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墨の午睡

2011/08/09

 足元が崩れかけた。床はあるのに、立ち止まっていたのに本当にそうなりかけたのは不思議な感覚で、けれどあまりの呆気なさにああこんなものなんだと正直なところ落胆した。
 高熱が出たときでさえ一度だって意識を失うことなく、十五年を生きてきた。友だちが夏場貧血で倒れかけたなんて話を聞いて、少し羨ましいと思ったことさえある。『長い夢』に入った瞬間が初めて意識の消失を味わったような気もするがそれはともかくとして。
 眼前にあるものを見ただけで意識が飛びかけるなんて、自分はちゃんと乙女なんだと、内面的にも可愛いところがあるんじゃないかと頬が引きつりながらも薄く笑いさえしてしまったのはおかしいのだろうか。わからない。わからない。
 ともかく少女は見てしまった。馬鹿に大きな試験管みたいな硝子の筒状の、ひと一人が入れるプールみたいなものに納まった全裸の少女を。手足に硝子の破片が刺さったばかりの生々しい傷跡を残し、なのに血の一滴も水面には滲んでいない不可思議な状態で宙に浮いた長い栗色の髪の、鏡でよく見る女の子を。贅肉のない身体の、けど一応太股だってそれなりにしっとりしてるし、胸だって多少は柔らかく膨れているし、くびれだってあるけどその脇腹が何故か、皮がなくて赤い肉がちょっと覗く、抉れたきりの――命が喪われた自分の肉体そのものを。
「……なに、これ」
 頭の奥が真っ白になる。吐き気が胃の奥からこみ上げてくる。おかしい。だって自分は今は生きていて、けれど身体はあのあちら側に目の前にあって、今の自分には物理的な胃なんてある、はずがない、のか? わからないわからない。ならばどうして今の自分は寒気さえ感じているのか。指先は冷たくかじかんで、唇の表面がひんやりして、いつの間にか汗なんて掻いていたらしくうなじに髪が張りついて鬱陶しい。呼吸は浅くて心臓の音ばかりが大きく響いて異常だ異常だ異常だこれはいけないと、思っているのにどうすることもできない。
 膝から下が粉々になりそうで、頭が暗くなって、座り込みそうになる。さっきまでこの辺り一体を歩き回ったスニーカーは、同時にバイオスーツ相手にスライディングを容赦なく決めたもので、土足で歩いたところにお尻なんか付けてたまるもんかといつか少女自身が思っていたくらいなのに。今はそんなことを気にも留めることさえできず、ただ呼吸を浅く喘いだまま、冷たい、それはそれは現実みたいに冷ややかなリノリウムの床にへたり込んだ。
 胸に軽く手をやる。そんなことをしなくても心臓の音は身体の内側から鼓膜に刻み込まれるくらい聞こえているのに、それでも指先でこの振動を求めてしまうのは貪欲だろうか。混乱の証だろうか。まともに何も考えられない頭が何をどこにどう命じたのか、涙が一筋頬を伝って、それが熱いのもわかるのに頭のほうはどうしてか全体的に冷たく。悪夢を見て、目覚めたときはこんな感じだったような。いや、いやいやそれなら今がその悪夢の真っ只中だったじゃないかと、少女は馬鹿みたいな表現を見出してしまう自分を笑い飛ばそうとするが。結局、そんなことはできやしない。なのに。
「おいおい。よりにもよってお前がここ見つけちまったのか」
 能天気な声は少女がよく知る成人男性のもので、意識を失いかけた彼女の脳は声の主が誰であるかを探り当てるだけの行為を着火点に猛然と燃え上がる。胸を埋め尽くしかけた感情は、それまでと違うようで同じような、けれどまああまり褒められた感情でないそちらに音を立てる勢いでもって切り替わった。ついでに足首が、ぐるりと自動的に動いて。
「……の、…………」
「うん?」
 それきり、意識が途切れたかもしれない。
 熱い珈琲の匂いがして、少女はあの味を思い出す。本格的なものなんて知らない、いつも通りインスタントのお徳用サイズで、苦いばっかりで好きじゃなかった。
 匂いのもとは下にあった。自分の足下と相手の足下の丁度中間地点に落ちたプラスチックのマグカップから、容赦なく床に流れて茶色の池を作っていく。スニーカーが、ぴちゃと音を立てた気がする。熱さは感じない、多分。
 視線をゆるゆると上げていけば、丁度目線より上の位置に男の顔があった。無精髭の男。目つきと髪は自分にしっかり遺伝した、襟足で一括りにできるくらい半端に伸びた茶髪の中年男性。中高年特有の嫌な臭いがはっきりと感じ取れるくらいの距離にいると気付いて、少女は眉をしかめ慌てて顔を背ける。どうしてだろうか。そのとき、少し、右手が痛んだような――
 顔を背けた流れで少女が男から離れようと後ずさるとぱら、と音が聞こえてきて。そちらを見た彼女は結構驚く。無意識で、床にへたり込んでいた自分がいつの間にかそんな体勢を取っていたと知り。
 言うなればボクシングスタイルのストレート。とは言ってもきちんとそれっぽく構えたものではないけど、とにかくいつの間にやら男性の顔の真横の壁に自分の右の拳をひびを作るほど打ち突けていたようだ。少女はぼんやり右手を持ち上げ、胸の中にそれを庇う。
「あ……」
 痺れていた。おんぼろでもない研究所の、壁にひびを入れるくらいなのだから当然だが、とりあえず右手を左手で撫でようとすると真っ赤になっているのに気付いて、続いてその、内出血でも起こしていそうな、火傷に似た痛覚が今更のように襲ってきて。
「いっ、たぁあぁあ~~~!!」
 大声を部屋中に響かせる。叫びと言うにはしっかりした発音だから、悲鳴ではない。とにかくあまりの痛みに涙が溢れて、撫でようとしたけれどこれでは冷ましたほうがいいのではと思って手首をぶんぶん振るって風を切らせる。それでも痺れるような痛みは増す一方で、少女はうるさく喚き立てた。
