スポンサーサイト

--/--/--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[↑]

For you

2012/01/11

 ふと脳裏に蘇ったのはいつかの出来事。
 なり損ないプリニーと人造悪魔の姉妹に強請られ、フィリングに潰したバナナ、生地にはたっぷりのチョコレートチップを練り込んだパイを作ってあげたら手放しで喜ばれたときのこと。個人的にはくどいくらいだが子ども受けはいいらしく、匂いに釣られて顔を出した死神の少年からのお墨付きまで得てしまって、勝手に次回の期待を寄せられ、それどころか聞いてもいないのに次々とリクエストを口にされ随分と困っていたとき。
 何だか知らんがいい加減にしろと冷や水を引っかける言葉とともに痩躯の吸血鬼が現れ――部屋に貯蓄した大半のイワシが、また『誰か』の手により人間の血を混入される被害に遭ったらしい――、台所に立ちこめる甘い匂いに軽く眉根を寄せながら冷蔵庫からいつも通り生のイワシを取り出した。助け舟を出してもらったこともあって、お一つどうですかと彼女が差し出したパイの誘いさえ断って、いつも通り。
 そんな彼に子どもたちは彼女お手製のパイ片手に心底呆れ、いやもういっそ憐れんでいたか。イワシで事足りる奴は可哀想な人生送ってんのねとか、ボクらの取り分が増えるからいいんじゃないか、こいつがイワシにしか興味なくて今は感謝してるよとか。最後の一人はひたすらパイを大きく頬張っては蕩けそうな顔で美味しい甘いと漏らすばかりで、しかしイワシ以外ろくに口にしない男にとっては何よりの嫌味として目に映った可能性がある。
 甘辛いイワシの煮付けでも喜んで口にする吸血鬼ではあるが、甘いだけの菓子に対して興味は薄いようで、彼女お手製のパイにしたって子どもたちに混ざって食べたいほどのものではないのだろう。だったら食べてもらえないのは仕方ないと引き下がり、台所から逃げるように退散した青年にブーイングを飛ばす三人の話題を逸らす目的もあってカフェオレを振る舞いながら、いつかあのひとにも喜んで食べてもらえるものを作ろうなんてことを考えたのは、はて半月前だったか、一月前だったか。
 ともかくそれを実行に移すのは今日ではないかと、彼女は、地獄に滞在する元人間現天使の娘は唐突に思ってしまった。これを天啓と呼ぶのなら、与えたのは宇宙のいずこかにおわす神様ではなく、天界におられるはずの大恩ある天使長の可能性が高いが仔細は問うまい。そう言えばあの上司にも、自分が天界にいたときにはあれこれを作ってほしいとリクエストを受けた経験があった。
 まあ今日は保嫌所から休みをもらっているし、買い物やら戦場やらに付き合ってほしいなんてお誘いも聞こえてこない。部屋の掃除や銃器を含む小道具の手入れは朝のうちに済んで、読みたい本も特になく眠気もなく散歩をする気もなく、暇を持て余しかけたところだったから丁度良かった。
 そんなことを考えながら自室から出て、特に大きな問題もなく台所を訪れた彼女は、扉を開けてすぐ目についた在庫管理中らしいプリニーに訊ねた。
「少し、ここをお借りしても構いませんか? あと食材も少し使わせてもらいますから……、こちらから、前の分も含めて幾らかお金をお渡ししたほうがよろしいのかしら」
「別に構わないッスよ。宴会を開くつもりでもないなら、お金も別に気にしなくてオッケーッス」
「まあ、ありがとうございます」
 予想外にも寛容な対応に、彼女は軽く驚きながらも膝を折る。しかしこんな対応を取ってもらえるのも、恐らくはイワシさえあれば満足する党首がその小魚に執着するあまり常に食費に余裕を持たせているからこそなのだろう。それに乗じて食品管理がプリニーとくれば更に財布の紐は緩くなるのは必然だが、彼女にとっては棚から牡丹餅。この天啓もなかなか侮れない。
 パイ生地は以前大量に作っていたものの余りを冷凍保存していたのでそれを冷凍室から取り出し解凍室――魔法技術を用いたものだ。この空間の中では通常に比べて大幅に時間を短縮した自然解凍が可能になる――に移すとして、また次の機会のために今回も生地を作っておくかどうか彼女は暫し迷う。五分程度の逡巡の結果、解凍室を使ってもやはり解凍に時間はかかるし、手持ち無沙汰になるのもいやだからなんていかにも可愛げのない理由で作ることを決定。
 そうと決まれば話は早い。手早くエプロンを身に付け、三角巾で前髪を覆い、グローブを外して手を洗うと彼女は思考を完全に切り替える。
 粉は真っ先に計量してからボウルに篩い冷蔵室に、塩は水に溶かし、バターはまた別の冷蔵庫にあるものが無塩かどうか調べてから計量、ほぼ一本丸々使う罪を誰かに対して心の中で謝罪する。彼女が人間として生きていた頃、さして具も味もないスープやら硬いパンを作った時代を顧みれば、こんな真似は贅沢を越えていっそ浪費に等しい。そもあまり腹の足しにならない菓子を作ること自体、どちらかと言うと背徳的な行為だと感じてしまうのは潔癖に過ぎるのだろうか。
 話を戻そう。必要な道具も手元に並べて準備万端と気合いを入れると、まずは冷やした粉と水をカードを使ってまとめる。パンを生地から作った経験を活かせばこの辺りはお手の物。尤も、パンと違い練る必要はない。
 粉っぽさを残しつつどうにか一つにまとまれば、深く切り込みを入れたあとラップで包んで一旦生地を冷蔵庫に寝かせる。ついでに冷凍した生地も解凍できているか調べるが、こちらはなかなか。それでもこの手の繊細なものはじっくり手間をかけるものだと知っている彼女は、冷蔵庫の戸を閉めタイマーをかけたところで先程食材の在庫を記していたプリニーから話しかけられた。
「いや~、アルティナさん手際いいッスねえ。なんか懐かしい気分になったッスよー」
「お褒めに預かり光栄ですわ。ですけど、懐かしい気分と仰ると……?」
 首を傾げた彼女の視線に、プリニーは肯首する。どうやらこの最低級悪魔は生前この手の職業に従事していたらしい。
 生前犯した罪の贖罪としてこの魔界でひたすら働かねばならない点はどんなプリニーでも変わらないため、罪そのものと向かい合えばそれ以外の記憶は自然薄れてしまったりどうでもよくなるものだが、彼はしっかり覚えているようだ。プリニーの自分どころか、そもそも自分が死んだことさえ今の今でも認めない少女を知っている彼女にとっては、そのくらい珍しくもなんともなくなってしまったが。
 生地を寝かせる間は暇なので、暫く彼女はそのプリニーと雑談に興じた。
 やはりそのプリニーは生前、本格的な料理店の厨房に立っていた上に部下が何人もいたほどの腕前で、菓子も得意だったらしい。彼の作る繊細で色鮮やかで、何より甘いデザートは店を訪れる多くの女性を魅了したようだ。身分ある人も大勢いらっしゃって、お褒めの言葉もたくさん頂いたんスよ、とそいつは心なし胸を張った。ついでに顔立ちも悪くはなかったから、そっと耳打ちされて時間外に客と調理師ではなく、一個人の男女として会うことも少なくなかったそうな。
「……あら、それでは生前犯した罪もそちら関係ですの?」
 次の展開がなんとなく読めてしまった彼女はわざとらしく咎める視線を送ると、相手は後味悪そうに頭を掻く。間抜けな印象さえあるペンギンの悪魔の姿をしたそれは、勤め先の女客たちとの火遊びに耽ったやり手調理師の面影など欠片だって見えてこない。
「いや~、あのときは自分、正直な話、調子乗ってたッスからねえ。……オーナーのお嬢さんにも同じような真似しちゃって、しかもそのとき三人のお客さんと関係続けてたッスから。恥ずかしながら、ご想像の通りッス」
「ま……それでは地獄に堕ちても仕方ありませんわね。ですけれど、調子に乗った結果死後こんなふうになってしまったのでしたら、しっかり反省できますでしょう?」
 女泣かせな元調理師に、同じ女として同情はできないためぴしゃり言い切ると、しかしそのプリニーはあまり懲りていないのか女好きは死んでも変わらないのか。いやいやと明るい口調で彼女の言葉を否定して、あくまで自然にこう言った。
「アルティナさんみたいな綺麗なひととこうやってお話できるなら、死んでプリニーになっても良かったって思えるもんッスよ。いや本当、地獄に天使とはよく言ったモンッス」
「……天使、ではなかったと思いますけれど?」
