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SHAMBLES

2011/09/29

 ありのまま起こったことを話そう。昔話をし終わったら、そのときの自分が現れた。
 傭兵だった人狼と誇り高き吸血鬼との出会い、そして件の悪魔が彼の僕となるまでの話が一段落し、何故か自然と集まってしまった個室からぞろめき出たあと。
 人狼の野望について、姉妹が野望を抱く本人に詳細を教えろとまだしつこく食い下がりながらなんとなしの流れのまま事務所に全員で向かった先。扉を開けるとそこには、もう馴染んでいるような面構えで、四百年前の、悪魔にでさえ『暴君』と呼ばれ恐れられた吸血鬼張本人がソファに悠然と腰掛けていた。
 それまで能天気だった一同を包む空気が瞬時に凍る、どころか石化する勢いで硬直し、頭の中が疑問符で埋め尽くされながらもあまりの衝撃の激しさにそれを言葉に出すどころか顔に出すのも難しい、永遠に近い沈黙が横たわる中。真っ先にプリニーもどきの少女が一言、嬉しげに声高く告げたときの衝撃を、いまだ彼は忘れられない。
「さっすがアタシの夢! 昔のヴァルっちがどんな見た目してんのか、丁度見たかったところなのよ!」
 この言葉を耳にした彼は大いに脱力し、こんなところでもそれを引っ張るのかと心底呆れたところであのとんでもない驚愕による硬直から解放されている我が身に気付いた。横を見れば僕もまた我に返った顔をしており、続く面々もほぼ同じく。結果として、全員がどうにか精神的に支障を来たすこともなく平時の精神に立ち直ることができた。
 いつも苦々しく思っている少女の自称夢設定に救われるなんて、感謝どころか屈辱さえ感じかねないところだったが彼も大人だ。礼はプリニー教育係としての立場から口が裂けても言わないものの、その日以降、彼は少女に対して機会があれば行う、プリニーの自分を認めろ現実を見ろとの説教を心なし減らしてやった。当然心なし、であるため実際のところはどうかわからない。少なくともお説教を受ける側は少なくなったなんて思っていなかろう。
 閑話休題。以降立ち直った一行は『暴君』たる吸血鬼から事情を聞き――突如現れた不可思議なゲートに飲み込まれた先がここだったらしい。つまり帰り方も不明のようだ――、審議と相談の結果とりあえずは食客としての滞在を許したまではいい。部屋を用意すると出て行った執事がなかなか帰ってこないので、様子を見に行ったラスボス修行中の人造悪魔の少女曰く、曲がり角で声を殺して泣いたデスよとの報告を受けて、長らくの僕に対し彼は非常に心苦しく申し訳なさを覚えたがそれはまた別問題として。
 現在プリニー教育係たる吸血鬼にとって尋常でなく不安を抱いたのはただ一つ。自らが血を断った原因である、今は天使となった娘と四百年前の自分が出会えばどうなるかとの問題において。
 幸いにも執事がこの超大型新人を部屋へと案内しに戻ってくるまでの間は、ミーハーな姉妹や英雄譚に憧れる死神の少年が長身の吸血鬼にまとわりついていたため天使と『暴君』の視線がはっきり交わることはなかった。ただ子どもたちに囲まれる陰険な目付きの男を彼の隣で眺めていた娘が、本当に凄い魔力をお持ちだったんですねと苦笑気味に漏らしたことは印象深い。
 純粋な人間が魔力を感じ取ることは難しく、彼らが悪魔たちを見て危機感や恐怖を募らせるのは大抵が殺意や威圧感、そうして本能に訴えかける得体の知れなさからによるものだ。だから当時の彼女もまた、相手がどれほど強く膨大な魔力を有しているのかも知らずに吸血鬼さんと呼んで脳天気に接していた。けれど今の、天使となった娘は相手の力量を肌で感じ取れる程度にはそれらに親しい。だからそんなことを言ったのだろうと彼は納得し、また沈みがちな声から相手の心境を感じ取って、お前は気にするなと穏やかに慰めた。
 けれど結局のところ、あの程度の慰めなぞ無意味だったのだろう。それを痛感しながら、彼は今ただひたすら前を見ていた。言い替えればそれしかできなかった。
「……聞いてます?」
 眼前には女の顔。眉をしかめて辛そうな、切迫した天使の娘の瞳には普段の余裕なぞありもしない。理由は知っている。さっき聞いた。けれどたかがそれしきで、なんてことを思ってしまうのは彼だけなのだろうか。それを誰かに訊ねようとも、いまだに青年はそんなことさえできないが。
「……聞いていらっしゃらないの、ヴァルバトーゼさん」
「聞いている。聞いているからまずは体を退けろ、アルティナ」
「お断りします」
 すげなく断られる。予想はしていたが態度の頑なさに、彼は大きく嘆息した。
 今、彼は組み伏されていた。より正確には執務室を訪ねてきた人物の様子が一見するだけでも違和感があったので何事かと近付いてくるのを待つ、気でいたら書斎机を越えて椅子の近くまでやって来たので本当に何かあったのかと心配しながら次の相手の行動を待ったら唐突に椅子の軸を強かに横に蹴られ書類を何枚か撒き散らしながらバランスを崩し椅子から転げ落ちたところで四つん這いの体勢で上から覆い被さられた。
