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Versteck in den Morgen

2011/08/06

 天界の朝は地球の朝と同じようで違うのに、魔界の朝は地球のそれと違うはずなのにどことなく似ていると実感したのはいつだったろう。
 はっきりとは覚えていないが、一人で『徴収』していた頃だと彼女は記憶を探り当てる。銀行を襲撃したあと、追っ手の悪魔たちの追及から逃れるために適当な空き屋に身を潜め、魔界に足を踏み入れて初めて寝ずに一晩過ごしたとき。硝子窓の向こうの明るさがライトによるものではないと気付いて、薄暗い印象が強い魔界の空にも太陽は昇るのかと奇妙な感慨深さを抱いたものだ。そうして、そんな中で流れる空気もまた、普段とは違ってほのかに澄明さが漂っており、こちらのほうが天界よりも馴染み深いと知らされた彼女は魔界に来て初めて苦笑した。
 地獄においてもそれは同じらしい。空の薄暗さでは魔界と大差ないのに、朝、特に早朝と呼ばれる時間帯では、屋敷の渡り廊下を始めとするあちらこちらで灼熱の溶岩を眼下に眺めるような不毛の大地でも空気にどことなく澄んだ穏やかさを感じ取り、彼女は微かに感嘆の息を吐く。
 別に昨晩は眠れなかった、なんて話ではない。来客もなかったから普段通りの時間に眠り、普段通りのつもりでふと目を覚まし時計を見たらいつもの起床時間より二時間ほど早かっただけのこと。唐突にそんな時間帯に起きてしまった自分に驚きはしたが二度寝を洒落込むほどの眠気も疲れもないため、彼女はとっとと起き上がり身支度をした。
 たまにはこんな日もあっていい。早起きの鳥は虫を捕らえるとも言うし、だらだらと寝床で時間を潰すよりは軽い散歩でもしてから一日を始めたほうが有意義だ。その考えは間違っていないようで、普段は忙しそうに廊下を巡回するプリニーさえもいない廊下の光景に彼女は早速新鮮味を覚え、珍しくも少し浮ついた足取りで自室のドアから離れた。
 日の出の眩しさを直接目にしてもいないし瑞々しい草木もないのに、漂うのは確かに地球で感じたときのような朝の気配そのもので、この不可思議に彼女は首を傾げながらも小さく笑んだ。歩いて五分ほど経つのに、相変わらず悪魔の一人にでさえ遭遇していない人気のなさが大きいのだろうか。しかしそれもそれで本来不気味と思うはずなのに、奇妙に楽しく感じてしまうのは彼女の生来の性格故か。
 永遠に死ねない苦しみを味わい阿鼻叫喚する罪人たちの姿はないものの、自分が立てる以外の物音もさして聞こえてこない地獄の光景に孤独を感じていいはずなのに、日中の賑やかさと今を比較すればするほど、彼女の心の中が幼い頃に覚えがある部類のときめきで熱を帯びる。ただ散歩をしているだけなのに、いつしかそんな一人遊びをしていたのではと錯覚さえしてしまいそうになる。どこかに隠れ潜んでいる誰かを見つけるような、誰かに見つかるまで束の間の自由が許されているような――。
 ああ、それだ。今はまるでかくれんぼに参加している気分に近いのだと、彼女は浮かれた足取りの自分の心境に納得してからくすりと笑う。そんな遊びなんてそれこそいつ振りだろう。しかしそう思えばらしくなく童心に胸が疼くのも頷けた。
 自分が鬼か、今朝初めて自分と会うひとが鬼かは曖昧だけれど、それでも久々にそんな気分になったのだからこの遊びに興じてみようか。
 そう己の立場を改めた彼女は、ではと頭の中で一声かけて立ち止まり、ルールを設定する。かくれんぼをしているような気分のままあてもなく歩くのはきっとそれはそれで悪くないのだろうが、かくれんぼに変更したほうが今の彼女としては楽しい。そこに決まりの檻とご褒美が付けばより一層に。
 まあ基本はかくれんぼなのだからルールは単純明快だ。誰かに見つかってしまえば負け。話しかけられても負け。先んじて誰かの気配に気付き、隠れたり行き先を変更するのは大丈夫。気付かれないように実力行使で黙らせる、もしくは気絶させるのはアウト。そうしてそのまま誰にも見つからず、目的地の保嫌所にたどり着けば彼女の勝ち。負ければ何もないが、勝てば――食後のデザート用に果実でも買おうか。痛むのは自分の懐だが、たまにはそんな贅沢も悪くない。
 ではと気持ちを切り替えると、彼女は心なし緊張感を身にまといながら再び歩き始める。頭の中で勝敗とルールを決めただけなのに、不思議と漂う空気や廊下に響くヒールの音がさっきと違っているようで、そんな自分に口元が苦みを滲ませ綻んだ。
 しかしそうして歩いていると、彼女は『徴収』に励んでいた頃を思い出してどうにも複雑な気分になる。あの任務を請け負ったこと自体に後悔はない。自分の死により世界に復讐しようと決めた憐れな男を止めるためなら何だってすると覚悟を決めていたし、届かぬ声で制止を呼びかけ続けるよりも確実にその思惑を阻止できるなら喜んで泥を被った。天界で学んだ数多くの処世術と言う名の奥義の数々だって、魔界に来てから確実に彼女の身を助けた。それでもやはり任務に対し、後ろめたさや重圧を感じていたことは否定しようがない。
