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2011/07/06

 大統領府の頂点にそびえる大時計の短針と長針が、ついに重なり日を跨ぐ。その古い、幾千もの歴史を積んで奏でてきた鐘の音になんの感慨を受けてかふと聴き入ってしまっていた一行は、それが五回目にも突入した辺りで誰からともなくほうと肩の力を抜いた。
 全員で大人しく鐘の音なんぞに聴き入ることが珍しいし、らしくないと意識したからか。このまま何も言わずに自分達に振り当てられた部屋まで戻るつもりだったフーカは、タイツであった物体を別の手に持ち替えながら舌を動かす。
「えっと、なんだっけ。地球って言うかアタシのいた国ではさ、年越す前に百十回くらいこんな鐘の音が聞こえてくるのよね」
「おねえさま、除夜の鐘は百八回デス。煩悩の数で、それらを一つずつ打ち消していくことで新年を迎えるときには清らかな気持ちになると言われていますデス」
 だからなんだと言われそうではあったが、それでもこの場に適した話題の持ってきたはずのフーカに、いつも以上の低空飛行でいたデスコが明確なフォローをする。しかしある程度もの知らずの自覚がある少女は、妹の補足に苦しゅうないとふざけて頭を撫でる程度の余裕はあった。
「へぇー……。けどフーカの煩悩じゃ百八個で足りないだろ」
 失礼なことを言われたフーカだが、サスペンダーで浮き彫りになったシャツを黒く汚したエミーゼルの言葉に怒るどころか鼻で笑い、デスコの頭に触れていたのとは別の人差し指を突き立ててそれをちっちと横に振る。
「アタシのは煩悩じゃなくて野望よ。ついでに夢はでっかく世界規模なんだから、片手で数えても足りるくらいだし」
「お前のその野望とやらが煩悩まみれなら意味もないだろうが」
 上着を汚してしまったため、ベスト姿で肩を竦めて辛辣に指摘するフェンリッヒに、今度はどうにも琴線に触れるものがあったのか。単純に煽られることへの耐性がすぐに限度を迎えた可能性も高く、茶色のツインテールが翻り怒りの視線を投げかける。
「フェンリっちの野望もどうせおんなじでしょ! 閣下のためとか言いながら実質自分とヴァルっちだけのためのパラダイス造りとか、ぶっちゃけ退くわよ!?」
「だっ、誰がいつそんなことを言った! オレは閣下にこの世界の頂点に立っていただきたいだけであって……!」
 何故か動揺を示す人狼と、それをからかう少女のやり取りに、アルティナは薄らと笑みを目元に刻む。彼女の脳裏には、本当に機材を持ち帰ったアクターレの突発ライブに彼らが襲撃したことを切欠に始まった大乱闘の最中の、近接攻撃手のふたりのいつも通り八面六臂の活躍が鮮やかに思い描かれていた。ちなみにその大乱闘は彼らが退出するつい三十分前まで続けられていたのだから、別魔界も含め悪魔とは概ね血気盛んな種族なのだと一行は心底思い知らされたものだ。
「あれだけ暴れ回っていらっしゃったのに、お二人とも随分と元気ですこと」
 戦線に特攻する戦い方ではないため幸いにして目立った損傷がなったアルティナの隣では、こちらも傷も汚れも一つないがそれは明確な強さあってこそのヴァルバトーゼが戦場では見せない穏やかさで瞼を伏せて彼らを気遣う。
「しかし最後まで居残る訳ではないのだ。あいつらももう疲れたのだろう」
「ふぁい……デスコももう限界デス……」
 ドレスの刺繍とよく似た染みをつけているため衣服の汚れが目立たず、乱闘が収束するまでラスボスを目指すに恥じない働きを見せたデスコの大欠伸に感染したか。それを眺めていたエミーゼルもまた欠伸がこみ上げるもこちらはどうにか噛み殺し、続いて大きく背伸びをする。
「ボクも疲れた……! ああもう、まさかこれで終わるだろってときにあんな大技ぶちかますなんて……どこの誰だよって話だし。……本気で死にかけたぞ」
 そんな局面でもどうにか今はシャツを煤だらけにする程度で生き残った少年に、ああとヴァルバトーゼは高い声を漏らして、心当たりのある悪魔の特徴を述べた。実際にはホールの熱が引く二時間ほど前、流れで彼らと戦っていた悪魔たちの攻撃が一旦衰えたのだが、浮ついた空気を裂くようにして新手が現れたのだ。その新手の挨拶代わりの一撃は実に効果的で、彼らは一挙に後手へと追い込まれた。勿論、今の彼らは五体満足でいるのだから、その危機はどうにか退けられた訳だが記憶のほうには色濃く残る。
 その悪魔について外見と名前を記憶の中で一致させたエミーゼルは、あのひとは温厚で紳士的だと思ったのにと落胆するも、騙されるほうが悪い魔界において同情の空気はごく薄い。だがフェンリッヒもその悪魔には痛い目に遭わされた思い出があるため苦い顔で直接手を下したかったと吐き捨てて、そんな人狼にアルティナは珍しく彼のほうから支援を求めていた理由にようやく合点がいったと手を叩いた。
