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別れ-前編

2011/07/06

 また、診療所の中で辛うじて生きていた命が減った。昨日は代わりに三人がここに放り込まれたから、むしろそれぞれ病室を圧迫するくらいなのだが、喪われた命の重みはスペースの広狭と比べるものではない。
 初めて同じ病室の人間が死んだのを目の当たりにした窓際の男性は、彼女が遺体を埋葬してから戻ってきたときにも戸惑った様子ではいたけれど、彼女の様子を気遣うほどに余裕があった。
「……あなたは、まだ、働くのか?」
 故人のベッドの周りを淡々と清潔にする彼女に対する言葉は、今まで同室の患者にかけられた視線なり言葉よりも幾分か温かみがある。それについては彼女も嬉しく思うけれど、それが二人三人と続けば不気味なものを見る目に変わることも既に知っている。だからいつも通りの笑顔を見せて、きっぱりと言い放つ。
「ええ。患者さんを一人喪ったからと言って、看護師が休んでいい道理はありませんもの」
 それなら毎日葬式を請け負い、また幼子に洗礼を施す神父はどうなるのか。そんなふうに思いながら、彼女はシーツの皺を手で払う。尤も、もとは分厚かった布の皺よりは背中の部分の擦り切れ具合のほうが深刻だが。
「それはそうだろうが、……いいのですか」
「いいと言われましても、それがわたくしの仕事ですから」
 苦笑を浮かべる彼女を見て、窓際の男性は軽く俯いた。恐らくに今の彼の胸には、彼女への薄暗い感情が漂いつつあるのだろう。知っている。何度彼女が患者からそんなふうに態度を変えられたのか、彼は恐らく知らないだろうが。
 しかし彼女の予想を裏切って、男性は言葉を選ぶため慎重に口を開けると、控えめながらにまたも話しかけてくる。
「だが今のあなたを見ても、平気そうにはとても見えません。少しでも、休んで気を紛らわせたほうが……」
「お心遣い感謝しますわ。けれど、仕事をしないとむしろ気が紛れません。だからこれでいいんです」
 これは本当だから、彼女は笑んで優しい男性に感謝の言葉を述べる。だがそれでも彼の様子はどことなく落ち着かない。
「……しかし……あなたは……」
 どうにかして休ませようと、もしくは感情を発散させようとしてくれる気持ちは嬉しいけれど、看護師として今ある彼女にそれらは不要だ。時折肩書きが剥がれて地が出てしまうときもあるが、そうだとしても患者に涙は見せまいとしている彼女にとって、男性の態度は危険だった。
 だから毅然とした態度を貫き、相手が差し伸べてくれる手を傷付けるくらい冷たい物腰を取ろうと覚悟を固める彼女に、男性は不意の言葉を漏らす。
「あなたは、僕を助けてくれたろう。敵国の人間である、僕を」
 今まで鬱陶しげに二人のやり取りを見ていた三人の患者たちの空気が変わる。ある者は上半身を起き上がらせ、またある者は盛大に眉間に皺を寄せ、残りの者は立ち上がる。当然だ、三人とも敵兵に直接やられたせいでこんなところにいるのだから。
「駄目、やめて」
 三人から窓際の男性を守ろうと、彼女は慌てて彼に背を向け身構える。その姿に、危機的状況であるにも関わらず彼は穏やかな声で続けた。
「今もそうだ。こうして僕を庇ってくれるくらい優しいあなたが、看病していた人が死んで心を痛めないはずがない」
「ええ、そうね。それに加えて今からあなたが乱暴な目に遭うかと思うとさすがのわたくしも泣けてきそうです」
 皮肉めいて告げるものの、男性は自分の言葉を翻す気はないらしい。それどころか、ははと小さく笑って彼女を焦らせる。
「僕にはそんな価値はありません。けれど、あなたがそう思ってくれることは単純に嬉しい。だから、……足が動かせるようになれば、行こうと思うんです」
「どこにだ」
 彼女の代わりに、歩ける患者が一歩彼らに近付く。彼女は一歩下がるもののその表情は真剣で、怪我をしているとは言え成人男性相手に取っ組み合いも辞さない心持ちであるのは明らかだ。そんな彼女の横顔を、窓際の男性は眩しそうに眺めて答える。
