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専用爪磨き

2012/07/12

 強く打ちつけたような記憶はないはずだが、時間の経過とともに痛みを伴い腫れ上がっていく手の甲を目にすれば、さすがに放置しておけない。
 議題を力ずくで可決させ、さて屋敷に戻るかと思ったところでそんな自らの異常事態に気付いた吸血鬼は、長らくの僕にこれを見せると飛び上がられ、やはり治療が必要らしいと実感。しかし連れ立った仲間は全員回復魔法の心得がないものだから、仕方なく。そう、本当に仕方なく、彼だけ保嫌所を訪ねることになった。
 屋敷に戻れば回復魔法を使える誰かと遭遇できただろうが、そこまで時間を切り詰めるほど仕事は差し迫っていないし、むしろ彼が議会にわざわざ赴いたのは余裕がある、どころか暇の裏返し。だから保嫌所に寄る余裕も当然あった。何より出血箇所を塞げばどうにかなる切り傷擦り傷以外、回復魔法の効果は薄い。故に保嫌所で適切な処置を受けるのは、最も無難な判断となる。
 だと言うのに、黒い外套を身に着けた黒髪痩躯の吸血鬼、魔界で最も著名な気高きプリニー教育係であり魔界を支配する『新党・地獄』党首でもある青年悪魔は、奇妙な後ろ暗さを伴って保嫌所に到着してしまった。更に従業員在中の看板を確認した際、仲間たちの冷ややかなりからかい混じりの眼差しを脳裏に蘇らせてしまうが、頭を振ってそれを振り払う。
 そうとも何も問題はない。ここに来たのはただの怪我の治療を受けるためだと、浮き足立った道中の記憶を封じて扉をノック。本人としてはさりげなく、ゆっくりノブを回した。
 しかし喜びたまえ吸血鬼。杭穿つ胸に秘められていた期待は叶えられ、慎重に開けた扉の向こうには四百年前から彼の心を捕らえて離さない可憐な小鳥。天使と称するに相応しき気高く慈悲深き魂の持ち主にして、天使と形容するに相応しい清楚で可憐な容姿の、現に人間から天使へと転生した娘が在室していたのだから。
 だが素っ気ない事務机の向かいには地獄保嫌所所長兼最古参従業員である僧侶もいて、ここでは一番下っ端である天使になにやらさせていた模様。召使いのように軽く俯いてた三つ編みの娘がなんらかの動作を終えると、金髪麗しい女悪魔は己の指の付け根から爪先までゆっくり触れ、有閑マダムの貫禄を滲ませ頷いた。
「……ふむ、なかなか良かったわ」
「あら、本当ですか?」
「こんなところで嘘はつきません。パッフィングも粗が目立たないし見事なものね。これで甘皮の処理が出来ないなんて、ちょっと残念なくらい」
「さすがにあれは趣味で買えるものではありませんし……」
「ん~、けど投資の価値はありそうよねえ。なんなら次のお給料はマシンの現物支給で……」
「マチルダさんったら。さすがにそれはあんまりです」
「おい、患者だぞ」
 いつまで経ってもこちらに気付きもしない従業員たちに、ついぞ痺れを切らして一声かける。直後、あらと声を漏らした二人のうち、天使がはにかみながら立ち上がった。
「申し訳ありません……。その、今日はどうされましたの?」
「三十分は経っていないと思うのだが、いつの間にか手が腫れてな……」
 白手袋に包まれてもわかる膨れ上がった手の甲をかざすと、悪魔には滅多にない薄青い目が見開かれる。
 痛ましげな表情でこちらに駆け寄ってくる天使の献身ぶりに男の胸が切なく高鳴るも、その向こうの所長ときたら暢気なもので、己の指を撫でたままぴくりとも動こうとしない。天使が先んじて患者を診るなら彼女は何もやることがないのは事実だが、それにしたってこのくつろぎようは見ていて少々不愉快なほど。
「どなたかと思えば党首殿? わざわざいらっしゃるだなんて、そちら案外お暇なようね」
「お前ほどではないがな。……一体、こいつに何をさせていた」
 誘導されて患者用の椅子に腰を預ければ、従業員用の椅子からぴくりとも動こうとしない僧侶は、やけに艶を放つ手を彼のほうへ振った。
「大したことではありません。あんまりにも暇だから、彼女に爪のお手入れをしてもらっただけ」
「爪……?」
 鸚鵡返しに訊ねれば、娘の遠慮がちな視線と声のワンクッションで白手袋が脱がされる。予想通り青白いはずの手の甲が不自然なくらい赤く腫れ上がっていた。どこかで強く打ちつけたのか。
「少し触りますから……痛いときは仰ってくださいね」
 一声かけてからためつすがめつ視診して、軽く触診も済ませた天使は、治療道具一式が乗ったワゴンを手前へと引き寄せる。
「打ち身ですわね。捻挫の可能性もありますので念のためそちらの処理も施します」
「アルティナさん、促進剤なくなったらそっちの二番目の引き出しね」
「はい。……湿布は一番下でよろしかったですか?」
「あら、そっちも少なくなってた?」
「いえ。けれど半端な量ですので、もういっそこちらも補充すべきだと思いまして……」
 淡々と眼前で交わされるやり取りはなかなか真っ当な連帯感を漂わせ、青年は密かに胸をなで下ろす。
 いくら党に馴染んでいようとも、この天使が悪魔の職場で単身働くと告げられたときは孤立しないかと随分気を揉んだものだ。働く先が顔を出しやすい保嫌所であるため結果的にこちらが折れたが、実際にこうやってほかの従業員とのやり取りを目にすると安心の度合いが違う。
 しかしそれにしたってあの光景はなんなのか。さっきは安心してしまったが、もしこの二人の間の親しさが女主人と信頼の厚い侍女のそれならば、先輩後輩や師弟関係の域から大幅に逸している。この天使の身柄を預かる組織の責任者として、さすがにそんな過ちは放置しておけない。
「……手入れとは」
 早速遠巻きに探りを入れるべくぽつりと呟けば、薬を患部に塗っていた天使が小さく肩を竦ませた。
「そのままです。爪をやすりで削って、表面を磨いて、ささくれの処理やマッサージをしますの」
「丁度暇だったから道具を一式持ってきてもらってね」
「……そうか」
 双方からの説明ではどちらが率先したのかまではわからないが、率直に訊ねるのは呆れられる可能性がある。
 もしかすると女同士ならあれは真っ当な付き合いの範疇かもしれないし、もう一度チャンスが巡ってくるまで深追いすまいと己を制した青年は、不安を堪えて外界の光景に意識を切り替えた。
 けれどやはり。娘のなよやかな手が動く様子を眺めても、その都度手に淡い刺激を受けても、今の彼は嬉しいともくすぐったいとも思えなかった。普段なら、たかが治療のためとは言え緩みそうになる頬を精一杯引き締めるくらいなのに。
 そんな患者の胸中を察したのか。はては単純にこの地獄の最高権力者に媚び入るつもりか。盲目のはずの僧侶が、無言の吸血鬼に笑みを含んで誘惑する。
「腕前については私が保証しますし……お代は安くしておきますから、一度党首殿もやっていただいては?」
「な……っ」
 不意を打たれた青年は少々動揺するも、相手の笑顔に嘲りめいたものを感じ取り、けんもほろろに一蹴した。
「……俺はここに治療をしてもらいに訪れた。従業員の善意にかこつけてサービス料を上乗せしようとする悪徳保嫌所の手口には乗らん」
「あら心外」
