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2011/07/06

 アルティナを例の場所まで送ったエミーゼルは、ドレスの裾が黒大理石の壁に飲み込まれるまで見届けてから一仕事終えた気分で息を吐き出す。少しの間、彼女を連れ歩いた程度でしかないが爽やかな達成感が全身を包むのはどうした理由か。
 しかしこれで腹黒い人狼の思惑通りにことが進まなくなったのは確かなので、少しは清々した気分で踵を返す。祝宴の最中に父に会っても変に緊張してしまい、ろくに会話内容を覚えていないのは、ヴァルバトーゼと会ってほしいとの用件がずっと頭に残っていたせいだ。仲間と家族を繋げる頼みが異様に緊張させられることを、あの悪魔の青年は知らないのだろう。
 とにかく次はフーカを怒鳴りつけるべく給仕を呼び止めようとしたエミーゼルは、しかし背後から猛烈な勢いで体当たりを食らってその後諸々の予定を変更させられた。
「えっ、えっ、え゛っ、え゛み゛~ぜるざぁあああ~~ん!!」
「ぐぎぁああ!?」
 背面から踵を浮かされかけてまた床を転がされるのかと心なし身構えた少年だが、幸いにして後ろから胸を赤い手に拘束されたため、衝撃を受けるだけで済む。更にその手と特徴的な声で誰がどうしてこんなことをしたのか理解して、ついでにエミーゼルはようやく吸血鬼との約束が果たされたことを物理的に苦しみながらも安心した。
「もっ、も゛うっっ、いぢめだりじまぜんがら、っっ、デスコっ、お゛い゛でがな゛い゛でぐだざいいぃいい~~!!」
「おまっ、えっっ!! めちゃくちゃ探したんだぞ、一体どこにいたんだよ!?」
 少年の背中に抱きついたまま嗚咽を漏らすデスコの小さな頭が、前のめりになってエミーゼルの背面に温かくのしかかる。背広の生地が分厚いためそこに触れるものがどんな状態なのかは明確に掴めなくても、鼻を詰まらせている少女の様子を鑑みて、彼は嫌な予感にこめかみの辺りを軋ませた。
「で、デスコも、いっぱいいっぱい探したデスよぉ~! な゛っ、なのにっ、み゛な゛ざんっ、全然見つからなくっでっ、……!」
 エミーゼルの耳に、ああこれは確実に鼻水が出たんだろうなと思われる不細工な水音が届く。自分の背広に晒された危機的状況が不安から確定に切り替わった少年は、吐息をついて自分の胸を掴む赤い手をぽんぽんと撫でた。
「……わかったから。泣き言は聞いてやるからまずは手を放せ。お前、誰のスーツで鼻水拭ってると思ってんだよ」
 丁度こちらを奇妙なものを見る目で通りがかった給仕からお絞りを受け取ると、おずおずと手を放したデスコの予想通り酷い泣き顔に向かって死神の少年は温かく湿った布を広げる。すると少女は誘導通り――なのか?――顎をエミーゼルがかざした手の中へと突きつけて、涙や鼻水やらでぐしゃぐしゃになった小さな顔をされるがままに拭われる。
「……鼻かむのは自分でしろよ」
「ぁいデス……」
 ゆっくりとエミーゼルが手を放そうとするのと同時に、デスコの手が広げたお絞りを自分の顔に固定して、次にぢぃんと一際酷い水音を立てる。それ以降続く長い長い騒音の末に、もう一度瞼の辺りを拭った悪魔の少女は、小さな息継ぎをしてようやくお絞りから顔を上げた。
 少年の予想通り、粗方の体液を拭い取っても、デスコの顔はちらほらと赤く腫れ上がり、号泣の痕跡が色濃く残っていた。この調子では確実に、エミーゼルと合流するまでの時点で泣いていたと見て間違いない。
「……うう。寂しさのあまり、デスコは絶望による暗黒覚醒とかするかと思ったデス」
「ラスボスとしてはそっちのが良かったんじゃないか?」
「……覚醒覚えるのは、もうちょっと後でいいデス……」
 普段の彼女ならば一も二もなくラスボスとして成長する道を取るはずなのに、それほど心細かったのか。とにかくさっきもう苛めないと言われた手前、今はこちらも礼儀としてあまり苛めないほうが良さそうだと判断したエミーゼルは、したくない気持ちはあるが一応被害を確認するため上着を脱ぐ。予想通り、鼻水と涙がべったりと張り付いたそこは熟練の洗濯係でさえ頭を抱えそうな状態だった。
「ほんっと、遠慮なくやったなお前……」
「うぇ? ……何がデスか?」
 エミーゼルは凄惨な状況に苦虫を噛み潰した顔でぼやくも、デスコはいまだ手拭いでちょいちょいと目やにだの鼻水の名残りだのを取り除いて彼の被害を髪の毛一本ほども気にしていない。
 楽観的に受け止めれば服の被害で済んで良かったと、少女の姉にやられた仕打ちを思い出した悪魔の少年は、またもそばを通りかかった給仕を呼び止めてデスコの使用済みの手拭いと自分の背広を手渡すと、サスペンダー姿で所在無さげな赤い手をしっかりと握る。
「とりあえず、今からフーカを探すからな。大人しくついてこいよ」
 普段なら生意気だとからかうだろうに、このときばかりはデスコも従順にこくりと頷いて、エミーゼルに手を引かれるまま少年の後をついていく。低空飛行でいるものの尻尾を出していないこともあり、少女が自分より背が小さな女の子なのだと遅まきながらに意識した少年は、なるべく穏やかな口調で背後に訊ねた。
「……それで、今までどの辺りにいたんだよ。別のホール行ってたりしたのか?」
「わ……わかんないデス。とりあえずうろうろしてたら、ヴァルっちさんと待ち合わせする場所も思い出せなくて、壁沿いにひたすら歩いていたデスよ……」
 背丈の小さなデスコに壁際を歩かれれば、ホール中央からでは当然見つけにくくなる。しかも壁伝いとなればごく当たり前に別のホールへも入っただろうと想定すると、少年は納得しつつも柔らかく言い聞かせた。
「お前な、また今度こう言う場所ではぐれたりしたら、素直にプリニーとかボーイの連中に言えよ。ラスボスが迷子とか嫌だろ」
「わかりましたデス……」
 うなだれるデスコは少年の指摘通り、迷子になった事実を認めたくないからこそ、いつか顔見知りの誰かと出会うことを信じて無難に壁沿いをひたすら歩いていたのだが、いみじくもエミーゼルがいつかぼやいた通り、運が悪いせいで今の今まで誰とも出会えなかった訳だ。
「それと、ヴァルバトーゼが心細い思いをさせたら悪かったなってさ。……あいつもお前と同じで、集合場所わからなくなってたから」
「ヴァルっちさんも……デスか……」
 迷っている最中、心細さも相まって待たせてしまったら申し訳ないとひたすら思っていたデスコは、自分も待ち合わせ場所に辿り着けなかったから謝られる資格はないのに、そのことを耳にして僅かばかり救われた心地になる。と、ここで少女は疑問を抱いてエミーゼルを見上げた。
「あれ。けど、だからってなんでエミーゼルさんがデスコ探してたデスか?」
「ヴァルバトーゼに用事があったのに、あいつがお前探すって頑固だったからだよ。ボクが代わりに探すから言うこと聞けって交換条件飲ませて、あいつその前にフーカかフェンリッヒ探してたって言うから、まあついでに……」
「その辺りはデスコもわかるデス。それで、おねえさまは見つかったのデスか?」
 どうして疑問系で聞かれるのかと思ったエミーゼルだが、さっきの自分の説明ではいまだフーカが見つかっていないようにも受け取れると察して首を振る。
「お前より先に見つかったよ。さっきまでちょっと色々あって、別行動中を取ってた」
「色々……? さっきの白いドレスのお姉さんも、関係あるデスか?」
