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別れ-後編

2011/07/06

 一日も経たず戻ってきた人間界の、彼と約束した娘が住まう町は、彼が魔界へと一時戻ったときと同じようでやや違う空の色をしており。あのときが朝焼けも近い未明であるならば、このときは宵の口、夕日が沈んだばかりの夜の始まりで。
 早速彼は従者を連れて町はずれの診療所に向かったのだが、そこに目当ての娘の姿はなかった。遠目からでもよくわかる、鮮やかな桃色の髪も瑞々しい香りの肢体も、澄んだ声は窓の外からはどこにも見えず。
 いやそれよりも、診療所の内部が昨日一昨日と比べて明らかに違う。娘の放つ空気に染まり、のんべんだらりとしていた患者たちが遠目からでも今は剣呑で、ろくに体も動かせないはずなのに取っ組み合いの喧嘩さえしでかしそうな、重苦しくぎすぎすと互いの様子や言動を伺っている始末。
 何があったのか、娘はどうしてここにいないのか。違和感を覚えながら彼は人狼に素早く視線をくれる。蝙蝠を飛ばせば内部の様子も詳しくわかろうが、人狼の聴覚が手元にあればその必要もない。
 長い付き合いの人狼はそんな主の仕草一つですべてを察したようだが、どうにも表情は良い予感を連想させない。いや人間の住処を鼠のように探ること自体、悪魔の身ならば好いてはいないだろうが、彼の望みとあらば眉一つ動かさず死地にも乗り込む従僕はしかし、今は渋い顔で重々しく口を開く。
「確認させて頂きますが、閣下と約束した娘の名は……」
「アルティナだ」
 短く、自然と力を込めて告げた彼をどう見たのか。人狼は刹那、怪訝に眉をひそめたが主の視線を受けて自分の表情の変化を自覚しもとの顔に戻ると、細く長く息を吐き、淡々と呟いた。
「……その娘は、どうやら連れ去られたようです。恐らくは人間同士の諍いに巻き込まれ、唐突に」
「いつ……いや、どこへだ」
 愕然とするのも束の間、たちまち矢継ぎ早に問うた彼に、人狼は短く首を振る。
「それがわからぬが故に、奴らも戸惑っているのでしょう。……原因は」
「いい。直ちに町に戻りあれの行方を探す」
 返事も聞かず外套を翻し直ちに闇に紛れゆく彼の姿に、人狼は躊躇の間を置いたが、それでも何も言わず追従した。
 そうして町に戻った二人の悪魔は、狭くもない町を人の目をかい潜り、ときに欺き情報を集めた。得られた結果は当然ながら彼らにとって芳しいものではないのだか、町の人間たちにとって悪くない、どころか明るい話題であるらしい。
 町外れの診療所に詰める魔女がようやく捕らえられたのだと、彼らは口にした。ついに白昼蝙蝠なんぞを出したせいで目を付けられ、偉い人が動いたのだそうだ。この戦時中に、祝い酒までやる始末のものさえいた。
 だがどこにかは誰も知らないらしい。立派な制服を着た軍人やら、教会勤めの奉公人やら、彼らに付き従う傭兵やらが娘を囲って町を練り歩いていた姿が多数目撃されただけで、実際のところは魔女裁判だとさえわかっていないかった。誰かが直接一行に、娘をどこに連れていくのか、どうしてあそこから引き剥がすのかを喜色を浮かべて尋ねたらしいが曖昧に濁されたきりで。
 複数の立場あるものが連れ添えば、それこそどこが目的地かはわからなくなる。湖の反対側にある戦場の無数の天幕うちの一つか、教会か、どこぞの宿か。それとも全く関係のない民家にいるのか。考えれば考えるほど、捜索範囲は広がっていく。
「ええい、糞が……!」
「……閣下?」
 独自に集めた情報を集約し説明し終えた人狼に、彼は情報を集める以前より落ち着くどころか態度を悪化させて、何も言わずに再び診療所に戻る。
 速度も含めて唐突な主の行動に慌ててあとを追った人狼がようやくその姿を捉えたときには、彼の手に見も知らぬ女の私物と思しきハンカチがあった。窓から娘の部屋に入り探し当てたらしいそれを、彼は迷いなく従僕に突き出す。意味は明確、であるはずなのに。
「……閣下、それは」
「探せ、フェンリッヒ。誇り高き人狼たるお前にこのような真似をさせるのは心苦しいが、俺は諦めたくはない」
 人狼の目元に翳りが走った。臣下を気遣う心を持ちながら、それでも人間を匂いで探させる眼前の悪魔は、この従僕が傾倒する『暴君』にしては一時的とは言え感情的に過ぎる。そこまでの執着は悪魔にとって危ういと本能的に察した従者は、無駄だと薄々予想しつつも小さく首を横に振った。
「相手はたかが人間でございます。閣下が約束を守るに値する存在ではございません」
 人狼の想像通り、彼は僕の制する声など聞きもしない。それどころか、今までどんな命令でさえ逆らわなかった従僕に牙を剥くほどの怒りを見せる。
「貴様は二度同じことを言わせる気か、この俺に!」
「いえ閣下、断じてそのようなことは……!」
 叫んだ彼に、人狼は明らかな動揺を示す。しかしそれで嫌でも主が冷静になりそうにないと悟ったのだろう。逡巡の果てに短く顎を引き、ゆっくりと白手袋から女の私物を受け取った。夜空の下でちらちら輝くそれは刺繍が入っており、従僕は微かな違和感を覚えるも今は無視する。
「お前は町を探せ。俺は外を探す」
「畏まりました」
 短く人狼の重苦しい姿に、ようやく彼は自分の焦りを自覚する。いつの間にか震えていた唇から重い息を吐き出すと、その銀髪にことさら優しい声をかけた。
「……フェンリッヒ」
「は」
「お前に人探しなどさせること、すまなく思う。これは本来、俺一人で行うべきだと言うのに……」
「……いえ」