「裁判所、教会、こちらの軍の本拠地、領主の前……まあ、罪を償えるところなら、どこへでも」
 ほう、と誰かが声を漏らすと同時に、ふざけるな、と誰かが吐き捨てた。その両方の気持ちを理解できるらしい、男性は浅く頷いた。
「僕は向こうじゃ少佐の地位でね、それでも任務に失敗して君たちの陣営に捕まり、拷問を受けた。這々の体で自国に帰ったら、失敗を咎められ裏切り者として扱われ、家族まで殺された上で切り捨てられた。まあ敵はどこにもいるけれど、味方はどこにもいない訳だ」
 淡々としたその告白に、三人の患者の怒気が揺れる。あっさりとした口調だが、眼前の男性は自分たちなぞよりも余程凄惨な痛みを受けたと知ったからだろう。そんな目に遭った結果、この場で一歩も動けないものをいたぶるのはさすがに人として気が重い。
「けど、あなたは味方であろうとしてくれる。こんなふうに庇ってくれる。以前から、僕があっちの人間なのは知っていたんでしょう?」
 三人の視線と共に問われた彼女は短く頷く。それこそ何度だってあったからだ。敵を庇って味方に殴られた経験もなくはない。
「ええ、けれど今回が初めてではありませんわ。勝手に自惚れないでください」
「……はは、そうでしたか。けどそれならそれでいい」
 何がいいのかと彼女が目でのけん制を止めて振り向くよりも先に、男性は迷いがあるがそれでも強く、腹の底から呻いた。
「僕は、一瞬だけでもいいから、あなたのように誇り高く生きたいんです。……このまま、自分を偽ってばかりの生き方はもう嫌なんだ」
 彼女の呼吸が一瞬止まる。常に患者を軽々いなしてきた彼女の頭と唇が、動揺のため確かに凍った。
 ――自分は誇り高くなんかない。自分こそが短いながらに自分を偽ってばかりの人生を送ってきたのに、どうしてこの男性はそんな自分に憧れるのだと、疑問と、それ以上に火種のような怒りが彼女の胸から生まれる。
 怒りの正体は単純に、命を手放したいと告白されたことで。痛みに苛まれたため死にたいと漏らす患者は多いが、やはり人間は臆病な生き物だ。同室の患者が死ねばそんなこと、よく口にするものでも一月くらいは言わなくなるのだがこの患者は違うらしい。違うらしいからこそ、彼女は怒った。彼の本気を感じ取ったのか、それとも。
「立場や自分の気持ちを偽って生きるくらい、我慢なさい!」
 何度も自分に言い聞かせた言葉を思わず叫んだ彼女の声に、窓際の男性は小さく悲鳴を上げたものの、落ち着くとなにやら仕草を見せたらしい間を置いた。だが背を向けている彼女からは見えない。代わりに三人の患者たちが、それを見ていたようではあるが複雑そうなその表情からは、彼女の目では何も読み取れない。
「……無理です。いいえ、以前はできたし、自分に騙された連中を嘲笑ってさえいた。けど、きっと天罰が下ったんだ……。だから最期くらいは、せめて胸を張って……」
 弱々しい、遺言にしては聞くに堪えない言葉に、かっと彼女の腹の底が熱くなる。いやこれはむしろ冷たいのか。どちらにせよ奥底の体温が急激に変化した自覚のある彼女は、それまで背に庇っていた男性へと素早く向き直るとその頬に平手を打つ。
 乾いた音が病室内に響き渡り、男性に危害を与えるつもりだったはずの患者たちが何故か小さく肩を強張らせた。平手を打たれた人物は唖然と彼女を見上げ、平手を打った彼女はこれまで人を強く睨みつけた記憶がないほどに彼を睨みつける。
「わたくしの前で死ぬ話をしないで! これ以上そんな下らないことを話すのでしたら、そのまま追い出します!」
「……いや、しかし」
「そんな話をわたくしにすればどうなるのか想像もできませんか、あなたは!? わざわざあなたを、あなたたちを殺すために治療するほど、わたくしが暇な人間だと思っているのですか!!」
 掠れるほどに声を荒らげ、どんな顔をしているのか自覚がないほど激しく怒気を現す彼女のかんばせを、男性は戸惑った顔で見上げる。
 その態度にこそ、また彼女は腹立たしくなる。彼女ならば男性の言葉も意思も、天使のようにすべてを受け入れてくれるとでも彼は思っていたのだろうか。そこまで慈悲深いならそも彼女は看護に、生き延びさせることに執着していない。