 アルティナとのやり取りはほんの少し見られていたようだが、どうやら相手が誰かまでもはデスコはわかっていないと知りエミーゼルは曖昧に言葉を濁す。
「微妙なところだな……。ま、あいつに会ってないとこうしてお前にも会えてなかったんだろうけど」
「確かにそうデスね。……それで、おねえさまとの色々って何なんデス?」
 色々、に甘酸っぱいものが含んでいないか警戒しているのかデスコの視線がやや強めにくせのある金髪を刺すが、それならそれでまだいくらかましだと少年は重く息を吐き出した。
「……あいつに酷い目に遭わされたんだよ」
「酷い目って、どんなデスか?」
 訊ねられ、改めるように振り向いたエミーゼルは、まだ目やにでもついているのか自由なほうの片手で目頭をこするデスコに、それはなと教えるつもりだった。なのに全く予想外な方向から、嫌に聞き覚えのある少女の声が彼らの鼓膜を震わせるものだから。
「も――っ、フェンリっちのせいで酷い目に遭ったじゃん!」
「オレのせいではないだろう! 大体貴様が考えなしに挑発するのが悪い!」
「その前にあんたがつんけんするのが悪い!!」
「貴様が絡んでこなければいい話だろうが!!」
 声のするほうに首をやったふたりは、視線の先の光景に片や大きく脱力し、片や喜ぶべきなのか呆れるべきなのかの複雑な表情を浮かべる。
 雑踏の中でも注目を浴びていることにさえ全く気付いていないらしい。互いにカウチソファの両端に座って向かい合い、グラスを片手に彼らが良く見知っている人間の少女と人狼の青年が憎々しげに言い争う姿がエミーゼルとデスコの目に映った。
「……ボーイにどこにいるのか場所聞くつもりだったけど、必要なかったな」
「そうデスね……」
 ひたすらに続く侃々諤々の低レベルな言葉の応酬に、関係者として気まずい思いをしながらもふたりは少しずつ近付いていく。予想外なことに、刺々しくも移動しようとはしないふたりは見た目より冷静で周囲の変化もきちんと視界に入れられる程度に頭はまともに働いているようだ。すぐさま身構える幼い仲間のふたりを見つけ出し、まずはフーカがデスコに向かって両腕を広げた。
「デスコ!!」
「おっ……おねえさまぁぁあっ!!」
 促されるままフーカの腕の中に飛び込んだデスコは、懐かしい匂いのする腹に両腕を回して、確かに触れているひとが夢幻でないことを実感し、再び目頭を熱くさせる。そうして気を緩めた彼女の頭が十指で思いきり掻き撫で回されると、悪魔の少女は不満を露わにしつつも喉の奥でくすぐったそうに呻いた。
「ぁぅぁうあう……お、おねえさま! なんでそこまでわしゃわしゃするデスか!?」
「だって、さっきまであんた確実に泣いてた顔してたし。久しぶりに会うから、このくらいしたほうがいいかなって」
 散々泣いたことを見破られ、デスコは文句を封じられた気分でフーカの指にされるがまま目を細める。そんな妹の様子に、姉は微かに安堵した。心細さは悪魔の少女ほど感じなかったけれど、彼女もまたこの少女がそばにいないのは落ち着けなかったから。
 その隣では姉妹の感動の再会を感慨深げに眺めることもなく、むしろ一瞥もしないフェンリッヒはようやく振りに顔を合わせたエミーゼルへと確認を取る。
「小僧、ヴァルバトーゼ様を案内したのだろうな」
「ああ。あっちがいつお開きになるのかは聞いてなかったけど、もうとっくにしたよ。……て言うか、なんでお前フーカと一緒にいるんだ?」
 嫌なことを訊ねられ、露骨に眉間に皺を作るフェンリッヒだが説明したくないほどの気分ではないらしい。デスコを撫でる隣の少女を獣の死体にするように指さして口を開く。
「この小娘に、お前を投げ飛ばした件で責任を擦り付けられた」
「はあ?」
「……なっ、投げ飛ばしたんデスか!?」
 がばとデスコが姉の膝から顔を持ち上げ、驚愕の眼でフーカを見上げる。ラスボスを目指す妹にでさえ信じられないものを見る目を向けられた人間の少女は、珍しく曖昧に、と言うより正確にはなんともない問題であることを望む弱気さで笑った。
「まあねー。踊ってるときにエミーゼルをこう、お姫様抱っこでくるくる回すやつやろうとしたらさ、フェンリっちと目合って、ついうっかり投げ飛ばしちゃったのよ」
 その現場に居合わせた目撃者と被害者が、何がついうっかりだだの、どうしてオレのせいになるんだだのとぶつくさ呟く。それらを綺麗に無視するフーカの厚かましさと突飛な行動に、デスコは言葉を失い姉を食い入るように見つめることしかできなかった。
「……で、それで。エミーゼルがこっち来るまでに、折角フェンリっち見っけたんだからノルマ達成で踊っちゃえーってなったんだけど。フェンリっちが心狭いの、みんな知ってるでしょ?」
「当たり前デスけど、普通に断られたデスか?」
「心の狭さって……悪魔でさえ、言いがかりつけて踊りに誘われたって快く受け入れる奴とかいないと思うぞ」
 悪魔のふたりにでさえ冷徹な反応を取られてしまい、フーカは頬を膨らませる。
「あんたたちも結構心狭いわよね! ……ま、それでどうにか一応踊りは誘えたんだけど、さ」
 唐突にフーカは下を向くと、膝に上半身を預けるデスコを退けて、自分のヒールを見せつける。ここに来た当初はドレスに合わせて吟味したのだろう、高く細いヒールと踵を覆うように縫いつけられたリボンがアクセントとなっていた金に輝くはずのそれは、今や擦り傷だらけ。リボンを靴に縫いつけていた糸さえもはずれかけ、この靴のまま針山でも歩いてきたのかと思うほどの状態になっていた。
「うぇ……! なんだよそれ!?」
「な、何があったデスか……!」
 あまりの惨状に息を呑んだふたりの子どもたちに、フーカは恨めしそうな顔で顎で横を指す。つまり隣の人狼がそうしたのだと示しているのだろうが、それで彼が大人しく突き刺さるような視線を受ける訳がない。
「待てお前たち。そいつの話ばかり鵜呑みにするな」
 フェンリッヒもまた面倒臭そうではあるが鼻から息を抜き出して、ふたりに自分の下半身に注目するよう一度だけ足を踏み鳴らす。そうして再び、デスコとエミーゼルはなんとも言えない呻き声を漏らした。
 恐らくは人狼の靴もよく磨かれた革靴だったはずだろうに。黒いエナメルの表面は全体的に白く掠れてしまい、糸も所々解れて見苦しいことこの上ない。しかも穴が開くほどではないが、小さな円状の凹みが満遍なくできており、靴職人ならば料金の計算をするよりも先に修理に取りかかりたがるような被害がそこに現れていた。
「……つまり、お前らはワルツを踊るんじゃなくて足の踏み合いをしてたんだな」
「靴がこれだけボロボロなのに、よく足は無事でしたデスね……」
「んな訳ないでしょ!!」
「そんな訳がない!!」
 ほぼ同時にデスコの言葉を否定したふたりは、怒り心頭の面もちで以降を、やはり責任を擦りつけ合いながら説明してくれた。
 曰く、途中まではフェンリッヒの一方的な攻撃にフーカが上手く避け続けていた。曰く、しかしそれも次第に無理になったフーカが容赦ないフェンリッヒの足蹴を食らうと、ついに彼女も怒って反撃するようになった。曰く、そこからふたりで足蹴のみの殺し合いかと思われるような攻防戦が続き。曰く、ついに曲が終わってふたりの足下だけが惨憺たる有様になった際、別魔界の『癒しの魔女』とやらに猛烈な勢いで怒られたらしい。
「……まあ楽しんで騒ぐ場で足技だけとは言えガチの殺し合いなんかやられたら同じ参加者として怒るよな。空気読めって話だし」
「アタシらの足は傷痕一つ見あたらないくらい綺麗に回復してくれちゃったからいいんだけどさ。そいつ、お説教したのよ、お説教! しかも正座強制! この床に!」
