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夜気に揺れ

2014/07/13


 世の中、一寸先は闇。
 厳しい現代社会の荒波に揉まれた経験はないけれど、揉まれる前に現世そのものから隔離された、つまり死んで罪深き魂として一時的とはいえ奴隷に等しいプリニー生活を味わったことがある風祭フーカは、それを十分承知している。復讐の狂気に囚われた人間が悪魔たちから奪った魔法技術と科学力によって生を受けたも同然の妹、人造悪魔でありながら彼女の夢のためにラスボスを目指すデスコもまた同じような認識だと考えている。
 だからだから。ひょんなことから四百年前の人間界に喚ばれて出会った、未来では仲間の一人である天使の――今いる過去の世界では一介の無力な看護師でしかない上、敵国の兵まで助けたせいで間者の容疑がかけられた修道女アルティナが沐浴をしに行くと言い出したとき、正直なところかなり肝を冷やした。
 幸か不幸かその計画は彼女の護衛役、いや本人曰く死なないように見張っている『だけ』らしいこちらも未来では仲間の吸血鬼――このときは人間どころか悪魔にでさえ恐れられた『暴君』ヴァルバトーゼが当然のような面構えで覗くと言い放ち潰えたが、完全に危険が去った訳ではない。
 今までこちらが目を離した隙を見計らい、彼女が勤める診療所と自分たちを四百年前の世界に呼び寄せた元凶であるナギのラボを往復する二重生活を平気な顔で送っていた彼女のこと。またいつの間にか吸血鬼を上手く説き伏せ単身ラボを抜け出し、グスターク兵に捕らえられる可能性だってある。
 なら、そんなことをさせないためにはどうすべきか。沐浴に行かなくてもいいと思わせるにはどうすればいいのか。
 今から四百年後の地獄にいる仲間たちには阿呆だの知性の欠片もないだのと散々な評価を下される姉妹だが、これについてはさほど時間をかけずあっさり名案が思い浮かんだ。
 暗に二人してそれを求めていたのは否定できないが、それを差し引いても沐浴の代行案となると現代人なら簡単に思い浮かぶだろう。即ち。
「お風呂よ! ナギっち、お風呂造って!」
「…………は?」
 唐突にそんな命令を受けた少女の心境、推して知るべし。
 しかも受けを狙ったつもりもなく、気迫たっぷり真剣そのものの表情でそんなことを告げられて、どこか悪いのか頼りなげに明滅する壁かけランプを修理していたナギは思わずドライバーを手放しかける。が、床に転がる前に辛うじて回収。ほっと安堵の息を漏らして姿勢をもとに戻そうとしたら、それまで気を付けていたはずのランプ掛けに頭をぶつけ、脚立の上でもんどりうつ。
「っっっったぁあ~!! が、がりって……がりって言ったぁ……!」
「そんなの聞こえた、デスコ?」
「聞こえなかったデス。だいたいデコっ娘は石頭って相場で決まってるんデスから、ナギっちの頭はそんなことでダメージを負わないのデス」
「ひどい偏見だよぅ……痛いものは痛いの」
 ぶつけた箇所をそっと撫でて手袋を改めても、赤い染みや血の匂いはしない。出血までには至らなかったことに安堵しながら、ナギは自分が呼び出した『最強の戦士』のはずの姉妹へ視線を投げる。
 成功例は今までなかったとは言え、機工術の正式な術式に則って召喚した以上、二人とも一応は自分の要望に応えてくれているはずだが、今では反対に自分が彼女たちに振り回されている気がしてならないナギにとって、今回の件も正直な話、あまりいい予感はしない。
「で……? さっきなんて?」
「だからお風呂よ! お風呂があればアルティナちゃんが殺さなくなるの!」
「はぁ? お風呂ぉ?」
 フーカたちにとっては身近な習慣でも、そこから四百年前の世界に生きるナギにとって風呂なぞ滅亡した旧き大国の文化、貴族の娯楽や贅沢な衛生管理方の一つでしかない。ついでに彼女はそれで人の命が救えるなんて話を聞いたことがなく、まさに寝耳に水だった。
 いやよくよく思い出せば黒死病をはじめとする疫病の大半は不潔な環境が原因との説を聞いた記憶もあるが、必要なのはあくまで汚物や菌を人体から隔離するための下水整備であり、垢や汗やその他汚れを洗い流せば疫病にかからないなんて話ではないはず。更に言えば姉妹が近々殺されてしまうと話していた人物は、疫病で命を落とすのではなく――。
「……シスターはグスターク兵に殺されるかもしれないんでしょ。なのにどうしてお風呂で命を救えるなんて話になるの」
 ナギの脳裏に浮かんだのは、質素な法衣に身を包んでもなお麗しい、たおやかな看護師。こちらがはらはらするほどのお人好しで、聖女と呼ぶに相応しい清らかさは、戦争とそれを巻き起こす兵士たちへの憎悪にいまだ囚われている彼女にとって疎ましいほど眩しい。同時に魔物や敵兵を前にしても物怖じしない据わった胆の持ち主でもあり、毎回戦場について来るだけでも十分気を揉まされるのに、あの恐ろしい吸血鬼を相手に約束を持ちかけたときはどれだけ背筋が凍ったか。
 その吸血鬼を思い浮かべた途端、まだ約束を交わして二日目にも関わらず仲睦まじそうなふたりの様子まで記憶から引き出してしまい、知らずナギの細い身体が強張る。しかしすぐさま我に返り硬直も不安も振り払えば、姉妹の発言もすっかり呑み込めよう。
「だってアルティナちゃん、水浴びしに行きたがってたじゃん。けど兵士に狙われてるのにそんな理由でほいほい外に出られたら危ないでしょ?」
「だから、沐浴しに行かなくても済むようにここにお風呂を造るデスよ! そうすれば、アルティナさんが勝手に一人で外に出ちゃう心配もなくなるのデス!」
「…………ぅうん」
 呑み込めるはずなのに、さほど説明が腑に落ちないのは何故だろう。いや、控えめに見てもこの案は労力に反してそれほど大きな効果を上げないと冷静に判断したナギは肩を落とす。ついでにプラスドライバーを腰の道具鞄に仕舞い、代わりに取り出したるは六角スパナ。
「シスターにとっては沐浴より診療所の様子を見に行くほうが大切だし、そっちのほうが時間もたっぷりかけるでしょ。実際、狙われるようになってからは吸血鬼も診療所に連れて行くようになったし……」
 今は三人しかいないラボをちらと眺めながら、ナギはどうとも表現に難しいため息一つ。
 以前ならかの修道女が診療所に出向く際、吸血鬼はラボで待ってもらうよう説得したそうだが、今の彼女は味方のはずの自国兵に追われる身の上。遭遇すれば逃げ切れるかどうかも怪しいのに、診療所を襲われでもしたらどうすると姉妹に脅され心配され、あの男を連れて行くようになった。
