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ただひとりのきみ

2012/10/13


 きゃあきゃあと黄色い声が遠くから聞こえてくるも、ざっと明るい林の中を見渡す限りではそれらしい集団はいやしない。
 それでも声のする方向から微かに水の匂いを嗅ぎ取った彼は、頭の中の地図を展開、現在地からそう遠くない場所に小さな湖があったと確認する。
 木陰と涼しい風を作り上げる木々を背に負う教会とは言え、真夏の暑い昼間はどうしようもなく暑いもの。籠もった熱から解放されるため、手早く仕事を切り上げた女たちが水浴びをしに行くのは、日頃の勤労に対するささやかな褒美を兼ねた誰かからの贈り物の可能性が高い。
 それでもまさかあの女まで若い連中と一緒になって沐浴などすまいとそちらにゆっくり近付いた彼は、ふととあることを思い出し木陰が伸びる方向を意識しながら湖へ向かう。
 予想通り、暫く奥へと歩いていくと白い日差しを浴びてきらきら輝く水飛沫が、奥の開けた空間にちらついた。更にそこからたった数歩の距離で、水飛沫の源である湖面より先に、肌も露わな若い肢体たちが、下着をぐっしょり濡らし、または裸で水遊びに興じている姿を見つける。
 法衣や頭巾に身を包み、教会の敷地内で粛々と働く娘たちは誰も彼もが模範的な態度で一見すれば見分けがつかないほどなのに、今ここで水浴び中の彼女らは滅多にないほど笑顔を浮かべ、髪の色や長さ、瞳や肌の色などとともに、普段は覆い隠している個性を瑞々しく発露させていた。そして物理的に冷たい水に濡れているせいもあるのだろうが、どのかんばせも輝くばかりに魅力的。きめ細やかな水を弾く四肢の動きに、彼の目はつい引き寄せられる。
 しかし鑑賞会はそう長く持たず、若い娘たちを眺めるのに飽きた彼は目当ての人物を木陰の側に探し続ける作業に移行。娘たちを眺めるよりずっと長い時間をかけた末、ようやく見つけ出す。
 やはり木陰が差す木の根に腰を下ろし、何も脱がないまま休んでいるのは、娘たちに比べて三十かそこらは年上の、もう老女と呼んだほうがいいくらいの修道女だった。はしゃぐ娘たちに向ける眼差しは、可愛い孫たちを見守る祖母のそれそっくり。
 誰も彼もこの教会に預けられ、またここしか頼る場所のなかった不幸な子どもであり、血の繋がりはないはずなのにそこまで他者を愛しく思えるものなのか。不思議な気持ちで老女の背中に回りこんだ彼は、木陰から出ない距離のまま声をかけた。
「ここにいたのか、アルティナ」
「ええ、吸血鬼さん。もしかして、教会のほうにまでわざわざ探しに行ってくれたのかしら」
 背後からの唐突な男の声に対し、薄青い瞳の修道女はのんびり笑って振り返る。以前に比べそのかんばせには皺やしみが目立ってきたが、三十年前約束を交わした娘の面影はやはり色濃いままで、その姿に彼は奇妙な感慨を抱きながら小さく首を横に振った。
「着いたときに若い連中の笑い声が聞こえてな。もしやと思いこちらに寄った。ここに湖があるのを知っている奴は多くとも、昼間からお前に無断で水浴びをする馬鹿はいまい」
「だからわたくしも同行しているだろうって?」
 間違ってもいない推理だが、修道女にとってそう判断されるのはそれはそれで愉快な部分があるらしい。まあまあと、複雑そうな笑いが涼しい木陰に転がった。
「あなたにとって……いえ、あなたから見たあの子たちにとって、わたくしったらそんなに怖い存在なのかしら」
「お前自身が怖いのではない。偉大なお前の意に反して、幻滅されるのが怖いのだろう」
 過去、そんなようなことを若い修道女たちが喋っていたのを思い出した彼に、ふうんと老いた女が不満げに喉を鳴らす。
「若い頃のわたくしはお祈りの時間をさぼったら、偉大な先輩方に大目玉を喰らいましたけれど」
「その間、働いていたなら別に構わんだろう。祈りとは、己の中にある善意――それをお前たちは神と呼ぶが、それとの対話の間。余裕があるならともかく、余裕もないのに習慣で長々とその対話に時間を割くのは感心せん」
 彼としては自分の素直な心のままを言ったつもりだが、修道女は何がおかしかったのやら。またころころと高く笑って肩を振るわせる。
「……吸血鬼さんが祈りについて語るなんて。あなたも随分丸くなってきましたのねえ」
 言われてみれば確かに。以前なら祈りについては行為の意味を理解していてもそれ以上興味を抱かなかったのに、いつの間にここまで変わってしまったのやら。
 しかしいつから変わったのかは予想できなくても、誰のせいで変わってしまったのかは火を見るより明らか。ついで、その影響を与えてきた張本人に暢気に笑われるのは少々癪に障るため、白々しく言い返してやった。
「三十年も能天気な女の血を吸っているとな……。どうも、無意識下で影響を受けてしまうらしい」
「あらまあ。それは申し訳ありませんこと」
 女は深々と頭を下げるが、どうにも芝居臭くて真面目に謝るつもりに見えない。しかしこちらも真剣に怒ってはいないから、鷹揚な相槌一つで許してやることにした。
