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ご出立

2012/04/09

 地獄を騒がせた謎の連続爆発事故から早一ヶ月半。
 各地を襲った凄惨なまでの規模と被害、しかもその場には、現在の党首であるプリニー教育係か四百年前の『暴君』として現役の悪魔、同一人物である吸血鬼ふたりのうちどちらかが必ずいたと言うから、これは現政拳に不満を持つ他党からのテロや宣戦布告ではないかと党員たちは戦々恐々。いつ止むとも知れぬ、プリニーを投げたどころではない爆発事故に長らく緊張感を漂わせ、構成員がプリニーではない自衛団も結成され、原因究明や警戒を怠らなかったものの結局原因も下手人もその目的もいまだ明らかにされていない。
 それでもどうにか各施設の修復工事も完了し、お陰で地獄で働くそこそこのプリニーが予定より早く目標金額を達成、次の赤い月には転生できると彼らなりに明るい話題を地獄に提供しようと盛り上がるのを皮切りに、少しずつ普段の状態に戻りつつある頃。
 『暴君』と呼ばれる悪魔から、最初の爆発事故が始まって一週間後くらいに受け取った大きな衣装箱の蓋を開けて、桃色の髪に水色の瞳を持つ年若い天使、もとは人間でありその魂の清らかさから死後天使として召し上げられ、彼女の死によって世に絶望し世界を滅ぼそうとした人間を救うため盗みさえ働いた見目麗しき天使の娘は大きく息を吐き出す。
 あのときはまだ謎の爆発事故が続いていた時分で、何度か巻き込まれたらしいと聞いたのにいつも通りけろりとした顔に溢れんばかりの魔力を持つ吸血鬼は、おもむろにこの衣装箱を彼女に差し出しこう告げた。
「お前から羽根を貰っておいて、俺がお前にくれてやるのを忘れていた。故にこれは俺から贈る友の証として、お前に受け取ってほしい」
 そうだとしても羽根の一枚と比べて服、どころかドレス一着とは大袈裟に過ぎる。いたく恐縮してそう告げた娘に、男は不思議そうに目を瞬き、首まで傾げて訊ねてきた。
「俺は、これがお前の羽根と相応の対価と判断したから贈るのだ。それの何が悪い?」
 人間を戒める使命に忠実で勤勉な悪魔であり、魔界にその名を轟かせた恐るべき吸血鬼のはずなのに、片方だけしか見えない血の色の瞳はこのとき奇妙なくらいあどけなく、彼女は二の句を失った。これで強く断れば、こちらが申し訳なくなってしまうくらい彼が傷付いてしまいそうな予感を猛烈に誘って。
 おずおず衣装箱を受け取った女にこれで一旦満足したかと思しき吸血鬼は、実際にはあまり満足していなかったらしい。続けてこれを今からでも着てほしいとまたしても大胆なことを頼んできたが、それはさすがにできないと今度は彼女も譲らなかった。何せ箱だけでも酷くかさ張るドレスでは普段通りに過ごすことも困難を極める。機会があるなら是非とも着用してみたいとは思うが、今こんな格好をしては皆を驚かせるし、いらない注目も買うだろう。
 どの理由に納得したのかまではわからないが、今度の説得はきちんと効果を発揮した。吸血鬼はそれは尤もだと深く頷き引き下がったものの、直後に言質を取ったとばかりに目を輝かせ、お前がこれを着る機会が早く訪れることを願っていようと薄く笑った。彼女はその笑みに普段なら縁のない悪寒を覚えたのだが相手はそれを別れの挨拶としたつもりのようで、その日はそれきり会話を終えた。
 以上の出来事から一月と一週間後。まさか本当にこれを着る機会が早々に巡ってくるだなんて思っていなかった彼女は、これで今日は何度目になるかもわからないため息を吐いた。
 四百年前から現在にやって来た『暴君』がこの地獄に滞在してどれだけの日々が経ったかはもう曖昧だが、この全盛期時代の伝説の悪魔到来の噂はついに上層区にまで届いたようだ。いまだ魔界に強い影響力を持つ元魔界大統領『死神王』ハゴスから是非とも話題の吸血鬼殿とお会いしたいとの密書が届いた――らしい。
 政拳奪取に成功したとは言え、今なお上級議員との縁も深い元大統領の誘いを無碍に断るのは今後議会運営に支障が出る。上層部、と言えばそれらしいが党首のプリニー教育係と彼の僕である人狼の二人はそう判断したようだ。『暴君』と『死神王』の会合はひっそりと決定され、付き人として天使の娘に白羽の矢が立った。選んだのは、当日主賓となる吸血鬼。
 どうしてそんな会合に天界の住人である自分が同行するのかと彼女は当初、恐縮する気持ちもあって断った。しかし冷静に状況を鑑みれば、適任者は彼女しかいなかったのだ。
 まずプリニー教育係である現在の吸血鬼が『暴君』とともに元大統領に会えば会合の重要性は否応なしに上がり、表沙汰になるのは時間の問題と化すだろう。そうなってしまえば、現政腐はあれだけ政拳交代に息巻いていたのに旧政腐の連中に媚びを売っているとの不本意な評価を世間から下されかねない。その僕たる人狼もまた同じく、と同時に彼はある意味では主以上に多忙なため体を空けるのは随分前からでない限り困難を極める。死神の少年はホストの親族であるためこちらから派遣する付き人としては相応しくない。なり損ないプリニーの少女とその妹は論外。そも彼女たちに付き人なんて真似をさせたいのなら、長期間かけてみっちりと、まずは姿勢の矯正から教え込まねばなるまい。