 あの男の執念を昇華させ、『恐怖の大王』さえ退けた今、彼女はおおよそそれらから解き放たれ自由の身になったと言ってもいいはずなのに何故だろうか。こんなふうにして、遊びとは言え自らを縛り、我が身に宿る緊張感を忘れさせまいとするのは。
 戦いの日々とすっかり疎遠になってしまった訳ではない。確かに大統領府だの地球だの月だのと、ブルカノと仮の名を名乗っていたときや自称『断罪者』の計画を真っ向から阻止せんと振り回されていたときと比べ逼迫するものがないのは事実だ。だが今後に憂いがないかと問われれば否。
 最近この魔界に異常事態が起こると言う噂が、まことしやかに囁かれている。現魔界大統領の熱心なファンが急激に増えているだの、小振りな胸の女性たちが急に脚光を浴びているだの、内容自体は微笑ましいだけのはずのそれらに、そうなる明確な理由までもが伝わってこないためか彼女の第六感が騒いだ。嫉妬や不可解さであればまだ良かったが、過ぎった胸騒ぎはそれなりに穏やかな魔界の生活に慣れてきた彼女にとってまた訪れるであろう波乱を予期させるものだ。近々、何かまた戦いが起きる可能性が高い気がする。
 それに、まだ。彼女は天使となるより前に交わしたとある吸血鬼との約束を果たしていない。そう頭の中で彼の姿を思い出すだけで、ほのかな甘美を漂わせた荊がざわりと蠢き彼女の心に絡みつく。
 四百年前、『暴君』と呼ばれた吸血鬼に、人間の頃の彼女は自分の血を吸うまでほかの人間の血を吸うななんて約束を持ちかけた。しかしその約束を果たす前に彼女が死んでしまったせいで、彼は飢えと弱体化の屈辱を味わう羽目になる。それについて現在の本人は気にしたふうでもないどころか、彼女が改めて謝罪をしても地獄に墜ちたことでイワシと出会えたのだから感謝しているくらいだなんて言われもしたが、吸血鬼の従者たる人狼の険しい態度がそれまで彼の味わった苦痛を何より克明に物語る。
 だから血を吸ってもいいのに。そもそも四百年前、彼女が死んだそのときに約束を思い出の一つとして切り替えるべきだったのに。何より自分はもう、彼が死ぬかもしれないと思うことで恐怖を味わい、彼は約束を果たしたはずなのに。
 吸血鬼はいまだ約束にこだわって、約束を交わした張本人たる彼女の言葉さえ退け、血を吸わないまま魔界政腐の今度を決める重要な書類の決済と魔界の最低級悪魔たるプリニーの教育を同列において日々過ごしている。
 頑固なひとだと心底思い、彼女は大きな吐息をつく。彼にお前のほうが頑固な女だと苦い顔で指摘されたことがあったが、彼のほうが自分なんかより余程頑固だと彼女は少し腹立たしい気持ちでヒールの踵を石畳に強く打ちつける。
 けれど、その頑固さがむず痒い切なさを呼び起こすの理由はなんだろう。自壊を及ぼすほど自分との約束に固執していた男に、呆れて怒りきれないのはどうしてだろう。本当に彼に血を吸ってもらおうと意気込んでいるのなら、数多の方法を実行すればいいのにただ彼がその気になるのを待つだけの姿勢を取るのは何故だろう。
 理由はあえて探らない。探ればそれらしい理屈が生まれるだろうが、どれだけ自分を納得させられるものであっても結局のところそれは理屈でしかないのだ。尊くもありきたりで、悪魔たちには忌まれるであろうこの感情を凌駕するほどの説得力はない。
 理由について考えない代わりに彼のことを考えれば考えるほど、彼女のそう小さくもない胸に切なさを交えた酩酊感が締めつけるように広がって、何かが溢れそうになる。
「……ばかなひと」
 彼への言葉が溢れる気持ちとともに浮かび上がり、柔らかな唇が想いを囁く。
 すぐさま誰かに聞かれていないかと我に返って周囲に神経を配ると、ようやくプリニーらしい独特の声音と足音がそう遠くない場所から聞こえてきて、彼女は慌てて曲がり角の壁に張り付き息を潜めた。とは言っても彼女がいる方向に来ればそれであっさり負けが確定する。勝利のご褒美は自費のささやかなデザートだから、そう緊張せずともいいはずなのだが。
 プリニーたちは幸いにして彼女の気配に気付いていないらしい。普段ののんびりとしたペースのまま、彼女が隠れ潜む方向へと近付いてくる。
「んぁ~あ……やっぱこの体でも眠いもんは眠いッスね~」
「二十二時間労働なら仕方ないッスよ~。大体、人間の頃に罪を犯したオレたちが悪いんスから」
 プリニー教育係の教えはしっかり彼らの魂に刻まれているらしく、仲間内だと言うのに二体のプリニーの口調もまた普段のままだ。その事実に、盗み聞きをしてしまっている立場の彼女はくすりと笑んだ。
「そりゃそうッスけど……もうちょっとなんと言うか……」
 言葉尻を濁した一体のプリニーは、何やらくちばしの中でぼやいていたようだが、具体的な内容はまだ遠くにいる彼女の耳には入ってこない。しかし相方のプリニーの態度がそうさせたのか、それとも本人が気付いたか。暫くして諦めたらしい大きな吐息が聞こえてくる。
「あ~、ま、ここであれこれ愚痴ってるんだったら、生前罪なんか犯すなって話なんスよねえ~……」
「そう言うことッス。愚痴るよりきりきり働いてとっとと転生するためのお金を稼ぐッスよ」
