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2011/07/06

 フーカの王子様探しを開始したと同時に姉とはぐれてしまったと正直に告白したデスコは、次にヴァルバトーゼから同じくフェンリッヒとはぐれてしまったと聞かされた。しかしさすが『暴君』と呼ばれた吸血鬼。はぐれた切欠が自分のものとは比べものにならないと知り、彼女は感嘆の息を吐く。
「……その魔王さんはそんなに激しい人だったデスか」
「うむ。正直な話、少し待たされた程度で結界に放り込んで戦いを申し込むのは常識的にどうかと思うのだが」
 一休みしたヴァルバトーゼは、すぐさま『乾季』ファイヤフローフィールドとの邂逅を果たしたのだがこの魔王、フェンリッヒが出会い頭に片手で頭を抱える程度には面倒臭い性格の持ち主だった。
 仮にも魔王と呼ばれる炎のたてがみを持つ獅子の悪魔が、今宵の主賓たるふたりの悪魔を目にした途端、私はここまで遅い時間でしか会えないほど価値がないのですかと泣き喚くなど誰が予想するものか。この時間帯になったのには事情がある、決して貴殿を軽んじたつもりはないと主従が何度説明しても聞く耳持たず、咽び泣きながら赤い円陣を床に一呼吸の間で描き、吸血鬼の青年は抵抗する間もなくそこへと飲み込まれた。
 そして結界の中でヴァルバトーゼは、面倒臭い別魔界の魔王相手に説得兼腕試しとなりどうにか勝ち仰せたのはいい。問題はそのあと、誤解を解いて体の傷から服の汚れまで丸々綺麗に元に戻されて結界から会場へと送り返されはしたのだが、人狼の姿がどこにも見えないところに戻されたらしく。
「……疲れたのだろう。結界の割れ目があったところにいくら俺が話しかけても脅しても、うんともすんとも言わなくなってしまった」
「そんなに激しいバトルをしたのデスか……!」
「いや、あれは多分に泣き疲れだ。付き添いの悪魔の子守歌が聞こえていた」
 魔王が子守歌なしに眠れないのはどうなのか。だがヴァルバトーゼと対等に戦えるほどなのだから実力は凄まじいのだろうと、デスコは脳内で相手の悪魔の株を下げないようにする。ついさっき、生理的に受け付けないと言う理由で見知らぬ別魔界の一行を相手に逃げ出した自分を思えば、彼女はそう簡単にかの魔王とやらを貶す気になれなかった。
「かように悪魔が多い場とあっては、フェンリッヒや俺の鼻もあまり利くまい。お前が見た悪臭を放つ悪魔どもなぞと接触してしまえば麻痺する可能性もある」
 的確に傷口を小突かれて、デスコは小さく呻きを漏らす。自分がはぐれた事情は粗方説明したし、それについてさしたるお叱りは受けなかったものの、少女は吸血鬼の言葉にどこか自分を責めるような調子を感じ取ってしまった。
「うぐ……で、デスコはラスボスを目指しているのに、敵前逃亡してしまったのが悔しいデス……!」
「そう自分を責める必要はない。容易く喧嘩を売るのは雑魚のする真似。それに自分の弱点を学ぶことはラスボスにとって重要だ」
 建設的に励まされても気分が向上しないのは、それに対する耐久性の問題が大きい。デスコはいみじくも乙女として、生理的嫌悪を催すものに慣れる修行ばかりは避けたかった。
「ヴァルっちさん、勇者さんが不潔や、気持ち悪いのを武器にするヒトの可能性ってどれくらいあるデスか……?」
「……難しい質問だな」
 ほかの悪魔ならば一笑に伏しかねないが今のデスコにとって重要で深刻な問題を、ヴァルバトーゼもまたおとがいに手を添え真剣に考えた上で返答する。
「世界を救う重い使命を背負っているのだ。カリスマ性を所持している点から鑑みて気持ち悪い勇者はいなかろうが、不潔の面では……いや、そうでもないか」
 生理的嫌悪を催す勇者などとはもともと想像もつかなかったのだが、この吸血鬼に改めて言葉にされるとデスコは少し気が緩んだ。と思った途端に聞こえた意味深な語尾に、一抹の不安を感じて知らず固唾を呑んでしまう。
「基本的にラスボスのダンジョンは勇者にとって過去最大規模だが、本番の戦闘前には万全の体勢を整えさせる意味も含めて休息所を設置してやるのがルール、ラスボスとしての使命と言うもの。そのため、縛りプレイでもしていない限り不潔に過ぎる勇者一行が現れる可能性も少ない」
「それなら、まだなんとかなるデスかね!」
 ラスボスの根城に勇者側の回復場所を造るのは規則と知って驚きつつも、さっきまでの不安が杞憂だったとデスコは顔を明るくしたのだが、反対にヴァルバトーゼの顔は険しい。尻尾で身体を持ち上げて喜びかけたのも束の間、慌てて姿勢を正す少女に悪魔の青年は彼女の予想通り厳しい言葉を投げかける。