 わざとらしく眉根を寄せた悪徳保嫌所所長殿は、なのに不当な評価に反論する気は湧かないのか。時計の文字盤を触れてからよっこいしょと立ち上がると、軽く背伸びをしつつ二人の側を横切っていく。何か取りに向かうのか、それとも不浄に行くのか。いやしかしそちらは――
「じゃあもうそろそろ行ってくるから、お留守番お願いね」
「はい。お気をつけて」
 見送りの言葉を聞き取ったか曖昧なところで扉が閉まる。そう。手持ち無沙汰だったとは言え、患者を残して従業員が勤務時間中に職場を離れたのだ。
 残された患者は唖然と口を開けたまま、テーピング中の見習い従業員へあれはいいのかと視線で問う。天使は慣れたもので、にっこり笑う余裕さえ持って説明してくれた。
「今日は別の地区の保嫌所の方々と勉強会があるんです。長く経っても二時間ほどですので、わたくし一人でも問題ありませんの」
「勉強会……?」
 本来なら殺風景な会議室でノートと鉛筆を持って講師の話を聞く各地区保嫌所の面々が連想されるはずなのに、今の青年の脳裏にはあの僧侶がほかの女悪魔たちと優雅に茶話会に興じている光景しか思い浮かばなかった。いやしかしこちらの勝手な想像で株を下げるなどさすがに失礼だろうと辛うじて良識ある判断を取り戻した彼は、それでも一応訊ねてみる。
「……アルティナ。前回その勉強会とやらが終わったあと、あの女が茶や菓子の匂いをさせていたりは」
「ありませんわよ? どちらかと言うと胡麻油や葱油の香ばしい……」
「似たようなものだろうが!!」
 つまり実質茶話会だと天使も理解しているようだ。その上で留守番を任されて平気な顔をしているのだから、彼女のお人好しっぷりには心底参る。ついで青年は彼女がこれ以上いいように使いわれていないか猛烈な不安に駆られてしまい、苦い顔でぼやいた。
「自分が働いている最中に堂々とさぼる上司に不満はないのか。あるなら、人事異動も考えるが……」
 考えるどころか、彼女が言葉を濁す程度でも即座に事務所に舞い戻り、そのための議会を開催させるつもりだ。だが現実の娘は微笑んだままおっとり首を横に振る。
「わたくしは今の環境に不満はありませんから、そんなことしていただかなくても結構ですわ。……さて」
 湿布を貼り終え、片付けも済んだ。あとはこのまま十分待機となったところで天使が棚の一角へ歩きだす。請求書でも取り出すのかと思いきや、彼女が開いた棚には茶器が覗いた。
 どう言うことかと目を点にする吸血鬼に、娘はなんともなさそうに彼のほうへと振り返り。
「わたくしたちもお茶にしましょうか」
 も、ときっぱり言い放たれ、青年、大いに脱力させられる。
 確かに上司がさぼっているなら部下もさぼっても咎められる謂われはなかろうが、それにしたってこの態度はいかがなものか。
「……おい。留守番はいいのか」
「看板は変えていませんし、ほかの患者さんが来たら即座に対応しますからご心配なく。……ジャスミン茶になりますがよろしいですか? 前の勉強会でマチルダさんからいただいたお土産ですけど」
 しかも土産物とは。餌付けされているぞと指摘したくなったが、ここまで堂々とされるとこちらが気にしているのも馬鹿馬鹿しくて、吸血鬼は投げやりに頷いた。
「構わんが……いいのかそれで」
「ええ、マチルダさんもわたくしの性格を理解しておられますから……きっとわたくしたちが遠慮なく休憩できるように気を遣ってくださったのでしょう」
「そうなのか……?」
 備えつけの小さなシンクで、馴染みのない茶を淹れる娘の手際はいつもの通り。高所から湯を注いだ独特の、こぽこぽと転がるような水音が響くと同時にむせるような花の香りがこちらまで漂ってきて、彼は軽く眉をしかめた。あの僧侶が本当に彼女を気遣ったのかどうか訝っている部分もあるが。
 結局、吸血鬼は天使の娘に傷の手当を受けるだけでなく、ショートブレッドを茶請けにした支那茶の小休憩にも相伴することとなったのだが、単純に喜べないのは何故なのか。
 しかし予想外にも脂気の強いショートブレッド――実際にはタオスーだかトオスーだか言う支那のナッツ入りクッキーらしい――は、重厚感たっぷりな香りの割にほろ苦くさっぱりとした後味の茶と相性抜群。菓子のお陰か空気は理想的な具合に和み、何より彼女とふたりきりで、ささやかな安らぎの時間を共有できる悦びに、青年の機嫌はすぐさま上昇した。
 そうして飲み残し以外の茶器が下げられ、湿布を剥がす頃が来たかと少々未練がましいながらも帰る気になったのに。戻ってきた天使がその手に小振りな道具箱を携えていたものだから、薄ら寒い予感を覚えさせられた。
「……なんだ。もしや、さっきの怪我に何か問題でもあったのか?」
「いいえ。この際ついでですから、あなたにもこちらはどうかと」
 ぱちん、と音を立て道具箱の留め金が開かれる。その中には手術用の針だの鉗子だの――ではなく何本もの爪やすりや爪鋏や刷毛、女性的な線を持つ細長い蓋の瓶がいくつも立ち並んでおり、救急箱には決して見えない。どころかこの用途の偏り具合は、つまり。
「……お前までそれを勧める気か」
「あら、いけませんの?」
 子猫のような愛嬌たっぷりの上目遣いで覗き込まれ、青年はぐむと息を呑む。そんなふうに視線を送られて毅然と断れるほど彼は彼女に厳しくなれない。
「普段手袋をなさっているからあまり気になさらないのでしょうけど、甘皮や縦筋が目立っていますもの。それに随分爪が伸びていますし……これでは書き物中も爪が食い込みません?」
「そう思ったら切るようにしている。……まあ最近切っていないことは事実だが」
 湿布を剥がす流れで爪先や付け根をさりげなくも絶妙な感覚で触れられて、吸血鬼は今度こそ緩みそうになる口元を必死で引き締める。そんな愛撫はできればふたりしっぽり濡れた褥の翌朝、微睡みながらの挨拶代わりにやってほしいがそんな仲になってもいない現状ならば生殺し。どころか現状の、人気のない保嫌所の中では拷問と表しても差し支えない。
 娘は男の異変に気付かぬまま、では、と小さく顎を引く。と同時に筋張った手に彼女の指がきゅっと絡まって、いやな予感が項を撫でた。
「わたくしがお手入れさせていただきますわ。お代は……そうですわね、ご不満があるようでしたらいただきませんから、安心なさってください」
「い、いや、しかしだなアルティナ……」
「なるべく手早く、丁寧に済ませます。……いえ、もうこれではわたくしの無理強いですから、あなたは練習に付き合っていただいたと言うことでお金は取りませんわ。……それでも、やはりいけませんの?」
「………………」
 それまでのやや強引なマイペースを貫いておればまだ小憎たらしい程度で済んだのに、彼の態度をどう捉えたか娘はこちらの機嫌を伺うよう、眉を歪めて弱気の虫をちらつかせる。おまけにとどめとばかりに小首を傾げられ、吸血鬼は深く重い息を吐き出した。
「……降参だ。お前の好きにしろ」
「降参って……。もう、大袈裟なこと仰らないで」
 失笑を聞き流し、湿布を張っていなかったほうの手をずいと突き出す。勿論、右手は腫れも痛みも消えている。それどころか、触れてくる彼女の指を意識して左手のほうがぎこちないくらい。
