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さらえるものなら

2013/04/26


 肩によくない類の寒気を感じたのは、アイテム界潜りも半ばの頃だったと不本意な二つ名『業欲の天使』を悪魔たちから賜った元怪盗天使アルティナはかく振り返る。
 もともと肩も脚も剥き出しているから気温の変化に敏感と思われがちだが、下級であろうと天使兵の身分を持てば霊力の紗幕で自らを守護できるようになるもの。そのため並の悪魔に比べても過酷な環境に耐えられるはずなのだが、そのとき感じた寒さはそれらとはまた別種。日頃の疲れが澱のように溜まった末の、自分だけが感じるうそ寒さだとすぐさま判断した彼女は、潰せる敵なら全力で潰す臨時パーティーの面々とは対照的になるべく大人しく、支援や補助に徹していた。
 そうしてようやく形容し難い不可思議な色の空から、墨をたっぷり流し込んだような色合いの、昼なお暗い地獄に戻ったとき、彼女が思わず吐き出した息には疲労以外の重みも含んでいて――本人としてはこっそり漏らしたつもりだろうが、実際にはさにあらじ。
「お疲れさま天使さん。体調悪いのに最後まで付き合わせて悪かったわね」
「……あ、いえ。そんな、ことは」
 今回のリーダーである魔法剣士に謝られ、桃色の三つ編みが小さく飛び上がる。内緒にするつもりだったのが密かに気遣われていたなんて、相手がどんな種族であれ申し訳ない。
 恐縮する天使の娘に、そこそこ付き合いが長い悪魔たちはせせら笑うこともなく、逆に金勘定中のアーチャーさえも手を止めて優しい微笑を浮かべてくれる。
「辛そうだし先帰って寝ときなよ。上への報告はあたしらがやっとくから、安心して」
「ああ、なんならオレも一緒に行こうか? 部屋まで送……っで!」
 続いて親切心を見せるつもりが行き過ぎて下心までちらつかせたガンナーは、魔物使いに強かに弁慶の泣き所を蹴り上げられ背を丸めて悶絶中。のところをアーチャーにその肩足蹴にされ、呪術士とバウンサーには槍の柄で頭小突かれ、更に更に。
「いやっ、ちょっ、やめっ……止めて止めて止めてごめいた痛いってもう悪かったからっ、さ、あ……!」
「黙んなさいこの見境いなし」
「お前なんか腰のモンぶら下げる権利もないわ」
「ジャア取ルカ。輪ゴムデモ巻イテカラ、ブチット」
「穏やかじゃないわねえ。別の快感教えてあげるほうが建設的よぉ?」
「おっ、いいねいいね。そう言う奴のツラ肴に飲むのも好きだよアタシ」
「ほんとごめんってば謝るからそれだけは止めて!!!」
「そこはご褒美ですありがとうございますだろ」
 女性陣――女性、陣? いやいや、彼も心は立派に乙女であるからして――の容赦のなさに、ひとり天使は取り残された心境で目を瞬くばかり。それからいつもよりやや遅れて我に返ると、悪魔のスキンシップはどうにも粗暴でついていけない、なんて感想が浮かぶ辺り、天使なる種族はかくも脳天気としか言いようがない。
 ともかく邪魔にならないようにと丁寧に頭を下げてその場を辞した天使は、件のガンナーがこれからどんな目に遭うのかを知るに到らなかったのだが、まあこの場であえて伝える必要はなかろう。
 何より彼女の双肩にのしかかる寒気は明確な病みの気配を伴っており、己の身体を抱いても焼け石に水どころか雫を落としたようなもの。大人しくしていたつもりでも戦闘に参加していたのは違いないからか、歩みを進めるごとに気だるさが強くなってきて、懐かしくも慣れない感覚にまたも重たい息が出てしまう。
「……一体、いつぶりかしら。こんな……」
 人間の、無力な看護師として足掻いていた時分なら、栄養失調や不養生が祟って体調不良を煩ったことも少なくなかった。それでも自分には助けなければならない人々がいると思えば無理もできたし、共倒れだけは避けようと早めに床に着けば翌日には概ね治った。気合いでなんとかなるだけの若さも多分にあったのだろう。
 人間として死んで以降、つまり天使に転生し天界で暮らした数百年間は、まず体調を崩す要素とは無縁の環境にいた。慎ましやかにも衣食の足りた生活は無論のこと、花咲き誇り薫風満ちる世界は一年を通して暑さ寒さに無縁で、模範的な天使の生活を送っていたなら百年でさえも瞬きの間だろう――自分のせいで破滅の道を万進する人間へ声を張り上げ続け、また見習いから下級兵へと昇格するため、その際に受ける任務のため修行に明け暮れた彼女にとって、四百年は辛くも長かったと言うのに。