 以降についてのやり取りは普段通り。誰それが手強かっただのあそこであんな真似をしたのは誰だだの。効率的な戦法を好むものから猪突猛進型までいる面々では、毎度のことながら戦いが終わったあとの感想を話す場を設けると――つまりそれは反省会とも言える――収拾がつかなくなる。意見を合わせないしお互いろくに褒めやしないものの、それでも今まで彼らは数々の勝利を収めどうにか生き抜いてきた事実によって深まる関係を築いている。だからこのときも概ねそんな具合で、険悪なようで円満なような、じゃれているようで殺伐としているような相反する雰囲気に浸りながら、それぞれ好き勝手に言い合っていた。
 そんな中で、本人としては別段収集をつける気もなかったのだろう。しかし一際高い声で宣言したフーカの笑顔に、話題が緩やかな変化を遂げた。
「けどま、良かったわよね!」
 デスコがいつも通り一も二もなくこくこくと頷いて、エミーゼルは勢いに引きずられるよう思わず同意を示す。フェンリッヒは肩を軽く竦めて返事を濁すが否定の声はなく、アルティナがはいと笑って、ヴァルバトーゼも薄く笑いつつ顎に手をやる。
「ああも多数を相手に戦うのは実に久しい経験だった。しかも敵も味方も大きな目印がない故に、巻き込みはなるべく避ける方針のため不意の攻撃もできんと言うのはなかなか……」
「違うわよヴァルっち! そっちじゃなくてこのパーティー自体のことを言ってるの!」
 指摘を受け、ヴァルバトーゼは目を丸くする。本気で乱闘しか頭になかったと見て呆れたフーカは、彼のほうへと回り込むと肘で相手の腕を小突いて盛大にからかった。
「アルティナちゃんとデートできた感想聞かせなさいよ~。いやまあキスは予想外の邪魔入ったけどさあ、そんでもやっぱり良かったんでしょ~?」
「なっ、何を急に……!?」
「ふ、フーカさんっっ! そう言うフーカさんは、結局王子様は見つかったんですか!?」
 声を裏返らせるふたりの、まだその手の話題には頭を回す余裕があるアルティナが慌てて少女に訊ねると、そこはフーカにとって触れられたくない部分だったらしい。ううと小さく呻くとプリニーの帽子を脱いで、苦々しげに呟いた。
「それがいなかったのよね~。まあ正確には見つける暇なかったって言うか。デスコとはぐれてそれどころじゃなくってさー」
 話題をそらす目的以外にも多少は甘酸っぱいロマンスの片鱗を期待していた節があるのか。残念そうにそうでしたのと声を落とすアルティナに、そうなのよとフーカはしみじみ帽子を弄ぶ。
「ま、乙女チックとは程遠かったけど、人生初のパーティーにしては上出来ってくらい色々面白かったから、そのくらいはいいかな。みんなとも踊れたし……」
「ボクはお前に投げ飛ばされたけどな」
「オレはひたすら足を踏まれた」
 吸血鬼以外の男性陣の補足説明に、全容を聞かされていなかったヴァルバトーゼとアルティナが信じられないものを見る目をフーカに向ける。特に吸血鬼は祝宴の最中に行われた彼女の破天荒な振る舞いを全く知らずにいたため、足を止めて身構えるほどだった。
 当然、妹さえも似たような反応だったのを思い出し、フォローする者もなく自分の株が猛烈な勢いで下がっていると知らされたフーカは、両手と首を振って誤解を解こうと試みる。
「いやいやいや! エミーゼルのは事故よ事故! ……けど、あれね、謝ってなかったのは悪いわよね。ほんとごめん!」
「軽っ!? つか謝るの今更かよ!?」
 遅すぎると容赦なく且つ真っ当にエミーゼルは指摘するが、フーカはあまり反省の色も見せずに口先を尖らせる。まあ少年だってアルティナにすぐに回復魔法をかけて貰えたし、そのあとこの少女が足の痺れが残るほど長期間正座をさせられたと知っているからこそその程度の反応で済ませられるのだが。
「あんたも全然その話持ち出さなかったでしょ……。あとフェンリっちのほうは、まぁ、えぇーっと、その……相討ち?」
 討ってない、とフェンリッヒが無言で頭を振る姿を見届けると、暫く五人はフーカが何を言いたかったのかを推理する時間を設ける。誰もそんなことは言ってないし望んでいないのだが、今の会話の流れの中で自然とそうなってしまったため。
 協議の末、痛み分けが最もフーカの言いたいことに近いのではとの結論を導き出して満足する五人に、雰囲気的にそうなのだろうと受け止めるくらいに少女は空気を呼んだ。
「うん、それだからさ。アタシは謝らないしフェンリっちにも謝ってもらわなくていいかな」
「当然だ。誰が貴様なんぞに謝るものか」
 彼女としては海よりも広い寛容な態度を取ってみたと言うのにつれない反応をされてしまい、フーカは軽く頬を膨らませる。しかし今は全身が乳酸で凝り固まったような疲れが巡っているため、肩の関節を解して回す程度で胸に込み上げる怒りを受け流す。
「あとは、もう一週間くらいはいいかなってくらいスイーツ食べれたし。……あと映画みたいなラブシーンも見たし~」
 最後の一言でまた話題を戻されるかと慌てた男女の姿を見ていなかったらしい。姉とは対照的な薄暗い様子で、デスコがぽつりと呟いた。
「けどおねえさま、寝そうだったデスコ放置したデスよね……」
