スポンサーサイト

--/--/--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[↑]

約束

2011/07/06

 シャツを取り込んだ上で診療所に帰った彼女を待ち受けていたのは腹を空かせ暴徒と化した患者たちではなく、質屋に対して行ったような略奪にやって来た荒くれどもでもなく、温かいスープの香気だった。
「……お、……り」
「はい、ただいま帰りました」
 彼女の荒れ放題の髪をざっと手で梳いてくれる金髪の女性もまた患者には違いないが、比較的自由に動けるためこうして炊事を手伝ってくれることも多い。客から子どもを貰った上に、別の客から喉を傷付けられた元娼婦にとって邪魔なものがあるとするならぱんぱんに膨れた腹くらいなものだろう。それでもここで本格的に働いてくれるならば、子どもが邪魔になることはないと彼女は思う。
「夕食を作ってくれたのですね。ありがとうございます」
 礼を言われた女性は気にしないで、と仕草で示す。けれど一人まだだよ、と指を一本立てて、その夕食を取っていない誰かがいる部屋を指した。それは予想していたから、苦笑を浮かべた彼女は荷物を下げるとまずは竈に立ち寄った。
 自分の分の玉葱のスープに硬いパンを浸して手早く食事を終えると、残り一人分の夕食を持って病室に向かう。できれば患者が先のほうが良かっただろうけど、急いで走ってきてしまったために体力の消耗が考えられた。食事を抜く日も少なくないが、買出しに出て走ったりもした上に患者と意地を張り合うとなると毅然とした態度は取りにくい。
 問題の患者がいる病室はもとは一人部屋だが、今は五人が詰めている。他の患者は空腹が満たされたため寝ていたり同室でできた友人と低い声で思い出話に花を咲かせたりしているが、窓際の特に包帯だらけの男は窓の外を見たままぴくりとも動かなかった。けれどそれは普段と変わらないから、彼女は簡易ベッドの隙間を縫うようにして件の患者のそばまで行くと、スプーンを突っ込んだスープ皿とパンを彼の視界に納めようとする。
「食べてください」
 返事はない。いつものことだ。だから同室の患者たちも、さして彼女の声を気にしない。気にはしないが薄い反応は浮かべる。雑談の声があからさまに低くなった。
「食べてください。あなたの分です」
 けれど彼女は全く気にせず、むしろ声を張り気味に繰り返す。自分の行いの正しさを周囲に知らしめるため、と表現してはやや傲慢か。だが彼女の職務上でも人としても、眼前の自ら命を絶とうとす人を見過ごすわけにはいかないので批難される謂れはない。
 彼女の揺らぎない態度に、食べない患者は逆に揺らいだらしい。思い出したように欠伸をして、何でもないように声を出す。
「……誰か別の」
「これはあなたの分ですから、他の方には渡せません」
 言い放つと、背後から誰かがふざけた声を上げる。
「俺、ちょうど腹減ってたんだよ。くれな……」
「駄目です」
 相手が言い切る前に彼女は振り向きそちらをきつめに睨み付けると、患者の一人が痛そうに頭の上から毛布をひっ被る。退屈しのぎにからかわれているだけと知っているけれど、この手の冗談を彼女は好まない。
 向き直った彼女はもう一度、窓際の患者に同じ言葉を繰り返す。軍人が部下に命令するように、なるべく威圧感を含ませた態度を取ろうと試みながら。
「食べてください」
「いいよ。眠い」
 眉をしかめて患者は身じろぐが、ならばどうして窓の外を眺めてばかりで目を瞑ろうとしなかったのか。頑固な患者に腹立たしくなった彼女は彼の寝床の足元に座り込む。
 二人の押し問答を眺めていた野次馬どもが微かにざわめき、好奇の視線がより強くなったが彼女は全く気に留めず、こちらは逆に動揺を示した窓辺の患者にもう一度告げた。
「食べてください。でないとわたくしはここから一歩も動きませんからね」
 彼女は心底本気で言ったのだが、同室の患者たちはからかう気満々で、口笛まで吹いて冷やかしてくる。
「そのまま寝るならこっちで頼むぜ」
「いやいや、俺んとこのが温かい」
「もう一人混ぜてくれよ。四人でひっつきゃ薪もいらねえ」
 下卑た野次など耳に入れず、彼女は目を泳がせる男性にひたすら視線を送る。本来ならば軍服の似合う凛々しい金髪の美丈夫だろうに、頬がこけ目の下に深い隈を刻み、陰りが消えないその表情は弱々しく、物乞いのように惨めで頼りない。
「食べて」
