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ご探索

2012/04/11

 ゲートを渡った先は、いつか目にしたおどろおどろしくも荘厳な大統領府そのままのはずなのに。立ち込める緊張感はあのときとはまた違った具合で、付き人役の天使は胸騒ぎを覚える。
 最初から件の吸血鬼を党首として仰いでいた地獄党の面々とは違い、『死神王』に長らく仕えた上級悪魔たちが四百年前から訪れた伝説の『暴君』に敵愾心を抱いても仕方はない。衰え知らずの魔力を有する人物に対し、こちらは『畏れ』エネルギー減退の影響を受けて往年の力を取り戻せていないとなれば、嫉妬を覚えるのも無理からぬ話。
 だがここに漂う殺気は本当にそんな、冷たかろうが熱かろうが生物の放ったものなのだろうか。いや、だからと言って妖霊族や屍族などのアンデットのものでもない。表現に難しいが、血の通っていないような、作りものが生きている振りをしているような無機質な殺気には覚えがあった。とは言え彼女は単身魔界に侵入した天使として、また地獄党の一員としてあらゆる敵と戦ったため、その記憶はいまだ具体的な像を描くまではいかない。
 それでも時空の渡し人から大統領府への接続場所が固定されていますと聞かされたときに覚えた予感を、待ち時間に比例して増す悪寒から裏付けられた気になって、彼女は深く息を吐き出すとともにスカートのとある位置にそっと手を移動させる。
 魔界に単身侵入した天使にとっては何よりの宝である安全な居住地を得たとは言え、ここは悪徳を誉れとする魔界だ。身を守るための武器は常に携帯しているし、今だって皮のホルスターは膨らんだドレスの奥に潜み、その中で両脚に頼もしい感触を与えている。しかし肝心の取り出しと組み立ては難儀なことにわざわざスカートを捲らなければならない。
 それでも時空ゲートの固定先が応接室で良かった。専用の化粧室がなければ、彼女はパートナーにとんだ恥を晒す羽目になっていただろう。
「あの……少し、靴下を直しに行って参りますね」
「ああ」
 向かい合っていた青年に告げるも、相手はじっと眼前の、廊下へと続く扉を見つめたままこちらに一瞥もくれない。恐らくは彼もまた予感を覚えている。下手をすれば彼女よりも、じき己が戦場に降り立つことになると確信している顔だった。
 ならば遠慮することはない。
 娘は早足で化粧室に向かい、鍵を閉めてがばとスカートを捲り上げる。手袋を脱ぎ、ベルトごと外したホルスターからよく手に馴染む黄金の銃を取り出すと、もう片手に同じく黄金の銃身を手にし、状態を確認してからしっかりと装着。
 そうやって愛用の、十字架型『聖戦』の名を冠する銃が完成すれば、スカートの皺を手で払い少々無骨ではあるが皮のホルスターもドレスの上から着け、手袋を嵌める。姿見で全身に不自然な点がないかを確認し終えれば、覚悟を決める意味合いで静かに息を吐き出してから化粧室の扉を開けた。
「……え」
 しかし扉の向こう、応接室の光景は一変していた。扉に空間転移の魔法でもかかっていただろうかと突飛な発想を抱いたほどには変わっていた。
 具体的に言えばソファが、家具の類がなくなっていた。
 今宵、大統領府に招待を受けたふたりが向かい合って座っていたそれや、ふたりの間に据えられていた胡桃の木のテーブルも粉々に砕かれて。天鵞絨のカーテンは大きく裂け、壁紙は爪痕や刀傷で廃墟のそれと見紛うほど。傷のない部位は焦げ煤け、結果的に無事な部分を見つけるほうが難しい。天井は、つい先までぶら下がっていたシャンデリアの直径ぴったりに、それはもう見事な大穴が開いていた。――ついでにそこからは殺意もたっぷり。