「それで済んで良かったと思うデスよ……」
「ふざけるな! 公衆の面前であんな屈辱を与えられたのは、ここ数百年の中でも五指に入る!」
 しかも反論する場合と反省の色が見られない場合はそのままの状態でただちに足をもとに戻すと脅されたため、ふたりは正座のまま懇々と叱られて、つい先程ようやく解放されたらしい。
 つまりふたりがお互いに喧嘩腰でありながらも座ったまま動こうとしない理由が、なんのことはない足の痺れと知らされて、エミーゼルは頭痛と安堵をほぼ同時に覚える。しかし安堵のほうが強いのは、一体どうした訳か。
「とりあえず、これでみんなへの用件は済んだな。じゃあボクは……」
「待て小僧。ヴァルバトーゼ様がどこにおられるのかオレはまだ聞いていない。好きに動くなら場所を教えてからにしろ」
 フーカへの怒りも忘れてまた別行動をするつもりが呼び止められ、エミーゼルは普段通りの会話をしているつもりだろうがあからさまに声を潜めて聞き耳を立てている姉妹に呆れの視線を送りながら首を振る。
「口頭では説明しづらいところだぞ。別に案内しろって言うんならそれでもいいけど、お前まだ歩けそうにないだろ」
 エミーゼルの指摘は否定しようがないらしく、人狼は苦々しげな呻きを漏らす。ならばと具体的な話が来ない辺り、少年はフェンリッヒの態度は事実上の待機命令を放っているものとして受け止めた。そこまでならばまだ良かったのに。
「……はれ。もしかして、……あそこに、ヴァルっちさん、いたデスか?」
「なにデスコ、あんたヴァルっちいるとこ知ってるの?」
 吸血鬼にもう一度踊ってもらうつもりなのかはわからないがフーカもその話題に食いつくと、フェンリッヒがけん制するように毛を逆立てる。しかしそれらの反応に丸々気付かず、小さな欠伸をしたデスコはエミーゼルのほうへと身体を微かに傾けた。
「えーと、……エミーゼルさんが、女の人を不思議なところに案内してたのは、ん、見たデスよ。あそこに、ゲートを隠していたんデスか……?」
「ああ、まあそうなるかな」
「女の人? じゃあ別にヴァルっちと関係ないんじゃない? エミーゼルのほかの知り合いとか……」
「……女?」
 フーカの指摘する通りの流れになってほしいとエミーゼルが密かに願っていることに勘付いたか。フェンリッヒの金の瞳がすうと細まりぎこちない少年を睨むと、その視線に何かあると本能的に嗅ぎつけた姉妹の姉のほうも死神の少年をひたすら見つめる。
「……な、なんだよ」
 尋問を受ける被疑者の心境で、エミーゼルが抵抗するように彼らを見返しても、返ってくるのはフェンリッヒの冷たい眼光とフーカの遠慮する気なんぞ欠片もない視線ばかり。靄のような緊張感が脳髄の辺りで濃厚になっていくのを感じながら、しかし度胸のない少年はここで唐突に逃げることもできなかった。
「痛い目に遭いたくなければイエスかノーで答えろ、小僧。その女はお前の知り合いか」
 そのうち痛い目に遭いそうな質問だが、これくらいならとエミーゼルは素直に頷いてしまう。つまり尋問を彼が受け入れてしまった証拠なのだが。
「……イエス」
「オレたちも知っているか」
「……い、イエス」
 エミーゼルの背筋に冷たい汗が流れる。質問の方向性からやっぱり気付かれている予感がして鼓動が高鳴る。別に自分がやったことに後悔はないが、かと言ってこうも簡単にばれてしまうのは少年として有り難くない。眼前の悪魔の青年が確実に怒るとがわかるだけに尚更。
「お前がその女を案内した先と、ヴァルバトーゼ様を案内した先は同じか」
「…………」
 致命的な質問に少年の思考が硬直する傍らで、フーカもまたぼんやりとしているデスコに質問をするがこちらは両者ともども緊張感がない。しかし、エミーゼルにとって危険な点でもまた変わりなかった。
「ねえねえデスコ。エミーゼルが案内したって女の人って、どんな感じ?」
「……えーと、遠くからでよくわからなかったデスが……白いドレスを着ていたデスよ。あとながーくてふわふわした髪の……」
 デスコは説明の途中なのに、大きく口を開けて欠伸をする。小動物めいた彼女の歯は案外に鋭いため、大口を開いて歯を剥き出しにした彼女の姿は可愛らしいどころか物騒な印象さえ持つのだが今更これに仲間たちは怖じ気付いたりしない。ともかく涙さえ湛えて大きく長い欠伸を終えた少女は、いつも以上に目付きを据わらせて緩く首を振った。
「……うう。頭がぼーっとするデス……」
「なによあんた、もう眠いの? ……泣き疲れたとか?」
「そ、そんなことはないデス……! デスコは、お子ちゃまじゃありませんデス……!」
 姉の言葉をからかいと受け止めて自分の疲労を認めようとしないデスコだが、死神の少年と合流するまでひたすら孤独に耐えながら涙を流しても歩き続けていたのだ。回復魔法なぞでは癒せない方向性の疲労が彼女を襲っているのは、誰の目からも明らかだった。
 それで話が逸れてくれれば良かったのだが、フェンリッヒは最早瞼を開けていられなくなったデスコよりも遙かに勝る確かな予感と吸血鬼への執着を取って、エミーゼルをあからさまに睥睨する。
「どうなんだ。早く答えろ、小僧」
 フェンリッヒは指の関節を慣らすことで暴力の匂いをちらつかせるも、これは少しばかりやりすぎだった。俯いてじわりじわりと追い詰められていたはずのエミーゼルはついに覚悟を決めてしまい、カウチソファから後ずさり距離を取ると急に顔を上げ、逃げる気を下半身に漲らせながら言い放つ。
「……そうだよ! ヴァルバトーゼのところにアルティナを連れて行ったさ! お前から父上とあいつを会わせろとは聞いてたけど、ほかの誰も案内するなとは聞いてないからな!」
「マジで!?」
「貴様……!」
 フーカとフェンリッヒがそれぞれ正反対の気持ちを顔に出して反射的に立ち上がろうとするが、人間の少女は膝に船を漕ぐ妹を絡ませていたため、悪魔の青年はいまだ足に痺れが残っているためエミーゼルを捕らえるほど機敏には動けない。
 しかし一歩リードしたのは野次馬根性たくましいフーカだった。すぐさま妹の両脇を抱えると隣の人狼に投げつけて、思わずデスコを受け止めるフェンリッヒを尻目に立ち上がりエミーゼルの腕を掴む。
「ぅっぐ……、行くわよエミーゼル!」
「い、行くってどこに……!」
 足の痺れを噛み殺しながらも率先しようとするフーカに、体にはなんの不自由もないはずで、しかも合流した当初は彼女に怒鳴りつけるはずだったエミーゼルはそれも忘れて引っ張られる。
「そんなの決まってるでしょ! ヴァルっちとアルティナちゃんのデートをフェンリっちに邪魔されないよう、アタシたちが見張るのよ!」
「……きさっ、!? 待て小娘、貴様、自分の妹は放置か!?」
 投げられても飛間距離、衝撃共々死神の少年が体感したものより小規模なためか。腕の中でよろめくばかりのデスコをフェンリッヒは掲げて見せるも、フーカは小さく振り返り、エミーゼルの背中を軽く押したまま毅然と答えた。
「うんっっ!!」
 最悪だこの姉――と悪魔ふたりが心底思う。しかしそんな評価を下されても尚、出歯亀心に欲望な人間のフーカは実に手際が良かった。
「じゃ、デスコの世話任せたからね、フェンリっち!」
 言付けると愕然としたままのフェンリッヒの隙を突いてすぐさまエミーゼルと逃げ仰せ、人狼が衝撃から立ち直ったときにはもうあのツインテールもくせのある金髪も雑踏の中に紛れて完璧に見えなくなっていたのだから。