 視線を僅かに伏せた人狼は、改めて彼へと身体を向き直らせ、胸に誓いを立てるよう手を添える。
「すべては我が主のために。……わたくしも、誇り高きあなた様の約束のために、全力を尽くしましょう」
「頼む」
 彼としては当たり前に念押しした一声に、人狼がもの悲しげな顔を作る。彼は自覚していなかった。この従僕に彼が頼んだことなど、今まで数えるほどしかないと言うのにその一つがこれになるとは。
 彼は人狼と別れると、そのまま暗い林を走る。霧となり蝙蝠となり月光が照らす静かな世界をひたすらに。たかだか数百人程度が暮らす人間の町の周辺でしかないのに、普段ならば睥睨する価値しかないこの地は、今の彼には酷く広い。心細いほどに暗く深い。
 胸に去来する感情の正体を、今の彼に見極める余裕などない。ただ彼の脳裏に浮かぶのはあの娘の、アルティナと言う名前の娘の穏やかな横顔であり、自慢げに胸を張る姿であり、嬉しそうに目を細める笑みであり、あどけなくも切なげな、その狂おしいまでに美しい表情で――。
 頭の中で何度もその名を呼ぶ。意味はないとわかっていても、それしか今の彼にはできなかった。心の中で何度も叫ぶ。そうする理由は彼にはわからない、知らない。ただそうしてしまう、衝動的に。
 林の陰に誰かの陰を見る。娘かと思うがそれは木陰に過ぎず、一瞬の期待とそれがすぐさま裏切られた失望感に彼は木の幹を蹴り上げ薙ぎ倒す。深々と地中に根を張っていたはずなのに容易く横倒れた木の周辺で、付近の巣にでもいたのか鳥が羽ばたき小動物たちの鳴き声が騒がしく響いた。
 無闇に探し回るのはやはり無理なのか。このまま屍となった娘と再会するしかないのか。想像しただけで腸が煮えくり返り、己の無力さを思い知る。
 立ち尽くし、血を流さんばかりに強く手のひらを握りしめる彼に何の奇跡が起きたのか。いつぞやか娘もこんな体勢をしていたと思い出した彼は、そのまま初めて出会った場所も記憶の階層から引っ張りだした。
 診療所よりも更に町のはずれにある、廃墟と化した教会の前の湖で、あの娘は顔を冷やしていて。その背に音もなく立って振り返るのを待っていたのだ。それだ、そこだと思い至った彼は走る。比喩でなく風よりも速く、死よりも疾く。
 廃墟と化した教会に着いた彼は、辺りを見まわし人影を探す。ここにもやはりいないのか、ならば墓地かとそちらに足を向けかけたそのとき、誰かの投げ出された足を見た気がした。
「……吸血鬼、さん?」
 ようやくの、ほぼ一日ぶりの再会に、彼は心の底から安堵の息を漏らしながらか細い声のするほうへ首を向ける。だが、その視線の先には。
「アル……ティナ……」
 人形のように力なく焦げた石煉瓦に半身を寄せて、月下に照らされている以上に青白い肌の、今まさに生き絶えようとする娘がいた。

◇◆◇

 魔女裁判であれば良かった。
 さしたる証拠もない荒唐無稽な噂であれば、毅然とした態度を取り続けさえすれば時間は稼げる。魔女ではないことの証明は難しかろうが、それでも一日で完全に無罪のものを追い込むのは難しかろう。この町には裁判所などないのだから、領主や教会の本陣にお伺いを建てるにしても時間を要する。魔手から逃げきることはできなくはなかった。
 しかし今、取り囲む三人の男によって彼女に向けられている疑惑はそのようなものではなく。運が悪いほうへと坂道を下るように転がっていった結果の現実的な、密偵容疑である。当然彼女は無罪を主張した。しかし、奉公人はおどおどとした口調ながらも指摘して。
「け、けど、けんど、……あんた、金、持ってんだよ、な……?」
 いない、とは言い切れればどんなに楽か。彼女に私財はある、一応ながら。減っていくばかりで増えもしない、診療所の売り上げから金を工面できなくなって以降、給金として毎月換金するものだが。
「質屋では上客だったそうじゃない。あの人、ほら、けちだから君から買った品々で随分荒稼ぎしてきたらしいよ?」
「お蔭さんで、あんたの話引き出すのにかなり渋られたがな。ボタンなんかあの女は売ったことねえって、どうにも認めやがらなんだ」
 ボタンとは即ち昨日、窓際の男性がくれた純金のそれのこと。あのとき出会った母子は言いつけ通り質屋に売ったのだろう。だが四人のうちの誰かとその現場で遭遇し、ボタンに象嵌された紋章が、潰されてはいるものの敵軍の旗印と知らされて狼狽したらしい。自分たちは敵軍なぞには無関係だ、ここに売りに来るといいとこれこれこんな格好の人に手渡されたと告白して、それを彼らのうちの誰かと聞いた質屋の店主は盛大に舌を打ったと言う。
 その仕草こそ命知らず。心当たりでもあるのかと詰め寄られたが、店主はいやいやと慌ててそんな女など知らないと誤魔化した。母子は自分たちこそが無罪であると主張するため、知っているはずだいつもここに売りに来ると言っていたとしつこく食い下がり。
 結局のところ母子は無罪となった。否、質屋は小金持ちなのもあって町の住人からあまり信用がないから、彼こそが嘘をついているのだと決めつけられた。確かにそんな背格好の女はここの常連だと認めた店主は、しかし金ボタンなぞあの女から受け取ったことはないとわざわざ過去の帳面を引っ張り出して説得したらしい。軍人は口調を真似て切々と語る。
「ボタンとなれば、普通ならいくつもあるでしょうお客様。いっぺんに売ればそりゃあ怪しまれますからね、一つずつ売りに来るものですよ。けれどほら、見て下さいな。あの女が今まで売りに来たのは指輪やブローチやらそんなもので、きっとあれは偶然拾ったんだ――ってね?」