 魔界どころか世界までをも救った英雄であるプリニー教育係を相手にそんな無礼な真似をしたのは、人間であった頃にこの吸血鬼と約束を交わした過去を持つ、今は天使の娘である。
 彼女を怖がらせるまで人間の血を吸わないなどと、吸血鬼にとっては致命的な約束を四百年にも渡り守り続けてきた彼は、成る程それだけ約束に執着する誇り高い悪魔なのだろうと多くのものは受け止める。けれどそれは本当に誇りに固執した結果なのかと問われれば無論違う。
 約束を交わしたのが、今現在しっかりと彼を組み敷きてこでも動かない気迫を漲らせる娘であったからこそ。俗世の汚さを知りながらも人の良い性格を貫き通す芯の強い女に強く惹かれたため、『暴君』と呼ばれた吸血鬼は己の強さを犠牲にして出会いからたったの三日で非業の死を遂げた彼女との約束を守る道を選んだ。
 そうして四百年を経て天使に転生した彼女と再会を果たした今、そこまでひたむきに想っていた相手に組み伏されるなどとは男として多少情けないものの一応は喜ぶべき事態なのかもしれない。しかし内容が。理由が。これが溢れんばかりの想いや情の込もった言葉や仕草とともに行われた行為なら、多少戸惑うものの彼だって喜んで相手の腰に手を回していたのだが現実は残酷なまでに違う。娘はそんなこと、一言たりとも口にしていないのだ。
「わたくしに退いてほしいのでしたら、わたくしの血を吸ってください」
 さっきも彼が耳にした言葉を、娘はもう一度繰り返す。そう、これだった。怖いもの知らずの大胆さを持ち得ているとは言え、女としての淑やかさと優雅さは忘れない彼女が、こうも大胆なことをしでかしたのはまずその願いにある。願いと言うより最早、脅迫に近いが。
「…………吸わん」
 しかし男たるもの悪魔たるもの、天使の娘に脅迫を受けてそれに従うなど言語道断。ゆえに彼は迷いなく拒絶する。それでも多少間が空いてしまったのは、視界に否応なく映る重力に従ってこちらに迫っている乳房の光景とか、自分の肩の上辺りに両手があるのはともかくとして女の両膝が自分の脇腹の辺りにあるのはまずくないか、と言うより下手をすればこの位置は相手が少し腰を下げるだけで尻やら太股に自分のどこぞが触れてしまわないかとか、そんな動揺と期待と――いやこれは言葉の綾である――不安と予感によるものだ。
「でしたら退きません」
 女は反対に間も空けず、打てば響くように凪いだ声で応じる。声や表情は一見冷静だが、実際のところ精神的な余裕なんぞ一切ないのが非常に面倒臭い。心底そう思い鼻から深く呼気を抜いた彼の仕草に、天使の娘は微笑んだ。無論、笑みのかたちを作ったのは口元だけで目はぴくりとも動いていない。
「大変お困りのようですわね」
「まあ、な」
 誰のせいだと苦々しく頭の中で悪態を吐くものの、それを言えばあなたのせいですなどと身も蓋もない指摘をされてしまいそうなので声にまでは出さない。女のほうはそんな彼の心のうちなど露知らず、首を傾げて垂れ下がる前髪を彼の耳に掠れさせる。不用意な刺激に頬が強張った。
「わたくしの血を吸ってしまえば解決する問題ですのに、どうしてあなたはそこまで頑ななのかしら」
「……吸わん。いや、いつかお前との約束を果たしその血を吸ってやるつもりではあるが、それは今ではない」
 断言すると、それまで人形めいた可憐な顔立ちの、しかし硬質な表情を張りつけていた娘の柳眉がぴくりと動く。今度の変化は作った笑みとはまた別物。彼女のうちに秘められた、渦巻く荒々しい感情がちらと垣間見えた瞬間。
「そう、ですか」
「そうだ」
「それはつまり、またこうしてお会いできたのに、あなたが今の今まで血を吸えないのも、わたくしのせいだと仰るの?」
「は、いや、そんなことは……」
「そうですわよね。勤勉なあなたですもの。今までわたくしを怖がらせるために色々と考え、試してたこともおありなのでしょうね」
「あ、アルティナ?」
「……ごめんなさい。鈍感で、ひとの努力を無意識に踏み躙るような女で。あなたにやせ我慢を強いてばかり、厚意に甘えているばかりで、ご恩に報いることもできず……」
 なんだか話が奇妙な方向に捻れている。いやな予感を覚えた彼がどうにか宥めようと頭と舌を動かそうとするより先に、娘は眉をくしゃりと歪めて、その目尻から輝くものを滲ませた。男の頭が瞬時に凍る。
「ごめんなさい。わたくしのせいで……あなたを苦しませたままで、あなたに怖がれないような無神経な女で、本当に、ごめんなさい……!」
 ついに、とうとう。普段から余裕ある態度を崩さず、意地悪な見方をすれば一種冷酷とも取られがちなくらい気丈な精神の持ち主であった天使が涙を流す。
