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ひよこの暗躍

2014/08/15


 血を吸わない吸血鬼ヴァルバトーゼがまず最初にいやな予感を覚えたのは、四百年前の人間、機工術士の少女ナギが初対面の二人と無事に自己紹介を終えた直後――『新党・地獄』で人間の小娘を保護すると事後報告を受け、彼の忠実なしもべである人狼族の青年フェンリッヒはあからさまに嫌気たっぷり。自己紹介も新入りを睥睨するだけに終わったのは『無事』の範囲内とするとして。
 出会って間もないだろうに、やたらと馬が合うらしい風祭姉妹の部屋近辺と予想しながら一応本人に部屋の好みを訊ねてみれば、眼鏡の少女は真剣そのものずっぱり。
「アルティナお姉ちゃんの隣がいい」
 と来たもので。
 率直過ぎるリクエストにこちらは完全硬直。我に返るより先に珍しく表情を和らげた執事が勝手に了承してしまい、舌を挟む余地さえなかった。
 更に小娘はまるで心臓を差し出すような緊迫の面持ちで、彼と同じく驚きに目を見張る天使の娘へこんな爆弾を投下したのだ。
「あのね、今日だけでいいから……一緒に寝てもいい?」
「ええ、構いませんよ。積もる話もありますものね」
 あっさりと頷く女も女である。
 二つ返事に眼鏡の少女は跳び上がるほど喜び、はしゃぐ足取りそのまま姉と慕う女へ腕を絡めて案内してほしいと上目遣いでおねだりの。当然天使は快く応じ、取り残されたるは五人の男女――と書けば色気の欠片くらいは残っていそうだが、実際には男と子どもで華やかさはないに等しい。
 とりあえず元はつくが同じ人間で、しかも同年代だろうなり損ないプリニーの小娘と妹はこの件に不満なり憤りなりを示すかと思いきや、普段からは考えられないくらい物分りよさげに得心し、不穏な予感がじわり増す。
「あそこまでデレデレとは思わなかったけど……ま、ナギっち的には仕方ないか」
「アルティナさんも会えて嬉しそうだったデスもんねー。しばらくは姉妹水入らずでお邪魔しないようにするデスよ」
「あっさり他人の意思を尊重した上に遠慮なんて……どうしたんだよお前たち。なんか拾い食いでもしたのか?」
 さすがにそんな暴言を聞き流すほど、姉妹の精神は円熟していない。すぐさま二人は般若のごとき形相で仲間の少年を追い立てた。不運にもいつも仲裁に割って入る女天使があいにくと不在のため、しもべに早速手配をせねばと誘導された吸血鬼には結局、少年がどんな目に遭ったのか知る由もなかったが、まあその日の夕餉にさえ顔を見なかった点から被害のほどが伺えた。
 閑話休題。
 魔界じゅうの金品を鮮やかに大胆に『徴収』した怪盗『業欲の天使』とは仮の姿。その正体は四百年前、敵兵さえ治療したため間者の容疑で味方に殺され、その三日前に出会い約束を交わした吸血鬼に一生消えない心の傷を残した慈悲深き元人間。清らかな魂を天界の住人に見いだされ、天使として新たな命を与えられたアルティナを、当時の知己であるナギが慕っていたのは彼とて知っていた。
 いたが接し方はあくまでぶっきらぼうで、子ども特有の幼稚な照れが勝ったかあまり率直な好意を示さなかった気がするのだが記憶違いだろうか。まさかあんな、あそこまであからさまとは予想外にもほどがあり――
「ってオレの話ちゃんと聞いてるヴァルバトーゼ!?」
「……ああ聞いているぞ。ミエのイワシもなかなか旨いそうだな」
「聞いてねー! そうじゃねーよあのぽっと出の眼鏡のチビっ子のことだよ!!」
 『新党・地獄』党首執務室に来てまでぎゃあぎゃあと騒ぎ立てているのは、『業欲の天使』ファンクラブ会員のプリニー教育係、ニーノである。
 吸血鬼は魔界与党党首でありながらプリニー教育係の職も手放さないためいまだ接点はなくもないのだが、だからと言って同僚から勤務時間内に仕事とは無関係な内容をまくし立てられても気にしないほど大雑把な男ではない。その上ニーノの口に上ったのがよりにもよって件の小娘とくれば、さり気ないはずの声も自然と険を帯びてしまう。
「……お前にとってぽっと出でも、あの女にとってはそうではないらしいが?」
「えっそうなの!? いやだとしてもやっぱ常識的に考えて問題あるって!!」
「………………」
 こちらも丁度その問題で頭を抱えているとは、色んな理由から口が裂けても言えやない。お陰で眉間の皺はいよいよもって深くなるが、机の面積の大多数を占める書類の山が功を奏し、軽く俯く程度で表情を隠せた。
 ともあれ今現在『新党・地獄』新入りの機工術士は、党首である吸血鬼の頭を悩ませ、少なからず魔界に生息している『業欲の天使』ファンを憤慨させている存在には違いなかった。理由は単純明快。
「業欲の天使さんに四六時中付きまとってるとか羨ま……じゃなくて迷惑極まりないだろ!? そりゃ実際に天使長もこっち来たときはあの人と一緒にいたけどさぁ! あそこまで酷くなかったはずだろ!?」
「さて。俺は執務中わざわざ特定の個人を追跡する暇はないゆえ、よくわからん」
「あ……い、いやいやいやオレだってたまたまだよ!? たまたま天使さん見かけたり話しかけようとしたらここ最近ずーっとあのチビっ子が隣で睨み利かせてくるから爽やかに挨拶もできなくて少しずつ親密になっていくオレの作戦が……」