 偶然など起きるはずがない。隠し持っていたのが底を尽きたか、誰かから貰ったかのどちらかだとの彼らの判断は、皮肉なことに真実であった。
 大体、ろくに金を払うものもいない診療所に勤める看護師が何故そこまで金になる装飾品を持っているのか。敵軍から報酬として受け取っていたのではないか。向こうの要人の愛人ではないかと憶測を受けても、店主はそんなことはないあの娘は無実だと、頑として譲らなかったと言う。
 彼女は自分が今まさに密偵の容疑で民衆裁判にかけられているよりも現実感を掴めず、その話を聞いていた。質屋で値段の交渉をした経験もなく、大人しい客として振舞っていても噂を信じている店主には、ずっと毛嫌いされてきたと思っていたのに。何故庇う。金づるがそんなに惜しいのか。強奪されたばかりでも命も店の評判も惜しかろうに、どうしてそんなことで自分を。
 震える彼女の姿を確認した軍人は、にこりと笑って小さな顎に手をやった。
「君、良かったねえ。こんなことになったら誰にも庇ってもらえないって思ってたんでしょ。良かったねえ、お礼言わなきゃねえ。もういないけど」
 唐突に地面がなくなった感覚を、味わうのならば今がまさに。それまで顔色が悪いものの毅然としていた彼女が一気に顔色を失う姿を見て、傭兵の一人は床に唾を吐き捨てた。
「殺した訳じゃねえぞ。たまたま、打ちどころが、悪かったんだ」
 そうそうそう、と誰かが笑う。笑い声を耳にして、彼女の目尻に涙が浮かぶ。頭の中いっぱいに膨れ上がってくるのは、どうして何故と問いかける言葉ばかりで、胸を埋め尽くす感情などろくに自覚もしていられなかった。
「そ、それと、だ。……あんた、前、揉め事、起こしてた……敵、の、なな、難民……」
「いやまあ確かに、怪我人をどうにかすんのがあんたの仕事だろうがな。もうちょっと分別ぐらい持ってくれないと……ま、長引いてくれたほうが俺らも食い扶持しのげるけど?」
 確かにそんな過去はあった。それを彼らは、敵味方の区別なく看病するのではなく平等に振る舞うことで情報を得られると、もしくはその繋ぎになると判断したのか。彼女がいる診療所は、敵地の中の丁度良い隠れ蓑として利用されていると受け取ったのか。
「しかし今回は運が悪かった! くだらん一卒兵や難民ならどうにか隠し通せるってもんだがね、君にボタンをくれたの、あれかなりのもんだ」
 軍人は大げさな仕草でしみじみと腕を組むと、そう、彼女、と小首を傾げて何か思い出す仕草を取る。
「君んとこに喉使えない子、いるだろう。あの子がね、身振り手振りで教えてくれたんだ。君がつい最近入った、金髪碧眼の患者と親しいって。わざわざ痛み止めの薬まで買ってやるくらいだって」
「彼は……!」
 確かにその彼、窓際の名前さえ教えてもらえなかった男性こそが、もとは敵軍のそこそこの地位にいた人物ではあるけれど、一度こちらに捕まっている。拷問を受けて逃げ帰り、それでも自軍から裏切り者として扱われていたと、今朝話を聞いたばかりなのに。
「ああうん、彼も君のあとでちょっとね。とりあえず今は君だよ? そっちのが重要じゃない?」
 軽薄に言い含める軍人の、その軽々しさが逆に今の彼女にとっては何より重い。町の中で自分を庇ってくれた人がいたと、知った直後にその人物がもうこの世にいないと知らされた彼女には、眼前の人懐こい笑みの人物こそが悪魔に見えた。それでも本物の悪魔を知っている彼女は、唇を噛み締めて崩れ落ちかけた背筋を伸ばす。
「……わたくしは何も知りません。密偵なんかじゃありません」
「うん、言うと思った」
 あっさりと頷く軍人は、しかし立ち上がった際にひらりと彼女の髪の一房をつかみ取り、不意に引っ張り上げる。
「けど無理だから、ね。吐いてもらうよ、国のために」
「……っつ!」
 それだけでも十分な暴力の気配に、彼女の身体が明らかに強張る。だがこれさえも、彼女は覚悟していた。こんなに理性的なものとは思わなかったけれど、いつしか自分は民衆裁判の手によって命を落とすかもしれないと、自分が魔女だと囁かれていると知った際に想像していた。
 故に覚悟は決まっていて、早鐘を打ち始める鼓動を体内から聞きながらも彼女は深呼吸する。動揺を押さえ込み平静たれとする態度に、軍人はうふふと愉快そうに笑う。
「いいね、骨のあるのは好きだよ売女ちゃん。ああそれとも、処女だったりする?」
 その通り、と彼女の視線の厳しさが物語る。同時に十分なほど強張っていた彼女の全身が更なる硬直を増すも、軍人は下劣な舌なめずりさえせず、むしろ慈悲深く微笑んだ。それこそ彼女が一歩後退るほど、穏やかに。
「じゃあ君が正直に話したときにでも、……まあそうじゃなくてもかな。臨機応変にさ、適当なので貰ってあげよう。うんそれとも、人じゃないほうがいい?」
 愕然とした彼女の耳に、別の誰かの面倒臭そうな声がええと不満を漏らした。慣れているのか、彼らはそんなことにでさえも。
「なら何だよ。死体でも引っ張ってくんのか?」
「おったってるの探すの面倒でしょ。ま硬直してるならモノ千切りとってもいいけど、それだとそれで動かすの手間だよね。……あ、そうだ。野良でいいから犬いない? 蛇は見ててつまんないから却下ね」
「それこそ探すの面倒だ。……まったく、あんた本当に趣味悪いねえ」
 そう嫌そうに言うくせに、口の端にはどこか冷たい笑みを浮かべて傭兵の一人が肩を竦める。そうして彼女を、青白いを通り越し土気色になりつつあるほどの顔で呆けている彼女を見る。見られていると自覚して、ようやく彼女は溢れそうになる涙を堪えようとわななく唇を閉じようとするけれど、それを誰が許すと言うのだ?