 党内の見栄えも悪くない上級悪魔たちでその手の素養を持つものもいるが、その上で『暴君』とそれなりに親しいものはいなかった。ゆえにこれは適切で無難な人選だったことになる。
 理屈を重んずる生真面目な天使は以上の理由を聞き及び、ならばと不承不承で付き人の件を了解した。返事を受け取った長髪の吸血鬼は、その際本当に心底そう思っていそうな声で彼女にしっかり釘を刺したのだ。
「これでお前があれを着る機会が巡ってきたことになる。……当日を楽しみにしていよう」
 そうして本番当日の今日。約束の刻限まで残すは二時間。
 丁寧に湯で身体を清めてからボディミルクで肌を手入れし、なるべくこれから着るものに負けないよう手持ちの中でも一番上等な下着に身を包んだ天使の娘は、その格好のままゆっくりと深呼吸をすることでようやくお見合い状態から抜け出す勇気を奮い立たせる。
 覚悟を決めて静かに衣装箱の中へと両手を伸ばせば、指先が肌触りのよい何かに触れて。それに怯まず更に奥に手を進め、適当なところを摘み上げてからゆっくり腕を上げ、友情の証として贈られた衣装の全容をついに確認。して、衣装を箱に戻した勢いのままベッドに頭から突っ伏した。
 衣装箱の大きさから予感はしていたが、清貧に死ぬ直前まで慣れ親しんだ元人間現天使にとって、あの衣装は最早プレッシャーを越えて頭痛がするほど華やかだったのだ。
 これが本当に自分の羽根一枚と対等なのかと贈ってきた相手の襟でも掴んで問い正したくなったが、恐らくあの人物はそんなふうに詰め寄られたとしても表情一つ変えずに頷くのだろうと想定すればそんな気力もすぐに失せた。――しかしそれにしたって彼は見る目がない、とシーツに埋めた口元が失笑を作る。衣装がどれほど華美であっても、着るのがこの自分では釣り合わないだろうに。
 これに比べればまだ精神的に安心できる、大恩ある天使長から押しつけられた簡素な型の白いドレスを代わりに着てしまおうかとの考えが過ぎったりもしたが、それで落ち着くのは自分だけであって、今宵の主賓は満足しなかろう。同時にそれでは彼の期待を裏切ることになり、ふて腐れた顔だか落ち込んだ顔だかを想像すると女の胸にとてつもない罪悪感が広がる。今度は約束で戒めるのではなく、友人としての関係を築いたあの、記憶の中よりずっと子どもっぽくて素直な青年の示す友情を裏切りたくない。
 今度は。そう、今度は。
 おかしな表現の自覚はあるし、違和感も拭えないので本来ならばもっと適切な表現を当てはめるべきだろうが、今の彼女はそんな気力さえ湧いてこないので胸に滲む形容し難い気持ちの悪さをベッドに突っ伏したままでやり過ごす。
 突如として現れた四百年前の『暴君』に驚きはしたものの、暫くしてその中身は自分と出会う以前の状態だと知らされたとき、正直なところ彼女は安心した。現状の我が身を衰えさせるほど約束に固執する吸血鬼を見るにつけ、あんな約束に縛られもせず本来彼が自らにそうあれと求めるまま生きてほしいと願っていた彼女にとって、愚かしい人間の娘と約束をしていないどころかまみえもいない吸血鬼は、だからこそ気高くも自由なままでいられるのだから。
 ああ無論その気持ちに偽りはない。だから『暴君』が自分を知らないことにも、勿論寂しさや落胆など一瞬だって感じてなんかいやしない。ただ罪悪感はあった。あれほど強くも謙虚な姿勢で本来悪魔が持ちうるべき役目に忠実だったあの吸血鬼から、力の源たる魔力を奪ってしまった自らの罪深さを改めて思い知らされた。
 しかし彼には、あの四百年前からの異邦人はこの罪と無関係だ。そう思えば切り替えは早い。
 人間だった自分の死に際を看取ってくれた懐かしくも大切なひとではあるけれど、それらの思い出が共有できないならまた新たな思い出を作ればいいと彼女は前向きに捉えた。そうして四百年前からやってきた彼とは友として穏やかな関係を築き、親しめればそれでよかった。本人もいつかもとの時代に帰る気でいるようだし、本来のときの流れに戻った際、自分のことを覚えていようといなかろうと約束で縛りさえしなければそれでいい。
 だが女の真っ当な友は作らなかったのだろうかと、微かな疑問を抱きもする。今の自分が恐れを振り撒く対象たる人間ではなくてただの風変わりな天使だからだろうか。約束を交わした悪魔と人間の関係ではなく天使と悪魔の友として関係を築いたからだろうか。あのときと違って『暴君』は自分に対して妙に気安く、不用意な大胆さに戸惑わされることも少なくない。