 そうして修道女の隣に外套を翻してからよっこら腰を下ろせば、女は微かに身じろいでくれるも、軽く沈んだ表情は彼のために隙間を開けてくれるつもりには見えない。
 理由はわかっている。老いてしまった己の姿を、出会ったときの姿のままの吸血鬼に見られたくない、いじらしい女心と言うやつだ。そんなこと気にならないが、同じくらいその気持ちを無碍に扱うつもりはないから、彼はなるべく自然に女の顔から視線を外してやった。
「まあ、いい経験にはなる。一人の女の血をここまで長々と吸うことなど、今までなかったからな」
「長々とは言うけれど……あなた、今日も顔を見に来られただけでしょう? あんまり血を吸わないと、お付きの方に怒られるのではなくて?」
「さて」
 二つの問いに軽く肩を竦めて返答を濁した彼の脳裏には、女と知り合うより少し以前に得たしもべである、長面の男の渋い顔が思い出されていた。はぐらかしたが実際には指摘通り、人間界を訪ねてもこの修道女と世間話をするばかりで、血を吸わないほうが多くなりつつある吸血鬼は、主のためを思うが故に口うるさい人狼に苦言を呈されることも多い。
「わたくしも以前と変わらずお話ができるのは嬉しいことだけれど、あなたに無理をさせているとなると心苦しいわ。……特に最近は、昔に比べて血を吸う頻度も低くなってきましたもの」
「当然だ。多くのものに慕われながら、誰よりもよく働くお前に無理はさせられん」
「そんなことはありません。やっぱり若いときより無茶しづらくなってね……すぐ誰かにお仕事を任せてしまう。あなたにあまり血をあげられないのと同じ」
 寂しげに微笑まれ、胸の奥が小さく痛む。
 確かに彼女は老いてしまった。いくら勤勉に働いていようと、その魂の清らかさに変化はなかろうと、肉体は少しずつ衰えて、その血の量も味わいもまた少しずつ変化していく。
 けれどそれでも、彼女と交わした約束と、約束で結ばれたふたりの絆を破りたいとは思えないから、男は腹の底を意識して声を出す。
「アルティナ、首を出せ」
「は?」
 唖然と見開かれた瞳の色は、木陰の下でも彼が好んだ薄青のまま。いくら髪の色が褪せ、肌の色艶が失われ、代わりにしみや皺に目立つようになってもこの鮮やかな色彩だけは不変だと知らされて、彼の喉は久しく渇きを帯びてくる。
 そうとも。この三十年、ずっと味わい続けた血だ。彼がこの血に慣れると覚悟を決め、実際に慣れた味だ。飢えを感じれば瞬時にあの味が舌に蘇り、なのに今味わえない現実が虚しくて、どうしようもなく欲しくなってしまう。
「お前が血をどうこう言うから吸いたくなった。安心しろ、すぐに終わらせてやる」
「だめ、ちょっと待って……あの子たちがすぐそこにいるのよ。首もとを肌蹴るだけでも怪しまれ……」
「すぐそこ? 水浴びに夢中で一度もこちらを見ていないではないか。俺のことさえ気付きもしない」
「でも……」
 白手袋に手首を掴まれ、木陰の向こうとこちらに気を迷わせ躊躇う修道女に、彼の胸が熱を帯びる。
 皺が目立ち声が掠れてきた時点でそんな気はもう失われたと思ったが、今の彼女の表情はまだ如実に『女』を残していた。十年前にはまだ匂った、女の脂気から放たれるねっとりとした甘い芳香が、この潤いをなくしていく一方の肌から漂っているようで。
 嗅ぐだけでも十分に甘いのだ。そいつはきっと、舌に乗せても甘かろう。だから欲しい。欲しくなる。どうしようもなく彼女が欲しい。彼女の命の蜜、魂の破片が。
 爽やかな夏の木陰において、ぎらつく瞳の悪魔に捕らわれた初老の修道女は、結局異形の男の欲を受け入れたようだ。日差しのほうをまた省みてから肩の力を静かに抜いて、腕の緊張も少し和らぐ。
「……わかりました。あなたの仰る通りにしますから、手を放して」
 言われた通り手を放すと、女は水浴び中の娘たちのほうに顔をやったまま襟口に手をかける。そして普段なら清拭や着替えのときしか空気に触れることがないはずの首を、花開く瞬間のようにそっと露出させた。
 瑞々しい蕾が綻べば相応に美しいものが現れるが、今の女は色褪せる一方の衰え花。だからその首もとも痩せぎすの、骨と皮だけとの表現が的確な光景が広がっていたし、それを彼女自身自覚し、恥じているくらいなのに。
 餓えた男の眼差しが粘りを増す。その姿を一目見た娘たちの多くが甘い夢を抱くだろう、新月の夜に似た危険な魅力を放つ貴公子然とした青年が、ときの流れに美しさを洗われた老女へと少しずつ近付いて。
 己の獰猛さを必死に押さえつける形相で、法衣の上から痩せた女の二の腕を掴み、首を伸ばすよう顎に白手袋を添え、露出させた襟ぐりにそっと、静かに。
「……ぁ」
 牙を立てる。
 深くはない。それでもしっかと牙が老女の首筋に突き刺さり、薄皮一枚跨いだ奥から血が噴いた。肌に浮き上がりかけたそいつを、素早く嘗め取り啜り上げる。冷たくも弾力を持った唇で、細く糸引く舌で。
「……く、ぅ……」
 血はやや渋い。昔は新鮮な果汁そのものの甘酸っぱく濃厚だった人体の精髄は、今や味わいは薄くなのに口当たりは渋く、喉越しにどうとも表現に難しいえぐみを持っていて、いくら魂が清かろうと生活に堕落がなかろうと、やはり年の流れには逆らえないものがあると知らされる。
