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ご到達

2012/04/13

 『暴君』の行進は淡々としたものだった。
 ときに配下を増やし、ときに眷属を敵に特攻させ、一行はそぞろ歩きの速度のままで大統領府の頂点を目指す。
 一行、などと言ったところでまともに生きているものはたったのふたり。黒い外套に黒い髪、死人さながらの青白い肌に黒い礼服の中世貴族然とした青年と、桃色の髪と薄青の瞳、月光石の艶を宿す裸の背から更に輝く純白の翼を生やした、黒薔薇を模した礼装に身を包んだ娘のひとりずつ。
 腕を組んだ一組の男女が、魔界で最も贅を尽くした大統領府の黒大理石と金細工と紅絨毯の廊下を、階段を、踊り場を歩く姿は一見すれば絵になる光景だろうが、それより目を引くのは彼らの背後。
 女の後ろに棚引く黒いドレスの裾に触れない程度の距離を開けて、タイピン代わりに角を一本、胸に刺し飾る死告族が続く。その真横には首が捻れ、まさに首の皮一枚で頭と胴が繋がっている邪竜族、背中の羽をもがれたのと手前の片腕を顎で貫かれているのも続いて合計三匹。すぐ後ろには胸に大穴を開けた猫娘族、頭をかち割られた樹巨人族、一歩ごとに破片を蒔きながらもどうにか原形をとどめたひびだらけの魔獣族に、羽を一枚と腹から下を潰されても器用に飛ぶ魔翔族。怪鳥族も鶏冠やら尾の蛇やらをもがれ潰され引き抜かれたのがそれぞれ痛々しくも続々と。猪人族も寝子猫族も皆、血の色に己を染め上げ、屍一歩手前の状態を奇跡的に保ったまま、人型の男女の歩みに悲痛な呻き一つ漏らさず続く。
 悪魔は元来不気味なもの。闇の使者として、人間どころか他種族の悪魔相手にでさえ恐怖を与えるのが彼らの原則的な使命であり意義である。
 だがそれをも超えたこの禍々しさはなんだ。粘着音と極彩色で描かれた、世にある亡者の行進と称された絵画や空想の中でさえここまで酷く生々しく馬鹿馬鹿しく、何よりも正気を疑う行進はなかろう。血生臭い臭いと内臓の生温さと霊安室の冷気が同居する、矛盾したが故に眩暈を催し、今自分が生きている世界に存在する事実を頑なに拒絶したくなる光景はなかろう。
 それほどまでにおぞましい一行は粛々と黙々と、虚ろに死した表情で、どう見たって動かすことさえ無理な肉体なのにさも当然のように肉と骨を動かして、風さえ起こしながら一組の見目麗しい男女のあとを追従する。
 これが不特定の目に晒されなかったことは、重畳の極みと言うべきだ。
 人間どもにこれを見せればあるものは最後、猛烈な吐き気を催しそのまま意識を失うだろうし、辛うじて意識を保ってしまえるものがおれば胃の中のもの全てを吐き出してもこの光景が目に焼きついて瞼の裏から決して離れず、不眠と飢餓の日々を過ごして衰弱のうちに死ぬだろう。それとも現在とは全く別の感性と理屈の世界に一つ跳びで到達し、そこから帰る方法もなく残りの生をいたずらに過ごすか。どちらにせよ『畏れ』エネルギーが発生するどころの話ではなさそうだ。
「……まあ、今の余には関係のない話か」
 呟きは仄暗い部屋に響き渡るのみで、反応を寄越すものはどこにもいない。
 無数のモニタの中の一つに映し出される腕を組んだ男女は、肌は密接しているはずなのに漂う空気は硬質で、口元が動くことさえ数えるほど。敵の懐で緊張感を持つのは当然だが、いつかの天使の娘が仲間とともにここにやって来たときを思い返せばやはり不自然ではあった。
 あのときはふたりではなかったからか。背中に頼もしい仲間ではなく、男の不気味な眷属を従えることが娘にあんな表情をさせるのか。それとも別の理由があるのか。
 こめかみに添えていた手を動かしたところで、脇に置いてあるシャンパンクーラーの氷が解けたか、がらりと大きな音が耳に届く。その音でまた考えを脱線させてしまったと我に返り、栓を開けて以来さして口にしていなかった細いグラスの、気が抜けた酒で喉を潤し、天鵞絨の肘掛けに深く背を預ける。長らく同じ姿勢でいたせいか、少し肩が凝っていた。四百年近くこの椅子に腰かけておきながら、何を今更と口元が緩む。
 だがそう思ってしまうのは、やはりこの座が他人のものになったと自覚しているからか。
 他人の居場所を拝借するとなればいくら贅を尽くしていようと精神的な据わりは悪い。かと言って落ち着かないかと問われればそうでもなく、丁寧に洗い清められたように凪いだ心は変わらない。
 否、僅かに心は昂ぶっていたか。もう暫くすれば、これまでこの身に屈辱を刻み焦燥に削り諦念に染め上げ罪悪感に腐らされた諸々が昇華される。そう意識すれば秒単位で時間が縮まっていくことに、大いなる悦びさえ感じるほど。
 多数のモニタの最上部分、左から二番目に映っていた男女――より正確には男だけ――がまたこちらが差し向けた悪魔を易々と屠ると、娘に再び腕を絡めさせ移動を再開する。殺された悪魔は半自動的に手下に加えられたが、彼はそちらを振り返りもしない。
 それから三分もしないうちに男女が左隅のモニタに現れたのを確認すると、モニタを閉じるようパネルに指示してからよっこら膝に力を込めて、長きに渡る相棒の大鎌を手に立ち上がる。それと同時だった。
 乱暴な音を立てて扉が開く。
 どうやら客人はノブを強かに蹴り上げたか、純金のそれはひしゃげ、観音扉の真ん中はそれぞれ片方ずつ半円型のクレーターを作り上げていた。客人として最低限の礼節くらいは弁えてほしかったのだが。