 いつかの頬を触れられた件だってそうだ。それまでだって手を取られたり、髪に触れられたりと色々あった。自然な流れの中でならまだ流せるものの、彼女にとって異性の友人関係から大幅に逸脱しているものもあったので、その都度叱ってみたりやんわり退けたりもしたのだが今のところあまり芳しい効果はない。まあしつこく注意するのもなんだか気が引けて、それほど感情的に叱った経験はないのだが。
 ――我ながら甘い自覚はある。しかし中身に多少の違いがあって、また別に想うひとはきちんといるけれど、初恋の想い出のひとにきつい態度を取れるほど、彼女は冷酷にはなりきれなかった。
 だから今回も結局のところ彼のわがままに応じてしまい、次はどんな無理難題を吹っかけられるのやらと思うと多少に落ち込み、流される自分の意思の弱さに自己嫌悪するばかり。
 それでもやはり、あの青年に嫌われたくない裏切りたくない気持ちは歴として彼女の中にある。約束を交わしたひとは勿論のこと、約束を交わしていないひとを相手にしても心は臆病なまま。
 ならば着るしかあるまい。不相応に華美な格好で公式の席に顔を出すなど恥晒しもいいところだが、自分ではなく彼の望みなのだからいっそ好奇の視線を受けてもそれを免罪符にしてしまおう。
 そんな後ろ向きな覚悟を決めると、天使はままよと起き上がって再び衣装を取り出し、なるべく細部を見ないようにして手早く身に着けようとしたところで誰かが扉をノックした。
 出鼻が挫かれた思いもしたが、今夜の娘が仰せつかった大役については党内でもごく数人にしか知られていないのでこんな邪魔が入るのも仕方ない。来訪者を無視するほど切羽詰まっていないこともあり、娘の伸びやかな声はいつも通り扉の向こうにまで響いた。
「はい? どなたですか?」
「ヴァルバトーゼさまからのお達しで、髪のセットとメイクに来ました~」
 まさかの助っ人到来とは。予想を大いに裏切られ、女は一瞬立ち竦む。
 最初からそれをちいとも考慮していなかった点について、彼女の内面にも大いに問題がある気がしなくもないが何も伝えていなかったほうもほうである。いやそもそも名前だけで呼ばれては依頼者は四百年前か現在かわからないが、内心ほっとしたもののそこまでするかと動揺もした彼女は、とにかく相手を出迎えるため装束を一気に身に着けようとしたところではたと気付いた。どうやらこのドレスの上半身は古典的なコルセットと同じく背後から紐で締める型のようで、一人での着用は困難を極める。
 つまりまずはここから手伝って貰わねばならないらしいとすぐさま察した娘は、助っ人派遣に後ろめたいながらも盛大に感謝しつつ半端に着用しようとした衣装を脱ぎ、下着姿のまま扉へと近付いて行く。そうして外への警戒心を露わに薄くドアを開けて、こちらを不思議そうに覗き込む、本格的な化粧箱を幾つも肩からぶら下げたアーチャーに、神妙な面持ちで頼み込んだ。
「……あの。着替えも手伝っていただいてよろしいですか?」
 すぐさまのんびりと了承の返事を得られたのはいいとして、そのあとアーチャーが締めくれた腰紐がややきつめだったのは、人選の問題があったような気がしてならず。このくらいの不幸はもう仕方ないものとして諦めるほかないだろう。

◆◇◆

 約束の刻限まであと三十分。
 もう何度目になるかはわからないが、いつもなら懐に入れっぱなしでろくに使わぬ金時計の蓋を開け、針の位置を一瞥した男はまた蓋を閉じてから短く鼻を鳴らす。
 時間の歩みなぞ今までの彼ならさして気にしたこともなかったのに、今日に限ってはどうにも遅い。理由はわかっていたが、だからと言ってここまで遅いのはおかしくなかろうかとしみじみ鼻から呼気を抜く。
 そうとも。ここに来てからの彼は自覚があるほどおかしかった。不意に四百年後の世界なんぞに来てしまったことがそもそもおかしいかもしれないが、そんな程度のことは、こうも自分の内面にまで影響を及ぼすものなのか。
 手慰みに金時計の鎖を耳障り良く鳴らしながら、文字通り今地獄で一身に注目を受けている長身長髪の、ひょんなことから四百後の魔界に訪れてしまった吸血鬼はここに来てからの我が身に降りかかった異変について振り返る。
 四百年後の未来の自分が人の血を吸わなくなったため魔力を失い地獄に堕ち、代わりに小魚を口にしプリニー教育係となっていることには当初かなりの驚きはあった。ついでに興味がなかったはずの政拳奪取なんぞのために党を設立し、それを成し得たなどとは。しかしどうあろうと自分がその道を選んで誇りを失わず、使命に励んでいるのならばそれで問題はない。そうとも、その点についてだけなら全く問題はない。
 つい最近彼の僕となったはずの人狼が、四百年を越えて魔力を失った自分に付き従っていることも、感服こそ覚えど問題などあるはずがない。いずれ出会うこともあるだろう死神王の一粒胤が成り行きで自分の仲間になっていることも、プリニーである自分を認められない少々おつむの残念な小娘も概ね今の自分にとっては問題ない。しかし人間に造られたと言うラスボスを目指す悪魔の童女は、少しどうかと思わなくはない。人間を戒める崇高なる使命を背負う悪魔が人間に造られたとは一体どう言うことかと少しばかり厳しく問い質して概ね事情は把握したが、人間が悪魔を生み出すなどとは――四百年後の魔界と人間界は、随分と世も末であるらしい。