 わざわざ苦痛を我慢させ、死に絶えるその瞬間までは希望を捨てないでと励まし続けるのは、酷く残酷なことをしている自覚がありながらもやはり目の前で誰かが死んでほしくないからなんて単純な衝動があるからで。それらは巌のように凝り固めた理屈をあっさり凌駕してしまうほど強い想いだから、結局彼女は諦めきれずに足掻き続ける。既に死してしまった命は悼むことしかできないけれど、死が目前に迫った命でも、生きているなら奇跡が起きると、起こせるかもしれないと信じ続けて。
 今朝亡くした命を相手に自分の無力さをまたも噛み締めさせられた感覚が、こればかりは何度味わっても慣れない強い憤りが、彼女の全身にありありと蘇った。悲しいことは悲しいし、悲痛な最期を迎えた兵士たちには同情もしよう。けれどそれ以上に彼女を襲うのは、よよと泣き崩れ、故人の思い出に浸る女性的な感覚ではない。そしてそれが何より強い感情だからこそ、彼女は今もまだここに立てている。
 完全に怒りで我を失った彼女は、普段ならば決してしないはずなのに男性の顎をわし掴みにし、視線を無理くり自分から逃さないようにして迷子の顔に呪いの言葉を浴びせた。
「生きなさい」
 それは呪縛。絶望の淵に落ちたものを、何の明かりも支えもない虚空へと強引に引っ張り出す残酷な。力強くともそれ以上に無責任な。
「あなたがわたくしに報いたいと願うなら、あなたの中のわたくしが満足するまで生きなさい。あなたに求めることは、ただそれだけです」
 言い放ち、女王のように傲慢な視線で返事を待つ彼女を、男性は恐ろしいものを見る顔で食い入るように見つめていた。三人の傍観者がもっと近くで彼を見つめていたなら、その表情は天啓を受けた信徒のようだと受け止めたかもしれない。
 が、二人の息が詰まるほどの沈黙は何も知らないノックによって霧散する。
「……ィナ、お……く」
「わかりました」
 喉を怪我した元娼婦が、病室の前で玄関を指して来客を教える。同時に彼女の身体から湧き上がっていた怒りがものの見事に消え去って、しかし入れ替わりで胸に去来する気まずさにより普段より素っ気無い態度になる。
 ここはもともと診療所だから外患の患者も当然受け入れているのが、体も満足に動かせなくなった兵士の詰め所となりつつある今では訪れる人も少ない。だからまだ軽傷の患者に受け付けをしてもらうことも多く、そのつもりで彼女は玄関に向かったのだが。
 娼婦が片手に金貨を持っていたことに彼女は最後まで気付かなかったし、それが診療所の患者たちと交わした最期の言葉になるなんて、思ってもいなかった。

◇◆◇

 生き物とは死に直面して恐怖を感じるものだと、彼は知っている。知りすぎているほどに知っている。
 それは人間に限った話ではなく、悪魔であれ獣であれ天使であれ同じこと。しかし特に人間は、闇に、死の気配に敏感だ。
 胎内のように暗く染まった空を見て、彼らは自然と危険を感じて足を早める。瞼を閉じればいつでもすぐ現れる光景なのに、彼らは過敏に、滑稽なほど闇を恐れた。闇を切り裂く火を使い、石や砂を溶かして鋭い光を放つ武具を使い、彼らはなんとか獣や悪魔、時には同じ人同士で戦ってきた。
 そうしていつしか恐れを抱かなくなった人間たちに、原初の感情を思い出させるのが彼の、並べては悪魔の役目であって、悪徳に浸り享楽を貪り、人間どもを嘲笑うだけで生きるのが本質ではない。そうやって生きていれば足元を掬われると、彼はつい最近になって学んだ。
 思い知らされた対象は、おかしな女。頭の狂った人間。魔女ならぬ身でありながら強い魔法を使う娘。
 吸血鬼の帝王として魔界にその名を轟かせる『暴君』にとって、数日前に出会った人間の娘の印象を言葉にするならばまずそんなところだ。
 女は恐怖を感じなかった。いや、怯えることも人の顔色を伺うことも知っているようだが、そも闇に対しての恐怖が薄いらしい。夜であろうと日中であろうと、彼への態度は変化なく、ただ一人であっても眼前の出来事を淡々とこなす地に足の着ききった女だった。
