スポンサーサイト

--/--/--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[↑]

夢魔

2011/08/20

 酷く、渇いていた。
 毎日ではないにせよ、疲労困憊でろくに着替えもしないまま棺に就いて、そのまま朝、執事が起床の時間を告げに来るまで泥のように眠りを貪るのは、新党を設立して以降そう珍しくない。なのにどうしたことかこの日、彼は内に籠もる強い熱と渇きに無理やり覚醒させられた。
 とは言えおかしな話ではある。灼熱の溶岩が途切れることなく流れる不毛の大地であるここ地獄には気温の変化など昼夜程度しかなく、そのため季節の移り変わりによる温度差も無論ない。いつかの昔、彼が人間界と魔界を好き勝手に行き来していたときは、人間界を訪れるたびに空気の匂いや太陽、月の光の強弱、草木がこの世の盛りとばかりに生い茂ったかと思えば枯れるその目まぐるしさに、成る程これほど万物が生き急ぐようでは人間どもが僅かな間しか生きられないのも無理はないとしみじみ納得したものだ。
 閑話休題。喉の渇きは今更改めるまでもない。吸血鬼の身でありながら長らく人の血を断っている彼にとって、本能から喉が潤った記憶は優に四百年以上前のこと。ゆえに、渇きなぞは最早苦しみだの痛みだの物足りなさなどを通り越し、いっそこの感覚がなかった頃はどんなものか思い出せないほど深く根付き馴染んでいる。
 しかしこうなるまで飢餓感が発作のように時折強く襲ってくると、普段なら思い出すべきだろう最後に喉を潤した記憶は、昔から今に至るまで彼にはこれっぽっちも魅力がないので思い出さない。まあ正直な話、忘れている。男だったか女だったか、年寄りだったか子どもだったかそれさえも、思い返そうとしたときは綺麗さっぱり頭から消し去られていた。現在進行形で彼が血を断つ切欠となった気高くも可憐な人間の娘があまりにも鮮やかで強烈だから、それまでの犠牲者など最早彼にとっては十把一絡げにする程度の価値でしかなかった。
 とにかく端的に表現すれば、その日はいつもと違っていたことになる。違っているのは勿論彼自身。地獄は環境として変化しないのだから自然そうなる。
 けれど自らの違和感など、眠気で頭が鈍く重いのにわざわざ渇きと熱さで叩き起こされた当事者からすれば感じていられる余裕もない。棺の蓋をやや乱暴に蹴り上げて、シャツの襟を摘み扇いではたはたと首の辺りに空気を送ろうとしても、首筋にべったりと滲む汗が気持ち悪くて彼は盛大に顔をしかめた。皺が寄った眉根からも生温かい汗の滴が手の甲へと落ちて不快極まりない。
 袖でまだ伝ってくる額の汗を拭ってから、このままぼうっとしているだけでは熱も渇きも取れまいと判断した彼はやむを得ずよっこら腰を上げ、ついに棺を跨いで部屋の外に出る気になる。
 半ば無意識の行動だろう。そのまま廊下にのろのろと向かう際、ついでに外套と手袋も手にして、瞼が完全に開ききらないままだと言うのに彼が自室から出て僅かに廊下の冷たい空気を肺に入れたときには、概ねいつも通りの格好だった。しかし頭の奥は鬱陶しくもいまだぼうっと熱く、蒸れた夢の世界に六割ほど浸っているのだからこの吸血鬼、怠惰とは縁遠い性格なのだろう。
 篝火でさえも最低限の、闇が多くを支配する廊下を彼は歩く。黙々と、まだ眠気が取れていないにしては一見しっかりとした足取りで。
 一応、目的地は朧気ながら脳裏に描かれている。台所だ。今の彼にとって唯一、一言ある至高と呼ぶべき小魚を口にすれば、渇きなどどうにかなると判断している。ついでにあのひんやりとした小魚の引き締まった赤身をゆっくり咀嚼していけば、喉を通り抜けるその味わいと冷たさに過剰な熱など臓腑の内側から奪われていくだろう。
 だから台所を目指す彼の足取りに迷いはなく、長きに渡る根城のこの屋敷の構造など隅から隅まで頭に入れてあるから目を瞑ってでも目的地に着くはずだった。事実何度か眠気に耐えられなくなった彼は目を瞑り、眠りながら歩くと言う器用な芸当を何度かやっておまけに石畳のどこにも足を引っかけることさえなかったのだからその自信は間違いあるまい。