 一方はなかなかに現実的かつ建設的な見解を持つプリニーだ。潔く環境に順応する性格は、それだけで好ましく見えてくる。まあ生前罪を犯したからプリニーになっているのはニ体とも変わりないのだが。
「へいへいッス。……しかしまあ、なんなんスかね~」
「まーだなんかあるんスか?」
 ややもうんざりした調子のプリニーに、彼女もこっそり同意する。もうそろそろ足音も明確に聞こえ始め、彼女の隠れ潜んでいる場所に近付いてきたから、会話を続行してもらったほうが距離間を掴めて都合はいいのだが、盗み聞きに気を取られるのは頂けない。
「オレらはプリニーだから、贖罪のためにこんな働かされるのはよくわかるんスけど、罪を背負ってもいない偉い悪魔の方々がきりきり働いてんのは、どうなんだろうなあと思うッスよ……」
「……あ~。ヴァルバトーゼ様のことッスか?」
 一瞬だけ、彼女の心音が大きくなる。よもやプリニーたちにまで、ついさっき自分が考えていたひとのことを話題にされるとは。世間は狭いと言うべきか、偶然は重なるものだと割り切るべきか。
 早朝から働くプリニーたちはしかし彼女の存在自体に気付いていないため、脳天気な調子で今の彼らにとっての礎を刻み込んだプリニー教育係の話題を続ける。
「そりゃ閣下が立ち上げた我らが『地獄』党がこの魔界をトップになったのは嬉しいッスよ? けど、その閣下ご本人があんなに苦労なさってんのは、ちょっとどうなんスかね~」
「ヴァルバトーゼ様は責任感の強いお方ッス。上に立つ身としての責務を受け入れておられるんなら、オレら外野がどうこう言うこっちゃないッスよ」
 今度はあの潔いプリニーが少し冷たく感じてしまい、彼女はどうとも言い難い顔で彼らに聞こえないよう鼻から静かに呼気を抜く。とは言え、正論には違いない。違いないがそれでも――。
「いやいや、そうなんッスけど……、でも、やっぱり……何と言うか……」
 彼女と同じことを考えたらしい。愚痴を漏らしていたプリニーが、さっきと同じようにくちばしの中で何やらぼやく。しかし一度目とは違い、今度は彼女の耳に小さな声で悪魔なんだから、との言葉が聞き取れた。と、そこまで近い位置にいるのかと察した彼女は半ば慌てて身を縮込ませる。
「……はああ。悪魔ってのは、もっと適当でいいと思うんスけどねえ?」
「適当でいいなんて思ってる悪魔は偉くなんないんスよ、きっと」
「な、成る程ッス。その辺りは、人間界にも通じるものがあるッスね……」
 しみじみ呟くプリニーに同意を示しつつ、彼女はついに自分がいる曲がり角を追い越していくつるりと丸いペンギンの被りものニ体の背を視界の端に納める。
 だが油断はできない。彼らが次の角を曲がるか、こちらから見えなくなるまで待機するつもりの彼女は、隠れ潜んだ廊下側の奥から誰か来ないかを改めて確認する。
「しかし、閣下ってば昨夜もお部屋に帰ってないらしいッスよ? いくらイワシパワーがあるとは言え、ちょっと心配ッス……」
「その辺りはフェンリッヒ様の仕事ッスよ。主を体調不良でぶっ倒れさせるようなお人じゃないのは既にわかりきってるッス」
「いやいやいや、わざと弱らせて血を飲ませようって手口を使う気も……」
 なんだかんだと言いながらも結果的にお喋りを止めなかったプリニーニ体の声が不意に遠のき、みるみるうちに小さくなる。
 これは次の角を曲がったかと判断し、ゆっくり十秒ほど余裕を持ってから彼らが歩いていた廊下に顔を出せば予想通り。彼女が独り言を呟くまでと同じく、静まり返った石畳の廊下がそこにあった。
 ほうと一つ息を吐き出して慎重な足取りで戻った彼女は、やはり慎重な面持ちで歩き出す。プリニーたちが活動を開始したのならば、誰かとはち合わせる危険度もそれだけ増す。ペナルティがないものの、今度はぼうっとしないよう気を引き締め握り拳に力を籠めたところで、彼女は軽く目を見開き、次にそんな自分に苦笑した。
 気合いを入れすぎだ。たかが頭の中で自分が決めただけのかくれんぼでしかないのに、まるで潜入任務中のような気の張り巡らしようで、そんな自分にいけないと緩く首を振る。
 偶然とは言え早起きをしての散歩中で、地獄とは言え懐かしい朝の空気を感じ取っていたところなのに。遊び感覚で始めたかくれんぼで、つい任務中の精神状態になりかけた。
 けれどすぐにそうなってしまうだなんて、『徴収』の任務はそう長い期間でもなかったはずなのだがすっかりくせになっているのだろうか。まあ魔界に忍び込むための準備期間は実際に魔界に潜入した期間よりも長かったし、あらゆる危機を想定してできうる限りの鍛錬を重ねてから訪れた自覚はあるから、可能性は高い。
 ともなればのんびりできるはずの時間をたちまち緊迫感を保つ試練に変換してしまう自分の思考に、彼女は複雑な心境を抱く。しかし自覚があるならまだ矯正の機会もあるはずだ、と前向きに受け止めた。これで全くの無意識を貫いてこうなったのなら、どこぞの誰かにワーカーホリックだの動いていないと死ぬ鮪だのと揶揄されかねない。