 けれど彼女がほんの少しの間、化粧室に入る前と後でも変わらぬものはある。部屋の真ん中でひとり佇む男がそれだ。
 今の時代からすれば古めかしい、けれど天使の娘が人間だったときには時代相応の貴族然とした装束を身にまとう青白い顔の青年。尖った耳が覗く、後ろで一つにまとめた長い黒髪を、血の色の裏打ちが成された闇色の外套と同じく風もないのに微かに揺らめかせる、ひとの姿と似ているようで異形のもの。よく研いだ刃物の鋭さを彷彿とさせつつ、新月の夜の森めいた四肢にまとわりつく漆黒を連想させる空気を持つ悪魔が。
 血糊や肉片、体毛の一部らしいものが染み着きこびり着いた絨毯に倒れ伏した妖花族の頭に、片足を据えながら訊ねる。軽く俯いているためその顔は彼女から見えない。けれど放たれる声から、表情は容易に想像できた。
「……つまりこれが本来の趣向と。そう受け止めて構わんのか」
「…………」
 妖花族は答えない。顔こそこちらを向いているが瞳は虚ろ、唇ははくはくと酸素を求めて動くも明確な声と意思を絞り出すには至っていない。強襲してきたのは当然この妖花族だけではなく、部屋の状態から察するに仲間が多数いて、その全てが殺されたのだろう。
 天井の穴の向こうでこちらを伺う援軍は、漂う殺気の濃さから察するに少なく見積もっても三十は下らない。そいつらが今も尚、こちらの隙を虎視眈々と狙っているのはわかる。わかるのに彼女は、最早条件反射の域で、足で踏み殺されかねない眼前の妖花族に生き延びてほしくなった。
 そんな娘の気持ちを察する間もなかろうに。妖花族の頭に足をやったままの、四百年前から現れた伝説の吸血鬼は朗々と語り始める。
「『死神王』の噂は聞いている。俺が知りうるものでは候補者の一人に過ぎなんだが、今は……いや、暫く前までは大統領だったと。気高く使命に勤勉な悪魔でありながら、魔界全土が危機に陥った際は己の意思を殺してまで魔界の存続に努めた、この魔界の長きに渡る歴史の中でも五指に入る為政者だ、とも」
「…………」
 妖花族は明確な反応を寄越さない。表情は虚ろなままで、長らく仰いでいた悪魔を称える言葉を耳にしても沈黙を貫く――何故、どうして。死神王の直接の指示であろうがなかろうが、正直に言えば彼は足を離すのに何故答えないのか。
 どんな質問にも答えるなとの指示を受けたのか。そんな玉砕めいた真似を、あの聡い元大統領が自分を支持していた悪魔に命じるなんてとてもではないが信じられない。彼の部下たちが同じような真似をするとしても、やはり信じられない。
「……痛めつけ過ぎてはいらっしゃいません?」
 だから今の彼女にできることと言えば、本当に妖花族が口を利けるほどの余力を眼前の男が残しているかどうか疑うくらい。しかし吸血鬼は揺るぎなく応じる。
「加減はしてある。こいつが抵抗を示さぬのは体力の問題ではなく、俺の足に警戒しているのだろう」
 ぐ、と丸い団子状の蕾に靴が食い込むと、妖花族は虚ろな瞳のまま目に見えて呼吸を早くする。
 確かに、これは生死の境を彷徨うほど衰弱している者の反応ではない。緊張している。恐怖している。それでも唇は明確な言葉を作らない。何故。どうして。いや、――もしかして。
 混沌とした思考の海に燦然と、一対の糸が浮かび上がる。化粧室に入るまで感じていた懐かしい殺気と頑なに言葉を発さぬ妖花族が彼女の中で一本に結びつき、その衝撃に青い瞳が愕然と見開かれた。