 けれどけれど、ならばどうしてなのか。観音扉を持つ台所に立つはずの彼が、至って普通のどこにでもあるドアの前で立ち止まったのは。そうして迷いもなくドアノブに触れ、眠気でぼんやりとしたまま鍵のかかったそこ忌々しげに舌打ちをし、仕方ないと力を籠めてドアノブを破壊したのは。
 当然ドアの向こうに用件がある訳だから、ドアノブを破壊してしまった申し訳なさなど微塵もなく――大体ここは彼の屋敷だ。持ち主が何をしようと、文句を言われる筋合いは誰にもあるまい――彼はその部屋に吸い込まれるように足を踏み入れた。
 その部屋も当然暗かった。窓もカーテンも閉じきったそう広くもない室内は、今はこの部屋の主であろう人物の体臭が温くぷんと漂って、その香りに心当たりを持つ彼は自らの判断に誤りはないとこっくり頷き舟を漕ぎかけた。
 しかしそれではいけないと、ここに用件があるのだと自らに言い聞かせた彼は、軽く首を左右に振って眠気を振り払いながら更に歩く。目的のものはただひとつ。否、正確にはひとり。
 彼の渇きを癒すもの。彼の燻る内側に火種を与え油を注ぎ炎を踊らせ、燃やし尽くした挙げ句に半端な熱など灰塵と消していくもの。
 簡素な寝台に横たわる、ブランケットに包まった物体が微かに動くが、これは彼と違って寝苦しさからの動作ではなかろう。規則的な上下運動は呼吸の、包みの向こうが確かに生きている証。そうして見ればほら、安らかな寝息も聞こえてくるではないか。女の、少し高めの小さな声を交えながら。
 相手が存命でかつ深い眠りに陥っていると理解した彼は、ブランケットを一気に剥いで相手の姿を確認する。もう部屋に漂う匂いの時点で確信は得ていたのに、こんな乱暴な真似をしてしまうのは少なからず八つ当たりの要素もある。なにせ彼はこうして熱さと渇きで起きてしまうくらい辛いのに、娘ときたら太平楽に眠っているのだ。ついこんな方法を取ってしまうのも仕方ない。
 そう、娘。ブランケットを剥がれてもなお、呻き声を漏らしはするがまだ深い眠りから覚めようとしないその人物は明かりのない室内の闇の中では些かわかりづらいものの、鮮やかな桃色の長髪に華奢ながら整った容姿を持つ天使の娘だった。
 普段はきっちりと三つ編みに結っている髪を解いて遠慮なくシーツに広げ、白いワイシャツのみを寝具として身に着けた娘はようやくブランケットが失われて寒気を感じたか。それとも突然の闖入者の視線に見えない何かで肌を撫でられた心地でも覚えたか、背中にひっそり生えた純白の羽を身じろぐように揺らす。
 娘は横向きの体勢で軽く丸くなって眠っているため、脚が軽く擦り寄っただけでワイシャツの裾がはらりとめくれて闇の中でも輝くばかりに白い内腿が彼の眼下に晒される。あと数センチもすれば、尻どころか下着でさえも血の色の瞳に暴かれてしまうだろうに娘は相変わらず深い眠りに囚われたままだった。
 けれど彼はさして動揺しない。感慨もない。こんなときでさえ脳天気な娘だと呆れこそすれ、無防備で扇情的な光景を目にしてもなにも思わなかった。はしたないとも、悪いことをしているとも。
 ただ穏やかに眠る娘を目にすることで、体内の熱と渇きが一層強くなった自覚はある。相手が起きていればどうなったのだろうか。誤魔化せたのか。冷めたのか増したのか。わからない、眠気が酷くて考えるのも億劫だ。
 そう眠い。猛烈に眠いのだ。なのに熱くて渇いて鬱陶しくて、苛立つばかりだからこれらをとっとと昇華したい。苦しみの中で邂逅を果たした小魚で満たされるのとは違う。胃ではなくもっと奥から、頭や胸とも違う、底から餓えて欲している。
 多分このまま朝を迎えればきっと彼は狂ってしまうだろう。そうならないためにも、たっぷりと潤い満ちなければ。そのためには娘が必要だ。誰でもない、過去は人間だったこの天使が。彼に血を断たせた張本人にして、けれど憎む気なんぞは到底ない、しかし憎悪以上の執着心を彼に根付かせた女が。
 娘に一歩近付く。相変わらず起きやしない。寝息とともに聞こえる声は寝姿同様無防備で、なのにかだからか普段と違って妙にあどけなく耳に届く。髪の隙間から覗く寝顔もまた可愛らしいと表現しても構わないくらい、幼い印象を持っていたのが少し意外で、けれどそれもまた微笑ましい。