「だがデスコよ、ラスボスたるもの戦う相手を選り好みなどすべきではない。ついでに不潔、生理的嫌悪を敵対者に植えつけるのは悪魔の役目。人間の勇者よりも先に同類たる悪魔に勝たねば、お前はラスボスにもなれんぞ」
「ぐ……っ」
 的確な指摘を受け、不意にデスコは後退してしまう。ラスボスとして未熟な自覚があるだけに、悪魔の鉄則、力こそ正義を振り回し横暴な態度を取ることもできず軽くうなだれた。
「そうデスね……! うう、やっぱり頑張ってグロキモ慣れするしかないデスか……!」
「お前が必要と思えばそうするがよい。だが、何事も程々にな」
 少女の表情と気迫に切羽詰まったものを感じ取ったか、ヴァルバトーゼはさっきよりも穏やかな調子で声をかけるとはい、と打てば響くような返事。
 どこまでも素直で純粋なデスコに吸血鬼が思わず浮かべた微笑を見て、少女も何かしら感じるものがあったのか。姿勢を正すと、彼女は少し改めるようにヴァルバトーゼを見上げた。
「あのデスね、ヴァルっちさん」
「うむ、どうした」
 デスコの真剣な眼差しに何かあると見て取った吸血鬼は普段通りの態度ではあったが、それでも少女の緊張の余波を受けて笑みを薄める。負けず劣らず真面目な青年に、少女は口元を緩めそうになりながらなるたけ丁寧に頭を下げた。
「こんな場所で改めて言うのもなんデスけど、デスコの修行に色々と付き合ってくれて、ありがとうございますデス」
 深々と感謝された吸血鬼は、軽く目を瞬いたものの次には口元を引き締める。続いてその唇から形作られた言葉は、響きは優しいのに内容自体は存外に手厳しくデスコの頭に降り注いだ。
「ラスボスになる悪魔が簡単に頭を下げるな。そのようなことは俺を倒してから、物言わぬ屍の前で行ってこそ悪魔として格が上がると言うもの」
「お、お礼を言おうと思ったら屍にする必要があるデスか……!」
 また一つラスボスとしての知識を得られたデスコは改めて感謝することさえも封じられて呻いたが、吸血鬼の言葉にどこかしら引っかかりを覚えて、ふと首を傾げる。
「……あれ。それだとヴァルっちさんは、デスコと命をかけて戦いたいってことデスか?」
「現時点では食指が動かんな。だがお前が戦いたいと思うのならば、快く全力で応じてやろう」
「デスコもヴァルっちさんと戦うなら全力を尽くしますデスが、今のところ積極的に戦うつもりはないデスよ?」
 しっかり意見を合致させてしまったふたりの間に、どうとも表現に難しい沈黙が横たわる。師たる吸血鬼はそんな気概のなさではいかんとでも言いたいところだったが、先程自ら容易く喧嘩を売るなと教えた手前背中を押すのも違和感を持つらしく、悪魔の少女はいまだ学ぶこと多き身であるため師を倒して自信をつけるより、以降のデメリットのほうが大きそうだと冷静に考えを巡らせていたが故。
 まあお互い情にほだされ戦いたくないなどと腑抜けた意思表明はしなかったのだ。これはこれで良かろうとほぼ同時に頭を切り替えると、ふたりは静かに息を吐いて微妙な空気の停滞をもとに戻す。
「けどヴァルっちさん、やっぱりデスコは、ヴァルっちさんにお礼を受け取ってほしいのデスよ」
「ほう、そこまで言うなら何か理由があるのだろうな」
「勿論、今はヴァルっちさんに感謝したい気持ちも普通にあるデスが、いつかデスコがきちんとラスボスになったとき、こんなこともあったんだなって、センチメンタルに浸れる思い出が欲しいのデスよ! そうしてラスボスとしての格を上げたいのデス!」
 少女の馬鹿正直な要求はヴァルバトーゼにとって思いも寄らぬものだったが、その柔軟な発想は悪いどころかむしろラスボスとして必要な要素だと彼さえも認めるものだったらしい。ふむと短い唸り声を漏らしたのち吸血鬼は顎を引いた。
「ならば、お前のその言葉と気持ちは確かに受け取っておくとしよう。そして今後もその調子でラスボスを目指し精進するが良い」
「はいデス! とりあえず今はおねえさまとフェンリっちさんを探すのが先デスが……!」
 その通り、とヴァルバトーゼは深々と少女の言葉に同意を示す。デスコが自分と全く同じことを考えたと知り――まあ当たり前だが―― 一致団結したところで、人差し指を掲げて提案した。
「ではその二人を探しに行くとするが。デスコ、お前は一人で探すべきか、二人揃って探すべきかどちらが良いと考える」
「……ううーん、やっぱり、一人ずつ思い当たるところに探したほうが効率はいいと思うデス」
 具体的な方向性を提示されたデスコは、師に感心されたこともあるためか。頼れるひとと行動を共にする道ではなく、多少は寂しい思いをしても効率を重視した方法を取って、ヴァルバトーゼにますますの成長振りを見せつける。