 その人間は異常だった。血を啜る殺すと散々脅した自分に対し、平然とした顔で口を利き、笑みを浮かべ、同情し、挙げ句憧れるとまで抜かした。だが人間でありながら魔界に魅入られた憐れな存在でもなく、むしろ人間として生きることに誇りさえあるようで、だから矛盾を抱えており、狂っているのだと彼は結論付けるほどだった。
 その娘は無知な魔女だった。恐らく強い夜魔の生まれ変わりだろう。飾り気のない身であるにも関わらず、ただいるだけで彼の目と耳を引きつけて、どうにも調子を狂わせる。初めて月下のもとで見たときから、いやそれ以降も力は強くなっていく。どんな花よりも甘いのに、娘の性根を示すようにすっきりとした印象の芳香を放ち、緩い法衣の上からでも華奢とわかる四肢は昼夜を問わずよく働く。一人のときは近寄りがたいほど張り詰めた空気を持っているのに、他人を相手にするときは奇妙に人懐こい笑みを浮かべ。自分といるときは、時に息を呑むほど美しい。これが魔性でなくて何を魔性と呼ぶものか。
 内面や言動もまた不可解そのもので、自由な娘と思えばその実、何かに囚われているようでもあり。愚かな娘だと思えば直後に賢いと思い知る。純真なのに裏があるようで、慎みがないと思えば奇妙なところで恥ずかしがる。もっと気楽に生きられる技術と機転と器量を持っているのに、それらをすべて無駄にして今の居場所にしがみつくその理由は、悪魔の彼には想像もできない。娘が住まう町の住民は理解できないどころか、不気味だと思っているらしい。
 そう、娘は孤立している。
 城の奉公人の家に生まれた花の盛りの娘が一人、もう治る見込みがない負傷者ばかりが放り込まれる貧乏な診療所で、我が身を削ってまで治る治すと宣言して足掻いていくさまを見て、当初は町の住人たちも同情を寄せた。しかしそれも三年続けばどうだろう。
 相変わらず診療所には完治もせず墓に入っていくものばかりなのに、娘は看板を下ろさない。親と同じ職場に勤めようとしない。だから真っ当に壊れやすい神経を持つ人間は、娘をただの人間ではないと恐れ始めた。人の死ぬ瞬間が好きなのだろうと蔑んで、墓穴を掘るのが好きなのだろうと気味悪がって、下劣な者は死に損ないの男とするのが良いのだろうと嘲った。
 人間は同じ人間の、しかも何の暴力を振るわぬ者さえ恐れ疎むものだと彼は知っていたけれど、このときばかりは無性に腹立たしくて、危うく根城に退避した。娘との約束を破る気はないが、魔力を補充していない今、人間の住処で派手に暴れるのはいかな『暴君』と言えど短絡的な思考に思えたからだ。
 娘を恐怖のどん底に陥れるために本腰を入れたからとは言え、らしくなく人間の集まっている場所で情報収集などしたからか。胸糞の悪さは四日ぶりの魔界の空気を吸ってもなかなか拭い消えることはなく、彼は何度目かの重苦しい息を吐き出す。
 しかし平常心に戻るまでそう長くは必要ない。瞼を閉じ、頭を切り替え娘の声を思い出す。明瞭に響きながらも繊細な声は、人の心から恐怖を引き出すに最も密な現象について、なんと言っていたか。
「……死を常に見るが故に、死を常に意識する」
 だから覚悟もできている。彼は一応その場ではその回答には納得したが、今は疑わしく思い始めていた。娘自身は自分の気持ちに正直なつもりであったろうが、その裏の裏、奥の奥まで読まねば娘の本心からの恐怖を引き出せないはずだ。
 それに娘は死を恐れていないとまでは明言しなかった。当然と言えば当然だ。娘はあの華奢な身体で多くのものを抱えながらも背筋を正して生きている。抵抗も見せず血を吸えばよいと身を投げ出してきたものの、生きることに絶望している訳ではない。つまり人間が持っていて当然の生への執着心は娘の中にも確かに息づき、それは即ち死への恐怖心に繋がり、流れるようにして彼の独断場へも繋がるのだが、なかなかどうしてあの娘は。
 ――素敵だと。憧れる。あなたを。
 否と彼は大きく首を横に振り、不要な雑音を払い落とす。まったくもって忌々しくてならなかった。声を、言葉を、あの娘の表情を思い出すだけで、彼はとにかく調子が狂う。油断していれば違和感しかないむず痒さに押し流されそうになる。