 デスコ本人にそれを指摘されてしまうと、さすがのフーカも気まずさを覚える。勢い任せだからその通りに違いないが、そればかりはあっさり認めて謝り難く、彼女はそっぽを向いて言い訳を口にした。
「せ、戦略的判断とかそう言うやつよ、あれは! まさかフェンリっちが自発的にデスコに肩車するとか思わなくって……!」
「ぐ……っっ!」
 フーカの話題だったのに急に巻き込まれたフェンリッヒは毛を逆立てるが、それでも彼もまた疲労を感じていたため人間の少女を視線のみで脅す。しかしその視線に気付きもしないヴァルバトーゼは、感慨深げに執事を見やりその話題に食いついた。
「ほう。フェンリッヒがかような真似をするとは……お前もついに、こいつらに心を開いてきたと言うことか」
「ご、誤解ですヴァル様! あれは止むに止まれず、その場で最善の選択を取ったまでのこと!」
 言い繕うフェンリッヒの発言を受け、ならばと素朴な疑問が湧きあがったエミーゼルが不思議そうな目をしているデスコへ落ち着いて訊ねる。
「けど、ボクらとまた会ってからお前らずっとあのままだったよな。あれはなんかそれっぽい事情があったのか?」
 自分にではなく肩に乗せていたデスコのほうに訊ねられ、更に動揺を示すフェンリッヒだが、その話を遮ろうと舌を動かすには少しタイミングが遅かった。悪魔の少女はさして思考に間をあてることもなくあっさり答えてしまったのだ。
「特に理由はなかったデスよ? フェンリっちさんに降りろって言わなかったから、デスコはずっとフェンリっちさんの肩の上に座ってたデス」
「うわあ。なんかもうそれはアレね。馴染んでるってレベルじゃないわね……」
 普段のように茶化すのではなく、趣向を変えてフーカは腕を組みしみじみフェンリッヒに生温い視線を送る。普段以上に神経を逆撫でされた気分の人狼は、それは止めろと牙を剥くが当然それで大人しくなるような少女ではないし、外野もまた同様にちゃっかりしている。睨まれていない天使がまず口元を押さえながらも忍び笑いを漏らすと、吸血鬼もまた廊下に響く声で喉の奥を震わせた。
「いいことではないか、フェンリッヒ。お前が俺のように仲間を信じると言うのなら、主たる俺もまた嬉しく思うぞ」
「……再三申し上げております通り、わたくしが信じるのはヴァル様のみでございます。こいつらは体のいい駒、利用価値がなくなれば切り捨てるものでしかありません」
 酷い物言いをされてしまっても、フェンリッヒの表情は奥底の感情を意識して作ったような、わざとらしい苦々しさに満ち溢れていたためか。発言を受けて主従から一端距離を置いてやった女子どもの四人はさして憤慨することもなく、それどころかああはいはいと適当に受け流して人狼の神経を更に煽り立てる。
「フェンリっちってほんとデレないって言うか、デレた自分を認めようとしないわよねー」
「ツンデレがアイデンティティの方ですもの、仕方ありませんわ」
「デレてしまった過去はもう否定しようがないんデスけどねえ……」
「ま、そう言う奴だってわかって付き合ってやるのが仲間ってもんだろ。ヴァルバトーゼ以外にデレてるフェンリッヒとか、誰か想像できるか?」
 エミーゼルの問いかけに、女性陣が歩行も含めてぴたりと動きを止める。そうして三人は各々先ほどとは打って変わった深刻な表情で、絶賛放電中かと思うほど毛を逆立てててこちらを睨みつけるフェンリッヒからようやっと視線をそらすも、その動作にしおらしさなど一片たりとも見えやしない。
「……なんか急に寒気が走ったわ。どうしてかなー、アタシ今まで普通だったのになー」
「そ、想像しようとしたのに頭がそれを拒否したデス! これはラスボス改心コースよりも高難易度デス……!」
「もしそんなことが起これば、それは世界の終焉の始まりかもしれませんわね……」
「世界ではなくお前らを終わらせてやるぞ、今ここで!!」
 ついに堪忍袋の尾を切らし牙と爪を容赦なくぎらつかせて咆哮したフェンリッヒの銀髪を、彼の主が嘆息とともに軽く白手袋で触れて理性を取り戻させようとする。
「この程度で本気になるな、フェンリッヒ。それとお前も余計なことは言うな、小僧」
「え……フェンリッヒがキレたのボクのせいか?」
 人狼から距離を置いて、それでもふたりからの距離を取り戻すため歩き始める不満げな顔の少年の視線に、吸血鬼はさも当然と言いたげに振り向き頷いてみせた。
「お前は此度の祝宴の開催に深く携わったと聞いているぞ。今まで見事な采配を振るっていたのだ。仲間内とは言え、最後の最後まで荒波を立てぬよう振る舞わなければ画竜点睛を欠くことになろう」
「いやいや、もうそれどころじゃない大惨事が起こっただろ」
 エミーゼルはひらひら手を振り否定するが、賓客たちは皆理解した上で乱闘に加わっていたのだろう。ホールの床や壁の被害総額は罪務大臣でなくても頭が痛くなるほどだったし負傷者は山のようにいたが、手足がもげて返ってこない見つからないだの死者だのは一人もおらず、穏やかに遺恨なく閉会できる程度の被害に収まっていた。