「『死神王』ハゴス」
「……うむ」
 空気も震えるほどの怒気を孕んだ青年の剣幕に、名を呼ばれた男、ふたりを招待した元魔界大統領にして苦悩の賢君『死神王』は思わず笑ってしまう。
 四百年前、この吸血鬼と初めて見えたときも、昨今政拳奪取を目的にこの執務室に足を踏み入れられたときも、ここまで刺々しく攻撃的に、呪詛の念さえ感じ取れるほどの迫力で名を呼ばれたことはなかったからだ。
 それほど相手を怒らせてしまったとは――良かったような悪かったようなと複雑な気持ちのまま、男は書斎机を通り越し、部屋の真ん中まで移動すると朗々と声を張り上げる。
「よくぞここまで辿り着いた、『暴君』ヴァルバトーゼ。あの悪魔どもは現在人間界で残されている畏れエネルギーを全てつぎ込んだ強者であったろうに、それさえああも容易に退けるとは」
「こいつらがか?」
 完全に嘲る調子で、青年は背後に軽く首をやる。同時に魔力の流れを切り替えたか、あの不快な屍の兵隊たちの姿勢が揺らぎ、次の瞬間、土砂崩れの勢いで彼らの肉体そのものが崩れ朽ちていった。
 むわつく血と臓物の悪臭に、長らく鼓膜に染み入りそうな生々しい物音がふたりの隙間から無遠慮に響いてくるも、男の腕を解き軽く俯いたままの娘のドレスには血の一滴も届かせない辺り、女の扱いは忘れない程度に冷静らしい。
「確かに個体で見ればそれなりだったがな……結束力もなければ気迫もない、なんとも物足りない連中だった。所詮、出来がいいだけの木偶人形よ」
「それはすまなんだな。しかしこれからお前が戦う相手は明確な意志と思考がある。多少の手応えは感じるであろうよ」
「ほう……?」
 男の言葉に、青年は軽く満足を覚えたらしい。
 ここまで散々煽っておいて弁明に徹するほどの腰抜けと思われていたとしたらさすがにこちらを見下しすぎだと男はささやかに立腹する。が、直後こんな真似をしていればそう思われるのも仕方ないかと納得し、口元には苦い笑みが刻まれた。対する青年も笑みを作るが、こちらは晴れ晴れとした凄惨な。
「実に殊勝な心構え、嬉しく思おう。噂に名高き死神王が、ことここに到るまで保身に徹する下衆であろうものなら、俺はこの手で殺すことさえ厭うたからな」
「それはこちらも困る。お前が倒したクローン悪魔は先で丁度最後だ。お前が余と戦わぬと言うのなら、自然、そこな天使に相手をしてもらうことになろう」
 唐突に話の輪に入れられて、それまで人形のようだった桃色の髪の娘が顔を上げる。生気を失っていた彼女は衝撃に目を見開くことでそれを取り戻し、続いてゆっくり、信じ難いとばかりに眉間に皺を寄せて更なる意思と感情を浮かべた。
「……では。まさか」
 白い肩が尖るほどに竦む。眉根の間の皺をより深くすると、男たちのほうへ身を乗り出して彼女は叫んだ。
「でしたらあなたは、この方に自分を殺してもらうためにこんな真似をしたのですか!?」
「そうなるな」
 誤魔化す気もなくあっさりと頷くと、暴君の殺気が微かに揺らぐ。しかし娘の動揺はそれ以上だった。
「どうして!? 魔界に未曾有の危機を招いた人間は、今は罪を償うべく働いています。あなたは被害者の一人に過ぎないでしょうに……!」
「かと言って、あの人間に荷担した余の罪が消えた訳ではない。……取引に応じ、あのような意志も誇りもない悪魔を生み出したのもまた、余の罪となろう」
 死神王の深く重い断言に、娘の肩が引きつった。
 その理由を青年は知らない。過去は人間だったこの娘が当時何をし、結果どんな悲劇が生まれたかも知らないこの彼には、思い当たる節など一切ない。
 そのため後ろに意識を向けかけた吸血鬼は、しかし眼前の男の声にすぐさま視線を引き戻させられた。
「……ヴァルバトーゼはよくやっている。魔界は少しずつ『畏れ』エネルギーを取り戻し、生産されるプリニーの数も減少傾向。人間界との関係も正常になりつつある。しかし、だ」
 ぎり、と大鎌を持つ手が力む。
 大統領府の最上階にして最奥に位置する執務室で、魔界では世にも名高き『死神王』と謳われ、かつては悪魔もその名を聞いて震えおののく『暴君』と対等に渡り合った死告族の覇王は、呵々と嗤った。
「あれは真の支配を理解しておらぬ。障害として現れたものを叩き伏せ、前を見据えておればそれでいいとさえ思っているのだろうが……ははっ、甘い。実に甘い! 身内に敵などいないと思うたか! 既に通った道が崩れぬと、何の根拠もなく信じているのかあの青二才は!」
 深紅の部屋に響く高らかな笑い声は、尻の青い小僧を嘲笑っているようでも、その甘さを微笑ましがっているようでもあるが、それ以上に耳にして、娘の胸にこみ上げてくるものがあった。
 知らず、詰め寄ろうとした一歩がもとの位置に戻り、息を呑んだ喉の動きで、肩より下が緊張で強張っていると自覚させられる。
 そのくらいには恐ろしかった。なのに胸を張り、堂々と哄笑する男にどうしても目が離せない。強烈な引力を感じるせいで。
 頭ではなく心で、この眼前の男は支配者なのだと、年若い天使は思い知らされる。
 四百年間、少しずつとある人間の手により歪められ弱められてはいったけれど、それでも確かにこの悪魔は、この魔界で最も強く最も優れた、悪魔の中の悪魔として君臨していた存在なのだ。
 彼女は全盛期のこの死神を知らない。なのに今、その片鱗をはっきりと叩き込まれ戦慄する。今でさえこんな調子ならば、本来の魔力が戻ればこの悪魔はどれほど恐ろしいのか。――ああそして、あの誰よりも気高く生真面目な吸血鬼は、それほどまでに強い悪魔と対等に渡り合えたのか。