 杭を触れることを許したのは、別段問題ない。あの細指ならどうやろうと引き抜くことなどできないだろうと思っていたし、事実それしきで彼はどうにもならない。
 問題は、基本的に怖いもの知らずで脳天気に接してくる娘が、まるでおっかなびっくりと言った態度で、息を呑むように触れてくるその姿にあった。長くも震える睫を軽く伏せ、それでも食い入るように自分の胸の杭を見つめるその表情。ミルクめいた白い肌に僅かに朱が差した頬と澄んだ湖の色をした瞳のコントラストは艶めかしくて、薄く開けられた花弁めいた唇はなんとも無防備で、彼はそのとき、正直に表現するならば打ちのめされた。
 『暴君』がたかだか人間の娘一人にここまで衝撃を与えられるとは、誰しも予想だにしまい。生温い風で不安感を煽り、蝙蝠で予感を覚えさせ、声や顔を出して不意を突き、姿を見せて詰みとなる結果のはずがあの、あのう、なんて一声だったときよりも激しい衝撃だ。しかし事実、彼はそのとき息を殺して杭に触れてくる娘のその姿に、限りなく熱い何かが溢れそうになっていた。時折見上げてくる娘の唇がどんな言葉を告げていたのかさえも耳に入らないほどのものが、彼のうちに時間の経過と共に膨れ上がりそのままぷつとはちきれてしまいそうになったけれど、結局娘が手を離し、二人の間の空気がもとに戻ると膨張した熱も次第に収束した。
 それ以降は言うまでもなく――いや、はっきり言うと逃げたのだ。敗走の途がここまで惨めとは知らなかった彼は、この屈辱を注ぐためにわざわざ人間の町に赴き、誇りなどかなぐり捨てる勢いで僕の手すら借りず娘のことを調べ上げた。そこで知った情報の多くに、ただ娘の行動を見ているだけではわからなかったものを収穫できてはいたが、同時に娘への理解が、恐怖を与えることへの糸口が遠ざかっていくように思えて。
 魔界に戻った彼の目的は、冷静になるためではなく身体を一旦休めるためでもなく、やはり娘の血を吸うためにあり。もう手段など選んでおられず、大統領府などと大層な名で呼ばれるその地域の『狂愚の庭』に足を踏み入れたのはどれほど前であったか。
 淡い紫の光を纏う、黒々とした身の丈の生垣がどこまでも続くこの庭は、魔力や意志が弱いものなら一歩足を踏み入れるだけで自分がどこから来たのかさえわからなくなり、命を終えるそのときまで永遠に彷徨い続けるとされる広大な、無音無臭無秩序の迷宮だ。だがこの地に抗うだけの魔力や強い意志さえ持っていれば、いつか迷宮は気まぐれを起こして足を踏み入れたものを導く。出入り口にではなく、当人が求めていた答えを知る賢者へと。
 彼の疑問に相応の返答を持つであろう人物は、どこにいるのか知っているし、何をしているのかも知っているが、直接尋ねる気などなかった。だからこうして彼は賭けに出て、迷宮に付き合うことで無駄な時間を消費する。無駄、そう無駄だとも。ひたすら歩き続ける最中にでさえ娘のことばかり考えて、苛立って、迷宮に付け入る隙を自ら与えてしまうのだから。
 だが彼の気持ちとは裏腹に、『狂愚の庭』は娘のことを考えてこそ答えを得ると判断したのか。苛立つ彼に我が身を滅ぼされかねないと恐れたか。人の手でもなく悪魔の手でも無理だろう、それまで永遠に続き写し絵のように整えられた生垣の一部の向こうが、彼が近付いた途端に騒がしくなった。
「それではちちうえ、みていてください!」
「ああ。……転ばぬようにな」
 場所に相応しからぬ子どもの甲高い声が、はいと元気な返事を寄越して生垣の向こうのそのまた奥へと遠ざかる。彼は足を止めはしたものの、誰かいるらしい生垣の向こうを掻き分けることなどしない。そこに自らが求める問いへと賢者がいると知っているからこそ。
 生垣の向こうを見つめる彼の視線を感じ取ったか。父上と呼ばれた悪魔が、一つの吐息と共に彼へと魔力を集中させる。
「……なにやら、久しい気配がするな。人の生き血を隠れ啜るが宿命の、矮小な黒い羽虫……」
 地響きめいて轟く声は、並の悪魔であれば縮み上がって我が身の罪にも向き直ろう。神が助けてくれると言うなら、悪魔にとって禁忌であるはずの祈りさえ捧げても構わないほど恐怖するやもしれない。だが彼は、そんな声と言葉と殺意を鼻で笑って弾き飛ばす。
