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蜜月

2011/07/06

 彼女が吸血鬼と約束を交わしてから一日が過ぎた。
 結果として普段と何も変わらない忙しい日だったが、彼女としては驚くばかりに苦労を感じる傾向は減少していた。あの吸血鬼とは自分の勤める診療所の場所を教えて別れたのに、たかだかそれきりで心がうんと軽くなり、業務に対する集中力が増したように思われた。
 あんな短時間の出来事で心の奥から清浄になった自分を顧み、彼女は内心苦笑を浮かべる。それくらい、自分は寂しかったらしいと思い知らされて。
 自分のことを知らないひとに、立場を忘れて個として接することがこうも嬉しいなんて知らなかった。明日の夜か明後日、彼が悔しそうな顔を見せると、改めて友人として自分に接してほしいと願おうかなんて明るい未来でさえ夢想してしまう。未来など帳簿の中でしか想定しなかった彼女が、である。
 だがそんな心境の変化を周りにばらさない程度には、彼女はまだ冷静だった。仕事は仕事、個人は個人。個人的な秘密を抱える展開は日常のスパイスとして僥倖だが、そればかりを求めるほど彼女の心は浮つかない。何より体に染み付いた看護師としての感覚は、吸血鬼との出会いと比べるべくもなく彼女の心身に根付いている。ただ胸に生まれた色鮮やかな新芽を、時折愛でる余裕が生まれただけのこと。
 故に彼女は働き続ける。効率第一に考えられるべきところはそのように、臨機応変の心遣いが求められるべきところはそのようにそれぞれ意識して、緩やかに動くパズルを手を止めずに組み立てる感覚に近い。毎日それを行なってきたとなれば、誰でもこの生活に慣れるもの。尤も、床に就くときは常に反省しきりではあるが。
 しかしどう考えたって反省できないこともある。このとき彼女は本当に何の考えもなく普段の自分を貫いただけなのに、それがまさかこんなことになるとは全く予想もしておらず――。
「聞いてンのか、姉ちゃぁああん!?」
「ああ、はい。伺っていますわ」
 素っ気ない返事だったかと言ったあとでようやく意識がこちらに戻った彼女に、赤ら顔のじゃが芋頭はそうかいと深々頷いた、ついでに足元ががくりと崩れかける。一目見てわかるほどの酔っ払いだ。彼女だってこれに好き好んで絡まれるつもりはなく、むしろ絡まれた側なのでどうすることもできない。
「でーな? 俺ァな? 聞いてンの君に。聞いてんの!」
「はあ」
「姉ちゃんさ、なんで俺にそんな、意地悪なことすんのって! 聞いてんの、さっきから!」
 子どもがだだをこねるような物言いだが、大の大人が真似たところで気味が悪いだけである。そこまで思っていないものの、まずい相手に絡まれたとは考えている彼女ではあったが、自分の言動は偽れない。
「ですからさっきも申し上げました。わたくしは明日の寝食に困る方には施せますが、お酒を楽しむ余裕のある方には施せませんと」
「むーいちもんにゃ、変わりねえだろぉお!?」
「あります!」
 彼女が悲痛なほどに叫んでも、酔っ払いは話を聞きもしない。何より腕を掴まれているから逃げれもしない。普段ならば町の人々は自分に触ろうともしないためこんなことにはならないのだが、出稼ぎに来た傭兵は事情を知らず。彼女が死のはびこる診療所で働く死神か、死体と墓穴掘りに魅了された魔女だと噂されているなど、当然耳にしたこともないのだろう。
 ことの始まりは無一文の親子に金ボタンをくれてやったこと。いやもっと前であれば、窓際の敵国出身の患者が彼女にそれをくれたことから始まるか。
 昨晩宣言通りに無理をしてチーズを付け足した豪華な夕食を済ませたあと、食器を返される際に、窓際の男性から紋章を潰した金のボタンが彼女の手にこっそりと渡されたのだ。目を見張った彼女に男性は、真剣な表情で小さく首を横に振るだけで沈黙を貫き通すが、ただ青い瞳が雄弁に感謝の意志を告げていた。責任感ある人なのだろう、痩せ衰えたその顔からは予想もできないほど強い眼差しに、彼女はその価値ある私物を返すこともできなかった。
 金目のものとなれば売るのが基本である。くれた男性も自分にこれを手渡すと言うことはそれが本来の目的だと受け止めて早速今日馴染みの質屋に向かったのだが、到着するまでの道のりで子連れの浮浪者に出会ってしまい、彼女は眉をひそめた。