「あと部屋に戻るまででまた一悶着起こされるのは嫌だけどさ、それだって別にホストとしてとかじゃないし……」
 別に彼らに隠すつもりはなかったが、それでも主催者に程近い位置にいた自分に居心地が悪くなって言い返すエミーゼルに、フーカはしかしてさらりと笑った。
「なに後ろめたそうにしてんのよ。アクターレのことはともかく、今日のためにあんたが色々頑張ったのはもうみんなわかってるっての」
 ドレスの発注先の手配から、今夜はデザートビュッフェのわがまままで数多く自分の願いを叶えてもらっているフーカが少年の尽力を認めると、普段は意地悪なことを言いがちなデスコも大恩があるためかこのときばかりは素直に同意する。
「おねえさまとはぐれたデスコを見つけてくれたの、エミーゼルさんデスしね。あのときは本当にありがとうございましたデスよ~」
「いや、……別に、そんなこと……」
 姉妹に感謝の言葉を投げかけられ、こそばゆい思いが胸に詰まって舌をもつれさせる少年の頭上から、多少は落ち着いたようだ。怒りを無理くり抑えたためか、今は随分と疲れた様子を隠しもしないフェンリッヒの吐息が降り落ちる。
「阿呆どもの評価はともかくとして、今日のお前に大きな落ち度はなかった。それに何より、閣下にお褒めいただいたのだ。光栄に受け止めろよ、小僧」
 姉妹ほどくすぐったい表現ではないにせよ、自分の仕事を人狼にでさえ評価されたのはまだいい。それよりもそんなことはないと逃げ場を封じられたほうが、エミーゼルの舌と思考をますます錆びつかせた。
 普段は好き勝手に振る舞って、ろくに自分の気苦労を慮ろうとしないくせにこんなところで自分を真っ向評価するなんて。気恥ずかしさも相まって卑怯な連中だと腹立たしくなった死神の少年の耳を、天使の笑い声がふわと撫でる。
「フェンリッヒさんはほんとうに、ヴァルバトーゼさん以外の方は素直に褒めもできませんのね」
「正当な評価を下したと言え。それと閣下のお褒めの言葉を拒否するなと事前に注意したまでだ」
 アルティナのからかいにフェンリッヒが力強く抗議するも、彼女ははいはいと適当な相槌で受け流してから少年の前へと滑り込んで軽く膝を折る。
「わたくしからも感謝させてくださいな、エミーゼルさん。本日はとても有意義なひとときを過ごさせていただきましたわ。ありがとうございます」
 真正面から拒否をするには難しい言葉を投げかけられ、とうとう、ついにエミーゼルは降参した。歩みを止め、頬がほのかに赤く染まっている自覚を持ちながら、それでも俯くことなく逆に胸を反らして無遠慮に反応の催促をする五人へ告げる。
「ああはいはい、どう致しましてこちらこそだもうっっ! ……お、お前らあれか、オレ様を褒め殺してどうにかしたいのか!?」
 自棄気味に言い放つも、同じく立ち止まってなんとはなしに少年を囲む五人は余裕綽々彼の様子を眺めるばかり。姉妹もにやにやと意地悪く笑っていたが、それにも増して今のエミーゼルには天使の駒鳥のように首を傾げる仕草が嫌な予感を強く誘った。
「はて。どうにか、とは具体的にどう言ったことでしょう?」
「い、いちいち揚げ足取ろうとするなよアルティナ! ドレスに着替えたことあんまり突っ込まないでいてやったのに、恩を徒で返す気か!?」
 そこは剥き出しではあるものの彼女にとってあまり触れてほしくない部分だったようだ。桃色の髪を裂いて輝く羽を軋ませるほどの動揺を見せるアルティナに、フーカもにやりと金糸雀を見つけた猫の笑みを向ける。
「やっぱそっちに着替えたのよね~アルティナちゃん。ドレスは破れたときの予備でしかありませんとか言ってたのに、どうしてかな~?」
「それは、その……! フェンリッヒさんとお話し中に……」
 自分との会話が切欠とはとんと気付かなかったフェンリッヒは、歩き始めつつ周囲の詳細を希望する視線に本人も理解していない顔でもってさらりと応える。
「なんの話だ。もしやオレがお前に約束の『女』だと言ったことを改めて意識した結果がそれなら、お前もまたオレの中で阿呆の烙印を遠慮なく押すが」
「……今までそうではなかったことは少しだけありがたく思いましょう。ですけれどそうではなくて、その……!」
 珍しく言い淀むアルティナと怪訝な顔をするフェンリッヒの図解に何を思ったか。鮮やかに姉妹が顔を寄せ合い、それぞれ頭に過ぎったらしい物騒な発想について囁きあう。
「え……何これ、本物の三角関係フラグ? アルティナちゃんいつの間にかフェンリっち名前で呼んでるし」
「だとするとガチで泥沼デスねおねえさま……!」
 しかしその妄言はしっかり他の面々に聞こえているため、怖気を震う人狼や視線を泳がせる吸血鬼はともかく、特に誤解を受けた天使は彼女にしては実に珍しく、こめかみを震わせてふたりにそれはそれは美しい笑顔を向けた。
「あらあら。お二人ともそんな発想をなさる余裕がおありなら、これから頭に乗せた缶を落とさないよう小銭一万ヘルを等間隔に並べる修行に取りかかっても構いませんのね?」