 こんな発想、正直なところ繋がってほしくないが、だからと言って無視する訳にもいかない。
「……あの、背の高い吸血鬼さん」
「どうした」
 ここには比較対象がいないけれど、それでも彼女は最初にそう決めた呼び名のまま眼前の悪魔を呼ぶ。更に慎重に言葉を選ぶため、口紅も忘れて下唇を軽く舐めた。
「その、この方たちは、今まで何か言葉を放っていましたか? 雄叫びや悲鳴以外に、明確な知性と個の意思を感じさせる言葉を……」
「いや、聞いていない。いないからこそ今こうして口を割らせる気でいる」
「……そう、ですの」
 自分の予想を裏付けるような回答に、彼女は重く深い吐息をつく。
 明らかな隙を見せたためだろうか。天井からぱらり小石が降って、こちらの様子を伺っている連中が襲いかかろうとするもそれを吸血鬼が一睨みで制する。無論、足にかける力も変化はなかった。なのに。
「……っ!」
「くぁっ……!」
 死ねば諸共か。布靴で頭を踏まれていた妖花族の蔓が、獲物を襲う青大将の速度で女の細首に絡みつく。
 音で瞬時に事態を察した男は、蔓が決死の思いで細い首の骨を折るよりも先に足下に力を込めて頭蓋を砕く、はずだったが。
「…………めん、なさい」
 謝罪の言葉と銃声一つ。
 二秒ののちに蔓の持ち主が息絶え、蔓から解放された女は自分の首に手をやり激しく咳き込む。その表情は険しい。無論、ほんの数秒とは言え殺されかけた物理的な息苦しさも含まれているが、それが本命のはずはない。
「……連中の目的がわかったか」
 眉間を撃たれた妖花族の亡骸から足を離すも、わざわざ屈んで瞼を閉じさせてやる気にまではならないのか。男の油断ない視線はすぐ天井に戻る。
 咳がある程度止んでから訊ねてくれる彼に僅かな感謝の眼差しを向けてから、娘ははっきり頷いた。
「っは、目的、そのものはわかりませんが、ん、んんっ、……正体なら、おおよそは……」
「意味がわからぬ」
 そうだろうと浅く頷いて、彼女は最後の区切りに大きく息を吸い込むと自分の推測を口にする。証拠はないが、実際に戦った記憶と経験から限りなく事実に近い予感はあった。
「彼らは恐らく、真っ当な生まれ育ちの悪魔ではありません。……クローン。人間界で人工的に造られた、殺戮兵器として生を受け、眼前の敵を滅ぼすことのみをプログラムされた悪魔だと思われます」
「……ほほう?」
 四百年前から現在に来てしまった吸血鬼の相槌は、普段の低く凄みを含んでいるのと違い、現在の吸血鬼に近い高さの声音なのに。味方でさえ背筋が粟立つほどの壮絶な何かを滲ませて、彼女は弾かれたように頭を上げた。
「彼らを創るように指示した人間は、既に相応の罰を受けています! あなたが罰を下す必要はありません!」
「案じろ、その辺りの話は聞き及んでいる」
 こちらに視線を向けないままそんなことを言われても、安心できるはずがない。むしろ悪い予感は膨れていく一方で、彼女はそんな方向ばかりに思考を巡らせる己をどうにか落ち着けるため深呼吸をする。それで生々しい火薬の臭いと自らが殺めた妖花族の青臭い血の臭いが混ざった空気を吸ってしまうなんて、とんだ皮肉だ。だが、いい気付けにはなった。
「でしたら落ち着いてください。八つ当たりなど、誇り高き悪魔のなさることではないでしょう!」
「……手痛い指摘をする」
 ずっと上を向いていた青年の肩が小さく揺れる。苦笑したと思しき仕草に、ようやく娘は安心した。
「仕掛け人はハゴス様だと見るのが順当でしょうが……どうして大統領府に彼らを集め、わたくしたちにけしかけたのかまではわかりません」