 もとはそこそこの生活ができていたのだろう、いまだ髪を結い、褪せてはいるが暖かそうな生地の服に身を包んだ痩せた女性が、しかし手荷物も持たず心配そうに見上げてくる着のみ着たまま十歳前後の少女を連れ、町角で所在なさげに立ち竦む姿は印象的だった。突然何をかもを喪って、ようやく辿り着いたのがここだったのか。戦線に近い国境付近の町ならそれだけ人や金の流れも多く、体を売って生計を立てるだろうと思っていたのだろうが、はたから見ても色気のないどころかつても知らぬ素人女に夜の商売人たちが易々と門戸を開くはずもない。安い娼館に住まわせてもらうとしても、事前に紹介金は必要だ。
 だから彼女は憐れな二人に声をかけ、立ち竦む理由を聞いて診療所に勧誘をしたりもしたのだが、怪我人のみとは言え兵隊ばかりと言うのが幼い少女に恐怖を与えたらしい。丁重に断られ、自分だけでも犠牲であろうとする母の強さを知らされたが故に金のボタンを握らせたのだ。
 質屋の場所や自分の知っている娼館を口頭で教えたその直後、深々と頭を下げる母子の手に、肉屋で飾られているソーセージのような指が割って入った。空の酒瓶片手に臭い息を吐きだす逞しい傭兵がそれまでのやり取りを見ていたらしく、他人にやるなら自分にくれよと絡んできて。ようやく掴んだ希望の光を奪われた二人の顔が絶望に染まりかけたその瞬間、彼女は傭兵の手から再びボタンをかっぱらい、母子に手渡すとすぐさま二人を突き飛ばした。それが多分、明確な分岐点。
 察した母は娘の手を引きながら逃げるように立ち去って、愚鈍な酔っ払いはああぁと情けない声を漏らし彼女の手首を掴んだ。しかしここで彼女でさえも逃げてしまえば、きっとこの傭兵はあの母子を探しに行くだろうと思えばこれは正しい判断のはずだ。
 そして今。彼女はどうしたものかと思案しながら酔っ払いと押し問答中である。町で呑めば彼女の噂は不吉なものとしてときどき人々の口に上っているらしく、傭兵たちとてあまり深くは関わってこないのだがどうもこの男は幸運にも――彼女にとっては不幸にも――聞き覚えがないらしい。だが自分の噂を盾にして今まで無防備だった自分にも非があると、今更反省する彼女ではあるがそれで事態は好転しない。当然通行人の多くは彼女を一目見ただけで避けていくし、むしろ嬉しそうな顔さえ浮かんでいたくらいなので助けなど来るはずもなく。
 幸いこの酔っ払い、すぐに暴力を振るう真似はしないようだが、彼女との体格差から見て抵抗すればどうなるのかは明らかだった。かと言ってこのまま落ち着くのを待つのもいけない。大体酔っ払いが落ち着くものか。おまけに野蛮であろうが紳士であろうが、三大欲求は人の身なれば等しく持つ。そして酒は概ねそれらを解放していく。
「んじゃぁー、あれだ! 姉ちゃんヤらして!」
「嫌です」
 予感はしていたとは言え頭痛を伴うレベルの誘い文句に、彼女は鉛のような吐息と共に拒絶する。だがそれで酔っ払いが引き下がるはずもない。痩せてはいるものの女らしく肉付く柔尻を酒瓶でぽんと叩いて、思わず嫌悪感を眉に見せる彼女にむうと膨れ面を近付ける。彼女は悪臭に咽ないようにしながらも、顔を背けるのに精一杯だった。
「んだがよーお、金が出せねえってんならそっちで満足するしかねーえ、てな話だろ。違うか?」
「ええ、違いますわね。催したのでしたら処理はお一人でもできるはずですわ」
 診療所に詰めている人々にそこまで元気があるのは少ないが、今までにもいたし体は動かずとも欲求はあるらしいと度々彼女が知ることもある。恐ろしく気まずい思いをしたことも、数える程度に何度かは。
「一人でっつったって神様にゃだーめーて言われてんじゃねーかよぉー。……んなカタいこと言わずにさぁ、な、一回、な?」
 その通りだったと彼女は一人で性欲を発散させることを禁じた神及び教会に恨みがましい気持ちを捧げるが、酔っ払いは彼女の祈りなど意に介さない。大人しくなったのを好機と見たか、どこぞの店の壁に彼女を押し付けると、白昼堂々細い両腕を片手で掴んで上半身の抵抗を防ぐ。
「……なっ、止めてください!」
 相手を睨みつけ、脚をばたつかせながらなんとか身を捩ろうとする彼女に、酔っ払いの声が急変した。
「おゥ、抵抗すんの?」
 軽薄で鬱陶しいのは変わりないのに、その声だけは正気に戻ったかのように冷たい響きを持っていて、彼女の全身が強張る。この調子では先程派手に抵抗しなくてよかったかもしれないが、今からのことを考えるとむしろ悪い方向に事態が転がっているとも取れる。何にせよ直ちに歯を噛み締め、襲い来る痛みを耐えようとする彼女の目に映るのは、巨大な人の拳。だったのに。
 まるで時空を切り裂いて生まれ出たのかのごとく忽然と現れた蝙蝠の群れが、酔っ払いの顔めがけて襲いかかった。ぎゃあと男の悲鳴が上がり、拳どころか彼女の両手首を掴んでいた手も離れる。彼女が暴力に屈する姿を見たかったらしい見物人たちがどよめくが、そんなこと張本人は気にしていられない。彼女は自身の無事を確認すると、安心する間もなくすぐさま走る。逃げ帰る。