 多少に後ろ暗いからこそ『徴収』と言い換え、細々と理屈っぽく押収する金額を決め、任務に励んでいた彼女である。覚悟もしていたし結果からして無駄ではなかったから屈辱と言う訳でもないが、励んでいた行為が行為だけに彼には――プリニーたちの口に上った人物だけには決してそんなことは言われたくなかった。
 腐敗した魔界の政拳奪取を見事果たした党首にして、いまだプリニー教育係の職も捨てない生真面目な悪魔。世界を自らの望む地獄と化すためならば、魔界大統領の地位さえも簡単に誰かに譲り、神の造りしシステムにでさえ抗う価値観の吸血鬼。たった三日しか出会っていない人間の女との約束を、四百年以上守り続ける頑固な男。彼女にとって生前初めて、誰かを芯から想う気持ちの温かさを学んだひと。
 その彼には、昨夜も執務室に篭もりっきりで自室で寝ようともしていないひとにはそんな指摘は絶対に受けたくなくて、彼女はなるべく肩の力を入れすぎないようにしてかくれんぼを続ける。彼に見つかったりこの出来事を話す機会があるかもしれないなんて発想が生まれたからではなく、再び彼と対面したときに自分が後ろめたさを抱きたくないから。
 しかし視点を変えれば『意識しないようにする』と意識している時点でもう一歩手遅れの感があるのだが、その辺りについて幸か不幸か彼女は気付くことはなかった。深く考えるより先に件の吸血鬼がおわす執務室の前を通りがかり、丁度意識がそちらに向かっているときに扉の向こうが紙の雪崩を起こしたらしい音を立てたせいで。
 今朝聞いた中でも最も大きな物音に彼女は軽く飛び上がるほど驚くと、かくれんぼの最中だと言うのにそっと自ら扉に身を寄せた。
 彼が書類の波に埋もれているようなら一も二もなく救助を優先すべきだし、これで彼が当たり前に起きていて、姿を見せた自分に目を見張っていても、杞憂にならないだけ自分の行動は無駄ではなくなるのだから構うまい。そう判断すると、彼女の行動は早い。
 静かにドアノブに手をかけて、蝶番の立てる小さな金属音を聞きながらゆっくりと扉を開ける。不用心にも鍵はかかっていないと知り、ここの書類が紛失でもしたら大変だろうにと立腹した彼女は、続いて控えの間と執務室の扉も開けっ放しと知り大きく脱力した。
 これでは控えの間の意味はないだろうにと心の中でぼやきつつ、扉の向こう、書斎机の上に書類の山が連なる光景しか見れていない彼女はなるべく足音を立てないように執務室へと近付いて、ついにそこへと足を踏み入れる。
 辺りを見回す必要もなく、先程聞いた物音の痕跡に真っ先に目がいき彼女は小さく安堵の息をついた。事態は最悪の結果でもない、どころかこれは最良と取るべきだろう。
 眼下には、――書斎机の際どい位置に置かれていたようだ――それなりに重要なことが書かれているはずの書類の一山分だけが床の一部を白く染めた光景が広がっていた。ほかの山が巻き込まれた形跡も、執務室の主が紙に下敷きになった形跡もない。しかしここまで来た以上回れ右はできなくて、何かを考えるより先に彼女はヒールの跡が付かないよう気を配りつつそれらを拾って一まとめにし、側面を整え、今度は安定した置き場所になるはずの使われていない椅子の上に置く作業を何度か繰り返す。
 その間、この部屋の主はうんともすんとも言わない。つまり眠っているらしいと察して、手を動かしたまま彼女は少しだけ眉をつり上げる。
 どれだけ眠っても椅子に座る姿勢で完璧に疲れが取れる訳がない。ただでさえ血を吸わない吸血鬼の時点で問題なのに、徹夜をした挙げ句に椅子でうたた寝なんて、不養生の極み。ポーカーの役ならフルハウスは張れるだろう。
 今夜こそはきちんと彼が自室で眠るよう、なんなら夜にまた執務室に顔を出そうかと考えながら最後の一束をまとめ終えた彼女は、書類がまだ落ちていないかの確認も兼ねて執務室の奥、書斎机に築かれた山の向こう側へと足を運ぶ。
 幸いにしてもう取りこぼしはないらしいと床を確認してから視点を上げれば、部屋の主たる痩躯の青年を眼前に捉え、彼女は覚悟していたはずなのに心なし身構えてしまう。その理由はかくれんぼの途中だからか、それとも久しく彼にここまで接近したからか。その辺りについて彼女は特定を避けて、眠る吸血鬼の横顔を見つめる。
 初めて出会った頃は青年と呼ぶに相応しい容姿の持ち主だったのに、今は少年と青年の中間地点の外観へと退化した黒髪の吸血鬼は、彼女の予想通り肘掛け椅子に座った体勢で眠っていた。革張りの椅子から少し腹を突き出す姿勢で、両肘を肘掛けに委ねつつも軽く背中を屈めて眠る寝顔はあどけなさより疲れの色が濃く、心なし目の下に隈ができているような気もしないでもない。インクが乾かないようスタンプ台の蓋を閉じてやることはできても、股間に落ちたペンを拾うのは位置的に難しいのでそれは避け、そうまでして働く彼に彼女は鉛のような吐息を漏らした。
 生真面目な彼の性格は嫌いではない。約束が関わっていない面で見せる状況への柔軟性や潔さは誇りに固執する悪魔にしては高いほうだし、威厳に満ちた堂々たる態度とときに考えなしとも表現できる素直さ、反面きっぱりと我を貫く姿勢は多くのものに気持ちよく映るだろう。それは彼女にとっても同じだ。