「いたいいたいいたいいたいっっ! もーなんなの! ここの壁超硬いんだけど! 配管むき出しのとこもあるくらいなのになんでこんなとこだけ硬いのよ!」
「…………いやお前。フーカ。その前に父親を殴りかけたことについては何とも言わんのか」
「うっさいわね!! 娘の死体をきちんと弔わないでこんなところに飾る父親なんて殴られて当然でしょ! このアタシが外すなんて、パパったら悪運強すぎんのよ!」
 涙を流して右手の痛みに悶絶しながら、フーカは鋭く父を睨みつける。個人的には今までの人生の中で一番気迫を篭もらせたつもりだったのだが、相手は怯えもせず床に落ちたマグカップを拾っていた。そんな性格なのは知っているけど、憎たらしいったらない。
 それどころかマグカップを拾った父親は、平気な顔で洗い場に向かい、蛇口を捻って珈琲を完全に洗い流す始末。その後ろ姿を見て、フーカは一瞬だけ仲間内でも柄が悪いのっぽの悪魔に凄みのある睨み方を教授してもらおうかとの発想さえ浮かんだ。
「飾っちゃいないさ。こいつは保管だ」
「変わんないわよ! 全裸だし! 大体ここ鍵かけてなかったし!」
「おお、そうだった。施錠し忘れたんだ。だから戻ってきたら扉が開いててな、奥を覗いたらお前がいてさ。全く、変なとこだけ運がいいなあフーカ。いや、それとも悪いのか?」
 脳天気過ぎる物言いだが、まだ痛みで目元が潤んだままのフーカは相手のペースに乱されやしない。何せ十五年――正確には十三年―― 一緒にいた家族だ。相手ののらりくらりとした態度に慣れているから、少女も少女で我を貫く。
「どっちでもいいわよそんなこと! て言うかなんなのよ、……あれ!」
 直視どころか具体的に言葉でさえも示せず、フーカは自分の背後にあるであろう、ひと一人がすっぽり入れる大きさの試験管の中身について訊ねる。少女にしては珍しく言い淀む態度だが、父はそこをからかうこともなくコップの水気を切ってからのんびり返事をした。
「あれって言ってもなあ……さっきお前さらっと自分でも言ってたじゃないか。フーカ、お前の遺体だよ」
「…………」
 そうだっただろうか。少し前の記憶を探ろうにも連鎖的に見てしまったものを思い出すのが嫌だから、すぐさま否定することもとぼけることもできなくてフーカはしかめ面で俯いた。けれどこのまま押し黙っていると自分が死んでいるのを大人しく肯定しているようで癪に障るから、またしても胸の奥底から襲ってくる衝撃と恐怖を振り払うため、どうにかもつれそうになる舌を動かす。
「……そうじゃなくて。その、なんであんなの、保管してんのよ」
「先人の有り難いお言葉ってやつがあってな」
「誰それ」
 有名な科学者か誰かだろうか。身内の遺体を保管しておくと何かいいことが起きるだなんて、もの知らずの自分でさえもあり得ないと口先を尖らせるフーカに、父は平然と答えた。
「ネモだよ」
 頭から冷や水を引っかけられたように、フーカの高ぶった神経や怒りが一気に収縮し、身体中の沸騰していた血が少しずつ正常、どころか動きを緩やかにして全身がぎこちなくなる。全く知らない人物の名前が出たら一蹴できたのにそれはまた、――何と言うべきか。
「奴さんがな、『今は技術が進んでるんだから、もしものときのために身内の遺体を保管しといたほうがいいよ。すぐに焼却処分するのは追々悔やむ可能性が高い』って含蓄のあるアドバイスをくれたもんだから、まあそうしてみようかと思ってさ」
「そうしてみようかって……そんな感覚で実際にやる?」
 訝しく問いかけながら、フーカはある程度父の返答を予測していた。
 この研究所は、地獄や魔界を知るフーカの知りうる限りでも最も生き物の尊厳が薄い場所だ。さっき見てしまった大きな試験管状の筒の中で、内蔵をいくつか失っているのに動けるくらいに元気に生きている動物や、一部をよその生き物と合成させていて眠っているの、機械を取りつけたのも見たことがある。一見すればわからないかもしれないが、この中には死んでいるのもあるよと父から説明を受けた衝撃は少女の脳に強く刻まれ、いまだ忘れられそうになかった。
 だから人間一人の死体の保管なんて、この場所にとってはそう特別なことではない。動物ならば悪魔でさえも研究しているこの施設で、人間様だけ倫理感も道徳感も真っ当常識の範囲内、特別扱いいたしますなんて片腹痛い。生き物は『平等』に取り扱うのが筋と言うもの。たとえそれが、研究所に勤める誰かの身内であろうとなかろうと。
「うむ。お前一人が保管できるフラスコの用意なんて別に手間はかからんからなあ。力士並に横に長いとかじゃなくて本当に良かったよ」
「……なに馬鹿なこと言ってんの」
 冗談混じりの父の発言はいつも通りで、しかしその気負いのなさにフーカはまたしても足下がぐらつきかけた。
 それでも見てしまったものが自分の知らない赤の他人じゃなくて良かったと、フーカは深く長い息を吐いてようやく考えられるくらいの冷静さを取り戻す。――恐らく、ここに保管されていたのが自分の知らない人間の死体ならば、そのとき少女は自分の父に人殺しとはっきり罵るだろう。自分の■■なら、身内だからと自分に強く言い聞かせてしまえば生理的嫌悪は免れないもののまだ酌量の余地はある、と息苦しさを覚えながらもどうにか思う。
「てゆか、なんでアイツ、そんな馬鹿みたいなアドバイスを人んちのパパにしてんのよ……。わかってたけど、本当に頭おかしかったのね」