 特に人間という種族は速やかに老いるもの。たったの五十年やそこらを生きただけで仙人のように扱われるほど彼らの寿命は短く、また大半はそこまで生きていけないほどに呆気なく命を落とす生き物だ。
 彼女はもうすぐその峠に手が届く。そこまで年を取った人間の血など彼は今まで吸わなかったし、そもそも吸血の対象として興味もなかったが、彼女に関してはむしろどんな味わいになるのか愉しみではあった。いくら味も喉越しも衰えようが、それでも自分は彼女の魂の味を美味と肯定してやろうと、意気込みを改めさえする。
「……いいぞ」
 相手の肌と自分の唇にまだ残る血の滴を嘗め取って、老女の首からゆっくり顔を放す。吸われている間は息さえ止めていたらしい修道女は、その瞬間から肩を激しく上下させ、慌ただしくも震える手で襟首のボタンを止めていった。当然、首から上は見事に真っ白。
「そう急くな。焦るとまた傷口が開く」
「ご、ごめんなさいね……誰かに、見られた気がして……」
 気のせいだ。彼とて『食事』の際は見せつけるつもりでもない限り、周囲の気配には気を配る。それでも感覚の鋭いほうが感知しなかったのだから問題ないと、縮こまった彼女を安心させてやろうとしたが。
「……今は少し。触らないで」
 先に待ったと手をかざされる。頭巾の陰から覗く顔は白く、貧血を患っているはずなのに、瞳だけは陶然と潤んでいた。
 その矛盾を孕む老いた女の顔の意味を理解していた男は、我知らず目を伏せてしまう。
 人間にとって吸血鬼の牙にかかった感覚は、寒気と意識の掠れを引き起こすのだが、これは時と場合によっては快感にもなりうるらしい。彼女と出会うより以前に妙齢の女の血を正面から吸い、甘えるようにしなだれかかられた経験からそれを学んだ男は、命の危機に覚えた寒気をそう受け止める連中を理解できぬと心底呆れたものだ。
 しかし彼女なら。三十年間その血を啜ってきた女なら、むしろそれは少々複雑ながら嬉しいことでも、反面酷く申し訳ないとさえ思えた。
 一目まみえたときから悪からぬ印象を抱いていた人間の女に、自分の行為から快感を感じ取ってもらえるのは単純に嬉しい。しかし神の妹、花嫁でもある修道女は立場上、その快感をそもそも認識してはならないし、そのため昇華もできない。――何よりこの女は三十年前、三日とは言え男たちの欲望のはけ口にされた過去を持つ。性感など、我が身の底から沸き上がっただけでおぞましいと嫌悪していても不思議ではない。
 それでも、もし本当にそう思っていたとしても自分の血の糧になることを拒まない女に彼は尊敬の念を抱いていたし、今もその気持ちには変わりない。
 更に正直に告白すれば、かつて彼女が美しかった頃、吸血に生じる快楽に身を任せ、自分を求めてくれればと密かに願っていたことさえあった。だが彼女はまるでそんな彼の浅ましさを見抜いているように頑として快感を堪え続け、ふたりの関係は今もなお、約束を交わした吸血鬼と人間のそれでしかない。
 そうして築かれたふたりの関係を彼は少し未練がましくも思うし、反面これで良かったと安堵もしていた。もし彼女と肌で触れ合えば、きっと自分のあらゆる感情は止まらなくなる。この女の花を無惨に散らした男どもはとっくに殺したのに、それでも収まらぬとばかりに激しく連中を憎み、未然に防げなかった己の愚かさを呪い、この女への気持ちもどうしようもなく深まって、やるせなさから彼女や自分を傷つけてしまう可能性さえあった。
 けれど今の女は、愛嬌や穏やかさ、芯からの高潔さに満ちてはいても彼の情欲を引き出すほどの美しさなど掻き消え、だからこそ浅ましい想いなど抱かずに、三十年前から変わらぬ清い関係を続けられる。
 しかしやはり彼が惹かれた女である点は今も変わらず。三十年に渡り築かれた親しみと穏やかな憧憬とを胸に抱きながら、彼は老いた修道女が再び顔を上げるまで辛抱強く、心配しながら待つ。
 そんな彼の表情はどれだけ余裕がないように見えたのか。青白く不自然に尖った耳に、ふふと掠れた女の笑い声が届く。
「……そこまで心配しなくても構わないでしょうに」
 目を瞬けば、俯いた女に笑みが戻っていた。血の気はまだまだ薄いものの、表情も先と比べれば随分と和らいでいる。少なくとも、貞淑な修道女の仮面を剥ぎ取りかねない快楽は身体から消え去ったらしい。
「長らくうずくまっていられると不安にもなる。俺が原因とは言え、お前も年が年だしな」
「ほんとうに……。あなたが一番わたくしを過保護なくらい気遣ってくださるけれど、同じくらいあなたが一番わたくしに無理を強いているのよ? その辺り、実感しているのかしら?」
「……それは……」
 実に手痛い指摘だが、それで吸血を取りやめる訳にもいかない。いや、真に女のためを思えば吸血は控えるべきだが本当に控えれば彼女と彼を繋ぐ関係が失せてしまうし、己の牙で快楽を感じ取るのはこの女だけでいいし、できうる限り自分の魔力はこの女から形成されるものでありたいとも思う。更に言えば、約束を破って彼女を裏切りたくもない。