「……あんのガキどもが!」
 残されたのは自分が見捨てられたといまだ知らずにうつらうつらと船を漕ぐデスコと、案内役を鮮やかにフーカに奪われたフェンリッヒのみだ。しかし彼は諦めなかった。少女の言をある意味肯定してしまうことになるが、それでも吸血鬼と天使の逢瀬の時間など作らせるつもりはなかったし、作っているのならば一刻も早くそれを排除すべきなのだから。
 深呼吸をして頭を冷やし、どうにか思考を巡らせる余裕を生み出したフェンリッヒは、具体的にどうして彼らを捕らえるか、主たる吸血鬼のもとへたどり着くかを考える。だが地の利は圧倒的に死神の少年が有利だし、こんな密度の高い場所では鼻もすぐ馬鹿になる。それに彼は少年を脅してしまったから、内部分裂を狙うのも難しい。
 盛大に舌打ちした人狼は、何故かデスコの両脇を抱えたままの状態で考えを巡らせていた自分に気付いて、吐息とともにカウチソファに横たえらせようとした。そこでようやく悪魔の少女が身じろぐ。
「……うぅぅ……誰デスかぁ? デスコはまだ起きれるデスよぉ……?」
「どう見ても寝ている奴が言うな」
 姉に見捨てられた憐れな存在ゆえ、彼としてはそこそこに優しくカウチソファに横にさせようとしたフェンリッヒの腕を、デスコは緩く首を振ることで拒絶しようとする。だが彼の指摘もまた正しく、完全に糸目状になっている今の少女は夢の世界に片足とは言わず七割ほど体を突っ込んでいるありさまだ。
 しかしそれでも、デスコは眠りそうな自分を否定した。
「ちがうデス……寝てないデス……寝たら、皆さんに、おいてかれるデス……」
「当然だろうが。お前はここで大人しく寝ていろ。オレはあいつらを追わねばならん」
 言ってさっさと足の痺れを我慢して立ち上がろうとしたフェンリッヒの手を、悪魔の少女は目を瞑ったまま手探りで掴む。血の繋がりもなければ僅かな時間しか共有していないにも関わらずしっかりと姉に似てきたデスコに、今夜その姉に大いに振り回された青年が眉をしかめた。
「……だめデス……ひとりぼっち、いやデス……」
 なのにデスコの心底寂しそうな声ときたら。眠そうと思わせる以上に泣き出しかねない掠れ気味の声音に、女子どもにたやすく同情を寄せる性質でもない人狼でさえ放置しようとした自分に後味の悪さを覚えかけ、慌てて左右に首を振る。こんな状態のデスコを連れても利益などない。そう、このときの彼は思っていたから。
「これからお前がすぐさま目覚めてオレの足を引っ張らないと言えるのならば同行を許さんこともないがな、それも無理なら大人しくここで寝てい……」
 ろ、と告げるつもりが悪魔の青年ははたと引っかかりを覚え、少し以前の記憶を掘り返す。デスコが役に立たないと断言するのはまだ早いと、彼の冴えたどこかが一切の情も持たずに判断した。
 確かに今の少女は同行したところでお荷物以外のなんでもない。だがよく思い出してみると、デスコはエミーゼルが天使を案内している姿を見たと言っていたはずだ。更にそこからあの少年と合流したのならば、自然とゲートがある場所が割り出される。ふたりを捕まえなくてもそこに、並べては吸血鬼がいる場所に辿り着けるのならばそちらのほうがより合理的だ。
「……おい、デスコ。独りにせんから起きろ」
 寝らせるつもりだった少女の脇から手を離し、フェンリッヒは小さな頬を軽く叩いて目を覚まさせようとする。睡魔と格闘していたデスコはその刺激か発言でぴくりと瞼を震わせて、僅かな反応を示した。
「ん……なんデスかぁ……ヴァルっちさん……」
「お前、どこまで寝ぼけている。オレが閣下に見えるなど……」
 ことは一刻を争うと言うのに、いまだ事態の緊急性を察しもしないデスコへ半ば憤慨するつもりが、しかしフェンリッヒはまたも少女の寝言に理屈に徹した思考を乱される。
「……めんなさい……ごめんなさいデス……ヴァルっちさん……」
 少年と合流するまでひたすらそんなことを思っていたのか。か細い声は万の言葉を越える悲哀に満ちており、いまだデスコがどんな道筋を辿って彼らと合流したのか知らない人狼でさえ微かに目を細めかねない物言いに、ついに彼は迷いを吹っ切った。何よりの止めはこの少女の口から彼の主たる吸血鬼の名が出たことだが、それに彼がかの悪魔の性格に引っ張られたと意識したのか、かの悪魔を慕うものとして少女についぞ他者には抱くまいとする感情を持ったと認めたからかは本人にだってわからない。
「デスコ!」
 鋭く名を呼ばれて、少女の全身がびくりと震える。ようやく覚醒らしい手応えを得たフェンリッヒは、相手の心を揺さぶる言葉を頭の中で的確に選択しつつそれを唇に乗せた。
「お前の姉は小僧と一緒に早々に閣下を追ったぞ! お前もここで起きねばまた独りだ、それでも構わんのか」
「……い、いやデス。起きますデス……」
 難しそうだがどうにかデスコが薄く瞼を開けて表情を作ろうとするのを見届け、人狼は微かに得られた流れに口角を上げる。そうとも人心把握はお手のもの、自分の目的のためならばどんなことも割り切ってやるのが彼の方法、または生き方。だからこれから取る方法は、彼にとってなんでもない。
「ならば思い出せ、デスコ。小僧を発見した場所、小僧が白いドレスの女とやらを案内したところを明確に!」
「……あれ。やっぱり、そこにヴァルっちさんいるデスか?」
「そうだ。そして今はお前の姉もそこに向かっている!」
 話を聞いていなかったのかと怒る暇さえ惜しみ、フェンリッヒはデスコの心を揺さぶる言葉をひたすら繰り返す。それでようやく、少女は薄目の状態から普段の半分程度だが目を開けて、意識を覚醒させる方向へと自らを導いた。
「……エミーゼルさんを、見つけた場所は、覚えているデス。ここから五分から十分くらいの、黒い垂れ幕が覆っている窓際で、近くの花瓶は……」
 いまだ完全にデスコの眠気は吹き飛んでいないものの、それでも得られた情報にフェンリッヒは小さく握り拳を作りつつカウチソファに突っ立ったままの少女に背を向けた。唐突な人狼の行動に意味がわからない少女は呆然としていたが、それにこそ苛立った悪魔の青年は軽く背面に身を捩って相手を急かす。
「早く負ぶされ、デスコ! 今のお前を連れるならこの手しかない!」
「……ぁ、はいデス!」
 言われた通りフェンリッヒの肩に掴まるも、小さな脚は人狼の両脇に抱えられる尺にはやや足りない。やむを得ず彼はカウチソファより腰を下にやり、デスコを肩に跨がせる。爪のない赤い手が白銀の柔らかな頭に手を添え、急遽負んぶから肩車に移動形態を変更したふたりは、それぞれ背負われる側背負う側共々緊張感と違和感を持って小さな呻きを漏らしたが、今更それも気にしていられない。特に悪魔の青年は肩にかかる圧力と頬を挟むシフォンのくすぐったさだけでなく足の痺れも重荷ではあるものの、体感の不快など心の疲弊に比べればましだと、やけくそ気味に己を奮い立たせる。
「とりあえず行くぞ。お前はそこから記憶にある場所を見つけ次第オレに声をかけろ!」
「……あれ。おねえさまは見つけなくていいんデスか?」
「目的地が同じなら結果的に合流する!」
 デスコは深々と納得し、尻尾を伸ばしかけるも慌ててそれをもとに戻す。一瞬首を背面に引き倒されそうになった青年はその気遣いに感謝しながらしっかりと腰に気合いを入れて立ち上がった。