 だからどうにかフーカはこの出来事の責任を、断罪者と名乗り世界を破壊せんと狂気に走った男に擦りつける。どうせ今の科学技術の発展ぶりを見て、かの恩人たる娘の遺体の細胞の一部でも現在に残っていればクローンとして彼女を新たに生み出したかったとか、そんなことを考えていたのだろう。狂人だったから当然だが、想像するだけでも胸に吐き気がこみ上げる。趣味が悪くてたまらない。
 と思ったところでフーカはぞっとする考えを浮かび上がらせ、父親を睨みつけながら震える唇で問いかけた。
「あのさ、まさかと思うけど……。パパ、アタシのクローン造ったりとか、そんなこと考えてないわよね……?」
「お前が造っても構わないって言うんなら考えんこともないが、お前は嫌だろ?」
「あっっったり前でしょ!! そんなの考えただけでもキモいってのに!!」
 嫌悪感をむき出して叫ぶフーカに、父はのんびり、そうだろうなあと深々頷く。その落ち着きように少女が眉をひそめる程度の不気味さを覚えるくらいで済むのは、恐らく彼女がこの男の娘だからこそ。他人が同じことを問いかけてこんな回答を聞かされればもれなく彼も死んだほうがいい部類の狂人扱いだ。それを幸運と見るか、不幸と見るかは個人の受け取り方次第だが。
「そう言うと思ったからやっとらんよ。大体、ワシが人間のクローンに手出すならお前じゃなくてママが先だしな」
「……そう、よね」
 暗に娘より妻のほうを重視するとの告白に、しかしフーカは納得して多少は気を落ち着かせた。胸糞の悪さは相変わらず色濃く残るものの、それは事実だろうと思うくらいの説得力を父の言葉に見いだしたから。
 父がおかしくなったのは母の死が原因だと娘が思うくらい、風祭源十郎は妻を愛していた。難しい年頃の娘の前で恋人同士のような熱愛ぶりを見せつけるような真似はしなかったが、この男は細君が死ぬまで仕事は常に定時上がりで残業なんかあっても年に一度か二度。外食は滅多になく妻手作りの夕食は毎晩ご馳走さま、美味しかったよの一言で締めくくり。結婚記念日と互いの誕生日は何かしらの形式で毎年祝い、休日は何をするでもなくふたりしてリビングにいる、つまりただひたすらそばにいれば幸せだと言わんばかりの、小規模な、けれど真摯でひたむきで丁寧な愛を示していた。
 だから、いくら本人たっての願いを叶えるためとは言え二年間寂しい思いをさせてきた娘を、それ以上の年月をかけて愛してきた妻を差し置きクローンとして復活させるなど、この男の道理には適っていない。それはつまり。
「じゃあパパ……ママのクローンも、造ろうとは思わなかったんだ」
「そんなもん造ったらあの世のママに怒られる。それに見た目は一緒でも、記憶や中身まで全部一緒だなんて誰も保障してくれやしないだろ。虚しいだけだ」
 それもそうかと目から鱗が落ちたフーカは、ならば何故自分のあれはここに保管されているのかがわからなくなって帽子のつばを苛立つように摘む。ネモに言われて保管したとは聞かされたが、ならこの先あれをどうする気でいるのか。理由を聞きたかった。けれど同じくらい、自分からそこに突っ込むのは嫌だった。
 だがそうして柄でもなく躊躇うフーカの指先に、プリニー帽子の黄色いつばの、割合しっかりとした布の感触が引っかかる。同時にお前はプリニーなのだと、どこぞのイワシ臭い吸血鬼の声が頭の中で響いてしまい、それに反発する気持ちを強めた少女は帽子から手を離し、生唾を飲み込んで己を奮い立たせた。自分は死んでなんかいやしない。これはまだ夢の続き。だからこんな、突飛極まりないイベントもまた自分の夢の一部なのだと強く強く言い聞かせ、だからあれを話題にしようが自分は痛くも痒くもないと懸命に自分に言い聞かせる。とは言え、振り向いて背後のあれをまた見る勇気にはまだ足りない。
 そんな思いをして開いた口は、乾いているのにどこかねちゃりと音響かせる。舌はもつれ、頬は引きつり、喉の奥はがちがちで、それでもどうにかフーカは言葉を選ぶ。声は、微かに裏返っていたかもしれない。
「……なら、さ。なんであんなの、取っておくのよ」
「いやだから言っただろ。アドバイス貰ったからだよ、パトロンに」
 なのにこれだ。ある意味では一世一代の大告白よりも緊張感をみなぎらせて問いかけたフーカへ、父がその努力を汲みもしない鸚鵡返しを寄越した瞬間の脱力感と怒りときたら。反射的にがあっと吼える彼女を責める者はどこにもおるまい。
「取っておいてそれでどうすんのって訊いてんのよ、アタシは! なに、パパが急に死んでもこのままずっとここで放置されてるってのあれ!?」
「あれとかあんなのとか言うなよ、フーカ。お前の遺体なんだからもうちょっと丁寧に扱ってやらんか」
「うるさいわね! アタシのもんならアタシがどう扱ってもいいでしょ!」
 理に適っているようで乱暴でもある発言に、その『アタシ』の母に遺伝子を提供してこの少女を一から造り上げ十五年間扶養した、当人以上にフーカに尽くした男は、目を瞬いてからああ、と一声漏らした。
「ま、それもそうだな。お前は未成年者ではあるが、自分の体くらいはどう扱っても構わん権利がある。死んでいようといなかろうとその辺りは変わりない。周囲の願望なんてもんは判断材料にしかならんもんなー……昔はパパもそうだった」
「一言余計!」
 小まめに突っ込みを入れるフーカの言葉を軽く受け流し、じゃあさあと源十郎は少女がよく知るまま、憎たらしいほどいつも通り無精髭の顎に手を添え。
「お前はどうしたい?」
 至って気軽に、まるでレストランでの注文を任せるような調子で、そのくせとんでもなく重々しい言葉を向けてきた。
「…………は?」