 呆気に取られた人々は、その姿を見て彼女が本当に魔女だったと恐怖するかもしれない。だが彼女は実際は正真正銘の人間で、しかし蝙蝠を奇術のように出す知り合いはいるからその人物に走りながら頭の中で感謝の言葉を述べる。死なぬように見張ってやると言っていたが、まさしくあの拳は顔に直撃すると生死の境を彷徨いかねないものだったから。おまけにその一撃を喰らった挙句次に何をされるかを考えれば、むしろ助けてくれた相手に貞操を捧げても構わないくらい。
 人と壁に何度かぶつかりそうになりながらもここまで来れば安心かと思ったところまで帰ってくると、彼女は肩で息をしつつ、恐らくどこからか見ているのだろう誰かに話しかけた。
「あり、がとう……ござい、ます……」
 返事はない。だが気にせず彼女は一度咳き込むと、小さく笑んだ。
「……まさ、か、本当に助けてくれる、なんて……思っていなくて。ごめんなさ、い」
 視線はどこからも感じるようで感じないし、他者の気配なんてものも彼女は鈍いほうだ。けれど彼女はこれら自分の言葉が、独り言だなんて端から信じていやしない。
「……ふふ……、あのとき、わたくし、怖がってるって……思いました?」
 やはり返事はありもしないが、彼女は木の根に腰を下ろすとなるべくゆっくり息を吐く。心臓の早鐘は、それだけで少しずつだが納まっていくように思われた。
「けど、ね……あれが、あなたが目指す、恐怖、ではないと……思うんです、わたくし」
 突発的な暴力に身構えるのは本能的なものだ。怖いと思いもするだろうが、それはかの吸血鬼が指し示す恐怖のどん底とまではいかない。彼女は死を覚悟したことは何度かあるけれど、それだってそのとき自分にできることばかりが先んじて恐怖なぞ麻痺していた。
 死を覚悟した、と自ら記憶の糸口を引っ張ってしまった彼女は、心に暗い霧が立ち込める感覚を長く息を吸って受け入れて、今まで幾つも自分の手から零れ落ちた命の数々を想いながら長く息を吐き出す。絶命の瞬間、泣き喚いたものは何人いたか。苦しみ喘いでいたものは何人いたか。母の名を悲痛に漏らす声を何度聞いたか。
 それら以上に強烈に彼女の心に浮かび上がってくるのは、傷を看ていた患者に首を絞められそうになったときのこと。記憶にはないが、多分怖かったのだろう。けれどそれ以上に今の彼女の脳裏に浮かぶのは、その骨ばった手から解放され、反して殺そうとしていた人物が死した瞬間に見えたもの。
 診療所の板張りの床の下から、白い手が伸びていた。さっきまで自分の喉を締め付けていた白い手が、幽霊みたいに浮かび上がる。続いてその横に、親指だけがない手がのろりと生えて、そのまた奥には銃剣がいまだ突き刺さる真っ赤な手。小指と薬指が第二関節からなくなった手。無数の、今まで見た記憶がある手が、腰が抜けてへたり込む彼女にゆっくりと這い寄って来ってくる光景が、脳裏にこびりつく。
 そのとき自分が何を思っていたのかを、何を手だけの亡霊たちから感じ取っていたのかを、やはりこのときもまた彼女は思い出せなかった。あれは単なる幻か、悪夢を見たのだろうとわかりきっているけれど、たびたび思い出すと言うことはそれだけあの幻を強く意識していると言うことで。結果的に、現実の彼女はあの光景に影響を受けている。そうして自分の意地で留まって、幻には苛まれ、歪んだままに立ち直り、いや色んなものから生きるためにもと立ち直させられ、そのまま完成したのが今のこの、自己犠牲と自己満足と自己欺瞞の建築物。
 そんな自分に比べて、あの吸血鬼はどうだろう。きっと彼は自らの感情に常に素直であり続けたのだろうと彼女は思う。生贄のように我が身を差し出した彼女に向かって、忌々しげに怖がりもしない人間の血など吸えるかと吐き捨てたその目はやはり真っ直ぐな意思を感じさせた。純粋に、誇り高く生きてきたのだろう。自分の気持ちを偽らず、自分の生き方に迷いなどなかったのだろうその芯の通った強さが、酷く羨ましい。
「……あなたのこと、怖くなりそうにない」
 むしろその真っ直ぐな姿は自分にとっては眩しいくらいだと言ってしまえば、吸血鬼はどんな反応を寄越すのだろう。まだ知り合って一日しか経っていないのに、不思議なことを考える自分にくすりと彼女は笑うと、尻の埃を手で払って立ち上がる。
「いつ来られるのかわからないけれど、お待ちしていますね」
 やはり首から肩の辺りが汗臭いのは嫌だろうかと思いながら歩き始めた彼女の耳に、林側の遠くの茂みが僅かに動いて返事をする。それだけで、彼女は強く励まされた気持ちになった。

◇◆◇