 どんな脅し文句だと男性陣は思う訳だが、それは姉妹に絶大な効果を発揮した。基本的に人狼がどれだけ脅したってそんな真似はしないくせに、今のふたりは一気に血を抜いたかと思うほどに顔色を白くして、ひしとアルティナにしがみつき許しを乞う。
「勘弁してアルティナちゃんっ、アレほんときつかったから……!」
「嫌デス……! 缶が床に転がり落ちる音はもう聞きたくないデス……!」
 必死なふたりの懇願にこちらもやはり三人に微妙な視線で詳細を求められたアルティナは、なんともない顔で肩を竦めて軽く説明する。
「踊りの基本姿勢を染み込ませるための修行ですわ。大したことはしていないと思うのですけど……」
「いやいやいや、達成するまで休みなし徹夜コースとかあり得ないから! 正直どれだけ失敗したってアルティナちゃんが一切怒らなかったのも含めてトラウマ入ってるんだからそれだけは止めて!」
 フーカの言葉の何がおかしかったのか。アルティナはころころと金の鈴を鳴らすように笑うと、穏やかな表情と軽やかな口調のまま指摘した。
「まあ、フーカさんたら。本当にトラウマがあるひとは簡単にあれこれがトラウマだ、なんて言いませんのよ?」
「わからなくはないですけどなんだかとっても重い発言デス、アルティナさん!」
 デスコの突っ込みもあっさり受け流すと、天使は自ら話題を戻す気になったらしい。姉妹の肩や頭に軽く手を添え、軽く身構えるふたりに対して安心と感謝を籠めた笑みを浮かべる。
「フェンリッヒさんとの会話だけではなくて、お二人にも色々感化されてしまいましてね。もうこれに着替えてしまえと思ったまでですわ」
「……ふぅん」
 軽く目を細めるフーカの表情は完全に納得してはいないが、一応引き下がる気にはなったようで。あとで詳しい話を聞こうかと企んでいそうな顔の隣のデスコが、こてんと首を傾げつつ引き離されそうな男性陣との距離を慌てて詰める。
「けど、ヴァルっちさんとは結局踊れてないデスよね? 構わないんデスか?」
「ええ、十分ですわ。……デスコさんが仰っていたように、二人きりでいる時間はありましたから」
 沢山のひとの中で自分だけと会話して息を合わせる短い時間を共有するよりも、自分たち以外言葉を交わす相手がいない庭園でのんびりとした時間を共有できたことが嬉しかったのだろう。まさしく輝かんばかりの笑顔を浮かべるアルティナに、少女は思わず納得させられた。
「なるほどデス。デスコもあそこではぐれなかったら、もうちょっとおねえさまと二人でいれたデスが……」
 今夜の反省点を述べてうなだれるデスコの頭を、しかしフーカはうりうりと片手で掴んで前へ押すように撫でる。悪魔の少女はそれだけで奇怪な悲鳴と呻きの中間くらいの声を漏らすも、相変わらず抵抗は一切見せずにされるがままとなった。
「なに言ってんの、十分じゃないのよ。大体あんただって、アルティナちゃんと踊ってアタシと踊ってスイーツ食べ放題して、……あと?」
「俺と会ったな。小娘にとってはどうでもいいかもしれんが、デスコのラスボスとしての意欲と意識の向上を改めて感じ取ったぞ」
 先んじていた師たるヴァルバトーゼが賞賛の言葉とともにデスコに薄らと笑いかけると、真正面から褒められた少女は弾かれたように顔を上げ、感動の面もちで吸血鬼を見て。
「次はボクだっけ? アルティナとのことがあんなに早くばれるなんて思わなかったけどさ、まあそれでも見つけられて良かったよ」
 エミーゼルもまた安心を滲ませた優しい表情で悪魔の少女に視線を寄越す。このときデスコは本当に、これからはあまり彼をからかったりしないようにすると心に強く言い聞かせた――とのちにフーカに語った。
「それはオレにとって僥倖だったがな。デスコはどこぞの馬鹿な小娘と違って暴れもせんし命令にも従順で素直な奴だ」
「皆さん……」
 じわりと涙腺を緩めるデスコの頭上で、フーカが澄ましてほかのふたりと同じように悪魔の少女への気持ちを告げたとでも言いたげな顔をしているフェンリッヒにがあっと抗議する。
「うらそこっっ! デスコを持ち上げる流れでアタシを貶さない!」
「オレはどこぞの馬鹿な小娘と言った。つまり阿呆な貴様のことは指していないはずだが?」
「似たようなもんじゃないそれ!」
 尤もな指摘だと対峙するふたり以外の面々が頭の中で思ったが、言葉に出すと巻き込まれそうな予感をひしひしと感じ取ったため無言を貫き通す。馬鹿にされた怒りは治まらないもののこれ以上のやり取りは脱線すると判断するだけの余裕があったフーカは、人狼を一度きつくねめつけてからデスコに話しかけた。
「とにかくさ、あんただってアタシほどじゃないにしろ、結構充実してたからいいじゃない。そりゃまあ、アタシのせいで寂しい思いさせちゃったのは悪いと思うけど……」
 殊勝にも口ごもるフーカに、仲間の一部が冷静に、または野次かと思わせるほど冷酷に彼女の言葉に同意を示す。
「確かにな。妹のデスコに寂しい思いをさせたのは姉たるお前の責任だ」