 死因ははっきりわかっていないが、女泣かせの罪で死後プリニーになってしまって、この屋敷の食材管理を任されているとなれば地獄での生活もそれなり長いだろうにこの調子とは心底恐れ入る。最早呆れを通り越し感心さえ覚えた彼女は、説教する気も失せて軟派な元人間の調理師に背を向けた。折り良くキッチンタイマーが生地の起床時間を告げ、自然と会話はお開きとなる流れのはずだが。
「それで、アルティナさんはなにを作るんスか?」
 未練がましい、のではなくこのプリニーはキッチンタイマーが鳴った程度で会話を終える気はないのか。平然と雑談を続けてきて、彼女はこの厚かましさこそが女慣れした人種の証なのだろうかと奇妙な方向で感心しつつ、冷蔵室から生地を取り出す。
「前回は甘いパイを作りましたので、今回はそうではないものをと思いまして……」
「って言っても、うちの冷蔵庫にあるのは大体お肉じゃなくてイワシ……あー、そっちッスか?」
 唐突にプリニーの真ん丸いはずの瞳が、ぐにゃりと歪んで空気を抜いたボールの形状になる。笑みと理解しているが一瞬身構えてしまうほど不気味にも見える辺り、最低級と言えど彼らも一応悪魔なのだと遅まきながら実感させられた。
 しかしそれを言うなら彼女だって、天界のプリニーほどではないが小さいなりに羽を持つ天使。下っ端悪魔にいいようにからかわれるなど、単身魔界に侵入した身として沽券に関わる。だから彼女は余裕の笑みを宿しながら、麺棒で生地を伸ばす作業に取りかかっていかにも何ともなさそうな態度を取る。
「……あら、なんのことでしょう?」
「誤魔化さなくたっていいじゃないッスか~。ま、アルティナさんのお手製なら、あの人どんなものでもどんな出来でも喜んで食べてくれるッスよ!」
「どなたのことを仰っているのか、さっぱりわかりませんわね」
 生地を伸ばす作業に集中する素振りも含めて素っ気無く言い放った彼女は、しかし内心少し、ほんの少しだけプリニーの発言に傷付く。うっかり裁縫針で自分の指を刺してしまったり、紙で手を切ってしまう程度の小さな傷ではあるけれど、それだってやはり痛みはあるし出血もするように。
 この軟派だがそれだけ女心も解しているであろうプリニーの発言通りになると、あのとき彼女は微かに期待していた。
 地獄に来てから愛らしくもわがままな姉妹のためや気まぐれから菓子を作った経験は何度もあったし、それをふたりの会話で話題にしたこともあるが、自分が作ったものをそのひとに口にしてもらったことは今までだって一度もなかった。だから台所に、現在彼女が地獄に留まる最大の理由たる約束を交わした吸血鬼が現れたとき、開口一番自分を助けてくれたとき、お礼の意味も込めて差し出したパイを、相手が手に取って一口でも食べてくれることを密かに期待してしまって。
 実際は、軽く困ったような戸惑ったような顔で視線を彷徨わせ、いい、いらんとぶっきらぼうな拒絶の一言をいただくのみ。相手が甘いものは苦手ではないが得意でもなく、特にチョコレートはどちらかと言うと苦手な部類に入るとの情報を、プリニー帽子を被った少女に聞かされねば彼女はその日一日上の空だった可能性がある。
 まあだから、このプリニーは既に間違っているのだ。子どもたちには受けが良い出来でも、甘い菓子は食べてもらえないと彼女はもう学んだ。そも人の血を吸う点を最大の特徴とする悪魔『吸血鬼』として、食に対するこだわりは悪魔一強いのやもしれない。そのため苦手なものも本当に苦手で、だから食べてもらえなかったのは仕方ないのだと彼女は自分に強く言い聞かせ――強く、なんて。それはまたどうして。
「……アルティナさん?」
 動きが止まっていると暗に指摘された彼女は、我に返ってもう生地が十分な大きさになっていると知ると、これ幸いとばかりに無塩バターがある冷蔵庫に飛びついた。開けた途端、顔にかかる冷気が気持ちいいのが逆に居た堪れない。
「わ、わたくしったら、ちょっと集中し過ぎてしまいましたわね。もう、十分な大きさですのに……っ」
「そうッスよ~。けど手遅れにならないうちに気付いてくれてよかったッス」
 慌てて切ったバターを取り出し、今度こそこちらに集中するよう自分に強く言い聞かせながら麺棒で軽く叩いてそれを押し伸ばす作業に移る。
 全く引きずっていないふりをして実際は今の今まであれを引きずっている己に今更彼女は気付いてしまって、そんな自分が情けなくて仕方なかった。大体、次こそは食べてもらおうなんて、冷静に考えれば隠しようがないほど未練がましいではないか。
 そうして前向きな振りをしつつそれでその場は納得してしまった己にも気付くと、いよいよもって恥ずかしくてならない。顔に血が巡っていく自覚が更に羞恥を加速させていく。そうなれば普段は冷静を心がけているはずの頭もあっと言う間に茹で上がり、惨めで狭量で粘着質で醜い自分に心底嫌気が差して、今から何もかも放り投げ冷蔵庫の中に閉じ篭ってしまいたくなる。
 しかしそんな衝動に反して、眼前のバターは順調に薄くなってしまった。となれば冷蔵庫に閉じ篭る計画を断念し、それを二つに折り、正方形を意識しつつ均一な厚みにする作業に移るしかない。
 そんな、やはり神経を使う作業に集中すべきなのに、天使の意識はもう一方、自分の内面につい向かってしまう。それでも手順を監視してくれるプリニーがいてよかった。他者の視線を感じなければ、彼女の手元は随分と疎かになっていたに違いない。
 今度は期待しないようにと、彼女は自分に強く言い聞かせる。甘くなくて彼の好物を使ったパイを作る訳だから、そのひとにどうですかと誘えば断る理由もないから受け取ってくれる可能性は当然前回よりも格別に高い。けれどそれだけだ。イワシならなんでも問答無用で喰らいつくひとだから、料理に顔を輝かせるとしてもそれはきっとイワシの力。自分の技量は関係ない。誰かが同じものを作っても、吸血鬼は快く受け取ってぺろりと平らげるだろう。
 そう考えると少し虚しさを覚えなくもないが、彼女だって料理の腕はそれなりに食べれるものを作る自信を持っているから、わざと失敗したり不味いものを作ろうなんて気は起きなかった。大体それは食材への冒涜になる。飢えを味わった身の上として、そればかりはやる気になれない。
 深々鼻から呼気を抜いて眼前の光景に意識を向き直すと、バターが既に丁度良い具合の厚さと大きさになっていた。そこに広げたまま冷やしておいた生地を取り出し、伸ばしたバターを生地の中央に来るように乗せてしっかりと包む。幸いこの過程は本当に余計なことを考える余裕もなく集中しなければならない作業のため、生地を均一に保ったままバターを包み終えてほっと一息ついたときには頭の中は一旦真っ白になっていた。
 けれど安心したところで何を考えていたのかを思い出す必要もない程度に以前の思考がするり浮上してくる点に、彼女は苦笑を薄く滲ませる。作業に没頭することで以前の悩みはどうでもよくなった、とやや強引に切り替えられないくらいにはやはりあの件は自分の中で尾を引いているといやでも自覚させられて。
「峠は越えたッスねー。あとは伸ばすだけッス」
「ええ。……ですけど、この作業が個人的に……っ!」
 打ち粉をたっぷり振ってぐっと麺棒に体重をかけると、心持ち今までの慎重さを捨てて生地を圧し伸ばす。しかしこれも均一に力をかける必要があるため、気軽な作業とは決して言い切れない。むしろ半端に力を籠める必要があるだけ、それまでのバターや生地を伸ばす作業に比べて彼女にとっては難所だった。
 しかし難所とは言え、生地が伸びてくれば力の籠め具合もさっきの調子にすぐ戻る。五分前後で長方形の、よく麺棒と一緒くたに連想されがちなパイ生地らしい光景が眼前に広がると、今度はそれを三分の一ほどに折り畳んで刷毛で粉を払い、残る一辺分も打ち粉を払って生地を正方形に整えると九十度に反転。バターを包んで以降と同じくしっかり生地を伸ばす。
 目前のことに打ち込めば、少なくともそのときだけは悩まなくて済む。醜い自分を意識させられなくて済む。そう考えれば、彼女はどんなものであれ家事は好きだと実感させられる。何もできず無駄な時間ばかりを過ごして自己嫌悪の渦に入り込むより、ともかく体を動かすほうが幾分か生産的だと前向きに思えた。四百年間の無駄な足掻きが尚更、そんな思考に磨きをかけたのかもしれない。