 デスコは触手を内包しているため見た目より重いが、それでもフェンリッヒが動けないほどではなかった。どうでも良かったはずの仲間とやらをかような形式で助けてしまった自分の意固地や、周囲の悪魔たちの奇怪なものを見る目さえ無視した今の彼にとっては、最早怖いものなど一つたりともないとも言えたが。
 フェンリッヒは雑踏を器用にかき分けながら、エミーゼルの来た方向をデスコに確認して件のゲートが隠された壁を探す。視界の急激な変化にも少女は割合と順応に対応し、はしゃぐこともなく的確に記憶を探って人狼を導いた。
 だが道中の目印はそう多くない。特徴があるとすればそれは今も一秒として同じところにいやしない悪魔の賓客たちそのものだ。窓際の垂れ幕が下がる壁沿いにひたすら手を当てていったほうが手っとり早いのではないかと思うほどの面倒さはあったが、それでもふたりはこの体勢で探すことを諦めなかった。少女の側は流れに身を任せた結果だか、青年の側はもう吹っ切れた勢いのままを貫き通したかったため。
「……そこ、あそこデス!」
 そうして今や眠気などすっかり失ったデスコが声を高くして目撃した場所を指し示すが、その仕草にこそフェンリッヒは怪訝に眉根を寄せた。
 ゲートの隠し場所であろうところは少年の指摘通り、口頭で案内するには難しいほど特徴がなかった。事実、人狼でさえ指摘を受けてもそこだと手応えを得られないほど、ついついよそではないかと目をそらしかねない程度に特徴がない。生き物が無意識に見過ごす位置として計算された結果ここに隠しゲートを設置しているのだとしたら、さすがは大統領府だと今このときでなければ彼でさえ呆れつつ賛辞を述べただろう。
「あいつらはいるか……?」
「ここからだとわからないデス。おねえさまもエミーゼルさんもちっちゃいデスから……」
 普段のデスコは更に小さいが、そんな野暮な指摘は今は捨ておく。ともかく確かにここかどうかフェンリッヒは静かに幕へと近寄って、今も姉を捜して周囲を見回す自分の肩に乗った少女に顎で触ってみるよう指示した。
 言われた通り少女がそこをめくり上げてみると、冷たく硬い印象の黒大理石の壁があるだけでしかないように見える。それでも赤い手が触ればそこは湖面のように揺らめいて、ここが単なる壁ではないと教えてくれた。
「……どうするデスか? もう中に入っちゃうデスか?」
「安全と正確さを配慮するならここで小僧と小娘を待つべきだろうな。……だが、もしあいつらが先にゲートを通っていたのならば時間を無駄に浪費するだけになる」
「つまり、中に入って待ち伏せか様子見デスね!」
 フェンリッヒはデスコの言にしっかりと頷くも、バランスを崩しかけたため頭をただちにもとに戻す。それで彼は一瞬肝を冷やしたが、お陰で人間と死神の若年者たちがここに先に到着したとしても、自分たちが通ったあとのゲートまで操作するほど慎重な性質だとは考えにくいとの発想も浮かんだ。
「そのまま幕を上げていろ、デスコ。お前はゲートを通るまでで構わんから、そっちであいつらが来るかどうか見張っておけ」
「了解デス!」
 打てば響くような返事を得て、油断なく相槌を打ったフェンリッヒは足音さえ立てずに壁へと顔を近付ける。そうして幕を横にずらしたまま背面を見張るデスコを見、自分の指示通り見張っていることを確認してからゲートに頭から突っ込んだ。
 果たしてデスコの言葉通りにしてフェンリッヒの予想通り、ゲートの向こうは貴人を迎えるべく誂えられたような趣味の良い応接室に繋がっていた。周囲の音はうんと小さくなり、窓を開けているためか夜の薫風は瑞々しく、ほのかに甘い花の香りも混ざって心地良いが、しかしそれ以上に彼の気を引く存在がある。開け放たれた窓のカーテンに隠れるようにして外を伺う茶髪にツインテールの娘と、くせの強い金髪にサスペンダー姿の少年だ。
「……て言うか、デスコはいいのかよ」
「さっきも言ったでしょ。あんな眠そうなのに無理に叩き起こすのも可哀想だって」
「だからって放置するのも……」
「まあ、あれは勢い任せとは言え割と……ううん、結構後ろめたいけど……けどさ、アタシがあんなこと言っちゃった手前、フェンリっちが可哀想だと思ってくれて、案外面倒見てくれてたりする可能性もなくない?」
「都合良く考えすぎだろそれ。……で、あいつらはいるか?」
 どうやらこのふたりは、置いてけぼりを喰らったふたりとそう間を開けずにここに到着したらしい。窓の向こうを警戒心たっぷりに覗き込もうとし、しかし自分たちの存在をそこにいるはずの天使と吸血鬼にばらしたくないためかなかなか顔を出せないでいた。
 つまり彼らは人狼の目的を阻めなかった訳だ。残念な結果に一笑したフェンリッヒは、隠れ潜もうとする死神と人間の年若い男女へと足音を立てて堂々と近付き、振り返って表情を強張らせるふたりを見下す。
「小僧の言う通り。自分に都合良く物事を考えすぎだな、小娘」
「そうデス。置いていくとか酷いデスよ、おねえさま!」
 彼の頭の上のデスコも立腹して自分の存在感を示すと、エミーゼルは驚愕の眼で固まり、フーカはぶっと吹き出し慌てて口元に手を当てるが忍び笑いはなかなか止まらない。
「なっ、お前たちどうして……! まさかデスコ、お前か!?」
「はいデス。デスコのメモリーチップは、普通の生き物の記憶媒体とはひと味違うのデス!」
 自慢げに胸を張っておきながら、しかしデスコは吸血鬼との待ち合わせ場所を記憶していなかった自分に矛盾を感じたらしく、少し居心地が悪そうによそ見をする。だがそんな彼女の内面を伺えるものなどこの場に一人もいやしなかった。何せ一番それを指摘できるはずの彼女の姉ときたら、膝をつくほど笑っているのだから。
「ふぇっ、フェンリっち、なんでっ、デスコ、肩車……! しかもそれでドヤ顔とか……!」
 これからのことを考えれば彼女にはつまらない展開しか待っていないはずなのに、フェンリッヒがデスコを肩に担いだ上で勝ち誇った顔を見せたのはフーカにとってかなりの破壊力に満ちた光景だったらしい。とうとう絨毯に手をついて、ひいひいと喘ぎ声さえ漏らしながら自分の笑いの発作を押さえようとするが、無理を強いると反対にその感情は彼女の中で大きくなっていく。
「……っあ、も、だめ! やばい、お腹いたい……!」
「お前笑うな! あっちに聞かれたらどうすんだよ!」
 対照的に冷静になったエミーゼルは、フーカの肩を掴みつつ逃げ腰でフェンリッヒの動きを警戒していたのだが、その言葉こそ油断の証。死神の少年はともかく人間の少女から手応えのある反応を得られなかった人狼は、その通りと深く頷き――かけてまたもバランスを崩しそうになる。
「そうだな。貴様らのことはあとで済ませることにして、今はオレの目的を達成させてもらおうか」
「……まずっ!」
 人狼の一声でようやくフーカが我に返るももう遅い。フェンリッヒはそのまま彼らの横を悠々通り過ぎ、テラスにいる主に声をかけようとしたのだが、それより先に彼の肩に乗ったままのデスコがカーテンで作られたオーロラの向こうを覗き込んで高い声を漏らした。
「……あれ。おふたりともいないデスよ?」
 残りの三人がその発言に目を剥いて、慌てて窓の外に顔を出せばデスコの言葉通り。二脚の肘掛け椅子と酒の用意が残されたままのテーブルが設置されたテラスには、人っ子一人いなかった。

◇◆◇

 本人としてはそこそこに勇気を出して放った一声が、さしたる反応もなく流されてしまって彼女は僅かに肩を落とした。しかし冷静になって考えてみれば、ただ彼と会って話がしたかった程度で着替える手間をかけるのはやりすぎたようにも思い、暴走を起こした自分に早々後悔する。