「奇遇だな、俺も懐かしい腐臭を嗅ぎ取った。蛆虫どもに餌を与え、鎌で掻っ切るだけしか知らぬ髑髏のものだ」
 辛辣なやり取りののち、生垣を挟んだ二人の悪魔はそれぞれ沈黙でもって互いを明確に認識する。姿など見せる必要はなかったし、馴れ合う必要もなかった。悪魔にそんな生温さは不要だからだが、それ以上にこの二人は以前に殺しあった関係でもある。その上で互いに生き延びたため一目置いてはいるものの、そんな感情を表に出すのは愚の骨頂。気味が悪くて仕方がない。
「……して、その羽虫が何の用向きだ。余は虫の戯言に付き合うほどには寛大だが、生憎と遊んでやるほど暇ではない」
「ほう。子守に忙しい死神とは、なかなか上出来な笑い話だ。だが俺も、骨と長々じゃれ合う趣味はない」
 互いに姿を見せていないのにこれだ。生垣越しでの再会は彼らが自覚しているよりも物騒で、しかし暴力の一切がない辺り、それだけ『狂愚の庭』の気を揉ませたのだろう。
 だがそうさせた当事者たる彼は背景事情など知ったことなく、わざわざ大統領府くんだりまで来た理由を視線の先にいるはずの背中へと告げた。
「貴様に質問がある。用件はそれだけだ」
 簡単に過ぎる彼の言葉に、生垣の向こうは微かに息を呑む。いやそれとも、笑ったのか。そんな彼にこそ強い疑問を抱いたのか。
「……血染めの恐怖王が余に何を問う。血以外のものでも食したか」
「さて。ここ三日四日は何も口にしてはいない故、そんな日もあるやもしれんな」
 肩を竦めて、彼は生垣の向こう、過去殺しあった相手に過去最高の冗談を述べる。その意図は相手にも伝わったようで、逞しい声が唐突に、高くははと大笑した。
「……ハ、ハゴス様? どうかなさいましたか……?」
「いや、構わず……。久しく機嫌が良い自分に、気付いただけだ」
「は……」
 生垣の向こうのそんなやり取りに、娘の影響でか、らしくもないことを言ってしまった自分に呆れながらも彼は用件を話す。これ以上下らない言葉の応酬を続ければ、この迷宮を怒りで潰しかねなかった。
「人間の死を間近で多く見てきた人間は、死を容易に受け入れるか。……恐れぬのか、自らの命の危機さえも」
「…………はて、それは」
 問われた悪魔は顎に手をやるような微かな衣擦れの音を漏らし、真摯に考えているのだろう。暫くの間をおいて返ってきたのは、彼の予想を遥かに越えて明確だった。
「否、と言おう。余が刈り取った多くの人間は、死を間近に見、知ったからこそ恐怖する。恐れを知らぬは赤子か、魂のなき欠落者よ。故に死を間近で見てきたものこそ自らの死を恐れる。自分の眼前で他者が死ぬことすらに酷く……」
「だがあれは違う。命を狙われても尚、恐れぬ人間を俺は知っている」
 ほう、と楽しげな声が響く。余計なことを言ったかもしれないと後悔しても遅いが、相手はこの魔界を統べる王なる身。一度は戦った輩とは言え、相手の失言を聞き流すくらいに心は広い。
「確かに、死神と出会うても取り乱さぬ人間は稀にいる。だが奴らにも恐怖はある」
 そこだ。彼は生垣の向こうにいよいよ神経を集中させ、自然と眼光を鋭くして問いかける。
「奴らは何が恐ろしい」
「簡単だ。自分の命よりも大切なもの。それが失われることが、奴らを何より恐怖と、それよりも深い絶望へと追い込もう」
 自らの命より大切な、とはまた平凡ながら難しい話である。彼は単純にそう考えて眉間に皺を寄せたのだが、胸のうちに立ち込めた霧は確かに薄らと晴れつつあった。それさえ探り出せば、あの娘をついに恐怖のどん底へ陥れることができるのだから、喜びこそすれ面倒だと肩を落とす気はさらさらない。
「貴様も思い知っただろうが、そのような人間は殊更手強く見える。だがな、転じて見ればそれは実に弱いのだ。自分の命以上の執着を、違うものに捧げるのだから」
「……弱い、か」
 娘の姿を脳裏に描くも、とてもそうは思えない。しかし今の答えを求める彼に最も適した賢者たる相手は自分以上に死に密な、そしてそれ以上に恐怖を知る悪魔だから、結局は何も言わなかった。だが、その思考まで相手は読みきっているらしい。生垣の向こうは野太くくぐもった笑いを喉の奥で転がし、彼を意地悪く挑発する。