 けれど、それ以上に問題がある。本来ならば魔界にいるべきではない存在。どんな魔界からも人間界からも影響を受けない天界の住人、神の使途としてあまねく世界を見守り、人々に信仰と光の力を促す心清く見目麗しい光の使者。それが魔界の最下層たるこの地獄にいて、しかも四百年後の自分が設立した党に仲間として滞在しているなど。悪魔と根本的に相反するものがおれば、人間に造られた悪魔の存在など確かに些細なことかもしれないと遅蒔きに納得した。
 その天使が、彼に起こった異変の発端。
 地獄に住まう時点で度胸があるのは予想できたはずだったのに、桃色の髪と空色の瞳を持つ娘は警戒心をむき出す自分を目前にしても常に穏やかな物腰で。それどころか憐れむような、どこか遠くを見つめるような儚い表情さえ晒して。続いて水鳥の羽毛めいた温かみと硝子細工の繊細さが同居した女の笑顔を目にしてから彼の内部は変調を来した。
 天使など魔界はおろか人間界にも滅多に姿を見せないため、実物を相手に喋ったのはこれが初めてで、だからこそだろうか。純白の羽を持つ細身の娘に異様なものを感じ取り、彼はその瞬間からその女に妙な気分を抱いてしまったのだ。
 きっとそれは天使が宿す特殊な力によるもの。魔力ではなく目に見える暴でもないけれど圧倒的な力が彼の胸の奥に種のかたちで埋め込まれ、たちまちのうちに芽吹いて男の中にあったはずの敵意や警戒心をあっと言う間に浄化した。代わりに胸に満ちるのは、むず痒い熱を帯びた期待のような苛立ちのような。息苦しいのにどこか落ち着けて、理由もわからず不安なのに甘みさえ感じる淡い痺れが、拒む暇さえ与えずひたひたしみじみと。
 完敗だった。そんな力が世にあるなど知らなかった。しかし負け惜しみなぞ最早無意味で見苦しかろう。悪魔の掟は力こそ正義。ゆえにそんな力に対して全く免疫がなかった己が悪い。
 無惨な敗北を期した彼を、しかし慈悲深く気高く寛容な天使の娘は惨めな敗者ではなくひとりの友として扱ってくれた。だがそんな、本来ならば敬い尊ぶべき流血なき勝者を、無自覚であろうがなかろうが、ときに驚かせたり困らせたり戸惑わせたりしまうのは何故なのか。
 勿論そうしてしまう理由もわかっている。彼女の微細な表情の変化が、その変わる瞬間が、一瞬ずつでも切り取って眺めたくなるほど堪らないのだ。普段の穏やかな表情も見ているだけで意識がそればかりに埋め尽くされそうになるが、笑顔はもっといい。怒りかけて眉がむっと歪むのもいいし、赤面だって尋常ではない破壊力を持つ。あの困ったような俯き加減のも、笑顔の中に添えられるのも、普段でも充分なほど美しいかんばせに頬の赤みが増しただけで吐息が漏れるほど素晴らしい。泣き顔は以前初めてそのあとだけ見たが正直良くなかった。見惚れるよりも胸の痛みと憤りが強くなる。
 ともかく彼は天使の娘と邂逅を果たすことによって大きく変えられた。誇り高き悪魔として己の持つ暴を敵味方問わず示す責務は無論忘れてはいないが、それ以外の時間はなるべく彼女と会話をしたり、それができねば彼女のことを考えるばかりで、気付けば人間に恐怖を与える使命さえ蔑ろにする始末。四百年後の世界の事情など知らないからと自らに言い訳をし、魔界どころか地獄から自ら進んで一歩も出ようとしないとはなんたる不覚。
 しかし娘に対する抗力を身に付けねば、思い出したように人間界に向かったところで大きな意味はあるまい。現在自分がいるのは四百年後の世界だとの説明を受けたとき、ならば今は見解を深め気合いを蓄え、それをいつかもとの世界に帰ったときに活かそうと判断したではないか。
 だからこれはいい機会だった。人間や悪魔からは学べない、恐らく天使のみが持つであろう見知らぬ力に対する免疫力を高め、またこの力がどう自分に作用するのかを学ぶ絶好の。
 ゆえに彼は何故か抵抗は抱いたものの結局のところ本能の赴くままにこの異変を受け入れて、そこから生まれる衝動に戸惑いながらも結局従った。天使の娘と言葉を交わしたいと思えば交わし、眺めたいと思えば眺めたし、触れたいと思えば触れた。だが今のところ抗力は高まった気がしないし、飽きる気配もない。むしろあの娘と接すれば接するほど、心は飢えて貪欲になる。もっと声を聞きたい、眺めていたい、触れていたい気持ちが強くなる。
 人間界でもそんな薬物があった記憶があるが、天使の持つ力とやらはその類なのだろうか。手放せば最後、ほかのどんなものでも代用できずに渇欲だけが膨れ上がり、最終的には幻覚を見るほど狂い果てて憔悴し死ぬと言うあの。
 だとしたら。否、だとしても。
 今更この感覚をなくせない。もうとっくに彼の心にはあの天使の娘のかんばせやその声が刻み込まれてその跡を埋めるものもなく、いやそれどころか埋めようとも思えず、ただただ彼女を求めるばかりで。