 窓際の患者の包帯を換えながら、酔っ払いに絡まれて以降を伏せて話した彼女に振りかかったのは怒号でもなく失望でもなく、呆れた吐息だった。他の面子はもう眠っている。彼らはとっくに包帯を換えて、その重労働と痛みを癒すために、早々に夢の世界へ旅立った。
「あなた、は……、人が、好過ぎ、る」
 肩に包帯を巻かれるごとに痛みで顔を歪めながら言うものだから、そこまでしても伝えるべきではないだろうと彼女は唇を尖らせる。一瞬だけ包帯の結び目をきつめに締めてやろうかと思ったが、それまで洒落ではなく苦痛を味わった人に行うべき冗談ではないと己を律して蝶々結びをきっちり一つ。
「……それで、彼女らにやったのか」
「はい。ごめんなさい、せっかく頂いたのに結局……」
 繕い終わったシャツを持って頭を下げる彼女に、男性はゆっくりと首を振る。
「いや、僕は君にあげたんだ。君が満足する使い方なら、何をどう使おうと……構わな、い」
 彼女の手を借りながらシャツに袖を通した男性は、久し振りに上半身が温かいことに違和感でも持ったのか。首の周りを恐る恐る触れようとするものだから、彼女は彼が何を気にしているのか察して襟首のよれを直してやる。
 どうもと男性は声を漏らし、自らの手で前のボタンを一つ一つ留めていって、ほどほどで落ち着いたらしくゆっくりとベッドに横たえた。
「……前から思っていたが、よく効く痛み止めを使っていますね。もう利いている」
「ええ、柳の木から採れる痛み止めなんだそうで。この診療所の正反対の位置に、お婆さんが一人で営んでいる薬局があるんです。昔ながらの人ですから、腕はいいしお薬代は安くついて」
「へえ」
 しかし何でも見透かしてくる怖い魔女だなんて、彼女は口が裂けても言わない。同じ魔女の肩書きを背負った人間としてではなく、むしろ自分があの老婆を魔女と蔑むのならば、町の人々に蔑まれているため魔女と呼ばれる自分が何なのかわからなくなるなんて保身的な理由から。
「わたくしにも、薬学の知識があればいいんですけど。あのお婆さんを知ったのは看護師になってからだったから、弟子入りしようと思っても時間の余裕がなくて……」
「だが、薬剤師と看護師は役目が違う。確かに両方できるのが理想だが、実際に両方したらあなたの体が壊れますよ」
「あら、やってみなくてはわかりませんわ。この診療所に薬局を設けたら、体を動かすいい機会だと言って患者さんに鍋をかき混ぜてもらったり、外の空気を吸おうと言って遠出のついでに薬草を採ってもらったり、色々持ちつ持たれつができると思いますもの」
 立て板に水と表現できるほどの発言と突飛な発想に、男性は疲れの色濃い目を見開いて呆気に取られた。彼女が使用済みの包帯をまとめている間にたっぷり沈黙してから、はあとまたも大きく息を吐き出す。
「……傷口が開くじゃないですか。それじゃあここの患者は一生治りませんよ」
「その辺りは、看護師の目で線引きします。筋肉が鈍っている人は体を使う仕事をさせて、寝ているだけで退屈な人は手を使うだけの作業をさせて……とか」
 どうかしら、と自慢げに顔をしてみせる彼女に、男性は片眉を大げさなくらいつり上げた。
「患者にただ働きさせるなんて、とんでもない人だ、あなたは」
「まあ、失礼な。対価ですわ!」
 頬を膨らませる彼女の何がそんなにおかしかったのか。男性はこらえ切れぬように吹き出すと、そのままくつくつと笑い始めた。故意ではないのに笑われてしまった彼女としては少し気恥ずかしくなったが、彼の浮かべた笑みは悪くない。爽やかな印象の、晴れた青空を連想させる笑みだった。
「……笑えるようになったんですね」
 男性の笑みを見つめる彼女の顔が、とても嬉しそうだったからだろう。彼は照れたように表情を取り繕おうとするが、それを彼女の手が制する。無精髭だらけの頬に、白く細くとも荒れ放題の手が触れた。
「良かった」
 微かに目を細めて心の底から呟く彼女に、男性は魅入られたように見つめていたが、我に返ると気まずそうに俯いた。まるで悪戯が見つかった子どものような態度だが、そうなる理由を察するに当たって彼女は苦笑を浮かべてしまう。真面目な人だろうから、敵国で傷を癒すことが彼にとって後ろめたいのだろう。
「後がつかえていませんか。僕はもういいので、他の方に……」
「……そうですわね。お気遣いありがとうございます。では、お休みなさい」
 とは言えど残りは四人だから割合とのんびりできるのだが、彼女の仕事はどこまでもなくならない。どこで見ているのかは知らないが、あの吸血鬼が頃合いを見計らえる程度に一人で作業をする時間を作ろうと、彼女は敵国の軍人がいる病室から一礼して退出する。
