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いざないぐせ

2011/10/05


 切欠は、古い映画。
 仕事以外、取り立てて熱心に時間や金を費やす趣味もないと言う点においても似たり寄ったりなふたりがプライベートで共通できる話題は少ない。だからこそふたりの仲がなかなか発展しないのではないかとツインテールの少女は口先を尖らせるくらいふたりの会話に趣味の気配は薄く、あってもせいぜいが最近の読書傾向――無論、こちらも色気は薄い。若い身空の男女の会話で出てくる本の分類が、新書八割弱なんてそう滅多にあるものではなかろう――程度。お互いにもう少し若者らしいものを嗜むべきだろうか、勉強すべきだろうかと思ったりもするのだが、結局のところ書店に寄ったところでついうっかり仕事に関する書籍のコーナーばかりに足を踏み入れてしまうのが常だった。
 そんなふたりをして、珍しく個人的な範疇の話題で盛り上がったのがモノクロの古典名画。売れない小説家が親友からの依頼で彼の住まいを訪ねたら、相手はなんと死んでいたと人づてに聞かされ、葬式に出ればその親友について黒い噂があると軍人から聞かされる始末。そんなはずはないと友情から親友の死の真相を探るべく調査に乗り出す男の物語は、時代を経ても感じ入るものがあるなかなかの傑作なのに、幾分古いだけに観るのは映画マニア程度と言う始末。だからそれについて今更知っている相手がいると思っていなかった彼らは、互いがその映画について語れるこの偶然に大いに盛り上がった。もっと幸運なことに、ふたりはその映画の裏設定としても有名な逸話についても知っていた。
 それは『ある男が本来登場するまでの間、三度スクリーンに現れている』と言う話。ふたりとも二回までは心当たりがあるのだが、三回目がどうしてもわからないと互いに頭を捻った。しかしお互いしっかりそれぞれのシーンが記憶に残っているのかも曖昧な部分があるからその場での答え合わせは難しく、結果的にいつかふたりでその映画を観ながら答え合わせをしたいものだと願望を共有することでその会話は幕を閉じた。二ヶ月ほど前の話だ。
 それが今週になってまた話題に上るとは、正直なところ彼は思っていなかった。ただ彼女が件の映画のDVDを格安で手に入れたから、今度一緒に観ませんかと誘われたの二つ返事で受け入れて。けれどいつにしようかと具体的な話になった際、土日はそれぞれもう午後に先約があった不幸に悄然とした。そんな、またいつとも知れぬ次の機会にとの空気がどことなしに流れる中、天使の娘は思い立ったように顔を上げて、なんの気もなく言ってのけたのだ。
「では、金曜の夜はどうでしょう。お仕事が終わったあとなら、空いてますでしょう? お夕飯を用意いたしますから、是非ともうちに来てくださいな。それから、食べたあとにでもふたりで観ることにいたしましょう。解散が夜遅くになっても、翌日は午後から用件があるのでしたら寝坊をしても多少はどうにかなりますし」
 彼女の言葉に妙案だと喜んで、早速約束を取りつけた。そうして上機嫌で部屋から出て行った彼女の後ろ姿を見送ったあと、扉が閉まってから彼ははたと気が付いたのだ。
 彼女のマンションには何度か訪れたことはある。彼女と休日に顔を合わせ、外ではあるがふたりの時間を過ごしたこともある。しかしどちらも昼間の、日が沈むまでの話で、夜に彼女の自宅を訪ねるのは今回が初めてだと言うことに。
 改めて考えれば機会だった。それはもう絶好の。――何のとは問うなかれ、口にするだけ野暮である。
 第三者がこの予定を耳にして茶化しでもすれば、たちまち彼は照れ臭さもあって反発し、武士は食わねど高楊枝と腹を決めていたに違いない。しかしこの件についてはふたりの間でのみ交わされた約束な訳で、相手は気付いた様子はない。いやもしかすると今頃彼女も状況を客観的に捉えて焦っているかもしれないが、今予定を取り消すのは別れ際の裏表のない態度もあってどことなく憚られる。
 だからつまり、まさしくこれは千載一遇の好機だった。だがそれだけに慎重にことを運ばねばと、彼はうっかり浮かれてしまいそうになりながら何度も自分に落ち着けと言い聞かせた。長らくの右腕たる人狼が現れてからも何時間か挙動不審が続いていたようだが、幸い約束をしたのは火曜日なので、本番当日まで落ち着くための時間はたっぷりあった。