 だが吸血鬼は寛容なもので、踵を返そうとした彼女にまたわざわざ着替えに戻る必要はないと制してくれた。それに彼女は少し救われた思いで笑って感謝したのに、またも相手に顔を盛大に背けられてしまい、じんわり後悔を胸に滲ませる。
 基本的に何をするにも冷静で慎重な行動を心がけている彼女にとって、この吸血鬼に関する行動の多くは感情的で衝動的で、自分らしくないと戸惑いさえ覚えていた。それでもやはり根底に漂う切なさが尊いから、理屈をねじ曲げ無理をしてしまうことも多々ある。――例えば四百年振りに再会した際、庇う目的とは言え彼の体に腕を回してしまったことや、任務の最中なのに適当な理由をつけて彼のそばから離れまいとしたことや、天界の法を多く破ってしまったこと。それらは理性の面では反省すべきことばかりなのに、今思い返せばあれで良かったと重苦しいながらも誇らしく思ってしまうのはどうしたことか。
 今も吸血鬼とつかず離れずの距離を保ち黙々と歩くアルティナの胸の内は、後悔と言葉にはなかなか言い表せない、甘くも切なく、そのくせどうにも後ろめたいようなむず痒さばかりがこみ上げていた。
 テラスで向かい合っていてもなかなか会話が弾まないからと、主催者の言葉に甘えて庭の散策へと繰り出したふたりを包む空気と距離間はいまだにぎこちなさを保ったままだったが、それさえも奇妙に心地良い。大統領府で開放されているホールの明かりと喧騒はここからでは遠く、しかし寂しさを感じない程度に存在感を放っているからか。ふたりの間を包んでいた長い沈黙を、彼女は明確に耳に響く鼓動とともに落ち着いた気持ちで打ち破った。
「……不思議ですわね」
 甘さを孕んだ夜風に滑り込むようなアルティナの声に、吸血鬼が思わず足を止める。彼が動きを止めても何枚も重ねた蝙蝠の羽状の外套は夜風に軽くなびいており、その様子が彼女の脳裏に彼と初めて出会った頃を連想させた。
「あなたがその姿でいると、昔に戻ったような気分になります。あれからもう、四百年も前のことなのに」
「……俺もだ。普段はそうでもないと言うのに、今はお前のその背中の羽を、一瞬忘れかける」
 桃色の髪を夜風にもてあそばせる彼女を眺めての発言に、お互いに同じ気持ちだとそれぞれの胸のうちを確認したふたりは、ようやくまともに視線を交わして微かに笑い合う。それだけで、さっきまでの緊張感が随分と解れた気がした。
「今宵は楽しめたか。……と言っても、こんなものは大体朝まで続くが」
「ええ。さすがは魔界の祝宴ですわね、華やかなのは想定の範囲内ですけれど、危険な目にも遭いましたもの」
 それはそうだろうと、ヴァルバトーゼは肩を小さく竦める。そんな言葉を聞かされても彼の胸に不安の陰はない。見た限り今の彼女には傷一つないのだから、その危険な目とやらもどうにか切り抜けられたのだろう。
「怖いもの知らずのお前にはこれくらいが丁度良かろう。尤も、俺を差し置きどこぞの馬の骨に恐怖を覚えたのならばそれはそれで癪に障るが」
「貞操に危機に直面した際に抱く感情は、突き詰めれば恐怖なのでしょうか?」
「……ん?」
「いえいえ、お気になさらず」
 聞き逃すにはどうかと思う発言を耳にした気がしたが、言われた通りヴァルバトーゼは彼女の言葉を深く考えないことにしてようやくふたりはぽつぽつと歩きながら会話を交わし始める。
 話題はほどほどに豊富だが、静かな庭園の中に溶け込むようにふたりの口調は穏やかさを保って薄闇の中で響き合った。今夜の祝宴の感想や、それぞれ祝宴の最中にあった特出すべき出来事や仲間の様子。ヴァルバトーゼがフーカたちへの踊りを褒めてからふたりの教育方針の相違も浮き彫りになり、熱い議論が交わされそうになったもした。当然、彼女が男装を選んだ理由も話題に上り、年若い面々に説明した以外のものも含めたその理屈っぽさに彼は心底呆れたものだ。
「天使の身で魔界に忍び込み『徴収』をしていたお前が、今更誰かの目を気にするなど……。随分とおかしな話ではないか」
「言われてみればそうですわね……。では多分、あのときのわたくしは気後れしたのでしょう」
「何にだ?」
「あなたにこう言う格好をして見せても、素っ気ない態度を取られることに」
 真正面からずばりと指摘を受け、ヴァルバトーゼは危うく舌を噛みかけその隣に置かれた悪魔の石像と同じような顔をする。それをどうにか回避して派手にしかめ面をする彼に、アルティナはくすりと笑ってから嘆息した。
「けれど、予想通りの態度を取られてもどうにかなるものですのね。お話をする分には問題なかったのですから、最初からこの格好でも良かったかもしれません」
 しかしその笑顔を眩しく眺めたヴァルバトーゼは、反対に当初からアルティナがドレス姿でなくて良かったと今になって安心した。『業欲の天使』としてこの魔界の中でさえもある程度の人気を博していた彼女がかような姿でおれば、相手が天使であっても気にしない、良く言えば寛容な、悪く言えば悪食な悪魔たちが取り囲んだ可能性もある。男装の彼女にでさえ、同性であっても魔手を伸ばそうとした悪魔がいると先ほど聞いたからその可能性は尚更に高い。
「……それにしても、そんなものいつの間買った。まさかと思うが二着作ったか」
 服になどあまり興味がないが、その話題に固執されたくない彼は慌てて視線と話をそらす。お陰で丁寧に刈り込まれた芝生を見ているだけのなかなか格好がつかない状態になった彼に、アルティナはいえいえと暢気に首を振って見せた。
「フロン様に今月と来月の『徴収』代が危ういと説明したときに、理由を根掘り葉掘り聞かれまして……。ならこれを持っていきなさいと大きな衣装箱を渡されましたので一応言われた通りにしましたの」
 その中身を確認した際、ヴェールと青いリボンが付着したガーターベルトが混入されていたがそれらを彼女は丸々無視した。尊敬する上司とは言え、自称愛の伝導師が暴走を起こすことはよくあるので、こうして部下たる彼女がフォローすることも少なくない。いやまあ、いつぞやの調合金ロボはフォローできなかったか。
「……用意が良すぎるな。まさかと思うが、その金も」
「多分、わたくしの『徴収』費から抽出したのでしょうね。だから着る気もなかったのですけど……」
 けど何か。視線のみでそのあとに続く言葉を促したヴァルバトーゼに、天使は一足先に小さな桟橋に駆け上がるとほろりと笑った。睡蓮が転々と浮かぶ小池を跨ぐように設置されたそこは風通しがいいのか、彼女の桃色の髪が先よりも大きく浮かび上がる。背中を覆う髪の隙間から、白い肌が微かに輝く。
「狼男さんと少しお話した際、吹っ切れてしまいまして。……正確には勇気を貰ったと言いますか、自棄を起こすよう煽られたと言いますか」
「ほう、あいつとここで多少は親密になったか」
 天使の説明を譜面通りに捉えて喜色を見せるヴァルバトーゼに、さあとアルティナは肩を竦める。しかしあの人狼との会話がなければ、今彼女はここにこうしていなかっただろう。
「煽られたと言うなら、ほかの皆さんもですけれどね。……フーカさんにもデスコさんにも、エミーゼルさんにも」
 皆が皆、アルティナの背中を少しずつ押していって今こうしていられると思うと、彼女は仲間たちの顔を思い浮かべるとともに胸の奥に熱さを覚える。