 組み伏され、少しでもどちらかの体が動いてしまえば密着しかねない状況にも関わらず、熱い雫を頬に受け、その不器用に崩れた泣き顔を目を逸らせない位置で見受け、彼は全身を硬直させた。――泣かせてしまった、よりにもよって自分がこの娘を。その逃れようもない事実に、過去は悪魔でさえ恐れられたはずの吸血鬼は、舌をもつれさせるほど狼狽える。
「い、いや、アルティナ……、それは……!」
「慰めなら不要です……! 四百年前のあなたのお力を見せつけられて、わたくしがどんなことをしたのか思い知らされて、それで言葉でどうにかなるとお思いなの……!?」
 悲痛な叫びに、実際どうにか慰めようとしていた彼の唇が軋む。
 その通り。天使の娘がこうも大胆なことをしでかしてまで彼に血を吸わせようとしているのは、あの『暴君』の到来が大きな要因だった。
 件の人物を党の食客として扱うとは言え、いつまでも所在なくぶらついているのは本人の性格からも周囲の期待からも難しい。適当な理由をつけて戦場に連れ出し『暴君』の力を一目見ようとする連中は多く、当人もまた自らの暴を振るうことにやぶさかではないから誘いに素直に応じ、結果的に多くの悪魔は目にする訳だ。四百年前魔界全土にその名を知らしめた伝説の吸血鬼がその身に宿す、圧倒的な破壊力を。
 今のプリニー教育係としての吸血鬼でさえ、血を一滴も口にしておらずイワシを主立った栄養源にしている状態で神の造りしシステムに抗えるほど強かったのだ。人間の血を吸っていた時代の彼は、周囲の予想を遥かに超えて、まさしく規格外の強さを保持していた。
 男が通ったあとは比喩でなく雑草さえ生えない不毛の大地と化すほどだととある悪魔は引きつり笑いを浮かべ、あんな化け物を相手に死神王は対等に戦えたのかととある悪魔は目を輝かせ、あれでは彼の僕である人狼が今でも主に人の血を吸えと言うのもよくわかるととある悪魔はこっそり知己に漏らした。それくらい強かった。誰も彼もがその強さに改めて『暴君』の伝説は真実だと思い知らされ、賞賛し、いっそ妬みを通り越すほどの敬意と恐れを抱いた。
 そうして多くの悪魔たちは自然と囁きあう。――もし血を口にしていない今の吸血鬼が。それでも神に反逆したあの英雄が血を吸えば。どれだけ強くなるのだろう。やはり四百年前の『暴君』と対等か、それ以上に強くなるのだろうか。
 それは単純な疑問であり期待。少なくとも彼らはそう思っているし、他意はない。そのはずだ。でなければ、今の吸血鬼に血を断たせてしまった原因たる天使の娘は、もっと早くに追い詰められていただろう。時間の問題、とも言えるが。
 ともかく『暴君』の強さが党内で瞬く間に話題になれば、当然天使の娘の耳にも入る。支援要員として優秀な彼女は戦場に引っ張り出されることも珍しくないし、その際に全盛期の吸血鬼の力を目にしたこともあっただろう。そうしてやはりかの悪魔の強さを肌で感じ、女は己の立場と約束に、どんな言葉や視線より重い責任を感じたらしい。結果、こうしていまだ約束を己の解釈により守ったまま血を吸わない相手に迫っている。
 この状況を応用して一枚ずつ衣服を脱がれたり、色っぽくしなだれかかられて血を吸うなら自分の身体を好きにしていいなんて囁かれたら鋼の意思を持つ彼もかなりの瀬戸際まで逡巡する可能性も大いにあるのだが――いや、もうそこまで露骨に誘われるなら勢いに任せて身体だけ美味しく頂き血を吸う件は誤魔化す可能性は非常に高い――、不幸なことに娘はただ相手が困っているから組み敷いているだけ、拘束しているだけだと言う。
 事実、憎たらしいことに彼は大変困っていた。このままの体勢でいるだけでもまずいのに、彼女が身じろいだり腕の間接を折ったり尻の位置を下ろしたり、ともかくこれ以上接触箇所を多くしてしまえば下腹部はどうあっても窮屈になるだろうし、それを彼女に悟られてしまえばどうなるか。まず幻滅される。怒られる。軽蔑される。少なくとも、こんなときに何を考えているんですかと睨まれるのは間違いない。
 それにお前のせいだと開き直れれば彼も楽なのだが、そもそも彼女がこんなことをしでかしたのはこの自称誇り高い吸血鬼の実質呆れるほどの頑固さも要因の一つである。紛うことなき因果応報に、青年は少し泣きたくなってきたがそれより先に言うべきことは言っておく。
「……アルティナ、泣くな」
 当然それしきで彼にのみ降りかかる熱い雨が止みはしない。それでも青年は、彼女の涙など見たくなかった。心苦しかった。泣かせた原因が自分であると言う事実が、ますますもって遣り切れない。自らへの憤りが杭よりも鋭く胸を穿つ。
「っ、おこと、わり、し、ます……。血を、……飲んでくれる、んっ、なら、考え……っ」
 応じる女は涙を流し嗚咽を漏らし、はっきりと首を振る。大粒の涙が前髪の房を湿らせ顔に張り付いたのが鬱陶しかろうに、鼻を啜り上げる仕草をしているのに、背中を戦慄かせて羽根が半端に抜けてもなかなか落ちずくすぐったかろうに、娘はやはり彼を拘束する両手を頑として退けようとはしなかった。強情な奴だと、青年は心底に嘆息する。