 激務の合間を縫うようにして、彼はあらゆる可能性を考慮した。彼女の上司や友人である小娘やその妹が訪れる可能性。結果的に仲間全員で観てしまう可能性。当日不意の事故によりお流れになってしまう可能性。そしてまた、色々と上手く行ったと思ったら土壇場で下手をしでかしてしまう可能性。全てが当日過剰な期待を抱かないようにするためであり、あらゆる場合でまずまずの落としどころを見つけられるようにするためのシュミレートだ。上手くことが運ぶ可能性は最早妄想になってしまうのでなるべく避けた。そのはずなのに何度か甘い夢を見てしまい朝から悶々とする羽目になった自分に呆れもしたが、まあ夢ならば仕方ない。彼は見たい夢を見る方法とやらを知らないはずなのだから。
 さて訪れた運命の金曜日。前日の就寝時間も起床時間もいつも通り。体調は良好。目覚めの一杯としてイワシエキスを飲もうとしたが人間の血の匂いがしたのでそれを捨て、背後から同居人の舌打ちの声を聞くのもまた日常の範疇内。
 当日仕事中にばったり顔を合わせた相手から約束を取り消されるどころかお待ちしていますと確認されて、身悶えしかけたがともかく。仕事はこの日のために多少無理に消化していたので珍しくも定時内で上がり、まだ残業をしていた人狼に旧知の知り合いとこれから飲む約束があるから夕飯はいらない、帰りは遅くなるとさりげなく伝えることに成功した。
 自宅に戻ってからは大急ぎで身支度を整え、事前に下調べをしていた専門店に立ち寄り手土産として女性好みの洒脱な瓶に入った茘枝のリキュール――彼女は飲み会の席で常に茘枝のカクテルを頼むため――を購入し、時間きっかりにマンションへ。
 気負っていたのは男だけだったらしい。こちらも定時で仕事を終えたらしい普段着のままの彼女はドアを開けるとにこりといつもの笑みを浮かべて出迎えてくれて、通された部屋もまた昼間訪れたときと大差なかった。強いて言うならカーテンが閉まっているのが新鮮なくらいで、ほかは間接照明やらキャンドルやら、ありがちな場を盛り上げるための小道具を特別に用意している気配はなかった。彼は期待するなと何度も自分に言い含めていながら実際のところ期待していた己の滑稽さを思い知らされ、そんな自分に落胆し呆れもしたがお陰で無駄な力は抜けた。以降、いつも昼間彼女と会うときの感覚で接し、手土産を自然と渡せたあと感謝の言葉も割合平然と受け止められた。
 それから暫くしてアンチョビやオイルサーディーンをたっぷり使った彼女の手によるイタリア料理に舌鼓を打ちながら酒も程々に入れて、会話も弾みつつ彼はこれだけでも十分充実したと振り返れるであろう夕餉を堪能した。
 しかし今夜の逢瀬はそれが目的ではない。
 彼女が食器を片付け終え戻ってくるのを待って、ちびちびとグラスに残った酒を舐めながら彼は件の映画のDVDのパッケージを眺めつつまたしても何度も自分に言い聞かせた。期待はするなと。また焦るなと。
 なのに現時刻をちらと確認しながら上映時間もしっかり調べて計算してしまう男心の虚しさよ。約二時間、正確にはエンドロールの時間も入れて百十分程度だろう。終わってから温かい茶でも淹れて感想を言い合ったり、この逢瀬の切欠でもある男の登場シーンについてあれこれと確認し合えば、きっとそれなりの時間にはなる。勝負はそれからだ――なんて、つい思ってしまう。
 しかしやはり、過剰な期待はいけない。迫りすぎてもいけない。相手の身持ちが堅い性格もあって何事もなく終わる可能性のほうが高いのだと、彼はアルコールがほんのり回っている感覚に浸りながらきちんと整えられた寝台に背をもたれさせつつ考える。皿を下げたあと食卓ごと取り払ったため足を伸ばせるようになった空きスペースに座布団を兼ねた誰かの残り香を漂わせるクッションが一つ、同じくクッションに腰を据えた彼の横に置かれているのをちらと眺めて。
 そうしてハンドクリームなんぞを塗りながらお待たせしましたと、いまだ酒のグラスを引き下げもせず甘辛い味付けのイワシ煎餅を携えて戻ってきた彼女に彼はまだ飲むのかとやや驚いたがそれも自宅だからこそだろうと納得し、静かに映画は始まった。