 預けられた天使はグローブを脱ぎ、血圧測定用の台の上に彼の手首を一旦置くとてきぱきと準備を始める。アルコールで湿らせた脱脂綿で患者の手をざっと清めてから、目の粗い爪やすりを青白い小指の爪にぴたり当て。
「そうそう、長さや爪先のかたちのご注文はあります?」
「具体的にはないが、まあ、なるたけ短く。……と言うか、かたちとは何だ」
「丸くするか四角くするかですわね。それとも、このまま尖らせます?」
 別にそんなもの好きにすればいいと答えるつもりが、ふと女の爪が視界に入ってしまう。それは実にこざっぱりとして彼の琴線に触れたものだから、つい。
「……丸く」
「はい」
 注文が受理されやすりが動き出した瞬間、我に返る。それではまるで自分が娘の爪のかたちを真似たようではないかと。
 しかし四角くする利点はよくわからないし、尖らせるのはいくら随時手袋をしていても爪先が手の甲に食い込みかねない。だから自然な丸みを帯びているのが最も無難。そう、丁度今の娘の爪のかたちくらいが適切なのだと己に言い聞かせる。爪でさえ綺麗なものだと感心した訳ではない。いや、だからと言って彼女の爪が不細工だなんて決して思わないけれど。
 ともかく予想外に勢いよく動くやすりから伝わる振動と、誰かに生まれて初めて爪を削ってもらうことに新鮮味を感じながら、青年は眼下の光景を暫し見届けることにした。つもりだったのだが。
「……アルティナ」
「はい?」
 爪やすりが角度を変える様子を視界の隅で受け入れつつ、彼は少々複雑な気持ちを抱く。天使ときたら、彼の予想を遥かに越えてこの作業に熱心だったのだ。
「……他人の爪を磨くときはいつもそんな体勢なのか」
「は?」
 僧侶の爪の手入れをしていたときそのままの深度で、彼もまた彼女に頭を下げられてしまう。お陰であれが邪推だと間接的に知らされたのはいいのだが、ここまで集中させてしまうのは悪い気がして、吸血鬼は安心したそばからまた新たな不安を抱いてしまった。
「もっとこう、爪から距離を取って磨けんのか? それでは腰だの目だのを悪くするだろうが」
「三十分程度で終わりますもの、ご心配には及びませんわ。けれど、わたくしの髪が鬱陶しいようでしたら遠慮なく仰ってくださいね」
「それは問題ないが……だとするとだな、今日は通算一時間はそんな姿勢でいた訳だろうが。手をもっと掲げてほしいなら……」
「結構です」
 軽く左手を彼女の顔に近付けようとすると、支えていた側の手で逆に止められる。俯いているため顔は見えないが、声は少々厳しい。
「わたくしはこちらのほうが慣れていますから、あなたはそのままでいてください」
「…………わかった」
 ずばり命ぜられ一旦引き下がったものの、やはりこの娘に頭を下げられるのはどうにも落ち着かず、深いため息が自然と漏れる。
 それをどう受け取めたものやら。中指の爪を削っていたやすりが止まり、天使がそっと頭を上げた。その眉は、いつもと違って申し訳なさそうに歪んでいる。
「……やっぱり、おいやでした?」
「は?」
「爪のお手入れ、今からでも止めます?」
「なっっ……! だ、誰もそんなこと、望んでいなかろうがっ」
 唐突な問いかけは衝撃的ではあったが、呆然とする余裕を吹き飛ばすほどだったのは不幸中の幸い。必死に首を横に降ると、ですけれど、とますます表情の陰りを濃くされてしまう。
「最初から乗り気ではなかったようですし……。あなたはご自分で気付いていらっしゃるかわかりませんけれど、潔癖なところがおありですから。爪の手入れに関しては、なるべく他人に任せたくないと仰るのでしたら……」
「い、いや、別にそう言う訳では……」
 僧侶に誘われたときは勝手に誤解していたからで、彼女に誘われたときだってそれを引きずっていたからで。しかし一方的な誤解が解けた今、それをわざわざ説明するのはいくらなんでも恥ずかしい。故に渋った理由を急遽作り上げる羽目になった吸血鬼は、しどろもどろ舌を動かす。
「ただ、爪の手入れと言ってもな……俺は男で、しかも常に手袋をはめている故、他者に素手を見せることもそう滅多にない。手入れなどわざわざ他者にさせる必要はなかろうと思い、気が乗らなかったまで」
 思ったより難なく建前を口に出せたのは、彼自身、最初に爪の手入れの話を聞いたときから薄々そんなことを考えていたのだろう。
 発言の裏に稚拙な見栄と杞憂があったと知らない天使の娘は、そうだったのですかと微かに肩の強張りを和らげた。自然に爪やすりも彼の人差し指に寄りかかり、それぞれの手が再開の姿勢を取る。その際、ぽつりと到って気軽な反論が。
「……けれど、わたくしは好きですわよ。指先のきれいな殿方」
「はっ?」
 反射的に顔を上げた吸血鬼に、いかな娘も恥ずかしくなったのか。なめらかな線を描く頬が、ほんのりと赤く色づいた。
「ふ、不潔よりはいいでしょう? ほかはこざっぱりしていても、爪に汚れがたまっていたり、ささくれを放置しておられるような方は……あまり……」
「あ、ああ……成る程な……」
 そう説明されれば納得できるが、しかしあんな物言いは心臓に悪い。内心そんなことをぼやいた彼は、彼女の先の発言に引っ張られるようにしてふとした疑問を抱いてしまう。
「なら、お前はどうなのだ?」
「はい?」
「何故お前はああも俺の爪に執着した? 俺が一応執務中なのはお前もわかっているだろう。今日はそう忙しくもないからお前の誘いを受けたが……」
 言いかけて、吸血鬼の舌の動きが唐突に鈍る。眼前の娘のかんばせが、急に彼女の髪と大差ないくらい真っ赤に染まっていく様子を目にしてしまって。
「い、いえ、いえいえいえ違うんですっ! わたくしがさっき申し上げたのは、ですから、そう言う意味の好きではなくてっ!! そのっ……さっきの説明以外に全く他意はなくてですねっ!」
 つまり、よもや。そう言うこと、なのか。
 手入れを怠っている彼の爪を目にして、彼女にとってより好ましい異性に仕立て上げようと考えたのか。いや、爪以外も清潔がいいし、更に言うならこざっぱりとした印象を持つ程度の男にすぐに惹かれるほど彼女は気が多くなかろうが。そうとも、決してそんな――そんな。
「た……確かにあれだな! いくら普段他者の目につかぬとは言え、伸ばしっぱなしはいかんな!!」
「は、ははははいっ、そ、そうですわよね……っ!!」
 自分が好きだなんて。もっと好きになりたいだなんて。
 いくら誰にでも優しい娘が相手であろうと、そこまでの自惚れは見苦しい。そう己に強く言い聞かせ空笑いで場の空気を入れ替えようとするも、居心地は変わらず悪い。相手の顔もろくに見れやしない。
 乾いた男の笑いが響き渡る保嫌所は、普段ならこぢんまりした、地獄特有の貧乏臭い建物のはずなのに、今のふたりにとってはふたり以外の無人を強調するくらい広いような、それでいてふたりがどうしていようと相手の存在を無視できないくらい狭いような。
 ともかくふたりきりなのだと自覚させられ居心地が悪くなった青年は、対面する天使が道具箱に手を突っ込む音でついぞ笑いを途切れさせた。また別の種類のやすりで爪を磨くようだ。ちなみに娘は俯いたまま顔をこちらに上げようともしない。丸い耳は赤いままだし、そのくらい見過ごしてやるべきだろう。
 こちらも顔が赤い自覚があるし、ほとぼりが冷めるまで気分転換を試みようと、青年はざっと周囲を見回す。