 そうして魔界に侵入して以降。天使長の命を受け、単身ここに降り立った彼女を待ち受けたのは、極寒極暑だけでなく有害物質まで含んだ劣悪極まる環境。『徴収』のターゲットの死惨家や銀行が雇った数多の用心棒、とどめとばかりに賞金がかかった自分を追ってくる悪魔たち。どれもこれも過酷な障害ではあったが、任務への執着心が勝り体調を崩す隙は見せなかった。ひょんなことから政腐への反逆者一行に加わって、魔界じゅうに自分の血を売りつけるようになっても倒れるようなへまは一度たりとも起こさずに済んだ。
 否、一度だけ。とある人物を助けようと、身を呈して庇ったせいで意識を失ったことはあったけれど。
 あんなことをしたのは、賞金首として殺されるくらいならいっそ誰かの命を助けて死にたいと思ったからか。単純に、自分の目の前で無関係な誰かが傷つくのがいやだからか。それとも、殺されそうになった相手があのひとだからなのか。
「ん……」
 わからない。熱で鈍り始めた頭ではその辺りの記憶を探ることさえ難しいからと、胸に生じた切なさを誤魔化しながら天使は己の力をうんとドアノブに注ぐ。幸い、居候中の屋敷まで無事に辿り着くことはできていた。
「ただいま、帰りました。と……? あら……」
 だが彼女を迎えるプリニーが一匹さえいなかったのは、珍しくも不幸な話。
 なんとなれば今の天使の頬は見習いプリニーでさえすぐさま彼女をベッドに押し込めるくらい不自然に火照っているのに、彼女は扉を閉めた瞬間、安堵してしまったのだ。こうして屋敷に無事到着したのだから、寝る前に多少寄り道しても構うまいと。
 とは言え、天使自身も自分の体調不良を一応は自覚していたから、寄り道もそれ関連。予備のタオルと氷枕を用意して。それと今のうちに何か食べて、飲み物も用意して。
「けど……材料費は、どうしましょう……後払い?」
 その延長線上でついつい余計なことまで考えてしまったのは、やはり自分の不調を甘く見ていた節が強い。
 珍しくつたない足取りで、ヒールの靴が台所を目指す。普段の体調なら自分がそんな足音を響かせることさえ恥じるはずの天使は、だが今ならぼんやり台所を目指しながら、歩くことさえ辛くなった自分に焦るばかり。壁の角に辿り着くと思わず手をついて、吐き出した息の浅さ必死さに戸惑いながらも笑えてしまう。
 こうも酷くまで放っておいた不養生は反省すべき点だが、熱を発する余裕などこの四百年間ついぞなかったと思えば、良かれ悪かれ自分はこの地に身を許しているのだろう。それを自覚させられるのがよりにもよってこんなときだなんて、つくづく損な性格である。
 が、そうこうしているうちにも熱は次第に彼女の四肢の自由、以上に思考や意識さえ奪いそうな。台所に着いたらまずは氷枕を用意しようと決意を改め勢いよく顔を上げた娘は、その反動で眩暈を起こし、再び壁に手をつくどころかしがみつく羽目になった。
「……う……」
 さすがにこれでは台所なぞ寄っていられない。浅い呼吸と熱で意識が朦朧とする中、辛うじて階段が視界に入った彼女は目的地をようやく自室に変更する。相変わらずプリニーの姿が見えないが、二階に上がればそのうちすれ違うだろうしそのときに何か持ってきてもらうことにしようと考えながら。
 それでも歩みは遅々としたもの。壁に手を添え、噛みしめるように一段ずつしか階段を上がっていけない自らの危うさに遅ればせながらも危機感を募らせたが、なかなか体は言うことを聞いてくれない。それどころかもうこのまま階段に座り込み、少し良くなるまで休んでしまおうか、なんて考えが浮かぶくらいで。
 それでも踊り場まであと二段か三段だから、休むとしたらまずそこまで。ああけれど踊り場で休むならそのまま横になりはしないだろうか。しかしきっと彼らが毎日綺麗に掃き清めていてくれるから、少し横になるくらいどうと言うことは――
「おい、アルティナ?」
「ぇ、ぁ……ゃ……っ!?」
 唐突な背後からの声に、振り返るつもりが足下ががくり。不意にバランスを崩し、派手な音を立ててそのまま階段下まで滑り落ちる。
 高熱に続いて階段から落下だなんてついに天罰が下り始めたのかと目を瞑った彼女に、襲いかかった衝撃は腕だけ。いや正確には、誰かに強く腕を掴まれていた。
「……ぃ」
「すまん……。しかしお前、声をかける程度で何もそこまで……」
 その誰かの指は、細いのに力強く、ついでに肌触りの良い生地で誂えられた手袋を着用しているらしい。おまけに脂っぽい青魚独特の臭いが微かに漂い、こわごわ開けた視界には鮮血色の瞳がうっすら自分を映していた。以上、与えられた三つの要素に助けてくれた人物を少しずつ理解した天使は、重く熱い息を丁寧に吐き出す。
「……ごめん、なさい。少し、ぼうっとしてしまって……」
