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がんばれ男の子

2011/07/06

 悪魔の多くは棺で眠る。人ならぬ身であればこそ、人の死体を入れるそこで眠る文化であるのか、それとも箱で眠る行為を人間たちが死人のようだと恐れたからこそ開けた寝床を作ったのか。どちらが先かは定かではない。だがまあ概ね羽が邪魔な人型の悪魔でもない限り棺こそが悪魔にとっては寝床であり、だからこそ吸血鬼も眠りを欲する際はそこで眠る。
 彼の体にすっぽり――とはいかずややも広く深い棺は、悪魔でさえもその名を恐れた『暴君』と彼が呼ばれていた時代からの品。愛用とは断言せずとも、長きに渡る寝床となれば自然と愛着は湧いて出るもの。
 執事の気遣いか彼の趣向か、古い瑪瑙の石棺は品の良い螺鈿細工が施されており、内部も負けず劣らず美しい。彼の外套の裏地と同じ血よりも深い真紅の絹が均一に張られたそこは、死者どころか生者でさえも羨みかねない、胎内に収まる嬰児のような深き眠りを誘う空間だった。
 しかし嬰児がときおり外部からの刺激に中から腹を蹴るように、彼もまた外部に違和感を持てば眠りからも覚めるもの。誰かが近付く感覚があって、彼はもう起床の時刻かととろりと深い暗闇の中、浅い眠りにたゆたうまま思う。それにしては全身が眠りを欲していて、昨晩はそれほど肉体を酷使したつもりがないためどういうことだと疑問を抱いた瞬間だった。
「んむうっ!?」
「……ん?」
 棺の蓋が開いた途端に大きなものが放り込まれ、ただちに蓋が閉められた。少なくとも彼の身長程度に大きいそれは相応に重みがあり、彼の身体の上を芋虫のようにのたうちもがく。
 吸血鬼にしては小柄で華奢な体型の自覚はあるものの胆力はそれ以上にあると自負する彼は、眠気を妨げた自分の上で暴れるものに手を伸ばし、何が落ちてきたのか確認しようとしたのだが、動かそうとした手に場違いな柔らかさを感じ取る。
「んんっ!」
「……ぅん?」
 巨大な芋虫もどきが放り込まれたときから彼の手はそれのどこかに触れていたらしく、相手がびくりと跳ねた。どこかであるかはいまだ視界がぼやけている彼にはわからない。人間より夜目に慣れているとは言え、一切の光なき寝床ではいかな悪魔でも何が起こっているのかは直ちに把握できないし、それに何より眠いのだ。この物体は眠気を吹き飛ばす価値があるのかと、まどろむ彼の頭の隅ではそんな疑念さえ沸き上がる。
 だが芋虫もどき――何か紐めいたものを巻いているらしい。彼の腕や胴にそれらしい感触があった――の重みは無視できず、接触面積も多いものだから無視して眠れそうにはない。面倒なことこの上ないが、彼はようやく起きる気になって口を開き、ふと、甘い芳香を嗅ぎ取った。
 知っている匂いだ。女特有の、芳しいと表現してもいいくらいのものである。だが何故ここでこの香りを思い出すのかと、ようやく焦点があった目を使うためゆっくりと顎を引いて全容を視界で把握し、ようとしたところで彼は硬直した。全身のときが止まったと表現してもいいくらいには驚いた。
 彼の視界にまず飛び込んできたのは頭だった。自分の胸にもたれかかる、棺の中の闇においても鮮やかな桃色は彼がよくよく知っている女のもの。その次に飛び込んできたのは頭よりも更に下、女性として発達すれば突き出らざる終えない出っ張りの、白いワイシャツに窮屈そうに収められた柔肉二つとそれを上下左右で縫うようにして何故か、赤い紐が拘束しているのが目に入り。以降はよく見えない。いや、見えたかもしれないが下に視線がいくよりもやはり柔らかそうなのが自分の腹に潰れているのに目が惹きつけられていやそんなことよりも。
「……あ、アル、ティナ、かお前!?」
「んっ!」
 相手の顔がすぐ下にあるのに大声を発した彼は、叫んだ直後に相手に肩を竦められる。竦められて柔らかいものもまた震えたが、今の彼にはそこまで気にしていられる余裕はなかった。長年思慕していた相手から、こんな時間にこんな状況で密着した体勢でいられて動揺するのは人も悪魔も変わらない。
「こっ、こんなところで一体何をしている!? もしやあれか、寝惚けたか!? それにしたとしても何故俺の棺なんぞに……!」
「んっ、んうむぅふっ!」
 くぐもった声が違います、とでも言いたげに彼の耳に入った途端、首がくいと彼のほうを向く。彼女の顔を至近距離に捉え、彼は赤面するよりも先に絶句した。何故と言ってその花のかんばせと賞するに相応しい彼女の鼻から下に、他者の手によるものだろう布で覆われていたからだ。まあ平たく言って猿轡を噛まされていたのだが、それにしたって誰がそんな格好を予想するものか。
「……なっ、何をして!? いや、され……、された側か!?」
 激しく頷かれ、ようやく彼は正しく現状を認識した。さっき棺に放り込まれた巨大な芋虫は彼女であって、その彼女は猿轡を噛まされた挙句に全身、身動きが取れないように拘束されている、と。何故。何故。自分の腹に彼女の胸が来ると言うことは、転じて彼女の腹に自分の腰が触れると言うことでそれは位置的にかなり危険なのに。いや危険と言って何が起こるわけでもないがまあ心情として彼はそんな危機感を抱いた訳だ。
「と……とりあえず、それは、お前は……あれか、身動きが、取れんのだな?」
 またも肯定される。見ればわかるだろうと第三者は責めるやもしれないが、しかし今の彼には重要な問題であり、放り込まれた上に拘束された彼女にとってもまた誤解されてはならない問題だった。このふたりは互いに互いを悪く思っていないけれど、それにしたってこの状態はあんまりにもあんまりだからだ。
 とにかく自らは拘束を受けておらず、また安易な発想だが逃げ場は残されている彼は、すぐさまその案に飛びつけるだけの冷静さは残っていた。長らく触れていればそれも惜しくなるやもしれないが、驚き戸惑いが大きい今ならまだ間に合う。
「……よし。ではまず俺が一旦外に出て、お、っ、くっ……」
「ん……?」
 彼は彼女の下敷きになっていないほうの手を掲げ、棺の蓋を内側から開けようとする。だが重心が傾くことで彼女の胸が更に潰れ、ワイシャツ一枚を隔てたものの存在を感じずにはいられない。甘かろう柔かろう、たわわに実る芳醇な肉の果実の誘惑だ。
「……ぞ……?」
 それもどうにか食い縛って耐えた彼に待ち受けていたのは、あまりにも残酷な手応えであった。普段は片手でも動かせるはずの棺の蓋が、どれだけ力を籠めても動かないのだ。びくりとはするようだが、響く音から察するに外から鍵がかけてある。いや確かに棺にはそんな部分はあったが、何度も使っていない。しかし今はかかっている。つまり。
「……と、閉じ込められただと!?」
「んううぅうぅ!?」
 彼女のくぐもった驚愕の声が響いたのちに、本人たちは到って真面目だが間抜けな印象が拭えない沈黙が訪れる。一人は追い詰められた心境で静かに混乱しており、もう一人はやはりこれはもしやそう言うことかと誰とも知れぬ犯人の狙いに親指の爪を噛みたい気分になっていた。
 が、閉じ込められたふたりは互いに読心術を会得していない。それぞれ我に返ると、相手は自分と同じことを考えているのだろうと勘違いをしてまず彼は首を激しく左右に振る。