 もう一歩近付く。軽く背を丸め、母胎にいる嬰児に近い姿勢で眠る娘は、しかし嬰児にしてはすらりと長く、しっとり肉付いた魅惑的な脚を持っている。平均に比べれば細いものの、そこは確かにおんなの、男を惹きつけ撫で回したい頬を擦り寄せたいなどと不埒な妄想と衝動を煽り立てる絶妙な曲線を持っていた。
 もう一歩。体臭は起きているときよりも濃厚に感じられて、その蕩けそうな甘みとまるで相手の胸のうちに顔を埋めているような匂いの密度に彼は薄らと笑う。甘いだけではなく、これからの官能を予期させる香りは天使らしく清浄な風味も持っているだけにどこか彼には背徳的で、鼻腔からこの刺激を堪能するだけでも眩暈がしそう。ここが娘の部屋で、しかも眠っている訳だから普段別所で顔を合わせるときよりも匂いが強いのは当然だが、そんなこと今の彼は考えられやしない。ただ娘の寝姿に誘われるまま距離を詰める。
 そうしてそうして。彼は寝台に手をついた。ぎしりと低く軋む音と、マットのスプリングがたわむ音さえはっきりと聞こえたけれど、娘はいまだ起きやしない。匂いが一層濃くなって、髪と皮膚とでまた違う香りを発するものだと言葉もなく教えられる。どちらも譬えようがなく、甘露で切なく胸を締めつけ吸い込むごとに首の後ろがぞくりと来る。
 体重を片手にかける。そっと身を屈め、瞼を閉じたままの娘の横顔を貪るように見つめながら距離を詰める。きめ細やかな白乳色の肌はほのかに汗ばんでいるのか、かたちのよい耳の後ろが真珠の粉を撒いたように輝いていた。
 娘の肉体に浮かび上がる霧の煌めきを視線だけで辿っていけば、ワイシャツの奥で片方の乳房がもう片方の乳房に押し流され潰されて、ひしゃげた有様が目に留まる。目の毒、でもない。渇きと熱をより自覚させてくれる、それはそれは素敵で即物的で男の根源に訴えかける光景だ。
 そっと指で細い髪を掻き分け、顔を近付ける。女の体臭が練り香水めいて薄い皮膜をまとい放出される、白く細くも傷一つない首筋は見ているだけで吸い付きたくなる。ああ渇く渇く餓えている。すぐさま歯を立てるなんて勿体無い。まずは前菜代わりに舌で唇でそのなめらかな感触を堪能し、汗の塩辛さを食前酒として、それからぷつりと牙で柔い肉を裂く甘美感に酔い痴れようではないか。そうして溢れ出る血の味わいは、今までのものが泥水と思えるほどに甘く熱く濃く、一滴一滴のあまりの美味と濃厚さに体内へと押し流す喉が灼け痺れてしまうに違いない。
 そんなふうにたっぷり喉を潤して、体内に血が、魔力が行き渡る感覚を堪能すればすぐさまこの娘そのものを味わおう。なに、貧血を患えば激しい抵抗などできやしない。それに女の悦ばせ方は知っている。その味を知ってからは指やら舌やら腰のものやらで翻弄させるのにもすぐ飽いて、長らく自分から動くことさえしていなかったが、この娘ならばその苦労も苦労とは思わない。むしろ破瓜の瞬間さえ自ら腰を振るほど淫らに仕立て上げようか。力任せに貫いて痛みに泣き叫ばせるのは心苦しいから、そちらのほうが余程良さそうだ。
 恍惚に悶える娘は美しかろう。新月の夜より昏い闇の中、全身にじわと汗をまぶして、はしたない、今まで誰をも聞いたことがなく娘自身も発したことのない嬌声を上げよがる姿は想像しただけでも背筋が粟立つ。少しでも力を篭めれば裂けてしまうだろう花弁のなめらかさを持つ肌は、どこもかしこも触れた先から吸いついてくるようで、ふるりと柔らかく抵抗を示すも結局どこまでも自分を受け入れるのだろう。その上で、鮮やかに潤んだ湖面の色の瞳に見上げられるその快感。喘ぎ過ぎが祟ったか、ややも掠れた声で己の名を呼ばれることの、魂から震えが来そうな幸福感は何にも喩え難い。
「……ヴァル、ば、トーゼ、さん……?」
 ほらまさに今こうして。もうこのまま歓喜に打ち震えながら、肉体を持つ張本人でさえ触れたことのない紅き沼地に己を埋めようではないか。その先に生まれる快楽はどれほどのものか。決して辛いとは思うまい。呆気ないとも思いやしない。そこで触れ合えただけでもきっと彼は満足。いや、まあ、満足――
「…………お。おぉぉぉぉおおおお!?」