「覇道とは、清きも穢れも総て呑み干し、過去も未来も見据えた上で築き上げるもの! 魔力を失っても尚貫き続けた己の誇りのため、地獄の底から這い上がり、見事政拳奪取を果たしたその姿勢は確かに賞賛に値しよう。しかし今後降りかかる問題は、今まで通り下手人を叩きのめせばそれで解決するほど単純ではない!!」
「だとしても、貴様があの悪魔でさえない連中を俺に差し向けた正統な理由にならぬ」
 熱弁を振るう死神王に、冷や水を引っかけるのが当事者ではないにせよ本人であるこの事態は一体どんな運命の悪戯か。しかし全く動じもせず、男は黒い外套の青年へとゆっくり熱気を孕んだ視線を注ぐ。
「……四百年前から現れた唯一の余の好敵手よ。今までの働きに免じて教えてやろう。これは余が残した負の遺産を、直接あれの手を煩わせず、しかしあれに覇道への疑念を植え付けるための後片付けだ」
 その片付ける対象には、自分の命も含んでいるのかと、招待を受けた男女は密かに思いを巡らせる。
 確かに地獄党が政拳奪取を果たしたとは言え、大統領の座を運で手に入れた悪魔に内政能力は皆無。実務を執り行う現与党は、野党の協力に頼っているのが現状だ。
 その野党の頭たる元大統領もまた、現政拳の『畏れ』エネルギー回復を最優先すべきとの主張に同調しているため協力体勢を徹底している。――翻れば、魔界が正常化すればまたこの悪魔が返り咲く可能性があり、それを期待する層は少なからずいると言うこと。
 何せこの悪魔は敗れはしたものの見事生き延び、また政治から完全に遠のいている訳でもないのだから。
 悪魔とは冷酷にして貪欲な生き物だ。政拳交代の瞬間やその背景を知らない外野は『死神王』が生き残った以上、再び頂点を目指すのが当然で、公式の場で発言された息子にかける期待とやらも傀儡政治と捉えるのが大半。
 外野の勝手な期待など当事者たちとっては鼻で笑う価値もない代物だが、だからと言って放置していればいい話、でもない。少なくとも、自ら死なねばならないと、この統治する時代だけが悪かった賢君が腰を上げるような出来事が起きたのは間違いなさそうだった。
「四百年前の『暴君』が現れたとの噂を聞いたときは何事かと思うたが、引き際を失った我が身には絶好の機会であった。余の犯した過ちを、余の命とともに過去のあやつに昇華させるなど、奇跡に近い幕引きではないか!」
 そしてその報告を受けた現在の党首はどんな反応を寄越すか。過去の自分に過去引き分けた男を殺すよう差し向けてしまった悪魔は、後悔するのかどこまでも愚かな奴よと呆れるのか、それとも――。
 何にせよ変化は起きるだろう。この中で最もあの痩身の吸血鬼に興味を持たない吸血鬼でさえそう確信するのだから、それは間違いない。かと言って、彼は眼前の男を肯定するのも癪に障るため些細な反論を口にする。
「あれを片付けたのは俺だ。貴様はここで偉そうに座っていたに過ぎぬ」
「お前に片付けさせるよう仕組んだのは余であろう。……ふふ、ここにこぎ着けるまで、なかなかに骨が折れたのだぞ?」
 小さく肩を揺らして笑う死神王は、言葉の割に妙に楽しげで。
 昔の苦労を振り返るような表情に、愕然と二人の男のやり取りを見つめるしかできずにいた娘の背筋が震える。これではまるで、死に際の懺悔ではないかと。
「人間界でクローン悪魔を所持する連中と秘密裏に連絡を取り、あ奴が残した唾棄すべき悪魔どもの残りを確認、その後全てを買い取った。加えて人工畏れエネルギー、それらをクローン悪魔に注入する諸々の費用。大統領府を貸し切り、プログラムを施したクローン悪魔どもをここに運搬するのも……いやはや。当初の見通しよりも実に大がかりになってしまってな」
 口元に晴れ晴れとした笑みを滲ませたまま、紫紺のスーツに身を包んだ男はぽつりと呟く。
「……多くの部下にも迷惑をかけたが、あれらは結局余の要望に従ってくれた。余は、果報者だ」
 染み入るような喜色に満ちた告白に、招かれたふたりは理解する。四百年間この魔界を統治した魔王が、多額の金と時間と手間をかけて、ここを己の墓場にしようとするその固い意志を。
「……ふん」
 男にとって『死神王』は、噂に名高き名君であり、しかし人工悪魔などを自分にけしかける卑怯な愚かもの。その程度の認識でしかなかったのに、今の彼の胸の奥にはまた別の感情が芽生えていた。
 多分にそれは感心であり、また嫉妬とも言い換えられる。自分の性格を把握した上でいいように操られたことは不快だが、それでも己の具体的な目的のために付き従ってくれる仲間がいるのは単純に羨ましかった。
 財力も仲間以外の他者との繋がりも、今まで自分には不要なものだと捉えていたのに、成る程、そんな話を聞いてみればどちらも必須。仲間は僕一人きり、金や仮初めの権力、その他ろくでもないものを餌に傘下に入るよう勧誘し、矮小な虚栄心から喧嘩を売ってくる愚かな悪魔たちを蹴散らすばかりの我が身と比べれば、この忌々しい死神は確かに正しい支配者なのだろう。
「いいだろう、死神王。……俺に支配の手本を見せてくれた礼だ。その願い、今ここで叶えてやる」
「それでこそ余の好敵手。……感謝しよう」
 黒い男は弓月めいた笑みを浮かべ、魔力を宿した白手袋の片手を構える。
 古代紫の男は獰猛な獣めいた笑みを滲ませ、幾多の血を啜っても冴え冴えとした白銀の大鎌を構える。