「おおおお落ち着けアルティナ! な、何もここから永久に出られないと言うことではない! 朝になれば確実に、フェンリッヒが異変を察して鍵を探し出す!!」
「……ん、うぅ……」
 彼女はそんなことわかりきっている。だからやや眉を歪めながらも小さく頷くと、続いてゆっくりとした動作で彼に見せつけるよう首を振った。落ち着いた対応を取られた彼は、その仕草にこそどうにか混乱から抜け出せたが、彼女の意図が何であるのかすぐには察せず目を瞬く。
「お前は何を……そう、か。それを取れと、と言いたいのだな?」
「んぅ」
 顎を短く引く彼女に、彼は下敷きになっていないほうの手を使って桃色の後頭部を狙うがなかなかに難しい。恥ずかしさを堪えながら胸に載った頭を抱くように手を回せば、片手でもどうにか結び目には到達する。のはいいが、彼女の口を拘束している布は固結びで結ばれているらしい。片手では解きにくいと知らされて、彼は遠慮がちに言葉を選ぶ。
「……両手を使いたいのだが、その……平気、か?」
「ん……」
 彼女の腰から下の辺りが揺さぶられ、その感覚が彼の脚にまで伝わってくる。まだ眠気で朦朧としていたときに手で揉んでしまった柔らかい箇所について、彼はあえて想像すまいと己に言い聞かせるとゆっくりと手を動かした、が。
「ぐっ……」
 彼女の下敷きとなっていた指が、微かに動くだけでしっとりとした感触の肌に触れる。彼はイワシのことだけをひたすら考えるよう自分に囁き続けるも、触覚とは真実残酷なもの。手だけでなく腕までもが、他者の温かみと、他者の身体に触れることで相手の身体が微かに強張る感覚でさえも感じ取ってしまう。それが何を伝えてくるのかと言えば――さて。
「……んぅう。んっんん……」
 早く、一気に。彼女の声のイントネーションはそう告げるも、それができれば今の彼はこんなに苦労していない。大体、女体がこうも柔らかいのがいけない。いや女体自体に罪はない。成長すればそうなってしまう自然の摂理に逆らおうとするのは八つ当たりに近い。だがその文句を封じてしまえば、彼はどうして自分が女体の下敷きになった腕を引っこ抜くことにこうも気合いを必要としているのかが不明になる訳で。いや、不明ではなく真っ当な理由があるのだがそれは現時点で追求すべきではない。
 ともかく。ともかく。歯を食い縛り、ゆっくりと上げていけばいくほど抵抗なく自分の腕なり指なりを受け入れかねない女の肌に猛烈な吸引力を感じながらも、それでもどうにか彼は、勇気なのか意地なのか理性なのか見当がつかないものを振り絞って片手を解放した。
「ぐ……っ、くぅぅぅ、……う!」
 その反動で拘束された女体がまたも揺れたが、そんなことより彼は自分の片手が無事ほの温かい箇所から抜け出せたことに大きな達成感と安堵――と、本当に小さく、微かではあるが無念――で胸いっぱいになり大きく脱力する。
「ふふ、ふ……誇り高き悪魔たる俺の力を侮るな!」
 誰にともなくそんな勝利の声を高らかに告げるも、唯一この場でその発言を耳にした天使は怪訝な顔でいた。ろくな反応は得られないと知り、彼はやや肩透かしを喰らった気分になりながらもようやくその頭に両手を回して猿轡の解体に取りかかる。口を拘束するだけなのにしっかり結ばれているようで、割合と難儀はしたがそれでもすぐに解けた。
 顔に跡が付かないようにとの配慮からか。彼女の口を拘束していたのは変哲もない布で、広げればタオルらしい手触りと形状をしていた。何故か磯臭い。
「……ありがとうございます」
 ようやく口が利けるようになった彼女はふうと大きく息を吐く。ところどころ湿った匂いのきついタオルを自分たちの足下へと放り投げた彼はそれを受け流すと、両腕をもとの姿勢に戻せないことに今更気付きながらもなんとか訊ねた。
「お前は、その、どうしてそうなった?」
「お風呂から上がったところで襲われてましたの。気付いたらここに放り投げられて……喋れもしないし、身動きも取れないし、一体何事かと思いましたわ」
 声は苛立っているが、怒りの対象は彼ではあるまい。彼女にはそれくらいの分別がついていることくらい、彼も理解していた。
「我が屋敷で襲われたとは物騒な……。他に体に異常はないか」
 単純に心配して俯いた彼は、そのまま不意に自分の胸に頬を載せた彼女の表情を見てしまう。さしたる心構えもないせいで、完全に油断していた。
「ええ、ご心配なく。……縄が色々食い込んで痛い以外は平気ですわ」
 ほろ苦くともその顔から浮かぶ彼女の笑みは、こんな状況であってもいつも通り彼の目には眩しい。しかもまさしく目と鼻の先ほどの至近距離でそれを見てしまい、しかもまだ胸が自分の腹に埋れているままだと自覚して、彼は今更過ぎるほど今更に自分の鼓動が高鳴ってしまうのをどうにか誤魔化そうとしながら滑稽なほど頭を上へそらして空笑いをした。
「そ、そうかそうかそうか! それは、……まあ、良かった、な?」
「このままわたくしたちに何も起きなければ、の話ですけれどね……」
 そうであったと彼は我に返る。他の女悪魔ならともかく、よりにもよって彼女相手にこんな状況で一晩無事に過ごすと言うのはいかに彼でも難しい。いやちょっと待て。何も、とは何だ。聖女のように清らかであった娘が自ら想定することか、と彼は目を驚きに見開くが、彼女はその反応をこそ想定していたのか。ややも恥ずかしげに頬を染め、口先を軽く尖らせた。
「ここまであからさまな状況を作るんですもの、犯人の狙いはその、……それでしょう。確実に罠がある、とは言い切れませんが、何か、誰かの思惑があってこんなことになってしまったのは確実ですわ」
「……そう、だな」
 説明を受けて、ようやく彼もこれがお膳立てされた展開なのだと知り底のほうから頭が冷える。ある意味で実に悪魔らしいが、随分と荒っぽく情緒もない、直接的なセッティングもあったものだ。現在これっぽっちも楽しくない嬉しくないかと問われれば返答に迷うものの、他人の思惑にそのまま乗るのはあまりいい気はしない。ことこの娘が関わるとなれば、彼は特にそう思う。
「とりあえず、無事一晩過ごせば良い話だ。朝になるまであとどれだけかはわからぬが、このまま会話を続けていればどうにか犯人の狙いは潰えよう」
「いえ、あの……最低でも、わたくしの縄は解いてほしいのですが?」
「む……」
 確かに、彼女が身動きも取れないからこそ彼も難儀しているのだ。縄を解いて彼女が動けるようにしてやれば、胸だの腹だのが無闇に接触する姿勢を回避できるだろう。幸い、彼の棺は横向きになっても大丈夫な深みがあるし、幅も持ち主が縮んだこともあってか狭くはない。体勢を考えれば接触箇所を大幅に減らして時間を潰せるかもしれなかった。
「よし、ならば解くか。……一応訊くが、お前、縄抜けは」
「できるならとっくにしています! ……あなたの位置からは見えませんけど、ここ」
 と、彼女の指が彼のズボンの一部をつまんだ。それだけで彼は奇妙に恥ずかしいが、舌を噛んで口元が緩みかけたのをどうにか堪える。
「ここにわたくしの手があるのですけれど、手首がものの見事に固定されていて……どうにかしようにも、どうにもなりませんわ」