 弾け飛んだ。すっ転んだ。勢いがありすぎて壁に頭をぶつけた。痛くて屈み込んだ。思わず両手で患部を抑える。痛い痛い痛いこれは確実に腫れている。ああなんてことだよりにもよってこんなところで。いやしかしそれより前に。
 彼はぼうっと自分を見つめている娘に慌てて両手をかざし、動揺衝撃羞恥罪悪感後悔その他諸々でもつれる舌をどうにか動かす。怒涛の感情の奔流で色々とぎこちない自覚はあるものの、後頭部の痛みに比べればこちらのほうが大切だ。
「いやっ……、……そのっ、ご、誤解だアルティナっ!!」
 ようやく出てきた言葉は陳腐そのものだったが、自らの発言の情けなさに気付かないくらい彼は必死だった。いやだってあんな、けだもの然としていると言われればまったくもってその通り、適切すぎてぐうの音も出ない思考に突き動かされていたなどと知られようものなら軽蔑される。否、軽蔑で済めばまだましなくらいで、以降完全に口も利いてくれやしないだろう。それどころか天界に帰ってしまうかもしれない。
「き、き、今日は妙に熱くて眠れず散歩をしていたのだが……、そ、その際、お前の部屋の扉が開いているので、無用心だと注意するつもりでつい……いや、そのっ、起きているのかと思ってな!?」
 咄嗟とは言えもう少しましな嘘をつけないのかと呆れられても仕方ない内容だったが、本人はそんなことわかりもしない。どころか、自分が何を言っているのかさえも理解できないまま、勢いに任せて言葉を連ねる。
「そ、それでまあお前が寝苦しそうにしていたものだから熱でもあるのかと思って確認しようとしただけであって……、そんな、あれだ、いかがわしい真似をするつもりは……けっっっして、まっっっったくなかったのだが!」
 ならばどうして気安く寝台に寄りかかり、髪を掻き分けて首筋に顔を埋めていたのだとか。そもそもしっかり包まっていたはずのブランケットがなくなっているのはどうしてなのかとか。大体女の部屋に無断で入ったことさえも非難を受けて当然の行為だろうに、しかも相手が眠っているのに近付いてきて、額とは言え触れようとしたのは下心がないと本気で言えるのかとか。粗を探そうと思えばきりがないのに、彼は自分の言い訳に満足――など覚えやしない無論。それどころか戦々恐々。その心中は断頭台の上に立つ小悪党にほど近く、言い訳をまくし立てた後でもその前と変わらないくらい、いやそれ以上に激しい動悸に見舞われていた。
 何故なら、娘が。彼の名を呼び安らかな眠りから覚醒し、重たげに上半身を起き上がらせ、焦点の合わない瞳で彼をひたすら眺めている娘が次にどんな反応を示すかが完全に読めないため。
「……い、色々と、……悪かったとは、まあ、思う……」
 怒られるのか、説教をされるのか、わざとらしいくらい重々しく嘆息されるのか無視されるのか蔑まれるのか。赤面されるのはまだましだろう。夜這いが許されそうな雰囲気になることは絶対ない。なったらそれはもう美味しく頂くとかそんなことではなしにまずこの娘がそんなふうになることは有り得ない。秘蔵の魚醤を賭けてもいい。残念だがそのくらいの自信はある。とても、非常に、物凄く、残念ではあるが。
 娘はいまだ反応を示さない。いつもよりぼんやりとした青い瞳は、闇の中とろとろと揺蕩っていたがそれでも彼は動けなかった。彼女が何らかの反応を示したとき、彼がすぐさまそれに対応を示さなければ誠意を疑われると思ったから。しかし長らくの沈黙は、彼にとってどんな冷たい視線よりも肝が冷える。落ち着かない。不安ばかりが煽られる。
「……すまん」
 だから、正統とは言え厳しい態度を取られるよりも先に、彼は頭を下げた。動悸も少しは落ち着いて、後ろ向きな覚悟が胸の内からせり上がってくると、あんな苦しい言い訳をしたことさえ申し訳なく思う。とは言えど、あのときの自分の心境を正直に告白するのはいくら彼でもはばかられる。悪魔の身で何を今更と鼻で笑われるかもしれないが、娘には野蛮で粗野な己を見せたくなかった。
「その……お前との約束はまだ果たしていないと自分で言っておきながら、さっきの俺は……お前の血を、お前の断りなく吸おうとした……」
「……はぁ」