「責任感の薄いこいつには、その程度のお言葉ではなんの効果もないかと思われます閣下」
「お前、ペット飼ってもうっかり飢え死にさせたとかそんな経験ありそうだよな……」
「失礼ね! 金魚とザリガニを一緒の鉢に入れてから命の大切さとか責任感とかはしっかり学んでるわよ!」
 どんな惨事が待ち受けていたのか想像に容易い追憶を持ち出したフーカが言い返せば、そんな姉のどこが彼女の琴線に触れたのか。感涙で顔を崩しそうだったデスコがふふっと小さく高い声を漏らした。
「なによっ、あんたまで笑うとか生意……!」
「違うデスよ、おねえさま」
 絶対的な味方であり妹であるはずのデスコにさえ嘲笑われたのかと眉間に皺を寄せるフーカに、けれどその健気な妹は穏やかで、どことなく誇らしげな笑みを浮かべながら首を横に振る。
「デスコは幸せと思っただけデス。大切な大切なおねえさまがいて、デスコにラスボスのなんたるかを教えてくれるヴァルっちさんやお仲間のひとたちがいて、それでデスコはますますラスボスになれるくらい強くなっていって……」
 デスコは軽く目を見開いた姉を見上げ、尻尾で位置を調整するとその腕の中に改めて身を投げる。滑る触手がないためか、フーカはさしたる抵抗もなく小さな肩を軽く抱いた。
「地獄の牢屋に閉じ込められてずーっとラスボスのお勉強をしていたときよりも、一人でいることには弱くなっちゃったデスけど、それでもデスコは今、とっても幸せデス!」
 断言したデスコの笑顔とその気持ちに感じ入るものがあったのだろう。少女の声を聞いた全員の表情がどことなく柔らかさを帯び、その言葉に共感を覚えるような、噛みしめるような空気が六人を包む。ほかの五人はこの少女ほど素直ではないし、そんな言葉を公衆の面前で言えるほどの性格ではない。けれど彼らにとって、それぞれ似たような感情を抱いていると自覚させてくれるこの悪魔の少女の存在は、悪いものではなかった。
 そしてやはりそんな暖かい沈黙を打ち破ったのはデスコの姉にして一同の中のムードメーカーとも言えるフーカで。
「おーおー。なんかもうラスボスじゃなくて主役級のこと言っちゃってるわよ、あんた?」
「つ、つまりそれって勇者さんになるってことデスか!? それはちょっと、困るデスよ……!」
 照れを誤魔化すためおどけたフーカの発言に、馬鹿正直に衝撃を受けるデスコ。しかし戸惑う彼女の背へ、師たる吸血鬼が励ましの言葉を投げかける。
「だが、満足していない点は評価はしよう。いまだ修行の最中だと言うのに満足だのとのたまえば、向上心の大幅な欠如と見なしていたからな」
「それはないデス、ヴァルっちさん! デスコはおねえさまの世界征服を叶えるため、ラスボスになるのが目的なんデスから! 今はまだその野望に向けての準備段階でしかないのデス!」
 鼻息荒く意気込むデスコの姿を見て取り、ヴァルバトーゼはその意気だとばかりに喉の奥をくすぐらせる。そして妹に自分の野望を語られたフーカは、流れで閉会の挨拶のときの彼の言葉を思い出した。どうにも言い難い表情を作り、ちらりと隣の悪魔の青年に視線をやる。
「……で、結局ヴァルっちはあんなこと言っちゃったのよね」
「うん? ……ああ、今後のことか」
 なんともない顔でその視線を受けると、ヴァルバトーゼは自分の放った言葉に全くもって悔いはない、むしろ堂々とした笑みを口元に刻んで自信たっぷり胸を張ってみせた。心なし、いつもと違う外套の裾が嬉しそうにざわめく。
「あれが今の俺にとっては最善の選択と言えよう。我ながらよくぞ考えついたものだ」
「何が最善の選択だよ! あんなの無責任で、卑怯もいいとこじゃないか!」
 エミーゼルが眉間に皺を寄せて声高に批判するも、デスコは反対の印象を持ったらしい。そのときのことを思い出し、憧れの眼差しで吸血鬼を見つめる。
「あそこでああ言えるのは格好いいデスよ? ラスボスっぽいかはどうかはあんまり関係ないかもデスが、きちんと悪魔っぽいデス!」
 デスコの反応にそりゃあ悪魔だけどと死神の少年は口の中でなにやら反論したが、その声は力なく明確な言葉にもなりはしない。そんな彼と同じ気持ち、と言うほどではないにせよ自分の思う通りに行かなかったことは多少に不満があるらしい。フェンリッヒが昨今では珍しく、主の行動に対して重いため息を吐き出したのちに俯いた。
「……閣下があの場であのようなことを仰るとは。考えないこともありませんでしたが、まさかと不意を打たれた所存でございます」
 そんな態度を取られてもヴァルバトーゼは自らの選択に後ろ暗さなど感じやしない。だが別の感情は沸き上がったようで、鋭くも挑発めいた目付きで人狼に笑いかけた。
「ほう、どうしたフェンリッヒ? まさかとは思うが、お前はあの程度で俺に失望したとでも言うのか?」
「決して。閣下の御意志にわたくしが失望することなど未来永劫一切ありえません」
 毅然と言い放つ執事の自信と確信に満ち溢れた姿を目にし、ヴァルバトーゼは満足げに深々と頷く。