「ふむ。では十分か……十五分置き程度の間隔でそれぞれ探し、時間になったらまたここに戻ってくる、と言うのはどうだ」
「問題ないデス! 今のところそれが一番いい考えだと思うデス!」
 力強く自らの案を肯定された吸血鬼は、たかだかそんなことでここまで盛り上がるデスコに微笑ましさを覚えつつ懐を探る。こんなところで役に立つとは思ってもみなかったが、今の彼の装束の胸ポケットには執事に持たされた懐中時計が納まっていた。それを鎖ごと自分の体から外して、時間を確認してから少女の手に渡してやる。
「では、お前にはこれを授けよう。時間になれば来い」
「……え。けど、それじゃヴァルっちさんはどうするデスか?」
 赤い手のひらの中で輝く純金の時計と吸血鬼とに交互に視線を送りながら訊ねるデスコに、ヴァルバトーゼはなんともない顔で肩を竦めた。
「俺は放っておいても話しかけてくる連中は多い。悪魔であっても一応飾りとして時計を持つものは多かろうし、その時々に聞けば答えるであろう」
「そうでしたか……。ならわかりましたデス! 頑張ってお二人を探すデス!」
「ああ。では十五分後、またここでな」
 と言う訳で意外にもしっかりとした計画を立てて人捜しを始めたふたりではあったが、やはり詰めが甘かった。ふたりが落ち合った場所についてもちらと見るだけで改めて特徴のある点を確認せずに別れてしまったのは実に痛い。
 一人で執事となり損ないプリニーを捜して雑踏に身を投じたヴァルバトーゼは思惑通り多くの悪魔たちに話しかけられ、その度に適切にあしらっていたのだが、もうそろそろ戻る頃だろうと思ってその悪魔の一人に時間を訊ねたところ、デスコと落ち合う時間が近付いていると知ってすぐさまもとに戻ろうとした。そこまではいいが、戻ろうとしたところでそれらしい場所も少女も見当たらず。いや、幸いにしてここかと思える場所には辿り着いたのだが――しかし自信はない。近くの花瓶と垂れ幕に見覚えがあるだけだ――、薄紫のドレスを身に纏った悪魔の少女の姿はなく。
 しかしここで待機しておればいつかはデスコと再会すると判断し、彼が今宵乾杯の音頭を取った主賓であると知って話しかけてくる悪魔たちをあしらいながらひたすらに、ヴァルバトーゼは見知った仲間を見つけようと目を皿のようにしていたのだが、そんな青年に声をかけたのは悪魔の少女ではなかった。当然、人狼でもプリニーもどきの少女でもない。
「ああもう、お前こんなところにいたのかよ……!」
 特徴的なパーカーを身に付けていないため誰かと一瞬眉間に皺を寄せかけたが、くせのある金髪と生まれつきの黒い肌、それと鼻に一筋付いた傷跡でようやく馴れ馴れしい少年がエミーゼルとわかって、吸血鬼は安堵の息をつく。
「小僧、お前か。礼儀知らずの見知らぬガキかと思ったぞ」
「……親の顔も見てみたいってか?」
 いかな皮肉かと吐き捨てるエミーゼルに、そんな意図が全くなかったヴァルバトーゼはほう上手いな、と感服する。素の反応を受けてしまい、気まずくなった少年は声の調子を落とした。
「暗にフーカやデスコと同じようなこと言うなよ。特徴ないって言われるの、結構ヘコむんだぞ……」
 周囲の悪魔たちも、ようやく割り込んできた少年がこの魔界の前大統領の息子とわかるとさざ波のように、とはいかずともそれなりに大人しくなる。エミーゼルはそんな周囲の反応は慣れきっているのだろう。訝しげなヴァルバトーゼの腕を掴んで、ともかくこっちにと強引にどこかへ移動させようとするのだが、急にそのようなことをされてこの吸血鬼が大人しく引きずられるはずがない。
「何をする、小僧。俺はここでデスコを待たねばならんのだ」
「うん、どうしてだよ?」
「うむ、よくぞ聞いてくれた。実はだな……」
 エミーゼルの手を振り払った吸血鬼は簡単に事情を説明して自分の行動の正当性を示そうとしたのだが、この少年はヴァルバトーゼに比べて意固地でもないし主催側としての肩書きも背負っている。宥めるように頷くと、また彼の腕を掴んで移動を促した。
「ああ、わかったわかった。あとで誰かにどうにかするから、お前はこっちに来いってば」
「……誰の影響かは知らんがお前も強引になってきたな。せめてどこへ行こうとするのかくらいは話すのが道理だろうが」
 少年にしては珍しく焦りの色が見える方法に、ヴァルバトーゼが少しだけ苛立ちながら抵抗を示す。この詰めの甘さがどこまでデスコに影響を及ぼしているかは知らないが、いかに小さなことであっても自分の過ちを自覚させられると彼はどうにも落ち着けなかった。もとからそんな性格だった可能性も多分にあるが、四百年前の出来事がそれを決定付けたのだろう。
「……それは。言えないってことで察しろ」