 しかし女は人間である以上、実に容赦なく老いていく。今回吸った量は若いときに比べて半分あるかどうかなのに、うずくまっていた時間はあのときに比べて倍近い。こんな調子では五年後十年後はどうなるか。悪いほうに考えないようにしている節はあった。
「……だが俺はお前と約束した。お前がいくら後悔しようが逃げたくなろうが、俺はお前の血を吸い続ける」
 毅然と言い放つ男に、老女はわがままな孫をあやすように眉根を寄せて苦笑を浮かべる。
「もう……本当に頑固な方ね。けれど、ねえ。なら教えてくださらない、吸血鬼さん?」
「なにをだ」
「もしわたくしが死んでしまったら、あなた、それからどうなさるの?」
 こうも単刀直入に問われるなどと、完全に予想外だった。
 だから彼は大いに顔をしかめながらも黙り込み、無言で鋭く女を睨む。
 一介の悪魔であれば彼にそんな目で向けられただけで尻尾を巻いて逃げるだろうし、人間であれば腰を抜かして生まれたばかりの子鹿さながらの不格好さで、それでも必死に逃げようとするかもしれない。しかしかの修道女は小さく肩を竦めるだけで、薄い笑いを貼り付けたまま彼を見つめ返していた。
 その水色の瞳は、相も変わらず凪いで澄み切り、男の怒りなどくるり飲み込む包容力を感じさせる。そうだ、悔しいくらい女は彼に動じない。反対にこちらは、こんなふうにして三十年間、ひたすら振り回され続けているのに。
 悔しい。たかが人間の、それも老女にこうも簡単に振り回されてしまうなんて。馬鹿馬鹿しい。たかが一度心奪われた女の顔色を、三十年間触れもしないのに伺ってしまって。情けない。些細な約束を交わした相手に死後の話を持ち出されただけで、激しく動揺してしまう自分が――。
 ざあ、と葉擦れの音が耳に届く。質素な墨染めの頭巾や法衣の裾に上等な赤い裏打ちの黒い外套が手を伸ばすように舞ったが、青年はひたすら思考に耽った。
 この場はどんな言葉を選べばいい。どうすれば女にやり返せる。
 新たな血を吸うと告げるのは、こちらの完敗宣言ともなる。だが死ぬまで女の血を吸ってもそれ以降はもう吸えないし、だから女が死んで以降血を吸わないと告げるのは、こちらの勝ちでもない上に彼女を悲しませることになる。
 厄介なことだ。彼女の勝利条件はあっさりわかっているのに、自分はどうすれば勝てるのが全く見えてこない。何百人もの魔神が束になって襲いかかってきたほうが、まだ彼に勝機を見出させた。
 惚れた弱み、などと言われてしまえばそれまでかもしれない。しかし相手がもう老婆となってもこんな調子のままだなんて、やはり癪に障る部分はあるから、結局のところ彼は明確な返答から逃げた。魔界で『暴君』と謳われた男にしては卑怯な手段であることは百も承知。それでも女には、特にこの約束に関しては絶対に屈したくないのだ。
「……何が言いたい」
「少し、懐かしい気分になった子がいましてね」
 女は彼の逡巡もそ知らぬ様子で、いまだ水遊びに夢中な娘たちへと視線を送る。つられるようにそちらに首を向ければ、こちらとの光の量があまりに違いすぎて、思わず目を細めてしまった。
「あの、金髪の子。わかるかしら、あの緑色の瞳の……」
「ああ」
 水面がぎらついているせいでろくに誰が誰だかの分別さえも難しいが、緑色の瞳の娘は確かにちらと視界に映ったから頷く。田舎住まいの修道女にしては、垢抜けた顔立ちの若い娘だった。
「あの子、……昔のわたくしとなんとなく似ていると思わない?」
「全く」
 断言すると、反射的に吹き出される。薄らと胸が晴れたのだが、これで少しはやり返せたことになるのだろうか。
「もう……本当に容赦のないひとなんですから。まあ、あなたはそう仰るかもしれないけれどね、わたくしは他人のような気がしなくて……」
「ほう」
「わたくしも最初はあなたと同じ、特にそんなこと思わなかったのだけれど、お喋りするようになって、よくあの子のことを見るようになったら、びっくりして。今はもう……、まるでわたくしに子どもがいたら、きっとこんな子なのかしらって……」
 子ども。彼女の、子。
 あまりいい表現とは思えず、男の口元が不愉快に歪む。彼女が子を宿す可能性は三つ。あのことを知らず真っ当に彼女に惚れた男が夫となる場合。彼が彼女を抱いてしまった場合。そして最後の一つが、あのときの誰かの種が、不幸にも新たな命として彼女の胎に宿ってしまった場合。
 思わず最後の一つを連想してしまい、胸にむかつきを覚えた彼の心中を察したか。老女はごめんなさいね、と何故だか慌てて謝ってから微笑んだ。
「だからね、あなた。一度、あの子とお話してくれない?」
「は……?」
 話の繋がりが読めずに怪訝な顔をした男に、修道女は駄目かしら、と顔色を伺うように小首を傾げる。
「あの子も、きっとあのときのわたくしと同じ、あなたのことを知れば悪くは思わないはずよ。わたくしのときと少しは違うかもしれないけれど、血を吸うようにあなたに持ちかける可能性はあるわ」
「……ふん。それがお前の狙いか」
 ようやく彼女の言いたかったことを理解して、男は小さく笑い飛ばした。