「んうぅ……!?」
 彼女は顎を掬い上げられて、強引になめくじのようにのたうつものを口の中に放り込まれる。だが目を瞑れもしなかった彼女はそれがなめくじではないと、無理くり思い知らされた。夢ではなく、幻でもなく、軍人の清潔な糊の利いた制服の襟が視界に広がり、しかしそれをも凌駕する脂臭い体臭がいまだ誰も触れたことのない咥内を犯す。舐る。
 そうして暫く放心していた彼女が激しく抵抗を示すと、それを軍人はやけにあっさり受け入れて、ただし足掻いたために倒れたのは彼女のほう。
 口を袖口で拭い、それより先にと溢れる唾液で咥内を洗い流そうと激しくえづく彼女の背中に、軍人はやけに嬉しそうな声をかける。
「奪っちゃったぁ」
 気楽そうな声と共に彼女の頭の隅に、とある吸血鬼の端整な横顔が浮かび上がり、強い後悔と悲しみと共に、泡沫のごとく消え去った。
 彼女が絶望したのを好機と見たか。軍人はなにやら傭兵二人と奉公人に命ずると、抵抗する力をなくした彼女の腕を掴み椅子に仰向けで寝転ばせる。そうして何故か首から上だけを椅子からはみ出させ、もう嬲られるのかと衝撃が抜けきらず放心した彼女のどこか冷静な頭の中の囁きを裏切るように蝋を塗った布袋を被せた。
 急に視界が遮られ、頭を振るう彼女を理性的に抑え付けるその手際の良さ。ようやく混乱した彼女が袋の中に空気穴があり、それはぴったり口と鼻の穴用に開けられていると触れた空気の流れで知ったその瞬間。
「ふぶっ、……がっ、ごっ―――――ッ!」
 口の中に土臭い水が入る。仰向けになっているため遠慮なく、布も漏斗のかたちのように高さをつけているから抵抗もできず鼻の穴にも気管にも入り込む。溺れてしまうと彼女は焦り、抵抗しようとするけれど大の男たちが支えているのだ。そんなことできるはずがない。
 まずいまずいまずい死ぬ息もできない死んでしまう駄目だ駄目だそれはいけないけれどこれで――と、彼女が思ったところで水の流れが止んで、鼻の奥がつんとするけれどようやく息ができると知った瞬間、あの軍人の声がした。
「ね。話して。正直に」
 こうしているのか、普段から。彼女の呼気を求めて激しく上下する胸に、恐怖ではなく怒りが湧き上がる。絶対に負けるものかと、認めてやるものかとまさしく命の危機に晒されているのに彼女は思ってしまう。
「……無罪です、わたく――ぅ、ぐぶっ!?」
 また水を注がれる。砂利がないものの泥水の臭がしたものが無遠慮に、不意を狙って。どうせこのまま溺れ殺しても構わないと思っているのか、彼女が本当に無罪かどうかであるなどどうでもいいのか。
 負けるものかと己を奮い立たせながら、彼女はひたすら死の恐怖と戦う。そう戦えた、恐ろしいことに。彼女にはそれが本能からの感覚であると知っていたから、足掻くことはどうしようもないけれど屈しそうになる自分を励ませた。励ます自分でさえも、水を気管に注がれ命の無事を知らしめるために息をさせられ、そのたびにみしみしと軋んだ音を立てていたけれど。
 軍人は彼女に優しく話しかける。認めてくんないと、ときに馴れ馴れしい物言いで。それからこの拷問が、どれほど効率的かを嬉しそうに語ってくれた。ああそうとも、『くれた』だ、彼女はこの一生で最も不要なご高説を承った。曰く手間がかからないと、曰く場所を選ばないと、曰く死の苦痛を水槽でやるような拷問よりももっと少量の水で済むと――って言っても今君にあげてる水は排水ってやつでね。別にいいでしょ、井戸水汲むの面倒だしさ。再利用ってやつだよ――、曰く何よりこれの優れたところは目立った外傷がないのだと、曰くうっかり殺してしまってもそれは事故で済むのだと。
「水の量もタイミングも、対象の反応を見れば調整できるからね。便利なもんだよ、よく考えられてる。東の人間どももなかなか侮れないなあ」
 満足気に笑って拍手する軍人は、彼女を抑えつける傭兵二人に割って入って、その激しく上下する乳房をつと指で触れた。それだけで、彼女は唇を奪われたときのことを思い出し身体を必死に捩ろうとする。
「可愛いねえ、いい反応だ。……けど君、こんなことされても頑固だからなあ。これ利くのかね?」
 別の段階に移ると知り、彼女の袋で覆われた目から我慢できずに涙が一、二雫溢れる。だがそんなことは露知らずとばかりに、軍人は奉公人に言ってのけた。
「野良犬見つかんなかった?」
「……へ、へえ……ど、う、にも……」
「ま、仕方ないか。んじゃ君らでいいや、誰からする?」
 抑えつけられた自分の上で、陵辱の相談がされているなどどんな生娘が耐えられるものか。浅い呼吸を繰り返しながら最早理性も持たず抵抗するしかできずにいる彼女の何かに気付いたらしい。我先へと進み出る奉公人を宥める軍人の声に、今までと違うものが交じる。
 何がおかしいのだろうと思っているのは傭兵たちも同じこと。奉公人も戸惑っていたらしいが、軍人の冷静な、この排水をどこから持ってきたかの質問にへりくだりながらこう答えた。
「あ、あすこ、はずれの、奥、に、……庵が、あるんでさ。や、薬師の、ばばあの……」
「ああ、いたね。僕らが行く前に自殺した人でしょ」
 自殺。あの老婆でさえも。こちらは恐らく本当に魔女裁判にかけられるところだったのだろう。自らの無罪を主張するより先に、あの人物は自ら苦痛なき生を終えたのか。