「一応言っておくがな、アルティナ……」
 落ち着け、冷静になれ、は泣く以前からあまり良い効果を上げなかった。ならばと彼は衝撃から次第に立ち直ってきた頭を無理からに動かす。雫はまだ、娘のまなじりから落ちてくる。
「お前との約束を貫き魔力を失ったことを、俺は後悔などしていない。地獄に堕ち、我が天職と言えるプリニー教育係の職に就きイワシと出会ったことも、むしろお前との約束により得たものだと思っている。ゆえにお前が責任を感じる必要はない」
「…………」
 不意に、赤く腫れた女の瞼が伏せられた。それはいつか『恐怖の大王』の一件以来、ふたりだけで改めて話したときの焼き回しかもしれない。けれどあのとき交わした言葉と気持ちに一切の嘘はなかったと今も思えるから、思い出してもらうつもりもあって彼は慎重に言葉を選ぶ。
「お前はあのとき俺が約束を果たしたと言うが、俺は俺の意思でお前を怖がらせた自覚はない。……お前の誘いを退けたのはそのためだ。その辺りは、お前も理解しているな?」
 理屈としては理解している。しているともと、娘は深く頷く。しかしそれにこそが不満があるとでも言いたげに濡れた眼差しが強くなった。
 ついでに強情さも増しかねない水色の瞳に重く吐息をついた男は、続けるべきか迷った言葉を頭の中で持て余す。言えるのか、あのときこの首筋に牙を剥けば血を吸う以上の狼藉をしかねなかったなど。あのとき杭の奥から溢れてしまいそうになった気持ちが、彼女に伝わるのか。試していいのか――。
 否、止めておこう。少なくともこの状況はそんな感情の吐露に適切ではない。組み敷かれて告白なんぞ情けないにもほどがある。そうして彼は冷静、と言うより見栄と臆病が増した頭でそう判断すると、ため息一つで話題を切り替えようとする。
 しかし、運命とは予想を裏切り続けるもの。話題を切り替え逃げるつもりでいた彼は、結局のところすぐさま自らの心のうちを話すこととなった。
「成る程、あのときの俺は今の俺が見ても確かに強い。多くの連中が俺にもあの力を求めるのは悪魔の性分を考えれば致し方あるまい。しかしあのときの俺は、真に約束を貫くことの大切さも、本当の意味での誇りも知らんのだ。……それに何より……」
「…………?」
 言い淀んだ男の表情に何を感じ取ったのか、女の濡れた眼が再びはっきりと見開かれ、微かな疑念の光を帯びる。――夏の澄んだ空、底まで見渡せそうな湖に張る水の色、朝露を花弁に湛えた青い花。自然界の中で見出せる色の中でも、どれにも喩えられるようでいてどれとも違うこの鮮やかな薄青い瞳の色彩を彼は知らない。たっぷりとして柔らかな艶めく桃色の髪、この顔かたち、この華奢くもなめらかな四肢、芳しい甘い香りを漂わせ、瑞々しく色づいた唇から漏れるどんな楽器のどんな音色よりも心を捕らえて酔わせて離さない声。それら総てが合わさった奇跡の肉体に、更に自然体でありながら慈悲と清廉と高潔さを持つ魂が宿った唯一無二の存在を彼は知らない。
 そうともこれを。彼女を。あのときの、『暴君』と呼ばれていた吸血鬼は知らなかった。
 人間たちを恐怖に陥れる使命に勤勉な吸血鬼を危険視、もしくは勤勉とは言え所詮この程度だろうと嘲笑う神や運命とやらが与えたもうた罠なり試練なりが彼女だとするならば、悔しいがその効果は絶大だ。そう思ってしまうくらい、彼は一日もしないうちにこのもとは人間であったこの娘に囚われた。
 四百年経った今でも変わらず娘に対する情念は激しく彼の胸に渦巻き、彼女の一挙手一投足に意識が自然と引き寄せられる。仲間の泣き顔を見て何事かと思い、事情を知れば相応の対応を取るべきと思う気持ちは強かれど、どうかこれ以上泣いてくれるなと胸が苦しくなるほど切に願うのはこの女くらいなもの。
 なのに。
「……その、だな……」
 舌が動かない。喉の奥から言葉が出ない。頭の中で言葉を具体的に描けば描くほど、鼓動が高鳴り脳が茹だり全身が硬化する。
 さっき撤回したところなのに言えるのかこの状況で。お前を知らなかった頃の俺の力なぞどれほどの価値があるのかだなんて。お前と出会う以前の俺の力は、お前と出会いお前との約束の犠牲として捨てるためにあったのだろうだなんて。
 今度は告白めいていないのだからとどうにか色気のない方向性で推敲を重ねるべく試みても、考えれば考えるほど彼が言いたいことは情熱的な表現に変化を遂げ、自らの想いの深さと激しさを無理からに自覚させられる。恐れを振り撒けばそれでいい、悪魔には不要なはずの感情を、彼女を相手に芽生えさせ捧げてしまう自分の滑稽さと矛盾を突き付けられる。
 けれどけれど、こればかりは途中まで口にしてしまった以上言わなければ。娘はきっと泣き止むまい。じっとこちらを捉えたままの薄青い視線は、次なる己の言葉を待っているはずなのだから。