 戦いの最中に何があってこの男性がそうなってしまったのかを彼女は知らないが、彼を憐れむ気持ちは紛れもない。しかし同時に怒りもしていた。あれだけ助けて苦しいとうわ言を漏らしていた人が、目が覚めたらこんなふうに消極的に命を絶とうとするのだから。
「食べなさい」
 男性を救うのにかかった金の問題や看病に費やした時間なぞ、今に始まったことではないから気にしていない。だが彼に包帯を使いきってしまったせいで別の患者が不自由したことは覚えているし、彼が今使っているベッドがもとはあどけない少年兵が死にたくないと泣き喚きながら臨終を迎えたところなのもしっかりと記憶に残っている。
 つまり冒涜しているのだ、この男性は。自分が誰かの犠牲の上で成り立っているとも知らず、体は生きていたいし本心もそれを求めていたくせに、今はこうして生きたくないとやせ我慢を抜かす。腹立たしくて仕方なかった。
「食べないならわたくしが無理にでも食べさせましょうか? もうスープは冷めてしまったから、火傷はしないはずですし。鼻を塞げば口を開けるしかありませんわよね……!」
 彼女がベッドの上で膝立ちになりスープ皿とパンをそれぞれ持って男性に覆い被さろうとすると、野次馬も含めた室内の全員がぎょっと目を剥いた。
「それはまずいって、おい!」
「いや、そんなこと……しなくても!」
 窓際の男性は慌てて首を振り、背後にいた野次馬どもも身を乗り出して彼女を止めさせようとする。しかし、その必要はない。彼女は勝利の笑みを浮かべると、すぐさま彼のベッドから下り質素な夕食を彼に差し出した。
「なら食べてくれますね?」
「ああ……わかったよ。食べます」
 降参した男性はことさらゆっくりした動きで質素な夕食を彼女の手から受け取ると、十字を切って食事を始める。
 この男性に限って言えば完食し終えるまで見るのが日課になりつつある彼女は、その丁寧な仕草に急激に頭の熱が下がって申し訳なさを覚えてしまう。彼は恐らく良家の子息で、だと言うのにこんなところまで来て戦争に巻き込まれ、貧相な診療所ですし詰めになって味の薄いスープを食しながらどうにか傷を癒している。虚しくて生きる気力がなくなるのも、当たり前だろう。
「……明日は少し奮発して、チーズも付けましょうか」
 気安い励ましの言葉をかけるのは難しいから、彼女は今できる精一杯の贅沢を呼びかける。急にそんなことを言われた男性は不思議そうな顔をしていたが、同室の患者たちへの効果は抜群だった。
「ほんとか!」
「おいおい……いいのか、祝日じゃないだろ?」
「ええ、今月はほんの少しだけ黒字になりましたから。たまには贅沢しないと、皆さんも傷を治す気になれないでしょう?」
 彼女もまた明るく患者たちに言って聞かせるが、男性の表情は変わらない。まあチーズ程度だ。商家では食卓に毎日上がって当然の、しかしここでは一切れでさえ見ない食品だから、芳しい反応が得られないのは当然か。
「……黒字なんて、出ているのか? ここは、こんな……」
 彼女が内心肩を落としたのちに窓際の患者から聞こえてきたのはか細いながらに疑わしげな言葉で、気遣われた彼女は悪戯っぽく笑って胸を張る。
「ええ、貧乏ですけれどね。わたくしは金庫番も兼ねてますもの、お金のやりくりくらいはお手のものです」
 嘘がさらりと彼女の口をついて出る。本当は赤字も大赤字だ。幸いよそに借金を作っていないが、私財はもう残り少ない。この調子で赤字が続けば、最悪来年は彼女の純潔も金に換えねばなるまい。尤も、近隣の住民で金を払ってまでこの痩躯を抱きたがる者などいないと知ってはいるが。
 男性は彼女の返答を受けて何事か考えていたらしいが、思い出したようにスプーンを持つ手を動かして、具など見えもしないスープを啜る。その唇が、能天気な連中に聞こえないよう薄く動く。
「……そうは見えない。君、無理をしていませんか」
 男性にあっさりと嘘を見破られてしまった彼女は、自分の演技力に少し自信を失って軽く瞼を伏せた。
「かもしれませんが、余計な心配はして頂かなくて結構ですわ。大体あなたもお金は持っていませんでしょう?」
 彼女の問いに男性は苦みが走った顔をするが、目はいまだ彼女に無理をするなと告げている。つい最近意識が戻った怪我人に、無理をするななんて看護師である彼女としては言われたくないが。
「他人の台所事情よりも、今は自分の怪我を治すことだけに専念してください……ね?」