 ズボンと言うことは、彼女の手は胸の位置より遥か下に固定されているらしい。ご丁寧なことだと彼は肩を僅かに下げ、さてこれからどうするかと思案する。
「……今の俺の手はそこに届きそうにない」
「ええ」
「体の位置を俺かお前、どちらかが変えようにも、その……やはり……」
 今、彼女の胸が彼の腹に押し潰されているようなことになりかねない。それは彼としてはなるたけ避けたい。向こうもそう思っているだろうとの思い遣りに、彼女はどうしたことか微かに息を吐き出すと、彼に同調することなく小さく俯く。
「……か、覚悟は、します……」
 か細いながらに彼女の声は緊張と、それ以上の決意に満ちていて、下敷きとなった彼は大いに動揺する。まさかそこまで淫らな女ではあるまいと信じたいのだがさすがに四百年も経てばそうなるのか。いやいや、初対面で処女だと告白したのだからもとからこの娘はこうだったかと目まぐるしい思考を飛ばしながら、彼は声を裏返らせる。
「なっ、何のだ、何の!?」
「不可抗力として! その、……ふ、触れてしまうことに関してです!」
 顔は見えずとも明らかに恥じらいが伺える彼女の口調に、彼は奇妙なくすぐったさと、悪魔であれば言葉にするも恐ろしい感覚を覚えてしまうが同時に拍子抜けもした。まともに考えればその通り、恥ずかしいが我慢すると言う意味であるはずだろうにどうして過激な方向に捉えてしまったのかと、そんな自らをすぐさま叱咤したが。
「……わたくしたちは、今や被害者同士なのですから。お互いを助けるためと思えば、このくらい、我慢します」
「う、む……相わかった」
 最も恥辱に耐えるべき側がそう言ってしまえば、彼も肯定的な返事をするしかない。そのため彼も覚悟を無理に決めたのだが、さてここからどうすべきかをまだふたりは論じていないのだ。
 それぞれが自身の心音を妙に大きくして、しかもそれが相手に触れてしまっているため明らかにお互いに伝わった二重の恥ずかしさに硬直して暫く。誰かがえほん、と咳を一つ。
「……で、では、どう、しましょう。ヴァルバトーゼさんは、どんな体勢が良いと思いますか?」
「体勢……か」
「体勢……ですけど」
 またも気まずい空気が流れそうになり、彼は慌てて両手を棺の左右に添える。さっきから所在無かった両腕がここで役に立とうとは、天の采配も捨てたものではない。
「お、俺とお前、それぞれがこの両端に寄ればだな、まだ俺かお前どちらかにせよ移動がしやすいと思うのだが!」
「え、ええ、そうですわね! ではそうしましょうか!」
 最早相手の顔など見ていられないし、自分の顔も見せたくない。その一点については強く共通していたふたりは彼の言葉通りにしようと思うのだが、どちらがどちらに動くのだ。
「で、ではわたくしは、この、こちらに寄りますから、あなたは……」
「う……」
 彼女はもとから彼の片手を下にしていた側へと重心を傾けようとし、ふたりの接触部分が若干少なくなる。だが裏を返せばそれだけ彼に触れている部分に彼女が更に密着するということでもあり。甘い匂いのする上に筋肉も骨も感じないものが彼の片腹に押し付けられる、どころか強調される。彼の奥底が再び熱を持つ。
「……う……ぐ……」
 頷こうとして呻きが生まれた。今の彼が噛み締める奥歯にかかる圧力は、金剛石さえ砕けるほど。しかしそれだけでは状況は好転しない。生クリームめいた誘惑に耐えた上で、彼もまた自分の体を動かさねばならないのだ。
「っ……ぐ、……ぎ……くっ」
 彼女が押し付けてくるところから逃げるようにして体を動かす。ここもさっきの、柔肌から手を引き抜くとき同様の覚悟と勇気と決断力を持って彼は臨んだ。少しずつ動いていけばいくほどあの柔らかいのが引いては吸い付き、弾けては寄り添いとなるのだが、やはり一気は難しく。だが着実にずれていく体は、彼女から確かに離れていくからこれでいいと自らを励まして、彼はついに万感の思いを込めて雄叫びを上げる。
「……イ、ッ、ワ、ッ、シィイィイイ゛、ッッ……!!」
 彼が一気に体を引き抜く、と共にワイシャツの向こうの小さく弾力が宿る頂が掠った気がしたが無視した。ようやく彼女の下敷きから両端に向かい合って横向きとなった彼は、ついに得られた開放感に肩で喘ぐ。それは彼女も同じらしく、ふたりの間を支配していた緊張感がどうと霧散した。
「はあ……。よかった……」
「……うむ。やはりイワシの力は侮れん」
 強引にイワシを持ち出す彼に、余裕がようやく生まれたらしい彼女が脱力した笑みを浮かべてはいはいと相槌を打つ。
「この際でしたらイワシの力でも何でも構いませんわ。第一関門突破、と言うところですから気を抜かずに参りましょう」
「……そうだったな」
 これで済むのではなく、これが始まりであったことを思い出した彼は、改めて向かい合う娘を見る。見たところで状況は変化しないのだが、一応。当然、冷静に状況を再確認するためであって、不純な動機は一切ない。
 彼女の首から上はいつも通り、ではあった。ここまで近い距離で見上げられることはまずないが、それでも豊かな桃色の髪もそれを活発に見せる印象の三つ編みも、釣り目がちな目元に整った顔立ち、初夏の澄み渡る湖面めいた青い瞳も、触れずとも見ればわかるしっとりとしたきめ細やかな白磁の肌も何も変わらない。
 問題は首から下――寝間着がワイシャツ一枚きりであること、はこの際置いておく。彼個人としては露出の低い清楚な、足首まで覆い隠すナイトドレスが好ましいのだがそれを言ってどうされたいと質問されては墓穴を掘りかねないので我慢するとして。ともかく油断しきってボタンを二つ三つ開けた彼女の女性としての証が目立ってはいるものの、扇情的な赤い縄は、ほっそりとした首も華奢な肩も、脇も腕も腰も容赦なく彼女の白いワイシャツと身体ごと蹂躙しており、艶かしい存在感を放つ菱型の模様はいっそ痛々しい。
 距離を開ければ確かに彼女の臍の辺りに、腕にも絡み付く赤い縄が手首とは言わず親指にまで巻き付いてそこを厳重に固定しているのが見え、それはより強い痛ましさを彼に抱かせる。そう、見ていてあまり、いやはっきり言っていい気はしないのだ。なのに彼は喉の奥が乾くような、どことは言わずむず痒くなるような、とにかく見ていて居た堪れなくなる感覚を覚え、体が妙に熱っぽい。その感覚を何と呼ぶか、『暴君』であった彼が知らない訳ではないのだが、今まさに憐憫の情を抱く以上にそれを感じてしまう自分をどうかと思わずにはいられない。
「ヴァルバトーゼさん……?」
「あ、……ああ」
 怪訝な顔で名を呼ばれ、我に返った彼は背中に棺の側面を当てたまま体を下へとずらす。そうして顔が顔に近付いてしまうが目線だけでも下にやり続けることでどうにか耐え、なるべく胸には触れないよう気を配りながら、縄で固定されている手首へと両手で触れる。彼女もそれは覚悟しているらしく、軽く手を握って彼の進行の邪魔にならぬようにしてくれたのだが。
「……おい、アルティナ」
「はい?」
 手探りで、幸いにも前に突き出された形式で固定されている手首の辺りの結び目を探していた彼は、その手応えについて次第に嫌な予感を覚える。
「お前はこう言う、……拘束に対して、学があるか」
「ないです!」