 しかしそんなヴァルバトーゼであっても、エミーゼルのその仕草と言い回しには普通と違うものを感じ取った。彼らのやり取りを遠巻きに眺めたり盗み聞きをしていた悪魔たちなら、更に明確にその意図を理解できただろう。途端、周りの空気に緊張感が滲んだものだから、吸血鬼は野暮なギャラリーに軽い呆れを覚える。
「成る程……。お前や周囲にとってそれは大切らしいが、俺には俺で優先すべきものがある」
 やんわりと少年の背後にいる人物との会合を蹴ったヴァルバトーゼに、周囲がざわめく。しかしエミーゼルのほうはそんな能天気かつ野次馬根性な反応で済ませられないこともあり、降参したように肩を竦めた。
「じゃあ、ボクがお前の代わりにデスコを捜しておいてやるって約束するから……お前は今は大人しくボクについて来てくれ」
 さらりと約束を持ちかけられ、ヴァルバトーゼの気合いがそがれる。少年は吸血鬼自ずから約束の大切さを教えた悪魔だから、自分から約束を破るような真似はすまい。その点に疑いはないのだが、どうにも尻の据わりさが拭えなかった。
 しかめ面をはばかることなく作ってみせた吸血鬼に、エミーゼルはこれは更なる説得を重ねる必要があると判断して吐息と共に言葉を重ねる。
「それに、お前ここのことあんまりよくわかってないだろ。ボクならこのホールのどこに何が設置してあるかくらいは頭に入れてあるし、ボーイやプリニーのネットワークも使える。一人でどうにかしようとしないで、適切な処置が出せるやつに任せておくのが一番いいぞ?」
 ぐうの音も出ないほどの正論を受け、頑固であったヴァルバトーゼもようやく折れた。確かに場所だけではなく人材面でも有効活用できるのならば、下手に自分で解決しようとするよりそちらに任せたほうがいい。
「……よし。デスコについてはお前に任せておこう。それと、あやつに心細い思いをさせたなら俺の責任だ。見つけたら俺が謝っていたと伝えてくれ」
「わかったよ。……ほんとお前って変にまめで意固地だよなあ」
 心底呟かれるも、それを今まで誇りとしてきたヴァルバトーゼは肩身の狭い思いなど抱くはずもない。平気な顔で少年の背を促してようやく移動を開始する。
「まめと言われるほどではない。自分の尻拭いは自分でするのが普通だろうが」
「普通かあ……? まあ、今ならその気持ちもわからなくはないけどさ」
 吸血鬼の前を歩きつつ小首を傾げたエミーゼルは、相手の視線を気にしてか少し言い辛そうにぼやく。過去の無責任な自分を恥じている態度に、ヴァルバトーゼは成長の証を見て取るが少年の矜持を重んじ無反応に程近い表情で言い放った。
「そうとも普通だ。それにお前の父は、俺よりも勤勉で生真面目で責任感を持つ悪魔だったぞ。お前ならばそれくらい知っているだろう」
「…………うん」
 父親のことをかように表現されて、エミーゼルは僅かにくすぐったい心持ちで頷く。彼の執事と違い、ヴァルバトーゼが少年の父を王として、為政者として評価していたことは知っているが、こうも真っ直ぐな評価を下されると照れ臭くなった。そうなってしまう原因は、大統領の座を退いた今になってそんな評価を受けることか、それともこの吸血鬼の青年が父を褒め称えたからかはわからない。
「お前は……本当に父上のこと、認めてたんだな」
「当然だ。プリニー教育係が俺にとっての天職であるのと同じくして、多くの悪魔を従え上に立つ魔界大統領の座が、奴にとっての天職なのだろうと思っていた」
 どこぞの人狼ならば聞き流しそうな発言だが、前半はともかく後半は諸手を上げて賛成する気持ちでいたので少年は苦い顔ながら顎を引く。しかしそれが父のもとに向かっている今でさえ、過去形として語られているのは多少――。
「……思っていた、か」
「ああ。……仕方あるまい、倒したのは俺たちだ。今もそう思っているなどと言えば、むしろそれは奴への侮辱となろう」
 魔界の秩序はまず『力こそ正義』の一言から始まる。だからこの魔界を統べる頂点、魔界大統領は絶対的な力を持つ悪魔であらねばならなかったし、現在は例外がその座に収まっているが本来今もそうあるべきだ。そのためヴァルバトーゼは残酷であっても、死神王と謳われたその悪魔をもう大統領として相応しくない人物として呼ぶ。それがこの魔界の掟であり、魔界大統領を引退しながらも生き永らえた悪魔の末路であるため。
 無論のことながら、エミーゼルもその理屈は理解している。父の苦悩を知ったのちは現大統領を倒し、自分こそが次期大統領になろうと割り切れるくらいにはなれた。けれど今の父の心情を思うと、少年の胸にふと湧き上がるものもある。
「あのさ……怒らないで聞いてもらえるか」