 笑って彼女が発した台詞はどんな患者にもよく利く殺し文句と言えるもので、窓際の男性も例に漏れず、ぐ、と詰まった声を漏らして決まり悪そうに視線を揺らす。それに彼女がくすくす笑うと、スープ皿とスプーンがつっけんどんに返された。
 中を見れば見事に一滴残らず消えており、男性の胴体を覆う包帯やシーツにはパン屑一つもこぼした跡もない。やはり本当は空腹だったようだ。
「お粗末様でした。それでは皆さん、お休みなさい」
 だが男性のやせ我慢を咎めもせずに――散々咎めたから今言ってしまえばほとんど嫌味になりかねない――、彼女は笑顔を見せるだけで窓辺の患者と後ろの患者たちに別れの挨拶をする。それぞれ声なり仕草なりで反応を寄越した彼らの一番最後に、件の彼がこちらに小さく会釈した、ような気がした。
 挨拶めいたものではなく、心の底から安堵の笑みを浮かべた彼女は退室してからまた一度丁寧に会釈をすると、ついでとばかりに他の病室を見回る。結果的にはどこも普段の夕食後に見る光景ばかりで、今のところ異常はなかった。
 今夜は珍しく全体的に静かな日だからこのまま無事に一日を終えればよいが、油断は禁物だ。寝る前の見回りも欠かすまいと己に言い聞かせ、最後に自分の部屋に戻ると、蝋燭を点して繕いものを再開する。この診療所にいる患者の多くは兵隊だから、彼らの制服は彼らの私財でもある。ここに訪れたときのままにしておくのは勿体無いから、開いた穴なり染み着いた血痕なりは彼女の手でどうにかする。
 結局芯まで冷たくなってしまった窓際の男性のシャツは、他の患者のものより生地が分厚く仕立ても頑丈で、それだけ彼が高い地位にいる人物であることを示していた。しかしそれより問題は、シャツの袖口に着いた刺繍の柄。簡素なマークだから見逃してしまいがちだが、角度を変えれば国旗に見える。この国の、ではない――他国、どころか隣国のものだ。自分が生まれる前から今に続くほどの時間をかけて、小競り合いを続けている相手の国の。
 これに気付いてしまった彼女は、繕い続ける手の動きを止めて天井を仰ぐ。窓際の男性に訛りはなかった。寝言はどうだったかは忘れたが、会話自体は完璧にこの国の言葉でやり取りができており、子にきちんとした躾を施す家で育ち、配給される制服もまた立派なものとなれば彼の立場は自ずと推測できる。彼女は軍隊に詳しくないけれど、常識で考えれば敵国の言葉をわざわざ学ぶ立場は限られていると思われるから、その推測は正しいはずだ。
 だが彼女は深呼吸を一つするだけで頭を冷やすと作業を再開する。正直に言えば困惑したが、敵国の人を今まで看たことがない訳ではない。後々になって言葉が全く通じなかったり聞き取りづらかったりで、あの人はあっちの人かと気付かされたことは度々あった。お互い怪我をしているときでも喧嘩をしようとする人たち以外は、敵国だの中立国だの自国だのはどうでもよろしい。だからまあ彼が隣国の人間であっても気にしていないのだが、それにしたってと強い疑問も抱く。
 こんな軍服まで用意して貰える立場にある敵国の地位ある人物が何故、ああも傷付いていたのか。そんな人は普通なら、捕虜になってもそれなり丁重に扱わないと交渉の際、有利に事が運べないと聞いた。宣戦布告を伝えてくる使者を物言わぬ姿で帰せば、敵国だけでなく周辺国からの印象も悪くなるのと同じ理屈だ。
 もしあそこの戦いで窓際の男性が指揮官をしていた中隊が敵に捕まったとしたら。彼は真っ先に狙われて、討ち取られていてもおかしくないはずなのに今も生きている。命からがら逃げ出した、ようには見えない。彼の体にある無数の傷は急所を外していた。むしろあれはいたぶるような、一思いに殺すのではなく、相手をより強く長く苦しめ痛めつけ後悔させる目的があるようで。
 合点がいった彼女は知らず、眉根を寄せる。拷問なんてものは昔のお伽噺や魔女狩り最盛期のもので、今はとっくに消え去った悪しき文明だと思っていた。成る程、今の時代は戦争で拷問をするのかと奇妙な感心を抱いたりもする。感心と言っても、それを持ち出す者たちへの怒りと、懇々と説教をしたい気持ちは消えないが。
 だがそんな気持ちが強くなったところで今は意味はない。何より憤りは腹が減る。彼女はむかつきを落ち着けるため、一旦針を手放し祈りの姿勢を取って心の平静を取り戻す。神への信仰を示すためではなく冷静になるために祈るなんて、神父が聞けば閉口するかもしれないが彼女はそれを懺悔する気は一生ない。
