした。何故か。
「でしたらお菓子でも構いません? チョコレートたっぷりの甘いものでも」
「い、いやそれは……!」
 どうしてこの娘が自分の苦手なものを知っているのかと、身構え狼狽える青年に彼女は冗談ですとばかりの軽やかな笑み。
「ふふ、そうですわよね。わかっています。ですから、ちゃんとあなたの食べたいものを仰ってくださいな。次に持ってくるときは、あんなことを言わせないくらい研究してまいりますから」
 食べたいものと言われても空腹は満たされたところだから食欲も薄いし、眼下に咲く花のかんばせが意識を奪ってまともに頭が動かない。そもそも生のイワシを貪り食うのが日常の男に、料理をリクエストしろとはそれなりに難題だ。
 けれどこちらの答えを今か今かと待ち望む煌めく瞳に見惚れてうちに、ふと吸血鬼はとある答えを頭の奥から引っ張り上げた。我ながら糖蜜を煮詰めたような回答だと思う。普段の彼ならこんなこと、思っても決して声にまで出さないはずだ。しかし考えてみれば、それくらいしか今の青年にとって激しく求めるものはない。
 逆上せている自覚はある。しかしこの場なら、この距離なら、この空気なら許される気がして。
 だから彼は、生唾を飲み込んでそれなり勇気も奮い立たせ、どうにか欲しいものを口にする。
「……あ、アルティナ」
「はい? 思いつきました?」
「い、いやそう言う意味ではなくてだな、……その、なんだ。おま……」
「ヴァルバトーゼ閣下ー。よろしいッスかー」
 肝心なことを伝えようとしたときに限ってこれだ。
 人狼の執事に同じような邪魔をされるとついでに天使と口論しかねないのでまだいいとして、この介入に慣れているとは言え一気に気持ちが削げた彼は鼻から深く呼気を抜く。対する娘は青年の落胆ぶりが気にかかっていたようではあるが、それでもこれで休憩時間が終わったと察してバスケットを持ったまま慌てて扉のほうへ向かう。
「では、今度会ったときに聞かせてください。約束ですわよ?」
「……ああ、約束だ」
 しかし去り際、他愛ない約束にうっかり男を夢見心地にさせる要領の良さを見せつけて、娘は扉を開けた。そこには予想通り、新たな書類を持つプリニーが何体も。天使の来訪を知らなかったらしく、それぞれ目をぱちくりと瞬いたり冷や汗を掻いたり申し訳なさそうに黙り込んだりと余計なことを考えている輩の多いこと。
 それはともかくとして、今夜も夜更けまで彼の仕事は終わらないのだろう。そんな過酷な状況でも、娘と交わした約束と、先程までの出来事が青年の気持ちを浮上させる。
「体調には気をつけて、お仕事お励みになってくださいね」
「わかっている」
 こちらは全く気にしていない、プリニーと入れ違いで控えの間、続いて廊下に出て行く桃色の三つ編みを挟んだ小さな白い翼をしみじみとした吐息で見送った青年に、書類を手にした木っ端悪魔たちはやはり居心地が悪そうな。どう考えても数十秒前まで甘い時間が繰り広げられていただろう空間にそんな気もなく入り込めば、彼らどころかどこぞの無遠慮な元中学生とて身じろぐのが道理だ。
 しかし彼とて切り替えくらいはできて当然。相手の姿が見えなくなると、だらしなく緩んだ己の頬を一叩きし、プリニーたちを眼光鋭くねめつけ腹の底から声を張り上げる。
「何をぼさっとしている。お前たちもとっとと己の職務を果たさんか!」
「あ、アイアイサーッス!」
 小休憩は終わったのだ。これから彼女に言われた通り、たっぷり仕事に励んでやるとも。
 そう自分の頭に宣言すると、一喝を受けて動き出すプリニーたちに満足しながら、吸血鬼はこれ以上ないほどやる気をみなぎらせて書斎机に目を落とした。







後書き
 閣下にパイ届けるまでがだらだら続いてしまったので仕方なく二分割して閣下にパイ食ってもらったら結果がっつり甘くなりましたとさー編。
 ちなみに閣下が本能と理性の間をぐらぐらしていた辺りでアルティナちゃんに名前呼ばれてぷっつんして押し倒す展開も途中まで書いてましたが収拾付かなくなったんで没にしました。
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