 つまりかつての自分を彷彿とさせる娘に、自分の約束を引き継いでもらう魂胆らしい。そうしてあわよくば、あんなことが起きなかった自分の分身として、吸血鬼と添い遂げてほしいとでも思っているのだろう。
 身勝手な話だ。あくまで彼があんな約束をする気になったのはこの女だからこそであり、見目や言動が似ているからと言ってその娘に乗り換える気にはならないのに。
「いけないかしら? わたくしが死んでしまって、あなたが人間の血を吸えなくなるのはわたくしもいやなの。だから……」
「お前のその気遣いはありがたく思おう。だが、俺は俺の心によってしか動かない。お前が死んでどうするのかは俺が決める」
 毅然と言い放てば、老女が残念そうに肩を落とす。ざまを見ろと、普段から彼女に振り回されている男は内心鼻で笑いながら続けた。
「それにお前にはそのつもりはなかろうがな、これで俺が悪くない返事をしたとすれば、その娘とやらの気持ちはどうなる。密かに誰かを思っている上で得体の知れぬ吸血鬼の餌食となれば、お前は二人の人間を不幸に……」
「それはありませんよ。だからあの子と会ってほしかったの」
 ちゃっかりと下調べを済ましていると教えられ、どうとも表現に難しい吐息が漏れた。まるで女衒ではないか。本人にそんなつもりはなかろうが、下卑た仕事をさせてしまってこちらの気が悪くなる。
「それに、あの子だってお年頃ですもの……。きっとあなたを知れば、自分の血を捧げようと思ってくれるわ」
 その自信は一体どこから出てきたのか。よもや、自分のときがそうだったとでも言うつもりか。
 反射的に訊ねかけた言葉をぐっと飲み込んで、彼は例の娘を改めて見やる。初めて見たときに比べればまあまあ魅力的な顔立ちに見えてきたが、この修道女と初めて出会ったときのそれとは比較にもならない。明日になれば、頭の片隅から消えてしまうくらいの印象だろう。なのに。
「少しは、気になってくれたかしら……?」
 老女の、期待を押し隠すような声が胸に痛い。あの娘のほうはともかく、彼女はこの上なく乗り気だ。
 彼の心が頑として変わらない以上、一蹴しても構うまい。だがここで徹底して断れば彼女を悲しませるだろうし、血を与えてもらう我が立場を顧みれば一度誘いに乗るくらいはしてやってもいいのではないかとも思う。――それにもし彼女が呆気なく死んでしまえば、交わした約束は糸が切れた凧と化し、彼の執念もまた風に彷徨う運命となる。ならば傷の舐め合いでもいいから、女の思い出を共有できる話し相手を、継ぎ糸を用意していても悪くはないはずだ。
「……いいだろう、顔を合わせるくらいはしてやる。ただし、条件が一つ」
「はい?」
 珍しく嬉しげに瞳を煌めかせこちらに催促する修道女に、彼は彼女と初めて出会ったときを思い出しながら憮然と告げた。
「あの娘を夜中、どこでもいいから遣いにやれ。できれば山際を歩かせろ。その帰りに顔を合わせてやる」
「夜中の、林の、……帰り道?」
 その条件を教えられ、思い当たる節を見出したか。目を軽く見開いた女は、感慨深げな苦笑で肩を震わせた。
「まあまあ……わたくしのときとまるで同じじゃないの。別にそんなところまで似せなくてもいいのではなくて?」
「先にあの娘が昔のお前に似ていると言い出したのはお前だ。ならば初対面からでも徹底すべきだろう」
 すぐに自分たちが初めて出会ったときのことを思い出してもらえた嬉しさから軽く胸を張って主張すると、そんなものかしらと首を傾げられる。どうやら彼女はそこまでこだわる必要はないと思っているらしい。
「ふふ……けれど、あなたがそう仰るならそうします。そうね、なら今夜で構いません?」
「構わんが……随分早いな」
「善は急げと申します。……それに、わたくしももうそろそろ年ですから、間を空けるとうっかり忘れてしまいそうでしてね」
 軽く肩を竦められるが冗談にしては笑えず、反対にぎろりと睨んだ青年に、老女は能天気に微笑むばかりで己の言葉を改めようとしない。
 普段なら女の怖いもの知らずっぷりには呆れを通り越し好感を抱きさえするのに、今の彼は少し苛立ちながら立ち上がる。そうして外套を翻し彼女から距離を取ると、背に女の声を聞いた。
「さあ皆さん。もうそろそろ、帰るとしましょうか!」
 声には後悔など微塵もなく、むしろ浮かれているほどで。もう彼女は自分に未練がなくなったのかと疑問を抱いた男は、逆にあの誘いに乗ったことに後悔し始めていた。

◇◆◇

 それでも修道女に命じ、また指定された通り、日が沈んで件の娘が来るまで木の上でまんじりと待ったのは、彼も少なからず期待していた節があったのかもしれない。
 落陽と同時に何匹かの蝙蝠を生み出した男は、件の娘を見逃さないように教会を囲う林の広範囲に彼らを配置させ、自らもまた林の一部に身を隠し、不安と期待をない交ぜにしながら考える。例の娘と会ったあと、自分はどんな印象を抱くのだろうと。
 もともと新たな誰かと知り合うことは嫌いではない。仲間になりたいと申し出る悪魔がいれば足手まといになりそうなもの以外受け入れたし、戦いに関係ないならないで、あの修道女のような清い心根の人間となら知り合っても問題はなかろう。