 まああの吸血鬼が患者の世話を手伝うなんて天変地異が起こってもあり得ないし、できることと言えば診療所の周囲を見張るくらい。それでも行き帰りでふたりきりの時間は確実にあって、仏頂面の吸血鬼はともかく、看護師のほうは人懐こく同行者に話しかけるに違いない。そう確信めいた未来を頭に思い描くだけで、なんだか胸がむかむかと、父が残した琥珀色の液体――あとで調べれば機工術の実験でできた蒸留酒だった――を一気に飲み干したときのような感覚がせり上がってくる。
「だからこそよ!」
「えっ?」
 が、少女の心に立ちこみかけた暗雲はフーカの力強い声に一払い。
 あまりの力強さに半ば放心したナギさえ無視して、風変わりな帽子の少女は握りこぶしを作りかくも語る。
「アルティナちゃんだってシスターの前に女の子でしょ! 仕事熱心な子なら、ううん、仕事熱心だからこそ、のんびりまったりできるひとりの時間を大切にしたいってホントは思ってるハズよ! しかも四六時中ヴァルっちにぴったり引っつかれるとか乙女として色々気にしちゃうでしょ臭いとか!」
「けどアルティナさんいい匂いだから、ちょっとお風呂入らないくらいきっと大丈夫デスよ?」
「あんたはそれでいいかもしれないけど、ヴァルっち的にはどうなのよ。好きな子の体臭なんて、下手なパンチラよりアウトじゃないの?」
「あれ? ヴァルっちさん、匂いフェチなんデス? けどそれならそれで生臭いイワシなんて好きにならないと思うのデス……」
「……えーと、フェチはともかく。シスターは看護師だもんね、衛生面は気にするか」
 診療所を覗いてはいないが、怪我人で溢れ返っている上に物資に限りがある場所を清潔に保つのは難しい。多くの怪我人と接触する彼女自身もまた衛生管理には人一倍気を遣っているものの、それで本人が完璧と思っているかどうかは不明だ。
 それに勤勉であればあるほど休息が重要、とのフーカの論には頷けるものがある。診療所やラボ内での家事も含め、いつもてきぱき働いている彼女が慎ましい寝床で得られる睡眠で十分休めているとは考えにくい。
 ならばいつも頑張っている彼女のために。喜んでもらうために――。
「……う、うん。そう考えてみると、そんなに悪くないアイデアかも」
「でしょでしょ!? そう思うでしょ!?」
「デスコたちも手伝うデスよ! 帰ってきたアルティナさんをびっくりさせるデス!」
「アルティナちゃん、水浴び行けなくてちょっと残念そうだったもん。絶対喜んでくれるわよ!」
「…………ん」
 湖畔にひっそり咲く花のような、可憐で楚々としたアルティナの笑顔は、多くの人々の心に慈雨となって降り注ごう。
 甘え盛りの年頃にも関わらず唐突に独りぼっちになったナギにとってもそれは同じで、あの笑みに癒しどころか中毒性さえ覚えている彼女にそれは今やどんな誘惑より抗い難い。おまけにここ最近の修道女の隣はあの吸血鬼が独占しており、密かにその状況が面白くなかった少女にとって、これは自分を見返してもらう絶好の機会とも言えた。
 いや、あの清廉なひとがあっさりとものに釣られたり、誰かに意識を注ぐ分だけほかの誰かを軽んじたりする人ではないのはわかりきっている。けれど新入りなんか気に留めないでほしい、もっと自分に構ってほしい、やさしく話しかけてほしい――そんな欲求を誤魔化せるほど、彼女は大人ではないから。
「……仕方ないなぁ。じゃあ二人とも、ついて来て。今は物置にしてる洗い場があったから、まずはそこを片付けなきゃ」
 ランプの整備はまた後にしよう。あの素晴らしい水色の瞳が大きく見開かれ、次に嬉しそうに自分に微笑みかけてくれる瞬間の幸福に比べればこんなもの明日でも構わない。
 そう脚立から降り立ったナギの足取りが浮き足立つの言葉通りだったとは、当然ながら本人まったく気付かなかったとか。

◇◆◇

 さて。そんなやり取りや思惑があったなどとは思いもよらないアルティナが吸血鬼とともにラボに戻ったとき、いつも以上に身体に傷と煤を散らしたナギに何故か自慢気に出迎えられ、さすがの彼女も怪訝に眉を顰めてしまった。
 それでも『無理やり』『姉妹に』『風呂場を造るよう要求された』との説明を聞けば頬の強張りも同情めいた苦笑に変じ、あらあらと咎める声さえ漏れるほど。ならばあの二人に自分から何か言うべきか女が問えば、そんなことはしなくていいと慌てて少女は否定して、その様子で蚊帳の外の吸血鬼ヴァルバトーゼはなんとなしに真相がそうでないことを察した。
 小娘どもからの単純な善意によるアドバイスか、三人揃っての贈り物かそれとも単独行動か。とにかく照れ隠しでそんなことを言っているのだろう。人間同士なら意地を張る必要もなし、よくわからない小娘だと眺めていると、何故か唐突にこちらを睨まれる。
「ん?」
「とにかくっ! シスターは疲れてるんでしょっ、フーカたちがご飯食べてる間に早く入っちゃって!」
「そんな……お二人に内緒だなんて悪いでしょう。それにお疲れならナギさんだって……」
「いいからっ! シスターが一番に入ってってば!」
 頼みどころか最早命令だ。そんな物言いで大人しく従うのはこの娘くらいなものだろうと考えれば、なんのかんのでこの小娘もまた彼女に対して甘え癖がついてきたらしい。
 しかしならばどうして見張っているだけの自分を睨みつけるのか。不可解な仕草に思わずこちらも睨み返せば、ぷいと顔を逸らされて修道女の腕まで掴んで行ってしまう。
「ここじゃ危険なんて何もないんだから、お風呂まで見張る必要なんてないでしょ! あなたはそこにいてよね!」
「な、ナギさんっ、わたくしきちんと歩けますから……」
「あっ、き、気にしないでっ! ちょっと入り組んだところにあるから、はぐれちゃうといけないし……」
 まだ何かごちゃごちゃと言い訳を連ねながら奥へ消えていく二人の背中を漠然と見送った男は、二人の姿が完全に地下へ引っ込むと同時に深く大きく長嘆息。別に疲れてはいないが、それでもここに着いた以上休まねばなるまいて――適当な椅子に腰かけた瞬間、膝が崩れ落ちる感覚を彼が疲労と自覚していないだけの話だが。
 しかしたったの数日。人間界で血を吸わないだけでここまで性能が落ちるものなのかと、生まれて初めて補給を絶った吸血鬼の青年はうんざり我が身の頼りなさを振り返る。
 悪魔に必要なのはまず第一に武力、それは彼も否定する気など毛頭ない。しかし意志なき力など獣にも劣る。自らが持ちうる力と同じく強靭な、気高い意志があってこそ武力は正しく世に作用すると今まで固く信じてきたのに。今の彼は意識ばかりが先んじて、武力がそれに追いついていない。
 情けない話ではないか。