 ふたり以外の事務所の面々は全く知らないと口を揃えて言い放ってきたものだが、やはり映画史に残る名作なだけはあった。画面は白黒で音声も聞き取り難い部分があるにも関わらず、綿密に練られた脚本と今のご時世では考えられない間の取り方、目を惹きつける画面構成と主役の怪演、白黒のみで創られる映像美にふたりはすぐに飲み込まれた。
 けれど大まかなあらすじは知っているので、テレビ画面を食い入るように見つめるほどではない。目覚まし時計が上映から一時間を経過したと教えてくれた際、彼は別に勝負のときでもないのに僅かに緊張してしまったし、どちらともなくグラスがからりと音を立てるとふたりの間の空気がほんの少しだけぎこちなくなった気がした。
 クッションの位置も割合に近いためだろうか。相手が酒の肴を取った口にグラスを運ぶ動きですら、微かに漂う体臭が鼻腔をくすぐり、二の腕や肩が不意に掠れる。現時刻は十時をとっくに回っており、酒の効果もあって隣の肌や体温に意識がどんどん吸い寄せられる。
 けれど、映画に集中しなければこのあとの会話に支障が生まれる。ちゃんと観ていたんですかなんて苦笑気味に咎められたら、それで今夜はお開き、やんわり帰れと言われかねない。だから彼は必死で画面に視線を合わせようとしたのだが。
「……は?」
 唐突に、耳を触れられた。正確には耳朶を、白くてなめらかで柔らかな肌を持つ細い親指と人差し指で挟まれた。つねってはいない。ただ挟んでふに、と柔らかく潰された程度。それだけでもぞくと、驚愕と不意の刺激に背筋が鳥肌を立てる。
 どこからと問われれば無論ここにはふたりしかいないのだから隣、女が座っているほうからで、触られたまま数秒ほど固まっていた彼はすぐさま我に返って首をそちらに向けると、そこには当然天使の娘が三角座りで座っていた。こちらに腕を伸ばし、手は男の指を耳朶に絡めた格好を作ったまま。
 男のほうに手を伸ばしたのは無意識だったのか、いつもと違ってとろんとした目付きの彼女はグラスの中身で唇を潤すと頬をほのかに紅く染めたまま画面を観ている。しかし内容はしっかり頭に入っているのか甚だ疑問を抱かせる危うさも漂っており、暫くこのままにすれば瞼を閉じて眠りの世界に落ちかねない。
 これはまずいと悟った彼は、相手の手からグラスを掻っ攫うと同時に彼女の名を呼んだ。
「おいアルティナ、どうした?」
 両方の動作はきちんと彼女を覚醒に導く効果を発揮したらしい。ゆっくり瞼が三度か四度青い瞳を覆い隠しては見せる動作をすると、正気の光を瞳に宿した彼女は自分の両手の異変に気付いて先とはまた別の意味合いで頬を赤くして口元を隠した。
「え、あ、やだ……わ、わたくし、とんでもないことを……!」
「い、いやとりあえずはその、落ち着け」
 映画はもうすぐクライマックス。厳粛な空気の中、病院で看護師たちがベッドを巡回しているシーンが流れているにも関わらずふたりはそちらよりも互いに軽く向き合る。特に彼女はすぐさまクッションの上に正座して、まず相手に深々と頭を下げた。
「ええと、あの……申し訳ありませんでした、ヴァルバトーゼさん……。わたくしったらつい、いつもの癖で……」
「癖?」
 畏まっているせいか普段から華奢な印象の肩がもっと細く見えたが、そちらよりも意識を向けさせる新情報に軽く目を見開いた彼へ、彼女は俯いて顔を上げないままこくりと頷く。だがその俯き隠された表情こそを、目にしたいと強く願ってしまうのはきっと男として間違ってはいまい。
「……眠くなると出てしまう癖ですの。いつの間にか、ひとの耳朶を触ってしまって……」
「だ、だがお前。飲み会ではそんなこと一度も……」
 していなかったではないかと言いかけて、彼は更なる事実に気付いた。飲みの席の終盤にもなると、大概彼女はいつの間にか横になっていたり目を瞑っていることが多い。つまりとっくに眠ってしまっていて、眠気に苛まれている彼女を見るのは今回が初めてだったのだ。
「フロンさまや天使の先輩がたにはよくしてしまう癖でして……。い、一応職場での席ですと、いつもは我慢していますのよ? けれど、あの、今日は自宅ですし、あなたとふたりきりですし、それで、その……」
「ああ、まあ……油断していたと……」