 だから彼女の勧めがあったとは言え、例の娘とはなるべく斜に構えず、素直な感情のままで話すよう心がけるつもりではある。しかし素直な感情に身を任せ過ぎて、あっさりと若い女に、いつかの彼女に抱いたような気持ちを持ってしまうのもどうなのだろう。自分はそこまで誠意のない男ではないと思いたいが、その誠意を示したい相手こそ、例の娘を勧めてきた人物なのだからどうにも物事は複雑極まる。
 ――少なくとも、彼女はもう自分のことをそう言う対象として見ていない。それだけは確実だろう。
 そう改めてしまうと、胸に棘の痛みがぶり返す。それがなんとなく察せたから、誘いを受け入れた節もあるのかもしれない。つまりは当てつけか。我ながら幼稚な判断だ。
 しかし彼女のほうは年を取り、達観を身につけ欲の一つを捨て去った。だからこそ若い娘に代わりを勤めてもらい、彼には娘の『約束』の男になってほしいと願っているのもわかっている。血を吸えなくなるのは悪いからとこちらを慮った理屈は聞いたが、ならば下手をすれば半永久的に血を吸われる運命となるその若い娘のことはどうでもいいのか。
 そうして自分がその娘の血を吸って、また数十年後、同じことが繰り返させるのか。それとも件の娘は見苦しく足掻くのか。自分が死んでも自分以外の血を吸うなと約束させられるのか。まさにそれを命じるべき、いや命じてほしい人物は、その娘ではないのに。
 わからない。話しかけてもいない今ではどんな未来になるのかわかりはしない。
 今になって猛烈な後悔が胸の杭の奥から滲んできて、このまま魔界に帰り、暫くしてから会えなかったと白々しく修道女に報告してやろうかなんて案も浮かぶ。きっと大げさな反応はすまい。まあそうなのと、残念そうな返事を寄越すくらい。
 しかしそれをすれば、彼女に疚しいことができてしまう。もうこれ以上の気負いを作りたくないなら、やはり素直に会っておくべきなのだろう。
 ――どんな娘なのか。
 赤い杭に貫かれた心の臓が、滅多になく高鳴ってしまい彼は無自覚に拳を握る。
 悪い人間であってくれなどとは思わない。彼女が気を許し、自分の娘のようだとさえ口にした人間が実は詐欺師の才能に満ち溢れていたなんて、騙された女が憐れ過ぎる。けれど本当に中身が彼女そっくりで、またしてもあんな烈しい感情を別の女に抱いてしまうとなれば、それはそれとして自分に幻滅する。
 自分も男である以上、初老の女と若い娘を比べれば後者に惹かれていくだろう。特に魂も清らかで、血の味わいも量も前者より秀でていれば文句のつけようがない。ならば前者を、彼女を捨ててしまう日が来るのか。いつか来る彼女の死と直面しても、それほど取り乱すこともなく若い娘の血を味わう薄情者になってしまうのか。
 そんなこと――と白手袋の手の甲に爪を食い込ませた瞬間、使い魔から人間の反応を感知して、いよいよ訪れてしまったこのときに身構える。
 あのときの彼女と違ってバスケットを携えた娘は、月の光を浴びていながら墨染めの頭巾で髪をすっぽり覆い隠しているため、夜目の利く悪魔であっても色の見分けがつきにくい。ああそうだ。悪魔にとって十分に明るい月の晩、あの鮮やかな桃色の髪は、林の中でもよくわかった。馬鹿な獲物がいるものだと、あのときの自分はその後の展開を想像できず舌なめずりさえしていた。
 広範囲に拡散させていた蝙蝠を、急ぐ娘のほうへと集めて誘導する。あのときの彼女は蝙蝠に追われても特に速度を緩めることなく、足下と紙袋の中身のほうをよっぽど気にしていたか。あとで聞けば、道を間違えたかと思って焦ったんですよ、なんて実に能天気な感想を頂いた。
 しかし、あの娘はどう出る。蝙蝠に囲まれた我が身をちらちら気にしながら、真っ直ぐに教会を目指して走るまだ若い修道女は、あの日の彼女と同じ目に遭い、そうして彼と出会いどんな反応を寄越す。
 生温い、血の臭いをまとう風を背後から吹かせ自らもその風に乗り、娘の進路に先回り。頭巾を風に飛ばされないよう片手で押さえつけながらも、暗い夜道を突き進む娘の足は止まらない。
 蝙蝠たちから娘の呼吸音を聞く。はっ、はっ、と短くも規則的なその声は、いつかの彼女と全く同じ。ああ、やはりこの娘もそうなのか。ならば次に蝙蝠を、騒がせてしまおう。
「きゃっ!」
 短い悲鳴は、彼女のときも聞いただろうか。顔の辺りを庇いながらようやく娘が立ち止まる。その仕草も彼女のときと同じだったろうか。わからない。極度の緊張で記憶が曖昧だ。多分、その前に短く話しかけたかもしれない。
 けれどもういい。手順を忠実に守る必要はない。だからそうして、次に。今度こそ、自分が。
「やだもう……」
 丁度、姿を表す直前にそんな声を耳にして、彼はぴたりと止まった。
 修道女は今、なんと言った。いや聞き逃した訳ではない、しっかとこの耳に残っている。おっかなびっくり、小さな声で、現状を否定する言葉をぼやいたのだこの彼女より低い声の娘は。
「え、ぇえっ……!?」
 そうしてこれはもう事故扱いだろうが、彼が呆気に取られたせいで、娘を囲っていた蝙蝠たちが跡形もなく掻き消えてしまう。ただ何の変哲もない蝙蝠に追われていたはずの娘は随分驚いたらしく、バスケットにしがみつくように首を竦め、続いてこんな言葉を漏らしてくれた。