 自分は誇り高く生きてきたからこそ強いと信じていたのに、実際のところそれは単なる思い上がり。血を補給しなければたったの数日でその強さに陰りを帯びるなど、『暴君』の名が聞いて呆れる。
 いいやそもそも、あの神の信徒たる人間の娘と約束を交わし、恐がらせるため死なないように見張るためと言い、魔力を削りながらまんじりとしているだけの現状は悪魔としての使命を果たせていると言えるのか。
 正確にはその娘とともに戦場へ出て、卑劣な人間どもやその傀儡に成り下がった同胞を叩きのめしてはいるけれど、約束の執行は二日経った今もまだ為される気配もない。悪魔同士の弱肉強食劇で打ち勝つことも、人間どもを暴でもって戒めることも容易いのに、どうしてたったひとりの人間の娘を故意に恐がらせることができないのか。
「……何故だ」
 考えてはいた。昨日から暇さえあればひたすらに。しかし相も変わらず妙案が浮かんでこないせいか、今やそれを頭に思い浮かべただけで欠伸さえこみ上げてくる始末。
 眦の涙を拭いながら、男は心の中で言い訳をする。まずあの娘は初対面の時点で恐れなかったのだから仕方ないと。
 むしろ人間も悪魔も吹き飛ばした彼を怪我人を診るのに邪魔だと無碍に扱って、ようやく声をかけたところで赤子そっくりあどけない瞳で見上げてきたか。挙句、こてんと小首を傾げた仕草のあまりの能天気さに、眩暈がした記憶も鮮明な。
 それにあの小娘どもが指摘しなければ対面する男が吸血鬼だとすら気付いていなかったようだし、となるとまともに彼が人間どもを叩きのめし恐怖を与える姿を認識していなかった可能性だってある。
 そんなある意味ではとてつもなく幸運な、だがこちらにとってはとてつもなく運の悪い娘を改めて恐がらせることなんてできるのか。同胞たる人間どもにさえ刃を向けられ、魔神の凶暴な牙や爪に狙われてもまだ自らの職務を優先する看護師に、余計な邪念を与えるなんて――。
「……む」
 いや、そんな考えはよろしくないと首を振る。そう表現するとまるでこちらが娘の使命を邪魔しようと企む野暮天になってしまうではないか。
 そうではなくて、これは言うなれば鍔迫り合い。
 男の使命感が娘の使命感に打ち勝てば、戒めの契約は解かれて彼はふたたび勝手気ままに血を吸えるようになる。あとに残るは勝利と屍のみ。恐れ知らずのはずの娘は恐怖の表情を張りつけて、血の一滴たりとも残さぬ骸に成り下がるだろう。
「………………」
 なのに何故か。喉が渇き、無尽蔵のはずの魔力に底が見え始め、違和感どころか苦しみさえ抱いたはずなのに。その想定にこそ胸高鳴らせるべき男は、実際のところその光景を想像しても小石ほどの意欲さえ湧かなかった。
 しかしおかしい。それはおかしい。
 吸血鬼が人間の血を吸うよりも満足できる行為などこの世にはないはずだ。なのにどうしてあの女の血を吸いたくないのか。
 いいや吸いたいとも。でなければあのような約束、交わす気にもならない。それどころか娘の容姿も心の在り様も含めれば、今までの彼の獲物の中でも五指に入るのに。
 そうともあの娘は逸材だと、穏やかに目を瞑った男は表情筋がかすかに緩んだ自覚もなく、改めて約束を交わした女の容姿を脳裏に描く。
 新雪めいて白くとも蜜を含んだ果実を連想させる瑞々しい肌に、咲き綻ぶ蕾を思わす頬や唇の鮮やかさ。丁寧に品良く造られた顔立ちに、猫目が愛嬌たっぷり、人懐こさを表して。肢体は細いが女としての柔和さは失わず、こちらに触れてきた手さえ驚くほどに心地良かった。性格が体臭と変じたのか肌の奥から滲む芳香はどうしようもなく彼の『食欲』を煽るし、可憐な小鳥の咽喉が人の言語を操るがごとき声音は耳にも甘く、立ち振る舞いはどこまでも清楚。垂れ流しているだけなのに女を華やかに飾る桃色の髪も目で愉しい。
 ああそして、何よりも素晴らしいのは薄青の瞳。愚かしい同胞同士の争いにも決して歪められぬ高潔な心と、意志の強さ。身の丈に合った確かな知性を秘めて煌めく魂の映し鏡。
 あれを視界に入れれば、あれが自分に注がれていると自覚すれば、それだけで今まで知りもしなかった奇妙な感慨が湧いてくる。血を吸わない約束にも、それによってもたらされる苦しみにも耐えられる、耐えてみせようと己を奮い立たせられた。
 だからあれが視界から消えてしまった今、青年は締まらない、間延びした姿勢でだらだらと過ごすしかできず。また重くなった頭をかくり、うっかり舟を漕ぎかけて首を激しく左右に振る。
 ――だとすると、だからなのか。
 もし約束通り娘を恐怖させれば、即ち娘は死に、いや自分が殺してしまう。
 苦しめられた報復も兼ねて血を吸いきってしまえば、同時にあの娘の潤んだ瞳や独特の芳香、駒鳥めいた挙措さえも失われる。それは自分の消費されるしかない魔力の充填と同価値なのか。さすがにそれは傲慢過ぎやしないか。
 だからと言ってあのときの娘の言葉通り、娘を最後の獲物にしてしまうのも辛い。
 彼は人間にとって恐怖の化身となるべき悪魔である以上、魔力を揮わずその使命を果たすことはできない。だからもし娘の血を吸えるようなったとしても加減して、殺すまでには及ばずともなるべく永続的に血を補給していけば問題はないのだが。
「……しかしな……」
 そんなこと、彼は今まで試したことさえない。
 人間との一方的な付き合いの中ではごく稀に恐怖に負けず抗う連中に出会った経験もあるし、勇気ある彼らには尊敬の念さえ抱いたものの、基本的に獲物は殺すもの。血を吸う対象の体調を気遣った記憶は一片たりともなかった。
 なのに今更そんなことを考えてしまうなんて、青天の霹靂にもほどがある。しかも第三者からの誘導なしに、自力でこんな発想が浮かぶとなるとそれこそ有り得ない。しかし今、現に有り得てしまっているのだからどうしようもない。
 我がことながら仕方なしに、青年は自分の胸に問いかける。
 そこまであの娘は貴重なのか。珍しいのか。きっとこの先、もう二度と機会があるかもわからないくらいに甘美で濃厚な、極上の血をたっぷり身に詰めている確信があるのか。
 答えは。
「……………………わからん」
 真剣に考えても直感を頼っても、それに尽きた。
 実際に味わってみなければ血が美味いかそうでないかなんてわからないし、今まで人間の容姿に関してそんな予測を立てたことはない。
 ただあの娘が今までになく気にかかるというか、目を引く部分があるのは認めよう。そうでなければ彼女の仲間と抜かすあの厚かましいイワシ娘どもと同行したりしないし、こんな胡散臭い歯車だらけのアジトに身を寄せるはずも――。
「うぅ……」
「ん」
 と、奥からのろり例の娘が現れて、意識が瞬時に切り替わる。当然本人はそんな自覚ちっともないが。