 またしても、天使の娘の目尻から熱い涙がもう一滴。自分の頬を濡らすそれに、青年は躊躇を諦めた。ああもう、いっそのこと簡素な言葉でいい。相手に意図が読み取れなくてもいい。言わなければ。言うのだ。言えと、今度こそ己を励まし背中を強く押したところで、ぎこちない喉がどうにか言葉を振り絞る。
「……お前を、あのときの俺は……」
 そうともそのまま一気に。
「し、知らなかっただろうが!」
「知って、います」
 返ってきたのは沈黙でもなく、息を呑む気配でもなく、何を言ってるんだろうと心底思っている呆れたような冷酷な一声で、彼は目を瞬いた。
「は?」
「今、ここにいる、『暴君』と呼ばれたあなたは、もうわたくしを存じ上げておられます。……あの場では、挨拶はいたしませんでしたけれど、少しあとで、一応、お話を、させていただきました」
「……そ、そうか」
 完全に自分の意図が伝わっていないこの事実に、彼は安心よりも猛烈に頭を抱えたい衝動に駆られた。と同時に四百年前の自分に対して表現に難しい、何か、靄のような感情が過ぎるがここは一旦無視する。生憎と、この場にいない輩に構う余裕はないのだ。
「あなたの……仰りたいことは、わたくしにはよく、わかりません……」
 彼の反応から、彼女もまたふたりの会話に齟齬が生じているところまではわかったらしい。しかし内容を深く考える気もないらしく、鼻をぐずつかせて今度は小さく首を振った。
「ですけれど、……これで一つ、実感できました」
「何がだ」
 いつかのようにうっかり口を滑らせて出てしまった想いではなく、勇気を振り絞った言葉の意図を理解してもらえなかった現実に打ちのめされた吸血鬼に、天使は少々皮肉っぽく笑う。また、涙が生まれた。
「わたくしがどれだけ泣こうが居た堪れない気持ちでいようが、あなたには何の影響もないのだと言うことが」
「は」
 頭が真っ白になる。彼が今このとき受けた衝撃は、恐らく過去最大。それこそ何も知らないまま事務所の扉を開けて『暴君』と呼ばれた己と目が合ったときよりも激しい。
 影響がない。ないはずがないのに、この娘は一体何を言っているのだと、強い疑問が文字になって見えない鎖になって頭の中で溢れて溢れて溢れて、ついにははみ出て青年の体を縛っていく。
「よく考えれば、あなたはお芝居とは言え瀕死の狼男さんのお願いも退けた方ですもの。女の涙や拘束ごときで揺らぐ方ではありませんわよね。余裕がなかったとは言え、我ながら自惚れた愚行でしたわ」
 自虐的に己の暴走を一笑すると、彼女は四つん這いの姿勢のまま大きく深呼吸をする。感情を切り替えた証、なのだろう。このまま黙っているのは猛烈にまずい気がするのに、彼の頭はさっきの娘の発言にいまだ立ち直れない。
「……あなたのその、約束を貫く姿勢は立派だと、今でもわたくしは思っています。どんな局面に陥っても、それを守られる意思は感心に値すると思っています」
 立派。感心。それらは一応褒め言葉として日常的に使われるはずの表現だが、今このときの彼にとってはとてつもなく不吉な予感を抱かせた。彼女の物言いが、この瞬間だけ誰かに聞かれても不穏な空気を感じるほど非常によそよそしいため。もとより誰が相手でも丁寧な対応を取る娘ではあったが、今はブルカノと名乗っていたときよりも他人行儀な距離間をはっきりと感じさせる。
「ですから、……あなたはあなたのお好きになさってください。わたくしも、そうしますから」
 笑顔を浮かべて娘は告げた。
 さっぱりとしたそのかんばせは、確かに花のように可憐で人形のように整っていたが、けれどやはり眉が歪み涙を拭っていないため無理を繕う感がある。つまり彼女はこう言いたいのだろう――もう、あなたにはついていけないと。
「では、わたくしはこれで失礼し……」
「おいっ、待てっ、アルティナッッ!!」
 巌のように青年に覆い被さっていた娘が拍子抜けするくらいあっさり退いた瞬間と、ようやく衝撃が抜けた吸血鬼が上体を起こして女の腕を掴んだのはほぼ同時。
 しかし男のほうが反射的に動いたため、その握力は女の細腕には辛いものがあったらしい。白い羽根が舞い、短い悲鳴が上がって娘の眉が歪む。不意の痛みにまたも涙腺から涙が零れる。
「痛っ……、は、離してくださ……!」
「逃げなければ離してやらんこともない。約束はできるか」
「約束なんて、そんな大袈裟なことでは……」
「できんのならば離さん。いいか、お前は思い違いをしている」
 これまでの出来事で吸血鬼も半ば自棄になっているのだろう。勢いのままに口を動かして、羽ばたき抵抗心も露な娘を力任せに引き寄せる。こんなときでなければその肌触りを堪能したいところだったが、ここで離してしまえばもう会えないと彼は信じ込んでいた。
「まず俺は、お前に多大なる影響を与えられた自覚がある。どうでもいいなどとは決して思っていない」