 少年の悪魔の声音が微妙に落ち込んだのを察して、青年の悪魔は短く相槌を打つ。その反応にエミーゼルは改めるべきではなかったかもしれないと、前置きをしてしまった自分に後悔しながら唇を軽く舐めた。
「たまに、ほんとにたまに思うんだ。もし……、『断罪者』が生まれていなければ、魔界を牛耳って弱体化させようとしなければ、父上やボクは、今頃どうなっていただろうって」
「小僧、それは」
 吸血鬼の声に強張りが生まれる。短くとも非難めいた響きに、やはり言うべきではなかったと思いながら慌てて少年は首を振った。
「い、いや、あいつを責める気はないぞ! ボクだってあいつが四百年間頑張ってたのは聞いてるし、あいつが完全に悪いなんてことは思っていない!」
「……わかっている。お前が本当にあいつに悪意を持っているならば、今この場で名前を言うはずだからな」
 意図を読まれ、エミーゼルは安堵の息を吐きながら歩を進める。その通り、『断罪者』が生まれた原因までは現在魔界には知らされていない。『恐怖の大王』に潜った一部の面々、つまりヴァルバトーゼを始めとする一行だけが知る秘密。魔界が腐敗した原因の人物と、関節的な原因でしかなかったにせよそれを誕生させてしまった原因の人物の真相を知れば、彼らを責める悪魔が確実に出てくる。そして現在その話題を引っ張っているふたりの悪魔は公衆の場にいるため、女のほうの名前を出すのは彼女を何よりも危険に晒す行為となった。
「……でさ。それだと今みたいに『畏れ』エネルギーの問題も深刻じゃなくて、父上は立派に、魔界にこの悪魔ありと言われるくらい堂々と、末永く統治していたんだろうと思う」
 ヴァルバトーゼの表情から柔さが消え、代わりに険しさがどことは言わず現れる。それを背中に受ける視線で感じ取っていながら、少年は一度だけ、短く息を吸った。
「けど、それだとボクは、今頃あのときよりもっと酷い奴になってたんじゃないかな」
 吸血鬼にとって不意の一言であったらしい。息が詰まる音が聞こえた代わりに足音が消えてしまい、エミーゼルが振り向くと予想通り。そこには軽く目を見開く、暴君のなりをしたヴァルバトーゼが立ち竦んでいた。彼の反応に、少年悪魔は大げさな反応だと薄く笑いながら先行する。すると、彼も我に返ったか多少歩調を急かしてついてきた。
「……不安にさせるものがないんだ。多分、死神としての役目ができていたとしても、お前たちと初めて会ったときより、もっとへたれなのに傲慢で屑な性格になってたかもしれない。それは悪魔として正しい性格なんだってのはわかってるんだけど、やっぱりボクは、そうならなくて良かったと思ってる」
 そう思えば『断罪者』による余波を受け、逆境続きに見舞われた今のエミーゼルは幸福と言えた。甘ったれた性根を叩きのめされ、成長を促され、現在の少年は血縁の繋がりによる利害を受け入れながらも魔界大統領を目指していられる。そうなってむしろ切欠を生み出してくれた誰かには感謝しているくらいだと、ヴァルバトーゼは理解できているだろうか。虚勢を張らねば同じくらい、複雑な気持ちも抱いてはいるのだが。
「ま、それはそれでやっぱり悔しいんだよなー。父上が魔界大統領として立派に憂いなく魔界を統治していられる状況と、ボクが父上の威を借りず死神として頑張れる状況とは、成り立たないんだなって思えてさ」
「世代交代とはそう言うものだ。……贅沢が過ぎるぞ、小僧」
 嘆息と共に冷静な指摘を受けて、エミーゼルはまあなあとのんびり笑う。
「多分、どっかの我ばっかり強くて協調性なんか欠片も持たない酷い連中の性格がうつったんだろ。ボクだって、自分でもわがまますぎるって思うくらいだしな」
「ふむ。かような連中との付き合いは、今後見直したほうが良いのではないか」
「ああ。自分でもそう思うから、追い追いあいつらとは距離を取るつもりだよ」
 その追い追いがいつになるのか、とんと見当がつかないのが目下の悩みだが気にするまいとエミーゼルは自分に言い聞かせると、とある垂れ幕の前で立ち止まる。ようやく目的地にまで到着したのはいいのだが、ここで一つ彼は伝えておくべき言葉を思い出し、くるりと吸血鬼のほうへ体を反転させた。
「そうだ、ヴァルバトーゼ」
「どうした」
 吸血鬼の表情からは全く気にしている様子など伺えはしないが、それでも少年は一応気になってしまうから人差し指を自分の唇の前に立てた上で垂れ幕をめくり、その奥の壁に手を入れる。黒大理石のはずの壁を湖面のように揺らめかせながら、エミーゼルは頼んだ。
「あいつには、さっきの話言うなよ」
「……ああ、言わん。約束する」
 ヴァルバトーゼの完璧な返事を聞き、少年は満足げに頷くと共にまた体を正面に戻し奥へと進む。