「ふうむ、作戦とは穏やかでないな? この時世で貴様は一体なにを攻略するつもりだ?」
「……ナニモナイデスハイ……」
 片側の間抜けっぷりから漫才と化したやり取りには一旦目を瞑るとして、新参者のナギが女天使の番犬役を買って出た、どころか彼女を独占しようとしているのは悩ましくも揺るがぬ事実だった。
 それでもニーノの言葉通り、いつかの天使長のように見知らぬ魔界に馴染むためしばらく顔見知りと行動をともにするくらいなら彼もまだ許せた。
 ナギがいくら当時としてはオーバーテクノロジーである機工術の担い手だろうが、四百年前の人間が現代の魔界に暮らすとなれば二重のギャップに苦しむだろうし、加えて少女は幼いながらに孤児となった身。寂しさも不安も他者のそれとは比べものになるまい。そんなところで純白の翼を背に生やした顔見知りの女と再会できればまさに地獄に仏、救いの天使と縋るのも仕方ないがそれでも。それでもだ。
「……つーかですね、ヴァルバトーゼサマ。オレの気のせいならいいんだけど、あの子、業欲の天使さんにけしからんくらい甘えてません?」
「具体的に言え」
「腕組んだり手握ったり同じ買い物袋ぶら下げてるのは見たんだよ。……まさかそれ以上のことお屋敷の中でしちゃったりしてる?」
「………………さてなあ」
「なにその間!?」
 含みくらいは持って当然。その通り、と言えるほど彼は渦中の人物たちに無関心ではないのだ。
 正直なところニーノの危惧は的確で、再会を果たしてからの天使と眼鏡の少女は、地獄で良くも悪くも有名な某姉妹に勝るとも劣らないほど熱烈親密。三度の食事や軽食だって毎度欠かさず同席し、内緒話やスキンシップは数え切れない。二人が一尺以上距離を取るのは天使が保嫌所で働いているときと厠くらいだそうで、更には初日だけのはずなのにここ一週間ずっと風呂も寝床も一緒と知ったとき、彼は思わずそれを報告したスパイプリニー隊を窓から天高く放り投げてしまった。
 他者に対してはどちらかと言えば穏健な彼でさえそれだ。『業欲の天使』ファンの中でも血の気の多い連中がこの新参者の行いを知れば最悪、血祭りに上げられかねない。しかしそんな結末、心優しい天使は決して望まないだろう。ついでそんな彼女に心奪われた吸血鬼もまた女の涙など見たくない。となると面白くないが結果的にあの少女の勝手を許してしまうことになり、しかしそれではこちらが天使とまともに会話もできず、青年の心中はより複雑さを増していく。
「じゃイヤな予感するからもうそこには突っ込まないけどさ、あの子、一応ここの党員なんだろ? ちゃんと仕事する気あるのか?」
「……お前にそんな心配をされるとあいつも立つ瀬がないな。しかしまあ、言わんとすることはわかる」
 儚く散ったしもべたちを無駄にしないため、党首の青年もあれこれと気を利かせてやったとも。
 タイムマシンを作って時間旅行を試みたが事故に遭い、身一つでここに放り出されてしまった――天使が初日に聞いた話ではそういうことらしい――憐れな少女の環境を整えてやるべく、個室とは別に専用の研究室として空き部屋を一つ改装。党内で勤めている教授何名かに、小娘が一刻も早くこちらに馴染めるよう家庭教師になってほしいと別途手当てを出す旨を条件に要請した。
 なのに研究室は一度足を踏み入れられただけで、以降は閑古鳥が鳴く始末。天使が働いている時間帯はさすがに退屈なのか教授連のもとに顔を出しあれこれ教わるそうだが、授業外に生きがいを見つけてしまった学生よろしく保嫌所の終業予定時間になるとすっ飛んで行くそうで、今は三度の飯より大切なものがあるのは火を見るより明らか。
 だが『業欲の天使』ファンとて自らの生活費を削ってでも公認グッズを買って貢ぐし、吸血鬼もまた四百年ぶりに再会した女と心を通わせれば寝食を忘れて耽る自信というか自慢というか確信を持つ。唐突に現れた小娘風情に偶像及び運命の女をいけしゃあしゃあと独占されて、荏苒と手をこまねいているつもりは毛頭ないのだ。
 そう気合を入れることで怒りの鎮火にやっと成功した吸血鬼。さりげなく顔の位置を戻し、ひとまずは眼前の男を宥めにかかる。
「……ま、こちらもあいつを単なる居候として迎え入れたつもりはない。もうそろそろ一党員としての自覚を持つよう勧告するつもりだ」
「あのチビっ子がそれ無視したら?」
「問答無用で叩き出す」
「おおっ! さっすがヴァルバトーゼ様、話がわかるぅ~」
 そんな合いの手を入れられると自分が一気にこの男と同レベルになった気がするが、実際のところ何も間違ってはいない。加入後一週間、党にろくな利益をもたらそうとしないごく潰しを切り捨てるのは党首としてごく当然の判断だ。その裏でどれほどの私怨があろうが、ああもあからさまに糾弾する隙を見せたあの小娘が悪いと割り切れば、後ろめたさなど砂塵と消えた。
 ニーノの要件はそれだけだったらしい。彼に頼んだぜともう一度念を押すと、小娘の未来はもはや確定したと言わんばかりの足取りで去って行った。
 ちなみに一般的なプリニー教育係は勤務時間中、工場外に出られるほど暇ではなく、それをこちらが指摘よろしく指導する前に姿を消した覆面ヒーローの首根っこを引っ掴みたい気概も強いが彼も今は多忙な身の上。ビル群さながら迫る書類の決済を優先し、とりあえずは手元のメモにあの男の今月分の給金を差し引く旨を走り書くだけに押し留めた。