 今だってそうだ。一刻も早くあの娘が着飾った姿を見たいとこの上なく強く願っているし、正直なところ部屋を尋ねたいとさえ思うがそれをしたらきっとまた叱られる。
 しかし叱られるのもまたいいなんてふざけた考えも浮かぶのは何故だろう。
 あまり感情的な行動を取らない娘は、声を荒げることも少ない。だから叱るときとてわざとらしいくらいのしかめ面でもどこか甘さを感じ取ってしまい、そんな彼女と対面している際は反省しているはずなのにどこかくすぐったさもあって、それをついつい求めてしまう。一時的とは言え彼女の思考も感情も視線もすべてが集中して自分に注がれると実感できるのは、なんとも心地良く優越感を掻き立てるものなのだ。
「陰険顔でにやけてるな。気味の悪い」
 と、不意に聞こえた冷や水に彼は我に返る。
 直後目を瞬いて何秒もしないうちに、魔力を失った貧弱な肉体と成り果てた自分と目が合った。鏡でもないのに自分と目が合うなどおかしな表現だが、これももう慣れたので応じる彼の態度は堂々としたもの。
「ここにはお前と俺、つまり『俺』しかいないのだ。そのくらいは目を瞑れ」
「視界の端にちらちら昔の自分の助平顔など見せられてはたまったものではない。……と言うか、時間を潰したいのなら余所に行け余所に」
 汚らしい野良犬にでもやるようにしっしと手を振る未来の自分は、幼さの残る面立ちには似つかわしくなく書類相手の格闘が多い。現在進行形で書類の山々に囲まれながらペンだの判子だのを手にあれこれと忙しそうだ。対する彼は書類に囲まれることもなく、書斎机から離れた位置にある椅子に深く腰掛けて時折懐中時計を弄ぶくらい。
 四百年前と現在のふたりになったひとりの吸血鬼が味わうには残酷な構図だが、もとより食客の彼に執政の類はさせてもらえない。暇なときに手伝ってやろうかと当人としては気軽な調子で僕に声をかけたら、既に十分なほど恐れを振りまいておられる閣下にかようなことまで強いるなど滅相なきことでございますとそれはそれは丁重に断られた経験があるため。
 しかし、今宵に限っては珍しく彼も執政の一翼を担うこととなった。だからこそここで仕事の空気に我が身を染めるつもりなのだが、いっかな気持ちはそんなふうに切り替わらず。そうなってしまう理由もまた、本人にはちっとも見当がつかない。
「そう言うな。……もう暫くすればあいつがここに来る。あれを出迎えれば大人しく出て行ってやるから、それまでお前も大人しく待っておけ」
「俺の職場を待ち合わせ場所に使うなッ!」
 何故か声まで裏返らせて立腹する未来の自分の狭量をまたしても見せつけられて、彼は深く嘆息させられる。
 魔力を失いプリニー教育係となっても使命への情熱を失わない己に青年は少なからず尊敬の念を抱いていたのだが、天使の娘に限って言えば未来の自分はどうにも冷たい態度を取りがちだ。彼女に親しく何の非もないと考えている彼にとってはその点、憤懣やるかたない。そのくせたかが約束を交わした程度で独占欲をむき出しにするのだから、言動が一貫していない、どころか矛盾している。
「何を言う、これは正当な政務だろうが。なら、党首殿に出立の挨拶くらいはしておかねばなるまい」
「昨今の猪人族どもでもそんな堅苦しいことなどせんわ。……大体、あいつには此度の目的は伏せてあるはずだろうが」
 苦々しい自分の一言に、そうだったと彼ははたと目を見開く。娘の艶姿ばかり気が向いていたせいで、今宵彼が大統領府に出向く本来の目的など頭からすっかり抜け落ちていた。
 『死神王』から内密に『暴君』とお会いしたいとの書状を受け取ったのは事実だが、地獄党幹部の二人がいまだ議会に影響を及ぼす元大統領からの誘いを無碍に断れない、なんて弱気な理由でその誘いを受け入れた訳では勿論ない。真の目的はごく簡単かつ明快、資金繰りが厳しいので一時的に金を借りに行くのだ。
 設立当初から地獄党は党首の性格を反映してか財源は最低限に抑えられており、帳簿は魔界には珍しく清廉潔白なだけに羽振りの良い政党とは言い難い。政拳奪取を成し得てそれだけ大きな権力を得たとは言え、魔界はもともと密入界した大泥棒の手により下層区から大統領府に至るまでしっかり金を奪われていたため、彼らの財源が一気に増えることもなかった。
 勢力を広げていくことで着実に扱う金の桁が変わっていくのは事実だが、目の下に隈を作った怪計係が赤字にならない瀬戸際の額に抑えたとの報告をしに党首のもとにやって来て、ようやく月の終わりを実感できる流れが党設立後から習慣化していた――はずが先月、とうとう赤字が出た。しかもそれまでに積み重ねていた貯蓄で誤魔化せそうにないほどに、激しい出費が出てしまった。
 理由は明確だ。地獄を騒がせた謎の連続爆発事故による、屋敷を含めた各施設の修復費用と巻き込まれた党員たちへの労災手当と自衛団の時間外手当。またそれらによって生み出される費用全てを、先月と比べてもさして収入が増えていない党が出してやらねばならなかったから。