 壁の向こうは小規模ながらも趣味の良い応接室で、しかし窓を開け放っていたそこには誰もいない。それでもエミーゼルは僅かに緊張に身体を硬くして、背後の吸血鬼と窓の向こう、テラスに腰掛ける恰幅の良い悪魔を意識しながら腹の底から声を出す。
「ヴァルバトーゼをお連れしました、父上」

◇◆◇

 主を捜している最中なのに、耳に届いたくしゃみの声は女の、しかも忌々しくもしっかり記憶にあるもので、フェンリッヒは思わず怪訝な顔を隠しもせずにそちらに視線をやる。すると悪い予感はしっかり的中し、ベスト姿で上着を着込む、桃色の髪を一まとめにした男装の娘と目が合うのだから今日は厄日と記録しても構わないほどだと思い知らされる。
 ここで無視してまた雑踏に紛れることもできはしたのだが、改めて時計を見れば恐らくにもう人狼の主が前大統領と会合中の時間のはずだ。このまま相手を見逃した結果、謎めいた天使の力を発揮し密会を発見されてしまうのも些か困る。なればと判断したフェンリッヒは、絹手袋のもう片手を探している彼女に嫌々ではあるが声をかけた。
「ついに追い剥ぎにでも遭ったか、泥棒天使」
 アルティナは話しかけられるとは思っていなかったのか。ポケットの中を探りながら、軽く目を瞬いて渋い顔の人狼の青年を見上げる。青い瞳に自分の姿が映っていると目視するだけで、彼の口の端から重い吐息が漏れるが悔いたところで今更遅い。
「……似たようなものですわ。けれど、どうにか無事に逃げおおせたので良しとします」
 確かに絹手袋を片方だけの被害ならまだ軽いと言えるだろう。つまらない結果に鼻白むフェンリッヒではあるが、彼女の体臭にしてはむせ返りそうに甘く、粘っこい官能的な空気に何事かと軽く身構える。それを受けて、心当たりがあるらしいアルティナは乾いた笑いを漏らした。
「一応熱は完全に引いたのですけれど、まだ残り香は酷いみたいですわね。……あまり近付かないほうがよろしくてよ?」
「言われずとも、お前に近付くつもりはない」
 だがある程度引き止めなくてはならないので、人狼は結果的に彼女の言葉通り距離を取ってその隣に立った。天使は小首を傾げるものの、無言で衣服についた皺を手で払う。
 そうやった上で改めて背筋を伸ばし口を閉じれば、成る程。フェンリッヒの目からであっても、今の天使は壁の染みをやっているには違和感を持つ程度に貴公子然としていた。おおかた色狂いの女悪魔に迫られでもしたのだろうと察すると、彼はそのままそちらの世界に帰ってこなければいいだろうにと思わずにはいられない。
「容受が天使の信条だと思っていたがな。お前は相手の求めに応じてやる慈悲などないらしい」
「生憎、わたくしは殉教者と言えるほどお人好しではありません。信念は持っていますけれど、自己犠牲の線引きくらいはしますわ」
「はん。四百年、閣下を差し置いてたった一人の人間の男のみに奔走したのも、その高慢な信念とやらが原因か?」
 人狼の冷ややかな言葉に、アルティナの頬が僅かに強張る。青年悪魔はその反応を見受け、そこを突く気はなかった、などと自己弁護めいたことは考えやしない。むしろいつか聞かねばならなかった話だから、天使の表情の変化を一時たりとも見逃すまいと目を細める。
 フェンリッヒの放つ威圧を気にするつもりもないのか。アルティナは軽く瞼を伏せて静かな表情のまま、だがはっきりと顎を引いた。
「ええ。彼はわたくしが信念を貫いた結果に生まれたものですから。その尻拭いをするのは、わたくしでなければならないと思うのは当然のことでしょう」
 その当然のこととやらができなかっただろうがと、フェンリッヒは鼻で笑い飛ばす。できなかった理由は知っていたが、それでも青年は彼女に対して同情など示す気になれなかった。この天使があの人間のために足掻いた四百年は、つまり人狼の主が血を絶つ苦しみと屈辱に見舞われた四百年でもある。恨みこそすれ、憐れみなど誰ができようものか。
「とっとと諦めてしまえば良かったものを……。貴様が無駄に足掻いたせいで、閣下は四百年経った今でも魔力を取り戻されん」
「あら。それはわたくしが早々にあの方に頼れば良かったのに、と言う意味として受け取っても構いませんの?」
「ふざけたことを抜かすな」
 とは言いながら、実際にそんな場合があればまだ今よりもこの天使に対する憎しみは薄く、また主もとうに魔力が戻っていたかもしれないと人狼の冷静な部分は判断する。彼女の存在自体を忌々しく思っているフェンリッヒにとっては、そこまで冷静な部分など数多に巡る思考の一筋程度でしかないが。
「ふふ、そうですわよね。わたくしが引き起こした問題なのに、約束を交わしただけのあの方にそこまで頼るなんて……おこがましいにも程がある」