「わたくし、そこまで大それたことを申しましたか……」
 泣いてささくれだった心境でいた自覚はあるが、随分と大胆なことを口走ったらしいと知り、娘は居た堪れないように薄暗い顔で俯いた。しかし彼は慰める余裕さえなく、頭に浮かんだ言葉をろくに考えないまま言葉にする。
「今の俺はお前に逢ったからこそ存在している。お前と出会ったあの三日を経て、お前との約束を破り、もう一つの約束を忘れず守り続けることで、今の俺はここにいる」
「……そ、んな、大袈裟な」
「ゆえに今の俺にとって最も大切なのは四百年前の俺の力を取り戻すことではない。適当な理由をつけてお前の血を吸うことでもない」
「…………」
 適当な理由などと言われ、それまで彼の勢いに戸惑うばかりだった娘の表情に変化が生まれた。あのとき感じたのは確かに恐怖なのだから、そんなことはないのにとでも言いたげな眼差しが赤い瞳に突き刺さる。
 しかしそれも無視して青年は心の赴くまま、これまででも最大級であろう威力を誇る言葉の爆弾を投下した。
「お前だ、アルティナ」
「は……?」
 それまで張り付けていた薄暗い顔も忘れ思考も一気に吹き飛ばされ、ぽかんと口を開き、目も見開いて珍しく阿呆のように惚ける彼女の反応に、彼は当然恥ずかしさが込み上げてきたけれど、自棄になった勢いのまま己の心のうちをつまびらかに語――ろうとして第三者の冷たく存在感たっぷりの視線を感じた。と言うか闖入者の瞬き一つしない赤い瞳としっかり目が合ってしまったため、慌てて我に返って言い繕う作業に取りかかる。
「ぃ、いや、あれだっ! 俺にとって何にも増して大切な、その、や、約束の大切さを教えてくれたお前に対する約束はっ、確実に、完璧に、果たさねばならんからな!!」
「……あ、ああ。はあ。ああ、そうですの。なる、ほど」
 そう言うことかと、こちらも我に返ってまるで自らに言い聞かせているような顔で何度も頷く天使の娘の傍らに、闖入者の月影めいた黒い外套が音もなく移動する。
 いやな予感からあからさまに眉をしかめた彼の表情の変化に、彼女がまたしても目を瞬いた次の瞬間、女の自由なほうの片手がすっと誰かの白手袋と絡め取られた。
「そんなに血を吸ってほしいのならば、俺が吸ってやるが?」
 唐突な誘いに娘が何事かと声のするほうに首をやれば、そこにいたのはふたりが現状こうなってしまった原因たる『暴君』その人で。渦中の人物に見苦しいところを見せてしまったと赤面し俯いたのか詫びたのか曖昧な仕草をした彼女に対し、彼のほうはいらんところで割り入りおってとの気持ちも露わに眉間の皺をますます深くする。
 そんなふたりの表情の変化を涼やかに無視して、『暴君』は微笑を湛えながらのんびり娘の指に指を絡め、手中のものに視線を注ぐ。その目付きは白手袋の中にあってもなお美しい、細くも柔らかな白指の、淡く色づく爪のかたちさえも愛でるよう。などと思ったのはその光景を眺められるどちらだろう。
「幸いにも俺はお前と約束を交わしていない。直接の罪滅ぼしにはならんが、気持ちは抑え切れぬと言うのなら俺が代わりに吸ってやろう」
 ――約束を守り貫く苦労も知らぬ阿呆が何を図々しくひとの獲物を取ろうとしている。厚かましいにもほどがある誘いに激昂し、そう叫びたくなった彼よりも先に天使の娘は苦笑を浮かべてふるりと首を振った。
「お断りしますわ、背の高い吸血鬼さん。わたくしが血を吸っていただきたいのはあなたではなく、こちらのあなたでいらっしゃいますから」
「そうか。……貧血になりでもすれば頭も冷えると思ったが、今のお前に必要ないらしい」
 それまでふたりの視線に合わせて屈み込んでいた『暴君』は、つれない返事を得たにも関わらず顔色一つ変えないまま細指に手を絡めたままよっこら立ち上がったため、つられて彼女も立ち上がり、更にはその下敷きとなっていた彼も立ち上がらせられる。昔の自分に誘導されたような感覚に魔力を失った吸血鬼はますます面白くない顔をしたのだが、残るふたりはそれに気付いているかどうか。
 少なくとも、娘のほうは全く気付いていなかった。両手を別々の時代の同一人物に拘束された珍妙な状態にも関わらず、背の高い男に向かって落ち着きを取り戻し小さく膝を折る。
「お気遣いありがとうございます。……泣いてすっきりしましたから、そうですわね。もう頭は多少落ち着いたと思いますわ」
 どこまでこの男に見られていたかは知らないが、涙の痕は拭っていないし瞼がいまだ腫れている自覚があるので娘は肩を竦めながら泣いたことをあっさり白状すると、ふむと短く相槌。何を思い立ったものやら、天使と向かい合っていた側の吸血鬼が、彼女を拘束していた手を離し、柔らかな線を描きほんのり色づく頬に触れる。
「何を……っっ!」
「あ、あの……?」