「俺の力量を計るためとは考えられんのか」
「確かに畏れエネルギー不足の影響にいまだ尾を引く上級悪魔たちを差し向けるより、潤沢に人工畏れエネルギーを与えられた悪魔を差し向けたほうが、あなたの強さをより正確に推し量れますが……」
 が。それではこの、人間を恐れによって戒める使命感が強い悪魔の逆鱗に触れかねない。どころかもう既に現状判明している情報に対してだけでも十分なほど怒っていると言うのに、あの悪魔は一体なにを考えているのか。
 挑発か。それにしたって過激な。単純な力比べなら現与党党首でさえ勝てるかどうか怪しい悪魔を煽り立てるとしても、勝ち目は一体どこにあるのだ。
 人間界の忌むべき技術さえ使って魔界を復興させる気なら、言葉通り清濁併せ呑む人物として評価すべきかもしれない。だがその意思表示の相手を四百年前の『暴君』に選ぶのは無謀ではないか。安易に得られる力に簡単に溺れるほど、自惚れや失った魔力への執念が激しい人物ではなかったはずなのにどうして。
 嘆息し、熱っぽい頭を一旦冷静にしようとした彼女はしかし、その続きを考える余裕を打ち消された。
 下で倒された仲間の新たな血の臭いに触発されたか、幻獣族らしきクローン悪魔が興奮の唸り声を漏らす。それが次第に上階からこちらの様子を伺う悪魔たちに感染して、粘泥族の気泡音に猪人族のいななき、怪鳥族の蛇の威嚇の声やらそれぞれ質量の違う羽音が混ざり合い、物騒な賑やかさに嫌が応でも生存本能を掻き立てられる。
「……進むしかないようですわね」
 天使の娘は苦みを含んだ声で結論付けた。今こちらがあれこれ考えようと、考えているだけでは真実に辿り着くまい。それを知る人物、『暴君』との対面を求めてわざわざこんな歓迎を演出した悪魔にこちらから会いに行かない限り。
 四百年の中で魔界の繁栄から衰退までを直に見、直に感じ取った男はおわすのだろう。きっとこの先、女が大統領府に初めて足を踏み入れたときと同じあの場所に。
「ああ。殺すしかない」
 しかし過去から訪れた男にとっての真実など、『死神王』は人間の忌むべき力を借りた愚か者だと言う認識一つで充分。だから断固として告げる。天井から降り注ぐものを跳ね除けるが如き気迫を、更にもう何階も上にいるはずの人物相手に真っ直ぐ向けて。
 多分にそのまま吸血鬼が一挙に天井を破壊し、元大統領の首級を討ち取ったところであの悪魔どもは感情や力の変化など見せまい。彼らは組み込まれたプログラム通り、ただ死ぬまで戦い続ける存在でしかないだから。
「……一つ、お願いがあります」
 今更この吸血鬼を止めるのは難しいことくらい理解している。それでも彼が誰を殺すかまでは宣言しなかった点に一縷の望みを賭けて、彼女はグリップを握り直す。――自らの手を穢す覚悟は、もう既に。
「加減しろとは言うな。あれらに悪魔としての誇りどころか意思さえないなら、慈悲など向けることすらおこがましい」
「いえ、そうではなくて……」
 そんなことを言われる予感はあったから、苦笑を浮かべて天使は首を振る。同時にコサージュの細やかな振動が頭部に伝わって、毟り取りたい衝動が胸に押し寄せたが実際にそれをすると編み込みが解ける気がするのでぐっと堪える。
「これ以上建物を壊すのは止めてください。あなたにとってはそれが一番手っとり早いのかもしれませんが、ここの本来の持ち主の方にとっては災難でしかないでしょうから……」
「……ああ」
 指摘を受け、ようやく本来の大統領を思い出したとばかりの声が吸血鬼から漏れた。