 それから他の四人の、女を抱きたいだの実家に帰りたいだの寝飽きただのもう死にたいだの不平不満愚痴泣き言に彼女は適切な相槌を打って励まし宥めすかして、今日包帯を替える患者全員の分の包帯を回収を終えた。
 その足で竈に向かって火を熾し、専用の鍋に水と削った石鹸、そして回収済みの包帯を入れて沸騰するまで放っておく。帳簿を付けていれば時間が過ぎるのは早く、竈がぼこぼこと五月蝿くなったら適当に中をかき混ぜ、火種を弱めて鍋を冷ましてから包帯を取り出す。冷ますとは言えどまだ十分熱い湯の中から包帯を掴むと、冷たく歯の根が凍るほどの井戸水にそれを漬け、包帯にこびり付く汚れを手揉みで洗い流す。一部血や膿がこびり付いていたり、もうほつれ気味なところは多いけれど、煮洗いとは偉大なものでただの水洗いや洗濯板で洗うよりももっとずっと洗う時間が短縮できる上に仕上がりも悪くない。
 とは言えそれだけの苦痛もある。熱い中に手を突っ込んだ直後に冷たい水の中に手を入れるため、昔はその動作をすべて終わらせるのに一晩かけていたくらいだが、最近では指の皮も丈夫になって悲鳴を噛み殺す程度で作業ができるようになっていた。そんな調子ですべての包帯を洗い終えると、一本ずつ軒に吊るして包帯替えの全行程が完了となる。
 真っ赤になった手が乾いていくと粉を吹き、ひび割れが治る速度が遅くなっていることに冬の訪れを感じ始めた彼女は軽く憂鬱を味わいながら、淡々と彼女は残りの仕事を片付けた。

 今日一日の作業を終えてようやく部屋に帰っても、いまだ吸血鬼の姿は見えなかった。まあ一応なりとも女の部屋に堂々侵入していたら彼女だって困る。
 しかし来ないならその隙に残った井戸水で身体を清潔にしようかと、窓の向こうを見ながら服に手をかけ襟首を解放したところで、星も見えない窓の外からぬうと黒い袖が伸び、彼女の顎を白手袋が掬う。冷たい夜風の香りと温かい血潮の匂いが混ざった不思議な芳香が、彼女の鼻腔をくすぐった。
 眼前には赤い、三日月めいた笑顔。のっぺりとした白い相貌に闇に融けた黒髪の怪物が、彼女の白い喉めがけて人ならぬ牙を突き立て――。
「こんばんは、吸血鬼さん」
 命の危機に瀕してしかし、彼女は笑顔で自分の喉に喰らい付こうとする人物に、そんな呑気な挨拶をした。
 小さな顎を掬い上げたまま暫し沈黙していた吸血鬼は、舌打ちを彼女の耳まで響かせると手を放す。潔い態度に彼女は感謝の意を表して半歩下がった。あのままの姿勢で会話をするのは、正直に言って首が痛くなりそうな気がしたのだ。それから丁寧に、改めて裾を摘まんで頭を下げる。
「今日は助けて頂いて、本当にありがとうございました。あのまま拳を振り下ろされていたら、きっとわたくし、今こうしてお話しができていなかったでしょうから」
「既に貴様の命は貴様だけのものではないからな。礼を言われる筋合いはない」
 まあその通りだと納得した彼女は、軽く頷いてから吸血鬼が外のどこに立っているのかわからなくて窓の外を覗き込む。急に頭を乗り出された彼は僅かに身じろいで、窓から少し体を離したがそれでも一定の高さを保ったままだ。
 そうして彼がどこにいるのか理解した彼女は絶句した。空中、なのはまだいい。吸血鬼なのだから空を飛ぶくらい平気でできても驚くつもりはない。しかしそうではないらしく、彼の足元を支えていたのは無数に羽ばたく蝙蝠の群れで、彼女は慌てて彼の外套越しに腕を掴んだ。
「部屋に入って!」
「何だと?」
「彼らは、わたくしを助けてくれた蝙蝠さんでしょう? これ以上ご迷惑をおかけするのは可哀想ですからあなたは入って、さあ!」
 ほぼ命令する勢いで腕を引っ張る彼女に面食らったか。吸血鬼は手を引かれるまま窓枠を乗り越えると、外套を揺らしながら苦々しげに彼女の部屋に降り立つ。
「……蝙蝠如きに何故そこまで気をやる」
「だって、わたくしを直接助けてくれたのは彼らですもの。あなたにとっては普通かもしれませんが、わたくしから見れば酷い扱いです」
 控えめながらも吸血鬼に対し非難めいた視線を送る彼女に、吸血鬼は露骨に呆れた様子で見下した。
「あれらは俺の力の一部だ。意思などない。故に、貴様が気を揉む必要はない」
「そう……なんですか?」
 真相を知らされて、隠そうともせず彼女は落胆した。あの蝙蝠たちにそれぞれ意思があるのならば、知り合いが増えて素敵だろうにと考えていたのだ。幼い頃以来小動物に慣れ親しむ暇がなかった彼女にとって久々に動物と触れ合う機会だったのだが、意思がないなら意味は薄い。だが彼女は転んでもただでは起きない精神で、二日前を思い出す。
「……だったら、わたくしが初めて吸血鬼さんと会ったときの蝙蝠さんたちも、あなたの?」
「それがどうした」