 ここに来ただけでもう何度目かの衝撃に、またしても律儀に打ちのめされたが痛みか苦しみか何なのかわからないもので浅い呼吸しかしていられない彼女の耳に、奉公人のえへへと笑う声が届く。
「へ、え……。そこ、に、でで、でっけえ瓶がありまして、な。そいつ、色は、すす、澄んでますが、み、水じゃなくて、変な臭い、してるもん、ですから……」
「そいつをこの子に使ったんだね?」
 はいはいと、大きく頷く奉公人の声を聞き、咽び喘いでいた彼女は、溺れるような呼吸で必死な喉からどうにか言葉を振り絞った。
「……柳の、痛み止め」
「ああこれ、鎮痛剤なの? ちょっとそれじゃ君、痛がらないじゃない」
 口先を尖らせているであろう軍人に、彼女はどうしたことか笑いたくなってきた。だがその根源から来る感情は穏やかとは言い難く。怒り、どころか恨んでいると、言ってもいいかもしれない。彼女にとってはこんなどす黒い感情を特定の人物に抱いたのは初めてのことだったが。
「……大量に摂るとね、呼吸、うまく、……できず、に、死んで、しまうん、ですよ……」
 だからあれは皮膚に塗って使うものだ。そう、彼女は初めてあの痛み止めを受け取った際にしっかりとした口調で老婆に説明された。殺すつもりがないのなら、口からの摂取は禁ずる。薄くガーゼで浸して塗るだけに使えと命ぜられ、それ以来彼女はあの人の言葉を馬鹿正直に受け取ってしまい、どうにも嫌えなかった。
 そして今、それを知らされた四人の男は、彼女ほどではないにせよ、いくらか衝撃を受けたらしい。まずはやはり真っ先に軍人が反応を示した。
「だとすると……まずいなあ。この子放って逃げちゃおっか」
「これからだってのに?」
 二番手を申し出た傭兵は、死体かもしくは死にかけた女でも構わないらしい。明らかな不満の声を漏らすが、軍人は当然でしょうと苛立たしげに肯定した。
「領主さまが見られるらしいからね。直接顔を見せられるかどうかはご気分次第だけど、そんでも身体の見た目だけでも綺麗に、無事に、生かしておかなきゃなんなかったの」
 その言葉にこそ、彼女は何よりもの衝撃を受けた目を見開いたことなど、ついに軋んだ板が真っ二つに折れ、そのまま抵抗することもできず恐怖の底、どころか奈落に陥れられたとはここに集う誰もが知るまい。いやそれどころか町の中にさえいやしない。もう知っている可能性があった人物は、先程亡くなったとわかっているが故に。
「……うそ……! ……や、……だ……、なんでっ、なんでぇ……!」
 今まで感じてきたには黒々とした靄が、彼女をぶわと襲う。目の前が真っ白から真っ黒になり、また真っ白に転じ、ああどちらであろうと関係ない。冷や汗がどっと出て、呼吸の乱れ以上に彼女の胸を鷲掴みにしてひねり潰しそうな重苦しい悲痛が襲う。歯の根どころか全身が震え、目尻に浮かぶ涙は塩辛く、腹の奥から得体の知れないものがこみ上げる。
 これが恐怖。白い手は幻でしかなかったから、そうではないかもと記憶に封ができたはずのもの。けれど今のそれは現実に迫り来る、いつとも知らず自分を追い込もうとするもの。奪うもの。呑み込むもの。これが、それが、原初の『喪失』への本能。
 喘ぎながらもそれまで毅然としていた彼女の態度に、軍人がおやと嬉しそうな声を漏らし、煽り立てる。
「どうして怖いの、僕にも教えてよ。素敵な方だよ、立派な方だよ。なのになんで怖いの、ねえねえ教えて?」
「……やだ、どして、……なんで、……なんでやめて、……! いや、やめて、やめて、やめてやめて……!」
 彼女は乱れる。みっともなくもがく。子どものように首を振り、涙と鼻水と柳の薬で顔じゅうを滴らせて、それでも恐怖に取り乱し、領主の名を悲鳴として礼拝堂に響き渡らせる。
「来ないでよ、お父さまぁぁああ……!!」
 空気が、一挙に冷えた。

◇◆◇

 尋問所と化した教会で完全な混乱をたったの一声で招いた彼女はそれから逃げた。逃げおおせたのではなくて、逃がしてもらえた、か。
 まず領主の娘と名乗ってしまった彼女の言葉を彼らが信じたのは、皮肉にもそれまで頑として拷問に耐えてまで密偵容疑を認めなかった彼女がああも取り乱していたからで。この期に及んで嘘を吐かない娘であると判断した軍人は、さっきまでの態度が嘘のように怯えた。
 死にたくないと、まず軍人は腹の底から言った。唖然としたままの傭兵たちを乱暴に叩き、奉公人を蹴りつけて澄んだ井戸水を持ってこさせるように命ずると彼女の顔を覆っていた袋を取っ払い、これ以上ないほど平伏した。申し訳ございません申し訳ございません何とお詫びをすれば良いのかわかりません嗚呼ですがですがせめてもお慈悲を頂きたいのですどうかどうかどうかお父上にはこれまでの無礼を隠していただきたいのです――。
 先程までは自分の命を危機に晒し、神のごとき傲慢さと余裕を持って自分の苦しむ姿を見て楽しんでいた人間と全く同じように思えずに、彼女は衝撃を受けたけれど、どこか凪いだ気持ちでそのつむじを見つめていた。さっきまでなら怒りもあったし、怨んでもいた。そう言えばこの軍人には唇を奪われたし、誰が破瓜を頂くかの相談をしていたのが砂時計をひっくり返す間もないころ。