 実際、今の魔界を機能させているのは名目上なら『地獄』党と、彼らと古くから縁ある自称ダークヒーローだが、政治に関する重要な局面についてはいまだ旧政拳陣のほうが理解が深く、資金や伝手も豊富だ。そんな彼らが現大統領殿に直接掛け合って彼が喜ぶ程度の献金をしたため、歴史ある大統領府があっさりと貸し切れて、今のような状況が安易に創り出されたのだろう。
 こんな調子ならクーデターは下級悪魔でさえ容易かろうが、現状誰もそんなことをしないのは悪魔たちの怠惰か当代大統領の姿に大統領の地位に魅力がなくなってしまったのか。まあ、今論ずるべきはそこではない。
「よかろう。悪魔ですらないあれらを片端から掃除した上で、それらをここに持ち込んだ総大将の申し開きを聞く。それで構わんな?」
「はいっ」
 あの怒りに満ちた声を聞いたばかりのときを考えれば、その判断は感心するほど慈悲深い。事実、まだ死神王の身の安全を確保した訳でもないのに、彼女は感謝の笑みさえ浮かべた。
 けれどそれは、男にとって少しばかり刺激が強過ぎる。何せ今の彼女は赤と黒の豪奢な装束を身にまとった貴婦人さながらの艶姿であって、そんな女が美しい水色の瞳をほのかに潤ませ笑んでくればどうなるか。
 少なくとも、吸血鬼は硬直した。一瞬だけだがしっかり我を忘れた。顔を天井に向けたまま、視界の隅に例の笑みをちらと入れただけでだ。真っ直ぐにそれを受け入れればどうなるか、本人とて全く予想がつかないだろう。
 しかし幸か不幸か、ふたりを取り巻く環境は男女のいじらしいやり取りなど許す余裕はない。男の警戒心が薄れたのを好機と見た悪魔の姿をした人造兵器どもが、雄叫びを上げながらもついに上階から降りてくる。
 だがいたずらに時間が過ぎるばかりの睨み合いから、白黒あっさり付く殺し合いに転じるのは男とて願ったり叶ったりの展開だ。しかし本格的に掃除に取りかかるのは、一つの憂いをなくしたあと。
「……天使」
「ええ、わかっていますわ」
「…………」
 不意の呼びかけを、彼女はこれからの無限地獄に心してかかれと注意する声として受け止め銃を構えて見せたのだが、彼にとってはそうではなく。
 単純に、そばに来いと。その細い肩が何の支えもなく守りもなく傷つけられるかもしれないなど思えば臓腑が煮えくり返るから自分の手が届く範囲でいろと。そう伝え手を伸ばしたつもりだったのに、やんわりと拒絶された気になって。
「あ、あの……?」
 男の、不意に背後から突き飛ばされたのとそっくり同じ表情を見止めた女は、自分が何か読み間違いを犯したらしいと理解したが生憎と駆け寄る暇はなかった。ふたりの間を遮るようにして降り立った悪魔たちに、我が身の危険を知らされて。
「ごめんなさい、お話はまたあとで伺います!」
 敵と、つまりは敵の向こうにいる彼と距離を取り、謝罪ついでにブレイブハートを放ってから自分を狙う悪魔たちに照準を定める天使の姿を視界に捉え、ようやく吸血鬼も戦う気が沸いてくる。しかしその胸にはもう、この悪魔でさえない悪魔たちに抱いた蔑みはなく、こんなふざけた歓迎をする元大統領に抱いた憤りも薄い。
「……邪魔だ」
 にも関わらず青年は牙を剥き、その身に宿る魔力を解放して自分と天使を遮る生け垣どもに吐き捨てる。離れてしまった娘を一刻も早く保護するためならば、魔力を惜しむ気など欠片もなかった。
 心赴くまま、または切磋琢磨を目的として己の暴を振るうのではなく、誰かの身の安全のためにこんなことをするのは酷く懐かしい。しかしそんな感慨に耽る余裕もなく青年は床を蹴り上げ、悪魔の生け垣を一つ跳びで越えようとするが、無論相手も同様に飛びかかってくる。