 だが彼女はこの吸血鬼に脳天気な憧憬や他人行儀な評価を抱けるほど遠い立場にはいない。この身を心底案じ、彼がこれ以上苦しむ姿を見るのはそれこそ苦痛。封じたはずのほの暖かい感情を蘇らせた今、その度合いは再会したばかりのときより敏感さを増しているのに。
 彼が納得ずくとは言えこんなふうに自分を苛めるのは彼女にとって単純に嫌で、呆れて、悲しくて、怒りがこみ上げる。たかが徹夜でこうも重々しい気分になるなんて、心配のしすぎだと一笑されても仕方ないがそれでも他者を案ずる気持ちは簡単に制御できない。それにたかが徹夜とは言え書斎机を占領する書類の山が示す通り、最早彼は一介のプリニー教育係ではないのだ。あらゆる思惑を含めて現在の魔界で最も注目を浴びているのだから、かような無理は禁ずるべきには違いなかろう。
 規則的に上下する肩を見て彼女は心底思う。ほんとうに愚直なひとだと。自分を誤魔化せないひとだと。
 その愚直さの極みが自分との約束をいまだ守っている点だと思えば、彼女はどんよりとした申し訳なさを覚えるけれど、いい機会だから今このときに吸わせてしまおうなんて考えはやはり浮かばなかった。
 多分そんなことをすれば彼は怒る。成功すれば口も利いてもらえないし、失敗しても似たような糾弾は避けられないだろう。
 彼女は人狼の執事のように、彼にどうにか血を吸わせようとする気概もないし、それを実行に移したところで怒られることにも慣れていない。大体、彼は怒ってくるのだろうか。それさえもまだ想像できやしない。そこまで自分たちに信頼関係が築かれているかが曖昧なのもあるし、正直に言えば尻込みしている点も否定できなかった。
 初めて彼とまみえたときが続いたのはたったの三日。再会を果たしても会えなかった期間に比べれば瞬きの間でしかないのだ、過度の信用や甘えや期待は厳禁だと彼女は自分に何度も言い聞かせる。
 そうする理由は簡単。彼に疑われたくないから。彼を裏切りたくないから。
 偽名を使い本来の目的さえも隠して一行に加わり、仲間として認めて貰えたのも『恐怖の大王』に侵入する直前だった彼女は、それだけ今の自分の居場所に対しても完全に身を委ねきってはいない。それどころか、常に自分の足場が崩壊する可能性を覚悟していた。多分に戦乱の世に生まれた影響だろう。老いどころか唐突な死さえもほど遠い天使となってもそれはなかなか変わらない。いや逆に、自らが人間であった時代まさしく唐突な死を迎えたからこその思考か。
 だから奇跡的な再会を果たした吸血鬼が、奇跡的に自分を覚えてくれていたことはともかく、今後それまで続いた四百年と同じ執念を注いでくれるかどうかについては、率直な感覚で言えば疑っている。
 疑っている身の上で、疑われたくないなんて矛盾した話だと彼女は苦笑する。裏を返せばそれだけ臆病。彼の厚意に甘えて鼻にかけ、そうして自分一人で盛り上がる道化となるのが怖いだけ。
 こわい。怖い。恐い。そうともこわい。彼にいつしか幻滅されるかもしれないと思うだけで。彼が自分の手を振り払う日が来ると考えるだけで。恐らくに、彼が求める恐怖ではないだろうけどそれでも彼女にとって間違いなく怖い。
 けれど想定しておかねばなるまい。でなければ、一人相撲のみっともなさを彼の前で晒すことになる。それは自害に等しい恥辱だし、そんな内心は徹底して隠し通さねばなるまいと思う女としての意地は一応彼女だって持っている。
 だから彼には甘えない。頼らない。都合良く信じない。醜い己を見せないためにも、愚かな自分に気付かれないためにも。それがきっと、四百年前、自らの死とともに手放したつもりでくすぶらせたこの気持ちが傷付かない正しい方法で、彼にとって自分が不要な日が来たとき最も適切な方法を取れる心構えだろうから。
 けれど、と彼女は思う。
 いつしか彼にとって自分が今以上の足枷となる日が来たら。多分そう知ったとき、とっとと血を吸わせるであろう自分のそれまでの感情を言葉にしないままなのは少々に惜しい。そも誰かにこんな気持ちを抱くのは初めてなのだから、機会を逃せば天使となった期間も含めて一生涯言えず終いは確実だ。
 それは女としてこんな経験をした以上、些かもったいない気がするから、彼女は改めて執務室を見回し、今が好機と判断すると軽い気持ちで決行した。
 相変わらず静かな寝息を立てたままの青年の尖った耳元に唇が近付くよう腰を屈めて、一言。
「好き」
 たった一言囁いた。
 相手は寝ていて無反応。なのに自分の喉の奥から出た言葉にじわりと恥ずかしさがこみ上げてきて、ぱっと身を離した彼女はなるべくヒールの音を立てないよう執務室から控えの間に移動する。
 大体、静かすぎるのがよろしくない。あれでは自分の耳にもはっきり聞こえすぎる。いや第三者や彼の耳にしっかり届いてしまえばそれはそれで大問題だが、とにかく自分の言葉に意識が残りすぎるのも考えものだと頭の中でぼやきつつ、彼女は控えの間の観音扉を浅く閉じ、続いて今度は小走りで廊下に面した扉をしっかり閉める。