「はい……。その、本当に申し訳ありません……」
 正座をしていることもあってか、またしても土下座の深度で頭を下げられかける。しかし彼女にそんな態度を取ってもらいたくない彼は、華奢な肩にそっと手を添え詫びを阻止し、顔を上げるよう導いた。ぎこちなく持ち上がる首から上、戸惑い交じりのかんばせは確認するまでもなく申し訳なさそうだが、そんな表情に彼の胸は場違いなほど高鳴ってしまう。
「……まあ、あれだ。驚きはしたがそこまでお前が恐縮することはない。気にするな」
「気にするなと言われましても、ご迷惑でしたでしょう?」
「驚いただけだ。……あー、あと、その、な」
 言うべきか言わざるべきか少し迷ったが、彼女を安心させるためにもここはやはり素直にもう一言付け足そうと判断したはいいものの、その言葉を吐き出そうと意識した瞬間、急激に彼の喉と舌がもつれる。自分でも少しずつ顔が赤くなっていく自覚があったが、それでもこんな言葉くらい言ってしまわねばと勇気を奮い立たせ、怪訝な表情を浮かべる娘に向かって彼はようやく一声。
「……わ、悪くなかった」
「はい?」
「お前に、その、耳でも触られるのは……。悪い気は、しなかった」
「は……」
 ぽかんと口を開けた天使の娘は、言葉の意味を脳にまで到達させると今度は耳まで赤くして俯く。彼もまた赤面していたが、それでも彼女の表情を見たい気持ちが強くて俯くのはどうにか堪えた。
「……ななっ、何を、急に、そんなっ、下手な慰めなんかなさらないでっ!」
 裏返る声の可愛らしさに、胸が切なく締めつけられる。自分より動揺が酷い人物が眼前にいるせいか取り乱すこともなく、彼は心音が次第に大きく激しくなっていく感覚に身を委ねながらも舌の緊張は解れていく不思議を体感しながら首を振った。
「慰めるつもりはない。事実だ」
「そんな、そんな……。たとえ耳とは言え、殿方を相手に、はしたないこと、でしょう」
 天使のもとで育ったからこそだろう貞操感の強い言葉に、しかし何よりも彼女らしさを感じて彼は喉の奥で笑う。自然と、太股に置かれぎゅうと握られたままのこぶしに自分の手を重ねられた。いつも、触れるだけでも緊張してしまうそれに、今回ばかりは優しく。
「癖なのだろう。ならばはしたなくなどない。……お前が俺の隣で気が緩んだ証があれなら、むしろ嬉しい」
「……そんな、こと……」
 こぶしは戸惑っているようだった。彼の言葉を信じたいようで、けれど無意識に異性に自分から触れてしまった自分が許せないのか。許してしまえと、彼は思ってしまう。しまうついでにもう片腕が動いた。
「アルティナ」
「んっ……!」
 桃色の髪を掻き分けて、熱を持った耳朶を親指と人差し指で挟む。自分のように尖っていない、丸くて綺麗でやや小振りの、福耳とは程遠いがちゃんと柔らかい感触は、成る程触っているとつい癖になってしまうのも納得だった。
「……これで俺も同罪だ。お前が気に病む必要はなくなった」
「ヴァルバトーゼさん……」
 名残惜しくも指を離して囁くと、ようやく彼女の顔が正しい位置におずおず戻る。酒が入っているせいでもあるのだろう、清浄な湖を思わせる目元は不自然なまでの潤みを湛えて輝き、彼の心に更なる切なさと形容しがたい衝動を湧き上がらせる。もう、堪らなかった。
「アルティナ……」
「……あ」
 今度は頬に。繊細なものに触れるように指を這わせ、小さなおとがいを自分の顔の位置へと導く。いつの間にか重ねていた手は細い腰に移り、彼女の身体を優しく甘く拘束していた。それに女は抗わない。抗えない。
 互いの顔がゆっくり近付いていく。茘枝の香りがほのかに彼女の体臭に混じり、ならば自分の口にしていた焼酎が同じように相手の鼻腔に届いて、不快な気分を催させてしまわないかと僅かに不安を抱きもしたが勢いは止まらなかった。
 そうしてようやく、体温が、肌が、皮膚が重なる瞬間に――。
 響くチターの高らかな音色。
 不意に硬直したふたりは聞こえた先に首をやる。当然、テレビ画面からのもの。映画のクライマックスが、もう始まってしまったらしい。
「……そうか」
 しかし気持ちが昂ぶったままの彼は、手に届く範囲に置かれていたリモコンの停止ボタンを押してテレビの電源も切ると改めて彼女に向き直る。我に返った顔をしていた彼女もまた目を瞬いていたが、彼の無駄のない動作に仕方ないと言わんばかりに苦笑を浮かべ、大人しく彼の腕に抱かれたままでいて。