 その二人から離れた位置でただひとり、逆さまにした黒薔薇の衣装に身を包む天使の娘は己の無力を噛みしめるように俯いて――俯いたまま、ゆっくりと両腕を上げた。華奢な黒手袋に収まるのは、十字架を模した黄金銃クルセイド。
「……助けは不要だ、娘」
 今までの道のりでもそうだったろうとやんわり諭す気も含めて背後へ視線をやった黒髪の男は、だがそこで違和感を抱かされる。
 何故ならば天使の向けた銃口が、自分のほうに真っ直ぐ向けられているように見えたから。そんなはずはないのにどうしてと疑問を抱いたところで、声が。
「勘違いなさらないで。わたくしが止めたいのはあなたです」
「何?」
 押し殺した言葉の意味を理解するより先に、娘の小刻みに震える腕を目にして彼は瞬時に納得する。
 娘は決死の覚悟でこの男を殺してくれるなと乞うているらしい。慈悲深き天使ならばそんな行動はわからなくもないが、今回ばかりはおいそれと聞き入れてやる気にはなれず穏やかに宥めようとして。
「天使の、女のお前には理解できんだろうが……。これは誇り高き悪魔にとって」
「悪魔だろうが天使だろうが男だろうが女だろうが関係ありません」
 きっぱりと否定される。
 発言を途中で遮られた青年は、内心少しだけ苛立ちつつも駄々をこねる娘を説得すべくそちらに体を傾けた。
「……いいか、娘。奴は俺に殺されるためにこの場を用意し、俺もまたこいつを殺す気でいる。両者の意見は合致したのだ。お前は……」
「あなたがたの意見などどうでもよろしい」
 顔を上げた娘の薄青い瞳が宿すのは、憤怒。
 赤をも超えた灼熱の青いかぎろいは今まで目にした表情のどれよりも強烈な何かに満ちており、そんな表情をされるなんて完全に予想外だった吸血鬼の体に知らず緊張が走る。――誰に。どうして。この娘を相手にそんなもの。まさか。
 戸惑う青年などいっかな気に留めず、天使は彼に銃口をぴたり合わせたまま昂然と告げた。
「あなたがたの高邁なご意志や誇りとやらは、わたくしには単なる自己満足としてしか受け取れませんでした。自己満足で死のうとする人は見逃せませんし、それに則り殺そうとする人は尚更です」
 口調は詩を詠むように涼しげで、薄青い瞳だけが娘の内で燃え盛る激情を示してぎらつく。
 けれど言い換えればそれだけだ。視界に入るもの全てを射竦めかねない眼光以外、可憐に整ったかんばせはあくまで可憐なまま。般若のような末恐ろしい形相に転じていないのに、彼は刻一刻と天使の娘の姿に余裕を削り取られる。動揺している。どうして。何故。
 銃を構えたままの娘は、男がその気になれば呆気なく手折られるだろう細首を震わせ、それでも腹の底から声を出す。
「あなたがその方を本当に殺すと言うなら、その前に……わたくしがあなたを殺します」
 胸の杭に稲妻が突き刺さる。
 痛みと衝撃に冷静さを取り繕う余裕もなく、青年は反射的に首を横に振り叫んだ。
「止めろ。返り討ちにしかねん!」
「それならそれで結構ですわ。何もせずただ突っ立っているだけよりも、結果的にあなた方を止められるならば、わたくしは殺されたって後悔しない」
 しかし娘は脅しに屈しない。それどころか屈してたまるかと言わんばかりの覚悟を決めた表情で、銃口を彼のほうへと構え直す。
 ――そんな、こと。本気なのか。あの数多く向けてくれた自分への優しさは、『死神王』の命に比べれば吹き飛ぶほどのものでしかないのか。
 大いに歪んだ青年の眉の皺の意味を、恐らく娘は理解し得まい。しかし彼女は、彼の望みとはまた別の意味で冷静だった。
「……ハゴス様。ご子息にはこのこと、説明なさいましたの?」
「しておらぬ。だがそれがどうした」
 低く響く声に迷いはない。
 情に訴え未練を引き起こさせようとする考えを簡単に見透かされ、娘の眉が微かに軋んだ。
「あれは余の力を借りずに大統領を目指すと告げた。余はその意図を汲み、魔界に戻ってからあれに一切手を貸さぬよう努めてきた。ならば、余が死んでもあれにさしたる影響はあるまい」
「まだ彼は子どもです! 大統領を目指す修行とは別として、大人の、親の手を借りねば……」
「今でこそあれは上層区から地獄に通っているが、地獄にもあれの部屋はあろう。面倒はそちらで見るか、それとも実家で残された家族と暮らすか……いくら子どもとは言えそれくらいは選べる」
「ですが……それでは!」
 下唇に真珠の歯が食い込む。
 赤葡萄酒色の唇からまた別種の紅がぷつりと滲んだが、拭うどころか存在に気付きもせず、天使は必死の相で叫んだ。
「エミーゼルさんにとって、憧れていた英雄その人が親の仇になってしまいます! 仲間どころか憧れの人物が親の仇になるなんて、幾らなんでも残酷だと思わないのですか!?」
「ほほう、確かにそうなるな。しかしそれもまた一興。……仇を討つか諦めるか許すかはあれ次第。その葛藤もまた、あれの成長を促す要素の一つとなろう」
 死神王の冷酷で他人事めいた応答に、娘の眉とは言わず顔全体が、陶器に鑿を一突き入れたようにぎしりと歪んだ。
「勝手なことを仰らないで! そうしてエミーゼルさんが復讐の道を選べば……!」
「あれが返り討ちに遭えば、個人的な事情によるものだろうと党内で内部抗争が起きたことは紛れもない事実となる。それにより党員間の結束が揺らぐ可能性もまたある」
 その通りだと、天使は強く頷いた。問題はそこまで想定していながら、眼前の紫紺のスーツの男は頑として揺らがないこと。