 間もなく落ち着いた彼女は目下のところ、この穴と傷だらけのシャツをどうにかしなければならないと頭を切り替え、針と袖を持つ。穴の埋め方は思いつかないが、まずは切れたところを繕うべく、彼女は分厚いシャツに針を通した。

◇◆◇

 朝食は一人分減った。
 朝から重労働を強いられた彼女は、配膳を終えると――窓際の患者は昨日の会話が利いたのか、今回は大人しく食べてくれた――、墓穴を掘りに麻袋を入れた猫車を引き、故人と特に仲が良かった怪我人と共に墓場に向かう。
 墓場と言っても空き地に過ぎない。もとは教会があった場所だが、彼女が幼い頃に敵軍が火を点けたのでそのまま取り潰しもせず、残っているのは一部の瓦礫だけ。修復もされない上に雑草も伸び放題の荒れきったその光景は痛ましいし、だからこそ血の気の多い連中は敵のこの行為に怒りを覚えて志願する。事実、彼女と共に歩いていた一兵卒は到着した途端、深い悲しみの中に怒りを入り混ぜて、自分の包帯が巻かれた腹をさすっていた。誰がどう見ても、仇を取る気に満ち溢れている。よく考えたものだと言うべきか、それとも考えなしの無責任な演出と言うべきか。
 どちらにせよ彼女にとってもあまりいい場所ではないのだが、他に教会の加護を受けた墓場を知らないのでここに来るしかできずにいた。しかしもとから墓地だった場所は覚えているし、有料墓地は遠すぎる。診療所にも近いここに埋葬するのは悪い選択ではないはずだと、彼女はここに来るたび自分にそれらを言い聞かせる。
 二人で小一時間ほど時間をかけて穴を掘り、作った穴に麻袋を入れてから土を被せる。生きている患者のほうも眼前で命が失われていくありさまを何度か見たはずだから涙を流しはしなかったが、彼女もまた泣かなかった。ここは泣くべきところではないと重々承知しているからなんて言い訳が頭の隅に浮かんでくるが、多分、本当はもう慣れてしまったのだろう。あまり、慣れるべきではないことなのに。
「……ごめんな」
「え?」
 土を被せ終え、二人で天の国に旅立った人物へ祈りを捧げていたそのとき。腹と頭に包帯を巻いた患者にぽつりと告げられて、彼女はそちらに首をやる。思いつめたその横顔は、彼女のほうを見もしない。
「おれのわがままで、こんな長いこと外にいさせてさ。寒かったら、先に帰ってくれよ」
 震えた声は気遣いなど全く感じられず、むしろそんなことはないと告げればいいから帰れと拒絶されんばかりに刺々しい。ここに来るまでの間、自分の軽く沈んだ程度でしかない表情に苛立ちを覚えたのだろうと察した彼女は、一礼するとその通り先に立ち上がった。
「わかりました。……あなたも、無理をなさらないようにしてくださいね」
 怪我人なのに墓穴を小一時間も掘る時点で無理をしているのだが、そこはあえて触れずに彼女は元教会の墓地から足早に立ち去る。背中に視線は感じなかった。ただ微かに、だろうなと吐き捨てるかの如き声が聞こえてきて、あの患者の思考を裏付ける。
 冷たい女と思われているのだろう。感覚が麻痺した女だと見下しているのだろう。自分たちを助けた理由は善意や慈愛からではなく、自己満足によるものだと蔑んでいるのだろう。それらを完全に否定できない彼女は、否定できないと気付いた自分に何よりも悲しくなる。何度も何度も経験したのに、まだそんなことを引きずっている。
 目尻に涙が溜まってきて、そんな自分がますます疎ましい。その通り、図星を指されて動揺するほうが、死者を悼むより遥かに泣けてくる。誰かにどれほど尽くしたところで、結局自分は自分のことでしか感情を乱せないのだと思い知る。苦労の対価を強がって諦めているくせに、やはり心のどこかで欲している。誰かに優しい言葉をかけてほしいと、誰かに支えてもらいたいと貪欲に思って願って嗚咽となる。
 普段は我慢できたはずなのに、今日はどうにも疲れていたらしい。それとも彼女の涙腺が反応する規定量に、胸の痛みが達してしまったのか。彼女は本格的に泣く前に林に逃げ込むと、屈みこんでから顔を両手で覆い、泣き喚きたい気持ちをほぼ反射的に抑えて喉から声を絞り出す。つっかえる思いと口の端に上る言葉は切れ切れで、自分の感情を誰にともなく吐露することさえ今の彼女に多大な勇気を必要とさせる。卑屈になったものだと冷静な頭のどこかがため息をついた。以前はもっと、あらゆる意味で感情的だったのに。