「いえ。随分と頭の近いところを飛ばれたから、変な臭いがしなかったか心配でして」
 特に薬局からの帰りだったから、あの土臭さが全身に染み付いていないか気になっていたことを思い出す。しかしそんな彼女に対し、吸血鬼は相変わらずの無愛想な顔で言い放った。
「お前からは常に、人間の娘の匂いしかせん」
「臭くなかったですか? 今日もまだ、汗を拭っていなくて……」
「ない」
「……そう、なら良かった」
 安堵の笑みを浮かべる彼女の心境を全く理解できないのだろう。吸血鬼は忌々しげに口元を歪ませて毒づいた。
「何がいい。俺の嗅覚を確認し、大蒜でも摺って焚く気か」
「そんなことをしたら、わたくしも目や鼻がしみて随分辛い思いをすることになります。そうなればまともにお話しもできませんわ。だから安心してくださいな」
 整った容姿の処女の血が好物だなんて噂話と比べて大蒜のほうは信憑性があるようだが、吸血鬼とって不愉快な話題らしいため彼女はあっさり言い切る。あっさり言い切りすぎて逆に吸血鬼の癪に障ったらしく、柳眉が大いに歪んだ。
「……貴様。俺を馬鹿にしているのか」
「ごめんなさい。そんなつもりではなかったのですけれど、不快に思われたのでしたら謝ります」
 笑みを打ち消し自分の何がいけなかっただろうと過去の会話をなぞろうとする彼女に、吸血鬼は少し冷静になったらしい。小さく首を振り、決まり悪げに視線を落とした。
「必要ない。貴様に悪意はないことはわかっている。……俺にとっては、悪魔に悪意も恐怖も持たぬお前は不愉快だが」
「……不愉快、ですか?」
 面と向かって言われたのは、彼女にとってかなり衝撃的な言葉だった。昨日ぶりに吸血鬼と再会して浮かれていたのは認めるが、その勢いで彼に嫌われてしまうのはできれば避けたい。ようやく自分を、看護師としてでもなく魔女としてでもなく見てくれるひとに出会えたと思ったのに。血を吸って、もしくは血を吸えなくてはいお終いとされる関係にはなりたくなかったのだが、どうやら彼は違うらしい。
 そんなふうに悄然とする彼女の心のうちなど知らず、吸血鬼は微かに視線を揺らしながら鸚鵡返しを肯定する。
「不愉快だ。そも貴様、あのときの台詞は何だ。『怖くなりそうにない』だと? よく俺と約束をしておいてそんな台詞が吐けたものだな」
 やはりしっかり聞いていたのか。独り言の延長だったのにそれを覚えられ、彼女は気まずくなりつつもなるべく自分も正直であろうとする。
「あれは、だって……あなたは素敵なひとなんですもの」
「………………」
 吸血鬼は反応を示さない。示さないのではなく示せないのだと彼女は気付いていなかったが、不愉快そうに睨まれているままだと思い込んで、沈黙に対し唇を噛む。
「……あの……ですね」
 焦っていた。嫌わないでほしいと願っていた。しかしこの吸血鬼を相手にどうすれば機嫌を良くしてもらえるのかわからなくて、彼女はひたすらに正直な気持ちを打ち明ける。それくらいしか、好ましさの証明はないだろうと考えたが故に。
「お話しはほんの少しでしかできていませんけれど、あなたは自分の気持ちに正直で、信念を貫いて、そんな自分に自信があって……立派な方だと、わたくしは思いました。そんなあなたを尊敬しますし、憧れもします。だから、あなたを怖いと思うのは、多分、とても難しい」
 眩しいとまで行くと、悪魔としての自らを誇りに思っているらしい彼にとっては胡散臭いかもしれないと考え表現を選んだ彼女の精一杯の告白に、吸血鬼は硬直させていた顔をぎこちないながらに動かして、漆喰の壁にひびが入るようにして顔中に深い皺を刻んでいく。
「……悪魔に、憧れる?」
「いけませんか?」
 悪魔と言うより吸血鬼個人に対してだが、そこを指摘することを何故か彼女は躊躇した。理由は本人にもわからない。だがその理由を探るよりも早く、彼は大きく首を振って彼女の思索を遮る。
「異常だな。貴様の頭の中身は何が詰まっているのか、想像もできん」
「大したものは詰まっていません。日々を生きるのに、精一杯ですわ」
 苦笑を浮かべつつもやはり正直に応じた彼女の発言に、吸血鬼は鼻で笑って本気にしない。
「そんな人間なら五万と見たが、貴様はあれらと明らかに違う。普通の人間ならば、俺の姿を見ただけで恐怖し錯乱し、さしたる抵抗もできず血を吸われるのがその定め」
 彼女は抵抗もしていないし血を吸われる気はあったのだが、どうにも吸血鬼にとってはその辺りはあまり重要でないようだ。いや、つい先日になって重要でないと気付いたのか。彼の目に、昨日からよく見かける苛立たしげな光が宿る。
「……だが貴様は違う。自殺願望がある訳でもなかろうが、何故貴様は死を、並べては俺を、恐れぬのだ」