 いやしかし一応、歴とした理由はある。一緒にここに帰ってきたときは問題なかったはずの娘がこのときは違和感に満ちていたのだ。頬がちょっと見ない間に真っ赤に染まり、目つきも足元も覚束無くて危なっかしい。となると気に留めなければむしろ不自然で、あれだけどっかと下した腰を嘘のように持ち上げ声をかける。
「どうした」
 その一言でいつもなら――とは言ってもまだ約束を交わして二日目だが――すぐに振り返るはずの娘はしかし、一秒二秒と遅れて反応。ようやくこちらを見上げてきたが、息遣いがやけに荒い。
「……吸血鬼、さん……」
 舌を動かすのも精一杯なのか。たどたどしくこちらを呼ぶ声さえも擦れ消えそうで、胸の杭の辺りが騒がしい。目元も不自然なくらい潤んで呼吸も浅く、これはもしや苦しんでいるのか。どうして。あの小娘たちはどこに行った。あの奥で一体何をしていた。
「何があった。顔色がおかしいが」
「その、お風呂に……」
 風呂。確かにあの眼鏡の小娘がさっきそんなことを言っていた。
 だが一人で風呂に入ったにしてもあれから十分程度しか経っていないはずだ。風呂とは名ばかりの茹で釜に入るよう強制されたならまだ娘の容体にも納得できるが、そんなことをする子どもではないはず。ならどうしてと不可解ながら娘の様子を改めた男は、ようやく大きな違和感の正体に気付く。
 娘は墨染めの法衣を脱ぎ、その下の白いワンピース姿でいた。ついでに胸乳を持ち上げていたリボンも外し、たかが一枚身軽になっただけなのに、やけに扇情、いや開放的な印象を抱かせる。
「……久しぶりに入ったものですから、加減を忘れて。のぼせてしまいました……」
 しかし中身は普段通りの、こんなときでも無理をする娘らしく、苦しげなのに微笑んできて。胡乱なやつだと囁いてそっと首筋に触れれば成程。魔炎さながらの熱が手袋越しに伝わってくる。
「ぁ……」
 体温の低い吸血鬼の指は、手袋越しでも娘にとってそれなり気持ち良いらしい。はふ、と零れる声さえ熱く、おずおずと瞼が閉じられていく。
 しかしこんなもの焼け石に水だ。いやそれよりも獲物たるべき女にこんなふうに触れてしまい唐突に居心地の悪さを覚えた男は、沈黙を打ち破るべく強張る舌を無理に動かす。
「それで。どこに行くつもりだ」
「少し、涼みに行こうと……外へ……」
「愚か者。独りで行く気か」
 陽が落ちれば兵士どもも拠点に帰るとは限らない。それどころか昨日は夜に合戦が起こったし、加えて今の娘はお尋ね者。安全の確信もなくここから出るなど無防備に過ぎる。
 短く響いた彼の叱咤に、娘は薄らと目を開けて、今にも倒れそうなまま小さく首を傾げつつ。
「……なら。あの。お願い、しても?」
「願い?」
「はい……一緒に、外に……」
 涼みに付き添えと言いたいらしい。なかなか悪魔遣いが荒いが、約束は約束だ。仕方あるまい。
 ため息一つを了承の合図とし、吸血鬼は細腕を取って先導する。その際、鼻腔に届いた娘の芳香はいつも以上に甘く蕩けて強烈で、彼もまたある意味で彼女と同じく、眩暈を堪えるのに精一杯だった。

◇◆◇

 ラボに帰ってきたばかりのときはまだ夕日が山々の谷間から顔を覗かせていたはずなのに、今となっては太陽の気配さえなく、代わりに丸々肥えた月が夜空の支配者然として浮かんでいる。
 しかし今宵は曇りのようだ。快晴なら眩しいくらいに降り注ぐ数多の星光はかすれ途切れ、夜の王国はうら寂しげな。これでは王陛下も凱旋を途中で雲隠れしかねないが、どうか機嫌を拗らせて雨雲を引き連れてきませんようにと祈ってから、娘はほうと息を漏らす。腰を下ろした先は、涼むにはぴったりの小池を淵取る岩のひとつ。
 日中なら憎悪の螺旋を生み出すばかりの戦場となった国境周辺は、太陽も憩うて姿を隠した今なら緑が深く水も清く、血腥ささえ掻き消えた。小池を湛えるせせらぎの音は夜の静けさをいや増して、どこからともなく吹きつける風は茹だった身体を心地よく程良く冷ましてくれる。それこそ貞淑な修道女でさえ、このまま寝てしまおうかなんて大胆な考えを浮かべてしまうほど。
 しかしそれを実行に移してしまえば今度は風邪を引きかねない。一緒に来てくれた彼のためにも体調は万全にしておかねばと己に言い聞かせると、はためく外套の紅がちらり。導かれた視線の先には、こちらを瞬き少なく見つめる、いや見張っている男がいた。
「連れてきてくださって、ありがとうございます。……お蔭で随分楽になりました」
 涼やかな風を受け、いつも以上に心も口も軽くなった女とは違い、男は不動のまま。と思いきや妙に渋い顔で視線をそらす。
「なにかありまして?」
「……いや。時が過ぎるのは案外早いと知ってな」
「はあ」
 どういうことだろうと疑念に瞳を瞬かせても、吸血鬼は頑と口を閉ざしたまま。
 長風呂でうっかり上せた彼女には知るはずもない話だが、男は椅子に腰かけて暫く思案していただけのつもりだったのに、蓋を開ければかなりの時間とろとろ微睡んでいたと知らされて、腑抜けた自分に戸惑ったりの恥じたりの心中かなり騒がしく、むっつりしかめ面を作るのも致し方なしの心境だった。
「……何があったのかは存じませんが、そんなお顔はあまりよくありませんわよ。今夜は折角の満月なのに、そんなに睨まれては月も隠れてしまいます」
 まあ素直に胸のうちを告白してくれるほど、彼は人間に気を許してはいない。一足先に気持ちを切り替えた娘がそう宥めると、男は先よりも幾分か視線を和らげ改めて夜空を仰いだ。
「……そうか。満月だったか」
「ええ。……月には何か思い出でも?」
 気軽な口調で訊ねはしたが、娘の頭の中は冷静に、お前に話す理由はないとあしらわれる予想を立てたのに、実際の男はいともあっさり頷き答える。
「ああ。今は連れてきていないが、俺のしもべが忠義の誓いを立てたのがあれでな」
「お付きの方がいらっしゃるの?」
 二重の意味で意外な返答に思わず声の調子を高めてしまえば、男の機嫌はもとに戻ってしまう。不満げに、今度はこちらがじっとりと睨まれた。
「いては悪いか」
「いいえ、そんなことは。けれど気にはなります。どんな方?」
 先の反応は確かに無礼だ。そう自分の非を認める意味合いを込めて娘がにっこり、丁寧に笑んで訊ねると、男は毒気を抜かれたようなため息とともに短く吐き出す。
「……小うるさい男だ」
「あら」
 わざわざ月に忠義を立てるほどのしもべに対して、あんまりな評価ではないか。そんな失笑交じりな女の一声に、男はますます不機嫌そうに眉を寄せて食いついてくる。
「お前にはわからんだろうがな、俺のためと言いながらどうでもいいことに逐一口を突っ込まれ、したくもないことを強制されればそうもなる」