 しかし以前も今も、自分の言動の根底に流れているのは自己犠牲の精神ではなく、自己満足の精神であると彼女の冷静な部分は指摘する。否定も肯定もできやしなかった。それだけで、老婆のどっちつかずと嘲笑う声が耳元に蘇る。――本当に、そればかりは否定できなかった。
 感情を一しきり発露させた彼女は、鼻をぐずぐず言わせながらも立ち上がり、林の奥から湖のほうへと足を運ぶ。鼻と目元が腫れぼったく、指で触っているだけでも熱いほどだったから、このまま診療所に戻る気はしなかった。
 湖の水は清浄だった。近くであれだけの血が流れているのに、眼前の人々が飢え苦しんでいるのに、湖畔とその向こうに見える城は美しく、その誰をも穢さぬ堂々たる姿が今の彼女をますます惨めにさせる。自然や建築物に気後れを感じるのは一過性のものだと己を慰める言葉も浮かぶが、本当に慰められるはずがない。
 とにかく彼女は懐から取り出したハンカチで水にそっと触れ、火照った瞼と鼻に軽く押し当てる。彼女の喉からほうと、ようやく嗚咽以外の声が漏れた。今はただ何も考えず、冷たくて気持ちの良い感覚に身を委ねる。そうすれば、自然と心の奥から吐き出した膿と血が流れ出て、ハンカチを放すときにはもう傷口の生々しい痛みは過ぎ去っていくように思われたから。
 すべてが落ち着きを取り戻し、ようやく診療所に戻ろうと立ち上がり踵を返したその瞬間、眼前に黒ずくめの誰かの姿があって彼女は軽く目を見開いた。何の物音もせず背後にいたものだから不意を取られてしまい、ああと裏返る声まで出る。
「どうか、されました?」
 鼻声になっていないか気になりながら誰かに焦点を合わせると、その人物は昨晩帰宅途中に見た青年であった。昨日と同じく貴族めいた服装で、僅かに憮然とした表情もそのままに彼女をねめつけてくる。しかしそんな目で見られても、彼女には何の心当たりもないから首を傾げることしかできない。
「昨日の方、……ですわよね。あのときは急いでいたので、お話を伺えずに申し訳ありませんでした。あのあとは、ちゃんとご用件を終えられましたか?」
 訊ねたあとで、彼女は他人の事情に図々しくも首を突っ込んでしまった自分に反省する。気難しそうなひとだから、怒らせてしまったのかもしれない。いや予感でしかないが、もう怒っているのやも。
「まだだ」
 しかし短く血の気の薄い唇から漏れた声は彼女の問いかけに応じていて、案外といいひとなのかと彼女は目を見張る。見張った彼女の顔の何かがよろしくなかったらしく青年の眉間に僅かな皺が寄る。意味がわからない。
「この地に来たのは久方振り故、一つ派手に挨拶をしてやろうと思ったのだがどうにも今回は運がないらしい。最初の一歩で躓いた」
「それはお気の毒でした……」
 何の話かはわからないが、不幸なことだと他人事ながら同情を示す。しかし躓いたと言ってもその足元は埃一つないし靴もきちんと磨かれている。まさかあれからずっと林の中を突っ立っていた訳ではないだろうが――と疑惑を抱いたところで、彼女は譜面通りに受け取りすぎの自分に赤面した。泣き過ぎて頭がろくに回っていないらしい。普通に考えれば挨拶をする人物と入れ違ったとか、そう言う意味合いのはずなのに。
「けれど、そんなに落ち込むことはないと思います。幸運の前に不幸が来るとも申しますし、あまり気にすることは……」
「ああ。俺もそう思う」
 彼女のしでかした勘違いを誤魔化すための言葉に、青年は生真面目にも深々と頷く。やはりいいひとではないかしらと、内心彼女は微かな笑みを浮かべる。気持ちが沈んでいたときに、そんなひとと出会えることは単純に嬉しかった。そんなふうに自分に接してくれる人物は、もういないと諦めていただけに。
「故にここで、その失態を取り戻さねばと思ってな」
「ここでって、……ここで?」
 周囲を見回し青年と彼女しかいないことを確認してから訊ねた彼女に、彼は薄い笑みを浮かべる。そんな印象はない皮肉めいたものなのに、何故か口元が輝いて見え彼女は違和感を抱いた。と言うか今更ながら彼の黒髪から突き出た耳の先が、奇妙なほどに尖っているのだがこれは一体――。
「……なに、簡単なこと。貴様の喉に喰らいつき、その鮮血を一滴残さず吸い尽くしてやれば良い!」
 哄笑した青年の犬歯が剥き出しになって、その鋭く尖った牙の先が血濡れの剣先よりも獰猛に輝く。途端、明るい日差しの中にあっても拭いきれないほど濃厚に彼を包んでいた翳りが、明確な夜の気配として彼女の肌と頭に伝わり彼の正体を言葉よりもはっきりと知らしめる。