「……な、なんなの? もう、こわい……」
 こわい。なんて。
「…………はは」
「だ、誰っ!?」
 男の肩から、どっと力が抜ける。
 彼女の口からそう簡単に聞けなかった言葉と感情を、この娘はこうもあっさり漏らすなんて。あの暢気でお人好しで気高くて、何より怖いもの知らずだった娘と違い、なんて簡単に。
 これでは、あのときの約束さえ交わせないではないか。
「ははっ、あは、ははははははははは!!」
「きゃああ!? なっ、なにっ、なになにっ!?」
 突如として林に響く青年の笑い声に、娘は悲鳴を挙げて飛び上がる。顔の造形より目尻に浮かべた涙が目立ち、周囲を激しく見回す素振りは完全に怯えきっており、彼が姿を現せば腰を抜かしそうなくらい。
 しかしお陰で娘と彼女が全く違うと明確に知らされた男は、清々しい気分のままに一つ跳び。娘に害意が去ったと教え、また恐怖のとどめを与えるつもりも兼ねて、派手に音を立てながら林の奥へと駆けていく。
 このまま林を出て教会に寄って知らせてやってもいいが、きっと彼女はまだ働いているだろう。ならこの喜びは、今は一人で堪能しよう。
「残念だったな、アルティナ! あいつはお前とは違ったぞ!」
 聞くものがいなくても、彼は腹の底から声を発した。日が沈みきり、涼しくなった林の木々を抜けながら、吸血鬼はひとり呵々と大笑する。こんなに清々しい気持ちになったのは本当に久し振りだった。
「あいつは俺のプライドをくすぐらぬ! いくら優しかろうが清らかだろうが気高かろうが、お前ほど図太い神経をしていない!」
 そうとも、初めて彼女と出会ったときのことは、今もはっきりと憶えている。
 蝙蝠に騒がれ、立ち竦むしかできずにいた女の前で悪魔らしく姿を現した異形の男に、彼女はどんな顔をして、そうしてなんと言ったのか。
 あの瞬間を、あの月光に照らし出された鮮やかな光沢を放つ桃色髪を、宝石よりも澄んだ薄青の瞳の美しさを、完全に素の表情で、あどけないとさえ思わせた白く整ったかんばせを、その柔らかそうな唇から、素朴で控えめで何より悪魔降臨の場に全くそぐわぬ平凡な発言が漏れたあの衝撃は、きっと何百年経とうが忘れるまい。
「しかしそれが普通だ、あの娘自身に罪はない! だがそれでは、俺はあの娘の前では一介の悪魔にしかならぬ! お前と、お前のときと違って!」
 悪魔とは、愚かな人間たちに恐怖を与え、彼らを戒める闇の使者。
 そんな重い使命を背負う存在を、怖がりもしなかったのは誰だ。それどころか好奇心に満ちた眼差しを向け、可哀想だとさえ言い出したのはどこの誰だ。ころころと表情を変え、約束を持ちかけて、そうして無邪気に笑いかけてきたのは。
 あのときの、今まで目にしたどんなものよりも目映く心掻き乱される笑顔を思い出し立ち止まった男の視界に、昼間の小さな湖が現れた。いつの間にか、ここを目指してしまったらしい。
 無論、涼む人影などありはしない。息巻く悪魔に怯える小動物の気配はあっても、木陰で休む彼女の姿もない。
 それでも彼は告げる。星の瞬きと白く輝く銀盆の月を映し出す、鏡のような静かな湖面に、誰かの瞳の煌めきを見出して。
「お前の代わりはどこにもいない……そうだとも、アルティナ。俺を俺として見た女は、ただひとり、お前だけだ」
 言い放ち、少しは頭の熱も冷めたから彼は丁度そこで振り返り、外套を揺らして魔界へと戻る。
 今度こちらに訪れたときには、修道女を酷く残念がらせてしまうことになるが構わない。それでも堂々とあの娘と会えなかった理由を伝えられるなら、彼女もきっと納得してくれるだろうから。


◆◇◆


 ――そんなこともあった。
 たった十年前のことなのに、もう数百年前の過去を思い出したような感慨に浸りながら、男はあのときのことを語り終える。
 傍らには老婆。質素な寝台に横になり、もう頭巾も法衣も着ていない粗末な寝間着姿の老女が、ころころ笑いながら深く頷いた。
「……そう。だから、あのときあなた、無理だなんて仰ったのね」
「ああ」
 あれから数日後、あの娘は無理だとしか告げなかった彼に、老女は何度も理由を訊ねた。無理なものは無理だとしか教えなかった当時の彼は、当然これからずっと先、理由を話さないようにしようと心に決めていた。
 なのに今は話す。振り返ってみれば、案外些細なことだったからだと気付いたのもある。けれど当時は、こんな日の訪れを予想していなかったのも大きい。たった十年前のことだけれど、それでもこの十年は、随分遠くなった。
「まあまあ……知らなかったわ、そんなこと。それとも、聞いたけどもう忘れちゃったのかしら?」
 首を傾げることも、体を捻ることもできないのか。彼のほうに、痩せた腕がのろり振られる。その手を丁寧に受け取ると、自分の椅子を寝台のほうに引き寄せながらもとの位置に戻してやった。それすらも自力では難しくなってしまったことを、既に彼は知っているから。
「ねえ、あなた。吸血鬼さん。どっちだったか、あなたは覚えていらっしゃるでしょう?」