 そうして再び党首執務室にあまり嬉しくない客人が訪れたのは、軽薄なプリニー教育係が去って二時間経ったかも曖昧な時間。
 一応書類をやっつけはしたが、減ったのは全体から半分どころか三分の一以下と知り青白い相貌はますます景気悪げ。軽食でも持ってこさせようかと顔を上げたところで一手先にノックの音を聞き、期待を込めて入れと一言。しかし分厚い扉の向こうから見えた頭はプリニー特有のつるりとした紺の皮、ではなく細やかな金髪と額の絆創膏。
「……まだそんなに残してるの? あなたってそういうの苦手?」
 淡く日に焼けた肌を包むチューブトップやくっきりとした色味の作業着の活動的な印象に反して、飾り気のない分厚い眼鏡とひょろりと細い手足が本人の得意分野を知らしめる。渦中の人物、この一週間で多くの敵を作った機工術士ナギだった。
 常識的なこの小娘のこと。出会った当初は風来坊だった青年が現在、実質的に魔界の今後を左右する身と知り、恐縮していたと思いきや実はそうではなかったようだ。室内に彼一人とわかると書類机の前まで勝手にやってきて、なかなかに厚かましい。
 久しい再会やイワシを自分に勧めてくれた相手との大幅な補正があっても、吸血鬼にとって少女への感情は今現在とても良好とは言えない。そんな相手に開口一番冷ややかな一言を浴びせられ、青年の胸に埋もれた大きな杭の先にこちらも冷ややかな怒りが湧き上がる。
「苦手だろうが得意だろうがここにある一枚ずつが魔界の未来を左右する価値を持つ。捺印一つ取っても慎重な判断は必須だろうが」
「ふぅん……ま、どうでもいいけど」
 どうでもいいなら聞くなと鋭く吐き捨てるところを、無言で睨んだだけの彼の忍耐力は褒められこそすれ貶されるべきではない。なのに眼鏡の小娘は仁王立ちの姿勢で生意気にも睨み返してきて、青年の項にざわりと不快感を植えつける。
「なんの用だ。見ての通り俺は暇ではない、冷やかしなら余所でやれ」
「わたしだって冷やかすくらい暇ならこんなとこに来ないよ。あなたに話があって来たに決まってるでしょ」
「ならとっとと本題に入れ。その調子ならお前とて俺と会話を愉しみたい訳ではあるまい」
 刺々しい応酬と吸血鬼の皮肉めいた笑みのどこが琴線に触れたものやら。眼鏡の少女は一瞬だけ短い眉を吊り上げると、再び不機嫌そうな面構えで言い放った。
「じゃあ聞くけど、吸血鬼。あなた、アルティナお姉ちゃんと付き合ってるの」
「は」
 直球の。久しぶりの上にそれはもう剛速球で猛直球な一言に、青年の目が点になる。
 そうして我に返り、改めて小癪な小娘を見返すも、やはり相手は憮然としたまま答えを待っている。つまり言い間違いなど絶対にしていないし、ならばこちらも聞き間違いではない。
 ――付き合ってる、とは。つまりどこぞへ同行したことがあるかといやいやそうではない。さすがにそれではない。いくらごく一部の特に女の党員たちから朴念仁だの唐変木だのとこちらに聞こえるように陰口を叩かれようが、さすがに彼とてその意味くらいわかる。あの元は人間だった天使を伴侶とし、互いを尊重し合える唯一の異性として、きちんとそれらしい関係を築ける間柄なのかと訊ねたいのだこの小娘は。
 それに対する答えは単純にして明快。言い訳は山のようにあるがそれを丸々無視して事実のみを抜き取れば、慣れもせず胸に重い痛みが滲む。暗鬱な雲が頭の上に立ち込め、強烈な情けなさからなんだか泣きたい気分にさえなってくる。それくらいにわかりやすい、だが直視するのも憚られる現実を、青年は思い切って言葉にした。
「……な…………ぃ…………」
「なんて? もっと大きな声で言ってくれない?」
 はずなのに。憮然と腕を組んだ少女は、吸血鬼の精一杯をにべもなく一蹴。不貞腐れた態度から察するに、小娘はその大前提でここに来たようだ。そうであればこちらここまで苛立ってはいない。
 だからこの誤解しきっている小娘に悲しい真実を教えるべく、青年はもう一度気力を絞る。
「…………っないわッッ!!」
「……は? ないって? 付き合って、ない?」
 そうだ、と力なく頷かれ、ナギは愕然と息を呑む。次の瞬間、ただ驚愕の勢いで叫んでしまっていた。
「嘘でしょ!? あんな別れかたしてまた会えたんならすぐ付き合うんじゃないの!?」
「なっ」
「しかもあれから四百年後の世界なんだよね、ここ。四百年前のことふたりとも忘れてたなら付き合ってなくても仕方ないかもしれないけど、あなたにもあの三日の記憶はあるんでしょ?」
「あ、あるがそれとこれとは……」
「ならどうして付き合ってないの? あ、別に恋人とか許嫁がいるとか? もう奥さんと子どもいたり?」
「いるかそんなものっっ!」
 噛みつかれそうな剣幕で否定され、ようやく少女は落ち着きを取り戻すもやはり頭の中から溢れ出る疑問符の勢いは止められそうにない。円らな金の瞳を瞬かせると、さして懲りずに男へ問う。その今までと違う無邪気な眼差しに、吸血鬼が背筋に怖気を感じたことさえ露知らず。
「ならどうして四百年も人の血を吸わずにいたの? あなたがアルティナお姉ちゃんとの約束を地獄に堕ちても守ってたのは、アルティナお姉ちゃんが好きだからじゃないの?」