 だから彼のことを、脳裏にその姿を思い描くだけで胸の奥が熱を持ってたちまち自分の思考を狂わせてしまう黒髪の悪魔のことを、彼のために何かをして期待してしまいそうになる浅ましい自分を、このときばかりは忘れられるから、こんな作業も嫌いではなくむしろ好き。そう、多分あのひとと同じくらいには。
「……ふう」
 なのに雑念が振り払われ、奥底の温かな感情のみが胸に広がっていくところで生地は丁度良い薄さになってしまう。残念に思いながらまた三分の一ずつ折り畳み、刷毛で余分な粉を落とし生地を正方形に整えると、今度はラップで包んで冷蔵室に入れる。またも生地を休ませる必要があった。
 しかし幸運にも入れ替わるようにして解凍していた生地が程好い状態になったらしい。今度こそやるべきことに打ち込む心地になって、先程と同じ要領で生地を縦横それぞれ伸ばしてまた畳み、こちらは最後の仕上げ感覚で冷蔵室に入れる。今回は醜い己を意識せずに済んだからか、冷蔵庫に生地を寝かせたときには胸の澱は多少取れていた。
 だが四回も連続して同じことをすればさすがに手際もよくなるもので、最初に休ませたほうの生地をまた伸ばすには半端に時間が余っている。ならばいよいよフィリング作りに取りかかろうかと野菜を詰めた冷蔵庫を開けたところで、パイ生地を練る間じっと彼女を眺めていたあのプリニーが扉のほうに身体を傾けた。
「んじゃ、自分はもう行くッスね~」
「あ……ああ、はい。ご苦労さまです」
「いやいや、アルティナさんこそご苦労さまッス。しかしアレっすよ、アルティナさん」
「はい?」
「菓子類作ってるときに考えごとは止めといたほうがいいッスよ。特に特定の誰かのことを考えてたりすると、手元が超危うくなるッス。そのひとに食べてもらいたいなら、もっと作業のほうに集中すべきッス」
 気付かれていないと思っていたが、やはりそれは自惚れだったようだ。単刀直入に過ぎる指摘を受けて、またしても彼女の顔が一気に赤くなる。しかもこの場合は相手の発言がぐうの音も出ないほど正論であるため、天使は蚊の鳴くような声で返事を一言。
「……は、はぃ……」
「元料理人としてこれだけは言いたかったんスよね~。それでは、今度こそ本気で失礼しますッス~」
 言うだけ言うとすっきりしたのか鮮やかに台所から出ていったプリニーの、足音と表現するには軽々しい物音が遠のくのを耳にして、彼女はふうと大きく息を吐く。触った頬はやはり熱い。
 しかし動揺から少しは落ち着いてくると、あのプリニーは甘ったるい期待から自分が赤面していたのではと誤解の可能性をちらと頭に過ぎらせてしまう。そうではない、そんな浮ついたことは考えてないと今から走って引き止めてでも説得したい衝動に駆られるが、続けてそれは逆効果ではとも考えたため俯いたままぐっと下唇を噛む。
 まあとにかく、今はフィリングを作ろう。これは逃避ではない。パイ生地を寝かせている時間を有効に使っての具材選びだ。
 苦しい自覚はあるがそんなふうに自己暗示をかけると、彼女はどうにか視界に広がる光景をきちんと脳にまで到達させ、頭の中でぼんやり描いていたパイの完成型に具体性を持たせる。
 まず主役は言わずと知れたオイルサーディンだから、それと相性のいい野菜を探す。ざっと目についた限りではブラウンマッシュルームとオリーブが最適か。どちらもパイにも油気の強いのものに合うしえぐみや癖もない。ついでに幸運にも加熱用ミニトマトがあったのでそれも入れてさっぱりとした自然な味付け要員となってもらう。
 オイルサーディンを必要分瓶から取り出し油切りする間、野菜は歯ごたえが楽しめるくらいの荒い賽の目切りに。更に油と相性のいい二種は受け皿に滴り落ちたイワシの油で軽く炒めて水分を飛ばす。火が通り汁気を切ったらハーブスパイス入りの岩塩を少々、ボウルに入れたミニトマトと乾燥パセリと一緒にざっと混ぜる。イワシなら生のはらわたでも喜んで食べられる人物にとってこの辺りの過程は余計なことかもしれないが、だからと言ってオイルサーディンをパイ生地に包んではいおしまいでは彼女のプライドが許さないのでこのくらいは見逃してもらおう。
 続いて卵を溶き、油を切ったイワシを食べ易い大きさに切り終えたところでタイマーが鳴る。麺棒の作業は最後だとのお知らせだ。
 今度もまた穏やかな気持ちで室内と手を冷やして、打ち粉を作業台や麺棒に振ってから丁寧に、しかし手早くパイ生地を伸ばして折り畳むと今度は密閉できるビニール袋で包んで冷凍庫へ――これで今回粉から練った分については完成。続いて解凍していた分を麺棒で伸ばし、こちらは十二等分に切る。一方は二等辺三角形六つ、もう一方は長方形六つで三つには切り込み付き。
 オーブンに余熱を入れて、オーブン皿の上にいまだ冷たいパイ生地を乗せ、切ったオイルサーディンをたっぷり二枚ずつ。更にその上に長方形の三つにはそのまま野菜を乗せて胡椒をがりがり挽き塗し、もう三つは残る野菜にマスタードを絡めてから乗せる。前回は甘党向けの味付けで、今回は辛党向けだなんて少しあてつけがましいかもしれない。いやそれ以前の問題として、男性にはこちらのほうが好きなのだろうとの勝手な憶測でこうした訳だが、今まであの吸血鬼は辛党だとの主張を聞いた覚えもない。嗅覚が常人より優れているなら、やはりこちらも苦手なのだろうか。
 それでももう作ってしまった以上引き返せないため、具材を乗せた側の縁を溶き卵で浸した刷毛で塗ってから対になるパイ生地で覆う作業を六個分繰り替えす。続けてフォークで縁を押し付け、またしても溶き卵で照りを付けたところで折り良くオーブンが甲高く鳴って設定温度になったと知らせてくれた。こうも効率的に作業がこなせるようになる辺り、冷蔵庫にせよキッチンタイマーにせよオーブンにせよ、彼女にとって文明の利器の発展はそれこそ神や現代人に感謝しても構わないほどだとしみじみ思い知らされる。
 さて感謝はそれくらいにするとして、ミトンをはめてオーブンにパイを入れ、タイマーを設定し終えて蓋を閉める。それでもうパイに関する全工程は完了。あとは時間になるまで待てばいい。
 心なし緊張しながら待つ間ようやく料理の最後の過程、洗い物に取りかかる。期待しない想像しないと言い聞かせていたのにやはり何やら妄想しそうになる自分を必死で制して洗った料理器具を水切りし、道具をもとの位置に直すついでにシンク周りや作業台の掃除もしていると、ふと香ばしい匂いが鼻腔に届いた。
 ここのオーブンは業務用で、家庭用によくあるガラス面がないため中のパイの焼け具合については目視で判断できない。しかし見た目はともかく匂いについては焦げ臭さもなく、最低限食べる分には問題なさそうだ。そんなことを考えながら掃除をほどほどで切り上げ、エプロンを外しグローブを着け油気の強いものと合うお茶の準備に取りかかろうとすると、次第に焼きたてのパイの香りが台所いっぱいに広がっていく。
 昼食を摂ってから料理を始めた彼女としてはさして心惹かれやしないが、やはりと言うべきか今回も匂いに釣られてやってくるものがいた。この点だけは予想外にも、前回と違って単体で。
「アルティナちゃ~ん? 今回はなにを作っているのかなぁ~?」
 どこぞの人狼の青年なり死神の少年なりが気味悪がるくらいの猫撫で声で台所にひょっこり顔を出したのは、毎度お馴染み彼女の手料理には欠かさず味見役を買って出るプリニーなり損ないの少女だった。今回もご多分に漏れず相伴に預かるつもりなのだろう。
 しかし此度に限っては少女が愛する砂糖っ気は一切ない。そのためご愁傷様の意を込めて彼女が苦笑してみせると、茶色の瞳が不意を打たれたように瞬いた。
「今回は辛めの味付けですから、フーカさんのお口にはきっと合いませんわよ」
「え~いい匂いなのに……って、なんか魚臭い?」
 すんと鼻を鳴らして、台所中に立ち込める匂いの中から具材が何であるかを嗅ぎ取ったらしい。なかなか悪魔めいてきた嗅覚に、そう遠くないうちにこの少女の犬歯が牙になるのではなかろうかと天使はひっそり思いを馳せながら肯首する。
「ええ、この場合はフィッシュパイになりますでしょうか。ここではイワシは勝手に使っても構わないくらい豊富にありますけど、お肉はそうではありませんし……」
「ああ。あれ、フェンリっちのクーシー用でしょ。それでもササミってちょっと貧乏臭いわよね~」
 さらりとあのイワシ用冷蔵庫の片隅に隠されている上に何重にも封をされていた鶏肉の用途を把握している辺り、少女は随分ここに入り浸っているようだ。ついでによもや、ととある考えを過ぎらせた彼女はごく自然な調子を心がけ首を傾げる。