 微妙な違いがあるものの、この扉の奥に入り込んだときと大差ない姿勢でへばりついた彼女はふうと肺に溜まった生温い息を吐き出した。
 どうしてこんな――居た堪れない気持ちになるのか。頬に手を当てれば熱を持っているのがわかって、ほとんど聞かれる気もない、言えればそれでよかった独り言だったのに照れている自分が更に恥ずかしくなる。
 よもやあんなところで、相手は寝ているとは言え告白なんてするべきではなかっただろうかと早々に後悔が浮かんだが、彼女は今更遅いと首を振る。ついでに手のひら程度では冷めそうにない両頬に気合いを入れるよう一度ぴしゃりと両手で叩き、とっととかくれんぼの続きをしようと自らに言い聞かせる。そちらに集中してしまえば、さっきの短い単語なんて、いつしかすぐに忘れてしまうだろうから。

◇◆◇

 死神の鎌の柄で後頭部をしたたかに殴られた心地とはこんなものだったろうか。いやいや、分厚くて豪奢な装丁の歴史書が頭上から綺麗につむじに着地したときがこんな感じだったはずだと、彼は今まで最も衝撃を受けた記憶の奥深くから掘り返そうと、もしくはさっき自分が受けた衝撃を的確に表現する方法をひたすらに探る。探るついでに恥ずかしさから声が漏れてしまう。
「んぐおぉぉおぉぅ……」
 明確な言葉にもならない珍妙な呻きを漏らしつつ、そんな珍妙なことに執着する理由は一つ。浅いまどろみの中で聞いたほんの一呼吸分もない言葉が、隙を見せれば頭の中に響いて響いて響き続けてどうしようもなくなって顔どころか頭に篭った熱さえも酷くなりそうでとにかく、とにかく。とにかく。
 夜通し続いた仕事がようやく全て片付いて、目を瞑り僅かな時間でも疲れを取ろうと肘掛け椅子に身を委ねてからほんの数分後――もしくは意識を失ってからほんの数十分後、数時間後、かもしれない。終わったときすぐさま眠る姿勢を取ったので時計を見る余裕は生憎となかった――、書類の雪崩が起きたのはなんとなく理解していたが、わざわざ直す気もなく微睡んで暫くのこと。
 ヒールを履いた誰かが物音を聞きつけわざわざ執務室にやってきて、書類を拾ってくれたらしい。その誰かを瞼を開けて特定するほどの思考にさえ脳が動かせないままの彼に、不意に懐かしい匂いが鼻腔に届いて眠りが浅くなった。
 しかしその懐かしささえ誰だったかもなかなか思い出せない彼に、その人物はそっと耳元まで顔を近付けて。
 ――き、と。
 その一声で彼の粘つく睡魔に覆われていた頭が急激に冴え、泥の眠りから一本釣りの勢いで引き上げられ、全身が氷漬けにされたように軋んだことさえ相手は気付かなかったらしい。
 硬直から我に返った彼が瞼を開けて顔を上げたときには、既に控えの間も含んだ扉の向こうはしっかりと閉まっていた。だからつまり、あんなことを言った相手の姿はもう彼の目からも遠ざかってしまったことになるのだか、声には、聞き覚えがある訳で。
 その声の主を特定すべく記憶の引き出しを探ろうとしただけで、あの単語が否応なしに甦ってきて、彼は椅子の上で悶絶した。なんだかよくわからないが、とにかく尋常じゃないほど恥ずかしい。
「しっ、仕方っ、なかろうっっ! あんな、あんなっ、あんなっっ……!」
 大体悪魔は誰かにそんなことを言いやしない。らしくないなりにその感情を誰かに抱いたとしてもかの言葉だけは絶対に避けるのが通例であり――いや別に彼が誰かにそんな感情を抱いてそんな単語を脳裏に描いたことがあるとかの話ではないが――、だからこそあの二文字の言葉に耐性がないのは揺るぎなき事実だ。多分誰が相手でも、どんな状況で言われようと、動揺を示さないもののほうが希有だろう。
 だからここまで動揺してしまうのはおかしくない。そうとも普通なのだと、彼は身悶えしながらどうにか必死に自分に言い聞かせる。そうともそうとも、あの声の主が誰なのか改めて考えなくてもいいくらい、よく耳やら視界やら脳裏に思い返すことが多い相手であったところで問題は。
「……い、いや、なくは、ないことは、ないが、ない、し……いやこれではどっちだ。ああもう、とにかく、とにかくだ!」
 もしあんなことを言ったのが推測通りの人物だったとして、何故今なのだと暴れ出したい気持ちをどうにか抑えながら彼は自分を冷静な方向に導こうとする。もう暴れてはいないかとの指摘を受けるかもしれないがこれは一旦捨て置こう。ともかく現在冷静になるのはこれ以上の困難はないくらいに困難だったが、こんなときこそ己の根性とイワシの力を信ずるときだと彼は己を奮い立たせた。四百年の飢えを耐えたのだからそれくらい簡単なはず。尤も、長く味わった飢餓感の中でこんな衝撃的かつ混乱を及ぼすものは一度だってないのだが。
 どうにか深呼吸を六回ほどしてようやく落ち着いた気がした彼は、熱が籠もった頭のまま不意に浮かんだ閃きを取得すると、瞬く間にそれまで諸々の思考困惑疑問を完全放棄、結果を断定する。
「――うむ、あれは夢だ!」
 ばっさりと、自分の頭に向かって宣言した。