 緊張感で軋みそうな二者とは違い、柔らかな顎髭の髷に人差し指を潜らせる余裕を垣間見せながら、娘の視線をひたすらに浴びる男は悠々と未来の仮定を語り続ける。
「その逆はまかり間違ってもなかろうが……この吸血鬼が情をかけ一太刀浴びせる程度で済んだとしても、やはり党内の空気は以前と異なろう。良い方向に転べば、あれは不敗の『暴君』に一矢報いた死神として魔界に名を馳せるやもしれん。そうして自ら党を設立すれば、大統領の座も近付こう」
「どうなろうとも、魔界中が『畏れ』エネルギーのために揃えてきた足並みが乱れることには変わりありません! それどころか下手をすれば、魔界中が混乱に陥るかもしれない……自分の死が魔界復興の障害になるなど、あなたの本意ではないはずです!」
 娘の言葉は紛れもない事実だろうに、男は微かな笑みさえ含んでこう述べた。
「しかしその混乱を治めるのが、党首の仕事ではないか」
 娘の顔にまた新たなひびが入る。今度は怒りからではなく、強く走った衝撃によって。
「あやつが真の支配者として相応しい器の持ち主なら、党内における内部抗争の一つや二つ、憂いを残さず処理するであろうよ。むしろそれくらいこなせずにおれば党首の肩書きなど背負うべきではない」
 確かにそれは党首の仕事ではあった。
 憧れていた英雄に敬愛する親を殺された党員の気持ちを汲むのも、その英雄に相応の対処を施すのも、党として元大統領の死に対する姿勢を示すのも。葛藤の結果、何らかの判断を下したその党員にとって最も適切な措置を取り、彼が満足できる結果を残せるように環境を整えてやるのも。
 けれど彼女は、そう理解していても具体的な想像などできなかった。したくなかった。
 痩身黒髪の悪魔、常に背筋を正し胸を張るあの気高く真っ直ぐな吸血鬼が、党内に蔓延する澱んだ空気を入れ替えるべく苦悩するなど。どんな結果となるにせよ、割り切れない感情と何らかの犠牲を、針のむしろに座る苦痛を、あの彼が受け入れるなど。そんな苦渋を飲ませたくない。清濁呑み併せることが為政者の資格だとしても、そんなこときっと彼は望まない。
 けれど別の想像力は容易く働く。魔界消滅のタイムリミットを引き延ばすことしかできなかった旧政腐の首領へと、娘は率直に訊ねる。
「……あなたがそうやって生きてきたからですか。真実を公表すべきだと反論した仲間たちの行動を完全に封殺し、隠匿し、残った仲間とともに結束を強めていったから……!」
 あのとき立ちはだかった大統領直下の悪魔たちの総数は、確か全盛期と比べて四割減。資金面からの人員削減と聞き及んでいたが、先の男の落ち着き払った態度と発言に、彼女はそんな予感を抱いた。
 けれどこの場で正直な回答を得られるはずがない。
 重く静まり返る紅い執務室に、疲れの目立つ吐息が鉛の重みを持って床に広がった。
「……さて、どうであったかな。この四百年は実に長過ぎた……そんなこと、あったかどうかも忘れたわ」
「わかりました」
 濁されても、確証を持たせる返答だった。けれど今はそれを追求している場合ではない。
 ため息で思考を切り替えた娘のむき出しの肩が僅かに横に逸れる。細腕の先の黄金銃の銃口もまた横に逸れて、黒髪の男を通り過ぎた。代わりに向けられたのは白髪交じりの金髪に、古代紫の艶深きスーツを身に着け大鎌を携えた男。
「そこまで決意が揺らがないと仰るのでしたら、……わたくしが、あなたを殺します」
 宣言を受けた二人が目を見張る。一人はあまりの唐突さに唖然として、もう一人は娘の物分かりの良さと感心から。
「止めろ娘! 貴様、自分が何を言っているのかわかっているのか!?」
「ええ勿論ですわ。その上で提案しているのです。あなたが殺すよりこちらのほうが荒波は立ちませんし、もしエミーゼルさんが復讐を選んだとしても完遂しやすいでしょう?」
「……っ!」
 娘はあくまで普段通り。流麗な声は金の鈴を連想させる透明感を持ち、かんばせは化粧の効果もあってか貫禄漂う穏やかな表情でいる。仕草も若々しい駒鳥めいて、天性からの品と鼻につかない可憐さが滲み、コサージュを添えた巻き髪も、豪奢な黒と赤の装束も実に馴染む。
 しかし戸惑う青年には、先のどうにか『死神王』を自分に殺させまいとしていた娘とは全くの別人に見えて。言葉一つでこうも振り回される初めての感覚に、抜け出すどころか足掻くことさえできない。
 娘はそんな連れ合いのこともさして気に留めもせず、ひたすら冷静に言葉を紡ぐ。
「わたくしは天使とは言え、既に数々の天界法を破り、神への反逆に荷担した罪人です。任務先の魔界で命を落としたとしても、天界はこれを黙視するでしょう」
「……確かに。全盛期の『暴君』が余を殺すとなれば現政腐と党首への反感も芽生えやすい。だがもとより悪魔と敵対する天使ならば、悪魔を手にかけたところで世論に大きな反響はないな」
 だからこの天使がこの男を殺すと。華奢な、柔らかくかたちのよい白い手を穢すと。
 そんなことあってはならぬ。生き残るためならともかく、明確な殺意を持って、自分の代わりに誰かを殺すような真似をこの純粋な天使にさせたくなくて、互いに了承した悪魔の男と天使の娘の間に佇んでいた青年は。
「……貴様等!」
 吼えた。いい加減にしろとの気持ちを籠めて。
 直後に外套を翻し天使に襲いかかろうとする。何故そちらを先にしたのかは本人もよくわからない。この娘さえ気絶させれば、後はどうとでもなると思ったのか。いつも殺すばかりで、当て身を放った経験もろくにないのに?