「それでこそ我が僕。今後何が起こるかはわからんのだ。お前の働きを期待しているぞ」
「ははっ。すべては我が主のために――」
 と、フェンリッヒのお定まりの言葉と仕草を邪魔せずに見守っていたフーカだが、それであっさり引き下がる気はないらしい。祝宴が始まる一ヶ月前から彼女が訊ね、踊ったときだって迷っていた素振りがあったのに今や誇らしげにあんな宣言をしたヴァルバトーゼの思考が理解できず、彼にしつこく食い下がる。
「ヴァルっちは満足してるっぽいのはいいんだけどさ、どうしてその結果があれなのよ。アルティナちゃんも気にならない?」
「あまり。わたくしは、ヴァルバトーゼさんの選択はどんなものであれ支持すると決めていますから」
 顔色一つ変えずに吸血鬼の行動を全肯定すると告げたアルティナに、おおうと姉妹が小さな歓声を漏らす。その後ろのヴァルバトーゼは、自分の心のうちをどうにか抑えたようなわざとらしいしかめ面を作って吐き捨てた。
「……天使が簡単に悪魔の言動を支持するな。この考えなしが」
「まったまた~、照れちゃってさ。……けど、ほんとにそう思ってる?」
 吸血鬼を茶化しながらもアルティナに再度訊ねたフーカの目は、からかい目的だけではなく単純な心配も垣間見える。それが天使である女に対する立場を考えた上の気遣いか、いくら大切なひとだからって全肯定とは危うすぎやしないかと思っているのかは彼女にはわからない。けれどそれでもヴァルバトーゼと約束を交わした元人間の女は、あっさり笑って肯定した。
「フーカさんも、これはヴァルバトーゼさんが色々と考えた末の結論だって、ご存知なんでしょう?」
「いや、迷ってたぽいのは知ってるけど……でもさ、今でもあれってちょっと納得できないのよね~」
 フーカでさえ疑問を抱く選択。けれどアルティナが容易く肯定した決断。フェンリッヒがまさかと吐息を漏らした選定。デスコが感心を示し、エミーゼルが卑怯と誹った英断はやはり、人間の少女の言葉通り選択と言えるのかどうかさえ曖昧な。
 乱闘の終盤まで――奇跡的にと表現すべきか、それとも彼が今まで発揮してきた生命力と悪運の強さを考えればごく自然な流れか――どうにか生き長らえていたものの、ついにデスコとフーカの猛攻に倒れ伏したアクターレが、遺品のように残したマイクと言う曰く付きの品を使用して閉会の挨拶を求められたヴァルバトーゼは、またもこの場であのときと同じような言葉を繰り返す。
「俺は俺の好きなようにやる。誰に何をどう期待されようと、俺が誰の言葉に耳を傾けようと、いつ俺がどのように行動しようと俺の自由だ。そう言うことの何が悪い」
 つまり、言い換えてみれば現状維持。相変わらず魔界はこの吸血鬼の顔色を伺っていて全体的に落ち着かないと言うのに、無責任にも彼はそんなことを言ってのけた。
「我が党が政拳交代を果たした以上、党首としての責務は果たそう。しかし最終的な決定権はアクターレのものであり、この魔界の大統領の座も奴のものだ」
 戸惑う賓客たちを前にしてヴァルバトーゼは、やはり似たようなことを告げた。無責任だとの反論の声も挙がりかけたが、それより先に現在の魔界において最も重要視すべき問題は『畏れ』エネルギーの回復であり、そのために自分ができることがあるならば尽力すると彼が言い切るとそれらの声も見事に封じられた。
 しかし――ヴァルバトーゼは正直に言った。勿論、彼自らの手によってこの魔界と人間界を地獄に変える気概は忘れていないが、今の人間界について自分は詳しくない。段取りを無視して手前勝手に動き、他者の足取りまで乱すのは本意ではない。その点、前政拳の悪魔たちは人間界との交渉もいくらか速やかに行えるものと判断する。故に現段階では人間界との接触は彼らに任せるが、監視役や引継役として現与党員を何割か回すと宣言し、前政権に権力を丸々返上する気はないこと、与党と野党として互いに牽制、ときに協力して『畏れ』エネルギー回復を第一に取る姿勢だと示した。
 とは言え、人間が悪魔を恐れなくなったのも、魔界の腐敗が始まったのもとある一人の人間の暗躍あってのこと。人間が科学の進歩により闇を恐れず、悪魔にとって手強くなったのは今後魔界全土で取り組むべき大きな課題として、魔界の腐敗については速やかに解決できるものだと彼は信じている。
 そしてその、魔界を腐敗にまで追い込んだ一人の人間の罪を償う姿を見届けるために。同時に彼自身が今まで歩んできた選択に後悔はないと示すために。そしてこれからも、今までの自分のすべてに誇りと自信を持っているから。血を吸わない吸血鬼、過去は悪魔であってもその名を恐れた『暴君』と呼ばれたヴァルバトーゼは、仲間の中においても改めて胸を張る。
「それに俺は、プリニー教育係として魔界政腐に反旗を翻した。政拳交代をしたから、人間界と魔界の腐敗する原因を排除したからと言ってその職を手放すつもりは更々ない。『プリニー教育係』は重要な使命と名誉ある俺の天職そのもの! 故に俺はこれからもこの肩書きを背負い続けるとここに誓う!」