 しかし別段目新しいものはない。目に入るものはどれもこれも時代の変化についていく必要のない簡素な代物ばかり。よく言えば無駄がなく、悪く言えば質素なこの施設は、彼が一介のプリニー教育係として利用していた頃からさして変わっていなかった。
 少なくとも今、彼の目に入る範囲内での新参ものがあるとするならば――それはきっと眼前の娘。初めて彼女とまみえたのは四百年前だから、同時にこの中では最も馴染み深い存在とも表現できる。
 矛盾している自覚はある。けれど心は二つの理屈に忠実で、この桃色の豊かな髪と薄青い瞳を持つ娘の姿を目にすれば、吸血鬼の胸は奇妙な感慨に満ち満ちる。
 いつ見ても新鮮で、いつ見ても確かめるような心地になれた。発見があるのにやはりと納得できる部分もあって、落ち着かないのに安らげて。もっと目にしていたい、もっと知りたい、もっと求めたいと思うのに、見つめるのが恥ずかしくて知るのが恐ろしくて欲望を示すことに躊躇する。
 今まで生きてきた中で、初めて抱いた他者への感覚。一言で言い表せない切なる狂気に、彼は常に翻弄させられる。
 そうとも、これは狂気。頭の中が彼女の姿で埋め尽くされ、できうる限りこうしていたいとも思うのはきっと狂っているからだ。彼女に見つめられて、名を呼ばれて、触れられて。その悦びに勝るものなど何もないと思うことも、きっと自分が彼女に出会ったことで少々狂ってしまったからこそ。
 だからこれは本来自制すべきことだろうが、けれどごく偶にしかこうならないのだから少しくらいいい気もする。そうとも、できれば娘に見つめてほしい。自分が言えた義理ではないが、そんなにおずおずと、こちらを伺わないでほしい。真っ直ぐに、いつか約束を交わしたときのように笑顔さえ浮かべてほしい。そうして名を呼んでほしい。あの優しく弾む鈴の音めいた、初夏の夜風のように甘い声で。
「……あの。ヴァルバトーゼさん」
「ど、どうした?」
 願いが叶ったはずなのに悪戯を見咎められた小僧の気分で応じれば、控えめながらもあの薄青い瞳に見上げられる。もともとつり目がちではあるが、眉までもが少しつり上がり気味なのはどうしてか。
「そんな、……ひとの顔ばかり見ようとしないでください。気になって集中できません」
「……それは、すまん」
 納得できる頼まれごとに青年は浅く俯きつつも、できればもっと眺めていたいとまた新たなやすりを取り出した相手に視線で請う。理由が理由だけにはっきり断るのも難しいが。
 と、やすりで爪の表面を磨かれて、その感触のなめらかさに思わずそちらに意識が走った。
「……今までと比べると随分柔らかいな」
 ぎこちない空気をなんとか入れ替える狙いも含めてやすりの感触を口にすると、天使はぺろんと波打つそいつをかざす。
「ええ。仕上げ用ですから、一番目が細かいものになりますわね」
「ほう」
 そもそも爪やすりに種類があることさえ知らなかったため、感嘆の声は本気で感心していながら、酷く投げやりでもある。もとより彼にとって爪など興味の範疇外。必要最低限の手入れ以外は見向きもしないものだったが、今ではゆるゆるとその価値観が変化しつつある。眼前の、天使の娘の丁寧な仕事のお陰で。
「いつからこんなことを気にするようになった? やはり天使になって以降か?」
「ええ、ピッキングや銃器の使用の際には、長い爪だと感覚がおかしくなってしまいますの。大きな失敗はありませんけれど、一度ひやりとさせられたことがありましたし、点検や清掃にしたって爪が長すぎると……」
「ああ、わかったわかった。お前にとって爪の手入れが大切なのはよくわかったからもういい」
「…………申し訳ありませんでしたわね。可愛げのない女で」
「別にそんな話はしていなかろうが」
 親指まで研磨し終えたようだ。天使はやすりを事務机に置くと、今度は刷毛を取り出して手に残る粉を払った。幸い、先の会話を引きずった素振りはない。本気で拗ねていなかったらしい。
「長さはこんなもので構いませんの?」
「ああ」
 一瞥してから頷くと、それは良かったですわと微笑まれる。
 節々の微調整を済ませ、更にささくれを専用の小さな鋏で切られてから手を離され、次は右手かと相好を変えようとしたところで不意に、白い液体を左手に塗られた。
「……ん?」
「気になさらないで。ただの乳液ですから」
 言いつつ娘は彼の左手を手首まで両手で囲って、手のひらや甲、指の根本にまで乳液をしっかりと、丹念に、心を込める意気込みで刷り込んでいく。その動きは無闇に優しく、酷く悩ましい。
「そ、……そうか」
 女の温かくなめらかな十指が自分の手をねっとりと這う、予想外で場違いなほどの感覚に、青年の膝が軋みかける。肌に染み込ませるのが狙いだとわかっているが、それにしたって熱を入れすぎてはいないか。
「……はい。では今度は右手を出してください」
「あ……ああ」
 しかし幸いにして天使はあっさり手を離し、再び目の粗い爪やすりを取り出した。己の異変を悟られなかった青年は、大いに安堵しながら右手を渡す。
 左手と違い、右は手首も五指も余計な力は抜けており、こちら最初から世話を受ける姿勢を取ったからか。早速爪を削られたので、こちら気になっていた左手の出来を確かめる。
 爪がそれぞれ均一に短く揃えられているのは感心しつつも当然として、縦筋でさえきれいに研磨された彼の指先は、黒真珠に似た光沢を静かに放っていた。つるりと輝く親指の爪を人差し指で撫でてみれば、予想通り磨かれた玉のような肌触りが気持ちいい――のが逆に気持ち悪い。男の爪が女の爪のように艶やかだなんて、彼にとっては違和感が強い。
「……やっぱり、お気に召しませんでした?」
 こちらの表情を覗き見ていたらしく、天使に控えめな苦笑を浮かべられる。本人としては覚悟の上かもしれないが、あっさり肯定する気にはなれず慎重に言葉を選ぶ。
「そこまでは思っていない。だがその……、こんな手入れは女がすることだと実感しただけだ」
「あら。残念」
 何が残念なものか。舌を動かさぬまま呟いて、筋張った男の手をそっと支える白い手を見やる。
 美しい手だ。柔らかくて繊細で、肌触りは玉のように絹のように滑らかで、けれどほのかに温かく。細いなりに張りを宿し、すらりと伸びた五指の動くさまは蝶のつがいの舞いを連想させる。
 手の動きを見ているだけなのに、まなじりや首筋辺りの力が抜けていく。この時間に染み入るような、とろり濁った微睡みを覚えかねない。
 意識を少し上にやれば、爪磨きに取りかかる娘の頭とご対面。顔が見えないのは残念だが、両手それぞれの細やかな動きに彼女の気遣いが伝わってくる。ああそれに何より、彼女と自然に触れ合えている現状が心地良くて、自然体でありながら嬉しくて。胸に迫る感慨に、目つきどころか口元までだらしなく緩んでしまいそう。
 このままの勢いを越え、その手を取って口づけて時間も人目もはばかることなく甘えたい。深紅の杭のうちから沸き上がる欲求に、しかし彼は沈黙をもって堪え忍ぶ。