「ササミでもお肉には違いありませんわよ。それで、フーカさんたらあの狼男さんのお肉を勝手に食べようとなさったの?」
「ササミじゃなかったらね。アタシ、鶏は絶対モモ肉って決めてるから」
 鶏肉の中でも脂気の強い部位を好む辺り、これが若さの証拠だろうかとぼんやりと考えさせらた天使は、ついでにそこそこ意外だった事実についてやんわり口にした。
「フーカさんがどんなふうにモモ肉を調理なさるのか興味深いところですけれど、そのためにわざわざ買ってくるのもどうかと思いますしねえ……」
 本人としてはやんわりのつもりだったのだが、語尾の重々しさに意外だと思われている自覚はあったのだろう。少女は小さく口先を尖らせると、自分の料理の腕前についてかく語る。
「味音痴でも壊滅的なぶきっちょでもないんだから料理くらい普通にできるわよ。大体、父子家庭で親は職場から帰ってこなかったら、家事は子どもがやるしかないでしょ」
「それはそうなのですが……。ですけどフーカさん、こちらに来てから一度もその腕前をお見せになっていないのでは?」
「その辺はほら、夢の中でわざわざそんな面倒なことしたくないし。毎日の分はプリニーに任せりゃ勝手に出てくるし、たまにこうしてアルティナちゃんが売り物レベルで美味しいの作ってくれたりするし?」
 少女は厚かましい笑顔を作ると、当初の目的を忘れていないとばかりに彼女のもとへとすり寄ってくる。相手の態度に吐息をついた天使ではあるが、まあ自分が台所に立ってつまみ食いの被害に遭うのは毎度のことなので潔く諦めた。
「もう、おだてたところで今すぐにお菓子は作りませんわよ?」
「わかってまーす。今回甘くないんならお代わりしないもん、多分」
 多分、とはまた不吉な言葉である。六つ全てが彼の腹に収まるなんて最初から思っていないが、それでも二種類両方食べれる程度に残ってほしいものだとひっそり祈った彼女の背後で、オーブン用のタイマーが甲高い音を立ててパイの完成を知らせてくれた。
「おっ、もしかしてできたて一番乗り?」
 早々に辛めだと伝えたはずだが浮かれきった少女の声に、このままではいけない気がした天使の娘は重い嘆息とともに本格的な釘差しに取りかかる。
「それは約束次第ですわね」
「ん? 約束ってなんの?」
「お料理です。わたくしばかりは不公平ですもの。味見をしたいのでしたら、いつかフーカさんの手料理、わたくしにもご馳走してくださいね?」
 片目を瞑って両手を軽く合わせてやれば、何故だか少女は呻き声を漏らして居心地悪そうにそっと視線を伏せてしまった。その際、同性におねだりってどうなのなんてぼやきが聞こえた気がしたがつるっと無視して無言の圧力をかけ続ける天使の行動はそれなり効果的だったようだ。我に返った間を置いて、ツインテールが煩わしげに左右に揺れた。
「ああもうわかったから! アルティナちゃん、焦げちゃう前にパイ! 早く出して!!」
「その『わかった』は約束していただける意味で受け取ってよろしいのかしら?」
「それでいいから! パーイ!!」
 ここまでパイに執着を示されるとなると、やけ食い気味にたくさん食べられる可能性が生まれてしまったような気がしてならない。自らが招いた新たな危機にひっそり冷や汗を浮かべた天使は、しかしこれについては自業自得なので大人しくオーブンの蓋を開け、分厚いミトン越しでも熱いオーブン皿を取り出す。
 そうして本日、彼女の数時間を割いて作り上げられた結晶が、鍋敷きの上に鎮座した。
「おぉぉお……」
「……生地の膨らみ具合は問題ありませんわね。あまり水っぽくならずに済んで何よりですわ」
 まだ焼けたばかりのせいだろう。オイルサーディンが自らの脂で軽く揚げられているらしき小さな音を立てぷんと青魚特有の匂いが立つが、それに野菜とハーブとバターの香りが彩って生臭さは食欲をそそる香りへと鮮やかな変貌を遂げる。パイの表面は光を照り返さんばかりの煌めく黄金色にこんがりと火が通り、更には黒くまではならずとも茶色く濃淡まだらに焼き目の化粧が施され、誰であろうが思わず生唾を飲み込みかねない光景が広がっていた。何より細やかに層を重ね空気を含んだ生地が、軽やかなのに脂気を感じ、香ばしいのに柔らかい、一口のつもりがたちまちのうちに平らげてしまう、パイ独特の夢中になる食感がこれにはあると言わんばかりにふっくらと盛り上がり、少女は吸い寄せられるようにまだ熱いオーブン皿に手を伸ばした。が。
「もう、フーカさんたら。今食べると火傷しますわよ?」
 横から伸びたミトンがひょいひょいとパイを掴んではバスケットに放り投げ掴んでは放り投げの動作を繰り返し、食べ盛り育ち盛り――もう死んでおいて食べても育つものはなかろうなんて野暮な指摘をしてはいけない――少女の本能的な衝動をスマートに殺ぐ。
 出鼻を挫かれた少女は口の端から溢れ出そうになる唾液を虚しく飲み込むことで、ようやくパイが二種類ある点に気が付いた。もしかしてこれは大事なことかもしれないと閃いて、俄然真剣な面持ちで製作者に訊ねる。
「三角のと四角のは何が違うの?」
「三角は……確かマスタードで、長方形は黒胡椒です。甘いイワシよりはこちらのほうが自然でしょう?」
 生姜煮ならともかくパイにする分にはご尤だ。素早く納得してから長考した結果、少女は黒胡椒味のものを掴もうとするが、事前の指摘通り熱くてろくに触ることさえできやしない。掴もうとした途端に指が熱せられるものだから慌てて離して、けれどまた掴もうとするもやはり落とし、パイがぽんぽんと不自然に跳ねる。
「あつっ、あっちっ、っこ、これっ、なんかお皿とかフォークとかないの?」
「作ったわたくしとしては、紙ナプキンで掴んで……」
「そっか、ナプキン! って、ここお店でもないのにそんなのあったっけ?」
 少女はできたてのパイの魔力にすっかり魅了されてしまったらしく、うろうろと適当な引き出しを漁るもなかなか適切のものが見つからない。反対に無自覚にもそう仕向けてしまった天使は冷静なもので、台所を見渡して分厚いペーパータオルを一枚巻き取り、少女の肩を突付いて差し出した。
 厚手の紙を受け取って軽く相手に抱きつくほどの感謝を示したプリニーもどきの少女は、ようやく運命の恋人と再会を果たした女さながら瞳を潤ませて、まだ熱い長方形のパイを無事掴んで口元まで持ち上げると即座にかぶりつく。せいぜい焦らされた身の上として、自分から焦らすつもりはないらしい。そうして。
「ふぁっひっ!」
 熱い、と言いたいところだったがそれも無理だった。そのくらいは熱い訳だが、同じくらい。
「ふまっ、ふんまっ、ふぉへ、おいひ……っ」
「……フーカさん、食べるか喋るかどちらかにしてください」
 先程からの展開を考えれば自然こうなる予感はあったので、天使は目尻に涙を溜めて身悶えする少女にすかさずぬるめのお茶を手渡す。それを感謝の眼差しで受け取る余裕もなくすぐさま飲み干した少女は、大きく一息ついてからしみじみ呟いた。
「あー……熱かった。口の中火傷しそうになったの久しぶり」
「そんなに急いで食べる必要なんてありませんでしょうに。オーブンで焼くもの全てができたてであればあるほど美味しいと言うものでもありませんわよ?」
「いやいやできたてに出くわした以上はできたてで食べなきゃ逆に失礼じゃない! アルティナちゃん、料理上手いのになんでそれがわかんないのよ!」
「そこまで責められるようなことではないかと。……まあ、それほど味についてこだわらないから、ですかしらね?」
 平然と言い放った天使に、パイをもう三分の二近く食べた少女は信じられないものを見る目を彼女に向ける。浴びせた眼光の鋭さにようやく相手が後ずさったところで、何を作るにも味が安定しない元女子中学生のなり損ないプリニーは口周りについたパイくずを口に運びつつため息をついた。
「なんだかなー……。アルティナちゃんてば人生だいぶ損してるわよ。ここまで美味しいの作れる腕前があって、自分が食べる分には味にこだわらないとかさ」
「その辺りは、手品師が自分の手品に感動しないのと同じですわ。それにフーカさんだって、自分が作った料理より誰かが作ってくれた料理のほうが美味しく感じますでしょう?」
「うーん、わかるようなわかんないような……でもま、これだけは言えるわ!」