 その重みがあまりにも唐突だったものだから、フーカの怒りで柔らかくなった全身が、またしても音を立てそうなくらいの勢いで硬直する。振り向いた瞬間に硬球どころか砲丸を投げられた衝撃が響いて頭の中は真っ白に近いのに、目が真ん丸く開かれて、口が開いてしまったのに片頬が引きつって、誰にも見せられないくらい不細工な表情を作っている自覚をじわりと持つほど。
 だがそんな娘の心情を、父はまるで慮ることなく具体的な指針を示す。
「お前はどうしたいんだ、フーカ。ここに保管しておくのが嫌なら、今からでも火葬していいのか。ママのお骨と混ぜて構わんのか」
「え、ちょ……」
「ほかに考えならあるなら言ってみな。それでいいならそうしとこう。お前の遺体はお前の言う通り、お前のもんだからな。まあパパとしては自分が満足したときにそれなり措置を改めて考える、くらいでいたかったんだかそれはお前、嫌だろう?」
「……い、や…………えと……」
 嫌な気もするし、それでいい気もする。火葬するのが当然のような気もするけれど、しかし改めて自分の■■を見てしまうと酷く残酷な選択ではないかとも思う。わからなかった。正直な感覚ではそうとしか言いようがなくて、だからフーカは父の、本当にくびり殺したいくらい真っ直ぐな、他人事めいた視線に慌てて逃れるように俯きこぶしを握った。
 自分の肉体がこんなふうに扱われていると知って、不快感を覚えるのは自らこんな扱いをされたいと申し出たもの以外、死者なら誰しも同じだろう。だからフーカも憤る。けれど、その後の始末を自ら選べるならその憤りは帳消しになるかと問われれば無論、そうではない。そんな経験をした人物は、後にも先にも少女以外にいないだろうが。
 大体、遺体とは多くの場合、残された遺族を始めとする周囲が環境から方法を選択し、適切な手順に則って処置するもの。だからその昔、多くの骸が都会の入り口の立派な正門の近くに放置されていたなら当時はそれが適切だったし、土葬だの鳥葬だのが適切な地域ならばそうあるべき。おとぎ話のお姫さまは、小人たちの要望により遺体を硝子の棺に入れて弔われた。それら総てに、死者当人のはっきりとした意思はない。
 多分に最も死者に優しい弔い方は、当人が幽霊となって自分の体がどうなったのかわからないうちに、見えないところで完全に遺体を処理してやることなのだろう。今まさに正反対のことをされているフーカはしみじみとそれを実感しながら深く息を吸って吐いたが、そんなことでは意識が朦朧としかけるくらいの緊張感と混乱は落ち着かないし、震えも動悸も治まりやしない。
 理屈で考えれば、多分火葬が一番いいのだろう。今みたいに背後のあれを気にすることなく、骨にしてしまってこぢんまりとした石の家で母の遺骨と混ぜられるのが、フーカのいる国の風習としては正しい。
 けれど自分の、一生付き合ってきた自分自身そのものたる大切な体が焼けて灰と骨になる姿なんてどこの誰が想像したい。それを選択してしまえば、今のフーカにその暗い陰や想像は、おかしな表現かもしれないがそれでも『一生』付きまとう。
 なら外国みたいに棺に入れられ土の中で腐りゆくのを待つのか。それもごめんだ。夢の中とは言え屍族を間近で見ているフーカにとって、自分がときの経過とともにあんなふうに変貌していくなんて想像さえもしたくない。
 だったらここにこうしているのか。今自分が見つけてしまったように、うっかり誰かに自分のすべてを見られてしまう可能性に不安を抱きながら、このまま暮らしていくのか。それこそ嫌だ。とっととどうにかして欲しいと思う。けれど、そのどうにかを自分で決めたいようで決めたくなくて、誰かに決めてほしいようで決めてほしくない。両方の願いは次第にそれぞれの願いが浮かび上がることに大きくなって、少女の胸のうちを圧迫する。
 矛盾した願望の戦場と化した脳みそに翻弄されて、次第に何を考えているのかもわからなくなったフーカのまなじりが、不意に何かを零した。頬に触った瞬間は熱くて、けれど流れ落ちたあとには冷たいものが一筋。
「……ぁ……あた、し……」
 逃げ出したかった。けれど今逃げたら、きっとこっちにはもう足を踏み入れることさえ難しくなる。だから今のうちに決めたい。いや、本当は決めたくない。こわい。決めるのがとてつもなく怖い。けれど決めなければ。今、絶対に今。そう思っているのに、そこから先は何の考えも浮かびやしない。相反した願望の堂々巡りが続いて続いて螺旋を描く。
「あたし、っ、アタシ、っ、アタシ、は……」
 フーカの喉が引きつっても、同じ言葉しか言えなくても、おとがいが震え、強く握ったこぶしでさえもみっともないくらい震えても、彼女の眼前の男は表情をぴくりとも変えなかった。平気な顔で少女を眺めて、娘の言葉を待っていた。慈しんでいたり、娘に残酷な選択をさせて申し訳なさそうな顔ではない。実験中の細胞の変容を黙視する顔、待って当然、それが仕事だから待つんだと思っている目で――少なくとも彼女にはそう見えた。
 だからフーカの混乱極まった頭に浮かぶのは、さっきからそれ以外にないくらいの父への怒りで。ありとあらゆる考えと感情が膨れ上がって散らばってまとまらない頭の中、明確なのは後にも先にもそればかりだったから、少女は何を考えることもできず思いの丈を吐き出す。
「……パパのバカッ!!!」
「ぇえ~~……」
 対する父はそんな文句が出るのは全くの予想外らしく、苦い顔で口先を尖らせた。当然可愛げなんぞ逆さにしたって出てきやしない。だからフーカの怒りは止まらない、安らがない。
「フーカ、もうちょっと真面目……」