 唸る吸血鬼と軽く飛び上がる天使の反応を無視して、白手袋はゆっくりと娘の目尻の湿り気をなぞり、尖った顎まで指で伝うとまた反対の方向も同じことを繰り返す。それから丁寧にまだ睫に溜まったままやら前髪にみっともなく張り付いたやらの水気をそっと拭き取ると、また頬に戻るが今度は優しく添えるのみ。
 天使の娘の頬を慰撫する『暴君』と言う、四百年前ならば誰しもが目を疑うはずの光景を見せつけられたふたりはそれぞれ動揺を示すが感情の方向性は当然ながら全く異なる。ついでにここに吸血鬼に忠実な人狼やらプリニーもどきの少女やらがいたとしても、この光景に抱いた感情は各人見事に合致するまい。死神の少年と人造悪魔の少女についてもまあ同様か――いや、こちらは周囲に合わせて驚いたり驚かなかったりしそうな気もしないでもない。
 兎角、台風の目よろしく短時間でふたりに衝撃と驚愕を与え、鮮やかに場の空気を完全に支配した男は感情の乱れ一つ示さない。ただしっとりとした娘の肌触りを手袋越しに愉しんでいるのか、戸惑い気味の初心な反応を愉しんでいるのか、はたまたその両方か。機嫌良さそうに口の端を歪めて、女に優しく言葉をかける。
「これでおおよそ涙の痕は見えまい。腫れも少しすれば落ち着くだろう」
「……ふふ、色々とありがとうございます」
 頬を撫でられていた理由が判明し、安心の意味も含めて微笑んだ娘に、男もまた薄い笑みを浮かべて一度だけ首を横にやる。
「礼など不要だ。お前は俺の友なのだから」
「あら、友からの感謝の言葉を素直に受け取るのもまた友情ではなくて?」
「さて。天使の友はおらぬゆえ、天使の示す友情とやらがそうならばそれに従おう」
「天使も悪魔も人間も、友情の示し方はあまり違いはないと思いますけれど」
「そう言うものか?」
「少なくともわたくしはそう思っておりますわ。そのときどき接する種族によって態度を変えるなんて、なんだか神経質っぽくて疲れません?」
「疲れるから態度を変えぬと言うのか? ……フッ、やはりお前は面白い女だ」
「女を相手に面白いだなんて仰らないでくださいな」
「案じろ、貶したつもりはない」
 以降も続く、初めて目にしたはずなのに不思議と懐かしさも覚えてしまうやり取りを見せつけられた痩身の吸血鬼は、眼前にいる四百年前の自分がこの場に現れた瞬間から胸に覚えたいやな予感を、そうであってくれるなと願っていた直感を、今このときようやく明確なものとして、非常に認めたくなかったものの結局認めることとなった。――こいつもまた確実に、この天使の娘に悪魔が抱くべきではない特別な執着心を持っている。自覚か無自覚かは置いておくとして、彼女へ注ぐ眼差しだの涙を拭う仕草だのでそれはもうはっきりと、手に取るように理解できた。
 しかしよくよく考えてみればこれはもう仕方ない話なのだ。四百年前に人間であった娘を見初めた吸血鬼が、いまだ運命の女に出会っていない状態で四百年後の世界に来た程度で、惚れる女を変えるほうがおかしい。
 つまりこの瞬間から青年が過去の己に抱く感情は、複雑な感慨深さや懐かしさや巣立つ前の雛を見る感覚ではなく、いっそ敵意とも表現できるような刺々しさと危機感に変化を遂げた。百歩譲って穏やかに娘と会話しているのはまだいいとして、頬に手を添えたまま下ろそうともしないのは、彼のうちに宿る寛容の精神を隅から隅まで掻き集めたところで見逃せそうにない。
「……それで、貴様は何の用だ。業務に追われる俺を冷やかしに来たのならばとっとと帰れ」
 だからすっかりいつもの調子に戻った天使の娘と長身の吸血鬼が耳障りの良い会話を弾ませていた中、空気なんぞ読んでたまるかとばかりに彼が冷ややかな声を放ったのは聞き間違いでもない。のだが、間に挟まれている彼女は背中からの声に覚えた違和感を己の幻聴として受け止めたらしい。火照った頭に自由なほうの手を軽く当て、小さく吐息をついた。
「やはりまだ泣いた影響があるようですわね……。頭痛もまだ治まりませんし、わたくしは部屋で休ませていただきます」
「そうか。引き止めて悪かったな」
「いえ、お気になさらず」
 あのとき身体を退いたのはそう言うことだったのかと内心安堵した、いまだ彼女の腕を拘束していた吸血鬼もまたふたりの会話を背景に遅ればせながら手を離してやる。どうやら彼は、娘の言葉を深刻かつ重々しく受け入れすぎたらしい。
 そのまま帰ってしまえばよかろうに、彼女は羽を向けていたほうにわざわざ向き直り、じっと意味深に見つめて。
「……具合が悪いなら早く寝ておけ」
「わかっています。それでは」
 視線に居心地の悪さを感じた彼が素っ気なく告げると、少しだけ表情を暗くして丁寧に一礼し、それから彼女の涙を拭ってやったほうにも一礼して、最後に扉の前でふたりに頭を下げてから執務室を出て行く。
 残された四百年前と現在の、同一でありながら兄弟ほどに背丈も体格も違う上に現在のほうが幼いと言う一見すれば矛盾した吸血鬼ふたりは、控えの間も含めた扉が閉まり天使の娘が完全に視界からいなくなったのを確認すると途端に漂わせていた空気を変える。それがどんなものかを表現すれば、どこぞの天使長の目からでも苦笑いを浮かべるしかない程度に今にも殺し合いでも始めんばかりの、それはそれは悪魔にとって実に馴染み深い和やかさ。