 けれど。今彼らを恨んだところで、傷めつけたところで、恐怖を与えたところで何になるのだと、痛み止めの効果もあってか、僅かな意識の混濁を感じながら彼女は他人事のように思う。どうせ彼女は死んでしまう。あと何時間持つかの命。多分に軍人が水を持ってこさせようとしているのは胃の中のものをすべて吐き出させ、薬の効果を少しでも薄めようとしているからだろうが、焼け石に水でしかない。
 それよりも恐ろしいのは、彼女にとって死ではない。いやあれもまあ怖かった。痛くて苦しくて辛くて必死になってしまった。けれど魂の底から震えるような、黒い波が押し寄せてくるような恐怖は、彼女が一市民として生きれないこと、もしくは死ねないこと。家出をした領主の娘として城に戻り、ただ一人で短いながらに、それでも不器用に必死で地に足を着けて生きてきた彼女の今までのすべてを無に帰すこと。
 だから彼女は軍人を許した。許した代わりに自分のあとをした追うのを禁じて、もう小枝さえ摘めない腕力であるため教会の扉を開けさせ、診療所へと自分の足で戻って行った。それからぼんやりと、ああ最後まで自分はどっちつかずに生きてたのだなと思い知る。
 走馬灯、であろうものを数多く見ながら彼女は歩く。二十にもなっていないのに我ながら濃厚な人生だったとやはり他人事めいて笑う。いくら深呼吸を意識しても、ゆっくりと歩いてもどうにも息が上手くできなかった。息苦しさに意識を朦朧とさせながら、何度も蹴躓きそうになりながら、彼女は歩く。ただのアルティナとして生きてこれた、自分の力で初めて作った自分の居場所に戻るために。
 苦労もあったし、痛い思いもした。寂しい、悲しい思いは数えきれない。けれどそれでも前を向いて生きてこれたのは、自分の行動に責任を持つことが、即ち自由であることがとてもとても嬉しくて、面白かったから。湖の向こう側に見える城で戦禍の一欠片も知らず安穏と従順に過ごす頃を思い出すたびに、彼女はあそこよりもここがいいと自分に何度となく言って聞かせていつしか自然とそう思うようになった。
 思い込み、だと自分の気持ちを疑うこともままあったか。そのたび自分の半端さを自分で責めることも多い。けれど尋問を受けたとき、今の生活が奪われることを想定して頭の中が真っ白になった自分に、彼女はようやく心の底から思っていたと自覚する――愛していたのだ自分は、あの診療所での生活を。ただの一般市民として、ただ一人の人間として生きてこれた人生を。
 だから彼女は慈しむような微笑を浮かべ、奇妙に晴れやかな気持ちで一歩ずつ足を進める。人の多い道は嫌いだから、あえて林の中を進んだ。最期の帰路は、いつか誰かと出会ったときと同じ道筋で。
 それを思い出すと、彼女の穏やかであったはずの心が小さなさざ波を立てる。彼には悪いことをした。今日で最後の約束の日だったのに、こんなふうになってしまうなんて思いもよらず。けれどあの吸血鬼の顔を思い出しながら逝けるのであれば、個人的には上出来だと彼女は笑おうとする。どろりと全身が濁っているように重い今では、それも難しい話だけれど。
 林を抜けて、風によろめく彼女は自分が手をついた場所を見て、乾いた笑いを漏らした。ざらりとした感触は煤だらけの石煉瓦で、道を間違えてしまったらしくここは朽ちた教会だと知る。
 教会で死にそうな目に遭って、教会で死んでいくなんて悪い冗談だ。だがまあここなら猫車もいらないし、墓穴を掘るだけでいいのだからと思って歩くのを止め、静かに腰を地面に付ける。そうして冷たい風に煽られながら、彼女は浅い呼吸の中でも精一杯にそれを整えようとする。
 そんなとき、何か黒い陰が視界を過ぎった気がして、また走馬灯を見たのかと彼女は思う。けれどなんだか懐かしい匂いがして、これはと胸が高鳴った。単純に、嬉しかった。彼がそこにいることが。
「……吸血鬼、さん?」
 切れ切れの呼吸に紛れて声を上げる。名前、覚えているけれど。最期くらいは呼ばせてくれるだろうか、なんて脳天気なことを考えている彼女の前に、その黒い誰かは振り向いて。
「アル……ティナ……」
 泣きそうな顔をしながら、吸血鬼は彼女をまっすぐに見てくれた。

◇◆◇

 吸血鬼はほぼ反射的に細い体をかき抱いた。抵抗の欠片もなく腕に納まった彼女が虫の息であることを察したのだろう。またはそうなった理由でさえも理解していたらしい。ならば助けに来てくれたつもりだったのだろうかと、彼女は少し喜んだのも束の間。彼は彼女の肩を抱く手に力を込めて、町のほうを睨みつける。
「人間どもめ! この怒り、皆殺し程度で済ましてやるものか……!」
 自分を胸の中に収めておきながら、吸血鬼の吐き出す言葉は呪詛のように荒れ狂っているものだから、悲しくなった彼女は弱々しくも首を振る。
「やめて、ください……わたくしは、復讐など……望みません」
 そうして彼女は外套を掴もう手を伸ばすけれど、指を動かすことさえ酷くだるい。ここに来るまでで随分疲れて、抱かれているのに冬を先取りしたように寒くて、そのせいで指がかじかんでいるのだろう。それでも何とか、彼女は吸血鬼を止めようとする。
 対する彼は、のろりと動く娘の無力なその姿を見て、心を千々に乱されていた。あれだけ華奢でも瑞々しくあった肉体が今や弱々しく、自分の腕の中で眉をしかめるのに精一杯とは異常だ。それ以上におかしいのは、彼の頭のほうで。娘の言葉を一字一句聞き逃すまいとしながらも、次から次へと後悔の言葉ばかりが溢れそうになってくる。