 何も自分から一波乱起こさずとも、大人しくしておればこの甘いひとときをたっぷり堪能できる。そんなふうに冷静よろしく臆病な判断を下すも、すぐ視界の隅に天使の娘が仕上げ用のやすりを取り出したのが映り込み、男の唇から小さなため息が漏れた。慣れたと思ったらこうだなんて、時間の流れとはかくも不条理で不公平だ。
「どうかされました?」
「いいや、何もない」
 もうすぐ終わるのかと思うと寂しくなった、なんて正直に告白する勇気はないし、告白された相手もどう反応すべきか困るだろうからぶっきらぼうに告げると、天使はやすりの動きを止める。
「……あのですね、ヴァルバトーゼさん」
「ん?」
「もう少し、お時間はおありですか?」
 それは、一体どう言う意味なのか。
 顔じゅうの筋肉を引き締めて時計を確認する。自覚はなかったが保嫌所を訪れておおよそ一時間は経過したらしい。だがそれがどうした。ここは閑古鳥が鳴いているし、わざわざ誰かが自分を連れ戻しに来る気配もないなら恐らくあちらも同じだろう。きっとそうに違いない。
「ああ。また新しく茶を淹れるのか?」
 全神経を導引し自然体を装いつつ、手元にまだ残していた茶で乾いた喉を潤す。予想外に渋くてむせかけた。
 視点を上げればそうではありません、と控えめな笑みを浮かべられ、なら何が、と疑問系の眼差しを送ると天使は少し言いづらそうに鋏を手に取った。
「その、……さっきからやりたいことがありましてね。こちらもお金は取りませんわ。ちょっとしたサービスと思っていただければ結構です」
「……まあよかろう。お前の好きにするといい」
「ありがとうございます。それではもう少しあとで致しますわね」
 穏やかに頷いた天使はいつの間にかささくれを除去し終わったらしい。あの乳液を手の甲に数滴落とされ、吸血鬼は慌てて身構える。途端、右手を飴でも捏ねるよう揉まれ、以後彼は悲鳴を噛み殺すことに専念した。
 手で入念に揉まれるだけで声を漏らしそうになるなんてと、ひっそりと己の異常事態に目を回す青年の異変に天使は気付かぬままで、それはいいのか悪いのか。実は彼女だって余裕がなかったのだ。この簡単なマッサージが終わったあと、客観的に手順を考えればそうするしかないと悟り、たかが僅かな時間にわざわざ手間をかけさせるのは申し訳ないと恐縮して。
 だから彼女は乳液を男の右手に刷り込んだあと、実は面倒な手順を踏まえなければならなくなりましたので撤回しますと言うこともできず、しかしあっさり頼むのも厚かましいしと暫く逡巡していたが、その態度は彼にはどう見えたか。
 正直なところ意識していた。誰もいない保嫌所。あと一時間はしないと帰ってこないもう一人の従業員。まさしく手が届く距離にいる約束の娘がもじもじと躊躇っていて、カーテンで仕切られた清潔な寝台がすぐそこで――なんとなく、そう言うことが許されそうにふやけた空気が漂っている今現在。
「……あ、アルティナ?」
 呼びかけた声は裏返り気味。自分の鼓動が耳に痛いほどの期待といやまさかそんなはずはないと必死に己へ言い含める吸血鬼に、天使は覚悟を決めた面立ちで嘆息一つ、頬を引き締め単刀直入に告げた。
「お手数おかけして申し訳ありません、ヴァルバトーゼさん。あの……上着を脱いでいただけますか?」
「…………」
 脱いでほしい。
 そのたったの一言に、爆発的な勢いでもって彼の脳裏にありとあらゆる未来が構築される。その内容は少々偏りがあるもののバリエーションは異様に豊富で、多分に今の彼の脳内を読める夜魔がおれば、三ヶ月分ほどは参考にできただろう。
 しかし彼は誇り高き悪魔であり、対する彼女も魂から汚れなき天使である以上、その言葉はあまりにもあんまりすぎる。そう、瀬戸際で思ってしまったのがいけなかった。
「な、何故俺が、脱がなければ、ならんのだっ!?」
 男の体なんぞ脱がしたところで目を楽しませるものもなし。それともあれか、聴診器を胸に押し当てて少しずつ下って行って臍の下辺りであらここは異常があるようですわねなんて展開が始まったり、少し早いくらいで異常はありませんわねではわたくしもお願いますわと聴診器を渡され前帯を脱がれたりとかそう言うことかと頭の中で目まぐるしくいかがわしい考えを駆け巡らせる青年に、お気持ちはご尤もですけれど、と天使は一言前置きし。
「腕を露出してもらわないとマッサージしづらくて……。服の上からでもできないことはないのですが、あなたの場合は上着の袖が大きいものですから……」
「…………は?」
「聞こえませんでした? 手のマッサージです」
 マッサージ。手の、マッサージ。
 万華鏡のごとく繰り広げられていた桃色の未来に、大きな亀裂が一つ。勢いのままその光景は細かくひび割れ、砕け散り、呆気なくも粉々に消えていく。
 儚く脆く消え去った可能性の世界に、別れを告げる余裕も与えられなかった吸血鬼は、正気に戻らされるとがくりと背を丸める。下手に飛びかからなかっただけまだまともだが、長らく期待していただけにしっかり傷付いていたのだ。
「……あの。何かありまして?」
「何も…………いや。何もない」
 勝手に期待しておいて勝手に落ち込んだ己をどうにか頭の中で叱咤し、いつもの態度に戻ろうとした青年は、しかし実際は未練たらたら、学校に行きたくないが仮病も使えない子どもの着替えのように外套に手をかける。続いて上着も脱いで、それらを大雑把にまとめると血圧測定台の向こうから苦笑を浮かべられた。
「そんなに乱暴に脱がれなくても……。杭が引っかかったりなさらないの?」
「ない」
 ぶっきらぼうに告げて両方の袖口のボタンを外し、肘までむき出して再び台に左手を預ければ、そっと肘まで預けるよう誘導される。
 本来の使い方にかなり近いが、自然と定期検診で『かなりの低血圧』だの『魔力が少なすぎる』だの毎回苦言を呈されることを思い出して更に気が塞いできた吸血鬼はだが、こってりと乳液を塗った女の手のひらが腕の内側に吸い寄せられる光景を目にし。
「では」
 ぐ、と。親指で、痛みはないが力強くゆっくり、腕に圧力を込められる。
 何故だろう。その光景を目にし、ぞわり背筋が粟立った。だが天使は彼の反応を気に留めず、手首側へと少し距離を開けて、ぐ、ぐ、と絶妙な具合で圧力をかけて揉んでいく。その様子に恥じらいはないし、いやらしい要素なんて欠片もないと彼だってわかっている。なのに。
「…………っ」
 肌に受けた圧力が刺激に変じ、刺激が快感として伝わってくるのが克明になる。その不可思議に心の隙を突かれたのか、非常に厄介なことに彼は『感じて』しまった。
 なんの問題もないはずなのに、この天使に触れられている事実がどうしようもなく彼のうちを煽り立てる。そう、ほかの誰でもなくこの娘に気持ちいいことをされているのだと自覚すれば、いくら冷静になれと言い聞かせても思考が混乱と羞恥と快感に埋め尽くされる。
 男の手首に到達した女の手は、手の甲を表に向けるよう優しく両手で誘導すると、骨が浮き出ている部分を両親指をローラーでやるように何度もなぞり上げる。彼の膝裏がまたしてもぞくりと震え、外套と上着で隠した部分に違和感が生じた。なんてはしたなく浅ましい。こんなときに、たかがこれしきのことで。
 それも終えると今度は指の一本ずつを人差し指と中指で挟んで、乳液で一層なめらかに温まった女の指の感触を丁寧に側面から感じさせられて彼は。