 残りのパイを口の中に放り込み、茶もくいっと飲んでから背筋を伸ばして人差し指を立てた少女の次の行動及び発言がなんとなく読めた彼女は、まだどうにか自分のほうに近いバスケットをそっと引き寄せる。と同時に青いジャージの袖が閃く。
「アルティナちゃん、も一個お代わり!」
「だめです」
 ジャージはあえなく宙を切り、まだ熱いパイは幸いにして製作者の庇い立てを受ける。反して強奪が失敗に終わった少女は、盛大に頬を膨らませてわかりやすく不満を示した。
「えぇ~。いいじゃん、六つもあるんだし~。どうせヴァルっちにあげるんだろうけど、あいつだってこんな半端な時間にそんないっぱい食べないって!」
 さらりと図星を突かれたものの、その手のからかいはパイ生地を作る時点であのプリニーから受けている。そのため天使の娘は隙を一分も見せないまま、毅然とバスケットを庇いつつ言い返した。
「一つは既にフーカさんのお腹の中に収まります。もう一つ食べられれば四つ、つまりパイがこの場で既に三分の一も減ることになりますわね。そんな調子でしたら台所から移動中もパイがなくなる可能性は極めて高くなりますの」
「けどでも美味しいんだもん! もう一個の味も気になるの!」
 駄々をこねる少女は、そのまま本格的にぶすっと不貞腐れると思いきや。高性能なレーダーでも持っているのか、急に首をドアの方向に捻った。どうやら視界の端で援軍を発見したようで、呆気に取られた天使を放置し廊下に身を乗り出して、馴れ馴れしく誰かに話しかける。――パイをこれ以上減らさないつもりだったのにそれがすぐさま打ち破られる予感は、彼女でなくてもこの場に居合わせるものがおれば誰しもが覚えたはずだ。
「……って言ってもさあ。ボク、魚は苦手だって言っただろ」
「じゃ端っこだけ食べてあとアタシにくれればいいわよ。アンタ数合わせみたいなもんだし」
「それ味見じゃなくないかもう……」
 今回に至ってはやる気がなさそうに台所に現れた少女の助っ人は、前回甘いパイを喜んで頬張ったが本人が公言している通り魚は嫌いな死神の少年だった。
 これはどう転がるものかと小さく唸った天使は、改めて現状に気付く。そう、あの二人が台所の出入り口を塞いでいるせいで、パイが五つのままここを脱出することは到底不可能になっていた。窓から逃げ出す手口はパイが落ちる可能性が高く、挟み撃ちをされれば更なる犠牲が出る。敵が一人のときならともかく、二人に増えて手中のものを狙われる環境は圧倒的に彼女の不利だ。
 そうして内心焦る獲物の心情を理解している顔で、少女がうふふと底意地の悪い笑顔を浮かべる。本人に自覚はなかろうが、なかなかどうして悪魔らしい、どころか悪魔の手本のような表情だった。
「さあ、アルティナちゃん。大人しく渡してくんなきゃ、ちょっと痛い目遭うことになるわよ~?」
「え。なにその物騒な発言。ボク味見に呼ばれたんじゃなかったの」
「味見役と言うよりは、フーカさんの手下役、でしょうか……」
「えぇぇえ~……。そんなのデスコ専用でいいじゃないかよも~」
 パイだけを求めているはずが妙にいやらしく両手を蠢かせる少女にげんなりとした少年は、乱暴な真似をしてまでバスケットの中身を強奪する気はまだないようだ。しかしやはり台所に立ち込めるバターたっぷりの香りにはそそられるものはあったようで、このまま天使の味方をするつもりはないとばかりの視線をちらと黄金色の物体に向ける。
「……けど、アルティナも大人なんだからさ。フーカの馬鹿に巻き込まれるより、穏便にことを済ませたほうがいいんじゃないか?」
「もう……エミーゼルさんたら。それでは結局フーカさんの手下として働いていらっしゃるじゃありませんか」
「ちょっとアルティナちゃん、エミーゼルの馬鹿発言スルーしないでよ!」
 少女の憤懣に満ちた指摘に彼女は曖昧な笑みを作ってそうでしたわねえと呟くが、本気でそう思っているはずがない。知らぬは本人くらいなものだが『地獄』党の党員たちにとってプリニーもどきの風祭フーカなる小娘のおつむが色々と残念なのは、党首の好物がイワシであることくらい広く、かつしっかりと認知されているのだから。
 まあそれは置いておくとして。少女相手にやや冷め気味でも人狼の執事よりはまだ幾らか温かみのある眼差しを送った少年は、瞬きをするとその部分だけきれいに切り取ったように話題を戻して自らの立場を明らかにする。
「て言うか、ボクだってフーカの手下になりたくてなった訳じゃないぞ。ただの利害の一致。アルティナの作ったそれを味見してみたいから、こっちにいるだけだ」
「それではこうしません? 次はエミーゼルさんのお好きなパイをお作りしますから、今回はフーカさんをどうにか宥める方針で……」
 懐柔策に出ようと試みた彼女は、少年が顔を輝かせた瞬間確かに手応えを得たのだが、続けてその口元が隣からの何かにひくと歪む様子を見届けさせられて、悪手を打ったと知らされる。焦っていたとは言え、よく考えてみればこの手のやり取りは相手の耳に入らないようにすべきだったし、ついでに言えばこの面子の中で一番聞き分けが悪く強情なのは言わずがなも享年十四の少女であって、穏やかで理性的な、言い換えれば押しに弱い天使と死神の少年でどうにか丸め込める相手ではとてもとても――。
「……ふぅう~ん。アルティナちゃんてばそう言うことしちゃうんだあ。ちょっと意外だったな~」
 そんな訳で、少女はがらりと態度を変えて笑みを浮かべた。一見すればあくまでにこやかに、声も普段に比べておっとりと間延びした調子で。普段の素行はともかく見目かたちに関してさしたる欠点を持たない少女がそんな態度を取れば、容易に騙される男も世の中にはいるのだろう。しかしいつものこの少女を知っている面々からすれば、こんな変化は危険信号でしかない。そして少年は、危険を察知しいつの間にか及び腰になっている自分に気付いてしまった。
「お、おい、フーカ?」
「けどま、それまでアタシらも色々作ってもらったもんね~。勿論アルティナちゃんも食べるし、みんな分けっこしたけどさ。今更エミーゼルのためになんか作ってもおかしくないわよね~」
「ふ、フーカさん? なんでしたら、またその次にあなたの……」
「別に無理しなくていいわよ。大体その次の機会も、次の次の機会もいつになるかわかんないし」
 何度も頷く少女の姿にいやな予感を覚えた天使もまた、自然と一歩後ずさる。地獄で彼らとそれなりに寝食をともにしてきた彼女は、身骨に染みるレベルで知っている。妙に聞き分けがいい少女なぞ少女ではない。これは振りだ。爆弾を投下するための準備期間だ。
 しかしこのままパイを渡して大人しく引き下がってくれるのだろうかと、冷静な部分が辛辣に訝る。ここまで怒っているならバスケットごと渡さないと鎮まらない気もするが、それでは本来食べてほしかったひとの口に入る前に食い散らかされる。それはさすがにいやだった。あんなに恥ずかしい自分を自覚させられて、けれどやはり彼のためにこれを作った身の上としては。
 そんな逡巡する桃色の三つ編みにちらと視線を送るのが、本人としてはいわゆる最終勧告であって。つまり対象は揺さぶりに応じるつもりはないと受け取った少女は、向日葵のような笑顔を保ったまま爆弾を投下する。
「いや~、エミーゼルってばほんっとアルティナちゃんに愛されてるわよね~」
「は?」
「アルティナちゃんがエミーゼルのためだけにお菓子作ってあげるって知ったら、ヴァルっちどんな反応するのかしらね~?」
「はぁあ!?」
 笑顔を保って放たれた少女の言葉に、さあっと音が聞こえるほど勢いでもって死神の少年の顔から血の気が引く。
 冗談ではない。そんな話をよりにもよって、あの疑うことを知らない吸血鬼が耳にすればどうなるか。殺されは――まだしないだろうが、針のむしろを味わうのは必須。常日頃から天使と主の関係を進展させまいと目論む執事も便乗して、自分たちに向けられた疑惑を払拭できなくされるのではないか。
 そんな胃が痛くなる未来を想定すれば、イワシのパイだの次の手作り菓子なぞ些細なもの。しかしそれさえ差し出せばまだその未来を回避できるはずだと、少年の脳が賢明な判断を下したところでツインテールがゆっくり反転する。
 少年の反応に十分な手応えを得たのだろう少女は余裕綽々のまま視線を上げて。
「んじゃ、今からアタシ、ヴァルっちのとこ行ってく…………」
 そのまま。
 何故だかぴたりと一時停止した。パントマイムの技能もなかろうに、セメントでもひっ被せれば精巧な石像に見えるのではなかろうかと思しき見事な凍りっぷりで。