 にべもなく断言されて内心肩を落とした彼に、彼女は何を思ったか責め立てるように軽く頬を膨らませる。
「そ、そう言うのでしたら、あなたのほうが、おありではなくて? 捕獲とか、教育的指導とか……」
「あ、あれはまた、これとは違う問題であってだな……」
「わたくしから見れば、さしたる違いはないと思いますけれど」
「違う、まったく違う! それを言うなら、お前が『徴収』していた時期にこの手の技術を習得していても不思議は……」
「ありません! 縄抜けと縄をかけるほうはまったく違います!」
「ええい、聞いただけだろうが何故そこまで頑なに拒絶する!」
 脱線を始めたふたりの間に、痴話喧嘩めいた、当事者間では刺々しいが第三者からは鼻白む雰囲気が流れる。だがいくら気まずかろうがここには第三者などいないのだから、話題の脱線に気付くのもやはりふたりのうちのどちらかでしかない。
「……それで。今のわたくしに何か問題でもありましたかしら?」
 多少冷ややかな口調ではあるものの彼女が渋々話を元に戻すと、彼はそうだったと不本意な心持ちを引きずりつつ本題に入る。
「俺にはよくわからんのだが……縄は、一本なのか? つまり、この手首を拘束している縄と、お前の体を縛っているものは、同じなのか」
「どう、……でしょう」
 これまで彼女は手首周辺の縄を調べていなかったらしい。指に到るまで強固な拘束を受けていれば、それすら難しいものなのか。今手先を動かされて男女の指が重なるのは場違いな恥ずかしさがあるので彼は一旦手を放すと、そこを触って得た感覚を述べた。
「……その量ともなれば体とは別の縄で拘束していると思ったのだが、今のところ結び目らしいものは見つからん」
「つまり手を自由にしようにも、わたくしの体を拘束する縄そのものの結び目を解かなければいけない、と言うことですか……」
 落胆する彼女に、彼はそんな不安の声がまず拘束された張本人の口から上ることに嫌な予感を抱いた。
「結び目がどこにあるか、お前にはわからんのか?」
 だとすると現状、客観的に探せる唯一の存在が彼しかいなくなるため、彼女の体中を見なければならないと言う、精神面での消耗が予想される事態が新たに発生するのだが、そうではないらしく彼女は緩く首を振った。
「いえ、まあ、大体わかってはいるんですけれど……」
「なら問題はあるまい。早くそこを教えろ」
 そうしてとっととそれぞれ安心できる状況で朝を待ちたいと考えている彼に、しかし彼女は呻き声を漏らして、唇を一度舐める。誰がどう見ても躊躇していると見受けられたその直後、やけくそめいた勢いで彼女は告げた。
「お臍より下、……です」
「臍? ならばお前にも手が届くだろうが」
「いえ、それは……む、難しくて」
 何故、と彼は手首から視線を外して彼女を見る。思っていたよりも顔が近くて急激に気まずさがぶり返してきたが、それよりも彼女の態度が気になったため、彼はまた視線をそらしたいのを我慢した。しかし今度は彼女の側が気まずそうに視線を泳がせる。どうやら、どちらかがその気になってもタイミングの問題で、ふたりはこの距離ではまともに視線を合わせられない宿命にあるらしい。
「……あの、ちょっと想像してほしいのですが、お臍の下はなんと言いますか?」
「下腹だろう」
「ではその下は?」
「………………うんん?」
 二重の問いかけに、彼は横向きのまま首を傾げる。相対する彼女の顔が更なる赤みを増していたが、それでも彼女は逃げなかった。
「その下です。そこです」
「……そこが、何。いや、何を」
「全部、わたくしに言わせる気ですの?」
 その返しで、彼女の歪んだ眉と態度で、ついには俯いて彼の視界から完全に逃れようとしたことで、彼はすべてを理解した。つまりはまあ、呼吸を止めて完璧に、お手本のように硬直した訳だが。
「………………は?」
「そこです。結び目らしいものがあるのは」
 言い切って、彼女は自らの内部にうるさいほど響く心音を落ち着けようと深呼吸をする。その間、向かい合う彼は深海のごとき沈黙をひたすらに貫いており――しかし、それも数秒してどうにかまともな生き物としての活動を再開した。
「あ、あ、アルティナ……?」
 彼の完全に裏返った声に彼女は瞼を伏せたまま、なんです、と些か素っ気なく応じる。そんな態度を取られた理由など、放心から抜けきれない今の彼には二の次三の次だ。とにかく今は、馬鹿にうるさい自らの鼓動とその他諸々の障害を押し殺し、まず今頭の中に押し寄せてくる仮定を全力で回避すべく喉を動かす。してみれば結果的に冷静な対応であり、衝撃も過ぎると絶叫する機会を失うものだと今になって彼は学んだ。
「て……提案がある」
「はい」
「縄を切る」
「……どう、やって?」
 目を瞬いて訊ねる彼女に、彼はとりあえず今あるものを使おうと頭を捻る。
「手で千切る」
「できますの?」
 一縷の望みに追いすがる表情の彼女が少し間を詰めただけで、その甘く濃い芳香がたちまち彼の土台をぐらつかせる。こんな調子では縄を千切ろうにも、どこかしら彼女に自分から触れて、力を入れることさえできやしまい。噛み千切るのもまた同様に難しいと直ちに悟った彼は、情けない声を漏らして首を振った。
 希望を打ち消された彼女はまた少し瞼を伏せ、しかし一切彼に対して不満げな顔はしない。それに後味の悪さを覚えつつ、彼はもう一つの提案を示す。
「お前の縄は解かずに一晩過ごす」
 返事はない。代わりに広がる沈黙は、彼女の心情を痛いほど彼に伝えてくる。そうでなければ口にしたそばから彼が自分の発言に後悔し、自責の念が襲ってきただけの話だ。生真面目な彼がやはり自分の発言を取り消すべきかと懊悩した隙に、穏やかな声が響いた。
「……そうしましょうか」
 彼がちらと対面に目をやると、緊張が緩んだらしく細い肩がふと張りを失う仕草を取った。実際、動くことで結び目の切れ端らしいものが自分の太股に触れて、自分の胴体の先端に近いところに違和感を抱いた彼女は、十分その可能性を視野に入れていたのだ。
「少し窮屈な程度ですものね。わたくしだって一晩くらい耐えられますわ」
 次に彼に向かって顔を上げた彼女の顔はさっぱりと、諦めたが故に妙に明るい。だが彼のほうはその明るさにこそ心が痛み、やはり自分の提案を取り消す道を選ぶ。理由は単純明快だ。自分のまさしく手が届く範囲であると言うのに、この娘にこれ以上、痛みと恥辱に耐えさせるような道を選びたくなかった。
「いや、待て」
「けれど、背中を向けるくらいは手伝ってくださいな。この格好だと、さすがにそこまでは難しくて……」
 軽く眉根を寄せて笑う彼女に、自分の揺るぎなき意思を伝えようと、彼はまだ触れやすい位置にある片耳に人差し指で触れる。
「アルティナ」
「ん……っ」
 横になりながらも小さく飛び上がった彼女の耳は、人の姿であれば最も冷たい場所であるのに妙に熱い。彼が悪魔であることを差し引いても、この体温は異常だ。それと彼女のやせ我慢を得意とする性分を思い出し危機感を募らせながら、彼は改めて自らの決意を表明する。
「先程の言葉はもう忘れろ。お前を助ける」
 真剣そのものの彼の宣言に、彼女は軽く目を見張り、次にくすりと微笑んだ。笑った対象は当然この状況でそんなことを真面目な顔で告げる彼の滑稽さであり、またそんな彼にうっかり胸をときめかせてしまった自分でもある。