「けれどその方は本当にあなたのためを思っていらっしゃるんでしょう? いけませんわよ、親切心をそんなふうに」
 普段の女なら適度に宥めすかすなり双方の肩を持って茶を濁すだろうに、何故だかこのときだけはしっかりこちらを咎められ、男は面白くなく鼻を鳴らす。
 そんな吸血鬼の仕草が彼女の目には新鮮で、見た目は貴族めいて立派なのにまるでふて腐れた男の子のようだと思えば、知らず喉の奥からころころと、無邪気な笑いが転がる。
 静かな夜空の下、普段は味わえない解放感とそばにいてくれる男の存在が女の心を軽くしたのだろう。いいやそれどころか浮かれていたと表現しても過言ではあるまい。ひとしきり笑った彼女は、そのあとふと戒めていた言葉を舌に乗せてしまって。
「……羨ましい」
「は?」
「あ」
「羨ましい?」
「いえあの」
「口出しされるのがそれほど好きか。本当にお前は変わった女だな」
「違うんですっ! そうじゃなくて……というかそのっ、気にしないでいただけませんかっ!?」
 などと真っ赤な顔で叫ばれて、気にしないほうがおかしい。
 ならばそれまでこの娘に散々振り回された恨みをここで晴らすべく、その話題を掘って掘って掘り下げてやろうかと悪魔的な発想が吸血鬼の頭に過ったが、いつもおっとり笑顔を絶やさぬ娘がこうも動揺する姿はなんというか。
「……………………」
「……き、吸血鬼さん?」
 縋るような潤んだ眼差し。大きく歪んだ眉。不自然に赤く火照って滑らかな頬。真珠の歯が食い込む、花弁そっくりの艶めく唇――今まで見たことがない、本人は無自覚だろうがなにかたまらない衝動を掻き立てる女のかんばせに、目が離せない。舌が、目線が、杭の奥、思考までもが軋んでしまう。なんだか、いいやなんとなく、猛烈にまずい予感がする。
「…………そう、だな。約束とは関係あるまい」
 それでも誇り高き悪魔として強固な意思を発揮し、女から無理やり視線を引きはがすと、ほっと安堵の息が耳に届いた。途端に大きな獲物を逃した未練が湧き上がるが、発言を翻すのはさすがに情けないので渋々青年は横目で睨む。
「ならお前はどうだ。もし自分があの小娘どもに過剰に付きまとわれ、やることなすこと逐一口を挟まれれば、鬱陶しいと思わんのか」
 それでも手持ちのなさも相まって完全に別の話題など振れやしない。ほぼ先の話の仕切り直しに近い切り替えに、修道女はまだ頬に赤みを宿したまま曖昧な笑みを浅く刻んだ。
「付きまとわれる……と言いますか、守られるのは強いおふたりに。口出しはナギさんに、あなたと約束する以前にはよくされていました」
「ほう。それにお前はどう応じた」
 自分に都合よく言い包めるなり、無視するなり。どんな反応をしようが内心疎ましく感じていたろうと暗に含めた物言いに、さてと娘はあくまで軽く肩を竦める。
「あの子たちが純粋にわたくしの身を案じてくださっているのはわかっていますから。邪険にしたつもりはありませんわ」
「お前が死ぬから、か? 下らん」
 自分は自国の兵に殺されてしまうそうだと、女が他人事のように言ってきたがそんなこと彼にとって話半分、いやそれ以下の戯言だった。
 確かに人間どもの召喚術は日に日に精度を上げ、呼び出される悪魔たちは上級、魔神級が当たり前になりつつあるが、信念なき傀儡どもに自分が負けるはずなどない。大方、兵士どもに狙われて遅まきながらに怖くなってきた小娘たちが、子どもらしい過剰な不安に苛まれてそんな世迷いごとを口走ったのだろう。そう思えば小生意気なあの連中にも、少しは可愛げが出てきたか。
 なのに能天気な笑みを絶やさぬはずの女は、その横顔にかすかな陰りを滲ませる。
「どうなのでしょうね……」
 うら淋しげな表情に、男は一瞬拍子抜け。
 次に湧き上がるのは、戸惑いでもなく気まずさでもなく、怒りであり屈辱だった。娘のこの反応は、彼の見張ると告げた意思を信じていない裏付けなのだから。
「……どうした。味方のはずの連中に狙われて、今更自分の行いを後悔したか」
「そんなことは」
 頭を振って桃色の髪が揺れる。残酷な風に毟られた花弁を思わせ儚げに。その光景はいつもなら美しいはずなのに、娘の表情同様、痛ましげなのが苛立たしい。
「……いえ、後悔していますわね。あの子たちの厚意に甘えて、わたくしの事情に巻き込んでしまって」
「事情?」
「だってあのとき、あの人たちは……『貴様らの顔を覚えた』って言っていたでしょう? それはつまり、あの子たちも……わたくしの仲間として同じ罪を背負ってしまうと。そういうことになるじゃないですか」
 成る程。娘はそれを後悔し、恐れているのか。
 納得して顎を引きかけた男は反射的に脳裏に走ったばかりの言葉を反すうする。『恐れている』、この娘が。命を脅かす数多の障害にさえ立ち向かう、この女が。
 ――いや? いいやそれよりも。
 それもまた衝撃的には違いないが、何か間違っていやしないか。食い違っていやしないか。
 本当にあの小娘どもはこの娘と同罪と見なされたのか。この娘があの『戦争を止めるため』の一味の中で最も罪深いのか。否。違う。『逆』だ。
 その単語が閃いた瞬間、推測に過ぎないはずなのに猛烈にいやな予感が男の全身を襲う。そうとも逆だった。彼女の言葉通り、あらぬ罪を被ると言うのならまずは。
「……お前、は」
「はい?」
「お前が、戦場に立つ目的は何だ。……戦争を止めるためか。そのために、争う兵士どもや悪魔を片っ端から倒していけば戦争はなくなると、そう考えているからか」
「っ……あなた、……!?」
 今までになく厳しい女の剣幕に、男は思わず夜空を仰ぐ。唖然とせずとぼけもせず、こちらの言いたいことを瞬時に飲み込んだその察しの良さで、娘もまたそれを理解していると知らされて。
 確かに敵国の要人を匿った看護師など、連中にとっては煩わしいことこの上ない。間者の容疑も過剰反応と呆れはするが納得できる。だが言い換えればたかがそれだけ。負傷した敵兵を治療すれば即座に彼らが戦線復帰するほど世の中単純ではなく、そもがただの一市民である女の動向を逐一探れるほど、この国は兵力に余裕がある訳でもなかろう。
 だからそれは単なる切欠。そして建前。本来彼女に科せられた罪はそんなものではない。
 この娘は細い肩に、レキドナ、グスタークを問わず襲いかかり戦場を混乱に追いやって戦力を殺いだ攪乱罪の烙印を押されたのだ――その罪で狙われるべきなのが誰かも知っていて。
「……何故お前があの小娘どもの罪を背負わねばならん。お前はただ自分の職務を全うしただけだろう」
「わたくしはあの子たちと一緒に戦い、あの子たちの傷を何度となく癒しました。だからわたくしはあの子たちの仲間で……」