「そうとも、弱い。強いと思った自分の判断に呆れるほどにな。しかし、そうなれば悪魔でさえ実に弱い。過去の余が今の余を見れば、何とも恐怖を与え易い、腑抜けた悪魔がいたものだと驚くだろうよ」
「……ほう。興味深い話だ」
 獰猛に彼は笑うけれど、その爪も牙も本気で鋭くなりはしない。挨拶代わりに遊戯に誘われたが故に愉しそうだと目を輝かせたまでで、今は先約があるからまずはそちらを優先せねばならないのだ。
「だが貴様に恐怖を与えるのは、飢えを満たしてからにしよう」
 すげなく誘いを断られた悪魔もまた、本気で懐を見せつけたつもりはないだろう。何せ今は子守で多忙らしいと彼が茶化したばかりなのだから。
 話は終わった。子どもの明るい笑い声をきっかけに、生垣を軸に対称の位置にいるもの同士の魔力の密度と緊張感が薄まる。返答に満足した彼は外套を翻し、もときた道を戻ろうとするのだが、それを留めるつもりか生垣の向こうの悪魔は一言。
「暴君よ、余が貴様の問いに応じてやったのだ。代わりに一つ、答えを寄越せ」
 彼は無言で立ち止まり、半身を傾けそちらを振り向く。対するものは、奇妙に愉快そうな声音を含んで彼に問いかけた。
「それは苦労の甲斐ある馳走か?」
 苦労と表現され、彼は疑問を思い浮かべ、しかしそんな自分にこそ違和感を覚えた。ここ最近の血を吸わずして過ごした日々は、普段ならそこまで吸わない自分を不思議に思い、飢えと乾きに苦しみ苛立っているだろうに。今の彼はどうしたことか、苦痛など感じもしなかった。いや、あの人間の娘に翻弄される自分の情けない姿を思えば屈辱で眼前が真っ赤になりそうだがそれが強すぎるせいだろう、吸血による飢えも乾き感じている暇などないのだ。
「……あれの恐怖に塗れた顔次第、だな」
 短く答えて、彼は今度こそ歩き出す。生垣の向こうに反応はなかった。彼が耳を傾けていれば、噛み殺した笑い声が本当に小さく聞こえたかもしれないけれど。

◇◆◇

 『狂愚の庭』から抜け出た彼の前に、直ちに跪く者が一人。豊かな、頭髪と言うより獣の毛並みに近いくせのある髪と尾を持ち、なめし皮めいた褐色の肌の人狼族の青年で、同時に彼の従僕である。いつぞやかに命を助けてやって以降、随分と恩義を感じているようで彼の忠実な僕を自称し、しかし彼さえも舌を巻くほどその通りに付き従ってきた。
「お帰りなさいませ、閣下。存じ上げてはおりましたが、閣下が無事に戻られたこと、このフェンリッヒ心から安堵しております」
「ふん、いつも大層に過ぎる奴よ。だがそれも許そう、今の俺は機嫌が良い」
 尤も、彼がこの人狼に怒ったことのほうが数少ない。だがそれを指摘もせず、人狼は主の表情を伺いながらも立ち上がり、薄い笑みを刻む彼の後を追う。
「と申されますと……例の人間の娘との約束の、突破口を見つけられたのでしょうか」
 彼は力強く頷きながら足を早める。行き先は当然決まっていた。ここへは娘と交わした約束を果たす糸口を見つけるために戻っただけで、それを得た今となっては長居する理由もないのだから。
「それはよろしゅうございました。閣下が狩りにあちらに赴いたにも関わらず、四日も血を吸われておられないなど、わたくしには信じ難きことでした故」
 彼の仕草を見て取った人狼は、ややもわざとらしいくらいに声を高くしてその感情を示す。この程度で我がことのように喜ぶからこそ、彼はこの僕をどうにも憎めない。むしろ悪魔でありながら従順であろうとする姿勢に、微笑ましささえ持つほどだ。
「一方的に血を啜ってばかりとなれば、いかな俺とていずれは飽きる。ときには災禍も愉しめ、フェンリッヒ」
「は……」
 人狼は主の命に畏まるが、その表情はまだ僅かに硬い。主の行く道を遮ろうとはしないものの、ぴったり横に張り付くその顔を視界の隅に納めてはいたが、理由を彼は察するつもりなどさらさらなかった。そも従者の顔色を見る主人などどこの世界にいるものか。