「アタシの知らないうちにアタシの体勝手にこんなとこに置いとくとかほんとバカ!! おまけにアタシに見つかったらさっさとアタシに始末どうこう決めさせるとか何よそれ! パパが悪いのになんでアタシがこんな苦しまなきゃなんないのよ、全部、それこそアタシが死んだのも全部パパのせいなのに!!」
 一気にまくし立てても、フーカの胸は爽快感など覚えるはずがない。むしろ頭も胸も痛いくらい熱い。ぶすぶすとくすぶって不自然に溶け、異臭を放つ不燃物を焼いた不快感と後ろめたさが広がって、言葉を吐き出すことそれ自体が罰のよう。誰に対してなのか、今の少女にはわからない。
「あいつもういないんだからパトロンのせいとかそんな言い訳しなくて自分はどうしたかったのか言いなさいよ! 決めなさいよ! 寂しくて置いといたとかならまだアタシ、キモいって思うけど納得したのに!! なんでこんな、残酷なことすんのよパパのバカッッ!!」
「キモいってお前……」
「それに、アタシまだ死んでないし!! そりゃ自分でもちょっと苦しいかなと思ってるとこはあるけど、このまま死んだとか生きてるとかうやむやにしちゃってグロいけどそんでもアタシの言うこと聞く妹と学校の友だちより色々話せる仲間と飽きるまで面白おかしく生きていければいいとか思ってたのに、こんなとこでこんなことしなくてもいいじゃない!!」
「…………」
 父が薄く開いた口を閉じて、フーカを見つめる。爬虫類を彷彿とさせるぎょろりとした瞳に映る感情が何なのか、少女は知らない。だから何を考えているのかも当然わからなく、想像さえしないしできない。
 けれどへどろが溜まった沼地をかき混ぜるように荒れ濁りきったフーカの目は、その強い視線に自分の中の攻撃性を見て取り、勢い任せに過剰なくらいの反応を示す。
「それともパパ、アタシのこと嫌いなの!? それだったら色々わかるわよ。てゆーか、そうだったほうがよっぽどいいわよ!! デスゼット造ったのも、二年間アタシを放置したのも、死んだ死んだってうるさいのも今のこれも、全部アタシが嫌いだからだって言ってくれたほうが……!」
「フーカ」
 静かで、そのくせ変に力強くて、何よりはっきりとした感情を込めた声が誰彼構わず傷付ける勢いだった少女の言葉を遮る。
 弾かれたように顔を上げれば、フーカの目の前の男が眉間に皺を寄せていた。簡単な表情ではあるが、眉尻が上がっているものはこの男はそう滅多に浮かべない。むしろ珍しい。娘の彼女でさえ、いつ以来見たかどうかもわからないくらいで思わずたじろぐ。結果彼女の暴走は、消火器を的確に噴射されたぼやみたいに一気に沈下させれられた。
 フーカの勢いをたった一言で削いだ源十郎は、彼女の肩に更なる緊張を導く大きな吐息をついてから白衣の肩を軽く竦める。
「そんなちっさい脳ミソで無理してあれこれ考えんでもいい。お前馬鹿なんだから、なんも考えずとりあえず落ち着いて思ったこと言ってみろ」
「……娘にちっさい脳ミソとかバカとか言うな」
 怒っていたくせに言葉は優しく茶化し気味で、気が緩んだフーカはまた目尻に涙を浮かべてしまう。さっき泣いてしまったせいだろう、滅多にないのに涙腺が緩みっぱなしの少女はジャージの袖で液体を拭う。ついでに、ぽつりと本音が涙の代わりに零れ落ちた。
「……焼かれるのとか考えたくない。こわい」
「そうか」
 フーカにしては飾らない気弱な言葉だが、ここにいるのは互いをよく知る親子二人。だから彼女の変化を容易に受け入れて、父は軽く顎を引くのみ。
「けどママと骨だけでも会えないとか寂しい。地獄にママいないし」
「まーなあ。ママ、お前と違って天国行きだろうしなあ」
「パパはどっちかってと地獄行きよね。ざまあ見ろって感じ」
「その辺はワシ職業柄覚悟してるし。お前と違って自惚れとらんよ」
「強がり」
「おうとも、強がりだ」
 意地悪く笑うフーカに、さっぱり笑う源十郎。その仕草の中で白髪が揺れた気がして、そんなふうに笑った自分に少女は微かな罪悪感が過ぎったけれど、言葉は止まらない。
「埋められるのとかもいや。水の中で魚に食べられたり腐るのもいや。鳥に食べさせたりミイラにすんのも実験に使われるのもいや」
「せんよそんなもん」
「けど、今のままもいや」
 フーカはまっすぐ告げる。なんでも言っていいと親に言われたからなんて、我ながら子どもっぽいと自覚しながら。普段は妹相手に年上ぶっているくせに、やはりまだ甘え足りない部分はあったのだろう。
「このまんまパパとかほかのやつに裸見られるかもしんないって考えただけで、すんごいいや。キモい。だからアタシが安心するためにあんなのすぐにどうにかしてほしい。けど、なんかされる自分の体なんか見たくない。あのままにしてほしいって、大切にしてって思う」
 言葉にすれば尚更に、強い矛盾を感じさせる。しかしフーカはわがままを許される『子ども』だから、男を相手に際限なく願う。
「けど、アタシの今の体はこれだから。体が二つあるなんて夢でも現実でもおかしいから。アタシの……なんて言うのかな、動かせないほうは、不気味だからなくなってもいいんじゃないかって思う」
 言い切った直後にも関わらず、フーカは早口で首を振って続きをまくし立てる。そこで区切ると、父がそうかそれじゃあ処理しちまおう、なんて意気揚々とした返事を寄越す姿が想像できてしまうせいだ。
「けど、やっぱりそれがアタシの見た目をしているんだったら、そっちに指一つでも触れてほしくない。あ、機械とかでも一緒。ううん、そっちのがドリルとかミキサーとかエグそうだしもっとイヤ! 誰にも触ってほしくない! ずっとそのままにしてほしい! けど、それも、やっぱりいや!!」
 眉間に皺を寄せ、首をしっかり横に振って言い放ったフーカの意見はそれまでと受け止めたのだろう。暫くの沈黙のあと、源十郎は明らかに後悔している顔で天を仰いだ。