「死と吸血鬼さんが同等と言うのは、少し、傲慢だと思いますけど?」
 彼女の苦言に吸血鬼は、しかして態度を改めようともしない。そこまで自分に自信があったひとを苛立たせることに多少の申し訳なさを覚えながらも、彼女は素直に彼の問いを頭の中で反芻し、真摯な答えを浮かび上がらせる。
「戦時中の看護師となれば、普通の人より死を間近に見ます。死神ほどではないでしょうが、慣れていると言えば慣れているでしょう。だからこそ、わたくしは他の人よりも常に死を覚悟し、意識できているので、大きく取り乱すこともないのだと思いますわ」
 その返答は吸血鬼にとって納得できるものだったのか。しかめ面が僅かに和らぎ、深く考える顔になる。その横顔は雪降る湖畔の冴え冴えとした夜の風景を連想させ、彼女は自然と薄く笑んだ。こんなひとを恐ろしく思うのは、彼女にとってやはり難しいと再認識して。
「……あなたが怖くない理由は、自分でもよくわかりませんわね。何故あなたを怖がらなければならないのか、わからないくらいのと同じくらい」
「俺が人間の血を啜る姿を見れば、貴様も自ずと恐怖を覚える」
 吐き捨てるように呟く吸血鬼に、あらと彼女は首どころではなく身体ごと軽く斜めに傾ける。わざとらしい仕草の自覚は当然あった。
「けれど吸血鬼さんは、わたくしともう約束したでしょう? わたくしを怖がらせるまで誰の血も吸わないって」
「…………」
「わたくしの血を吸う姿を見せるにしても、それより先にまずわたくしを怖がらせる必要がありますわよね」
 だから彼女は窓から手が伸び喉元に牙を突き立てられた瞬間も、それは決して自分の皮膚を貫かないと理解していた。寸止めで恐怖を煽る手段も想定の範囲内だ。まあ想定できるから怖がらなかったのではなくて、ただ彼が待ち遠しかったため、驚きよりも喜びが勝ったのだか実際のところだが。
 吸血鬼の本領発揮は難しいと知らされた彼は、鼻から静かに呼気を抜き出すと口の端を不愉快そうに歪ませる。
「人間の身ながら考えたものだ。それで明後日まで逃げきる気か」
「逃げるつもりはありませんわ。迎え撃つと言ってください」
 自信たっぷりに訂正を願い出た彼女に、吸血鬼はならば武器が必要だろうが、と指摘する。はて吸血鬼に利く武器とは何ぞやと彼女は記憶の中を探ろうとするが、前提として吸血鬼のイメージがヒルのような血の塊であったのだから、そんなものに威力を発揮する武器など想像できるはずがない。暫く考えていたものの、彼女は初めて彼を相手に降参した。
「……吸血鬼に利く武器なんて、想像もできません」
「俺には利かぬが、あるにはある」
 どんな、と視線で問いかける彼女に、吸血鬼は顎を小さく引いて何かを指す仕草をする。ずっと手前のほうを指し示された気がした彼女は、彼の全身を注視してそれらしいものを探し――彼の胸を飾る、円形の真っ赤なタイピンに目を止めた。
「……これが?」
 ブローチ、と表現するにはややしっかりと留めすぎているそれを瞬きもせず見つめる彼女の視線に何を感じたか。吸血鬼は短く肯うと、彼女に向かって牙が覗く笑みを見せた。
「この胸の杭は常に我が胸を深く穿つ。……貴様の知る人の体とは明らかに別のものだ」
「常に、ですか」
 見る限りではタイピンかブローチとしか思えなかったし、本当にこれが杭ならば人体ではまず生きられないのに平然としている吸血鬼の姿に、彼女は不思議な感覚を覚える。傷付いているはずなのに平気でいる彼への憐れみか、傷を自慢する彼の幼稚さを微笑ましく思うのか。それとも杭を彼に打ち付けた誰かへの、憤りがあるのか。
 わからないままに彼女はつと目を細めて、吸血鬼の胸を見る。杭として意識してみると赤い金属の頭部は彼の装束にそぐわない無骨な印象で、それだけ証言通り深々と胸を穿っているのだろう。しかし白いタイにもシャツにも血の滲むあとはない。ますます悪魔の身体に好奇心を高めながら、彼女は自分の胸の奥から溢れた言葉を唇で形作る。
「触ってみても……構いません?」
 吸血鬼はすぐに反応しなかった。少し視線を彼女からそらして、いつもよりもぶっきらぼうな、なのに低い声を彼女の耳にするりと寄越す。
「……好きにしろ」
 口にしてから断られると思っていた彼女は軽く目を見張るものの、お言葉に甘えて吸血鬼のもとへと静かに距離を詰める。それからひとのそばに近付いたはずなのに闇夜の冷たさを肌に感じながら、ゆっくり片手を差し出して、彼の表情を伺いつつその胸へと指先を近付けた。理由はわからないが、彼女は自覚するほど緊張していた。多分、治療に関わりのない異性との接触を意識したのがこれが初めてだからだろう。
「あ」