「……ぐ」
 思わず声が漏れかける。なにも女性らしく発達したところだけではない。どこもかしこも、こんな末端部分でさえ蕩けてかたちを崩さないのが不思議なくらい柔らかいと思い知らされて、その感触と性感に否応なしに盛り上がってしまう。これではまるで、女の手に誘導を受けて彼女の身体をまさぐっているようだとさえ。いいや、事実そうではないか。こんなに気持ちのいい場所を、揉まれることで触れている。なんてことを、考えている最中に。
「ふふ、お気に召されました?」
「なっ……!」
 不埒な妄想を見透かされるよりたちが悪い。娘にとっては混じりけなしの善意による質問かもしれないが、今の彼にとってははしたなく猛ったのかと訊かれたも同然だった。
「……ぃ、いや、アルティナ。こ、これは、そのっ……」
「別に恥ずかしがらなくてもいいじゃありませんか。指や手も凝りますのよ? こうやって解していけば気持ちよくなるのは当たり前です」
「っ……」
 そうなのか、と納得できる要素はある。がそれ以上に、またしても絶妙な感覚で指と指の間を揉み解されていくのがたまらなくて声が出せない。
 奥歯を噛みしめる青年の態度をどう受け止めたものやら。不吉な輝きを一瞬だけ瞳に宿した天使は、人差し指と親指の間を憎たらしいほど丹念に揉み解す。強烈な愉楽の波は容赦なく、鈍い痛みさえ堪らないスパイスとして理性と本能の境を曖昧にせんばかりの快感が手から全身に伝わり。
「ほら。さっき少し揉んだだけでもわかるくらい、ここなんてがちがちですもの。こうやって丁寧に解すと……ね?」
「……ッ、……むっ、ぐぅぅっ……!」
 何が、ね、なものか。
 痙攣めいた引きつけを起こしてしまいながら吸血鬼は思う。絶対にこいつは面白がっていると。自分に声を出させる気なのだと。ならば声など出してやるまい。女のような呻きなど絶対に。
「……もう、頑固なひと」
 青年の反応をどう受け止めたものやら。ため息を放った天使は手のひらを上に向けて、またさっきと同じように指のローラーで揉み解す。その、気持ちよさと来たら。
「ぎ……っ」
 今度は側面ではなく、正面と背面をあの女の柔らかい指に挟まれて、それはもう丁寧過ぎるくらい柔らかさを伝えられ、歯の根が震える。
「……ぐッ」
 それが終わればまたしても指と指の間を解していく。手の甲から感じた心地良さとは同じようでまた違う。耐性を持っているから安心できると思いきや、新鮮な快感に油断を突かれかけ。
「ぉ……、が……っ!」
 ああだからどうしてまたそこを。親指の下の手首に近い位置をさっきとはまた違った手つきでしっとりしっかり圧されて揉まれて解されてどんよりと鈍い痛みが絶妙な痛甘さへと変じこれはまずいまずいまずいと言うのに。
「……はい。肘を立ててください」
 手が離される。唐突な消失感にほっとして指示に従えば、自分の指の隙間を埋めるように天使の五指が重なり、手首を丁寧にぐるり捻られた。
 これは声が漏れてしまいそうなほどの威力はなく、ストレッチの類だとはっきり理解できる代物で気を緩めた吸血鬼。はあと大きな息を吐き出して、天使から呆れ気味の苦言を引き出してしまう。
「別に声くらい構わないと思うのですけど……。湯船に浸かったり、背筋を解してもらったりで声が出るのは自然なことでしょう?」
「……知らん」
 味わったのは確かに筋肉の凝りを解される快感で、離された手は心なしかすっきりとした気はする。だがあれをそのまま単純なマッサージとして受け入れられるほど、彼の心は単純ではない。
 そうとも。この即席按摩師が単なる一知人であれば、もしくは按摩師でしかなければああも強烈な快感で彼がのたうつことはなかった。だから原因は彼女にあるのだが、その辺り本人は全く自覚がない模様。
「どうしてそんな意地を張られるのかしら……。それで、右手もしてよろしいの?」
「自分からやると申し立てておいてその言いぐさはどうかと思うぞ」
「……では致しますわ。さ、お出しになって」
 一通り与えられる刺激については左手で学んだし、次はまだ大丈夫だろう。そう自らに言い聞かせたた青年は肘までシャツの袖を捲り上げてから、命ぜられるままもう片腕も差し出す。
 今度は左腕と違い最初から覚悟を決めていたはずなのに、たっぷりと白い乳液を塗りたくった女の両手が腕に触れると。
「……むっ」
 やはり反応してしまう。むしろ前よりも過敏になってしまっていやしないかと自分を疑いたくなるくらい、それは鈍く痛くも柔く酷く気持ち良くて。
 しかし二度目もこんな調子では頂けない。彼が過敏になってしまう最大の原因はわかりきっているからこれは一旦置いておくとして、また別にこんな反応をしてしまう理由があるのならそれを理解すべきだろうと、吸血鬼は己を奮い立たせて娘の手の動きを分析、いやいやねめつけることにした。
「ぐ……っ」
 だが本当に分析などできるはずもない。大体分析したとして耐性などつくものか。すらりと細い、磁器の白さとなめらかさに絹のやわさと人の温かみを備えた手が動くさまを見つめても、己の昂ぶりをより認識させられるだけ。
「……んぐっ!」
 慌てて這い上がってくる甘美感を食いしばり耐え抜くと、彼の反応を眺めていたらしい薄青い瞳と目が合う。最早呆れを通り越したか、いささか申し訳なさそうだった。
「あの、もしかして……くすぐったいですか?」
「……い、いやっ」
 確かに感覚的には非常に似ているが、確固たる差違もある。どちらにせよ彼の身を襲う快感を彼女がそのまま味わえば、きっと息も絶え絶え、涙さえ流して哀訴してくるだろうとの自信はあった。ごめんなさい。わたくしが悪かったです。ですからもう止めて。なんでもしますから。なんでも――
「っっち、が……!」
 髪をやや乱れさせ、潤んだ湖面色の瞳で見上げてくる天使の姿をうっかり想像してしまい頭を激しく横に振る。今のは確実に自爆だった。だがそんなことを想像してしまうのも全てこの天使のせいだ。そうだそうだ何もかもこの娘が悪いのだ。この娘が憎たらしいくらい可憐で清らかで人懐こくて優しくて気高くて気が利いて美しくて茶目っ気があって丁寧な仕事をするせいで。ああ憎い憎いたかがこんなことでこんなに自分を必死にさせる天使が、ここまで自分を変えてしまった娘が、彼女が憎くて仕方ない。
 強く、それはもう眼前の天使を親の仇のように睨みつける青年の面構えは苛烈で憎悪に満ち溢れ、いまだ未熟な死神の少年が目にすれば失禁してしまう可能性もあるくらい。更には人狼が喜悦の笑みを浮かべかねないほど凄みも含んでおり、そんな鬼気迫る表情を間近で作られ涙を流して怯えてもいいはずの天使の娘は、なのに軽く目を見開くだけ。いや、彼の顔から血の気が引くより先に、悲しげに瞼を伏せ手の動きを止めた。
「そんなにおいやでしたら、素直にそう仰ってくれれば……」
「い、いやいやいやそう言う訳ではなくてだな!!」
 自分の片手に濃密に絡まっていた女の両手がおずおず離れかける光景に、我に返った吸血鬼は、狂おしいほどの憎しみ――あくまで本人の中ではそう言うことになっている――を霧散させ、慌てて片手だけでも掴んで引き止めた。それでも本音は話せない辺り、この男、あらゆる意味で頑固である。