 ついで顔を上げ老女の顔を覗き込めば、頼りない蝋燭の灯りに女の輪郭が浮かび上がる。その表面は目の窪みや額、頬にも深い皺を刻み、老いたどころか、人として最低限の機能さえ衰え始めているのだろう。残酷な年月に抗い続けた薄青の瞳さえ、今では腐った水のように濁っていた。頭の中についても、それは同じ。
「……忘れただけだ。前に来たときも話した。その前も」
「あら、まあ、ほんとうに?」
 あのときは老いた己を隠したがっていた女は、今はすっかりそんな女心も曇らせ、髪のほつれを直さないまま力ない苦笑を浮かべる。
「もう駄目ねえ、わたくしったら……。寝たきりになったら、すぐにいろんなところが耄碌しちゃう」
 今から何ヶ月前だったろうか。皺が増えてもこのまま五年後十年後もずっと変わらず働き続けるだろうと思わせた女は、ふとした事故から骨折を患って、坂道を転がるように『老いて』いった。今では食事もままならず、眠る時間のほうが長くなっている始末。
 それでも彼が訪れれば、声をかけてやれば、起きてくれるしこうして会話もしてくれる。それが彼にとってはまだ救いであった。
「仕方なかろう。お前ももういい年だ」
「うふふ、本当にねえ……。……やっぱり、もうお迎えが近いのかしらねえ……」
 老女も自覚はあったのか。年寄り特有の丸い笑みを宿しながら、そんなことを呟く。その表情は死への恐怖が薄く、だからこそもの忘れが酷くても、致命的な痴呆にまでは陥っていないのだろうと推測させた。
 死の、恐怖。つまり彼女が死ぬなどと、彼としては考えたくないことだったが、昨今の彼女の衰弱振りに現実逃避の無意味さを自覚させられた。それでも表面上は今まで通り、女を叱咤し続ける。
「……全く。年を取ってから怪我をするとろくなことにならんな。たかがそれしきでお前がそこまで弱気になるとは思わなんだぞ、アルティナ」
「弱気なんかじゃあありませんよ。自分でもわかるものなの」
 しかし女は素直で、枕にもたれながら深く息を吸い込む。たかがそんな動作さえ、まるで大仕事のように呻いた。
「……一日経つごとに、些細なことで酷く疲れてね……もう働くどころか、ベッドから出て立ち上がるのも……」
「そんなことはない。そのくらいの気力を取り戻せねば、俺はお前の血を吸わないと以前伝えたはずだぞ」
 厳しい口調でプレッシャーをかけてやっても、女はゆっくり瞬くのみ。まだ骨が折れてすぐの頃は、それなら早く元気にならないと、なんておどけてくれたのに。
 そのたったの数ヶ月前さえ、今はもう遠くなってしまった。訪れるごとに弱りゆく彼女を見るたびに、人の体は呆気なく壊れ、命など脆いものだと痛感させられる。それを彼は止められない。人間も悪魔も呆気なく殺せる魔力を持ちながら、人ひとりの命を救うこともできやしない。ただこうして、そばにいて、その身を案じて、気遣うように命じるだけ。
「……今夜もとっとと寝て、早く良くなれ」
「ええ、寝ますよ……」
 のろりと首が動く。老衰の色は目立ち、痰が絡まったような掠れ枯れた声のまま、老女はぼやく。
「けどねえ、最近は……起きるのも、もう辛くって……だから逆に、寝るのがいやで……」
 ああ、理解しているとも。彼女の睡眠は回復を早めるためではなく衰弱による意識の喪失。そのため本当に限界が近いと知らされるも、彼はいつも通り素っ気なく振る舞い続ける。それが自分にできる精一杯の気遣いで、彼女の死を意識してから今までずっと貫いてきたことだから。
「逆とはなんだ。早く寝ろ」
「いやよ……。あなたとお話、したいもの……」
「…………」
 全く予期しないタイミングで甘えられ、思わず彼は舌を打った。昔なら頻繁にあったが、今でさえ彼女に虚を突かれてしまうなんて。完全に油断していたせいもあり、苦々しく立ち上がってその肩に薄い布団をかけてやる。
「……愚か者め。それで体調が悪化すればお前の身に降り懸かってくるのだぞ」
「…………」
 しかし返事がない。枕にもたれた姿勢のまま瞼を閉じた老女の顔はぴくりともせず、一瞬よもやと身構えさせられた。しかし脈を確認するより先に、ふう、と老婆の胸が動く。
「アルティナ? 寝たのか?」
「……ねえ、吸血鬼さん」
 そして瞼が再び開かれ。少し疲れが出たのだろうと安心した彼は、その瞳の色が妙に懐かしい色合いに戻っているような気がして、微かに喜びながら応じたのだ。
「なんだ」
「もし、あなたが――」
 擦れた声に、生気が宿る。女の顔が、微かに若返る。それでも彼は、女の言葉に怪訝に眉をしかめてしまって。
 それが最期の、ふたりの会話。






後書き
 同人誌の宣伝も兼ねた『もし四百年前のアルティナちゃんが味方に殺されたんじゃなくてオオウ…な目に遭ったら』の後日談兼サイドストーリー。あっちではイベント前日に上がってましたがこっちではイベント後に上げることになっちゃってこっちしか見てない方申し訳ない。
 某懐メロ風に『わたしがおばあちゃんになっても』とかタイトルにしたろうかと思いが過ぎったりしましたがさすがに直球すぎるのでやめました。
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