 今この魔界で最も有名なプリニー教育係兼魔界与党『新党・地獄』党首、人間だった頃の彼女と約束を交わしたかつての『暴君』ヴァルバトーゼ。よりにもよって多忙な彼に見つかったのは、良かったのか悪かったのか。わからない。予想外に顔を合わせられた喜びと、見苦しいところを見せてしまった申し訳なさが先立つばかりで、冷静な判断などできやしない。
 下から彼女を掬い上げた吸血鬼のほうはと言うと、思わぬ顔の近さに慌てて視線を外しかけたところで相手が無反応なのを受け、相手の異常に気付いたらしい。腕の中、どこへ掴まったものかそれとも離れたものかと力なく彷徨う華奢な手と、ぼんやり遠くを見つめる目つきに眉根をしかめた。
「……どうした、辛いのか?」
「あ……」
 白手袋が彼女の額をするり覆う。
 言葉を選ぶつもりが冷たい感触に意識を奪われて、娘の舌の動きも一旦鈍る。いやいやそれではいけないと、我に返るより先に体が。
「へ……う?」
 一瞬、宙に浮いた。
 無惨に階段に尻をつき、痩躯の青年にバリケードになってもらっている状態から、どうやって立ち直ったものか茹だった頭で考えるつもりがさっきから上手く思いつかない働かない。だから現状を把握するのも、彼女はいつもの数倍時間がかかってしまって。
「暴れるなよ。それと、できるようなら俺の首に腕を回せ」
 短く告げて吸血鬼が歩き出す。と同時に彼女の両足と視界が揺れて、尻や脚が冷たい石階段に当たっていないのはいいのだが、代わりに体がやや傾いているし、やたらと相手の顔が近いし身体の半分が密着しているし、ひかがみや二の腕に硬いものが食い込んでいるような。否、これは食い込んでいるのではなく掴まれている。誰に。無論、任務も贖罪も終えた彼女がそれでも魔界に留まり続ける唯一の理由、想い出のひとに。どうして。それは当然、魔界でも重力は存在して、その証拠に三つ編みが――ではなく、ではなく。
「え。あの。ええと。……ヴァル、バトーゼ、さん?」
「何だ」
「どうして、わたくし、あなたに、抱えられて……いま、すの?」
「…………」
 その通り。某なり損ないプリニーの少女曰く全世界の乙女の夢、憧れたことがない、やられてときめかないのはもう女の子じゃないとまで断言させたが仲間の男性陣、ついでに彼女もまた内心そんなものかと半ば冷静に受け止めた人体運搬形式。運搬者が対象人物をほぼ二本腕のみで抱え上げる、世に言う姫抱きで彼に掬い上げられたと知らされて、天使は大いに戸惑った。多分熱がないときなら、見苦しいほど動揺していたかもしれない。そう考えれば抱かれたのが今で良かったのだろうか。
 しかし乙女の夢を不用意に叶えた吸血鬼は、何故だか彼女をじろりと睨みつけ色気もへったくれもない面構え。しかも抱えられた側もまた普段なら目を瞬くところを困惑からつい俯いてしまい、いやそれでは失礼だと慌てて態度を改めようとしたのだが、ならどうすればいいのかわからなくて結局俯いたまま。
 こうして不器用な男女ふたりは、あって然るべき甘い空気の芽をよりにもよって自分たちの手で潰してしまった訳だが、それに気付いているのかいないのか。白馬の王子になりきれなかった悪魔の青年、わざとらしい吐息で場の空気を入れ替えようと試みる。
「……今のお前は歩くこともままならんほど弱っているらしいからな。ならばお前を転かせた原因として、俺がお前の足代わりになってやるのが道理だろう。行き先はお前の部屋でいいな?」
「そ、んな。……少し休めば、わたくし一人で歩けますし……」
「階段に座り込むのは休むと言わん。……まともに休む気があるなら、このまま大人しくしていろ」
「で、でも……」
「でもも糸瓜もない」
 断言され、不満げながらも反論する気を失ったらしい天使に、青年今度はひっそり鼻から呼気を抜く。
 所用を済ませ執務室に帰る途中、よく見知った色味の影に声をかけただけなのに。たかがそれだけで影が足下から崩れ落ちたのには驚いたが、咄嗟に掬い上げたあとなんとなく額に手をやった彼は更に愕然とした。
 娘の額はまるで真昼の砂漠。手袋越しに伝わる熱は体温の低い悪魔なら火傷しかねないほどで、ならばそんな熱を発している側もまた平気でいられるはずがない。
 その考えに辿り着いた瞬間、体が勝手に天使の娘を抱え上げていた。
 幸い崩れ落ちた娘を膝で止めていたから抱えやすかったし、何よりそんな状態の彼女を放置しておくつもりなど更々なかったから、彼の理性もまた驚きながらもそれを良しとして今に至る――尤も、こんな真似をしたのは相手が彼女だからこそ。ほかの女や仲間を相手にはしないし、強く頼まれない限りやる気も起きない。
「……ん……」