「…………ふ、フーカ?」
 唐突にそうなった少女に、少年は当初声に出そうとしたのとはまた違った意味合いの慎重さで名を呼ぶ。しかしやはり無反応だった。
「……お、おいっ、フーカ!?」
「………………」
 ついでに足を踏み鳴らしてみても視線さえ寄越さない完璧な硬直に、一体何がこの倣岸不遜ななり損ないプリニーにこんな反応をさせたのか疑問を抱いた彼は、とりあえず相手と同じものを見ようと背面を振り返りかけたところでようやく復活した少女の声を耳にした。
「……るのはやっぱり止めておこうかな~」
「ええ、それがよろしいですわね」
 振り返った少年が目撃したのはいつも通り整った顔立ちの天使が深く頷く姿であって、その表情はやや険しいくらい。般若だの修羅だのを彷彿とさせる憤怒に満ちてはいない。
 しかし少女が何を見て硬直したのかを考えれば、この女が原因に違いあるまい。と言うか状況を考えれば絶対にそれしかない。
 阿呆が過ぎて恐いものなしの元人間がこうも簡単に意見を翻すなど、一体この顔はどんな恐ろしい変貌を遂げたのか。想像するだけで尿意さえ催すような寒気が背筋に走り、知りたいようでやはり知りたくないと少年はひっそり頭を振る。
「ですけど、エミーゼルさんにここまでご足労いただいてこのままお返しするのもどうかと思いますし……仕方ありませんわね」
 そんな少年の心のうちなどどうでもいいのか。またもペーパータオルを一巻き分取ってから三角形のパイを掴んだ天使は、小動物めいて震える緑のパーカーの眼前に平然とそれを差し出す。
「ぁ……ああ、ありがと……」
「どういたしまして」
 反射的に少年が温かいパイを受け取ると、天使は軽い会釈をしてからなんでもなさそうに分厚い布ナフキンを引き出しから取り出す。それをバスケットに被せてから、猫を彷彿とさせるしなやかな動作でぎこちない二人の間をすり抜けた。
「それでは、わたくしはこれで失礼しますわね。お二人ともご機嫌よう」
「う、うん……」
 結局のところ桃色の三つ編みを持つ天使は少年の視界から消えるまで普段通りであり続けた訳だが、また戻ってくる可能性を警戒してかプリニー帽の少女は硬直が再開したかのように大人しい。
 しかしそれも束の間のこと。あの天使のヒールの音が台所に残る二人の耳から完全に聞こえなくなると、少女はぷはっと大きく息を吸って復活した。軽く喘いでいる辺り、どうやら息まで止めていたようだ。
「んあーもー……。ほんっっきで焦ったぁああ~……」
「自業自得。あんな手口であいつを脅そうとするからだろ……ついでにボクまで巻き込もうとしやがって」
 ぐたりと冷蔵庫に寄りかかる少女に、少年は今度こそ情が一片も篭っていない冷たい一瞥をくれてやる。ついでにもらったパイにも視線を落とすが、こちらは生地で具材を包んでいるためなかの具材がわからない。とりあえずイワシが入っていることには間違いないらしいが、唾液をじわっと滲ませる香りが邪魔をして詳しくまではわからず仕舞い。
「ま、もらった以上は食べないとな……」
「いーなー……アルティナちゃんのパイ~」
 自分を連れてきた少女のじっとりとした羨望の視線を無視するどころか心持ち見せつけるようにして、少年はまだ温かいパイを一口頬張る。そうしてすかさず、成る程と納得させられた。
「……ん。んまい」
 簡素だが明確な賞賛に、作った張本人でもないはずの少女が何故か自慢気に鼻を鳴らす。
「でしょでしょ。だからアンタ、残り全部アタシに寄越しなさいよ」
「やだよ! どんな理屈だよそれ!」
「アタシのお陰でそれにありつけたんだからお礼に寄越せっつってんのよ!」
 それこそどんな理屈だとばかりに少年は大口を開けて、パイをもう一口。
 簡単な調理ではなかなか生臭さが取れないイワシはハーブとオイル漬けにしていたためだろう。青魚特有の強い旨味と柔らかく肉厚な食感だけをきれいに残し、これがまず単純に美味だった。しかしそれでもまだ多少は残る青臭さを、水分を蒸発させてそれぞれ味が濃くなりつつ心地良い歯応えを持つ野菜とハーブの風味が見事に補う。ミニトマトの酸味に加えて程良く鼻に抜けるマスタードの後味は、オイルサーディンを更にパイで包んだ脂っ気の塊のはずのこの一品にさっぱりとした辛みを与えていた。それでも悪くはない。大人向けなのは否定しないが、味覚が敏感な子どもの彼とてこれは平気で、どころか喜んで食べられた。
「……あいつもこう言うのを差し出してくるんなら、別に断らないんだけどなあ」
 生のイワシを貪り食い、それだけでなく他者にも同じような食事方法を強制するここの党首を思い出した少年は、いまだ恨めしそうな視線を送ってくる少女の嘲笑を聞く。生憎と、そちらを見る気はまるでない。
「ヴァルっちがそんな工夫するはずないじゃん。つーかあいつだとパイ作るって言っても絶対イワシを丸々パイ生地で包むとかそんなのよ」
「……うーわー。何がいやって、想像つくのがやだなあそれ……」
 ついでにその完成体は青魚臭い油とバターの油でどこもかしこもぬめっていそうだと思えば、想像だけでも胸焼けを起こしかねない。
 慌てて意識を現実に戻した少年は折りよく眼下に茶器を発見し、ポッドの中のお茶をカップに注ぐ。天使が去り際に用意してくれたのだろうか、口に入れた瞬間は爽やかでもまろやかに染み入っていく苦みは、咥内の脂っぽさを優しく洗い流してくれる。しかし多少口元が急に洗い流されて脂っ気が欲しくなるからまたパイを口に運び、またまた茶を啜る。こうしてどちらも進む永久期間ができあがる寸法のようだ。
「はぁ……。こう言うまともに気を配った間食、地獄に来て久々に食べた気がする……」
 指先や口の周りに付着するパイくずを軽く叩き落としながら無事完食した少年の姿に、最後の最後まで望みは捨てなかったのか少女が改めて頬を膨らませる。
「……ほんとにあんたアタシに一口も寄越さず食べやがったわね。魚嫌いなくせに」
「お前の分のパイの余りでもくれたら考えてたよ。……で、ちょっと聞きたいんだけどさ」
 暫く躊躇した結果、やはり最後に咥内をすすぐことにした少年はお茶を煽ると、恨みがましい視線をこちらに送る少女におずおずと問いかける。
「お前があのとき固まってたのって、やっぱりアルティナの顔、見て、……だよな?」
「……あー。まあ、ね」
 反らされた視線のぎこちなさにまあね、どころの話ではなく大正解だと理解した少年は、震える心地でお茶をもう一杯。今度は喉の渇きを癒すのではなく、体を温めるためだがそれも正直意味はないほど震えていた。
「や、やっぱり、あいつ……怒ったらとんでもなく怖いのか……」
 あの普段は穏やかな天使でも、一度怒らせると逆鱗に触れる、の言葉通り落雷かそれに近い衝撃を与えられそうな予感に怯える少年の態度をどう捉えたのか。はあ、と語尾が上がり気味の少女の声が彼の妄想をすっぱり一蹴。
「アルティナちゃんキレたら超怖いのは確かだけど、違うわよ」
「違う……? ってお前、キレさせたことあるのかよ」
「うん、下に履いてるのブルマなのかパンツなのか確かめようとしたらさ……」
「それはキレて当然だな。てゆーかお前同性相手にそんなことするなよ!」
「いいじゃんアタシの夢の中なんだし、細かいことは気にしないの。……とりあえず、さっきのは怒ってなかったわよ。むしろその逆?」
 怒る、の、逆とは。
 考えていたこととまるで正反対の方向を急に指し示され、少年の目が点になる。そのくらい意外な発言だったから、彼は瞬時にその単純な正解が思いつけず、数秒ののちにようやく思考を巡らせる。
「……逆ってことは。泣くとか、悲しむとか?」
「そそ、そっちそっち」
 平気な顔で肯定した少女はふて腐れるのにも飽きたのか、立ち上がるととある冷蔵庫の戸を開けてなかを物色し始める。どうせ目当てのものはチョコレートかそれに類する菓子だと知っている少年は、それをさして気に留めず戸惑い混じりに呟いた。
「でもお前、あいつが悲しそうな顔する程度で自制するような心の持ち主じゃないだろ?」
「それどう言う意味よ!」
 冷蔵庫の戸を閉めると同時に吠える少女の手にはやはり、『黒い稲妻』だったかそんな仰々しい名を冠するチョコレート菓子が握られていた。この自称美少女のなり損ないプリニーは菓子を口にすればすぐ機嫌が良くなることも知っている少年は、別段宥める気もなく肩を竦めて疑問に応じる。