 だがそれがどうしたことだろう。
 黒い外套の肩めがけて大口を開ける幻獣族の鼻を手のひらで潰し、猪人族の振るう棍棒を足で受け止め強かに蹴り返す。相手の獲物がその背後に控えていた魔翔族に当たって胴体が抉れる音を耳にすると兜を掴み、落下の無防備を狙う妖花族の蔓の相手をさせてやればくぐもった悲鳴が聞こえてきた。
 ついで猫子猫族の頭を狙って着地すると、布靴の裏で頭蓋を砕く感触を味わうがこれと言って感慨はない。眼前でそんな光景を見せられた娘もまた同じく、とはならなかったようだが。
「……き、吸血鬼さん!」
 表情を強張らせた娘の肌に幸い傷は付いていないが、やはり早々に攻撃を受けてしまったらしい。ドレスの裾はほつれ破れタフタには汚らわしい赤が染みており、それだけでもこの晴れ姿が痛々しく損なわれてしまったと軽く落ち込んだ男は、有無を言わせず天使を自分の懐へと手繰り寄せる。
「なっ、何をなさ……!?」
「お前を守る」
「はっ?」
「ここにいろ」
 短く命じ、細い腰に回した腕を更に己のほうへと引き寄せた直後、男は微かに身を軋ませる。唐突な行動が唐突に停止したことに、娘はそっと顔を上げて様子を伺った。
「……あの、背の高い吸血鬼さん。どうかなさいましたか?」
 娘独特の、自分を示す呼び名で呼ばれ、男は顎を引いてそちらに視線をやる。
 ここではどこよりも安全が確保されている吸血鬼の腕の中、距離を取っているようにも寄り添っているようにも見える曖昧な体勢で、桃色の巻き髪を優雅に胴まで垂らした娘が、水宝玉の瞳を星より清く煌めかせ、不安げにこちらを見上げているのと目が合って。
 その距離間。衣服を通して伝わる身体の温かさに柔らかさ、八重の花弁を綻ばせ咲く花の芳しい香り、初夏の薫風より甘く澄んだ声、視界に入るもの全て――何なのだろう、この堪らなさは。
 瞬きの間でしかないのに濃密な感慨が喉奥までせり上がり、続いて湧き上がるこの世に存在する何もかもを滅茶苦茶にしてしまいたくなる衝動に歯を噛みしめて耐えた男は、生温かい息を深く長く吐き出した。
「……いや。何もない」
 穏やかに、手中の娘へ優しい声音で応じた男の隣で、黒い外套へと襲いかかろうとした魔獣族の鼻頭が別種の鋭い爪で引き裂かれる。不意の攻撃を受けてもんどり打つそいつの頭に、幻獣族の牙が容赦なく突き刺さり。
 シルエットは辛うじて原型を留めていたが、ホルマリン瓶に入れられたほうが似合いそうな状態の魔翔族が、自らの臓物が落ちることも厭わずに先ほどまで同胞だったものたちの頭上に眠りの燐粉を蒔き一時的に無抵抗にする。頭部を破損した寝子猫族や猪人族もまた敵に牙を剥いた。
 しかし、攻勢はそこまで。
 吸血鬼の手で直接命を奪われたために彼の眷属となり果てた悪魔たちは彼らなりに精一杯反撃をしていたが、敵もまた感情を持ち得ていない上に数も多ければ駆逐されるのも存外早い。
 敵の狼狽を引き起こすことなく見る間にとどめを刺されてしまう眷族に、主たる男は已む無しと片手を掲げる。もう片手は、依然天使の腰に回したまま。
「気になるようなら耳を塞いでいろ」
「なんの、……っ!?」
 たかがそれだけの合図に、女の全身の毛穴が開く。
 膨大に魔力が膨れ上がる感覚とず、と時空が歪む音を耳にした彼女は、何が顕現したのかを男の肩の向こうから覗く眼光から知らされた。
 その瞳の色は黄金。