 だが娘は存外身軽で、正装にも関わらず素早く彼から距離を取ると、すかさず銃口を煌めかせる。迷いのない瞳は、これ以上近付けば容赦なく撃つと告げていて。
「………………」
「……くっ」
 覚悟に満ち、敵意さえ感じ取れるほどの眼差しを前に、白手袋は結局娘に触れることさえできず、そのまま悔しげに後退した。
「――――このッ!」
 けれどそれではならぬと、自分より先に天使の娘があの死神を殺す前にまたしても外套を翻し、堅太りの男の懐めがけて疾く。
 だが相手は忌々しいことに、待ってましたとばかりの笑みで大鎌を構え初撃を防いだ。闘った末に絶命がお望みとは平時の彼なら歓迎するが、今の状況ならそれは多少、いやかなり鬱陶しい。
「焦っておるな、『暴君』よ! かような腕では余の首は取れんぞ!?」
「黙れッ!!」
 おまけに挑発までしてくる始末。怒号とともに放ったもう一撃もあっさり防がれる。
 その上で今度は勢い余り過ぎたか、鎌で腕を弾かれた際に体のバランスが崩れ絨毯を転がる羽目になった。
 すぐさま起き上がり体勢を整えるも、状況を改めた青年はいやな予感に慄然とする。
 屍肉の山がそびえる扉の前に黒いドレスの天使の娘が銃を構えており、部屋の中央では仁王立ちの紫紺のスーツの死神がこちらを不敵な笑みで見下し、彼が転がったのは書斎机の前。つまり死神王を、天使と吸血鬼のふたりが挟む状態となっていたのだ。
「……さて。余の首を刈るのはどちらだ?」
 決まっている。娘の手を汚す訳にはいかない。
 一息の間も開けず床を強かに蹴り上げて、青年は白手袋を閃かせる。眼下のくすんだ金髪に向けて、その脳天を確実に潰すべく。
 顔を上げた男と視線が合う。だがもう大鎌を構えようともしない。そうかこれが望みかと、鋭さを増した右手がその頭に触れようとしたその瞬間。
 ぱんと、火薬が爆ぜる音。
 続いて焼けるような熱が軽く後退した右手に生まれ、熱はじわり痒みに転じ、そちらを目にした彼は自分の手のひらが血に濡れて、いや、何かによって貫かれたのだと理解する。
 貫いたものが何なのかを理解するより先に、再び死神王と目が合う。相手もまたこの事態に驚いていると知った彼は、ふとその男の後頭部に、弧を描く黄金の煌めきを目撃し――
「ごッ!?」
 鈍い音。呻き声。続いて、昏倒。
 目に火花を散らした古代紫の男が、鉄の臭いを後頭部から滲ませてゆっくりと床に倒れ伏す。とその手元に、虚空を遊泳していたと思しき純白の羽根が能天気に、音も立てずに着地した。
 ちなみに元大統領を殴った犯人は当然、男の背後に身を踊らせた天使にほかならない。現場の状況だけでも十分だが、その瞬間を目にした彼がそう判断するのだから違いない。
「…………は」
 銃口から煙を棚引かせる黄金銃で死神王を気絶させた下手人は、確かに倒れたのを確認すると緊張の糸が緩んだようだ。銃をゆっくり下ろしたと思ったら、どっと膝から崩れ落ちる。
「お、おい……っ!」
 慌ててそちらに駆けた青年は、自分の片手の熱、いや風穴が誰によって開けられたのかを遅ればせながら理解して、僅かに躊躇する。
 当然ながら、彼の凶器と化した右手に弾丸を放ったのもこの天使の娘に違いない。
 あのタイミングで手を撃つとはなかなかの腕前だが、それに感心するよりも実際にこの娘に発砲されてしまった現実に、彼は正直なところ傷付いた。自分が最初に襲いかかろうとしたから彼女も容赦しなかったのか。それともやはり、自分のことなぞ死神王の命よりも軽い存在なのか。
 仮定だけでも込み上げてくる胸の痛みをどうすべきか迷いながら、しかし結局体の勢いに任せ、喘ぐように息をする娘に近寄って。
「……ぁ……は、ぁぁっ……」
 恐らくパニエなどなければ床にへたり込んでいただろう娘は、顔を背の羽よりも白い恐怖の色に染めて彼を仰ぎ見る。全身は無論のことながら、薄青い瞳さえも悪夢を見たばかりの子どもさながらか細く震え怯えていて。
「……お前は」
 何と言うべきか。
 それさえも頭の中でよく定まらないままどうにか片膝を折った青年は、宝石よりも鮮やか瞳が潤み、次第に大きな雫が目尻に溜まっていく様子を目撃させられぎょっとした。
 暴君は死神王を殺せず、死神王は昏倒と言うこの状況は、この娘の一人勝ちと言える結末なのに。しかもあんな大胆なことをしておいて何故今泣くのか。理由もわからず戸惑うばかりの彼に、娘は汗で滑り震える両手から銃をどうにか放し、代わりに彼の右手を自分のほうへと手繰り寄せ。
「……ころさ、ないで」
 傷口からの痛みを感じるより先に、淡く温かな光が娘の黒手袋から生まれる。傷が、右手に空いた穴が見る間に塞がっていく。
 彼にとっては初めての経験だった。自分を傷付けた相手に、直後癒しを受けるなど。涙を流し、痛々しいくらいに必死な顔で乞われるなど。
「殺さないで。お願い。殺しては、いや……!」
 娘はひたすらに頼み込む。泣きながら回復魔法を必死に唱える。もう穴などきれいに塞がっているのに、それでは足りないとばかりに何度も何度も何度も。