「領収書を持ってきたのだが、なかなかに面白い光景と鉢合わせた。……よもやあの女を泣かす輩がこの俺とは」
「俺も今まで知り得ぬ事実を知り実に興味深く思うぞ。……よもや、あいつと過去の俺が勝手に友としての関係を築いていたとは」
 表面上は穏やかに、しかし鼠の一匹でもこの中に放り込めば絶命するのではないかと思しき沈黙と笑みが、四百年の時代を隔てたひとりにしてふたりの吸血鬼の間で交わされる。ように見えた瞬間、睨み合う。同一人物だけあって表情を切り替えるタイミングは見事なまでに同じだった。こちらに流れる空気は恐らく、気弱な生き物なら瞬時に胃潰瘍でも患って衰え死にそうな殺伐さ。
「泣かせておいて詫びもなしとは恐れ入る。四百年後の俺は随分と恥知らずになったらしい」
「友人風情でいけしゃあしゃあとあれの手どころか頬にまで触れる輩こそが恥知らず、いや礼儀知らずと言うべきだろうな」
「ふん。たかだか『約束をした女』程度によくぞそうも醜い独占欲を晒せるものだ」
「当然だ。俺の『約束の女』に鬱陶しい羽虫がまとわりつくなどあってはならぬ」
「その『約束をした女』とやらの約束を一度破った挙げ句に魔力を失った奴が言えた台詞か」
「ま、少なくとも俺の『約束の女』の友人の一人程度が言える台詞ではないな」
「………………」
 長身の男が黙り込んだため反射的に舌戦は自らの勝利と見たが、ここで油断は禁物だ。そう自分に言い聞かせ、自然緩みそうになる頬をぐっと堪えた痩身の男の判断は正しかった。何せ『暴君』と呼ばれた吸血鬼はその粘り強いさにも一定の評価を得ている。一例として最も的確なのは、たったの三日の出来事を四百年も引きずっている点がまず挙げられよう。まあそれはかの娘と出会ったあとの青年の話だが。
「『お前だ、アルティナ』」
 ともかく最後の切り札はひっくり返された。たとえ相手が自分であっても、やはり『暴君』は敵対者に容赦がないらしい。
 結果から端的に言おう。その切り札は当然、絶大な威力を発揮した。
 押し黙っていた男の呟きは悪魔の耳をして聞き取れるか取れないか微妙な線のごく小さなものだったし、相手の反撃にしっかり身構えていたはずなのに、痩身の吸血鬼はごぶ、と咽て以降激しく咳き込んだ。
 その様子を見受けて自らの反撃に実に満足したらしい長身の吸血鬼は、意地の悪い笑みを浮かべて懐から薄い紙を取り出し、四百年後の自分へと余計な言葉も添えながらひらり飛ばす。
「成る程。約束さえ完璧に果たせないままで、あの娘に関わるありとあらゆることを成し得られるはずがないと。……我ながら呆れるほどに律儀なことだ」
 そうしてこれで用件は済んだとばかりに扉に向かい、こちらは礼もせず、どころか扉をきちんと閉めようともせず執務室を退出し、残されたのはこの部屋の主たる青年一人きり。
 涙さえ滲むレベルで酷い咳がようやく収まり領収書を手にした男は――根っからの律儀さゆえ、腹いせに破ってやろうと思う前に見てしまった――、目にしたものに硬直させられる。今日はこれで何度目なのか最早数えていられないほどそんな心境になった気がするためもう何が起きても驚きそうにないのだが、それでもやはり彼は衝撃を受けてしまった。
 領収書自体はごくありきたりだ。新党を立ち上げたときからこの手のものはそれなりに見てきたが、おかしな点はどこにもない。書き損じもない、憎たらしいことに。
 ただ書かれていた内容が。六桁のヘルを請求されるのはまだ良しとしよう。十数万ヘルもする何を、あの『暴君』が買ったのかと問われれば。
「……ドレス……?」
 何故。誰のために。どうして。
 買った張本人はこの場にいないため、理由は生憎とわからない。わからないがありありとその辺りのことは想像できて、しかもそれが妄想ではない予感もあって、彼は思わず領収書を握り締め、まだ多くの仕事が残っているにも関わらず執務室を飛び出した。
 とりあえず目下はあの『暴君』を追うべく。蹴ってもいいがとりあえず追いついたら一発ぶん殴って、あの天使の娘を独占できるのは今のこの自分だけだと高らかに宣言するために。







後書き
 タイトルはごく簡潔に修羅場。本来は暴君フィーバー冷めやらぬときに書くべきだったんだろうけど生憎と書きたいときに書きたいものを書く性質でして……(リアルタイムはエロ書いてた思い出)。
 暴君とアルティナちゃんがお友だちになった経緯はidlyの会話ネタ見て漁ってもらえばわかるはずー。あと閣下がヘタレたと思ったら自棄っぱちになったり鬱陶しかったり散々ですね反省してますミ☆
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