 大体もしあの娘が自分によもやそんなことを言うとして、何故こんな時間に執務室に入ってくるのかがまずわからないし、何故眠っているはずの自分にあんなことを急に言うのかも謎だし、驚かせるつもりであろうとなかろうと返事やら反応やらも見ようとしないで出ていくのはあの怖いもの知らずらしからぬ。だから夢だ。突飛極まりない、疲れた脳が見せた幻だと彼は自分に強く、それはもうこの上なく強く言い聞かせ、ようやく落ち着いた心地になった。
 そうして彼は深々吐息をつき、全身を肘掛け椅子に委ねながらしみじみ呟く。
「いや……実に強烈な夢だった」
 ここ数日は忙しくてろくに構えなかったし、ほんの短い挨拶しか交わせていなかった。もっと会話をしたい気持ちはあっても次から次へと運ばれてくる書類の文面にほのかな願望はかき消されたと思っていたのだが、奥底では欲求が着実に貯蓄されていたのだろう。結果、そんな願望めいた夢を見てしまったと判断し、彼はもうすっかり目が冴えてしまった難しい顔で腕を組む。
 これもまた欲求不満の顕れ、なのだろうか。いみじくも約束を交わした女から、好意を示す言葉を受けるなど。少し初心すぎやしないかいい年をした悪魔が。いやだからと言って淫夢を見たらそれはそれで困るからこれでいいのかもしれない。いややはり良くない。夢とは言えどあの囁きを思い出すだけで、またしても彼の顔が赤くなりかける。いやいやいけない。たかが夢程度でこんな反応をしてしまうなんて。いや実現化してほしいとかそんな話ではなくて。
「ええい、どうして俺はあんな夢など見たのだ……!」
 首を激しく左右に振った流れで時計が見えて、示す時刻の半端さに彼は今度こそ少しは落ち着き、これからの時間をどう過ごすかを顎に手をやり考える。
 もう決済は全て終えてしまったし、ここ連日書類とにらめっこしていたのだからまた見直す気にはもうなれなかった。かと言ってこんな時間では自室に戻って眠るのもまた難しい。大体あんな夢を見てしまったせいで眠気が吹き飛んだので暫くは大人しく眠れそうにない。
 だから今の彼に残された選択肢は執事かプリニーがここを訪れるのを待つくらいしかないのだが、それではどちらにしたってあの言葉がまたしても耳に甦る隙を与えることになる。そう身構えるだけで苦い吐息が無意識に漏れてしまうのもむべなるかな。
 そう、完全に自分の頭が都合よく描いた幻と割り切っても、彼は落ち着けなかった。
 長きに渡る執念で約束を守り続けた娘に対する気持ちを、なんと表現するのか。突拍子もないところから指摘されたり断定されたりした気もするが、彼女と約束について改めて言葉を交わすことでそれは嫌でも自覚させられた。
 その上で自分の血を吸ってほしいとの娘の誘いを蹴って、今度こそ自分の手でその頭に恐怖を刻むと宣言したのは半ば意地に近い。あそこで誘われるまま細い首筋に牙を剥けば、きっと自分はそれ以上のことを流れのままにしでかすだろうし、そんな真似は気高くも清き女を相手にすべきことではないと思っていたから。
 ただそれだけで話を終えるのは物足りなくて――自分の名前を呼んでも構わないと。『構わない』なんて表現を使いながらも強制したのは幼稚だろうか。わからない。わからない。
 その幼稚さに突き動かされたまま名を呼ばせて、その声に杭穿たれた胸が高鳴ってしまったあのときの感覚は、まさしく四百年を経てようやく得られた辛酸の酬いに等しかった。けれど今ではあの二文字を囁いた声をも自然思い出してしまい、彼はまたしても悶絶する。
「だからっっ、どうしてっ、俺は、あんな夢をぉおおお……!!」
 狭い空間でもんどりうっていた彼は、しかし不意に聞こえたノックの音にぴたりと動きを止める。音の切れからしてプリニー、ではなさそうだ。
「……ヴァル様。よもや昨夜から今までこちらに籠もっておられたのですか?」
 一呼吸分の沈黙のあと呆れた口調で訊ねられ、咳払いをしてようやくあの夢について考えずに済んだことに安堵した彼は椅子に座り直す。と同時に控えの間の扉が開き、予想通り人狼の執事が姿を現した。
「切りの良いところでお休みになりますようお願いしたはずですが……。その調子ではお忘れになられましたか」
「いや、覚えているぞフェンリッヒ。だから切り良く、全ての案件を処理し終えるまでここにいた。とは言え、これからまた済まさねばならん案件を待っていた部分もあるが」
 彼としては当たり前の発言に、人狼はそれはそれは重々しい吐息をつく。
「閣下のその愚直とも言い換えられる率直さには感服を覚えるばかりでございますが、どうか適切を覚えてご自愛ください。閣下の御身は、最早あなたさまお一人のものではないのですから」
「無論。迷えるプリニーどもを教育してやる立場の俺が体調を崩し、奴らを無知なままいたずらに時間を過ごさせてしまうなど、なんとしても避けるべき事態だ」
 そちらではありません、と片手でこめかみを抑える執事のぼやきは鮮やかに無視して、彼はやる気を漲らせるために肩の強ばりを解す。椅子で眠ったのが悪かったのか、思った以上に凝っていた。
「しかしたかだか一日二日眠らぬ程度でこの俺が倒れるなどありえん。それくらいお前もわかっているだろうが」
「ですがもしものときに備えて大事は取っていただかなくてはなりません。幸い、これでピークは過ぎたところですし……?」