「そんな贅沢な言葉、こんなときに聞きたくなかったですわね……」
「……からかうな」
 しかしなんと取り繕おうと放った言葉はもう取り消せない。ゆえに彼も顔が熱くなってきた自覚を持ちつつ、彼女の耳に触れた指をもとに戻して深呼吸をする。新鮮な空気が肺に満たされる感覚は薄く、むしろ人肌のそれと彼女の蕩けそうに甘い体臭が混ざりあったものが体内に侵出して、空気でさえも彼から落ち着きを奪おうと意地が悪い。
 騒がしい脳の奥の感覚を頭の中の手で追い払うと、彼は気合いを入れて背を棺の側面に押しつけ、彼女の顔より下、痛々しく拘束された手よりも更に下が見える位置へと身体を下げようと少しずつ移動する。
 彼女は縄の接触箇所から、痛みではなくはっきりとした熱と意識が妙に明確になっていく感覚を不思議に思いながらもどうにか身じろぎ彼の進行の邪魔にならないよう心がける。とは言え棺はそこまで広くない。立って歩けば半歩もしないうちの距離を息を殺して移動した彼は、彼女の手に静かに触れて、相手へ確認するためも含めてゆっくりと拘束された手を退け――。
「ぶ」
 吹き出しまた顔と身体の位置をもとのところまで戻す。彼女はそれを咎めない、どころか是非ともそうしてほしかった。彼と同じ衝撃を味わったからだ。
「……な……っっ、そん、なっ!」
 ふたりは完全にそれを考慮していなかった。彼の側からは彼女の身体はまず胸部、次に手、腰と太股くらいしか見えておらず、彼女の側からはやはり胸、腹、手、脚と続いて、完全に結び目がある位置が死角になっており。そうしてふたりの死角にあったのは、彼女の寝間着の裾が完全に捲れた状態。つまるところ彼女の下着が外気に、並べてふたりの視線に晒されたのであった。
「何故、…………白い?」
 色気云々以前に普段の格好と比較しまず単純にそんな疑問を抱いた彼に、彼女はついに目尻に涙を浮かべながら答える。
「わたくしだって眠るときくらい楽な格好をします!」
 そうか、と短く相槌を打ったのち彼はどう反応していいものか途方に暮れる。と言うより声に出すべきではなかったと、今度ばかりは本気で後悔しても後の祭り。子どもではないのだからそんな布切れ一枚で歓声を上げることはないのだが、いやしかしその奥に潜むものを隠すための布としてそれは偉大にして重大な存在でもあり、どちらにせよ乙女の小さな花園を覗いてしまったことには相違ない。
 しっかりと彼の目に焼きついてしまったのは色か形状か赤い縄とのコントラストか。身も蓋もない話、布だけならば問題ないのだ。着用者が彼女でなければさえなければ、やはり問題はなかったのだが現実ではどちらも違っていた訳で。とにかく猛烈に気まずい思いをしているもののそのお陰もあって妙に落ち着いてしまった彼とは違い、彼女のほうはついに平静を保てなくなったらしい。普段から脚も肩も胸でさえも剥き出した格好であるのに、そこだけは見られたくなかったのか。涙をいまだ睫毛に溜め込んで、きつく彼を睨みつけた。
「……目を」
「ん?」
「瞑ってください! もしくは見ないように解いてください!」
 無茶な話であるはずなのに、彼はそれをすぐに拒否できなかった。それくらい彼女の気迫は凄まじく、同時に憐れを誘う様子であったがために。
 彼は眉間に皺を作るも、まずは何も言わず鼻からゆっくり息を抜く。脳は取り乱した彼女をどう落ち着かせるか、説得するかの、彼にしては珍しく他者の気持ちを慮る方向で働いていたが、その辺りはこの吸血鬼、考えるより直感頼りのほうが効力があるくらいなので成功率はおのずと知れる。
「あー……アルティナ、一ついいか」
「なんです!?」
 彼女は鬼気迫った形相であるはずなのに、べそをかいているせいで可愛らしくも見えるのがいけない。彼にそんな甲斐性があって恥ずかしさがなければ思わず抱きつきかねない程度に、その取り乱し方は小動物の威嚇めいていた。
「それはどのみち、……結び目を解くのが難しくなる。そうなれば俺の指も、余計な部分に触れてしまうかもしれないし、お前もあまり、いい気はせんはずだ」
「どうせ触られるんでしたら見られないほうがよっぽどましです!」
 そう言うものなのか。咄嗟に問いかけたくなった彼は、唇を細やかに震わせながらもなんとか落ち着こうとする彼女にうっかり和みかけて顔を隠す。いやしかし、それだけ彼女がこんなふうに動揺する姿は彼にとって貴重だった。
「……ま、まあ、一度見てしまったものは仕方ないと割り切って」
「無理です、もう無理です! ……ああもう、本当になんでこんなことに……!」
 悲痛なまでの彼女の声は、同時に彼の声でもある。俯き涙を一筋二筋流しかねない彼女とは対照的に、彼のほうは天を仰ぎたくなった心地ではあるがまあ気持ちの点では共通していた。だが気持ちが通じようにも、誰か及びどちらかが動かなければ状況は変化しない。当たり前だが自由に動けるものはここでは彼しかいないのだが。
「わかった……お前の言う通りにしよう。だが、どんな結果でも覚悟はしておけ」
 俯いたままの彼女が無言で頷くのを見届けると、彼は先程と同じようになるべく相手と距離を開けつつ下へとほんの少し移動する。そうして手がおおよそ結び目に届くであろう位置まで到着すると、まずは親指まで拘束している縄に触れた。
 微かに彼女が息を呑む気配を感じ、彼は相手に意識されることに居た堪れなさを覚えるがこれから先の道行きはそれどころではない。縄に触れたまま彼は肩を一度竦めて緊張を解すと、意を決して首を上に固定しながら、更にゆっくりと体を下へとずらしていく。同時に縄に触れる指先が、彼女の手首より下へと移動する。
 縄を伝っていくだけだから、彼女の肌に直接触れるわけではない。それでもワイシャツの皺や縄越しに伝わる体温は彼の指にそれより一枚下の、熱くて吸いつくような肌の持ち主の歪みも汚れもない肢体へ意識を誘って、いつからか治まったと思った動悸がまたも明確に彼の内側から響き渡る。
 縄を隔てた腹部の緊張さえも伝わってくる感覚は生々しく、目をそらしているはずなのに彼の脳裏には今自分の指がどこにいるのかがありありと想像できた。縄の上から彼の指がワイシャツとはまた別の凹凸を感じ取り、蟻よりも遅々とした進行はついに彼女を完全な混乱に招いた下着への到達を知らせてくれる。
「ぅ……」
 まだ鼻声のままの彼女が微かに唇を開く。普段ならばそんな声は彼の耳には届かないし、届いたところで聞き流すのだが、このときばかりはぎくりと停止させられるほどの力を持っていた。
 彼の一時停止に彼女は邪魔をしたと察し、下腹を強張らせながら短く一言。
「続けて、ください」
 言われるがままに彼の指は縄を伝うが、縄からはみ出た指と腹を仕切る布地が違っているせいか、それともそんなものだったか。下った先は熱かった。直接触れていないはずなのに彼の指にさえ湿った熱が伝わってくるほど。
「……ぐっっ」
 熱と共に指に伝わる絹のなめらかさは彼が身構えていた以上に甘美で、その向こうにあるものへの期待を自然と掻き立てる。縄が無骨な感触であるためか、本当に僅かな接触でしかなくてもその心地良さは異常だ。これでもっと縄が太ければそも絹には触れなかっただろうし、かと言って縄が細かったり彼女の肌へと食い込んでいたらそれはそれで割り切れて緊張しなかったかもしれない。そう言う意味では絶妙だった。絶妙に悪かった。