 ちなみにこれと同様の演説を祝宴の場でぶちまけた際、後半はまだ彼も節度が残っていたらしく『宣言する』でどうにか収まっていて、苦笑や呆気をも超えて最早感心の域に近い反応を得られたのだが。ヴァルバトーゼをよく知る五人は唐突にそんな誓いを、つまり約束をされて、それぞれ一体感のない反応を寄越した。
「……閣下。それを約束なさることだけはどうにか反故していただけませんか」
 特に今夜、この吸血鬼を世界の支配者として宣言させようと目論んでいたフェンリッヒは地を這うような吐息のあとに懇願したが、ヴァルバトーゼは隙のない自分に陶酔する顔で笑う。
「安心するがいい、フェンリッヒ。さすがに俺も一生涯とは言わん。この俺よりも更にプリニー教育係として相応しいものが現れれば、俺は喜んでそいつにこの職を譲り渡そう」
「だそうよ。良かったわね、フェンリっち」
 フーカが本当にそう思っているのかいないのか軽薄な調子で人狼に笑いかけるが、彼は五月蝿いと煩わしげに手を振り払ってつれなく応じる。その下では、デスコが顎に人差し指を添えて素朴な口調で疑問を述べた。
「けど……プリニー教育係にここまで熱心な悪魔なんて、ヴァルっちさんのほかにいるんデスかね?」
「いないよな。ボクの知る限り数多の別魔界の物好きをかき集めたって確実にいない」
 力強く断言するエミーゼルに、アルティナは何が面白いのか目元に笑みを宿しながらさあと大げさに肩を竦めて吸血鬼を見る。
「わかりませんわよ? ヴァルバトーゼさんの仰る通り、いつの日にかプリニー教育係になるに相応しいひとが現れるかもしれません」
「できれば早々に現れて欲しいところだな。そうして閣下に別の天職と野望を見出していただきたい」
「ならこんなときこそ祈ってみたらどうなんだ? お前の『敬い』エネルギー結構凄かったってあの天使長言ってたし、案外利くかもしれないぞ」
 趣味の悪い冗談だとばかりにフェンリッヒは鼻で笑い飛ばすと、当然そのつもりだったエミーゼルは強気に笑い返す。そんな少年の成長の様子を見て、感慨深く姉妹が目を細め、また程良い手応えを得て今度は別の意味合いで人狼が口の端を歪めたときだった。
 足音の響き方が極端に変わり、視線を進行方向にやれば一行はようやくロビーに出たと知る。ここから枝分かれした短めの通路を歩けば、すぐにそれぞれ割り当てられた控え室と言う名の今宵の寝所に辿り着く。つまり六人が六人で集まるのは、今夜はこれで最後。
「っよし! そんじゃ皆おやすみ!」
「おやすみなさいデス、皆さん!」
 けれど当然、昨日も明日も顔を合わせた仲間たちなのだから別れを惜しむことはない。だからフーカは夜中だと言うのに五月晴れの空のようなからりとした笑顔で手を振ると、デスコを連れて部屋へと向かう。
 その光景も笑顔も仕草もやはり常日頃から目にするもの故、誰もその背中を見送ることなく、ただ少女の笑顔が感染したようなものを口元にうっすらと滲ませる。そんな中、続いてはアルティナが深々と残りの男性陣に会釈をした。
「それではわたくしもこれでお暇させていただきますわ。皆さんおやすみなさい」
「……ああ」
「また明日な」
 意外にも主に対して何もせずあっさりと引き下がった天使に多少の違和感を持ちながら、フェンリッヒはその背を見送る吸血鬼の肩に無遠慮なくらい声をかける。
「それでは閣下……」
「うむ。今日はお前もご苦労だった。下がって良いぞ、フェンリッヒ」
「は。おやすみなさいませ、閣下」
 労いの言葉を受けながらも、主の部屋への扉を開けて吸血鬼がその奥へと消えるまで見送り続けた人狼は、静かに扉を閉めると残る少年を一瞥しただけで自分に振り当てられた部屋に行く。尤も、ホスト役兼案内役のエミーゼルだって、彼らのやり取りをすべて眺めてから自分の部屋へと帰るほど、この一夜の別れに感慨めいたものを持つつもりはない。
 けれど静まり返った廊下を一人で歩くと、さっきまでの空気や会話や音の響きが奇妙なくらいくすぐったくて懐かしくて、それが今はないだけに、ほんの少しだけ寂しいから。
 少年はうんと背伸びをしながら、衣擦れの音さえ響く静けさに満ちた廊下の中、ぽつりと一言声に出す。
「おやすみ、みんな。今日は……楽しかったな」
 陳腐な言葉だ。ありきたりで安っぽくて薄っぺらくて月並みで目新しさはどこにもない。なのにその気持ちは本物で、心底そうだと思ったから、エミーゼルは誰も聞いていないはずなのに自分の言葉に大いに恥ずかしさを感じて、内面を誤魔化すような笑みを浮かべながら早めに歩く。けれどそれも難しくなったから少年の足取りは次第に速度を増し、いよいよもって走り出す。
 けれどきっとほかの五人がその呟きを耳にしたって、誰もその言葉を嘲笑うまい。否定はすまい。少年が吐き出した気持ちと同じ思いを、彼らもまた胸に抱いていたのだから。


―完―
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