 その姿に、場違いな熱がこみ上げてくる。自分は傷付けなかったのに自分を撃った事実も、あの死神の命のほうが大切なのかとの疑惑も、最早どうでもよくなっていく。両手を掴んでさえ自分を癒す娘の姿に、胸の奥がかき乱される。
 それでもどうにか冷静を努めて、巻き毛の滝に手を添えるように落ちては生まれる大粒の涙にそっと触れる。熱かった。娘の肌よりもずっと。
 その熱さが、また胸に沁みる。だから。
「殺さぬ」
 静かに、はっきりと告げてやった。
「奴は殺さぬ。だからもう泣くな」
 言葉を受け、娘の瞼が震えながらもどうにか開かれる。
 ああそうして、あの澄んだ湖面の底のように、晴れ上がった静謐な冬の空のように、朝露を宿す月草のように、水宝玉よりも尚美しい鮮やかな瞳が彼を映す。
 それだけで万に一つの奇跡に巡り会ったに等しい感激が彼の全身を貫いたのに、天使は更に目を細めて。また、一粒二粒と涙を雫しながらも輝くばかりに笑んだ。
「……ありがとう、ございます」
 鼓動が跳ねた。眼球は灼け、脳髄が焦げる。
 たかがそれだけのことにそんな感覚を生まれて初めて味わって、瞬時に凍り付いた男は少しずつ硬直を解いた末に深く吐息をつく。
 確信した。ただ一つの真実を。
 ――自分はこの娘を愛している。

◆◇◆

 書斎机を漁ってすぐ見つかった端末の短縮ナンバーに片っ端から繋いでみれば、やはり相手はあの男の元腹心や親族だったらしい。
 切羽詰まった、聞くのを嫌がるような、感情を押し殺した、怯え気味の声音でこちらの様子をそれぞれ訊ねられたが、淡々と事情を説明すれば往々に覇気を取り戻した。
 すぐにそちらに向かう。帰りは心配せずとも良い。ハゴス様が目を覚まされれば自分のことを伝えるように。
 口々の伝言と直後付け足された感謝の言葉に、やはりあの人物は死ぬべきではなかったと天使はしみじみ実感し、それを隣で聞いていた男はつまらなさそうな顔をした。その端正な横顔から、多くの人望を持ち得ていながらあえて死による幕引きを選ぼうとした男への嫉妬が垣間見えたのは彼女の気のせいだろうか。
 本当にすぐ訪れた旧政拳陣は執務室への扉を塞ぐ屍肉の山に二の足を踏んでいたが、翠のローブを目深に羽織った女性が瞬時にそれらを消却することで無事到達。何人もの悪魔が倒れ伏したままの死神王の脈を確認し、丁重にどこかへ搬送していった。
 残る悪魔たちには苦渋に満ちた表情で、ふたりの招待客に頭を下げた。その上で、今回の件はそちらの好きなように処理をしてくれと頼まれた。情報局に売り込み元大統領の株を落とそうが、この件をだしにこちらを脅そうがいくらでも好きにして構わない。閣下を説得することもできず、かような判断を下させてしまった自分たちもまた泥を被るべきなのだから、と。
 青年としてはそんなことを言われたところでどうしようもない。例の件について事前に書簡で送ってきた通りの処置を取れば――つまり借金のことだが――構わんと素っ気なく述べて、天使の娘は微笑み、今回で十分なほどお金を使われたそうですし、文無しの方へ『徴収』するほどこちら切迫しておりませんからとしれっと言い放つことでこの一件は幕を閉じた。
 かくして大統領府専属の時空の渡し人の居場所を聞かされた招待客たちは、地獄へ帰るべく揃って無人の廊下を歩く。
 執務室を目指すときはよそ見をしている余裕などなかったし、あの不気味なお供がいないためか。足取りはのんびりとした気軽さで、窓の外、銀色に輝く月を眺めながらの帰路だった。
「……随分と、月の位置が低くなりましたわね」
「ああ」
 交わす言葉は少ないのは変わらない。しかしあのときと違い空気はとろりと、蓮が微睡む小池のように穏やかで。
 そこに何よりの安堵を見出し、更に言うなら安堵できるほどの結末を迎えたことに再び喜びながら、天使はスカートの裾を持って小さく駆けた。
 背中の羽の辺りに連れ合いの訝しげな視線を感じたが、あまり気にせず振り向き笑う。その際に揺れたイヤリングもコサージュも、結果的になくさずに済んだのは僥倖だと思いながら。
「少し急ぎましょう。時間は確認できませんけれど、もう随分遅くなりましたでしょうし……」
「時計ならあるが」
「あら」
 男が懐から取り出した金時計をかざすと、娘は目を瞬きつつ彼のほうへと近付いた。
 さして腕を伸ばすことなく白手袋から黒手袋へ蓋付きの時計が受け渡されると、娘は中を開いてからほろり苦笑する。
「やっぱり……。もうすぐ日付けが変わります。これではあちらに帰って一息吐くのも難しそう」
「なら帰り次第とっとと休めばいい。奴への報告は俺が代わる」
「それは駄目です。あの方がわたくしに頼むと仰っていたのですから、わたくしが伺います。それに……」
 それに、と訊ねようとして。
 不意に娘が俯く。指とは言わず肩とは言わず、全身から気まずい緊張感が漂うも、青年はひたすら巻き髪の房となめらかな頬を眺めて続きを促す。