「……ほんとにわがままばっかりだなあ、フーカ。ラスボスの妹よりもよっぽど難問だぞこりゃ」
「あんなの残したパパのせいでしょ」
「尤もだ」
 わははと明快に笑う父の脳天気さに、フーカの心境を吐露して落ち着いたはずの怒りがまたしても燃え上がる。もともとこの少女は沸点が低いのは誰しもが指摘するところだが、泣くほど自分を精神的に追い込んだ人間が眼前で笑っている光景をあっさり受け流すのは達観を身に付けた大人でもなければ難しかろう。
 しかし十三年間フーカとともに暮らしていた男は、少女が何かを言おうとするより先に笑いを止めて自分の無精髭を撫でる。
「じゃあフーカ、これからパパの質問に答えなさい」
 急に何をと半眼で睨みつけるフーカに、返事も待たず源十郎は咳払いを一つしてからやたらと明るく、クイズ大会のごっこ遊びに付き合っているような朗らかさで訊ねた。
「お前は自分が死んだのは誰のせいだと思いますか?」
「……死んでないし!」
 初っ端からそんな踏み込んだ質問をしてくるなんて誰が思おう。事実フーカは真面目に考えるより真っ先に突っ込んだが、相手は誰よりも『死んだ』風祭フーカをよく知る人間である。彼女の性格なんぞ地獄にいる仲間の誰よりもよく理解していたから、彼女の意固地に対しても対処法はお手のもの。
「その辺はオフレコってやつだ。お前の仲間の誰にも言いやしないから安心しろ。それでも納得せんなら死んだのは仮定と考えてもらっても構わん」
「…………」
 あっさり答えるよう仕向けられ、フーカはこめかみ辺りに血管を浮かせてしまいつつちらと俯き、真面目に質問を頭の中で繰り返す。そうして暫く考えて出た答えは――。
「……パパ。アタシのちっさい頃の夢を糞真面目に受け止めて、あんな物騒なのを二人も造ったパパのせい」
 微かに喉は震えていたかもしれないが、それでもフーカは選択する。そう、後ろめたさは多少あるものの決して自分のせいだとは言わない。そこまで彼女は大人ではないし、大人になる前に彼女はこのまま成長を止められた。運命の悪戯か、彼女の願いを叶えようとした身内が生み出したものによって。
「デスゼットを厳重に監視してたら、あんなことにはならなかったでしょ。そうもしなかったパパが悪い」
「そうか」
「ま、デスコは触手がグロキモいけど悪い子じゃないから、許してやらないこともないけど」
「別に許してもらおうとも思わんよ」
 さらりと受けた返事に、それは、どう言うことだと。怪訝に眉をひそめたフーカの意識を誘導するつもりか、続いて源十郎はまた朗らかに声を張り上げる。
「お前はお前の死体を誰が片すべきだと思いますか?」
「…………」
 またそんな質問かとうんざりしたフーカに、ほらほらと源十郎は急かす。
「お前このままここにずっといる気か。とっとと帰りたいんなら早く言っちまえ」
「……パパ」
 帰りたいなんて言葉を出されてついうっかり答えてしまう自分に、フーカは軽く虚を突かれた。帰る。つまり今の自分の居場所はここにはないと彼女は奥底で自覚しているらしい。そう認識するだけで、途端居心地の悪さが背中に這い寄ってくる。それではこのまま無理をして地球の自宅に帰っても、自分は平気で暮らせそうにないのか。そんなはずはないと、反射的に頭の中で反論するが試せるのか。
「じゃあフーカ、お前が一番怒鳴っていい奴も憎んでいい奴も、お前にとってはパパってことでいいんだな?」
 しかし源十郎は娘の内心の動揺を気に留めず淀みなく訊ねる。だがそんな残酷な質問に、男の実子たる少女が平気で答えられるものか。もとよりフーカの恨み辛みを始めとする負の感情はアルコールに浸した脱脂綿が燃えるようなもの――苛烈ではあるがそう長らく持続しないと言うのに。
 それに身内を一番恨めるほど、フーカは眼前の男を嫌っていない。今の今まで続く彼女の悪夢の諸悪の根元であることは否定できないけれど、それでも。
「……別に。パパを憎んだり恨んだりしたってこの悪夢が終わる訳じゃないでしょ」
「終わるとも、今のお前の悪夢はな」
「へ?」
 間抜けな声を漏らして顔を上げたフーカは、流れで源十郎が白衣のポケットに手を突っ込んで、その中で何かをしたのを見てしまう。と同時に背後の、あのひと一人がすっぽり入る試験管のような硝子の筒から作動音以外の、特別なことをしたらしい機械音が響き渡って彼女はそちらを反射的に振り返る。
「ちょっと、何したのよ!?」
 鏡を使うわけでもなく自分と同じ顔を見てしまう気まずさを一時忘れてフーカは父に訊ねる。筒の下部から内部を覆う勢いで吹き出ている黒い液体が、猛烈に嫌な予感を誘うせいだ。
「気にするな、墨汁だ」
「全然そう見えないんだけど!?」
「じゃイカ墨」
「ふざけてんじゃないわよ!!」
 噛みつくフーカに、源十郎は軽く笑う。ああ全くもっていつも通り、母が死んでも死ぬ前と変わらないくらいの軽薄さで。細君の葬儀の席で暗い顔を貼り付けていても、結局娘の前では涙の一滴さえ流さなかった男は笑う。
「じゃ何だお前。あれは人の髪や骨まで完全に分解するバクテリアだとか、タンパク質なら跡形もなく溶かしちまう酸だとでも言えばいいのか? それで納得するか?」
 怖気が走る回答に、フーカの全身の毛穴が開いた。直後今すぐあの硝子の筒を壊してしまいたい衝動に駆られるが、そうしてしまったら自分の■■を見ることになる。あそこからでろりと力なく自分に寄りかかってくる冷たいもう一人の自分を抱えられるのか。
 足を踏み締め歯を噛みしめて躊躇するフーカに、源十郎はのんびり手を振った。
「安心しなさい、今言ったのはどれも違う。お前の要望通り、誰からも見えないようにしただけだ」