「すっ……!?」
 このときの吸血鬼の反応ときたら。本当にあんなに恐ろしかった悪魔と同一人物なのか疑わしいくらいの動揺っぷりに、少女の気力が大きく削がれた。
「……はぁ」
 天使本人から直接訊ねられての反応なら納得しないこともないが、赤の他人が訊ねただけでこれとは。気持ちを自覚しているかどうかは曖昧だが、本命に気持ちを伝えるのは夢のまた夢になりそうな予感がひしひし漂う。
 ならば少女が彼に問いただしたかった真の目的のほうは、まったくもって見当違いで空回り。
 本来なら潔く反省すべきだし、本人もそのつもりでいたが不幸にもここにはナギしかいない訳ではない。少女が落ち込むより先にそちらを一瞥さえしない吸血鬼が悪魔論を語り始めたせいで、髪留めに引っ張られたこめかみの辺りがぴくり。
「そっ、そもそもだな……! 相手が誰であろうがどんな内容だろうが約束を守るのは誇り高き悪魔として当然のこと! 俺はあいつと交わした約束のうち、死なないように守ってやるほうを破ってしまったからこそ、残る誇りにかけてあいつ以外から血を吸わない約束のほうを守っていただけであり、愛だの恋だの浮ついた感情で約束を守ろうとした訳では……!」
「あー。はいはいわかったわかりました」
「なんだその反応は!? いいかお前たち人間は何か勘違いをしているようだがな、悪魔とは恐怖によって人間どもを戒める崇高な闇の使者であり、その手の軟弱な感情は一切不要の……!」
 初めてここに来て初めてまともに対面して初めて聞いた高説のはずなのに、妙にうんざりさせられてナギは思わず重々しく呼気を抜く。
 悪魔が愛を肯定するとは思わなかったけれど、あんなに劇的な出会いと別れを目の前で繰り広げ、しかも四百年後にようやく再会できてこれとは。文字通り百年の恋も冷めてもおかしくないのに、現実に再会を果たした女はこの男を一途に想っており、そう確信を抱かせた表情を脳裏に甦らせると――なんというか胸の中がもやもやして、異常に面白くない。
 だからナギはやっぱり本来の目的を果たすべく思考を巡らせる。この実質書類とイワシが恋人の吸血鬼に、無理やりにでも現状を把握させるのは自分の使命と固く信じて。
「偏見って言われたら仕方ないけど……わたしの中の悪魔のイメージは、人間に辛い思いをさせられたり罠にはめられたってわかったら、すぐ人間を見限って約束を反故にしたり復讐したりするんだよね」
 なるべく先よりは格段に話しやすい話題で少女が説教を遮ると、自称気高き悪魔は渋々話題に乗りかかった。計画通りだ。
「……ま、まあ、人間のほうが先に裏切った場合や約束を反故にしようとすれば相応のしっぺ返しは企てるな。だがあいつは俺を嵌めるために約束を交わした訳ではないし、あいつは自分の死を勝ち逃げと考えるほど命を軽んじていた訳ではあるまい」
「うん。だからどんなに辛い目に遭ってもアルティナお姉ちゃんとの約束を守り続けたあなたの立場はわからなくもない。……けどあの約束があなたにとって誇りのための契約や戒めでしかないなら、あのひとが天使になったってわかったとき、普通ならなんとしてでも血を吸おうとするんじゃない?」
 含みのある物言いに、どういう意味だと紅い視線が尖っていく。
 その眼光の鋭さ鮮やかさは、成る程、深い鳩の血色と表現できるし天使はそれをとても愛しげに讃えていたがナギにとってはさにあらじ。鼻血色程度の認識しか抱かないため、やはり容赦の欠片もなく言い放った。
「今みたく、飼い殺しみたいに囲わなくたってさ」
「……か、飼い殺す、つもり、など……」
 ラブだのコイバナだのの語彙通り、いかにも頭の軽い小娘どもの口からは決して聞かなかった単語に再び吸血鬼の舌が凍る。
 だが眼鏡の少女はかつて『暴君』と恐れられた悪魔を硬直させても自尊心などくすぐられず、追及を止める気は甚だ持ち得ていない。むしろこれこそが彼女にとっての本題なのだ。誰にどう言われようがこの件について邪魔はさせない。
「自覚がないなら重症だよ、吸血鬼。そもそもあなた、アルティナお姉ちゃん的に今の環境ってどうなのか考えたことあるの? 周囲も本人も慣れてるって言っても悪魔だらけには変わりなくて、そんな居心地の悪さを我慢してあなたと昔の約束を果たすため一つ屋根の下にまで住んでるはずなのに、ここ最近約束を果たすどころかちっっとも話しかけてこない甲斐性なしをずーっと待たなきゃいけないとか可哀想だと思わない?」
 既にナギはこの男と天使になった知己の女について、今に至るまでの情報は一通り人聞きではあるが把握している。結果、悔しいけれどやはりふたりは互いを心底想いあっているとしか考えられず、自分は一番になれないと諦めた。なのに彼女は相変わらず入浴や同衾を許し、そもそも微笑むばかりで鬱陶しがったり止めさせようとする気配さえない状態に、次第に少女の中で喜びよりも違和感が勝るようになっていったのだ。
 だから昨夜、罪悪感で潰れそうな胸から勇気を奮い立たせ、ナギは彼と会わなくていいのか。自分が煩わしくないか天使に率直に問うた。
 そうして返ってきたのは、ごくあっさりとした一言。
 ――どうして、吸血鬼さんとわたくしが会わなくてはいけませんの?