「だがその意思に賛同はしていまい。……そう言えば、あのおかしな小娘どもめ聞いてもいないのにわざわざ教えてくれたな。お前が小娘の『戦争をなくす方法』に苦言を呈していた、と」
「っ……!」
 彼女はどれだけ戦場に首を突っ込もうと、敗残兵の傷を癒す看護師としての立場を徹底していた。戦争をなくすために両軍の兵士を倒し続けるなどと言う世迷いごとを掲げる少女と同行してもその信念に賛同を示すまでには到らず、それどころかそんな方法では戦争はなくならないと諭し、少女の着目点を召喚された悪魔討伐へと僅かながらに傾けさせたのに。
 よりにもよって味方の功労者を首謀者扱いとは、人間どもの愚かしさ、もはや怒りを通り越して滑稽でさえある。
「ふん……たかが数人の小娘どもに戦力を潰された挙句、その首謀者もまともに見つけられないとはな。やはりあの手の人間どもは愚かと言うほかない」
 吐き捨てれば、娘は思うところでもあったか。重々しい間を持ってからゆっくりと口を開く。
「……ナギさんは賢い子です。物資の補給でさえ近隣の町の人たちとさえ距離を置いて、ラボや自分の情報を極力誰かに知られないよう慎重に行っていました。フーカさんとデスコさんは、……随分と遠くから来ているみたい。ナギさんに従うしか帰る方法はないと仰っていましたし、誰がどう探ろうと、あの子たちの身寄りや正体は掴めないのでしょう」
「ならばお前は?」
「………………」
 問われた途端、ふっと俯く女の顔など、当然こちらからは覗けない。それでも困ったような、何かを耐えるようなぎこちない笑顔を作ろうとしている有様が脳裏に浮かんできて、杭の奥が鈍く痛む。どうして。この娘はただ自分の信念に従っただけなのに。
「……あの診療所は、教会の管理下にあります。わたくしがあそこを取り仕切れるのも、その権威があってこそ。ううん、それ以前にお達しがなければ、わたくしは教会の外から一歩も出られません」
「……つまり、お前は、…………」
 売られたのだ、自らの寄る辺であった教会に。先の独り言は恐らくに、それを踏まえての吐露。
 戦場を荒らし回る身元不明の娘たちの中に、唯一心当たりがありそうな恰好の女がいれば、痛い目に遭った連中は藁にも縋る思いで調べるに違いない。
 破門を受けていない上、診療所を預かれるだけの力を持った修道女なら、あらゆる意味で正体不明の少女たちよりも遥かに特定は容易だろう。育てた兵士を叩きのめされ、召喚した悪魔を倒された屈辱も込めてグスターク軍が教会に詰め寄れば、戦場から遠く離れた都市で戦争を嘆くふりをしながら安穏と暮らす僧侶たちの対応など、予想するのも馬鹿馬鹿しい。
 そうして軍はこの娘が敵兵まで診療所に匿っていると知り、手を叩いて喜んだろう。自分たちの面子を潰すことなく、娘を正々堂々と処罰できる理由を発見したのだから。
「教義では平等を謳おうと、わたくしはグスタークの人間ですもの……仕方ありませんわ」
「それでお前は……!」
 本当に納得しているのか。納得できると思うのか。
 血を吐くように声を荒げ、自らの怨火に焦がれんばかりの男とは反対に、女はやけに静謐な、凪いだ瞳を小池に注ぐ。普段の彼女らしからぬ、理屈で己に悟らせたらしき表情はただただ穏やかで、それが男にとっては口惜しい。
「……ええ、いいんです。あの子たちには未来があります。戦争に関わらない人生を送ることだって、やろうと思えばすぐにでもできる」
「お前は自分が年寄りだとでも思っているのか。お前とて逃げようと思えばいくらでも逃げられる!」
「身柄は既に把握されていますし……わたくしが姿を消せば今度こそあの子たちが狙われます。いいえあの子たちどころか患者さんたちにまで危険に晒され、命まで奪われれば、わたくし、逃げたことを一生後悔する……!」
 女の膝に添えられていた白い手が、きつく握られ月下にあってもより青白く震える。
 自分を慕う少女たちから無自覚に罪を擦り付けられ、身寄りである教会から裏切られたこの女は、それでも自らの運命を嘆きはせず。自分の命と自分が関わった多くの人々の命を天秤にかけ、彼らのために犠牲になると、罪を被る覚悟を決めたのか。
 その決意は確かに立派で、敬意さえ抱かせる。過酷な環境にあっても気高く己を貫いているのは自分ではなくこの娘のほうではないだろうかと、無意識でそれができるだけこの女のほうが余程立派ではないかとさえ感心する。しかしそれでも彼は、ならばやむを得ないと引き下がれなかった。
「……俺との約束はどうなる」
 喉の奥から声を絞り出す。人間相手には威圧的であろうと心がけているはずなのに、今やみっともないほど震えていたがそれがどうした。
「お前が犠牲になれば、それで多くを救えるとしても……俺だけが救われない。お前の血、お前の命を奪うのは誰でもないこの俺でなければ、お前の死は俺にとって戒めにしかならぬ!!」
 言い捨てた男の主張を我が儘、まるで子どもの駄々と嗤いたいものは嗤えばいい。彼は悪魔。弱肉強食の世界で強者として生き抜き、説得も懇願も弱者の行いと切り捨てていた身の上では、女ひとりを引き留める術など学ぶ機会もないのだから。
 そうとも、今まで知らなかった。いくら心を強く保ったつもりでも、言葉を交え視線を合わせるだけで自分の立場も使命も忘れさせる存在がいるなんて。
 ああそうだ。知らなければよかった。こんなに情けない自分を。それをさらけ出しても娘を引き留めたいと足掻く己の醜さを。真の気高さなど知りもせず、ただ強さに自惚れていただけの今までの自分を。
 それでも決して思いはすまい――いくら胸が今までになく疼こうが、強烈な衝動に苦しもうがそれでも、この娘と逢わなければ良かったなどとは。決して。
「……ああ」
 そうして彼女は。
 たった一人、お前が殺されて救われないものがいるぞと目の前で大声で叫ばれた修道女は、うす青の瞳に帯びた陰りを打ち払い、夢から醒めたような顔つきで。
「そうでした……わたくしったら……」
 あれだけ暗く沈んでいた相貌にほろ苦くも笑みを含ませ、大いに安堵した男はしかし次の娘の言動に再び全身を軋ませる羽目になる。何故なら彼女がゆっくりと立ち上がり、月光に冴える白い衣も含め、我が身を差し出す生贄のように頭を垂れ。
「でしたらどうぞ。あなたが我慢ならないと仰るのなら、今ここで血を吸ってください。そうしてわたくしの躯をグスタークの陣営まで運んでくれれば……」
「お前……っ!」
 自分に有利なはずの約束さえ破棄し、殺されても構わない。そう公言した女に、心中で胸を撫で下ろしかけた男は思わず牙を剥く。