「……タ、タヅクリ」
 故にこのまま黙っているのは危険と判断し、乾いた喉から搾り出すように必死の抵抗を示した彼の言葉をどう受け止めたか。彼女の全身がぴくりと震える。指に熱くてさらりとしたものが触れた気がした彼は、更なる抵抗でもってそれを気のせいであると自分に言い含める。
「ウルメ、ドンボ、シコ、ナナツボシ、ママゴ、ユワシ、ホホタレ、アオコ、メギラ、カエリ、ヒラレ、ブト、オラシャ、ゴマメ、ゴコオ、モロクチ、ハンガン、ドオメ……!」
「……なん、ですの、それ?」
 細やかに肩を震わせながら問う彼女の声は、動作の点では先と変わらないものの感情の方向は明らかに違う。ミリ単位で下に移動しながら読経の勢いで呟き続けていた彼は、息継ぎののちに昂然と言い放った。
「イワシの別名だ! 主にカタクチイワシとマイワシとウルメイワシの三種のみだが!」
 予想はしていたらしいが、彼女の声に薄い笑みと感心がない交ぜになったらしいものが現れる。しかしもう泣いてはいないし、取り乱す様子もない。
「まあ……、そんなに沢山」
「うむ。イワシの別名だけを言い続けるのは膨大な量になるからな……三種に制限した上でなければ、いかな俺でも言い足りぬ」
 実際にそんな真似はしないが心持ち胸を張った彼に、彼女はようやく過度の緊張が解れたのか喉の奥で金の鈴が鳴るような笑い声を転がす。
「ですけど、あれでも全部ではないのでしょう?」
「当然だ」
 深々と頷きかけて、うっかり下を見かけた彼は慌てて首を戻す。その仕草を彼女は見ていたらしくまたもくすくすと笑い声が彼の耳をくすぐるが、今度は些か恥ずかしい。
「……わたくし、今初めて、心の底からイワシに感謝しますわ」
 だが単純に嬉しい言葉を耳にして、彼も彼女の口調とは同様に、こんな状況とは思えないほど穏やかな笑みを口元に刻んだ。
「それは重畳。今晩無事に朝を迎えればお前も食え」
「あら。そう言う想定は、『失敗フラグ』と言うのだそうですわよ?」
「はん、失敗が怖くて行動など起こせるか」
「ご尤もですけれどわたくしはここは慎重を徹して、返答を保留にさせていただきます」
 つれなく断られた彼は嘆息するが、それが区切りであるかのように指先に障害物との遭遇を感知し、軽く目を見開いた。思わず押して確かめたくなるのを堪えながらもう片方の手を静かに近付けつつ、結び目の形状を確認する。猿轡と同じく固結びだ、よりにもよってこんなところでさえも。
「……見つかり、ま、した?」
 彼としては軽く触るだけのつもりでも、彼女にとってはしっかり押されている感覚であるらしい。腰が彼の指から逃げようとするのを支えるべきか迷いながら、彼は小さく肯定した。
「ああ。予想はしていたが、片手で解けそうにない。その点は……」
「は、ぃっん……!」
 白い喉が引きつって、漏れかけた悲鳴を飲み込む。いや実際には悲鳴、ではないのだろうが違うものとして捉えれば今度は彼の精神面が危なかろう。
 ともかく結び目にようやく辿り着いた彼は解こうとまずは片手でそこを固定するが、やはりそれだけでも彼女にとって酷い刺激があるらしい。彼の指が縄と縄の向こうに触れる面積が増した上に、絹に包まれた珠の肌がわななく。
 だがそれを彼は舌を噛む痛みで無視し、もう片方の手を結び目に添える。そうしてようやくそこを解こうと球状のまとまりに爪を立てるが、それにこそ彼女は我慢ならないような甘い声を発した。
「んぁっ、んぅん……っ!」
 添えた側の手に一瞬、彼女のなめらかでほのかに汗ばんだ下腹がひくりと埋まりかける。まずかった。彼女もだが彼もまた猛烈にまずかった。
「お、オイザサ!」
 だが彼には意地がある。こんなところで不本意なこんなお膳立てに乗せられてたまるものかと強い反発心を沸き上がらせて、脳をどうにか別の方向で働かせようとイワシの名を叫ぶ。
「ナキナキウルメッ!」
 娘のことは想っている。そんな欲求がないと言えば嘘だ。だができることならば自分の意思と彼女の意思が合致したと確かに知れた際に自然とそうなるべきであって、明らかな第三者の介入が考えられる今はそのときではないと、彼は思っているから。
「カワナシドブ……ッッ!」
 機会がなかったかと言えば否。互いを想っているとわかる出来事は確かにあった。たまにどうしてあそこで触れなかったのかと思い出しては悔やみもするが、それでも彼は強がりと自覚した上でも現状に満足しているのだ。恐らくは彼女も今の、そばにいて相手の存在を感じるだけで、ふとした瞬間に視線が重なりあうだけで、とりとめのない会話をして相手の反応を見れるだけで、幸せを噛みしめていたのだから、こんなことで生まれる実りなど望んでいない。
「ボウワレイワシ……ッ、キンタルッッ!!」
 故に彼は抗う。悪徳を美徳とする悪魔の身ながら徹底的に。女が女と呼ばれる由縁に触れながら、そこを間接的に縄で締め付け刺激を送ってしまいながら、それでも自分の掻き消えそうな理性を奮い立たせてひたすらに。相手の気持ちも確かなら、そこまでする必要はなかろうと他者ならば呆れるかもしれないがそれでもやはり、彼は純粋に、触れている相手に、娘に、彼女に、拒絶されたくは――。
「トッポウルメ、ヒラゴイワシ、……スウゲンイワシッッッ!!」
「ヴァル、バトーゼ……さ、ん……っ」
 他者の名前を呼ぶとは即ちその他者を声で抱くと誰かが言ったが、これはまさに誘うような声の抱擁だった。喉の奥からこみ上げてくるものを押し殺すように切なげに。けれど同時に、もう我慢ならないとでも言うかのように。
 無防備にも彼は見てしまう。彼女の震える睫毛の隙間から、青い瞳が蜜のように濡れているのを。眉根を寄せ、頬を紅潮させ、唇を噛み締めたその端から脆い銀糸が一筋流れたのを。それは場合によれば泣き顔であると表現できるだろうが、しかし今の彼女はそうではない。ああだが事実として、その感覚も極めれば種類は違えど熱い涙を流すほどであるし、理性なく崩れた顔は泣きわめいているようにも見えるか。
 とりあえずまずかった。猛烈にまずかった。何がまずいと言って、彼の片手はいまだ結び目を解いておらず、なのにいつの間にかもう片手は下腹にしっかりと触れて汗に濡れ、しかも彼は彼女の何かを乞うような表情を見てしまって、甘い体臭の中に塩気めいたものも嗅ぎ取ってしまって、粘りのあるものの音も耳にして、つまり。
 拒絶の意思は一つたりともないと、彼は思い知らされたのだ。
 多分に、命綱が切れた登山家とはこんな心地なのだろう。あれだけの葛藤と努力が薄氷を割るよりもあっさりと、自分の中に秘めた決意でさえもごく簡単に消失してしまい、彼はただ何の抵抗もできず堕ちてゆく。喉の渇きを癒す心地で、思うがままに、今触れているつがいとならんとする娘への欲望を示す方向へと。
「アルティ、ナ……」
 流れに身を任せ結び目に食い込ませていた指先を放した瞬間に、それが解けて彼の指に絡みつく。重くまとわりつくそれを反射的に指を払いのけ、たところで気が付いた。解けて。解け、て――?