 あのときだってそうだ。どうにか自分の罪の責任を取ろうと、四百年を孤独に足掻き続けた彼女に手を差し伸べてくれたのは、清らかな羽を持つ金髪の天使だけでも、四百年前のたった三日の約束を覚えてくれていた黒髪の吸血鬼だけでもない。勿論、自分の住む世界を、大切なものを壊されたくないと強く願う気持ちがあると理解できているけれど、それでもアルティナは彼らにも救われた。自分の意思を認め、助けようとしてくれる仲間がいることが、ひとりではないしふたりでもないと教えてくれるひとたちがいることが、何よりの励みになった。
「……今わたくしがここにいられるのは、皆さんのお陰です。ですから感謝していますわ。勿論、あなたにも」
 すべてのはじまりの娘の笑みに、吸血鬼は軽く目を見張る。
 星が瞬く魔界の夜空を背に、鮮やかな桃色の髪が優雅に広がる。その隙間から純白の天使の羽を覗かせて、肌も服も穢れのない白に身を包んだ青い瞳の娘が、たおやかにもしなやかな強さを滲ませて浮かべるその笑顔は、今の彼の心に何よりも印象深く響く。恐らくはその言葉もまた、彼の胸に光を伴い響いたためか。
「俺もだ。……いまだお前との約束は果たされていないが、それでも約束に固執することで得られた結果として今があり、この状況が続くことは純粋に誇らしいし――そう、楽しい」
「ええ、それに嬉しい」
 木霊のように言葉を告げあったふたりは、互いの距離が少し近いと自覚し慌てて距離を取りながら歩を進める。苔と水の匂いとほのかな冷気が心地良かった桟橋をやや焦り気味に下った先は白い花々が咲き誇る生け垣で、アルティナはその周辺の空気を臓腑に染み込ませるように深呼吸をした。
「……いい香り。梔子ですわね」
「俺には多少強すぎるな。……この匂いに酔いかねん」
 事実、ヴァルバトーゼはこの生け垣にたどり着いてから、いやそれより以前から少しずつ、目眩さえ覚えかねないほど胸を切迫する感覚に襲われていた。多分にここの匂いが原因だろう。先んじるアルティナの姿を目にする度に強くなるのはきっと錯覚だ。
「あらあら。……では、少し戻ります? それとも急ぎます?」
「急げばよい。匂いが惜しいなら拝借しておけ」
 言って吸血鬼は手近にあった生け垣の花を摘み取り彼女に手渡すが、それを白手袋越しに受け取る彼女は口元に苦笑を刻む。
「拝借しておけと命じたあなたが手折るのはどうなのかしら?」
「安心しろ。ないとは思うが賠償金を払えと言われんよう、俺の責任にしてやったまでだ」
「それはどうもご丁寧に」
 受け取ったアルティナは、しかし花の茎の短さから手に持つにはすぐ落としそうだと判断したのか。暫く花とにらめっこをしていたが、胸につけるにはブローチなど引っかけるものがないし谷間に指すのも何か違和感がある。かと言って首のチョーカーに巻きつけると痛くなりそうで、結果的に耳の上、髪飾りのように刺すことにしたらしい。
 静かに金の留め金をかき分けて耳の上に白い花を乗せた彼女は、一部始終を自然と眺めていた吸血鬼に微笑みかけた。
「大丈夫ですか?」
「……な、何がだ」
 慌てて吸血鬼に目をそらされ、いつの間にかドレス姿を見せたときと同じような態度を取られたアルティナは吐息をついて説明する。
「花が落ちないようにしっかり付いているかと伺っているんです。こちらからはあまり見えないからちゃんと……」
 彼女の危惧は的中した。花はアルティナが微かに動いただけでゆっくりと前のめりに動いて、彼女の肩に一度弾んで着地すると続いて胸を伝い、腹を通ってスカートの滝を滑り落ちかける。それを慌てて紗の手袋が掬い上げようとすると、同じく地面に花が落ちるのを阻止するためか。厚手の白手袋が同じく彼女の臍の辺りで花を掬い上げ、ふたりの手がぎこちなく重なる。
「っ……」
「……あ」
 今までは腕も組んでいなかった。手も重ねていなかった。隣に並んだときだって肘さえつかない距離でいたし、花を受け渡すときだってその偶然は貫けたのに、不意にこんなところで互いに触れて、ふたりは僅かに身体を強張らせる。
「ヴァルバトーゼ、さん……」
「……アルティナ」
 顔を上げ、互いに名を呼んだだけなのに、胸にこみ上げる想いが強くなる。とろりと器の縁から蜜のようなものが溢れかける。理由はわからない。否、わからなくても構わない。けれど今は、その偶然に甘えてふたりは互いの距離を詰めた。黒と桃色の前髪がさらりと混じる。
 手にも布越しなのに互いの鼓動と熱と、匂い立つ周囲の花々よりも尚はっきりとした体臭を感じ、女は微かにはにかんで、男は小さく呻きを漏らす。しかしその仕草でさえも、ふたりの気持ちをますます高めるようで。
 女の細腰に手が添えられる。男の胸に手が添えられる。瞼がゆっくりと伏せられるが、これはどちらのものかはわからない。確認しようがない。そう、ならば互いのものなのだろう。更に薄く開いた唇から、相手の息が自分の肌に触れて、それから――。

「……ぇぇえええええい!! みんなっ、オレ様のコンサート、楽しみにしてくれてたかぁああああ!?」

 突如として聞こえた割れ鐘めいた拡張機の音声に、ふたりはそのまま硬直した。



◇◆◇

「あんの馬鹿っっ!! 折角のキスシーンを邪魔とかなに最悪なことしてくれてんの!?」
 生け垣の向こうから一連の光景を覗き見ていたフーカが猛然と立ち上がるが、その隣では同じく立ち上がったフェンリッヒが彼にしてはこれ以上ないほど力強い喜びを噛みしめる顔で握り拳を作る。
「……よくやってくれたアクターレ! オレの票は常に閣下のものだが、今期ばかりに限って言うなら貴様を支持してやる!」
「キスの邪魔で支持ってどうなんだよそれ……」
 その下ではいまだ座ったままのエミーゼルが、姉の指示通り、人狼の口と目にしがみついて今の今まで彼の阻止の邪魔をしていたのについに振り落とされて目を回すデスコの頭を撫でてやっていた。しかしそんな少年の襟首をひっ掴んで、フーカがついに生け垣の外に出る。
「どうでもいいわよんなこと! てゆーかエミーゼル! あんたのせいでやっぱりあの馬鹿戻っちゃったじゃないのよ! どう責任取ってくれるの!?」
「えー……あれ、ボクのせいか?」
 そう言えば祝宴にたどり着くまでの廊下でそんな会話があったかもしれないが、会場から遠いはずのここでさえも届く大音量で微妙な歌声を響かせている今期大統領の異常な悪運の強さと粘り強さがこの結果を呼んだのではないかと思った少年に、人間の少女はツインテールをたわませるほど激しく頷いた。
「当然でしょ! あんたが気楽に約束なんかするからフラグ立ってこれよ!?」
「……あぁ、まー、約束……しちゃってたなあ……」
 気楽に交わしてしまった約束を思い出したエミーゼルは、こちらを見て硬直しきっている吸血鬼と天使ふたりとしっかり目が合う。自分のせいではないけれど、異常に居たたまれないのはやむを得ぬ。
「い……いや、ボクらは別に覗いてた訳じゃ……!」
 さすがにこれは失敬だから言い繕おうとする気持ちはあったのだが、四人の中で誰よりも客観性を持っている少年は振りかざしかけた手を諦めて下げる。誰がどう見たってその言い訳は無理だと考え、申し開きもできないものとエミーゼルは天を仰いだ。
「いや、うん。覗いてた。ふたりとも、悪い」
「アタシらは別に悪くないわよ。邪魔しようとするフェンリっちが悪いんだし」
「真っ先に嗅ぎ付けて真っ先にオレにデスコをけしかけたお前がそれを言うか!」
 フェンリッヒの怒号をフーカは涼しい顔で受け流し、やれやれと肩を落とすといまだ目を回していたデスコのほうに振り返り、微妙に音を外し気味のホールへ向かって傲然と指さす。
「デスコ! 折角のラヴシーンを邪魔したあいつをはっ倒しに行くわよ!」