 と、何かに気付いたらしい。書類の枚数を確認していた執事の声が不意に跳ね上がり、彼は何か問題でもあっただろうかと思案を巡らせる。対する人狼は不可解そうに背後を振り返った。
「……閣下」
「何だ」
「何故、椅子の上にまで書類を置かれておられるのですか」
「ああ、そいつか。それはな……」
 説明しようと顎を引いたところで、彼は気付いてしまう。紙の雪崩が起きたことは夢ではなかったらしいことに。それは転じて、あの夢が夢ではなかったことになってしまわないか。
「……閣下?」
「い、いや何もない。ただそこに置いた分が崩れて……」
 そこまでは夢ではなかったのだろう、きっとそうだと無理やり自分に言い聞かせて動揺を押し殺した彼が顎で軽く書斎机の隅を指し示せば、執事はすぐさま合点がいった様子で頷く。毛皮のような銀髪が小さく揺れて、ぺらぺらと紙をめくる音が響いた。
「ああ、それで拾われたと? そのようなこと、わざわざ閣下がなさるようなことではありませ……いや、でしたら何故」
「まだ何かあるのか?」
 早く今日の執務に取りかかりたい彼の期待を裏切って、執事はまだ些事にこだわり続けるつもりらしい。しかし人狼は彼のその多少苛立ち気味な声音にこそ違和感を持ったらしく、控えめながら床に一度散らばったらしい書類を手に取りその中から何かを取り出した。白い、薄っぺらい、華奢で小さな物体を。
「……いえ。天使のものらしき羽根が挟まっておりましたのであの女が来たのかと思ったのですが」
「は」
 証拠とばかりに書類の中から取り出した執事の褐色の指先に、一際目立つ純白の小さな羽根が、誰かの二重のベビードールが翻ったようにくるりと回転する。
 それを見た途端、当然ながら彼の今までそれなりに必死になって築き上げてきた土台が落雷に似た衝撃を受けて崩壊した。その様子はさながら、占いに使用される『塔』のカードそのもの。堅牢なはずのものが粘土のように軋む。歪む。身体も思考も何もかも。
 これではもう、夢だの幻だのとの言い逃れは許されない。苦しい自覚があったがそれでも現実ではないと思っていたのに、物的証拠を見せつけられてしまえば逃避でさえ見事に封じられたも同然。それは、つまり彼の仮定は思い込みでしかないと証明されたのだが。しかし、この吸血鬼は。
「閣下のご様子を見るにそうではないようですので……閣下?」
 苦々しくもそう推理する人狼の言葉を聞いているのかいないのか。発言の途中にも関わらず突如として立ち上がった吸血鬼は、そのままのろのろと歩いて執事の前まで立ち止まり、隈が浮かんだ険しい目付きで相手を睨む。
「……フェンリッヒ。頼まれてくれ」
「はっ、閣下の仰せとあらば何なりと」
 珍しく刺々しいとさえ思わせる空気を纏った吸血鬼に真っ向から見上げられ、人狼は片胸に手を添え畏まる。何故急に主がそんなことを言い出すのか内心で驚きはしたが、疑念を抱くことさえはばかられるほど彼の表情は真剣だった。そして、重々しく開かれた口から出た言葉も同じくらい緊張感と真剣さを帯びてはいたのだが。
「俺を殴れ」
 あまりの唐突さに、人狼がたっぷり三秒は固まった。
「…………は?」
 しかし執事が受けた衝撃など露知らず、吸血鬼は我慢ならぬのかこれ以上大人しくしていられないのか、相手の襟首に掴みかかってがくがくと揺すりながら再び命ずる。
「いいから俺を殴れフェンリッヒ! そして俺にこれは夢の続きなのだと確定させろ! そうでなければならんのだ!!」
「おお、落ち着いてください閣下! 一体どうなされたのです!? よもや小娘のウイルスにでも感染しましたか!?」
「そんな噂など聞いたこともないわ! ええい、とっとと殴れと言っている! 早くせんか!!」
「落ち着いてくださいませ閣下! まずは、まずは急にそんなことを仰る理由についてお教えくださ――げほっっ!」
 質問の途中で襟首が容赦なく絞めつけられ、執事は咳き込んでしまったのだが激しく動揺した主には眼前の光景が頭に入っていないらしい。局地的な地震でも起きたのかと思わせるほど視線を泳がせ、あり得ないあれは夢だとうわ言をぼやき続けた。
 ――さてその日、プリニー教育係の執務室に呼ばれたプリニーたちが困惑しきった人狼から一番最初に受けた命令は、昏倒した吸血鬼を彼の部屋に運べと言うものだった。曰くここ数日のハードワークが祟って閣下は精神的に不安定な状況にあるらしい。今日一日でもたっぷりと休ませて差し上げろとの命を受け、彼らは他人事ながらやはり偉い悪魔は大変だとしみじみ思ったそうな。







後書き
 某シンガーの曲を聴き早朝に寝てる相手にこっそりとなんかする王道ネタをしたいなー→キスはありがちだしー→じゃあ告白で。と言うことでこのように相成りました。あとアルティナちゃんはナチュラルに重くて面倒な子だと僕が嬉しい話でもあります。
 書き進めていくうちに次第にローリング閣下描写が本命になってきたとかそんなことは(目を反らしながら)。
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