 不死者の王、蝙蝠を従え霧に姿を変じ棺で眠る、人の血を糧として生きる人ならぬ怪物。それら恐るべき厭うべき存在の名を人々はこう呼ぶ。
「あなた、もしかして……吸血鬼、さん……!?」
 生まれて初めて見た化生に、彼女は心底驚いた。
 吸血鬼狩りが最近活発になっているとは知っていたが、まさか本当に実在するとは。人々は理解できない人物を魔女と呼び、目に見えぬものを擬人化して人外として扱っている程度の認識でいた彼女にとってはまさしく寝耳に水なのだが、その反応は青年よろしく吸血鬼にとっては芳しくようだ。ぎらつかせていた牙の輝きが消え、陰湿な雰囲気の人間程度の不気味さに戻ると眉間に深い皺が刻まれる。
「…………さん?」
「人の姿なんですのね……昔聞いた怖い話では、ヒルみたいな血の塊と聞いたのに。会話もできるし、昼間も普通に歩けるし……けど沢山の蝙蝠があんなに喜んでいたもの、こんな唐突に現れたのも、そう、ですわよね」
 聞いていた情報と違いが多々あるが、血を吸うと牙を見せて高らかに宣言したためこの青年が本物の吸血鬼と見て間違いなかろうと彼女は一度大きく感嘆の息を吐いた。
 悲しみに沈むひとの頭から手っ取り早く悲哀を忘れさせる強い感情は、笑いでもなく怒りでもなく驚きである。その法則はご多分にも漏れず彼女にも適応し、自己嫌悪に濁っていた胸が途端に高鳴り、手が震えて我知らず両手を握り締める。恐怖ではなく、未知のものに対する緊張や好奇心が全身を貫いたために。
「わたくし、初めて拝見しました! ここは久し振りだと仰っていましたけれど、いつ以来なのですか? やはり十年や二十年で利かず、百年二百年くらい前になるのでしょうか? そんなに長く生きていらっしゃるようには見えませんのに!」
「…………」
 眉間に皺を寄せたままの吸血鬼の咎めるような視線にあてられて、ようよう彼女は我に返る。先程から彼には醜態ばかり晒している気がして、申し訳ない気持ちが湧き上がった。
「ご、ごめんなさい、無闇にはしゃいでしまって……」
「全くだ。獲物にここまで訊ねられるとは、いかな俺でも記憶にない」
 獲物、と聞いて彼女はようやくいつもの自分に戻る。先程の言葉の意味を吸血鬼の立場になって解釈すれば、彼女がつっけんどんに扱ってしまったせいで気がそがれ、この界隈での狩りの出鼻を挫かれたと受け止めるべきだろう。自分が最初の獲物として選ばれていたと知り、彼女はこれを好機と受け取るべきか否かで暫く迷う。
「……あなたが唯一口にするのは血、なのですよね。家畜による代用は無理で、わたくしたち人間の」
「無論。今更血を吸われることに怖気付いたか?」
 牙を見せ獣めいた笑みを浮かべる吸血鬼の言葉が引き鉄となり、彼女の中であっさりと結論が出た。静かに首を横に振ると、彼女はごく自然と心の底から浮かんだ言葉をそのまま放つ。
「いいえ、意思の疎通ができる人間の血を吸わないと生きられないなんて、吸血鬼さんは可哀想だと思いまして」
「なに?」
 吸血鬼の眉が歪む。初めてそんなことを言われたのか、微かに血色の目も細くなる。
 しかし彼女は自然とそんな感想を抱いた。人間が畜生を食す際、わざわざどんな姿のどんな愛くるしく温かい生き物であったかを考えようとはしない。でなければその味を楽しむのも、食すことそのものも後ろめたくなる。その上でもし自分がその家畜の肉しか食せないなら、その家畜が喋ったりしたら、あまつさえ親しくなれるほどの知性を持っていたならば――考えただけでも彼女の胸の奥は重くなった。
 生きると言うことは何かを犠牲にしてでも自分の生命を維持しようとする事柄だが、吸血なる行為は特にそれを痛感するのだろう。眼前の吸血鬼の、知性的なのにとにかく人を脅そうとするその姿勢は、獲物を相手に親しむまいとする気持ちが働いているのではと彼女は想像する。それは生き物として間違ってはいないだろう。いないがやはり、彼女にとっては悲しい。
「けれど、飢えの苦しみはわたくしも知っています。わたくしの血を吸うと言うのでしたら、どうぞ吸ってくださいな」
「………………」
 吸血鬼が一晩吸血をしなかっただけで、どれほど飢えるものか知らない。それでも彼女はこの青年が無駄に獰猛である理由の一つが、飢餓感にあると判断した。のだが、どうにも彼は怪訝な顔をして固まっており、警戒の色濃い視線を向けられて、冗談の一つ二つは飛ばさねばならないのかと彼女は苦笑を浮かべる。
「自分で言うのも何ですが……見た目はそこそこ可愛いし、処女だし、血の味は悪くないと思いますよ?」