 だが天使の娘は男のそんな心中を察しもせず、不自然に頬を赤らめたまま遠慮がちに彼を見上げるばかりで、腕に回す気も起きないらしい。
 しかしその態度こそが吸血鬼にとっての猛毒だと、気付かないのは本人ばかり。頬の赤さもそうだが、その目つき、熱のせいで水宝玉の瞳がいっそう鮮やかに潤み煌めいて、場違いなほど艶冶だった。
 加えて内からの熱に炙られた娘独特の香りは普段の爽やかな余韻を失い、ぬるくねっとりとした退廃的な甘みを強めて彼の渇きを煽るばかり。間近に見下ろす二の腕や丸い肩の白さきめ細やかさ、前帯からちらちら覗く双つの房の震えが堪らないのなんの。胸にかかる絶妙な重みも含め、最早無意識の誘惑を越えて、暴力扱いにしてもいいくらい。
「……何を遠慮している。腕を上げる力がないなら仕方ないが、掴まったほうが揺れも少ないぞ」
 しかし相手が無意識である以上、その暴力に対抗する術は無視以外にない。抱え直しながら青年が精一杯なんともなさを装い告げれば、返事は弱くたどたどしい。
「……いえ。あの……、重く、ないんですか?」
「軽い」
 女のプライドを考えれば声に出すにも憚るだろうがそれでも彼の身を案じて出た問いかけに、吸血鬼きっぱりと言い放つ。血を絶った影響で痩せているのは否定しないが、イワシと約束を貫く強靱な意志のお陰で胆力については問題ないと自負している彼にとって、その質問は逆に見くびられた気になって少し面白くなかった。
「そもそも、お前をこうして抱えるのはこれで二度目だ。あのときに比べれば距離も短いと言うのに、そう緊張されては逆に抱え難い」
「……そ、そう、でし、たの……?」
 辛そうなりに声を裏返らせる天使に、男は深く顎を引きかけて視界に飛び込んでくる谷間の光景に慌てて視線をそらす。
「ま、まあ覚えていないのも無理はあるまい。あのときお前は気を失っていたからな」
「それ……は……」
 彼の発言から、いつ自分が抱えられたのか推測できたらしい。男の腕の上にある羽がぴくりと軋み、頬の赤みをより深めた娘が居心地悪げに瞼を伏せる。
 そう。彼が彼女を初めて抱き上げたのは、一介の候補者だった吸血鬼が魔界中層区を制圧した直後のこと。
 第三者の凶弾に倒れた娘を男はこのときも反射的に抱き上げて、自らが有するここ地獄の屋敷へ連れ帰り、しもべたちに手厚く保護するよう命じた。目を覚ました怪盗天使は以降も屋敷に居付いて、その切欠を与えてしまった勢い任せの行動を彼はやんわり執事に咎められたか。続きとっとと追い出しましょうと持ちかけられるも、言葉を濁し続けた末が今現在の状況で。
 いや。実際にはそれより以前にあったかと、吸血鬼は苦い心地で更なる過去、四百年前を思い出す。
 それは彼と彼女が初めて出逢ってから三日目、娘の今わの際のこと。私刑に遭って虫の息の彼女を見つけた彼はすぐさま腕にその身を抱き寄せたが、あまりの冷たさと力のなさに、今のような気恥ずかしささえ湧かなかった。恐らくは、彼女も同じ思いだろう。
 けれどもしかすると、こうして彼女が自分にばつの悪そうな視線を送っているのはあのときとの違いもあるのかもしれない。つまり今の彼の体格が、天使とさして変わりない痩躯なのが不安なのだろうか。なんの根拠もない推測なのに、そう考えるだけで胸の杭の奥に痛みが走った。
「……今の俺は頼りないか」
「そんな、ことは……!」
 意地の悪い質問で守るべきものを追い立ててしまい、罪悪感がじわりと滲む。らしくないことを口にした原因は、熱に茹だった彼女のせいにすまい。かと言って、休みもせずまたもう一階分階段を上がった自分に余裕がなくなったからだとも思いたくないが。
「では、あの、失礼、します……」
 だがそんな彼の瞳にこそ、天使の娘はどんな言葉より背中を押された。
 四百年前と比べて今の彼が頼りないなどと、彼女にとっては青天の霹靂に等しい発想。なのに昔と変わらぬ紅い瞳の奥は微かな真剣味を帯びており、あんな約束を無意味に守り続けた己を嘲笑するようだったから。
 あんな目をされるくらいなら、約束を持ちかけた自分を責めてほしい。そんな気持ちを込めて、恥ずかしさと激しい心音を押しとどめるつもりで、青白い首におずおず腕を伸ばせば。
「…………っ!」
 瞬間、立ち昇る娘の体臭の生々しさががつんと来て。
 か細い女の両手が、首の横で軽く組まれる。一連の、たかがそれだけの動作に、男の全身はしかし雷に貫かれたに等しい戦慄に襲われていた。
 女に首を撫でられた経験はなくもない。抱き上げたことも具体的に思い出せないがあるだろうし、それ以上の経験、見目麗しい女たちから与えられる快楽の果てがどんなものか知っているのに。今このときに勝る感慨はあったろうかと強く疑問を抱くほど。