 不思議そうに問い返され、ナギは衝撃のあまり一瞬時間が止まったとさえ思った。けれど次に彼女は恋人同士が逢瀬を果たすのは義務ではないと考えていると受け止め、なんとか自分を持ち直すことに成功。その場はどうにか収まった。
 けれどそれもどうなんだと、冷静に思い直したのは寝台に入ってから。
 夫婦ならいつも一緒にいるのが当然。しかし恋人ではそうはいかず、だからこそ多くの恋人たちはいつか自分たちが夫婦になれる日を夢に見る。四百年前、不幸な運命によって死別し、孤独と後悔の果てにようやく再会できたふたりもまた同じ願望を抱いているものと考えていたのに、天使のあの素っ気なさはどうなのか。
 もしやふたりは恋人同士でありながら、種族差を根拠に結婚できない、いつか別れるものと覚悟した上で交際しているのか。ありうる話だ。ふたり揃って再会できても世界の命運を優先して個人的な感情を後回しにするくらい使命感や理性が強いし、結婚について周囲から一人でも反対されればすんなり呑んでしまいそうな気もする。それでも付き合うくらいなら、とこの刹那の逢瀬で傷を舐め合っているとしたら。深入りせず、ただまたそばにいられる悦びを噛み締めているのだとしたら。あんまりにもあんまり過ぎる!
 頭のなかでそんな悲鳴を漏らしたナギの胸に、怒りが灯ったのは言うまでもない。同時に、現実が厳しいのはわかりきってるだろうに諦めるんじゃない、障害なんかとっとと力ずくで乗り越えろ、と吸血鬼の尻を叩きに説教に来ようと胸に誓った瞬間だった。実際には、それ以前の話だった訳だが。
 そもそもの話、ナギはふたりが付き合っていないことさえ考慮に及ばなかった。
 姉妹の時間旅行に巻き込まれて短期間で四百年後の世界に来た彼女と違って、あのふたりはそんな幸運にも恵まれず、本当に四百年の月日を運命に引き裂かれた孤独のうちに生きてきたはず。ようやく再会できたなら、それまでの苦しみや後悔と比例する勢いで歓びと感激が押し寄せるだろうし、平和になり、それぞれの使命も概ね全うし、死別よりも圧倒的な障害はない現在、ふたりの仲が発展しないのは不自然極まりない。お伽話の主人公とヒロインの結末を締めくくるにあたって『その後ふたりは特に付き合ったり結婚もしませんでしたがそれなりに暮らしましたとさ』で納得する読者がどこの世界にいると言うのか。
 そうとも。目の前であの悲痛な別れを目撃した少女は俄然納得しなかった。天使となった女性と再会し、二人で過ごす時間の中で、彼女の口から吸血鬼の話題が上った頻度やそのときの表情を思い返せば尚更。誰に対しても穏やかな彼女が煌めく湖面めいて瞳を輝かせるのは、ほかの誰でもない堅物な黒髪の吸血鬼の話題に触れたときのみなのだ。
 ああそうとも。この一週間、ナギは心底に思い知らされた。あのひとをほんとうに幸せにできるのは誰なのか。自分よりずっと一緒にいたいと思わせ、そばにいるだけで心底幸せになれるひとは誰なのか。
 どんなに自分が好きだろうが、どれだけそのひとのために努力しようが、それでも到達できないほど愛されている存在がほかにいる。目下、書類に埋もれてもの凄く嫌そうな面構えで。
「……どうなの、吸血鬼」
 大きく煌めく黄金の瞳が、その色彩が与える印象とは正反対に、痩せぎすの悪魔を睥睨する。
 吸血鬼が天使の気持ちに気付いているのか否かはあえて問うまい。どちらにせよ今の彼の対応は褒めれるものではないし、誇り高き悪魔以前に男の甲斐性として問題がある。そんな男に大事な大事なひとを今後も手元に置くだけ置いてぞんざいに放置されているとしたら、今すぐにでも天界に帰るべきだと説得すべきだろう。
 しかし憤慨しているのは少女だけではない。
 先に執務室に訪れた覆面ヒーローが憤慨し、彼もまた腹になんとも表現しがたいものを抱かせた人物へ恨みをたっぷり込めながら、吸血鬼は奥歯を食いしばっていた唇を重々しくも開く。
「……生憎と俺は、女に話しかけろと抜かす割にその女の隣からぴったりくっついて離れようとしないヤツほど厚顔でなければ暇でもない」
「む」
「しかもこちらは長らく会えなかったそいつに気を遣って遠慮してやったと言うのに、そんな配慮さえ頭になくわざわざこちらに説教してくるほど恩知らずで想像力のない愚か者でもないッ!」
 一気に言い放ち、青年の眉間に刻まれていた深い皺がふっと浅くなる。
 ようやくナギに一太刀浴びせられ、少しは満足したらしい。だがその感慨に浸らせる間もなく少女は反撃、いや追撃。
「それ飼い殺しの正当な理由にはならないよね」
 安堵の息を吐いた態勢のまま、吸血鬼の全身が軋む。多分このまま放置しておけば石像になるだろうくらいの勢いで。
 しかしその程度でナギの怒りは鎮まらない。あの天使が魔界じゅうどこを探しても右に出るものはいない優良物件なのは彼もわかりきっているだろうに、どうして気持ちだけでも伝えておかないのか全く理解できないし理解しようと思えないまま更に容赦なく追及する。