 伸ばした指先に金属特有の硬さと冷たさが伝わってきて、彼女は微かに驚き指を震わせてしまう。杭から内部へと刺激が伝わっていないか不安に思ったのだが、吸血鬼の表情は変わらない。瞬き一つせず、触れた先から杭をそのまま引き抜かれまいと警戒していそうな視線を受けて、彼女は自分の信用のなさに軽く落胆する。つまり平気で触らせてくれたのは、この杭が自分の力なんぞではあっさり動かないものとわかっているからなのだろう。
 けれど幸いにして吸血鬼の手は彼女の手を掴もうとはしない。両腕は外套の中に納まったままで、胸の杭を触らせてくれている。だから彼女は、杭の十字に中指と薬指の腹で触れて窪みを淡くなぞる。決して押し当てないように、彼に痛みを与えないように。
「……冷たいのね」
 杭から伝わる感触は夜風にさらした金属そのもので、彼女は逆に指の先から自分の体温を与えようとするかのごとく動きを止めた。冷たい刺激は彼女が自分の鼓動を頭の中で数えるごとに次第に薄くなり、熱がじわりと触れたもののその向こう側に移って、指先と杭が温度差を感じなくなる。
「杭が温かくなっているって、あなたからわかります?」
 熱を与えた彼女は小首を傾げて訊ねるが、吸血鬼は何の反応も示さない。ただただ彼女を眺めているだけで、生返事さえ聞こえてこなかった。何か深く考えているのか。ならば邪魔はすまいと判断して、彼女は息を呑み杭の外周へと指を移動させる。
 自分の手のひらほどもない大きさの円を時計周りになぞるだけなのに、彼女は妙に緊張した。このまま触ってしまっても構わないのかと躊躇う気持ちが強くて、自分がとても大胆なことをしでかしているのではと落ち着かなくなる。けれどよくよく考えてみれば、吸血鬼の弱みとして穿たれた杭に触れているのだから、そんなふうに思うのも当然なのやもしれない。
 指で一周を終えた彼女は、触れたときと同じくらい慎重に杭から手を放し、まずは感謝の言葉を口にする。それからこの接触に問題が生じなかったことに安堵の笑みを作って、感想を述べた。
「……あなたに怒られるかもしれませんけど、ようやくあなたが悪魔なのだと、自覚した気がします」
 僅かばかり畏まる彼女の殊勝な態度に、それまで不自然に大人しかった吸血鬼が薄い冷笑を口元に刻む。
「今更か」
「はい、今更ですね」
 鈍感な自分が恥ずかしくて彼女は照れ隠しの笑みを見せるが、吸血鬼にはそんなもの通用しない。ただ彼は彼なりに期待するものがあるようで、外套が微かに揺れて彼の肩の線が下がった。
「では聞くが、俺を恐れる気になったか」
「それは多分……別の問題になりそうですわね」
 また睨まれる予感を覚えながら、それでも吸血鬼の前では自分を偽るまいとしている彼女は素直に答える。しかし彼は予想外にも、重々しく息を一つ吐き出すだけであからさまに眉間に皺を寄せたりはしなかった。
「……仕切り直しだ。今宵は興が殺がれた」
「もう、ですか?」
 寂しい気持ちを隠しもせず項垂れる彼女を、吸血鬼は見ようともせず背を向ける。漆黒の外套が、彼女の髪にさらと触れた。
「明日だ。――明日には必ず、貴様を恐怖のどん底に陥れる」
 声は明朗に響き渡り、彼女の胸を奇妙な感覚で撫でてゆく。寂しさも相まってか、緞帳めいた声に落ち着けるような苦しいような、むず痒い心地になりながら、彼女は吸血鬼の言葉に笑った。
「昨日も、似たようなことを伺いましたわね」
「どうせ明日には聞くまい。今夜は貴様の余命が延びたが、その幸運も今日が峠」
 吸血鬼が腕一つ動かさず、けれど確実に彼の意思により外套を大きく羽ばたかせる。窓からの風もないのに、裏地の赤が見えるほどにそれはざわりと蠢いた。
「待っていろ。貴様の血は明日、俺が飽くまで吸い尽くしてくれる!」
 相変わらず声高らかに、芝居がかった口調で宣言して窓の外へと出て行く吸血鬼の背は彼が外に出た途端たちまち夜闇に交じるように消えていって、一人取り残された彼女はほんの少し肩を落とす。開け放たれたままの窓には、蝙蝠の一匹さえ飛んでいない。いないけれど、柔らかな蕾めいた唇は静かに動いた。
「……はい……」
 何を焦っていたのかは知らないが、返事も待てずに去って行った吸血鬼のことを思い出すと、彼女の胸は悲しみとも苦しみともつかぬ胸が細いリボンで締め付けられる感覚を覚える。なのに、心のどこかはそれを温かく心地良く望んでいて。
「……待っています、吸血鬼さん」
 彼女は気付きもしなかったろうが、その口元と言わず顔に浮かんだ表情は、彼女が多く浮かべるどんな笑みよりも、幸せそうなものだった。
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