「ただお前があれほどその、……執拗に揉み解してくるのは、少々、精神面で悪影響を及ぼすと言うか……」
「……つまり、執拗に揉み解してくるのは気分が悪い、腹立たしいと?」
「違うわッ! 刺激に問題はないのだが、お前のその態度がなんと言うか……」
「気に食わない、と仰りたいのね」
 違うのだと音が鳴るほど頭を振る。あのときどんな形相でいたのか、本人の自覚がないのがこの場の不幸だが、あいにくどれほど悔いようが過去の事実は覆せぬ――しかしこの誤解はまだ修復できる。そのはずだ。
 そう改めた彼女の横顔は予想よりも落ち込んでいなかったものの、眉間に刻まれた皺は深く、唇は真一文字に引き結ばれて、ご機嫌斜めには違いなかった。多分、小娘どものように甘味なぞでは釣れそうにない。
「……アルティナ」
「…………」
 返事はない。彼の手に掴まれた五指さえ無反応で、それほど深刻に落ち込み、ついでに怒っているらしい。自業自得だが厄介なことだ。
「お前の気遣いは嬉しく思う。技能についても問題はない。声を出す出さないの姿勢についても、お前の発言が世間一般の見解だろう。だがその……男と言う生き物は、どうしても意地を張ってしまうものでな……。特にそんな声は情けなかろうと思うと、そんな声を出しかねない自分が自分で許せなくなる」
「身体の素直の反応として出てしまう声なんですから、情けないも何もないと思いますけれど?」
 下手な言い訳を聞かされた娘は、いかにも納得いかなさそうな表情で口を開く。重なる指に力が宿り、吸血鬼は確固たる反応を得られたことに密かに喜びながらも己の主張を貫こうとする。
「それは重々承知している……! だがそれでも意地を張ろうとするのが男であって!」
「殿方全般ではなく、あなただけのような気がしますわ……」
 ばれた。
 躊躇いながらも隠そうとしたことをずばり指摘され不意に舌でも噛んだ面になる青年に、天使はそっと上目遣い。幸いもう怒りは薄くなったようだが、かと言って機嫌が完全に治った訳でもなさそうに、軽く身を乗り出してくる。
「……でしたら、ヴァルバトーゼさん。あなたは別に、マッサージやわたくしの態度が不快と言う訳ではなかったのね?」
 頷く。当然だと己の意気込みを伝えるべくしっかりと。
「なら、続けてしまっても構いませんの?」
 また頷く。性分的に中途半端に終わらせること事態好まないが、何より彼女にもう触れてもらえないなんて勿体無いことこの上ないから。
「けれど、またあんなお顔をなさるおつもり?」
「しないように努力はする。その、かと言ってやはり声を出すのは……」
 恥ずかしいから身悶えしてしまうだろう。間接的にそう告げると、気が重そうに嘆息されてこちらもまた居心地が悪くなる。
「わかりました。あと、一応確認したいのですが」
「ん?」
「本当は痛みしか感じなくて堪えていたりは……」
「いやそれはない」
 それならもう少し悶絶しなかったはずなので即答するが、これだけでは完全に誤解が払拭できないかもしれない。となるとやはりあれも自分の口から言ったほうがいいのだろうと判断した青年は、少し顔が赤くなっていく実感を持ちながらもどうにか。
「……と言うかだな、…………良かった」
「はい?」
「き、気持ちが、良かった」
 告白に成功すると、その言葉をどう受け止めたものやら。今度は天使のほうが頬を紅潮させてしまい、ついで穴があったら入りたそうに首を竦ませた。
「そ、それは、……ありがとう、ございます……」
 掻き消えそうな返事に、ゆるゆるとした温かみが胸の奥に充ちてくる。
 感想を述べてようやく吹っ切れたのか。突如として今度はマッサージに耐えられそうな自信が生まれ、さりげなく右腕を差し出せば慌てて受け取られた。更に視線で促してようやくマッサージを再開され、なんだかさっきまでのお互いの心境がそっくりそのまま入れ替わったような。
 けれど彼女は揉む側だから、先の彼のように過敏に反応してしまったり、それを堪えようとはしない。そのはずなのに、軽く唇を噛んでいるのは何故か。指の動きが以前に比べてぎこちないのはどうしてなのか。
「……ん、……んっ」
 その上、今まで全く耳に入ってこなかった力む声まで聞こえてきて、青年の胸が驚きとともに甘酸っぱく締め付けられる。もしかして今まで自分はこの声さえも聞き逃していたのか。だとしたらなんて勿体無い。
 相変わらず華奢な五指から与えられる刺激はほのかに痛いが絶妙に快く、病みつきになってしまいそう。しかして彼は以前のように悶絶することもなく、肩から余計な力を抜いて深呼吸する余裕さえ生まれていた。
 その上で瞬きも少なく天使の指の動きを眺める。丁度手の甲から手のひらへと裏返したところで、次の動きを思い出し、またその通り動いて自分の手を揉む五指の感触を改めて味わう。
 落ち着いてみれば、彼女の指に自分の指を一本ずつ挟まれるマッサージは悶絶するほどではなかった。ただ細指の柔らかさを堪能できるのはやはり素晴らしく、別種の欲がむくむくと頭をもたげそうになる。
 欲求だろうが妄想だろうがそれは止めておこうと手入れが完全に済んだ片手を口元に持っていけば、やけに香しい。眉をしかめた吸血鬼に、天使が高い声を上げた。
「カモミールはお気に召しませんでした?」
「いや……そう言う訳ではないのだが」
 恐らくはこんな芳香を放つであろう花の名前を知り、一つ賢くなった青年はもう一度嗅いで忌憚ない感想を述べる。
「やたらと華やかで俺には合わん。無香料はなかったのか?」
「あとで拭えば、匂いも薄くなると思います。もう少しお待ちくださいね」
 こっくり首肯した男の指と指の間に、女の親指が滑り込む。今度こそ終わってしまうのかとうら寂しくなった青年は、ふと最後の段階を思い返してとある欲求を胸に生みだした。
 最後の手首をゆっくり回すストレッチは、確か手と手を重ねあい、あと少しでも手のひらの角度をつければ相手のそれに密着できそうだったはず。
 そう言えば触れてくるのは指ばかりで、手のひらの感触はいまだ知らない、わからない。ならばあそこも指と同じくらい柔らかく温かいのだろうか。見た限りではパン生地めいて柔らかそうだが、それだけでは確証なんてつかめない。
 ならば確かめよう。彼女の指だけではなく、手のひらまでも堪能しよう。できれば手首の細さも腕の華奢さも二の腕の肌触りも肩のなめらかさも総て実際に触れて知り尽くしたいけれど、今はただそこの感触だけを。
「……ん」
 強く願っていたせいで油断していたのだろう。親指の付け根より下の筋肉を揉まれて、やわい痛みと快感に声が漏れた。
「あ……あの」
 声を出させてしまったことに罪悪感でも生じたか。娘が悪戯が見つかった子どものように小さく飛び上がるも、彼は気にせず首を横に振る。今はそれよりも、もっと大切なことがあるから。
「いい。続けようが続けまいがお前の好きにしろ」
「は、はあ……では……」
 一応続けることにしたようだ。ゆっくりと親指に力を籠め、丁寧に筋肉の凝りを解していく。しかしさっきと比べれば籠められる力は少し軽くなっているようで、声を出させまいと向こうのほうが気を配っているのだろうかと思った青年は頭を上げて話しかけた。