「……そんなものは関係ない」
 やはりそうだったのか、と彼女は小さく息を漏らした。吸血鬼が人を襲って血を吸うとは昔話にも聞いたが、処女を好むだのなんだのは今回の吸血鬼狩りが始まって以降初めて知った。だからまあ、彼らをより悪者にするための情報操作か、非力な女子どもを悪手から守る英雄として見られたい男たちの願望がことの真相なのだろう。
 吸血鬼は彼女の冗談で硬直が解け、冷静になる余裕ができたか。驚き見開かれていた目を細め、彼女の奥底を探ろうとする。そんなことをしなくても、彼女は心を偽る気はないが。
「貴様は何を企んでいる。目的を教えろ」
「企んでいるなんて人聞きの悪い。ただ約束してほしいのです。わたくしを最後に、他の人の血は吸わないと」
 勿論、悪魔が人間との約束を守るかどうかなんて彼女は知らない。そもそも約束と表現はしたが、これは一方的な要求でしかないのだから無視されることは重々承知の上だ。それこそ吸血鬼がこの願いを一蹴する展開さえ想定しながら静かに覚悟を決める彼女の肌に、しかしいくら待てども牙や白手袋に包まれた指が触れる気配はやって来ない。
 疑念を抱いた彼女がまた目を開けると、そこには再会した当初よりも明らかに苛立っている吸血鬼の姿があった。整っているが陰の消えないそのかんばせは、意外にも表情豊かであるらしい。夜闇と同じか、と彼女は悟った。
「貴様……、自分の命の心配はしないのか。悪魔たる俺を恐れぬとは、一体何者だ?」
「わたくしは、ただの一般市民ですわ。職業は看護師をしています。一応、身体は清潔にしているつもりですのよ?」
 胸を張って自己紹介をする彼女を、やはり吸血鬼はどこまでも疑わしげな赤い瞳で見つめる。確かに修道女の格好に似ているし、教会で医術を学んだから、悪魔払いの技術を持っていると思われているのか。だが現実は、彼女には抗う術など何もないし、そも抵抗しようと思わない。こんな環境ではいつ死んでも仕方ないから常にその手の心構えはできていた。私財は隠していないから遺品をまとめた際にすぐ気付かれるはず。診療所は暫く持つだろう。死ななければ貧血程度で済むだろうし、時間が経てば血の量も回復するからこの吸血鬼の飢えもまた凌げることになる。すべては彼次第だが、彼女にとってはどちらであっても最悪な結果には転ばない。
「ですから、さあどうぞ。わたくしの血を吸ってくださいな」
 吸血鬼のほうへと自ら足を踏み出す彼女の一体何が気に食わないのか。吸血鬼はますます苦み走った顔で軽く俯くと、決まり悪げに呟いた。
「っ、……悪魔を恐れぬ人間から血を吸うなど、俺のプライドが許さん」
「……プライド?」
 彼女は顔には出さないものの、心の底から納得すると共に驚いた。確かにこの吸血鬼は誇り高い、頑固と言うか意固地な性格をしていそうだ。誇りなんてものをさして意識せず生きてきた彼女にとっては青天の霹靂だったが、それは彼にとって一晩の空腹に耐えれるほどのものなのか。人の血を吸う絶好の機会をかなぐり捨てるだけの、価値があるのか。
「そんなに……怖がらせることが、大切なんですの?」
「悪魔とは欲深き人間どもに恐怖を与え、秩序を与える闇の死者。貴様の美醜になど興味がないが、その余裕面は気に食わん」
 そうだったのかと感心する彼女だが、今更頑張って怖がる演技をしようとは思わなかった。大体そんなことをしたって今からではあからさまに不自然だ。吸血鬼は納得しないだろうし、馬鹿にしているのかと怒る可能性さえある。
 それならば、あえて怒らせて問答無用で血を吸わせるのはどうだろう、いやしかしそんなことをするのは初対面の吸血鬼相手とは言え肩入れしすぎていないだろうかなんて考えている彼女にまったく気付いていないらしい。吸血鬼は何か思い立った顔で、昂然と告げる。
「……よし、ならば貴様を恐怖のどん底に陥れてから、血を吸ってやろうではないか!」
 どこか芝居がかった響きの声高らかな宣言を受け、挑発するかどうかでかなり迷っていた彼女は弾かれたように顔を上げる。次に、自分の意思など見事に無視されていると察して少し腹立たしくなった。どうやらこの青年、見目に反して子どもっぽい、独りよがりな部分がある。それともこれが普通の悪魔なのか。
 だがここで彼女が嫌だと口答えしては交渉決裂、自ら好機を手放すこととなろう。自分の反応が無視されたことは一旦放っておくと彼女は瞬時に頭を巡らせて、先程は綺麗に無視された代案を出してみせる。