「何度言わせる気だ! 俺はお前との約束を守る! お前を恐怖に陥れたそのときにしか血は吸わぬ!!」
「あなたの牙を首筋に感じれば、さすがのわたくしでも恐くなるかもしれません。ですからさあ、試してみて?」
「断る!」
「どうして?」
「俺とて見え透いた罠に引っかかるほどお人好しではない! 俺に血を吸わせるつもりなら、もう少しそれらしく誘惑しろ!」
「……誘惑だなんて。あなた、修道女に随分と酷なこと仰るのね」
「当然だ。傲慢な人間どもを戒め、弱き人間どもを貶めるのが我が役目! ……お前はその……、りょう、……っ!」
 無力でありながら何度となく戦場に足を運び、仲間に守ってもらいながらその身一つで数多の命を救おうとする姿勢は、成る程翻して見れば弱くも傲慢。愚かしい人間の極みと断言していいはずなのに、どうしても彼は先の言葉を吐き出せない。屁理屈であってもこの女を、誇り高く、あるがままに、たとえ命を失ってでも己を貫こうとする尊き魂を冒涜できなかった。
「ねえ。吸血鬼さん……」
 そんな男の狂おしさが、伝わった訳ではないけれど。
 自分の命を狙っているはずのひとが、こんなに必死に自分を死なせまいとしているのが不思議で、自分のために苦しんでいるのがわからなくて、いつものように笑顔でいいのと突き放すことなんかできず。唐突に黙り込み、立ち竦む悪魔へと娘は一歩近付く。
 そっとこちらが覗き込むと、気配を察してか男が僅かに顔を上げてくれる。険しい面構えは今しも泣き出しそうに歪み、なのに相変わらず意固地そうでもあって、甘い疼痛に抗えず、女はついつい、慰めるように笑んでしまった。
「ならあなたは、わたくしに何をお望みなの?」
「……決まっている。お前は俺に血を吸われるまで、傷一つなく生き続けろ。そのためならどれほど犠牲が出ようが構いはしない」
 なのに不貞腐れた子どもそっくりな顔で返ってきた答えは傲慢そのもの。可愛げがないどころかこちらが憎しみさえ抱きかねない内容で、譲歩するつもりだった娘はわざとらしくため息をつく。
「……ひどいひと」
「ふん……なんとでも言え」
 その反応に、男は半ば落胆して安堵する。
 娘はわかっていないのだ。どれだけ犠牲が出ようとも、守り抜くと告げたその意図が。どんな困難が立ち塞がろうとも、生き抜いてほしいとの強い願いが。
 けれど失望などすまい。誰であろうがその身に受けた痛みを憂い、傷つくことを厭うやさしさ。信念のためならば、自分の死さえも受け入れる高潔さこそ、彼にはひたすら眩しいのだから。
 そうとも、口に出しはしたものの彼にはとっくにわかりきっていた。いくら自分の望みであっても、この娘は誰かを犠牲にしてまで生き抜こうとしないことくらい。だからせめて、自分が彼女を。
「どうしてそれを望まれるの? 約束だから?」
「……無論。約束がなけば、お前など守ろうとも思わぬ」
 だから約束を交わして良かった。こんなに得難い存在を、ただの獲物と見逃さずに済んで。
 そばにいて、笑顔を向けられ、言葉をかけられ。その心を知り、その手に癒され。その身から溢れんばかりの慈しみを注がれて。この身を犠牲にしてでも守りたい女と出逢って、ほんとうによかった。
「そう……?」
 いつもの威厳が失せた、きっとこれが彼の素顔だろうぎこちない笑みを間近に受け、自らの鼓動が高鳴っていくのを耳にしながら娘は小さく首を傾げてしまう。
 吸血鬼の言葉そのものは後悔の塊としてしか受け取れないのに、響きはやわらかくしみじみと、自分との約束を喜んでいるようにも感じられ。だがあの約束が彼にとって足枷なのは紛れもない事実であり、だから約束を交わして良かったなんて考えるはずもない。なのに苛烈で自分を偽らないひとが微笑んでくれているのもまた見間違えようがなく、彼の言動にここまで乖離が激しい理由がまったくもってわからない。
 けれど胸の切なる疼きは治まらず、このままふたりでいればとんでもない暴走を起こしそう。だから深呼吸のあとに一言。彼女はあらゆる感慨を込めて囁く。
「……へんな吸血鬼さん」
 くすり笑ってしまえば、男は不可思議そうに瞬き、あの初々しい笑みは霞のごとく消えてしまう。
 その様子をまた目で愛でつつ、女はひとり物思う――そんな使命感に満ちた言葉じゃなくて。もっと平凡でありふれた、なのに誰にとっても特別な言葉と気持ちを捧げられれば。自分は肯ったのだろうか。何もかもを捨てて、このひとの庇護を受けたのだろうか。
 わからないが、今更そんな過程をしたって虚しいだけ。そう女は自嘲を一つ滲ませて、未練をきっぱり振り切った。完全ではないかもしれないが、少なくとも今だけでも。
「……もうそろそろ帰りましょうか。またあの子たちに心配させてはいけませんし」
 明るく告げてラボがある方向へ踵を返した娘の背を、煙に撒かれた男はしぶしぶ追従する。
 吸血鬼との約束と少女たちの罪を被って処刑されること、彼女はどちらを優先するのかついに明言しなかったがそれはつまり現状維持。彼の約束が犠牲になるが、それを主張すればまたあっさりと血を吸うよう持ちかけるに違いない。それはならぬと意固地を張れば、話は再び平行線。ある意味、煙に巻いて話題を切り上げるしか解決方法がないのだろう。
 そうして浮かれもせず、怯えもせず。かと言って慎重過ぎもしない足取りで、悪魔の男と人間の女は夜露に濡れた小路を歩く。胸に宿る切なさを持て余しながら、なのに自分が相手にとってどれほど大切なのか不明のまま。
 その途中。
「……あのね、吸血鬼さん。それでもわたくし、後悔はしていませんの」
 静かな森のただ中で、心地良く耳に馴染む声が耳朶をくすぐる。闇夜を照らす月明りよりも凛と澄み、夜気に湿った天土に際立った温くも芳しい香りを漂わせ。
「あの子たちと出会い、あの子たちとともに過ごした日々は、わたくしにとって大切な宝物です。そうしてあなたにも逢えましたもの……たったひとりで診療所に詰めているだけなら、きっとそうはならなかった」
 娘の言葉は心からの本音だろう感謝の気持ちに満ちており、吸血鬼はただ黙って髪の隙間から覗く白い肩を食い入るように見つめてしまう。悪魔ならば強がりだろうと弱音を無理やり引き出すべきかもしれないが、こんなに真摯で前向きな想いを前にしてはどんな合いの手も野暮に過ぎる。
「……だからいいの。誰に殺されたって、なんの恨みも抱きませんわ」
 届く声音は清々しく、きっと娘はさっぱり笑っているのだろう。
 葛藤など通り越し、今までの自分の生き方に堂々と胸を張る姿は、かつての自分を見ているように懐かしくも輝かしい。ついでに羨ましいようであり小憎たらしいようでもあり、兎角、背後の男は渋い顔で短くぼやいた。