「そのままの意味だよ。けど悲しそうな顔って言っても、アルティナ、あのとき泣いてなかったじゃないか」
「そうだけど……え~と、なんて言うの?」
 ビニール袋をよいしょと横に裂いた少女は、クッキークランチチョコレート掛けの菓子を頬張りながらつい先程の記憶を探るように小首を傾げて言葉を選ぶ間を置いた。つい数分前パイを食べたはずだろうにまた甘いものを食べるその堪え性のなさは、女として致命的な気もするがここは他人らしく受け流そう。
「あのときのアルティナちゃんは、……そうね。すんごい可愛い子猫を拾って育ててたら、ちょっと目を離した隙にいなくなって、どこかなーって探してたら向こうから突進してくるダンプカーのタイヤの……」
「言うな言うなっ! そこから先はぜっったい言うな!!」
 自分だってものを食べているときにその喩えはどうなんだ。そんな思いを込めて慌てて手で制する少年に、わかっているとでも言いたげに少女が眉をしかめる。自分で喩えて自分で気分が悪くなっていそうだが、ならどうしてそんな後気味の悪い表現を用いたのか。それなり長い付き合いなのに相変わらず理解不能だとばかりの吐息がしみじみ漏れる。
「……ま、そんな感じで。しかもそれをモロに見ちゃいましたーみたいな顔してたの」
 だから本気でかなり焦ったのよアタシ、と付け足してチョコレートを貪る少女は、現在焦った片鱗など一つも残っていない。このダンプカーの運転手にとって、子猫の育ての親はそれなり世話になっている親しい人物だろうにここまで反省の素振りがなくていいものか。
 だがそんな現代っ子のドライさを差し引いても、正直なところ、少年はあまり納得できなかった。
「……あいつ、アルティナが。本当に?」
「それ以外の誰がいるってのよ」
 物わかりが悪いとばかりに嘲る視線を向けられ、少年は軽く眉をしかめる。彼とてそこまで頭が回らない訳ではない。少なくとも眼前の少女より理解力はあるので、そう簡単に納得できない理由をやや語気を強めて説明する。
「ボクが信じられないのは……、そりゃお前のその切り替えの早さとかもあるけど、あいつがお前の脅し程度で、そこまで言われるような顔をするのかってことだよ。大体あいつ、ここを出ていったときはいつも通りだったじゃないか」
「ハッ、これだからお子ちゃまは……」
「どう言う意味だよそれ?」
 大袈裟に肩を竦めた少女の表情はいかにもこちらを馬鹿にしているふうで、少年はますます腹立たしさを覚えながら一応反論を待つ。しかし彼はそも愛だの恋だのに馴染みが薄いため、続く少女のしみじみとした言葉を聞いたところで、あまり大きな効果は得られなかった。
「アルティナちゃんはそんだけヴァルっちラブなんだってことよ。ついでにあそこまでショック受けるってことは、自分のこと信じてもらえる自信は全然ないって感じ? 普段はあんなに夫婦夫婦してんのに、ほんっと面倒な性格してるわよね~」
「……はあ」
「アタシとしてはちょっとした意地悪のつもりだったんだけど、あんな顔されたらさすがに罪悪感くらい沸くわよ。同じ女の子として、健気な乙女心をその気もないのに木っ端微塵とか後味悪すぎでしょ」
 それだけならまだ格好がついたはずなのに、大体そんなことしたらもうお菓子作ってもらえなくなるし、と呟く辺り、少女は完全に悪魔の利己主義に染まりきっているようだ。そんな調子では無理から人間界に戻ったところでもとの生活は無理だろうなと思った少年は、いまだ釈然としない気分でお茶を一息。愛を平気で受け入れる元人間のご高説を承っても、彼が抱いた疑問の直接的な答えにはなっていないため吐き出した息は不安めく。
 しかしそのまま頭の中を落ち着かせてみると、あの天使はこのミーハーな少女を止める最も効果な方法を頭の中から弾き出し、そう思いこませるほどの迫真の演技をしてみせたのではないかとの案が閃いた。もとよりあの天使は土壇場を潜った数が多いだけに咄嗟の判断で失敗したことはないし、大人だから自分と違って精神的な余裕もある。自分が呆けているときにあれこれと巧く立ち回る方法を思い立った可能性もなくはない。何よりそう考えれば、去っていくときの余裕綽々とした態度もそれで説明がつくのだ。
 どうせ今もチョコレートを貪っている娘にそれを言ったところで反論しか返ってこないだろうが、個人的にその案にそれなりの説得力を見出した少年は、色々と複雑な心境になりつつもとりあえずそれを落としどころにしてお茶をもう一杯。今度吐き出した息もまたどこか情けないが、こちらは女なる生き物への恐怖が籠もっていたとかいないとか。

◇◆◇

 さて実際のところはと言うと、少年少女はそれぞれ及第点をもらえる程度に正しかった。
 少女の脅しに対し、彼女の心に修復不可能なまでのひびが入りかけ、目の前が真っ暗になったのは紛れもない事実。呆れ気味の指摘を受けたように彼女は相手に自分を信じてもらえるなんてちっとも思っていないし、一瞬で脅迫者を制する方法を冷静に考えられるほどの余裕はなかった。
 しかしそれからすぐは少年の予想通り、培われた逞しさから瞬時に立ち直ったものの、結局のところ現状維持を貫くのが得策ではないかと悟り、やすりをかけた硝子玉さながら曇った瞳をかっ開いた虚ろな表情そのままにして、少女の企みを見事に潰すことに成功。
 だから少女が真剣に危機感を抱いたのは間違いでもなく、少年がその割には随分と態度に余裕を持って台所を出て行ったことを訝るのも間違いでもない。しかしどちらがより正解に近いかを問われれば、プリニー帽を被ったほうになるだろう。
 何故ならば、台所を出て目当ての人物の部屋へ向かっているはずの天使は現在廊下の片隅にうずくまり、猛烈に後悔していたのだから。
 パイのために用意したお茶一式も紙ナフキンも持たないまま台所から出てしまったことに気付いたのはあれから数分後。今にして思えば布ナフキンを一枚どうにか持ち出せたのは僥倖だったが、やはり心もとないため取りに戻る選択肢も思い浮かべたのだが、まだあの二人がいれば猛烈に気まずい。けれどお茶も紙ナフキンも持たないままバスケットだけ持ってあの書類だらけの部屋に訪れるなんて、相手の立場を考えればまた気まずい。
 先程自分の詰めの甘さを思い知らされつつもどうにか危機を乗り越えはしたが、それから十分も経たない今にして、彼女は真剣にパイを渡すのを断念しかけた。多忙な青年に差し入れをして立つ鳥跡を濁さずのまま退室できるならともかく、そのひとの部下やプリニーに迷惑をかけるのはどうにも心苦しい。
 ならばもう自分ひとりでこれらを食べてしまうかと吐息をついたところで、彼女はふと何か重大なヒントを見逃したような気がして顔を上げ、過去の思考をなぞっていく作業に取りかかる。
 それほど時間をかけることなく、それはプリニー、のところで止まった。そう、何も彼女が差し入れを直々に渡しに行く必要はない。彼らに折りを見てパイを渡すよう頼めばいいのだ。
 確かに一般的なプリニーはおおよそだらしなく、悪魔らしい意味でいい加減な性格をしているものが大半だが、ことプリニー教育係に対する彼らの姿勢は勤勉、忠実そのものと表現できる。そのひとに渡してほしいと言伝てればいくら彼らの主食であるイワシを使った食べ物でもつまみ食いは避けるだろうし、気を利かせてお茶や紙ナフキンを添付してくれるものもいるかもしれない。
 そうと決まれば話は早い。うずくまったときとはまるで正反対に目元を力強くして立ち上がった彼女は、早々に執務室を目指して歩き出す。――感想はまたいずれ聞かせてもらえばいい。内容がイワシをもっと多くすべきだの辛かっただの、食べてもらえたとわかる一言であれば、きっとあの時間の報酬としてはお釣りがくるほど満足できる。
 と、彼女としては現状最良に近い落としどころを見つけて喜んでいたのだが、タイミングの問題だろうか。それともこれもまた天啓の範疇内か。天使が次の角を越えてようやく執務室に辿り着くところで、目的地の扉が開き、書類を山と抱えたプリニーが三匹出てくる光景に出くわした。
 ごく当たり前の光景だったのに彼らからもまた忙しそうな雰囲気を感じ取ると、退屈が高じて軽食を作っていた我が身を省み気後れしたのか。ふと我に返れば彼女はバスケットを持ったまま角に隠れており、どうしてそんなことをしてしまったのか自分で自分の行動に疑問を抱きながら一歩足をもとに戻そうとしたのだが。
「……で。骨煎餅はどうした」