 アルティナの声は人狼が踏み込んだ問いをしても普段通り柔らかく飄々としていたはずなのに、最後の一言だけは奇妙に重々しい。その重みは覚悟とも責任感とも言い換えられて、フェンリッヒは内心舌を打つ。この女の根が生真面目で、融通が利かないと表現できるほど頑固な点は、彼であっても否定できない。それはいやがおうにも、彼が誰よりも重んじ自分のすべてを捧げる対象たる吸血鬼の姿勢を連想させる。
「けれどそう思ってずっと行動していたのも、結果的に無駄になってしまったのは、……いえ、仕方ないものとして受け入れるしかないのでしょう。今どれだけ後悔したところで、過去は変えらないのですし」
「その通りだ。だからこそお前はとっとと天界に帰り二度と魔界に足を踏み入れるな。もしくは閣下に約束を反故にしても構わないと説得した上で独り喉を掻っ切れ」
「そんな方法であの方を放っておいてしまった罪が償えるなら考えないこともないのですけれど、それで溜飲が下がるのは狼男さんだけでしょう?」
 だからお断りしますと、死ねと言われても笑みさえ含んだ口調のままアルティナは人狼の提案を蹴る。どうせこうなることは予想していたフェンリッヒは、全くもってつまらない受け答えにわざとらしくため息をついた。無論こんなことで彼女の心が痛むはずがないと、彼は知っているがそれはそれ。
「……ですけど、あの方に甘えっ放しの現状も、わたくしにとってはなかなか心苦しいものがありますのよねぇ」
 アルティナにしては苦く、心の底からの本音と表現できるであろう言葉に、人狼は少しだけ瞼を震わせる。この天使が弱音、ではないがそれに近い愚痴を吐くなど、誰が相手でも想像できなかった。俯いた女は、彼の視線に気付きもせず短く吐息をつく。
「今回でよく学びましたわ。赦されるとは、つまり自分で自分の罪を決めねばならなくて……それだけとても大変で難しいことなんだって……。相手が大切なひととあれば、尚更に」
 アルティナの脳裏には、生前ささやかな幸せと憧憬を感じた悪魔と、改めてふたりきりで話したときのことが思い返されていた。自分との約束のせいで地獄に堕ちたこと、四百年苦しませてしまったこと、それらをどうにか謝ろうとした彼女に、あの吸血鬼は静かな声で約束を守っただけだと罪そのものを否定した。
 特別扱いを受け、嬉しく思わないものはいない。それはアルティナも例外ではないが、かと言ってあなたがそう仰るならばそうなのでしょうとあっさり気持ちを切り替えられるのかと言われればそうではなく。大切な思い出のひとが相手となるなら、更にその今まで味わった苦しみをどうにか和らげたいと強く思うし、そのためなら何だってする覚悟があるのに。やり場のない責任感だけが、彼女の心を締めつける。
「……狼男さんが仰るようにこの命でもってその罪を償えるなら、わたくしは結構喜んでこの身を投げ出しますけれどね。今そんなことをしたとしても、きっとあの方は俺に約束を守らせない気か、なんて怒るんでしょうし」
 その姿ならばフェンリッヒとて想像できた、否いつかのことを思い出した。この天使が厄介な病魔に侵された悪魔の攻撃から彼の主を庇ったとき、気を失っていただけなのに酷く吸血鬼は取り乱して。女を抱え上げ周囲に有無を言わせず地獄に連れ帰り介抱を命じたその様子が、痛みを伴い彼の胸に蘇る。
 対して人狼が演技とは言え死にかけたとき、吸血鬼はどうした。ああそうだ、取り乱したとも。あの天使が倒れ伏したときと勝るとも劣らないほどに、死ぬことを許さぬと、約束を違えるなと怒りと悲しみを滲ませて。しかし最期の懇願を、忠義に対する見返りを求めたフェンリッヒに、慈悲深くも誇り高い『暴君』はどう応じた?
 アルティナは自分が死んでしまえばあの吸血鬼が約束を守らせないことに怒るだろうと予想する。だからそう、人狼の主はこの娘が大切なのではなく、約束を守ることに固執するのだと、フェンリッヒはまだどうにか信じられていた。その点この女は弁えている。吸血鬼の約束の女としての地位を崩さず、あの気高き悪魔に約束を破らせるような真似を、自分は特別な存在なのだと周囲に知らしめる真似をしなかったし、しようともしないのだから。
 けれど人狼はした。吸血鬼にとって特別が許される傲慢さを抱いているからではなく、それが忠実なる僕として正しい行動だと信じているから。ときに直球に懇願しときに狡猾に企み何度となく約束を破らせようとして、そのたびに吸血鬼にとっての約束の重みを思い知らされた。そう、約束の重みだ。決して、絶対に、約束を交わした人間の娘への固執ではないとフェンリッヒは今も信じている。でなければ、彼の忠誠は。
 ――そいつを忠誠と呼ぶのかい、お前は?