「………………」
 顎を引いて下に首をやれば、夢幻でも都合のいい錯覚でもなく、解けた赤い縄が未練がましく彼の小指に絡まる光景が目に入る。あれだけ爪を立てても、ほじくり返そうとしても強固に動かなかったものが、今になって。
 この光景を目にして彼は判断を強いられた。解けた事実を無視するか、それとも彼女を救うべきか。悪魔ながらに生真面目な気質の彼なれば当然後者であるべきだし、ほんの数秒前まではそう考えて奮闘していた訳だが、縄を解いてしまった瞬間の彼は違う。彼にしては珍しく、本当に何度あるかも知れないほど本能が理性に打ち勝ったと思しきときだったのに。よりにもよってそんなときに解けてしまい、彼は唖然としつつも迷った、猛烈に。その時間は恐らく数秒、だが体感ならば永遠だ。
 結局、肺から目一杯息を吐き出すと、彼は縄を摘み直して彼女のほうを見やる。彼女もまた開放感を戸惑いつつも受け止めたらしく、瞬きもせず見開かれた目は嵐が過ぎたあとのように静かだった。
「…………解け、たぞ」
「あ、……は、い……」
 頷いて顔を上げた彼女の目にはもう、揺らめく情欲の炎はない。まだ頬の赤みは残っているがそれだけで、その表情から垣間見えるのは悄然でも渇望の残り香でもなく夢から醒めたばかりのような、放心状態に程近く。彼女は解けた縄の末端を見てから手首をのそのそと動かすが、縄はゴム製ではないのだ。それしきの仕草ではまだそこまで解けない。
「手首までは、お願いしてもよろしくて?」
「……ああ」
 言葉も普段通り、真っ当過ぎて色気もない。いや相変わらず彼女の拘束はいまだ完全に解けていないのに彼が途端に色気を見出せなくなったのは、単純に結び目を解かねばならないと言う自分に課せられたシチュエーションそのものが失われてしまったからだ。たかがそれだけではあるが、しかし彼にとっては自己の行動につながる点は非常に重要であった。
 最大の機会を盛大な肩すかしで終わらせてしまった彼は最早どうでもよくなって、彼女の腕と手首に絡む縄を解くためまたも触れるが、今度はざっくばらんで緊張感など髪の毛一本ほどもない。贈り物のラッピングを解くと言うよりも、貨物船から積み荷を下ろす下っ端船員の気分で縄を解き、ついにどこかからの荷物よろしく贈り物である娘は自由を手に入れた。
「はぁ……、ありがとうございます!」
 彼女が一息、しみじみと感謝の言葉を告げてから拘束が解けるまでの早さと来たら。彼が呆然と眺めている間に脇が、腰腹胸が秒単位で赤い縄から解放されていく。それなり激しく動いていても、彼のほうにそれほど接触しない辺り、やはり縄抜けは手慣れているらしい。一体天界では何を学んでいたのやら。
 しかし手慣れていても視線は感じたくないのか。ワイシャツの裾はもう捲れていないのだが――腰が自由になると真っ先にそこを正した――、彼女は眺めている彼に気付くと片手を伸ばし、恩人の顔上半分を隠す。
「あ、あまり見ないでください……」
「……それを今言うか」
「今だからこそ言うんです」
 彼の目のくぼみに納まった白い手はいまだ興奮の熱を残しており、彼の瞼に柔らかく温かく心地良い圧力がかかる。それだけで、先程までは見事に消滅していた腹の奥のむず痒さがまた鎌首をもたげそうになるのだから男とは単純なものだ。しかしここまでどうにか無事にやってきたのだから、最後に一悶着起きるのはいただけない。
 もう縄は解け、見るなとまで言われたのだから用事は済んだも同然。故に静かに手を払いのけた彼はゆっくりと体を反転させ、今まで背を預けていた棺の側面を前に寝る姿勢を作る。棺の中でこんな格好になることは滅多にないが、それでも娘にのしかかられたり、向かい合ったりするよりも余程健全に眠れる体勢だ。事実この姿勢に落ち着けると実感しただけで、疲労感が一気に彼の全身に押し寄せる。
「……俺はもう疲れた。眠れるようなら眠っておく」
「っしょ、はい……お疲れ様でした。それと改めて、助けてくれてありがとうございます」
 いまだ縄抜けの最中らしい彼女の声は穏やかで、彼の疲れた心を軽やかに撫でる。彼女こそが今夜疲れた原因ではあるけれど目に毒となる光景が広がっていないだけに彼は素直にそのくすぐったさを受け入れて、瞼を閉じながら淡い笑みを浮かべた。
「俺が望んだことをしたまでだ。感謝の気持ちを示したいのならばイワシで示せ」
「イワシでどうやって示せと仰るのかしら」
 彼女の苦笑を含んだ声ののち、ふたりの足元の隙間に縄らしいものが投げられて、彼はようやく彼女が完全に縄を解ききったと知る。続いて向こうも彼と同じく背中をこちらに向けたらしい。羽らしいものが彼の背中に掠った。
 そうして暫く棺の内部に他者を意識した就寝直後特有の、落ち着くようでぎこちない沈黙が支配していたのだが、彼女はふととあることに気付いたのか。半身を彼の側によじって控えめながらに訊ねてきた。
「狭くありません? ここはあなたの棺なのですから、もう少し、こちらに寄っていただいても構いませんのに……」
「……いや、それには及ばん」
 実際に狭いことは狭いのだが、彼女の側に寄るのは躊躇する。そんな彼の心境を察しているのかいないのか。彼女は彼の脚に添えられた手を握ると、自分のほうへ引き寄せる。自然、不意に引っ張られた彼は軽く丸めていた肩を彼女の側へと傾けてしまう。
「アルティ……っ!?」
「主に縮こまっていられると、居候も居心地が悪くなりますわ。あなたは功労者なんですから、もう少し厚かましいくらいでいてくださいな」
 とは言え彼女もそれほど大胆なことはしていなかったようだ。彼が背中から倒れかけた空間は予想を越えて余裕があったが、彼女を振り向き見れば無理をして隙間を開けた訳ではないらしい。確かにこれならばと多少気楽に彼が隙間を埋めると、天使の羽が今度はしっかりと触れてくる。しかし悪い気はしなかった。羽毛の感覚が安堵を誘うのか、彼女の背中の一部が触れたと実感できるからかはわからないけれど。
「……あの」
 控えめな声に閉じかけた瞼をまた開けて、彼は軽く持ち上げられた片手に視線をやる。彼女に手を握られたのを彼が強く握り返してしまったままでいたのだ。
 声をかけられた意味は彼とて十分理解できてはいたものの、このまま放してしまうのは惜しいと素直に考えた。背中で触れ合うだけなのも悪くないが、何せ彼は悪魔であって多少は貪欲なのだ、このくらいはしても構うまい、と頭の一部が囁いた。
「厚かましくてもいいと、お前が先程言ったではないか」
「……そうですけど」
 思うところがあってすぐさま手を放した彼は、戸惑い気味の白く柔い手に改めて指を絡める。深く、静かに、ゆっくりと。
 悪くはなかった。傷のない、かたちの整った細い指が自分の手の隙間を埋める感覚は。指の腹と爪のかたちを確認するように撫で上げて、軽く驚かれる反応は。仕返しとばかりに彼女の指が彼の指の一本に、絡みつこうとするのもまた。
 背中を向けているため相手の顔は決して見えないものの、その表情ならば鮮やかに彼の脳裏に描かれる。多分に彼女は幸せそうな、照れ臭そうな顔をしているのだろうと思いを馳せ、その顔を直接見られないことに安堵と僅かな無念を滲ませた。しかし彼もまた似たり寄ったりな顔をしていることなど、鏡のない棺の中では知りようはずもない。