「…………」
 信じていいのか。わからない。嘘はあんまり言わないとフーカは父の性格を理解しているつもりだが、それは自分を落ち着かせるための方便かもしれないと彼女にしては疑心暗鬼な考えも浮かぶ。できることと言えば、隣の父を睨みつけることくらい。
 だがそんなフーカの気迫たっぷりの凝視を受けても、源十郎の態度は変わらなかった。嘘をついて後ろ暗いと思う顔でもなし、本当のことを言っているのに信じてもらえない落胆を滲ませる顔でもなし。
「疑うならそれでも構わんさ。信頼ないのはもうわかっとるしなあ」
「ボタン押す前に物騒なこと言わなかったら信じてたわよ! 恨むとか怒鳴るとか悪夢が終わるとか、あれって思いっきり処理しますフラグじゃないの!?」
「お、よく覚えてるなあフーカ。ま、そう思いたかったら思いなさい」
 指摘しても飄々としたままで、行き場のない焦燥と困惑にフーカの頭がぐらついた。ブラフなのかもしれない。本当なのかもしれない。筒の中を割って確かめる以外に、それを知る方法はない。だが自分の■■と向き合うことすら難しかった少女に、そんな真似はできやしない。
 気付けば筒の向こうは完全に黒い液体に覆われて、内部がどうなっているのか完全にわからなくなった。この場に響き渡るのは相変わらず低めの機械の作動音のみで、髪の一房さえ見えやしないのは、幸運なのか不幸なのか。
 けれど中身が完全に見えなくなったことで危なっかしい足取りなりにようやく筒に近付いて、それでも硝子に触れることもなく、見上げるしかできずにいるフーカの背後から、源十郎の変わらぬ声が少女の内部へと響き渡る。
「これでお前の悪夢は終わりだ。お前はまだ遺体が入ってると思うならそれでいいし、処理されたと思うならそれでもいい。恨んでもいいし、怒ってもいいし、忘れてもいいし、安心してもいい」
「…………」
「まー、お前の言う通りお前の不幸は大体パパのせいだからな。今後お前がパパをどう扱っても正当なもんだと受け止めるよ」
 今のフーカの眼に映るのは真っ黒い硝子を見上げる自分自身の顔と、背後の父の姿くらい。どちらも顔の細部まではっきり見通せるほど、筒の中は真っ暗だった。けれど彼女の拍動がうるさいくらい大きく聞こえてくるせいか、少女は硝子に浮かび上がる自分の表情も父の表情も、よくわからなくなっていた。
 頭が熱い。ふらふらする。唇の先や鼻の頭が気味悪いくらいに冷たい。瞼の奥が、やたらと白い。
「帰りたいなら帰りなさい。気の済むまでここにいたいならいなさい。ワシを殴りたいんなら殴ってもいい。お前が出て行くまでは、パパもここで待つ」
 背後の父が適当な壁に体を寄りかからせかけた、ところで今更珈琲に濡れた床に気付いたのか俯いてサンダルの片方を脱いで被害状況を確認する。一連の様子はフーカの目にも映っていたはずなのに、彼女は何も思えなくて頭にまでその光景が入ってこなくて。体の軸が大きく傾きかけたかもしれない。視界が一瞬ぐらりと揺れて、けれどそうなって堪るものかと体が思っているのか反射的に傾きが変わってもとに戻る。それだけの動きの中でも、頭はやたら涼しかった。
 多分このままここで気を失ってしまっても、父はどうにかしてくれるかもしれない。だからそれこそ乙女らしく倒れても構わなかったのだが、それでもフーカは意識を失いかける今ですら、何もしないでいるのはいやだった。それは多分、突如として自分に襲いかかってきた人造悪魔の少女相手にも思ったことだろう。いまいち記憶にはないが。
 故にフーカはまた体がどちらか一方に傾きそうになるのをまた踏ん張って堪えると、ゆっくりと片腕を上げた。それだけの行為なのに身体のあちこちがだるい、重い。視界が、霞む。
 目を瞑ってしまいたい。汗を掻きまくった全身の気持ち悪さと涼しさを始点にするあらゆる不快から何もかもをも忘れて全身の力を抜いてしまいたい。しかしそんなこと。この悪夢の世界の支配者である風祭フーカさまが、そんなみっともない逃避をしてたまるものか。
 奥歯を噛んで、上げた片腕の手の四本指を折り曲げ汗で滑る手のひら側に指の腹を触れさせ、握りこぶしを作る。硬いはずだ。悪夢を見てからこのかた、少女の鉄拳を喰らってきた悪魔は数えるのも面倒なくらい多いのだから。悪夢を見る前は、男の子相手に喧嘩をしてもこぶしで殴る経験さえなかったのだが。
 く、と上げた片腕を少し後ろに引く。重心も少し後ろに傾いた。普段なら馬鹿でかい斧が彼女の獲物ではあるが、今は手元にバットでさえないので仕方ない。ただ眼前の一面真っ黒な硝子の筒をなんとしてでも殴らなければいけない衝動に駆られたから。酷く身体も心も神経さえもどんより重くて意識が擦り切れそうな今でさえ、何も考えられず最後の力を振り絞る。
「……ぁあアッ!!」
 気合いを込める意味も含めて、搾り出した声はやっぱり掠れていた。同時に振り切った片腕が、ごつりと音を立てて硝子に接触する。こぶしの先から伝わる痛みのなさと鈍い音に、ああこれは割れないなと反射的に確信したフーカはしかしそのままやり遂げた気持ちで目を瞑るつもりだった。なのに。
 こぶしと接した硝子に何故か白いものが見えて、それが何なのか一瞬わからなかったフーカは目を瞬き、続いて凹んでいると気付いて眉をしかめるのとほぼ同じタイミングで。
 フーカの白いこぶしと同じ、白い糸のような蜘蛛の巣模様が真っ黒だったはずの硝子の筒一面に広がり、甲高い崩壊音とともに黒い水が流れ出る。溢れ出る。どれくらいかはわからないけれど、確実にフーカの顔にも膝にも腹にもかかってしまう勢いの量はあったらしい。触れただけでは痺れるような刺激はなかった。冷たくもなかった。人肌の、恐らく羊水めいた生温かさとアルカリ性のぬめりと、血のにおいを伴って。