 男のものとはかけ離れた色合いの、しかして彼の従者と似ても似つかぬ、あらゆる血を吸いつくしただ在るだけで災害となりうる獣のそれ、弱きものどもの防衛本能を呼び起こす異様な輝き。
 そこから視界に広がっていく容貌もまた異形。皮膜のような羽の向こうに潜む四肢は人の骨格に酷く似ているのに、容姿そのものは完全に人の姿とはかけ離れているのがむしろ近付き難いほどの風格を強調して。恐らくは人言を解し意志の疎通ができるだけの知性があるだろうに、たかがそれしきこの存在には何の意味もないと確信させるほどの傲然とした化生の王が、ゆっくりと黒い翼を広げて人工悪魔どもを睥睨する。
 知っている。女はこの化生を今とはまた違った状況で、今腕の中に自分を収めているひとと違う姿の同じ人物の手によって見たことがあった。数えるほどしかないけれど、それでも初めてこの化生の力を目にしたときの衝撃は頭から消えていない。
 だがそれは、ただそこに在るだけでこうも身を竦ませるほどのものだっただろうか。自分に危害を加えないと理解しているのに、いつの間にか膝が笑っている我が身に気付いて彼女は別の意味で肩を震わせた。魔力の有無は、こんなところにも影響が出てしまい。あの彼と契約を交わしているあの化生さえ、本来の力を引き出せていないと知らされて。
「冥府へ誘え」
 暗く重い思考の海に沈みかけた女の耳に、短い主命が滑り込む。
 顔を上げればかの化生が、主たる吸血鬼のものと全く同じ、身を穿つ深紅の杭を黒い羽から覗かせるように一度。そう、たった一度だけ力を込めて羽ばたいた。
 それから数秒の完全な沈黙の間を持ってどうと迸る――暴風。轟音。衝撃波。
「ひっっ!」
 ふたりを取り囲むクローン悪魔たちは畏れエネルギーを潤沢に与えられた、現代においては生粋の魔界の悪魔よりも数段強いはずなのに、そんな連中が羽ばたきで生み出された破壊力に耐えきれない。強固な肉体が丈夫な毛皮が粘り強い皮膚が目が顔が腎臓が骨が、粉微塵に消し飛ばされ砕かれていく。
 鼓膜が破れないのが不思議なくらいの轟音と、痛みが頭に伝わるよりも先に肉体が破壊されていく現実を眺めることしかできない悪魔たちの虚ろな、しかし感情がないはずにも拘らず僅かに愕然と歪んだように見える表情と呻きにも似た悲鳴と、何より巨大な硝子製の粉砕機にかけられていくような、悪魔たちが塵と化していく凄惨な光景を、天使の娘が男の外套越しに目にして暫く。
 恐らくは一分も経っていないが、それでも彼女にとっては目も眩むほど長い壮絶な光景がようやく止んで静寂が戻ったとき、ふたりを取り囲んでいたクローン悪魔三十数匹はこの世から影もかたちもいなくなった。痕跡は部屋の壁一面を赤黒く染める塗料と、生温かくむせ返りそうなほどの悪臭のみ。しかしもとより魂がない連中である。男にとっては殺したところで何の感慨もない。
「行くぞ」
「……ぃ、行くって、どこ……にっ!?」
 男はいまだ足元が覚束ない娘を更にきつく抱き寄せ、真上の大穴へ跳躍する。そのまま重力に従い落下するより先に外套を使って軌道を修正。穴の外へと着地した。
 上階には後援隊らしきクローン悪魔どもが、唐突な敵の到来に怖気づきもせず身構える。やはり先程襲撃してきた悪魔たちが全てではないらしいが、それだって数は随分少ない。おかげで速やかには殺せそうにない。
「……一つところに集まっておればいいものを」
 舌を打つと同時に、吸血鬼は最も近くにいた猫娘族の首を手折る。優しい囁きと丁寧な仕草で手中の女を離してやってから死告族の頭蓋を割り、流れのままに邪竜族の心臓を抉って、樹巨人族の腹に穴を開ける。