「……ぁう?」
「あうじゃない! 鋼の掟を思い出せないってんなら今ここで置いてくわよ!?」
 脅されて悲鳴を上げたデスコは、さっきまでフェンリッヒの頭の上にいた自分がいつの間にか芝生の上で横になっていた不思議にも気付かず立ち上がり、いつの間にか生け垣の向こう側にいる姉のあとを追う。
 妹が自分の命令を聞き入れてこちらに向かってきたと確認したフーカは、その姿に短くも満足げに頷くと、呆然と立ち尽くすふたりの横を笑顔で横切った。
「安心してね、ふたりとも! ちゃんと仇は取るから!」
「……おねえさま。それ多分、意味通じてないと思いますデス」
 恐らくは無念を晴らすと言いたいのだろうが、それもわかっていない表情で目を瞬くフーカの手に飛びつくと、デスコはまず吸血鬼に頭を下げた。
「ヴァルっちさん、デスコを探してくれてありがとうございましたデス!」
 続いて遠慮なくふたりを追い越していく姉へと一端背を向けて、デスコは天使に対し小さく胸を張る。
「アルティナさん、デスコはきちんとおねえさまと踊りましたデスよ!」
「エミーゼル! あんた約束どうすんの!」
 妹の言葉のあとに、まだ生け垣の前で突っ立ったままの死神の少年に対しフーカが呼びかけると、ああと我に返った声が上がった。
「……仕方ないな。行くよ、行けばいいんだろ!」
 重い吐息をついたエミーゼルは、姉妹と同じくふたりの横を通ると、吸血鬼の腕を同情を込めてそっと叩いた。
「あと、お前もこの約束に付き合わせる……よな、確か。ほんとごめん」
 それだけ言って申し訳なさそうに早歩きでふたりを追い越すと、そのあとをいつの間に歩いていたのかフェンリッヒが姿を見せ、一つ派手な咳払いをして大仰に礼をする。
「……お迎えに参りました、閣下。我々もあちらに戻るべきかと」
「う、うむ。小僧の言う通り、約束はしていたからな」
 そこでようやく我に返って体を離したふたりのうち、当然フェンリッヒは吸血鬼の手を取り大統領府のほうへと導こうとしたのだが、主たる悪魔はそれだけでは足りないとばかりに軽く身を捩ってひとり立ち尽くす天使に手を伸ばす。
「お前も来い、アルティナ」
「……あ。は、はい」
 右手で執事の手に導かれ、左手で自ら天使を導くヴァルバトーゼの体勢は、彼を間に挟むふたりにとって多少に滑稽に見えたのだが。そんな彼をこそ慕う男女はなんとも言えない顔をして吸血鬼に視線を注ぐ。
「どうした、お前たち。言いたいことがあるなら言え」
「では恐れながら、閣下……。その体勢は少し、なんと言いますか……」
「ラインダンスの上半身の振り付けみたいですわね」
 適切な表現だったらしいが相手がアルティナなので動揺を押し隠せずも睨みつけるフェンリッヒに、止せと一言吸血鬼が制すると彼はなんともない顔で肩を竦めた。
「仕方あるまい。俺はお前たちのどちらも必要なのだから、お前たちを手放すわけにはいかんのだ」
 あっさりとした吸血鬼の本音の吐露に、人狼は戸惑いながらはあと一声漏らし、天使はこらえきれぬように自由なほうの手で口元を隠してくすりと笑う。
「まあまあ、ヴァルバトーゼさんたら欲が深くていらっしゃること」
「俺は誇り高き吸血鬼にして悪魔だぞ。悪魔の欲が深いのは自然の摂理、当然のこと」
 それもそうでしたと納得したアルティナに、苦い視線を送っていたフェンリッヒは少しは調子を取り戻したか。吐き捨てるようにせせら笑う。
「……思い上がるなよ、アルティナ。この場ではお許し頂いたが慈悲深い閣下のご厚意あってそこにおられること、ゆめゆめ忘れるな」
「わかっていますとも、フェンリッヒさん。わたくしはヴァルバトーゼさんが手を差し伸べてくれる限り、このひとの隣にいるだけです……。そもそも隣と言いましても、左右ある訳ですからひとりだけではどうしても片側空いてしまいますのよ?」
 吸血鬼を挟むふたりの間でのみ交わされていたはずの会話に、ヴァルバトーゼは申し訳なさも話についていけないとも全く感じていない顔で、深く頷き割って入る。
「左右ならまだ圧迫せんな。前後は異常に歩き辛いが」
「いるとするなら、背中を押す方と先を導く方でしょうか」
「はん、閣下の先に道を造るものなど……いえ、僭越ながらこのフェンリッヒ、閣下の露払いであれば粉骨致しますが」
「そう身構えずともよい、フェンリッヒ。先のアルティナの説明を当てはめても、お前たちで十分前後も事足りる」
 軽く澄ました顔で告げるヴァルバトーゼに、今度こそアルティナはおかしそうに声を立てて笑う。フェンリッヒは無礼だぞとそんな彼女に噛み付くも、天使の反応を見ても不敵そうに口元をつり上げる主の手前、どうとも言えない顔で視線を彷徨わせた。
 そんな三人を遠目に見ていた――訳ではないだろう。騒音一歩手前ほどのギターだのドラムだのキーボードだのの音が響き渡る大統領府の大ホールに繋がるテラスの前で、エミーゼルとデスコを引き連れたフーカがそれらの音に負けないように声を張り上げる。
「ねーヴァルっちー! ヴァルっちはアクターレのライブに付き合うのー!? どうすんのー!?」
「ほかに何か策があるのか、小娘!」
 同じく大声で問いかけるヴァルバトーゼに、少女は遠目からでも不敵なものとわかる笑みを作って見せて、いつの間にかデスコの背中から引っ張り出したらしい。馴染みのバットを肩に担ぎ、プリニーの帽子を目深に被って言い放つ。
「いやー! 歌を大人しく聞くのと、一曲辛うじて歌わせる程度に邪魔するか、やっつけるのはさ、全然違うじゃない!?」
 物騒な発想だが、ヴァルバトーゼにとっては悪くはない提案であるらしい。目を瞬いて顎に手を添えた彼は、感心したように唸った。
「……ふむ、小娘にしてはよく頭が回るな」
「今日のあれの頭の回転は異常です。オレも何度振り回されたことか……」
「若いひとに振り回されるとぼやくなんて、お年寄りみたいですわね」
「五月蝿い。人間の年齢で言うなら貴様もその部類だろうが」
 ステレオで聴こえてくるやり取りをそこそこに無視しながらヴァルバトーゼは自分たちの返答待ちのフーカに向けて、確かな意思を伴い朗らかに言い放つ。
「ではお前の好きなようにしろ、小娘! 俺たちはお前を援護する!」
「アイアーイ! ……よっしゃ、ヴァルっちのお墨付きが出たわよふたりとも!」
 やる気満々のデスコと、少し申し訳なさそうだがやはり大人しくライブに付き合う気はないらしいエミーゼルとそれぞれ頷きあったフーカは、テラスから窓を開けて更に音量を増したホールに向かって叫んだ。
「たーのも―――!!」
 呆気に取られた賓客たちのどよめきが、先手の三人に強い視線とともに降り注ぐがそれを彼らは平気な顔でホールの中へと踏み入って。その背中に少なからず頼もしさを覚えた後手の三人は、ようやくホール前のテラスにたどり着くとそれぞれ静かに手を離し、フーカたちと同じく胸を張って歩き出す。
「アクターレ!! 貴様との約束、果たしに来てやったぞ!!」
 その中でも中央に立つヴァルバトーゼが、フーカに負けないくらいの大声を放ちホールの空気を微かに振動させる。
 それが切欠。それが転機。魔界の上品ぶった祝宴が、悪魔らしく化けの皮を剥がして、己が暴と暴をぶつけ合う大乱闘を巻き起こす。それがスイッチ。それがレバー。地球を救ったとされる六人の、新たなる戦いの日々を引き起こす――
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