 彼の親指が彼女の手のひらを撫でると、彼女の指がくるりとそれを包んで指の背を擦る。そうはさせてなるものかと人差し指と中指が割って入れば彼女の側は先手を打って小指までもを使って彼の手を拘束しようとするが、彼はやはり上手く逃げおおせ。負けるものかと飛び込んでくる彼女の手を彼の手は柔く受け入れて、絡まり、もつれあう。
 片手だけの攻防戦に終わりはない。きっとどちらかがこれに飽きてしまうか、疲れて眠ってしまうまで。けれどふたりはそんな勿体無いことなどあっさりできやしないから、やはりそれに終わりはなくて。
 胸に滲む温かく甘く締め付けられるような感覚に身を委ねながら、彼らは不意に予想する。この調子では夜が明けるまで、自分たちはこんなことをしているのだろうと。

◆◇◆

 予想は正解か不正解か。
 ふたりが外の騒がしさに気付いたのはほぼ同時らしく、瞼の重さや節々の窮屈さ、自然と漏れてしまう欠伸からやはりいつからかまどろんでいたらしいと知る。ついでに重なりあっていた手もどちらともなく一撫でして、この一夜を共にしたお互いに暫しの別れを無言で告げる。
「ご無事であられますか、ヴァル様!?」
「……ああ、問題ない。眠い以外はな」
 外から見れば鍵がかかっている程度だろうに、随分と必死な人狼の呼びかけに彼はいつもの態度で応じて片手を放す。彼女もそれに従いながら、ワイシャツのボタンを一つ留め、横向きのまま軽く屈みこんで縄を拾った。
「眠……? ……いや、まさか、おい泥棒天使、お前か!? 貴様、そこで一体閣下に何をした!?」
 さすがに人狼ともなれば、棺からでも匂いを過敏に嗅ぎ取れるらしい。男の部屋に女の匂いがあればわかりやすいとも言えるのだろうが、とにかくあっさりと存在がばれた彼女は自身の潔白は揺らがないため堂々応じた。寝起きから元気なものだ。
「言っておきますけれど、わたくしもヴァルバトーゼさんも被害者ですわよ。大体わたくしがこの方の部屋に忍び込むのが目的なら、こんな間抜けをするとお思い?」
「見せつけるような奴だろうが、貴様のような雌猫は!」
「……そんなことをしたらあなたがヴァルバトーゼさんから本当にかたときも離れませんでしょう? そこまでわたくしは考えなしではありません」
 棺の内と外とで一歩も引かない二人の舌戦は、こんなときでも普段と変わりないらしい。それはさて置くとして、ようやく執事がこの異変に気付いたと言うのにこのままの状態であることに不満を抱いた彼は鶴の一声を放つ。
「とにかく鍵を持っているなら棺を開けろ、フェンリッヒ。言い争いならそれからでもできる」
 主の命令とあらば最優先が従僕の道理。それ故に人狼はまだ文句を言いたげな呻き声を漏らしたが、そうこうしている間にも棺の中の光景がどのようになっているかを考えたらしい。すぐさま上下左右の鍵を開けて棺の蓋を持ち上げる。
 ようやく得られた彼女の匂いがしない空気が入り込んできて、彼は安堵の息をつく。一晩過ごせばさすがに慣れるが、芯から酔いそうな香りはやはり彼には毒だった。彼女のほうは伸びをした勢いのままに立ち上がると、苦い顔で蓋を両手に持った人狼相手に例の赤い縄をひらりと投げる。
「この縄でわたくしは拘束を受けていましたの。犯人捜しをしたいのでしたら証拠の品を置いておきますからどうぞ」
「拘束……?」
 怪訝な顔の人狼に、肩を解しながら上半身を起こした彼は、裸足のまま棺から颯爽と出て行く彼女を目で追いながら頷いた。
「猿轡まで噛まされてな。だが安心しろフェンリッヒ、お前の主は誇り高き吸血鬼――あれしきでどうにかなるような軟弱さは持ち合わせていない」
 実際には動揺し続けた上にどうにかなりかけた訳だが、そこは言わぬが花というもの。彼女は表情を変えるまいと口元を震わせ、そんな努力を露と知らぬ人狼のほうは縄を見て僅かに顔をしかめたが、彼の態度に嘘偽りはないと感じ取ったのか。ようやく逆立っていた銀髪を治めて主に賛美の言葉を送る。
「さすがは我が主。あの天使の品性下劣な罠だけではなく、龍涎香にまで打ち勝たれるとは」
 唐突に見知らぬものの名を示されて目を瞬いた彼と内心首を傾げた彼女に、人狼は棺の足元に丸め込まれた猿轡で使われた布を拾う。それが香のもとらしい。
「いわゆる淫薬として人間界に伝わっているものですが……まあ所詮は人間に効果のあるもの。我々悪魔には何の意味もないと言うことかと」
「……そう、だな」
 動揺を押さえ込みながら、ふたりは密かに彼女がああもああだった理由を知って安堵する。そんなことで盛り上がる趣味があるのかと、それぞれ薄らと不安を抱いていただけにこの事実には人狼の知識へ純粋に感謝したいくらいだった。だが、本当にそれをすれば本格的にややこしいことになる。
「そ、それではわたくしは帰って寝直しますわ。お二人ともおやすみなさい」
「うむ。お前もご苦労だった」
「とっとと出て行け!」
 そそくさと逃げる天使の背中にそれぞれ労いと罵倒の言葉をかけた主従は、扉が閉まったのを見届けるとそれぞれ吐息をついた。ひとりは苦々しい顔で、もうひとりは名残惜しい顔で。
「閣下は……その、本日はどうなさいます。お疲れのようでしたら、ただちに代えの棺を用意致しますが……」
 嬉しい気配りに彼は一瞬そちらの道に惹かれかけるが、やはりと首を振って立ち上がり彼女の香りが染みついた棺の外に出る。疲労感はあるけれど、それでもまあ悪い気はしなかったのは何が原因であるか。
「いや、これしきのことで俺の教育を待つものどもを放置してはおけぬ。いつも通り業務を執り行う」
「ははっ」
 深々と畏まった人狼は、命ぜられることで通常運営に頭を切り替えたようではあるが、最後に一つ。
「……ですが、この件の犯人についてはどう致しましょう。わたくしとしては、なんとしてでもこのような真似をした者を捜し出して、それ相応の罰を与えたいのですが……」
 穏やかな口調ではあるがその犯人とやらを見つけ次第くびり殺しかねない表情の人狼を、彼はふん、と笑い飛ばす。
「構わん、捨て置け。結局俺たちの間には何も起こらず、犯人の狙いは潰えたのだからな」
 不満げな顔だが頷いた人狼に、彼は小さな笑みを宿す。本当のところは犯人を恨みたい気も説教したい気もあったがまあ、あのかけがえのない時間を得られた恩赦と言うことで処罰を打ち消してやろうと判断したために。





後書き
 シチュエーションラブコメ(ちょいエロ)いいよね……いい……ってだけの煩悩を迸らせた結果です。寝間着で亀甲縛りも白パンも趣味じゃないけどアルティナちゃんなら似合うよね派です。犯人は誰とか考えてません。
 一番最初のヴァルアルだからがっしり気合い入れたはいいものの、閣下がイワシの別名叫んでる辺りでふと「自分何書いてるんだろう」と頭抱えたくなったのは仕方ないですよね。
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