「それでは俺が困ると何度言わせる」
「ふふ、誰でもって言ったでしょう? あなたに吸われたっていいんですよ。わたくしの命は早い者勝ちです」
 背後に振り返った勢いそのまま、満面の笑顔でとんでもない発言を放り投げた娘に、一瞬だけ紅い瞳が点になる。が、間髪おかずに喉奥から笑いの発作がこみ上げた。
「……ははっ! 自分の命を早いもの勝ちとはな。おかしな女だとは常々思っていたが、よもやここまで来ると呆れを通り越して笑えてくる」
「失礼な。生きとし生けるもの総て、最期がある以上はその原因もまた必ずあります。わたくしにはそれがあなたの牙か、断罪の刃か、どちらかの差でしかないの。そう考えれば、ほら、なにもおかしなことはないでしょう?」
 自信ありげに言い放つ、その態度は並みの悪魔よりも傲岸不遜。神に仕える身でありながらここまで色気もなく真理をぶち撒けて、なのに清らかな印象のままとは、はて一体どうしてだろう。
 まあ答えなど探る気はない。どうせあれこれ理屈で考えても自分を心底納得させることはできないのはわかりきっている。そう男がいまだに笑いを引きずりながら先へ行けと促すと、女はくるりと反転するも小難しげな声を漏らす。
「……恨みは抱きませんけれど、今のままなら未練はありますわ。あなたとの約束の件もそうですし、ナギさんだって……」
「戦争を止めさせるのを止めさせる、か?」
 まるで言葉遊びだが、本人たちは至って真剣。そも娘が兵士たちに追われる元凶と認識を改めれば笑いの波も掻き消えていき、長い髪が小さく波打つ。
「ええ……。あの子が戦場に行かなければ、フーカさんもデスコさんも追従はしないでしょう。そうすれば、あの三人がわたくしほど明確に軍から狙われることもなくなります」
 先に彼女が述べたように、意図してか単なる幸運か。どちらにせよ正体が掴まれにくい境遇の三人の少女たちは、それこそラボの場所が発見されない限り弱点らしい弱点はない。両軍の兵士がラボを発見しようとすれば人海戦術や野焼きなど手段は限られるし、たかが攪乱者にその労力を費やすほど両軍に余力はないだろう。
「ならばとっとと説得しろ。それくらいなら血を吸うのを待ってやる」
「よろしいんですか?」
 こちらを覗き見るうす青の瞳が大きく見開かれ、その素晴らしい色彩に釣られる形式で男は頷く。
 尤も、あのきゃんきゃんと吠える小型犬めいた小娘はこの娘にかなり弱い。彼女が頭を悩ませるまでもなく、何度か説得を続けていればそのうち折れる。
 そうして少女たちが戦争から関わらないよう生きていけば、パーティは自然消滅して娘の拠り所は診療所のみ。グスターク兵に見つからないよう患者を逃がすのは至難の業かもしれないが、そのくらい娘が被った迷惑料の代わりとして小娘たちに手伝わせればどうにかなる。
 そうすれば。教会から切り離され、看るべき怪我人もなく、無謀を続ける少女が戦争の介入を止めれば、彼女は彼と同じく自由の身となる。ならばそのときこそ連れて行こう、人間の手の届かぬ世界へ。たとえ追われる身の上でも、いいや追われているならそちらのほうが都合がいい。
「お前があの小娘を説得できれば、……そうだな。一つ、俺から褒美をくれてやる」
「あら、なんです急に?」
 約束を交わした悪魔からの提案に、女は怖がりもせず気味悪がりもせず、好奇に瞳を煌めかせる。かと言って愚かでも無邪気でもないその輝きは、光の少ない森の中でも、やはり活き活きと美しい。
「あの小娘さえどうにかなればお前の未練はなくなるのだろう? つまり以降は俺とお前の一騎打ちだ。呆気なく俺に血を吸われるより前に、少しはいい思い出でも作らせてやろうと思ってな」
 いかにも意味ありげな含み笑いで脅したのに、娘はやっぱり動じない。それどころか手を合わせるほど喜んでくれて――-うっかり心弾んでしまうような表情は、本当に止めてもらいたい。
「ふふ、嬉しいお心遣いですこと。でしたら、どんなご褒美なのかは伺わないほうがいいのかしら?」
「うむ。人間によっては褒美ではなく罰と泣き喚き、混乱するやもしれんが……お前なら恐らく平気だろう」
「ますます気になってきましたけど……ええ、でしたらはい。そのときを一刻も早く迎えられるよう、尽力致しますわ」
「ああ」
 いくら聡い娘でも、さすがに自分の思惑は推理できまい。そう自信たっぷりに男が首肯したところで、ついに夜涼みは終わりを迎えた。
 森のなかでも少し開けた空き地の奥、ラボの出入り口の目印である、幹に歯車が彫られた三本の木が見えて、ふたりは互いにそっと相手の様子を伺ってしまう。
「……なんだ」
「いえ……」
 今までなんともなかったのにこうして改めて顔を合わせると、ほんの少しだけ恥ずかしい。まるで名残惜しい本心を互いに見透かされた気になって、男女の間に今更ながらぎこちない空気が漂った。
 それでも彼女はどうにか気持ちを切り替えて、この外出の締めくくりに男に伝えなければならないことを口にする。
「……あのね、吸血鬼さん。どうか今夜のことは、あの子たちに内緒にしてくれませんか」
「馬鹿を言え。涼みに出たと説明せねばあの小娘ども、あらぬ誤解を抱きかねんぞ」
「それは教えても大丈夫。……わたくしが言いたいのはそうではなくて、……その……」
 珍しい、歯に衣着せたような物言いで男は彼女が何を伏せたいのかについて思い当たる。
 今ラボに残っている三人は、無自覚とは言え彼女に自分たちの罪を着せた犯罪者。女の慈悲によって許されてはいるものの、本来ならばあの娘たちのほうが軍に狙われるべき存在なのだ。
「……いいだろう。お前の顔に免じて小娘どもには何も言わぬ」
「良かった……ありがとうございます」
 しかし彼は彼女ほど優しくない。修道女が少女を説得し、診療所の解体も手伝わせれば、いくらそれぞれ親密だろうと引き離す。それくらいはしなければ、きっとあの能天気な連中は自分たちの犯した過ちに気付くまい。
 そんな決意をあらたに秘めて、青年は女へ手を差し出す。


 そして彼女は目的を果たす。伝えられはしなかったけれど、約束ひとつを残して息絶える。
 そして彼は痛みを知る。守るべきものを守れなかった、己の無力を引きずりながら、辛苦の道をひた走る。










後書き
 タイムリープ編はありがたい部分もありはするけどなんだかんだで不満とかツッコミのほうが多いかな、と言う訳でストーリーのツッコミも兼ねて暴君修道女イチャイチャ夜デート。
 二日目夜に二人の親密度が急上昇したと睨んでるのは4発売直後から変わってません。

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