「わたくし、誰も、恨んでなんか、いない、……後悔、してない……から、だから……」
 むしろ彼女は恨みを昇華し後悔もなく、晴れ晴れしい気持ちでいると言うことを、吸血鬼に伝えるのは難しい。特に今、こんな状態では火に油を注ぐだけかもしれないと、彼女の悲しげな目が何よりものを告げていた。
 彼は娘に目で諭されたものの、気持ちがそう簡単に収まるはずがない。激しく首を振り、人形めいて脱力しきった娘の言葉を耳にした上でその意思を退ける。
「復讐ではない。……お前が死ねば、俺はもう二度と人間の血を吸うことはできん。その、腹いせだ」
 彼にとっては間違いない本心だが、娘はいよいよ涙でも流しそうなほど目を伏せる。その顔を見て、彼は後悔する。見ていられない、笑ってほしい。恐怖に突き落とすつもりだった相手に、ひたすらそう願う。
 けれど吸血鬼よ。お前は腹いせをしたい程度で、約束を交わした女を抱くものなのか。悲しげな顔をするものなのか。――もし本当にそう言うものだとすると、自分だけ勘違いをして盛り上がっているのが滑稽で、彼女は力を振りしぼり手首を持ち上げようとする。
 気遣うように彼が彼女の手に手を添えた。手袋越しの彼女の体温は人ならぬ身の彼でさえ冷たく感じ、彼女にとっては仄かに冷たいくらいだけれど、互いに生き物特有の逞しさと柔らかさは確かにあって、ふたりの肌へと染み渡る。
「だった、ら……血を。どうせもう、長くはありません、から……」
 握ることすら難しい手首を見せつけ、せめても泣きたい気持ちを封じて微笑もうとする彼女の善意を、やはり吸血鬼は怒りの形相で忌々しげに振り払う。
 彼は確かに怒っていた。こんなときでも自分との約束を優先し、泣きそうな顔をしているくせに相手を気遣い続ける娘に苛立っていた。しかも普段は機転が利くくせに今の誘い方はなんだ。不器用にもほどがある。普段の娘らしからぬ。
「ふざけるな! 俺は約束を守る! お前を怖がらせるまでは誰の、……お前の血も吸わぬ!」
 駄々をこねる子どものように言いすがり、彼は娘を更に強く抱く。馨しい娘の体臭よりも濃い、土の臭いと冷たい死の匂いが、その魂ごと包んでいく感覚を知り、彼の胸の奥、杭が埋まるよりも深い部分が酷く痛む。痛くて痛くて、視界がぼやけた。
 慟哭めいた声を聞き、彼女はいよいよ霞みつつある視界を恨めしく思う。水めいたものは流れてこないけれど、それでも吸血鬼が泣いていないか不安になって、彼女は血を吸わせるために掲げたつもりの手首を、もっと上へと持っていく。
 流れるように白手袋が、彼女の手を彼の頬へと導いた。ひやりと触れる彼女の手は彼の頬を冷まし、彼女の手に熱を、生命力なるものを与えようとする。
「それに俺は、……お前が死なぬよう、見張ってやると言った。なのに、……!」
 鼻が詰まったような声が聞こえ、彼女の指先が微かに濡れる。温かいどころか熱いくらいのそれは確かに命あるものが流すもので、羨ましくて眩しくて、それ以上に彼女は酷く、自分の中の彼への想いが高まっていくのを自覚する。それは何と名付けられている感情なのか、彼女は頭の中をもう、探れない。余裕がない。
「……まじめ、なのね、……へんな、吸血鬼、さん」
 微かに笑んだ娘の顔は、死に際のようには見えないくらい静かで穏やかで。ああその調子でこのまま健やかにあれと彼は願わずにはいられない。そんなのは無理な話だと、激痛を発する胸の奥が告げているのも無視して彼も口の端を無理に歪めた。
「……笑えるならば十分だ。生きろ。そうすれば、その脳天気な頭に、俺が恐怖を刻んでやる」
「ごめんな、さ……」
 それは無理だと、彼女は笑い続けていようとする。けれど難しくなりつつあった。眠気と言うには猛烈なそれが意識を無遠慮に秒単位で奪っていって、息苦しさに口元が引きつる。喉は、声はちゃんと出ているのだろうか。
「約束、して、困らせ、て……血、吸わせて、あげられ、なくて……」
 もういい、もう喋るなと彼はわめく。待てと、いずこかにいる名も知らぬ娘の命を刈り取ろうとする死神を殺したい気持ちになりながら、けれど彼は眼前の娘の姿から目を離せない。離したくない。きつくきつく手と肩を抱き、生きろと願い続けていると言うのに。
 そんな中、娘は、彼女は、ああそう言えば、と一つのことを思い出した。
「ゆい、いつ……心、のこ…………」
 自分はまだ呼べていないけれど。好きな人に、名前を呼んでもらったのだ。

◇◆◇

 最後まで他者に気遣い続けた娘の唇が、息を吐き出さぬまま停止する。羽のように軽い肉体なのに、それから増した重みは彼にとって磔刑の十字架よりも重い。確かに命が失われ、骸となったが故の変化に、彼は何よりもの痛みを味わった。
「おい、死ぬな…! 死ぬな、死ぬな、死ぬな……!!」
 いくら耳元で叫んでも、いくら身体を揺すぶっても、娘は反応を示さない。ただ眠るような青白い顔が揺れて、そのくせ瞼は開かれない。瞳には二度と光が灯らない。笑みさえも浮かべない。
「俺に約束を守らせずに逝くな! 勝手に死ぬなど許さんぞ! 起きろ、おい、アルティナ、おいっ、おいっっ……!」
 彼が人間の名を呼んだこと、初めてだったと娘は知っているのだろうか。覚えているのだろうか。わからない、わからないままに彼はひたすらに娘を抱きしめ、それでも叫び続ける。