 黒い水が流れていくさまをただ黙って見ることしかできない少女の目が、黒い滝があちこちから流れる光景の中で異質な何かを捉える。その何かは、茶髪で白い肌で、女の子の姿をしていて、そのくせ薄らと黒い絵の具で溶いた水でも被ったように濡れていて。
 顔を上げたフーカを相手に、そいつはにこりと、筒の中で笑った。
「満足した?」
 誰かは知らない。フーカは知らない。
「ね、魂のアタシ。これで満足した?」
 自分と同じ体で自分と同じ声で自分と同じ顔のそいつが、後頭部から白くて柔らかいものをぼたっと背後に垂らして髪に何かをへばりつかせてしまっても。
 フーカは、そいつを知らなかった。

◇◆◇

「おねえさまっ、おねえさまっ!」
 瞼が開く。重く、熱く。酷く、全身がだるい。
「……あぁ。なに、……デスコなんか言った?」
 冷房も付けず真昼間に居眠りをしてしまったような気だるさと、それ以上の身体の奥底に滲む熱にうなされた最悪な気分でフーカは眉間を解す。頭の奥もどんよりしていた。友人間で夜中集まったとき、ちょっと無理をしてジュースみたいに甘いチューハイを一缶開けた翌朝もこんな頭痛に見舞われたか。
「おねえさま、デスコは早く帰りましょうって言ったデスよ。なのにさっきからぼーっとして……もしかしておねえさま、立ったまま寝てたデスか?」
 視線を下にやれば、異形の少女が真っ赤な瞳に疑わしげな感情を込めて見上げてくる。控えめながらにジャージの裾を掴む手もまた赤く、しかししっかりと引っ張られる感触はいつも通り。そこでようやく、フーカは粘つくような熱気と黒い印象の何かを頭から振り払った。どうやら悪い夢でも見ていたらしい。これ以上の悪夢なんてないと思っていたのだが。
「かもしんないわね。体調どっか悪いのかなあ……」
「今のおねえさまはそんな簡単に病気になったりしないと思うデスけど……拠点に戻ったら、保嫌所で看てもらいますデスか?」
「んー、そうしよっか」
 とは言え、フーカもデスコと同じくそれほど我が身が心配ではなかった。酷くだるいのはきっと立ったまま夢なんぞ見たせいで、だからいつも通り身体を動かしていればいつしかそんな感覚も忘れてしまうだろう。
 壁に持っていた斧を預け、肩やら首やらを手で揉んで、どことなく強張りを残す全身を解してやりながらフーカはデスコを改めて見る。無遠慮な視線を受けた人造悪魔の少女は、彼女の視線の意図を理解できないでいるらしくきょとんと目を瞬いて見返してきた。
 なんだかさっきはとても酷い夢を見ていたらしい。デスコが近くにいなかったことくらいしか覚えていないが、それでも夢にしては妙に色んな感覚が生々しかったような気がしてフーカは一応訊ねてみる。
「ねえ、デスコ」
「なんデスか、おねえさま?」
「あんたは、大体いつだってアタシのそばにいるわよね」
「はい、そうデスね」
「あんたの側からアタシを一人にしたこと、数えるくらいしかないわよね」
「そ、そこまでではないと思うデスけど……デスコは、おねえさまがあっち行ってって言わない限り、おねえさまと一緒にいるつもりデスよ?」
 デスコらしい、現実を見ているけれどやはり姉のことを第一に考える姿勢に、フーカはうんと力強く頷いた。この少女がこう言うのだから、やはりさっきのあれはありえないことで、つまり夢なのだろう。
「ならいいわ。じゃとっとと帰ろっか」
「はいデス、おねえさま!」
 斧を持って、その確かな手触りにもフーカは安堵し大股で歩き出す。目指す出口はすぐそこだから、この研究施設内を必要以上に歩き回る必要はない。だからこれでいい。きっと、このままでいい。
 急にフーカが歩いたことで、動きが鈍めのデスコは慌てて尻尾を動かし、置いていかれないよう後ろから近付いてくる。その様子を微笑ましく眺めたあと、少女は改めて前を向いた。
 時空ゲートの歪みを前に、彼女たちを待っていたらしいアーチャーや猫娘族の仲間が屯しており、近付いてくる姉妹に気付いてこちらを一瞥したり手を振ったりしてくれた。それに手を振り、合流しようと足を速めるフーカの手に、デスコの手が絡んで姉たる少女は軽く驚き、次に笑った。甘えん坊な妹だ。このくらいのことで腕に絡みついてくるなんて。
 そう思うフーカは知らない。軽く俯いたデスコが、手の持ち主を憐れむように慈しむように微笑んでいたことなど。先に告げたように、たまには一人でその辺を見て回りたいからと、彼女が妹を置いてどこかに行ったこともまた。
 けれどそれで構いやしない。姉が見たものが何なのかをデスコは知らないが、知りたいとも思わないから少女は今度こそ姉に甘える声音で、けれど誰にも聞かれないほど小さく呟く。
「……これでいいんデスよね?」
 返事はなかった。ふたりとも遅いと口先を尖らせる仲間たちに対して、フーカがごめんごめんと笑ったせいで。







後書き
 フーカさんを曇らせることしか考えてないんだなと言うことがよくお分かりになっていただけるかと。自分の死体に直面する女の子の気持ちなんて想像できっか! って勢いで途中から感情移入スイッチ切りましたので当然残念無念な出来ですね……。親父さんは親父さんで憎まれ役なら進んでやっちまうぞーな後ろ向きポジティブ親ばかになっちゃいましたが。
 別の視点で考えてみれば夏らしく後味の悪い怪談っぽい仕上がりになったのかしらーと無茶な方向に誤魔化してみます。
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