 首筋に伝わる手のひらや指の肌触りは今まで体感したどんなものより鮮やかに染み入り、肩にかかる重みは可憐な小鳥が降り立ったようなくすぐったと誇らしさを伴って。その上、視界には永遠の聖女と称えた娘が、自分に甘えるように寄りかかり腕を伸ばす光景が否応なしに視界に飛び込んでくる。その幸福感ときたら、初めて彼女に名を呼んでもらったときの感動を驚くほど容易く凌駕してしまう。
「あ、あの……? くすぐったい、ですか?」
「ん……ぁ……」
 胸中の宝に不思議そうな顔をされ、ようやく我に返った青年。至近距離にも構わず大声で言い訳してしまう。
「す、すまんっ。いやそうではなくてっ、その、唐突ながら少し思い出したことがあってだな!」
「……でしたら、そちらを優先してくださっても……」
「別にいい! 問題はない!」
 強い口調で言い切りすぎたか。小さく肩を竦められ、まずいと悟った青年はほんの数分前の出来事を脳裏に蘇らせる。業務用とは言え狭い台所ではできないので、食堂と広間を使っての大がかりな年中行事。
「つ、つい先ほど、屋敷のプリニーどもにイワシの保存食を作らせていてな。レシピに各自一工夫入れさせるのを忘れたと言う程度の……」
「……ああ。だから、プリニーさんたちの姿がなかったん、ですか……」
「何か、問題でもあったか?」
 しみじみとした口調に目を瞬けば、力ない笑みを浮かべられる。思わず心浮ついた吸血鬼は、続く言葉にすぐさまそんな心を沈まされた。
「いえ……。部屋まで、手を借りようと、思って……」
 言葉尻の儚い消え方に、甦る唾の味のまあ苦いこと。
 故意ではないにせよ、屋敷じゅうのプリニーたちを一ヶ所に集めてしまったせいで彼女が辛い思いをしたなら結局自分のせいではないか。しかし今までプリニーと遭遇しなかったからこそ彼女をこうして抱えていられるのだから、得は得。だがそれでもやはり、後味の悪さは誤魔化せない。
「ともかく、お前はこのままゆっくり休むがいい。もうすぐ部屋に……」
 告げる途中で目的地を確かめるべく前に首をやった青年は、しかして眼前の光景に軽く硬直。すぐさま回れ右をする。
「……どう、されました?」
「いや……すまん。場所を間違えた……」
 小さな声での告白に、天使は難しそうにあらと苦笑を浮かべかける。その様子を盗み見た吸血鬼、表面上は苦い顔を作りつつも内心大いに安堵した。
 余裕は簡単。その場所が、彼の部屋、しかも執務室ではなく私室だったからで。
 娘は相変わらず辛そうなのに、自室にうっかり連れ込んで自分は何をする気だったのか。彼女の部屋はそう何度も訪れていないし、休むとなれば自動的に自分の部屋に向かってしまうのは仕方ないかもしれないが、それにしたってひどく露悪的ではないか。相手が先に気付く前で良かったと、ひと一人を抱えたまま痩躯の吸血鬼は自らの失態から逃げるべく階段を下っていく。
「ん、ふ……、ぅ……」
「すまん。気分でも悪くなったか?」
 その振動が激しすぎたのか、一段ずつ降りるたびにかくんかくんと頭を揺らす天使の様子に踊り場で立ち止まりまた抱え直せば、甘えるように肩に顔を埋められる――のではなく、いいえと首を横に振られる。
「だい、じょうぶです。今のところ、そう言うのはありませんから……」
 力なく告げる天使の笑顔に、またしても余計な色香を感じ取りかけた青年は、そうかと頷く振りをしながら素早く視線を引きはがす。
 しかしその仕草に、娘はひっそり落胆した。いやひっそり、でもないか。ふたりの顔の距離はそれこそ目と鼻の先、どちらかが頑張れば口づけさえ可能なくらいなのだから、いかに熱っぽかろうと彼女がそれを見逃すはずがなかった。
 いつかの少女のご高説の通り、成る程この形態で好きなひとに抱き上げられるのはときめくと言うか、この上なく恥ずかしいし落ち着かないし申し訳ないが、それらをも越えてどうしようもなく心浮き立つのは間違いない。
 だが相手がろくに目を合わせてくれないのは寂しいし、それ以上に相手がなるたけこちらを見るまいと努めているのは高熱より辛い。そんな態度を取るくらいなら、どうして自分を抱き上げたのだろうと疑問を抱く。
「ど、して……?」
「ん?」
「え……」
 と思えば声にまでうっかり出てしまい、促すようにちらと覗かれ全身が軋む。
 だが男の胸中にいる現在、その軋みも相手に完全に伝わってしまう訳で。先は露骨に視線を外していたくせに、青年はわざわざ立ち止まって深刻そうに話しかけてくるのだから始末に悪い。
「どうした、吐き気でも催したか。もうすぐだが我慢は……」