 まあ事故が起きたのならば仕方ない。今月も我々の采配に問題はなかったのだから犬に噛まれたとでも思うしかないと、砂を噛んだような顔の参謀役と沈痛な面持ちの党首を相手に罪務大臣を始めとする会計に携わる面々が慰めたのだがそれさえもかの気高き悪魔殿には何の効力も持たなかった。
 何せその爆発事故の犯人は彼、いや正確には四百年のときを隔てた伝説の吸血鬼、彼らふたりなのだから。
 ちなみに爆発事故と言うのも正確なところ異なる。
 屋敷の中でよりにもよって大蝙蝠の暴帝を召喚し、月影のように揺らめく外套に全力で己の暴を全力でぶつけようとした現在の吸血鬼は、同じく大蝙蝠の魔帝を召喚した四百年前の吸血鬼が揮う暴によってそれを阻止されたどころか壁に弾き飛ばされ、おまけにこの程度かとの挑発さえ受けたので何糞と立ち上がり――そこから繰り広げられる屍山血河の激戦については割愛しよう。暫く経ってふたりが我に返れば、周囲は瓦礫の山と化し、巻き込まれた悪魔たちの呻きが所々から聞こえてくる大惨事が広がっていた、と言うのが紛れもない『事故』の顛末。
 ことの真相をただちに知らされた参謀兼執事は割れんばかりの頭痛で今すぐにでも寝込みたい気分になっていたものの、しおらしく反省しているふたりとなってしまった主に、これは閣下が偶然居合わせただけの事故として処理するのでおふたかたともそのつもりでお願いしますと申しつけて両者それを了承したのだが、不幸にもそれは以降続けて起きてしまった。大体上記と同じような、どちらが先に手を出したかが異なるくらいの流れで。
 連続『爆発事故』として徹底した措置を施し、しかも四百年前と現在の主が狙われているとの噂を流すことで世間から真実を遠ざけようとした人狼の心労はいかばかりか。実際そのふたりいずれかの命が狙われていたことには違いなかった訳だが、両者が下手人であろうとは情報局さえ預かり知らぬ話である。知ったら最後、そいつは腐敗ヶ原のどぶ川に物言わぬ姿で浮かぶ運命が待ち受けているだろう。
 ともかく広い魔界の中でもたったの三人しか真相を知らないこの連続『爆発事故』が、新党設立後初の大赤字を引き起こしたと知らされて党首の吸血鬼が自責の念に駆られるのは至極当然。執事も今回は甘やかせず、どうしてご自分と争われるのですかとこれまでの争いが起こる毎と同じく厳しく問うたが、原因を言えばどうなるのかまで頭の回らない青年ではないのでこちらもいつものごとく言葉を濁した。
 今の自分よりも強いと理解しているはずの全盛期の自分に彼が喧嘩を売ってしまった理由はただ一つ。青年が血を断つ切欠となった元人間現天使の娘に、よりにもよって四百年前の『暴君』と謳われていた己が惚れたから。
 初めて会ってから言葉を交わした期間はたったの三日だが、以降四百年の辛苦と孤独を味わった末に奇跡的な再会を果たした、吾が命にも代え難い女を横からかっ浚われるなど。たとえその相手が過去の自分であっても、彼はおめおめと見過ごしてやる気などイワシの小骨ほどもない。
 だから時間の矛盾が起こるとしても、あれに触れるな近付くなと恋敵になってしまった己を彼は全力で退けようとしたのだが、当然魔力差があるため殺すことまでは相成らず。対する全盛期の男はこちらも我慢の限界が来たらしく、あれを泣かせた輩が偉そうにほざくなと低く唸って未来の自分を殺そうとする始末。
 かくして、暴だけではなく執念深さについてもそれなりの自負を持つ『暴君』と呼ばれた悪魔たちの闘いはおおよそ一週間地獄のあらゆる場所で顔を合わせるたび繰り広げられ、ようやく収束したのはついに人狼が諸々の心労による神経性胃炎から倒れた影響で現在の吸血鬼が書類の山に押し潰されそうになるほど忙しくなった件と、喜んでくれるだろうと期待して渡したドレスに娘があまり芳しくない反応を示した上、すぐ着てくれもしなかった過去の吸血鬼がふて腐れて暫く部屋から出てこようとしなかった件が重なったため。
 ちなみにこれらの二件について、自覚はなくとも渦中の人物でもある天使の娘が細々世話を焼いたり天岩戸を開いたりとさりげなくもしっかり活躍していたのだが、特別扱いを受けた気になって浮かれていた両者はお互いそれをいまだ知らずにいる。
 ――さて、話をもとに戻そう。
 見返りのない降って湧いた赤字を埋める方法について、具体的に解決策を見出せない主従は焦っていた。特に事件を起こした片割れでもあるプリニー教育係の焦燥は尋常ではなかった。
 今月の給与によって直下のプリニーたちがようやく転生できると喜んでいる姿を見かけた彼としては、支払い日を引き延ばすなどプリニー教育係として言語道断。だが悪魔の中でも最下層として扱われるプリニーたちの給料まで支払える余裕は現在党にない。未定として引き延ばすほかないでしょうと、主の心境を慮って静かに言葉をかけた執事の手に、しかし唯一の解決策が握られていたとはそのとき彼らは思いもしなかった。