「あとそれでわたしに遠慮してたんなら、わたしがこれからもずーっとアルティナお姉ちゃんのそばにいたらそのまま遠慮し続けるの? だったらあなた、アルティナお姉ちゃんのことそんなに好きじゃなかったりする?」
「馬鹿者、ちが……ッ!」
 危うく否定しかけて吸血鬼は我に返る。ここで否定するのは即ち、小娘の別の指摘――つまり誰にどんな想いを抱いているか――を裏付けると。最悪認めるとしても、その相手は赤の他人の小娘ではいけない。世界でただひとり、その想いを本当に捧げるべき桃色の髪に薄青の瞳を持つ、清廉なあの娘でなければ。
 けれど今ここであの娘への感情を否定するのも頂けない。この場を取り繕うためだとしても、相手がこの小娘なら天使に伝えるのはわかりきっている。だから彼が取るべき行動は、否定でもなく肯定でもなく。
「……ずっと、とはいかんぞ。今までのお前の好き勝手な行動は大目に見てやったが、これからは違う」
 大幅に話題をそらす、それ以外になかった。
 当然、眼鏡の少女はどこぞの現代っ子たちほど鶏頭ではないので彼の意図がわかりきった蔑みたっぷりの一瞥で男を刺してくるが、連中とは違い性根は真面目なので話を聞く姿勢だけは保つ。彼にとっては重畳である。
「魔界は実力至上主義。そこまでいかない人間界でさえ、働かざるもの食うべからずと言うではないか。党のために功績らしい功績を成す気がないなら、早々にここから出ていくがいい」
「……む」
 毅然と言い放たれ、さすがにナギも軽く俯く。
 確かにここに来てからの彼女の生活は話題の女天使を中心にしており、つまり自慢の機工術も一戦闘員としての能力も一切発揮せず安穏と堕落の日々を過ごしているようなもの。
 しかしそれは他者からの視点であって、彼女自身は現代の魔界に馴染むために、機工術に興味を持って話しかけてくれた教授たちからあれこれと学んでいるつもりだった。加えて義姉が本当に生きているのか、自分に都合のいい夢幻ではないのか、離れてしまうといつも不安になるからすぐに会ったり触ったり確認してしまうし、安心したら今度は彼女の恋愛模様に大いに気を揉み憤慨したりで、堕落とはかけ離れた日々を過ごしていたのだ。
 と、振り返ってから少女はそんな自分以上に能天気に魔界生活を過ごしていそうな二人の心当たりを思い出す。
「フーカとデスコは功績あるの?」
「あれらは党の設立当初からいる戦闘員だ。戦いの中では十二分に役に立つし今までの戦果も大きい。思考も単純ゆえに信頼もできる」
 納得できるようなできないような。まあナギも二人には多大な恩があるので一応引き下がり、今度はあの二人の影に隠れがちなもう一人を思い出す。
「あとあのドクロの頭巾の男の子も……」
「小僧もまた初期からの党員だが、加えて今は魔界大統領を目指す身の上。政腐関連の仕事や視察も積極的に参加し、よく学んでいる」
 淀みなく丁寧に反論され、少女は大げさなくらい眉根を寄せる。管理職とはいえ子どもを労働力扱いとは、悪魔の世界は四百年前の人間界より余程前時代的らしい。
「……悪魔ってあんな小さな子まで働かせるの?」
「小さいと言っても千二、三百かそこらだろうが」
「は!? せん……!?」
「人間で考えればお前と同年代だ」
「そ……そうなの?」
 それなら納得できるような。いやいや、だとしても自分と同い年くらいの男の子が親から教えてもらいもせずに唐突に管理職に就くのはやっぱり不自然なような。いやしかしパーカーを脱いだ少年はきちんとした身なりのような記憶があるし、名家生まれならやはり納得できないこともない。
 少女のそんな葛藤を流し見ながら、話題の切り替えに成功した吸血鬼は密かに机の下で握りこぶしを作りつつ、なるべく自然に話を続ける。
「小娘は義務教育だのなんだのと抜かして執務に関わろうとせんし、小僧は小娘ほどひたすら前線で活躍はできないがそれでも各々得意分野で立派にやれている。ならば、お前が党に貢献できないはずもない」
「よ、四百年前の人間にめちゃくちゃ言ってない?」
 機工術でも戦いでもいいからとにかく働けと告げられ、順調に逃げ場を封じられた眼鏡の少女はしかしそれでも抵抗は止めなかった。
 機工術がどうでもよくなった訳ではないが、研究に没頭すると平気で何日も籠ってしまうし、それで死別から再会できた義姉と会えないのはやっぱり寂しい。かと言って敵も味方も悪魔だらけの戦場に出かけるのは、正直なところ尻込みする。普段はちょっとおつむに問題があるくせに、鉄火場になると八面六臂の大活躍を繰り広げる二人を知っているだけに尚更。
「そのための期間と人員をお前には割いてやったはずだが?」
「……え?」
 だが青年の冷然とした一言に、蜂蜜色の瞳が見開かれる。
 期間、の意味はわからなくもない。この一週間、ナギは特に誰に何を命じられることもなく、自由な振る舞いを許されていた。それがいわゆる研修期間や社会見学期間なのは薄々勘付いていたし、それならいつから職務を割り当てられるのか教えてくれればいいのにと親しい人たちに囲まれながら愚痴を漏らした記憶すらある。