「い、いえっ、あの、そうじゃなくて……っ!」
 手を振れないから首を振り、振るだけのつもりが彼の肩に顔を押しつけていると遅蒔きに察すると、体調のせいだけでない眩暈も覚える。それどころか目元さえかっと灼け、熱いものが喉の奥から溢れ出そう。いや、もう既にこみ上げていた。熱い雫が一滴二滴、も通り越し最早滝の勢いでもって彼女の頬を伝い濡らす。
 唐突過ぎる落涙に、驚いたのは男も同じ。むしろ受けた衝撃は彼女以上らしく、唖然と開かれた口から盛大な呻きが漏れた。
「おい、何故泣く……!」
「……ご、ごめん、なさいっ。別に、あなたの、せいじゃ、なくて……!」
「とてもそうは思えんが……」
 むしろそんな物言いをされたほうが罪悪感を抱くのは、人も悪魔も変わりない。吸血鬼の青年もご多分に漏れずその法則が当てはまり、大粒の涙を流す娘を居心地悪げに眺めた。
「……どうした。何かあったか? この体勢が辛いのか?」
「ちが、うの……。頭、くらくらして……、わ、わたくし、なんだか、へっ、変に……っ!」
「……そうか」
 熱のせい、との言い訳に納得できてしまうのは、普段の天使の気丈さを知っているから。
 しかしこのまま女の涙を眺めるだけなど男が廃る。とみにそれが大切な、二度と放さぬ守ると決めた相手ならどんなことをしてでも止めてやりたくなるのが男心。だが生憎と両腕は塞がっているから涙を拭ってやれないし、口づけは許されぬ、以前に現状そんな関係さえ築けていない。なら、残された手段はただ一つ。
「……アルティナ」
「っ!?」
 恥ずかしさを押し殺し、そっと覗き込む。たっぷり水気を含んで煌めく薄青の瞳の美しさに、場違いな狂おしさを抱きかけるもこれを耐え、優しい声と表情を意識して。
「お前が調子を崩しているのは承知の上。しかしなんの理由もなく泣いてしまった訳ではあるまい?」
「…………んっ」
 繊細な、いや今は赤く腫れぼったく変化した瞼がふっと伏せられ彼から逃げた。こちらを向かせてやりたい気持ちは強いが、今そんな真似など無理にすまい。
「……俺のせいなら正直に言ってくれ、謝りたい。そうでないならお前が遠慮する理由もあるまい、話してくれ。どんなに下らん理由だろうと責めも笑いもせんと約束する」
「………………」
 伏せられたままの瞼から、涙がまた一粒。けれど激情の奔流は止まりつつあるらしく、瞼の奥に垣間見る瞳が微かに冷静さを取り戻したように見えた。
「……それっ、は、どちらにせよ、ん、話せってこと、です、のっ……?」
「駄目か?」
「…………わかり、ません」
 それこそよくわからない返答だと目を瞬いた吸血鬼に、娘の細く長い息がかかる。臭くはないが、やはり不自然に熱く蒸れていた。
 そうしてのろり、首が動いて天使の相貌が隠れてしまうも、声は思ったよりはっきり届く。
「……目が、あったら」
「うん?」
「あなたと、目があったとき……いつもより、ずっと乱暴に、そらされてしまうから」
 納得してしまうがそれ以上に誤解だと言い訳したい衝動に駆られるも、理由が理由なだけにおいそれと言い訳するのも憚られ、悪魔の青年は苦虫を噛み潰したような面構えになった。しかし女の告白にはまだ続きがある。
「寂しくて……不安で。悪いこと、したのかしらって気になって……けれど、気付いたんです。今、わたくし……あなたに十分甘えて、ご迷惑、かけているのに、何を今更って……」
「いや、別に……!」
 またしても嗚咽が復活しそうな声音を吹き飛ばすべく割り入れば。反射的に上がったかんばせ、やはり彼女の瞳は濡れていて、新たな涙が漏れそうだった。
 しかし今度は泣かすまい。熱で苦しむ娘に無理に笑えと命じはしないが、せめて心は安らかに。いやむしろ、彼女にはどんな遠慮もされてほしくないから、彼は思いの丈を吐き出していく。
「そんなこと、お前は考えずともよい。今に限った話ではないが、あの小娘どものほうが余程厚かましく振る舞っているのだ。あれらに比べればお前の振る舞いなど甘えのうちに入らん」
「でも……」
「それと、……すまなかった。別にお前を寂しがらせるつもりはなかったのだが、その……」
 見つめていたらそのまま見惚れてしまいそうだから。場違いな行為をしかねないから。そう、告白してしまいたい気持ちはある。あるがまだ、意地が勝って視線が逃れた。
「あ、足を踏み外してはならんと、思うとな……」
「……そう、ですわよね」
 沈んだ声に引き戻される。これではまた彼女を寂しがらせてしまう。そんな感情を、今この瞬間、自分の腕のなかにいるときに、覚えさせてなるものか。
「そ、それにお前は、俺の……っっ!」