 そんな彼の思考こそを理解しているのだろう。従僕は頭を下げた頭を戻したのちに、真剣な表情で彼の前に一歩先んじ、行く先を遮る非礼と覚悟を見せつけるかのごとく身を屈める。
「……閣下、恐れながらお願いがございます。これから閣下が向かわれます先に、今度はわたくしもお供させて頂きたいのです」
 彼の視線が微かに揺らぐ。しかし何故自分がそんな反応をしてしまうのかわからなくて、彼は従者へその不快感の矛先を向けた。
「お前から見て、それほどまでに今の俺は頼りないか」
 意地の悪い自覚を持ちながら彼は人狼に訊ねると、予想していたとおり従僕は静かであるがしっかりと首を横に振る。
「いえ、さようなことは決して。ですが閣下と約束をした娘とやらが、何か罠でも……」
「それはない。安心しろ」
 下手な冗談にもなりはしない突飛な発言に、彼は人狼が言い切る前に笑い飛ばしたのだが、その判断こそ何らかの危機感を感じているのか。従者はいえともう一度首を横に振ると、顔を僅かに上げて眉根を寄せるほどに必死な顔を見せてくる。
「閣下はその娘とやらを過信しておられます。人間はどこまでも弱く、それ故に結託する生き物。閣下の御目を疑う訳ではありませんが、どこかで……」
「罠があったとして? それで、たかだかそれしきで、俺がどうにかなるとお前は思っているのか。お前の主ヴァルバトーゼは、人間の罠で命を落とすほど弱いと」
 つまらない杞憂ばかりを口にする人狼に、いかな彼でも気分を害して睨みつける。それだけの仕草であるにも関わらず、長身の悪魔は激しく動揺し憐れなほどに身を縮こまらせた。
「滅相もない! ……ただ……、ですが、わたくしは……」
 珍しくもうなだれ口ごもる人狼の姿に、娘との約束を果たすことばかりに気を取られ、急いていた彼もさすがに頭が冷める。そもがこの従者は誰よりも彼に忠実であるのだ。主を想ってこその行動と心配だろうとその気遣いを察してやると、彼は嘆息でまずその気持ちを労い、静かに命じた。
「言え、フェンリッヒ。許す」
「……は。まさかとは思うのですが、閣下はその娘の血を本当に吸われる気でいられるのかと、わたくしは不安で……」
 意味のわからないことを告白されて、片眉を大きく歪める彼に、人狼は焦って言葉を付け足す。
「と申しますのも、わたくしがあなた様に従って以降、このようなことはありませんでした。人間と約束したことも、数日とは言え血を吸わないことも、わざわざ閣下が一人の人間を恐怖に陥れるために御自ら動かれることも……」
「そうだったか」
 自覚はないが、確かにそうかもしれないと彼は過去を振り返る。いや、人間と約束したことも血を吸わないことも、ほんの気まぐれで起こした過去は、この人狼が付き従う以前にあったのだ。今となってはその詳細も朧気でしか思い出せず、蘇る記憶はつまらないの一言に伏す結末であったはずだが。
 だから彼は人狼の言葉にさしたる驚きを示しもせず、微かな笑みを浮かべてその肩を慰める。
「やはりお前のそれは杞憂だ、フェンリッヒ。俺は今日、あの娘との約束を果たす。妙に力んでいるのは事実だが、俺はあれを恐怖に陥れることも、その血を啜ることも、忘れる気など一つもない」
「でしたら……そのお姿を、遠くからでも結構でございます。せめて我が目で見届けさせて頂けませんか」
 尚もしつこく食い下がられて、彼は呆れの息を吐く。この人狼、すべては主のためにとかしずきその通りに働くものの、なかなかどうして我が強い。だがそれをも彼は健気な忠誠心と受け止めて、この場は降参を示してやった。
「好きにしろ。だが、お前はあの娘に手を出すな。あれは俺の獲物だ」
「……承知しております」
 大仰な態度で深々畏まる人狼の姿に、彼もまた軽く手をかざし受け入れ移動を再開する。だが従者の表情はますます強張っていくことに、彼は気付いていなかった。
 ああ人狼が不安に思うも詮方無きこと。かの従者は結局言えやしなかったが前提として、彼が一人の人間ごときにここまで執着することなど、今までありもしなかったのだ。
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