 それが『死神王』からの密書。事故の真相を知らなくてもこちらの懐具合の苦しさは予想できたのか、返答次第では無利息無利子で金を貸し付けてやっても良いとの文面に、主従は渋い顔をした。今まででも旧政拳陣にはそれなり大きな借りがあり、現与党は野党に負んぶ抱っこだ、甘えているだのと揶揄されることも少なくない彼らにとってこれ以上借りを作るのは危険だったのだ。
 しかし背に腹は変えられぬ。長い協議の結果、二人は苦渋に満ちた形相でもう一人の下手人である『暴君』を呼び、事情を説明した。二つ返事でそれを請け負った男が主に何を考えていたのかは、最早言わずと知れていよう。
 そんな訳で現在の吸血鬼の誇りにかけて資金の融資に向かわされる過去の吸血鬼は、鼻歌でも歌い出しかねないほど上機嫌でいたのだが、書類に囲まれている側は同調できるはずがない。苦虫を噛み潰したような顔を隠しもせずにぼそりと吐き捨てる。
「……はん、だらしない顔をしおって。そんな面をハゴスに晒すなど、考えただけでも恥ずかしくなるわ」
 対する長身の青年は余裕綽々。それどころか、いっそ涼やかと表現できる笑みを滲ませ相手を挑発する余裕さえおありだった。
「ふむ。話に聞いていたがこうして見ると確かに男の嫉妬は見苦しいな。……尤も、それほど悪い気もせんが」
 ぎりと、奥歯を噛む音が執務室に響く。それは痩躯の吸血鬼が図星を突かれた何よりの証明だが、悲しいことに虚勢を張る余裕など彼にはなかった。
 そうとも嫉妬している。これが自分の身に降りかかったとしても、嬉々として同じ行動を取るくらいに彼は昔の自分がこれから味わうであろう時間や出来事が羨ましかった。
 付き人の名目を被せ、あのありのままでも十分に美しい天使の娘を自分好みに飾り立て連れ歩くなど。心配そうな顔で見上げられ、緊張を宿していながらも温かく柔らかな身体を少し寄せられて、甘い体臭をふとした拍子に嗅ぎ取るなど。自分がそんな体験をすると思えば頭が蕩ける心地でいるだろうに、現実は残酷にも違う。しかもこれからそんな真似をできる相手は――誰であってもどんな理由でも許せそうにないのだが――、四百年の真の辛酸も飢えも知らぬ自分なのだから腹立たない、嫉妬しないほうがおかしい。
 眼前のにや下がる己に今から再起不能になるレベルの大怪我でも負わせ、不幸な事故が起こったから急遽自分が代わりに来たなんて展開に持ち込んでしまおうかと物騒な考えを巡らす彼の思考を視線の鋭さから読み取ったのか。また金時計の蓋を開けてから閉じた男は、これからそれはもう楽しい時間が過ごせるだろうに、何故か獲物を弄ぶ猛禽類の微笑を浮かべながら訊ねてきた。
「……まだ少し時間がある。少し遊ぶか?」
 当たり前だが、そんな笑みを宿して投げかけられた遊ぶ、の真意が平和的な解釈であるはずがない。しかし痩身の吸血鬼はその手の脅し文句には慣れているし、生きるか死ぬかの瀬戸際を潜った経験は圧倒的に眼前の男よりも多いので動じることもないどころかこれ幸いと不敵に笑い返す。
「俺はお前と違って多忙だ。……どうしてもと言うなら、まあ足の一つや二つもいでやっても構わんが」
「ほう。ではその礼に首を手折ってやるとするか」
「ああ、ならば変更しよう。心臓と頭。どちらもきっちり握り潰してやる」
「それは光栄。代わりと言っては何だが、お前の全身、細かく砕いて小魚の餌にしてやろう」
「ありがた過ぎて涙が出るな。ついでと言っては何だが、液状化する気はないか?」
「……液状化、ですか?」
 最後の一言が自分たちの放った声と違うと数秒の間を持ってから察したふたりは、そちらに瞬時に首をやる。半開きの扉の前には予想を裏切らず、件の娘がいた。
 桃色の髪は巻き髪特有のふんわりとした線を保ったまま一つにまとめ上げられているのか。ボリュームを持たせた右寄りの頭部から、巻き髪が右腋へとゆったり垂れ流れ華やかな。更に開けた左の頭部には真珠の雫と金細工の葉を縫いつけた黒薔薇のコサージュが覆い被さって、それだけでも十分なほど新鮮で晴れ晴れしい。顔にも珍しく化粧を施しており、普段でさえ瑞々しく柔らかそうな唇は鮮やかな赤葡萄酒の潤いを宿し、瞼に作られた淡い陰影や秀でた額から鼻筋にかけて、色香と高貴が仄かに薫った。
 身を包むは優美な赤いレースと煌く黒いタフタとをふんだんに使った豪奢なドレス。幾重にも重ね合わせてうねる生地はそれだけでも十分に華やかで、胴体を包んでいたと思ったら大きく広がるスカートにも複雑な波間を作って花弁が重なる様子を重厚に描く。いつものベビードールが可憐な鈴蘭や白百合の蕾ならば、こちらは大輪の、古葡萄酒色の艶をほんのりまとって壮麗に咲き誇る黒薔薇を連想させた。
 首から胸元は黒曜石のみで構成されたシャンデリアさながらの首飾りで覆い飾られ、耳元にも同類のイヤリングが覗く。かたちのよい手は黒レースの、赤いリボンを巻いた短い手袋で覆われて、肩から手首までの肌は、身を包む黒と赤に映えたか淡い光沢を放って一層白く象牙のよう。大きく開いた羽の生えた背中なんぞを間近で目にしてしまえば、その肌触りを堪能したい衝動に駆られて大変なことになったろう。