 大切な、と一気に言い放つつもりだったのに、まあ悪魔の根性の悪さときたら我ながら忌々しいことこの上ない。続く言葉が唐突に、奈落へ落ちた勢いで掻き消えてしまう。
「その……っ、……!」
 舌の根強張らせ、そんな自分に戸惑いながらも憎々しげな男の心情を天使の娘はどう受け止めたのか。いつの間にか涙は止まってはいたが、青年の望み通りでもない、微かに沈んだ表情で予期する続きを呟いた。
「約束、……した女、だから?」
「……ぅ……」
 そうそう、まさにその通り。その言葉に頷いてしまえば、彼が彼女に優しくする理由にも、彼の吐き出しかけた言葉の続きにもなるだろう。
 だがわかる、予想できる。その言葉に容易く逃げ込めば、また彼女と気持ちがすれ違い、こんなに身体の距離が近いのに心が遠のいてしまうのが。だから彼は。万の想いを込めて、精一杯頷きながら。
「そ、そそそそれ、以外にも……!」
 絞り出した声は情けないほど裏返り、続きなんぞ掻き消えてしまった言葉を、しかし天使は全く予期していなかったようだ。諦念を浮かべていた薄青の瞳が、意外そうに煌めいた。
「……それ、以外?」
「ああ……それ以外……」
 鸚鵡返ししかできずにいる不甲斐ない男を、本人は内心酷く叱咤して、早く続きを言えと急かしていたのに。
 女はふっと微笑んで、そのまま穏やかに目を瞑った。
「……そう。それ以外が、ありますのね」
 男の肩に、軽い音を立て桃色頭がもたれかかる。自分の気持ちを伝えきれなかった悔しさと、恋しい娘に甘えてもらえる悦びに板挟みになった若き吸血鬼は、いわく言い難い顔でそれを受け入れた。眼下で昼寝中の猫の背のように、まるい肩がゆっくりと盛り上がる。
「……優しいひと。けれど、そんな思わせぶりな言葉、いけませんからね」
 ――誤解してしまうから、と続いて聞こえた気がしたが、これは幻聴か自惚れか。できればそうでないことを祈りたいものだが、かと言って悪魔の場合どこの誰に祈るべきなのか、彼は知らない。知る由もない。だから。
「……別に」
 ――お前に誤解させるつもりはない。そう、心を込めて言い返す。
 これが相手に伝わればいいとは思うけれど、本当に伝えたいのはたかがそんなことではない。もっともっと烈しい、己の魔力を引き替えにしてしまったほどの想いがある。しかしそんな表現では娘は恐縮してしまうだろうし、それは彼の望みではない。
 だから今はこの宙ぶらりんを、自分もまた受け入れよう。
 胸に満ちる切なさを堪え、青年は再び歩き出す。腕に抱えた天使の娘は大人しく、すっかり全身の力を抜いてもたれかかってくれているけれど、心のほうは手を伸ばしても届くのか、届かないのかも曖昧な。
 ああ、ならばこそ。その手を奪い、引き寄せて、滅茶苦茶にしてやりたい。約束のためだけではないと、口で伝えられないのなら身体で直接この情欲を吐き出してしまいたい。
 と同時に、不可思議にもこの歯痒い距離間を一秒でも長く愉しみたい気持ちも強い。もどかしさに心を焦がし、切なさに苦しみ、不安定な、言葉にするのも難しい温かさに耽溺したい。そうとも。彼女を想い狂うのは、なんと背徳的で苦しくて、それ以上に甘美な――。
 いや我ながら、狂気も極まったものだと鼻からうっそり呼気を抜く。悪魔としての使命に忠実なはずの吸血鬼がこうも堕落させられるなど、やはり■とはげに末恐ろしきものだと改めて実感させられた青年は、丁度そこで立ち止まった。
「着いたぞ。……鍵は?」
「……はい?」
 本来の目的地に到着し、この場で下ろしておうかと少しは考えたが結局のところ最後まで付き合うことにした吸血鬼に、娘はまだ熱っぽい目で何度か瞬く。
「お前の部屋の鍵はどこにある。……かけていない訳はあるまい」
 ぶっきらぼうに念を押され、彼の意図を理解したらしい。ううと呻いた天使は、彼の首にかけていた右手をするり反転させただけ、のはずが。
「……あの、これです」
「これ? 何もないではな……ん?」
 どこに収納していたものやら、その手にはいつの間にかリボンをあしらった小さな鍵が握られていた。手首周りのフリルに自分の首を挟まれていたのに金属の感触など全く感知しなかった男は、娘の器用さに軽い戦慄を覚えたがこれは蛇足か。
 ともかくそいつをひかがみ側の手に落とすよう命じ、受け取ったそばから鍵を開け部屋に入り込んだ吸血鬼は、なるべく室内を気にしないよう、明かりも点けず真っ直ぐ寝台を目指す。日中でも薄暗いなりにどこからともなく光源が入り込んでくる彼女の部屋は、空き部屋か病室かと疑いたくなるほど清貧もとより殺風景だが、それでもやはり男が不躾に眺めていいものでもあるまい。
「よし……ここでいいな」
「は……い」