 血の色の視線の誘導はこの天使にとってなかなかの効果を持っているのか。思い切った勢いで肩を竦め、娘はぎこちなく時計を男の胴に突き返した。
「ハゴス様の件は、あなたではなくわたくしの口から説明したほうが、きっとあのひとにもあの方の危惧するところが伝わるはず」
 様。あの方。
 その言葉にどんな意味が込められているのか。あのときはどうでもいいと思ったのに今は急に知りたくなって、彼は自分の胸に当てられた金時計を、いやそれを握ったままの黒手袋に、白手袋を覆い被せる。
 その行動にさして他意はなかったものの、娘の手と重ねたのは右手、つまり彼女が撃ったほうで。傷口は塞がっても、換えを持っていなかった白手袋には手の甲に焼け焦げた痕が丸く残ったままだった。
 娘の動揺が指から腕へと伝わってくる。しかし青年は揺らぎも躊躇いもせず口を開いた。
「……天使。あのときお前は、どうして」
「ごめんなさい……!」
 どんな反応を寄越されようがある程度覚悟していたものの、それより先に腰から頭を下げられ、彼は軽く目を見開いた。
 手を掴まれたままの娘は、証言台に立つ小悪党さながら怯えと不安の色を宿し、しかし決死の覚悟を瞳に覗かせ頭を上げる。首飾りの黒曜石が数珠を爪弾く音を奏でた。
「あのときはどうにかしてお二人を止めないといけないと、そればかり考えていて……。勢いであなたを殺すなんて言っても、本当はそんなこと、考えたくもありませんでした。なのに銃を向けて……、あまつさえ本当に撃ってしまって……本当に、ごめんなさい……!」
 いつもは落ち着き払った娘が無惨なほどに取り乱すありさまを至近距離で堪能しながら、青年はなにやらむず痒い、浮き足立ちそうになる己を必死で押さえつける。
 たかが謝罪の一つではないか。なのにまるで自分が特別扱いされていると誤解しかけて、彼は黒手袋の甲を中指でそっと撫でてやる。
「そんなこと気にしておらん。それに俺が訊ねたいのはそんなことではない」
「はい……?」
 正確にはそれもあったが、先の娘の謝罪によって疑問は打ち消された。順番があべこべになったがまあいい。遣いの報酬としては悪くないと受け止め、青年は本来真っ先に問うべきことを改めて言葉にする。
「お前はどうしてあそこまで必死に俺たちを止めようとした。自分が返り討ちを受けても、仲間の仇となっても構わんなどと……お前は天使だ。たとえ事情があって魔界に住んでいようが、そこまでする必要はなかろう」
 彼としてはそれなり重要な、覚悟を込めた問いかけだったと言うのに。
 娘はごく当たり前の、自分の瞳の色を聞かれたときのように不思議そうに目を瞬いてから、ゆったりと首を横に振った。
「そんなことありません。大切な仲間の一人であるエミーゼルさんが悲しむ顔なんて見たくはありませんし、わたくしもあの方には死んでほしいなんて思えませんもの。……ただあの人の計画に巻き込まれただけの方が、罪の意識を感じる必要なんてありません。それに……」
 あの人の計画。
 引っかかる単語について更に訊ねようとした男は、しかし舌を動かすより先に眼下の光景に意識を奪われた。
 とは言えなんのことはない。天使が軽く俯いて、淡く頬を染めているだけのこと。ここに至るまでの数多くの出来事のせいでもう化粧は汗に滲んでほとんど落ちていたが、しかし男にとってはこれまで以上の破壊力を持って、娘はこちらが切なくなるほどひたと彼を見つめ、囁くように呟いた。
「あなたに、知っている人を殺してほしくないと。傷付けてほしくないと、そう思うのは、わたくしのわがままなのでしょうか……?」
 ――あのときの。娘があの男を殺すとの宣言されたときの自分と、全く同じ気持ちだったのか。
 また、鼓動が早くなっていく。頭の中が熱を持ち、冷静な思考などろくに巡らせていられなくなる。しかし彼は喉の奥から声を振り絞る。浮かれそうになる己を殺す。
「何故そう思った。俺が躊躇いなく敵対するものを屠るのは、お前とて知っているだろうが」
「何故って……」
 なのに。なのに。
 娘は小さく息を飲み込んで、頬をますます鮮やかな色に染めながらぎこちなくも照れ臭そうに笑って。
「それは……あなたはわたくしの、大切なひとだから? わたくしの大切な……」
 堪らなかった。我慢できなかった。冷静になるなど無理だった。
 黒手袋を越えてそのむき出しの腕を、肩を引き寄せ抱き締める。
 小さな悲鳴が胸に転がる。髪の匂い。汗のにおい。温かさに確かな重み。肌に触れた白手袋が僅かに湿るが、それさえもぞくりと脊髄からの戦慄を呼び寄せて、男は熱い息を吐き出すと反射的に顔を上げた娘の唇をひたと見つめ。
 甘そうだと思った。温かそうだと思った。触れてしまえば蕩けそうだと思った。確認したくなった。
 ああ、しよう。


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