「では、約束です。わたくしを怖がらせるまで、誰の血も吸わないでくださいな」
 今度の提案は吸血鬼の耳にもしっかり届いたか。それとも彼が興味を抱く取引であったのか。むっつりと噤まれていた口元に、初めて物騒なものを含まぬ淡い笑みが乗る。
「さっきから悪魔を相手に約束と約束と……。はん、面白い女だ」
「面白い、ですか……?」
 生まれて初めて投げかけられた言葉にきょとんと目を瞬いた彼女に、当然だろうと吸血鬼はまたも笑う。案外に人好きする印象だと、彼女の頭の隅が含み笑いで指摘した。
「無力で無知な人間の女が、この俺に約束なんぞ申し出るとは誰が思うか。よかろう、約束してやるとも! 貴様を恐怖に陥れるなど容易きことだからな!」
 大げさなくらい盛り上がった調子で言い放たれてしまい、彼女も吸血鬼が浮かべていた自信たっぷりの笑みが感染したのか。理由もなく満たされた心持ちになって、自然と片目を瞑り喉の奥で笑う。
「ふふっ、なんぞと言っても約束は約束ですからね? 言っておきますけど、わたくしを怖がらせるのはとっても難しいですわよ?」
「それがどうした。人の身で耐えられる恐怖など、たかだか知れている」
 人を舐めきった態度に、この調子では自分の逃げ切り勝利に終わるだろうと確信した彼女ではあるが、吸血鬼との約束になんの障害もない、訳はない。彼との再会で吹き飛んでしまったけれど、それでも今朝は身近にいた人一人を弔ったことを思い出し、思わず浮かべていた笑みを控えめなものにする。不謹慎だった。事情を知らない青年に罪はないが、さっきまでの流されて浮かれていた自分を強く戒める。
「それに、この戦乱の世の中ですもの。……怖がらせる前に、わたくしが死なないよう祈っていてくださいな」
「悪魔は祈りなど捧げぬ」
 彼女の内面など知る由もなく言い放つ吸血鬼だが、気持ちは少しは落ち着いたのか。廃墟となった教会をちらと視界に納めると、また彼女に首を戻して短く顎を引いた。
「……だが、約束を果たす前にお前に死なれるのは確かに困るな。よかろう、約束を果たすまではお前が死なぬよう見張ってやる」
「あら、構わないんですか?」
 彼女にとってはそれは見守られることになるのだが、悪魔は人を守ってもいいものなのだろうかと疑問を抱く。そんな彼女の問いに、ややも呆れた顔で吸血鬼は嘆息した。
「貴様を怖がらせるまで人の血が吸えぬのならば、どこにいようと意味はあるまい。だが俺が貴様を見張っていれば、貴様は死なず俺は貴様を怖がらせる機会を得る。どちらが有利かは自ずと判ろう」
 成る程と手を打つ彼女に、吸血鬼はふんと鼻で笑う。先程から明らかに機嫌が良くなっているが、彼はそれだけ退屈だったのか。単純に負けず嫌いなのか。後者の可能性が高かろう、と思いかけたところで彼女は緩みかけた口元を慌てて引き締める。
「けれど、なんだか悪い気もします。あなたはすごい悪魔さんなのでしょう?」
「その通りだが、安心しろ。約束はすぐに果たされる。お前の血を頂くまでに三日とかからんだろうからな」
「……さあ、それは、どうかしら」
 肩を竦めた彼女の口元は、先程自分を強く戒めたはずなのに奇妙なくらいくすぐったい。理由は彼女の胸どころか、頭でさえもごく簡単に導き出す。
 この吸血鬼を、彼女は好ましく思っていた。町の人々のように疎まない、診療所の患者のように自分の顔色を伺ったりしない。この短時間で表情を鮮やかに変え、感情を隠しもしない悪魔の言動一つ一つが、彼女の全身に新鮮なものを運んでくる。死に絶えたはずの軽やかな息吹を与えてくれる。吸血鬼とその獲物の関係なのに、立場は対等であるようなのが奇妙に彼女にとっては珍しくて、嬉しくて、ああ何よりも楽しくて。
 だから彼女はつい、戒める気持ちさえ忘れ、満面の笑みを浮かべて名乗った。
「自己紹介が遅れました。わたくしはアルティナと申します。吸血鬼さん、あなたのお名前は?」
「――ヴァルバトーゼ。魔界において『暴君』と呼ばれる俺に狙われたこと、泣いて後悔するがよい」
 なんの後悔していません、むしろ神に感謝したいくらいですと。彼女は微笑を浮かべて声ならぬ声で囁いた。
関連記事
スポンサーサイト
[↑]
Copyright (c) 掃き溜め All Rights Reserved.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。