 寝台へ慎重に娘の身体を落としてやれば、天使は深く長い息を吐き出して、ぐったりとしつつも随分と安堵した様子。別に腕の中が安らげなかった訳ではなかろうが、そんなふうに横になられるのを目にした青年は少々複雑な気分になった。いや別に、拗ねるつもりは一切ない。
「すみません……結局送ってもらって」
 目を瞑ったままブランケットとキルトの縁を探り当てた娘は、その隙間にゆっくり自分の身体を差し込み、最小限の動きで安静の体勢へと変じる。こんなところでも器用なものだと、こちら感心しながらカーテンを閉めてやりに行く。
「構わん。あとでプリニーを遣いに寄越すから、欲しいものがあればそいつに言え」
「……何から何までありがとうございます」
 白いシーツとキルトに挟まれた赤い顔が、辛そうながらも笑みを作る。その微笑にまた胸の杭の奥が疼いて、そのまま帰るはずの男は思わず寝台へと足を運び、ちょうど娘の枕元近くで屈み込んだ。
「……ヴァルバトーゼさん?」
「俺はこれで帰る。……よく休め」
「あ……」
 熱い額から鼻筋にかけて、彼女にとって冷たく心地よく感じるだろう指でゆっくり撫でてやれば、自然と瞼が閉じられていく。その顔かたちはやはりあの特徴的に輝く瞳を隠してもまだ、彼の心を揺さぶる何かを秘めていた。
 その揺さぶりが生み出した熱に、突き動かされてしまったのだろう。指でなぞるだけだった娘の肌に、彼は思わず身を乗り出し。
 そっと。目を伏せて。
「……ん」
 繊細な瞼に口づける。音も立てず、素早く。けれど優しく、心を込めて。
 軽く触れただけなのに、余韻は予想以上にはっきりと。熱を持ちながら瑞々しいままの花弁に口づけたような、甘い痺れが唇に宿る。
 しかし彼の意識は相手のほうへとすぐに引っ張られ、娘の反応をしかと見守る。自分の首に抱きつかれたときの衝撃と官能を、彼女にも味わって欲しいと願ったのか。それともただ単にそうしたかっただけなのか。後者の可能性が高いが、前者の意図を含んでいない訳ではない。
 尤も、彼女は自分の瞼に何が触れたのかさえよくわかっていなかったらしく、再び薄らと目を開けると困惑がちに見上げてきて、男に安堵と落胆をもたらすばかり。
「あの……?」
「その、まじないだ。早くよくなるように、と……」
 本当はそんなものはないし知らないが、そう願ったことは事実だからと立ち上がる。今更ながら衝動的に自分のしでかしたことの恥ずかしさに居たたまれず、青年は逃げるように扉へ向かった。
「……ありがとうございます。それと、おやすみなさい」
「ん……ああ」
 しかし部屋を出るより先に娘の声が耳に届いて、男の外套とは言わず足までもくいと引っ張り未練を与えてくるのはなんとも性質が悪い。けれど今の彼女に最も必要なのは、男の慰撫ではなく休息なのだ。ならば欲望を抑えつけてでも、それを与えてやるのが正しい思いやりだろうから。
 未練がましさを押し殺し、素っ気無い態度のまま扉を閉めた。瞬間、未練が肺の奥からせり上がるのはどうしようもない話だが、あのままのうのうと居座ってしまうよりこの後悔のほうが余程軽いはず。
「……はあ」
 故にそいつをたっぷり吐き出し、扉から背を離したところで思わず自分の頬に手をやっていた。常人よりも体温が低いはずの吸血鬼なのに、微かに熱いのは気のせいではあるまい。
 これで娘の熱が伝染したのならそれはそれで構わないが、イワシを愛食して以降も以前もこの身は病知らず。となれば、赤面の理由はおのずと知れる。そう言えば彼女に口づけたばかりの唇も、いまだ痺れて、いやこれは疼いていやしないか。あれがもっと欲しいと、自分を突き動かそうとしていないか。
「…………いや」
 律儀に復活しかける感情を、首を振るって追い出す。
 そうだ、今は娘のためにプリニーを呼びにいけばいい。そうして明日だか明後日だかに、元気を取り戻した彼女の笑みと、感謝の言葉を受け入れればそれで十分。そう、十分と言うことにしておこう。
 かくして青年は歩き出す。貪欲な己を殺し、聖人並みの清貧を心がけ。けれど脳裏に蘇る、天使の娘の笑顔を消さず、いいや決して消せないままに。






後書き
 体調崩しネタってそういや書いてなかったなーと言う訳で姫だっこネタを兼ねて。
 初稿では閣下が「それ以外」って言えなくてアルティナちゃん曇って閣下もふて腐れて、と身体の距離は近いくせに心の距離は遠いすれ違い系むしゃくしゃ系でしたがさすがに可哀想よね…といちゃいちゃに変更。一部表現流用してても案外違和感ないもんですね。
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