 娘の相槌が、彼女が起きて以降初めて聞こえてきて彼は一瞬硬直する。しかしそれもすぐになんとか解いて、続く言葉を頭の中から探り当てる。
「お前にとっては、疑わしい話かもしれん。だが信じてほしい。……俺はこのようなこと、今まで一度たりとてしたことがない」
 事実、誇り高き彼にとっては、今夜の一連の騒動は経験のない出来事だった。自分で貫こうとした約束を、自ら破ろうとしたことなんて。約束を交わした相手を襲おうとしたことなんて。更に言うなら、人間に恐怖を与えて戒める闇の使者として、夜闇の中で無防備に眠る女へ牙を剥いたことさえない。しかもその上、相手の自由をある程度奪った上で無理に己のものにしてしまおうなどと。今となっては本気でこの自分がそれを望んでいたのかと自分で自分に訊ねたくなるほどだったが、そんな衝動がなければ今こうなっていないはずなので真実は変わらないし変えられない。
 相槌以降、一言も相手から反応を貰えない点に、やはりこれでは納得してもらえないかと居たたまれなさを抱いた彼は、おずおずと首をもとの位置に戻して娘を見上げる。
「……ふぅ」
 もう一度頷かれる。びくりと全身で反応した彼は、けれど相槌の声がおかしい気がしてまた顔を上げ、闇の中、目を凝らして相手を観察する。睨まれる覚悟はしっかり決めて、しかし違和感を確かめる勇気を振り絞り。
「………………」
 娘は寝ていた。目を瞑り、思いっきり船を漕いでいた。
「うぅぅ……」
 唖然とした彼さえ全く気に留めず――眠っているから当然だ――、娘は上半身を起き上がらせた体勢のままこっくりこっくり身体を前後に動かしている。下手をすれば寝台から転げ落ちるだろうに、どんな特技かは知らないがもともと座りながら眠るのは上手いらしく、それなりの長時間でも無意識にバランスを取りながら彼女は眠っていた。
 とりあえずこれで叱られることも嫌われることも軽蔑されることもなくなったと理解した彼は、それはもう大きな安堵の息を吐いて全身の緊張を拭い落とす。
「……寝言が多いな、お前」
 長く深く重い吐息とともに思わず零れた呟きは気が抜けきって呆れさえ滲んでいたが、真に呆れ咎められるべきは彼の所業である。そう自らの行動を省みると、慌てて姿勢を正して立ち上がり、起き上がらせてしまったのは自分のせいだろうからと、今度はやましい思いを抱かずに娘の両肩を支え、そっと横たえらせる。
 掴んだ肩は華奢だがしっとりと柔らかく、ワイシャツと手袋越しなのが少し惜しいくらいだがそこで調子に乗れば今度こそ娘の覚醒を促しかねない。眠りやすい姿勢に戻って微かにご満悦らしい彼女の淡く笑んだ寝顔を見とめると、彼は疲れがどうと双肩に伸しかかってくる感覚に一瞬立ち眩みを覚えて壁に手を添える。
 まあ誰も彼もが眠る深夜に、適当な距離を歩いた上で女を襲いかけて我に返って転がって極度に緊張してでは疲れもする。改めると体の熱も餓えも消えていた。と言うより、娘にこの無礼な訪問が知られたと思った際の緊張があまりにも激しいから、そんなものなどどうでもよくなったのだろう。
 結果的にここに足を運んだのは間違いでもなかったようだが、尋常でないくらい心臓に悪かったのでやはり自分の判断を悔いた彼は静かに壁から手を離してのろのろとドアを目指す。そうしてドアノブに手をかけた際、めきと木材が軋む音が聞こえて完全にドアが壊れたらしい音がしたが、正直な話、もう、そんなことさえ気にしていられないくらい。
「…………疲れた。寝たい」
 心底ぼやいたその声は、僅かに涙ぐんでいた。





後書き
 フュースリーの『夢魔』いいよね、僕も大好きだ! つーか吸血鬼なんだから眠るヒロインを襲うのは一度はやんなきゃいけないお約束だよねー! ねー? って感じで閣下に襲ってもらった場合こうなりました。
 うんまあ自分でもびっくりするほどヘタレになった……ごめんね閣下……やり過ぎたね……。けどこれでほぼうちの閣下の方向性決まったね……。
関連記事
スポンサーサイト
[↑]
Copyright (c) 掃き溜め All Rights Reserved.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。