「え、とは何だ。お前の教師役が何人かいたはずだろうが。よもやそいつらから何も学んでいないと抜かすつもりか?」
「ううん……そうじゃ、なくて……」
 だが人員については全くの予想外。今まで教授たちが自分に話しかけ、あれこれ教えてくれたのは純粋な機工術への好奇心や、自分への投資と捉えていたのにまさかこの男の手配だなんて。
 しかし冷静に考えてみれば、こちらに来てから大っぴらに見せびらかしてもいない術式なんて知人以外には知れもしないし、つまり初対面の教授たちが投資しようとも思わないはず。そもそも彼女らの性質を顧みれば、目の前の男が気を利かせない限り四百年前の人間なんぞに話しかけるかどうか。
「……そ、そっか。そうだったんだ……」
 そうして自分の立場を振り返ると、あまりの厚顔っぷりに一気に顔に熱が篭っていく。
 お膳立てされていたのにも気付かず、自分の価値が無自覚のうちに認められていたといつの間にか思い上がって。しかも気を遣ってくれた相手に向かって偉そうな口を利いたりして。いやそれでも義姉の扱いは許せないし、とっとと悪魔の誇りなんて折ればいいと思っているけれど、だからと言って自分の傲慢な態度が帳消しにはなったりはしない。
 なら今すぐにでも帳消しにしなくては。それこそ寂しさなんて甘ったれた感情を切り捨てて、こちらの技術を教わった中で閃いた発明品の草案を一気に膨らませ具体化させよう。
 悶絶するより先に建設的な思考でどうにか羞恥の涙を目尻に留められたナギは、観音扉に掴みかかると誤魔化すつもりも兼ねて早口でまくし立てる。
「わ、わかったっ! あなたたちの役に立てばいいのねっ」
「うむ。しかし案ずるがいい。お前が我が党に貢献さえすれば、生活の保障だけでなくお前の持つ技術について誰にも探りは入れさせん。約束する」
「……約束?」
 早速研究室に駆け込もうとしたのに、その一言についナギの意識が引っ張られる。
 『約束』。天使となった彼女と彼を繋ぐ大切なもの。それを自分のところにまであっさり持ってくる神経は正直疑わしいが、お陰でかなりいい案が閃いた。
 ああそうだ。いまだふたりが互いを強く想いあっていながら、機会のなさを嘆いているなら、自分が橋渡しになればいい。草案をちょちょいと弄って、絶好のシチュエーションを用意してやろう。それでふたりの仲が少しでも深まるなら冥利に尽きるし名誉も挽回できる。噂を聞きつけた教授たちに、対等な立場で教えてもらうことだってできるかもしれない。
 義姉も大好きだし愛しているけれど、やっぱり自分は心底機工術士だと実感しながらナギは改めてドアノブを回す。紆余曲折あったが、ここに来たときに比べて今は随分心が軽い。
「じゃあわたし帰る。アルティナお姉ちゃんやフーカたちに忙しくなったって伝えなきゃいけないし」
「そうしておけ。それととっとと姉離れしろ」
「やだ」
「………………」
 即答してから振り返ると、書類の隙間から覗く青年の表情が珍妙なまま固まっている。その光景に腹立たしさより悪戯心が煽られて、ノブを回し、控えの間まで出た少女は、最後にドアを閉める直前、爆弾ひとつを放り投げた。
「あと改めて聞くけど、あなたやっぱりアルティナお姉ちゃんのこと好きなのよね?」
「……ばっ!!」
 すぐに閉めたから吸血鬼の声は直接降りかかりはしなかったものの。それでも扉を伝ってこちらにまで届いた怒号の衝撃に、少女は呆れながらもそれなり胆を冷やしたそうな。

◆◇◆

 結局のところ、その日からナギが姉離れの努力をするようになったか否かについて、彼はその目で直に確認できなかった。
 なにせ党首としての仕事は山のよう。夕食の時間にもつれ込むどころか徹夜もそう珍しくなくなった彼にとって、この日もまた仲間とともに食堂ではなくたったひとり執務室で、備え付けの冷蔵庫に入れておいた生のイワシを貪るだけの簡単な夕餉を終えたからだ。
 それでも幸い徹夜は免れ、日付が変わる前にどうにか本日の処理は終了。イワシパワーをもってしても拭えない疲労を解消すべく、危なっかしい足取りで自室に到着。棺にすっぽりと全身を収める史上の安堵と睡眠を堪能しようと、外套を脱ぎつつドアを開けたらば。
「ん……?」
 何故か。甘い湯気を顔に受けた。
 顔だけではない、と気付いたのは数秒後。手袋と言わずシャツとも言わず、全身がしっとり温かく湿っていく感覚に、目を瞬いて眼前の光景を改める。当然そこは殺風景な、プリニー教育係時代から変わらぬ彼の個室、ではなくて。
 白熱灯に照らされて黄色みがかっているものの、壁は恐らく薄桃色のタイル張り。立ち込める湯気のせいで、室内をぱっと一望もできず広さも把握はし辛いが、それでもあまり広くはないと直感が告げていた。
 強く鼻腔を襲う香は芳香剤か。なんとなく乳のまろやかな後味を連想させて、ああそういえば視界も白い。いや湯気ではなく、彼の目の前。手を伸ばせば届く距離に、絶妙に白くてやわらかそうで美味そうな、焼く前のパンみたいなものが。