 ぬばたまの声が耳に蘇る。『道化』の魔王、忌々しくも鮮やかな紅玉の、総てを見抜いているかのごとき嘲笑を含んだ視線が、騒がしくも着飾った悪魔たちを見つめるはずの人狼の目にも確かに顕れる。それを打ち払う言葉と気持ちを、忠義を誓う相手から確かに得たのに、励まされたはずなのに、今の彼にそれらは黒い楔の傷痕痛む胸にまで響かない。
 何故なら人狼の忠誠がまことに清く忠誠と言えるのだと、芯から思えないのは彼も同じだから。しかしあの満月の夜、命を救った『暴君』へと抱いた気持ちを心酔、もしくは畏敬や崇拝と呼ばねば今までの彼の総ては無駄に、間違っていたことなってしまう。それが恐い、彼にとっては何よりも。
「……本当、よく似てらして」
 なのに耳に飛び込んできた女の声は不意にフェンリッヒの頭の中にまで届き、しかし意味が掴めないため弾かれたように顔を上げた彼の視界には憎むべき天使の笑みが映っていた。こちらを見上げ、ほろ苦い目元に浮かぶ微笑には青年の心境など一滴たりとも汲んではいない。なのにどうして、そんな顔をするのか。
「少なくとも四百年以上、ずっとおそばにいましたものね……。本当、狼男さんたらあの方に似て頑固ですこと」
「……何だと?」
 それは人狼こそがこの女に抱いてしまった印象だと言うのに、アルティナは少し複雑そうに彼から目をそらし、次にふうと高い声を一つ漏らした。
「随分と難しい顔をなさっていたんですもの、どうせ考えていたのでしょう? あの方が納得できる上でのわたくしの追い出し方とか、約束を反故にしても構わないやり方とか……あなたなりの信念を貫く方法を」
 掠りもしない予想だったが、その読み違いこそに救われてフェンリッヒは心底安堵の、しかし外見上では不快さを前面に押し出した息をつく。精神的には取り繕う余裕はまだないかもしれないが、この世にいる誰よりもアルティナだけには、胸にわだかまる感情を悟らせたくないから無理をして。
「当然だ。オレは貴様が閣下と交わした約束など認めない。たかが三日しか会っていない人間の女風情にあの方が縛られるなど、あってはならん」
「はいはい、よくわかっていますとも」
 肩を竦めて天使は苦笑する。その余裕が、それ以上に彼が自分に言い聞かせた言葉自体が更に人狼の癪に障るとも知らず。
 そうだ。三日。たった三日でそれまでフェンリッヒが仕えた年月を越える影響力を与え、以降四百年彼の主を鮮やかな手際で拘束した女に、彼は吐き捨てる。
「あの方を誰よりも理解し、あの方の隣にいて当然の権利を持つのはこのオレだ。ただの三日しか出会っていないお前に、あの方の隣に立つ資格などない。……お前は、閣下を縛る忌むべき約束の女でしかない!」
 それらの言葉に間違いはなく、なればこそ自信に満ち溢れているのが道理なのに、理由もわからず猛烈な虚しさを覚えたフェンリッヒは天使から顔を背けてそのまま歩き出す。それは言い逃げだと誰かが指摘したのならば、公の席であっても彼は自らの戒めを解いて黒い獣の姿で暴れ回ったかもしれない。けれどその耳に聞こえてきたのは、今最も彼が恐れるのにやけにはっきりと響く、やはり忌々しいままのあの女の声。
「……ええ。だからわたくしは、あなたが羨ましい」
 立ち止まりかける。振り向きかける。だがそうはすまいと自らに強く言い聞かせ、フェンリッヒはひたすらに前を向いて天使から距離を取る。腸が煮えくり返って仕方なかった。怒りのあまり口の端がつり上がりそうになって、薄く開いた唇から確かに引きつった笑い声が漏れる。あの女が自分を羨むなんて、今まで聞いたどんな話よりも滑稽で、愚かだから。
 しかし知るまい人狼の執事よ。事実天使は羨んでいた。四百年を越えて吸血鬼のそばにいられた彼のことを、いつも隣にいることが許されるその立場を――強く想うひとのそばにいられれば、それだけで十分に幸せだと彼女は思うし、今もまたそう感じていたから。急に遠ざかってしまった悪魔はその幸せを当たり前のものにしているから、それにも気付かずあんなに泣きそうな声でいたのだろうと判断して。
「悪魔なのですから、傲慢だの欲深いなどとは……言っても責めることにはなりませんわね」
 やれ仕方なしと人狼の後ろ姿が見えなくなるまでぼんやりと眺めていた彼女は、緩く首を振る。あの悪魔の最後の一言は、吸血鬼との再会を果たして以降ずっと彼女の中で繰り返した文句と一文字違わず同じで、だからこそ彼女は漏らす気もなかったのに本音をついつい口に出してしまった。
 約束の女でしかない。そうともその通り。だから彼女もまた自分の胸にわだかまるおこがましさを自覚させられて、そんな醜い自分に呆れの息をつく。
 このまま大人しくしているのが無難なことくらいわかっている。けれど眼前であんなわがままを見せつけられて、大人しく受け流すのも少々癪に障るもの。なれば自分もちょっとは欲を出してみようかと頭の中を切り替えて、とっととアルティナも退散する。ひとりの吸血鬼に対し、強く想うが故に強く互いを羨む男女が言葉を交わした場所から。
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