 聞き慣れた男性の声に、彼女は慌てて戻しかけた足をまた角に隠す。
 ここで人狼の青年と顔を合わせる訳にはいかなかった。何も手にしていないなら普段通りそれなり舌戦を楽しんだのだが、今の彼女はあからさまな弱点を手にしているのだ。それを見逃す彼ではないだろうし、あの方に媚びを売る気かとか浅ましいこと目論むなどと指摘されれば一切反論できないので、ここで己の身を晒せば一方的な負けとなる。そんな勝負は常に寛容たれと心がけている彼女でさえも遺恨が残るため、息を殺して必死にやり過ごす。
「あの、今日はオレ、骨煎餅は用意していないッス。なんでも、ベリトさんが閣下に新しいイワシ料理を味見してもらいたいとのことなので、お茶だけ……」
「ほう?」
 ベリトが誰なのかは知らないが、それはまた時期が悪いものだと盗み聞きの立場にある彼女はひっそり落胆する。この屋敷のお抱え料理人ならこの屋敷の主の好みも理解しているだろうし、それだけ信頼も大きかろう。そんな悪魔の新作と自分の凡庸な味付けのパイとでは、どちらがあの吸血鬼の舌に馴染むか考えるまでもない。
 ここに来て天啓はあまり当てにならないらしいと頭の中で嘆息した彼女は、しかし一応あの人狼が立ち去るまでこのまま隠れ潜む気でいるため足の位置も変えずに会話を聞く。
「それは殊勝な心構えだと褒めてやりたいところだが、その新作とやらが小休憩の時間に遅れては意味がない。特に空腹の閣下をお待たせするなど以ての外。……態度によっては再教育も考えねばならん」
「……そうッスね。ベリトさんに、遅刻したんで恥ずかしい過去をフェンリッヒ様とヴァルバトーゼ様に暴露するよう伝えておくッス」
 どうやらベリトなる悪魔はプリニーらしい。やはりイワシを主食としているため、こちらもイワシを好む吸血鬼の嗜好も熟知しているのだろう。
 ますます自分がパイを作ったタイミングが悪いと思い知らされて、最早彼女の精神状態は落胆を通り越しいっそ憂鬱と表現できるほど落ち込んだ。が、そこまで弱っている天使をこれ幸いと攻撃したがるはずであろう人狼は風上にいたため不幸にもそれに気付かず、茶出し役のプリニーの模範的対応に軽く頷く。
「よかろう。それと、この程度のごま擦りでは給金には影響せんと伝えておけ。……ああ、あともう一つ」
「なんッスか、フェンリッヒ様?」
 かつりと、石畳の廊下に靴音が響く。プリニーたちの足音とは全く異なる質量で聞こえるそれは執事だろう。どうやら遅刻したプリニーが訪れるまで、この青年も待つ気はないらしい。随分と多忙らしいのは主と同じか。
「人間の血は絶対に入れるな、もし入っているなら即刻破棄しろと伝えておけ。閣下の口にするものにそんな真似をしていいのは、世界でこのオレただ一人なのだからな」
「………………」
「あ、アイアイサーッス!」
 それはそれは力強い宣言に、彼女は呆れを通り越し生温かくも微笑ましい気分になりつつ足音が完全に遠ざかるのを待つ。まああの人狼があんな調子なのは今に始まったことではないのでそこはさらりと受け流し、慎重に慎重を重ねて、足音が完全に聞こえなくなってからもう三分ほどの間を置いてようやく移動しようとすると、不意に後ろから声をかけられた。
「お、アルティナさんじゃないッスか~」
「きゃっ」
 いつの間にそこにいたのやら。先程執事と会話していたらしいプリニーがこちらを覗き込んでいて、彼女は自らの激しい心音を聞きながらもどうにか頭を下げる。
「お、お疲れ様ですプリニーさん……」
「いやいやそちらこそお疲れ様ッスよ」
「はい?」
 驚かれもせずこんな時間帯にこんなところいる理由も聞かれず丁寧に頭を下げられて目を瞬いた天使に、茶出し役のプリニーもまた顔を上げてバスケットに一旦視線をやってから目を瞬かせた。
「あれ。ベリトさんが作ったパイ、わざわざ持ってきてくれたんスよね? そう聞いてたんッスけど……」
「は、はい? そうなんですか?」
 随分と間抜けな返事をしてしまってから、天使の娘はふととある考えを過ぎらせる。対するプリニーは彼女にそんな返事を寄越されるとは思ってもいなかったと見えて、混乱気味に前足で頭を掻いていたがそれに構っている余裕はなかった。
「……あの、そのベリトさんと仰る方は、もしかして食品管理をなされているプリニーさんですか?」
 おずおずとした質問に、戸惑いをいまだ残したプリニーは同じくおずおずと首を動かし。
「そうッスよ。あとあの人、超がつくほどの女好きッス。今はナンパできる容姿じゃないッスけど、昔はぶいぶい言わせてたらしいッスね~」
「……………そ、それは」
 つまりあの元調理師のプリニーが、自分の作ったパイを自分が彼に届けても自然な展開を仕掛けたと知り、彼女はどうとも表現に難しい気持ちになって思い切り息を吐き出した。
 常日頃から殺意やら敵意やら物騒な感情には縁がない彼女をして、杞憂だった先の自分への虚しさと羞恥と余計な世話をしてくれるなと願うあまりにあのプリニーを発見次第天高く投げたい気持ちになったが、当事者が姿を見せていないならそれもできそうにない。大体彼女はプリニーの見分け自体が得意ではないので、今後そんな情熱を燃やしたところで上手く逃げおおせられる予感もする。
 しかしここは自分の反応に更なる混乱を覚えているらしきプリニーを宥めてやるのが先決だと冷静に判断するだけの余裕をどうにか取り戻した彼女は、薄っぺらくも自然に見えるはずの笑顔を浮かべて見せた。
「……ではそうなりますわね。わたくし、台所に行ったら急に名前の知らないプリニーさんにこれを押しつけられて、困っていたところでしたの」
「あ、そうだったんスか……?」
 事情を聞かされ安堵の息を小さく吐くプリニーに、そうなんですと頷いた彼女は以降ごくごく自然な態度を装って、バスケットを指差し微笑む。
「ですけれど、丁度吸血鬼さんにお話があるところでしたから良かったですわ。これ、わたくしがあの方にお渡ししてもよろしくて?」
「そこは全然問題ないッス。あ、けどフェンリッヒ様に見つかったらヤバいッスから、用事が終わったらすぐに帰ったほうがいいッスよ」
「ええ、勿論。そこは了承しています」
 こちらとしてもあの執務室で侃々諤々の舌戦は自粛したいと肩を竦め、仕事が残っているらしいプリニーと別れてから彼女はついに曲がり角から出て、ようやく執務室の扉の前に立つ。
 なるべく意識しないようにと心がけて、廊下を出てからここに着くまで緊張する暇がなかったためそんな気分にはついぞならなかったのに。今更おかしなくらい鼓動が高鳴ってしまい、そんな自分に苦笑が滲む。けれどなんてことはない。お茶はあちらで用意しているようだし、ここで自分はバスケットを渡すだけなのだと言い聞かせれば次第に体も解れてくる。
 咳払いをしてからノックを軽くもスタッカートを利かせて二回。意味があるのかないのか曖昧な控えの間を挟んだ執務室に、その音はきっちり届いたらしい。
「誰だ」
 暫くの間を置き扉の奥から小さくともこの世で一番好きな声を耳にして、彼女はうっかり口元を緩めてしまいながらいつも通りの声を意識し話しかける。
「わたくしです。……少しだけ、よろしいかしら」
「……ん。ああ、構わんが」
 自分が来るとは思っていなかったらしい声から軽い動揺の色が聞き取れて、そんな素直な彼にくすぐったさを感じ取りながらドアノブに手をかける。
 これでようやく目的達成。ここに来るまで色々あったが、それらの出来事をそのうち時間に余裕が生まれた彼に話すのもきっと悪くない。
 けれど今は一言。バスケットの中身を受け取ってもらって、一口食べて、一言もらえれば。それで今日一日は満足しようと、彼女は胸に宿る温かい心地に身を委ねつつそっと扉を開けた。







後書き
 飯もの調理ものを書きたくて書きまし、た。三大欲求にまつわる話を書くのはたのちい!(睡眠欲以外) あとフーデス編で判明した閣下チョコ嫌いなのかーそうなのかー(にたにた)ネタ。
 ちなみにベリトはうちの初期プリニー(現アチャ子)の名前。つかパイパイ書くと(おっ)パイって書きたくなって仕方ないとかそんな酷い人間性の持ち主で本当に申し訳ない。
関連記事
スポンサーサイト
[↑]
Copyright (c) 掃き溜め All Rights Reserved.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。