 血を吹き出し悲鳴を上げ悶絶し滑稽なほどの痙攣を起こす悪魔の姿をした肉塊どもに、男は徹底して意識を向けない。だがそうやって息絶えて行った彼らに、すぐさま変化が訪れる。
 倒れ、全身を弛緩させ、苦しげな引きつけをようやく落ち着かせ何より総じて瞳を死に濁らせた悪魔たちが、そのままの面構えでゆらり立ち上がると、何の命令も受けていないにも関わらず他の悪魔たちに襲いかかる。
 仲間の死を看取るどころか気にも留めなかった面々は、黒衣の悪魔に気を取られていた部分もあってその多くが不意の急襲を許してしまう。それでもどうにか数にものを言わせて退治したところで、また別のところからまた新しく死した同胞の攻撃を受けた。
 そうやって休むことなく他の悪魔を素手で屠り続け、慣れた様子で手駒を増やしていく吸血鬼によって、着々と部屋の勢力図は塗りかえられていった。自然、たったひとりの悪魔が有利になる方向で。
 ただひとり取り残されていたのは天使の娘。男にここにいろと、お前は何もするなと優しく命じられた、お飾りの。
「…………っ、違う!」
 飾りなどではない。いいや、飾りなんかになりたくない。
 瞼の裏にはあの外套の男が、自分に優しく囁きかけながら、伸ばした片手で生気がないなりに愛らしい顔立ちの猫娘族の首を容赦なく捻った光景が浮かぶ。あの光景の衝撃はいまだ抜けていないいし、そこまで冷酷にはなれないけれど、彼女は数ある修羅場を単身潜ってきたつもりだ。
 だからここで役に立てないなんて、それまでこの魔界をひとり生き残ってきた矜持に関わるからと、天使は震える全身を叱咤し、銃を構えて敵を探した。けれどそれは、ややも手遅れ。
「……いな、い?」
 油断なく四方を探し、五体満足の敵を発見しようとしたときには、既に。
「……ふむ。こんなものか」
 声のほうを振り返れば、白手袋だけをぬらり赤黒く染め上げた男がひとり。
 体をそれなり動かしたことで少しは気も昂ったか、赤い裏打ちの外套が微かに揺らめく。外套内の上着も金のベストも血痕どころか皺一つなく、その姿が娘の目には威風堂々と映る。
 それに問題などありはしない。ただ彼がひたすら敵を屠り続けていた間、放心して立ち竦むばかりで何もできなかったこちらはまさしく、それと揃いのお人形でしかないのだと自覚を促されたような、惨めな心地になっただけ。
「……どうした。やはり、この光景は天使のお前には辛いか?」
「いえ。……何でもありません」
 指摘を受ければ確かに、男の背後で物理的に不自然な悪魔たちが皆一様に畏まる光景は夢に出そうなほど不気味ではあった。しかしそれ以上に自分の無力さを痛感させられた娘の心を、この年若き吸血鬼が推し量れるものか。
 白手袋に滴る血潮を『吸収』し、殺戮兵器どもの穢れた血がいつものように自らの疲労を減らす事実に軽く眉をしかめてから、男はことさら優雅に娘の前に腕を差し出す。
「では行くか。案内はお前に任せよう」
「……はい」
 誘われるまま天使は男に近付くも、かんばせに差す陰りは消えないまま。
 流れのまま両手を男の腕に絡めれば、自然相手との距離も近くなるし、軽く寄りかかるような姿勢になってしまう。その体勢に躊躇いと気恥ずかしさは覚えるものの、けれどそれ以上に手の中の銃が少し邪魔になると知らされて、ホルスターに銃を収めた娘は顔の陰りを濃くする――このひとにとって自分の戦力など、頼る必要もないものだと実感して。



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