「遠慮なく、やっても、構わん、ぞ?」
「……え、遠慮などしていませんわ。あなたの気のせいではなくて?」
「そう、だったか?」
 思い切り視線をそらされながら答えられても説得力はあまりない。
 しかし今の彼にとってはそんなことどうでもいい。早くはやくあの手のひらに触れたい。柔らかさを確かめて、温かさを確かめて、そこさえも気持ちいいのだと疼く心に示してほしい。
 はやる男の胸のうちを、天使が知れようはずもない。ただ彼女は彼女なりのペースで親指の付け根を解し終わり、最後の仕上げとして手首のストレッチに移行させようとする。
「こうか」
「あ、はい」
 誘導するより先に肘を台に乗せられて、そんなに早く終わりたかったのだろうかと少々落ち込みながら彼の指の隙間に自分の五指を埋め、相手の手首を固定しながらそのまま何度かゆっくり旋回。
 それも難なく終え、さてこれで彼の手に触れられるのも最後だとほんの少しだけ寂しくなりながらも手を離すつもりでいたのに。
「……え?」
 男の指が女の手の甲に食い込む。そのままがっちりと手首を固定され、引きはがそうとしても離れない。離してくれない。
「なっ……何を、急に……」
 見上げても、彼はこちらに視線を合わせてくれなかった。ただ捕らえられた彼女の手に瞬き少なく視線を注いで、彼の手のひらに彼女のそれをすりつけるよう深く手を食い込ませる。まるで、そう。睦む男女の手の相好を連想させるように、深く。
「……ぁ……!」
 なんてはしたないことを連想してしまったのかと。自分で自分の思考が信じられず慌てて俯いた彼女に、静かな男の声が降り注ぐ。
「……アルティナ」
 優しく話しかけないでほしい。今も手をしっかりと掴んだまま離さないくらい強情なくせに、どうして声だけはそんなに落ち着いているのか。
「アルティナ」
 もう一度、泣く子を宥めるような声で。彼女の好きな、少し困ったふうな低い音程。何度も聞いていると、どうしようもなく甘えたくなってしまう声音で。
「……驚かせて悪かった」
「…………っ」
 息が掠れるくらいの耳元で囁かれてしまい、反射の勢いで頭を上げる。同時に音もなく彼が距離を取り、その手も彼女の手からするりと離れ、残された女にこみ上げるのは、ほんのわずかな寂寥感。しかしそれは素早く包み隠される。
「……いえ。わたくしもこんなことで……その、ごめんなさい」
「謝らずともいい、そのつもりで掴んだからな。……いや、ある程度の予想はしていたが、ああして縮こまるお前の姿はなかなかに新鮮だった」
 顎に手を添え悠々と笑う男の姿は普段通りで、そう言うことだったかとつられるように彼女も肩の緊張を緩めていく。変なことを想像しかけた自分を誤魔化すつもりですぐさま立ち上がると、小さなタオルをぬるま湯ですすいでお絞りを作った。
「……あまり褒められた趣味ではありませんわよ」
「悪魔が悪趣味なのは世の道理。それにやられっぱなしは気に食わんのでな」
 ひっそり納得しつつ対面にお絞りを渡せば、男は丁寧に自分の手を拭っていく。本来ならそこまで彼女がやるべきだったのに本人に任せてしまたのは、さっきのあれを引きずっているからで。
「……まだ匂いが完全に消えた気はせんが。まあ、よかろう」
 お絞りがひょいと返される。両手で天使がそれを受け止めた直後、衣擦れの音が保嫌所に大きく響いた。上着を羽織り、外套を身につけて、たかが腕のマッサージ程度で随分と手間をかけさせてしまったと再びの申し訳なさが喉奥からせり上がってきた彼女は、丁寧に頭を下げる。
「けれど……本当に申し訳ありませんでした。色々と、お手間と時間を取らせてしまって……」
「だから謝らずともいいと言っている。俺のほうが世話になったのだ、お前はそのまま堂々としていろ」
 素っ気なくも励まされ、少しは気分も上昇する。そう控えめに微笑み請求書を取り出した娘に、彼も口元だけ薄い笑みを作って一対の手袋を手にした。
「……それとな、アルティナ」
「はい?」
 最初に左手にはめて、皺がないよう極限まで引っ張る。状態をまじまじと確認したまま、彼女のほうを振り向きもせず吸血鬼は続けた。
「爪の世話をされるのは思ったより悪くなかった。礼を言う」
「そう言っていただけると、押し売りをした甲斐がありましたわ」
 続いて右手。戦闘に耐えられる厚みと書き物をしても邪魔にならない薄さを持つ不可思議な布に包まれた指が、確かめるように虚空を掴み。その握り拳を眺めたまま、男の口が薄く開く。
「……次」
「は?」
「次も伸びたら……また、お前に……」
 ぶっきらぼうな、少々裏返り気味の、語尾すら途切れた情けないものだがそれでも彼女にとっては十二分に嬉しい言葉が、幻聴でもなく耳に届いて。
 全くそんなこと期待してもいなかった天使は、まさに喜色満面の笑みで頷いた。
「はいっ。そのときは、遠慮なく仰ってくださいねっ」
 輝かんばかりの笑顔をちらと目にした青年は、頬をほのかに血色良くさせて再び手袋のほうに目線を戻す。集中する必要のない状況にも関わらずそちらに首を固定したままなのは、つまりそう言うことなのだろう。
「い、いや遠慮はさせろ……。あとマッサージは軽くでいい」
「あら、慣れたのでしょう? 折角ですからたっぷり味わってくださればよろしいのに」
「いらんわそんな気遣い。……全く、調子に乗りおって」
 苦々しげだが頬が赤いままの横顔に、どうしようもなく女の胸の奥が疼く。浮かれていると自覚しながら、天使は請求書に金額を書き込みつつわざとらしく声を上げた。
「なんのことかしら? わたくしは純然たる善意によって奉仕させていただいただけですのに」
「自分で善意を強調する女の善意が信じられるものか」
「もう。酷い仰いようですこと」
 白手袋が請求書を受け取ると、そのまま紙はズボンのポケットに収納された。流れでドアノブに手をかけると、彼は背後で微笑む天使のほうに軽く振り返る。
「……ではその。またいつか、頼む」
 短く告げると、女は改めて花が咲いたような笑顔で頷いて。
「はい、お待ちしています。お大事になさってくださいね」
 ドアが開く。ふたりの名残惜しさを押し隠し、外と内とを繋いでいた木の扉が完全に閉まったそのときには、お互いの姿はすっかり見えなくなってしまったけれど。
 お互いたっぷりそばにいて、眺めて話せて触れ合えたのだからすぐに不満は出すまいと、それぞれの業務へ取りかかろうとしっかり思考を切り替えた。
 そうともそれにまた今度、彼の爪が伸びたそのときに、ああして向かい合い触れ合えると約束したのだから。
 その日を今から心待ちにしつつ、その日が来るまでになんらかの進展があればいいと思う。反面、今回と全く変わらないのであればそれはそれでいいとも思ってしまうのは、さて男女の一体どちらであろう。






後書き
 ネイルケアマッサージでらめえしたので閣下もらめえしてもらおうと思いましたまる これが噂のステマってやつね!
 手のイチャイチャが好きなのでたっぷりそれについて書こうと意気込んだのに丁度スランプもどき入って単調でテンポ悪くてぐんにゃり。
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