「アルティナッ、アルティナっ、っっ、ア、ルティナ……ぁ、アル、ティナぁあぁぁ…………!」
 続く声は最早泣き濡れているのに、けれどやはり娘はいつまで経とうが目を覚ます気配はなく、それ故に娘を見つめ涙を流しながら彼は思い知らされる。死んだのだと。自分ではない誰かに殺され、この娘とはもう二度と言葉を交わすことも、意思を持って触れることも、互いを見つめるどころか意識することさえもできないのだと。
 胸の杭の奥がじくじくと痛む。これほどまでの痛感は幾度となく闘ってきた彼に経験のないもので、この傷を癒す手段など人間界どころか魔界、天界にでさえあるまい。今も彼の目尻から止めどなく流れ続ける想いの奔流は、恐らくこの胸に痛みを刻んでいくように熱い。そんなことをしなくても、自分はこれを死しても忘れることはないのに。
 彼は泣く。ひとりの人間の娘を喪ったことをひたすら嘆いて、その躯を抱きその娘の生前の輝かしさを思い出しながら、ただただ胸の痛みを涙と嗚咽で示す。けれどそれは化生の咆哮としては聞こえず、まるでひとりの人の男のような、ありきたりで平凡で無害で、ただ声の主がひたすら悲しんでいることしかわからない泣き声で――。
 どれだけそうしていただろう。
 嘆く気持ちは静まったが、娘の穏やかな死に顔を貪るように見つめ、その柔らかく仄かに温かかった身体が骸となって着実に冷たくなっていくのを抱きしめることで直に感じ取った彼の背後に、馴染みのある気配が近付いてくる。気付けばもう、空は白みつつあった。
「……閣下」
 苦しそうな声だった。自分を心配しているのだろう。それがわかるほど頭の中は冴えているのに、いまだに彼の胸は血を流さんばかりに痛み続ける。涙はいつからか枯れていた。
「……お前らしくもなく、遅かったではないか」
 娘の骸を抱いたまま立ち上がろうか、彼は暫く考える。迷ったが、やはり止めた。魂なき亡骸なれば手元においても意味はあるまい。ただ胸の痛みが増すだけと判断して、彼は丁寧に骸を横たえらせるとその白い手を一度きつく握る。背後からの足音が近付いてくる。
「娘の匂いが強い場を発見したのですが、どうやら入れ違いでしたようで……。その娘は人間の、つまらぬ諍いに巻き込まれていたようです。密偵の容疑をかけられていた、とか……」
「そうか」
 今更それを知ってどうなろう。娘が蘇ってくるわけではないのだから彼は気もなく返事をする。しかし人狼はそれで主が人間に怒りをぶつけるなり、そのような人間たちに見切りをつけるなりの反応を求めていたのだろう。無反応と知り怪訝に眉をひそめる。
「……お怒りではないのですか?」
 人狼は決して口にはせぬものの、娘を亡くした際の主の慟哭をしっかりと耳にしていた。人間相手にああも取り乱している声が自分が従う『暴君』のものであると信じられなかったが、気性が激しい人物であるとは熟知している。そのため従僕は彼が一旦落ち着いてから、このような出来事を起こした人間どもの住まう町に向かおうとしたのだが、主は静かに首を横に振るだけでその心情を示す。
「怒りはある。約束も、人間の女一人守れなかった自分へのな」
「閣下!? いえ、ですが閣下に責任はございま……」
「ある。俺の責任だ」
 言い放つその声に迷いはない。迷いがなさすぎて、人狼は二の句を継げられない。誇り高きこの吸血鬼が自分で自分を苛む言葉を何故こうも簡単に引き出してしまえるのか。疑念を抱く従僕は、彼の心のうちを感覚的に予想していたはずだ。それが答えと気付くのは、もう暫く後のことだが。
「……帰るぞフェンリッヒ。ここにいてももう何も変わらぬ」
 立ち上がり断言する彼の言葉に、人狼は何も言えず付き従おうとして、懐の違和感に気付いた。もう既に、遺品となってしまった娘のものだ。
「では……これは、どう致しましょう」
 距離を詰めて訊ねる人狼の手の中にあるのは、娘のハンカチ。ふとあのときの、わざわざ林の中に入ってから泣き喚いていた娘を理解できぬと呆れて見ていた自分が随分と昔に感じられて、彼は仄かな苦笑を浮かべる。また胸が痛んだけれど、それ以上に娘への温かな、くすぐったくも痛ましい気持ちが勝った。人はそれを、何と呼んだか。
「ああ……、これか」
 彼は壊れものに触れるようにハンカチを受け取ると、人狼に向き直り小さく首を振る。先に行けと命ぜられた従僕は、不安げな顔をしていたものの無言で承り、早々に林の奥へと消えた。
 人狼の足音と気配が遠のいたのを待った彼は一人湖のほとりにまで歩くと、屈んでからハンカチで水を軽く撫でる。それから立ち上がり濡れた布を顔に当てると確かに清浄な刺激が肌に触れて、泣いて火照った顔が冷えていく。残り香が、微かに彼女の気配を描いた。
 ――成る程。確かにこれはいいな、と彼は薄く笑い。同じ仕草をしていた瞼の裏に蘇る、あの娘に向かってハンカチに口付けたまま告げた。
「……俺はもう、約束は破らぬ。絶対に、二度と」
 城から吹く急な風に外套をはためかせた彼は、ついでとばかりにハンカチから手を放す。いずことも知れぬ淡い朝焼けの空に舞ったそれは、まるで白い羽のように見えた。
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