「ナギさん? やっぱり今日も一緒に入……」
 パン生地は妙に馴染み深く心地よい声を出すと、かすかにこちらに体を傾ける。
 その際、布巾からまろび出た桜の塩漬けに、桜餡かと確信を抱くも。ならば、あのなだらかな曲線を伝い、下のほうにあるささやかな茂みはと疑問を抱いた直後――わかった。声が誰か。ここはどこか。今、誰がどんな姿でいるか。
「えっ?」
「あ、いや」
「きっ、きゅう、けつき、さん……?」
「ぁ……アル……」
 湯気の中においてもなお、鮮やかに煌めく薄青の瞳。普段以上に繊細そうな磁器の肌に、同じ白でも絶妙に色味の違う小ぶりな翼。豊かな桃色の長髪は器用にタオルで覆われているが、その目鼻立ち、見間違えるはずもない。
 ある意味でこちらも渦中の人物、ナギが姉と慕い数多の男悪魔が憧れ、この生真面目な吸血鬼の心を四百年前から奪ったきりの天使アルティナが生まれたままの姿でいた。
 彼女が裸なのは当然ここが浴室だからで、それだけに普段は滅多に見えない悩ましげな首筋が丸見えの、いやそれ以前に青年はついさっき致命的な部位を見てしまったような気がしてならないがあれはやはり。
「なっ……ななななにをなさっているんですかっ!!」
 瞬時に耳まで赤く染めて、天使の女が屈み込む。しかし彼女が最も見てほしくなかったはずの部分は実は既に男の視界に入っており、いやいやだからと言って隠すのは遅くもないし無意味でもない。
「ちっ、ちちちちちがうぞアルティナ!! 別に俺はお前の風呂を覗いたり乱入するつもりではなく……!」
 何故なら彼女に負けず劣らず赤面し、狼狽えながらも弁明しようとする男の視線は馬鹿正直にタオルから零れそうな双つの女の肉の果実に吸い寄せられかけ、それでは弁明の意味なしと慌てて背を向く、よりも先にぬるり。ぽたりと。
 恥ずかしさと困惑から縮こまった天使の娘は、しかし自分の足元に流れてくる雫の色に思わず血相を変えて立ち上がる。
「やっ……吸血鬼さんっ!?」
「いやだからだな、ただ部屋に戻ろうとしたらどうしてかここにいただけであって……! ってなっ、何をお前こら馬鹿者引っ張るな!!」
 男としてはこんなときに痒くなった鼻を拭った途端、相手に袖を掴まれしまい、猛烈な危機感が襲ってくる。あんなやわらかそうなのやあの鮮やかな色でやんわり尖って弾力がありそうでいじめてみたくなるのが自分の目の前に晒されてあまつさえ体のどこかに触れたりしたらもうその瞬間理性の糸がぷつんと切れかねないのにそんな必死な顔でしがみつかれてはそれともあれかむしろ襲ってほしいとそういうことなら。
「血っ! 吸血鬼さんっ、お鼻から血が……っ」
「は…………?」
 言われてさっき鼻を拭ったばかりの白手袋を改めると、真っ赤な花と思しき染みが点々と。ついでさっきから妙にむず痒い鼻の下に触れれば、指先が鮮やかな色の鉄臭い液体をしっかり含んでいた。つまるところこれは。
「なっ……ぷ!?」
「ああもうっ! いいから今はこれで鼻を抑えてくださいっ!」
 改めて意識したのがいけなかったのか。勢いを増した鼻からの出血に、吸血鬼が手で抑えようとするより先に天使の腕がぐいと伸びて鼻先にまで届く。突き付けられたのは白く濡れた布。
「これってお前タオ……!? い、いやそれより先にお前が身体を隠……っ!」
 反射的に顔を上げ、視界に飛び込んできたのは白。細やかな肌理を持ち、弾力たっぷりやわらかそうに大きく揺れて、視界どころか頭蓋ごとぐらつきそうに艷やかで蕩けそうで甘そうで美味そうでむしゃぶりたくなるような――。
「ほらもっと出てきたじゃないですかっ! 早く出て、まずは体を冷ましましょう!」
 ふらつく肩、いや腕を掴まれ、湯気の向こうから乱暴に背後へ押される。
 そのときどちらが足を滑らせたのか。足元に濡れた外套をそのままにしていた彼のせいか。裸足なのに足元を確認しなかった彼女のせいか。とにかくふたりは。
「だッ!!」
「きゃっ!」
 すっ転び。やわらかいのに下敷きに、されたはいいが頭を強打。打ちどころが悪かったのか、衝撃は彼の意識を唐突に奪ってしまって。
 だからまあ、彼に以降の記憶はない。悲しいくらい、ない。



「……ん? 声?」
「悲鳴に聞こえたデスけど……何かありましたデスかね?」
「…………へたれ」
「ナギっち? なんか知ってるの?」
「ううん、知らないよ。なーんにも、ね」







後書き
 久々のどたばたラブコメ? inナギちゃんさん。加入後の彼女はきっとこういう役割を担っていると思うのでそれを発揮させるべく4Rインフィニットまじ期待したいんじゃよー。
 ナギちゃんさんをがっつり書くのは初めてなのでそれなり苦労しました。あとはそういやお風呂乱入はやってなかったなーと思いつつ嫁ちゃんのにょたいーん書くのたのちい! が溢れてますね。
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