 それでも流れのままにことを成すのは礼を欠くと思ってしまった彼は、緊張してしまうものの改めて彼女を見やり、その意思を確認した。
「……その、いいか。アルティナ。続きを、してしまって」
 暫くの沈黙と躊躇の間を置き、小さく、細い首が動く。
「…………はい」
 了承の返事を耳にした安堵と感激に、彼は肺の底から息を吐き出す。そして今度は甘い雰囲気が薄く緊張感が強いものの、やはり瞼を閉じて互いに唇を重ねた。静かに――優しく――柔らかく――甘く――。
 舌を入れるまではいかない。そこまで行くと彼女が驚き、悪い意味で身体に篭ったぎこちなさを蘇らせてしまいそうだから。
 けれどその感覚に浸りたいくらいには唇だけの触れ合いは心地良くて、理性がゆっくり蕩けてしまいそうで、酒からは得られない、とろんとした快感はやはり堪らなかった。
 このままずっと唇だけの触れ合いを続けていれば相手のありとあらゆるところを触ってしまいそうで、それは彼女に許される行為なのかそうではないのかわからない。ただまあ、分別と称される最後の理性の欠片は彼にも残っていた。
 脆い銀糸がふたりの唇を未練がましく繋ぐこともなく、熱い吐息が肌を撫でるのみで触れた箇所がゆっくり離れていく。手を重ね合うよりも接触面積は少ないのに、頭の芯からぼうっとしてしまう初めての不可思議に酔い痴れたままらしい彼女の無防備な表情を視線で愛撫しながら、彼は低く囁いてやった。
「眠気がまだ残っているようなら風呂にでも入れ。上がるまで待つ」
「……あ、汗臭い、ですか?」
 上擦る声のか細さにいいやと喉の奥で笑って、彼はその背と羽をゆっくり撫でた。親指が付け根に触れてしまったせいだろうか、ぴくりと柔らかな肩が反応を示す。
「心の準備は必要だろう。……その、お前にも俺にも」
 照れ臭さがぶり返しそうになりながら告げると、彼女も彼が緊張しているのだと理解して頬を赤く染めていながらもくすりと笑い立ち上がる。言われた通り、シャワーでも浴びるつもりらしい。箪笥に向かってタオルやら何やらを引っ張り出しているようだが、そこまで見てしまうのはいくら何でも憚られて、彼はきちんと視線を外してやった。
 それから柔らかな足音と、丁寧にドアが閉まる音を耳にして、彼は尻ポケットに入れていた携帯電話を取り出す。よもやとは思ったが、ここでこの手を使うとは全く考えていなかった。しかしこの操作とこれから待ち受けるであろう冷やかしを克服せねば、そもそも今夜は彼女と一緒に朝まで過ごせないのだからやむを得ない。
 普段ならば手馴れたはずの短縮ダイヤルを液晶画面に出すことさえも躊躇いはしたが、背中のほうから聞こえてくるシャワーの音に勇気を奮い立たせて彼は通話のマークを押す。四回コールが続いたあと、まさしく旧知の知り合いの声がスピーカーから聞こえてきて、彼は生唾を飲み込んでからさり気なさを意識しつつ声を放した。
「……俺だ。急にすまんが、お前に頼みがあってな……。その、俺の自宅に、今夜は俺は帰れないとの電話をかけてほしいのだが……」
 予想通り、世帯者の余裕たっぷりの笑い声と冷やかしを大いに浴びせられたものの、結局のところ彼はその夜、幾つかのことを学んだ。
 例えば天使の娘の寝間着は厚手のワイシャツと下着だけらしいこととか。例えば幼い頃に出会った少女と不意に別れることになってしまったあの日、彼女が具体的にどこに暴行を受けたのかの痕跡とか。例えばその晩、組み敷いた女の弱いところとかどんなことが好きなのかとか。例えば生まれて初めて誰かと添い寝しても、案外どころかしっかり眠れるらしいこと、とか。





後書き
 腐れ縁の友人が眠くなると人の耳朶を触ってしまう癖があると聞いて、「ないわー」って反応をしたら「ええー、これ二次元でやったらかなりいい感じよ?」って言われて書いてみたらマジでいい感じで話が転んでイラッと来ましたとさと言うお話。
 ちなみに古い映画は『第三の男』。まあ名作には違いないが若い男女が観る映画ではない。
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