 かくして普段の高露出ながら清楚な印象の天使から魔界の貴婦人へと変貌を遂げた娘は、男ふたりの瞬き一つしない視線を受けて居心地悪そうに身じろぐ。そんな仕草は普段と相変わらず、ついでに言うなら軽く困っていそうな表情もいつもと同じなので、堂々たる佇まいを貫くべき装いには浮いているのだが、自前の特殊な感情によるフィルターを通して彼女を見ている彼らにとってはそんな野暮な感覚など存在しない。
「もう来たか。予定の時間より少し早いようだが」
 ともあれ、居心地が悪いのは娘くらいの沈黙を最初に破ったのは当然ながら懐中時計を手にする男。その発言に自分の職場を待ち合わせ場所に使われただけと自覚させられた男は視線を手前に引っ込めるも、眉間の皺がその心中を雄弁に物語る。
 熱どころか物理的な重みさえ感じかねない赤い視線の呪縛から解放された娘は少々の戸惑いを押し隠すようにそちらに軽く視線をやる。本人としては普段通りのつもりなのだろうが、それだけで妙に色っぽい。
「相手の方を待たせないため、待ち合わせ時間より少し早くに来るのは常識です」
「生憎そんな常識は多くの悪魔に通じぬ」
「あら。そう仰るあなたも悪魔ですのに、随分と早くいらっしゃったみたいではなくて?」
「半端に時間が空いたからな。わざわざ暇を潰すのも面倒だ。……それに、お前をいたずらに待たせる気は俺にない」
 ――無駄に格好付けおって青二才めが。党首の吸血鬼が思わず口の中で呟いてしまうがそんなぼやきは当然向き合う両人の耳に入らないため、天使の娘は心地良い衣擦れの音を立てながら膝を折る。
「お気遣いありがとうございます。ですけれど、それではわたくしがお待たせしたようで心苦しくなりますわ」
「女の身支度が手間取ることくらい俺とて知っている。それがお前とあらば、少々待たされる程度、苦にはならん」
「……ふふ。ここは光栄です、と言うべきなのでしょうね」
 全くはかどっていないものの、仕事をする振りをしていた青年は聞こえてくる会話に焦りを禁じ得なかった。過去の自分がこの娘に執着している点はもう間違いようがないからその気持ちの示し方に矛盾はない。だがそれにしたってこの露骨なまでの押し具合は何だ。今の彼にとっては考えられないほどだが、それを彼女は尻込みも遠慮もしていない辺りも完全に予想外だった。こんな調子でふたりっきりになってしまえばどうなるか。最早未来視と言えるほどの悪い予感が頭に過ぎり、痩せた背に一筋冷たい汗が流れてしまう。
「そのくらいで大層な返礼などいらぬ。……しかし、よもやこれほどとはな」
 深く息を吐いた過去の自分がしみじみと着飾った娘を眺めているのだろうと想像すれば素知らぬ振りなどできるはずもない。
 釣られるようにちらと顔を上げた彼は、予想通り男の無遠慮な視線に晒された娘が頬をほのかに染めながら困惑気味に俯く姿を目撃してしまう。化粧を施した今の彼女がそんな顔をすると、盗み見の立場も忘れてつい見入ってしまうものがあった。
「……あの。あまり見られたくはないのですが……」
「それくらいは我慢してもらおう。……待った甲斐があったともう暫く実感したい」
「そんなことを仰られてましても……ねえ?」
 たっぷりと降り注ぐ血の色の視線から我が身を隠したいのか軽く相手へ背を向けた娘は、イヤリングをちゃりと鳴らせ、真正面の彼へと助けを請う。尤も、請われた側とて彼女の姿を目に焼き付けていたためすぐさま反応できなかった。目が合った自覚から慌てて我に返り、なんともないように口の中で何やら呻いて、続く言葉を探ろうと明後日の方向に視線を彷徨わせる。
「ま、まあ、いつまでもここに居座っている訳にはいくまい。……付き添いの格好を眺め過ぎて遅刻なぞ、笑い話にもならんしな」
「え、ええ。そう、ですわよね」
 必死に同調する娘に、それもそうかとあっさり過去の己が頷いたところで彼は悟ってしまった。彼女にせっつかれたとは言え、暗にふたり揃ってとっとと退室しろと告げてしまった自分の愚かさを。
 しかしこの場で意見をすぐさま翻すのも情けない。どうやって自分の考えにぶれを生み出さないまま向こうの顔に泥を塗らないようにしつつこのふたりの進展を阻止するか、齢二千年弱の生の中でも五指に入る勢いで頭を激しく回転させて唸る男の苦労を露知らず。金時計を懐に収めた約千六百歳の吸血鬼は、ようやく立ち上がって女の手を自分の腕に絡めるよう優雅に、僅かな抵抗の素振りでも見せようものならそちらのほうが野暮だと思わせるほど丁寧に導く。
 無論、人間の頃に銀の匙をくわえて生まれた娘はその手の作法を知らぬ訳はなく、そのため相手の意図も重々承知しているはずなのに、彼女は一度はっきりと首を横に振った。
 自分の意図に反する理由がわからず軽く眉間に皺を刻む男に、女は真紅の唇を綻ばせる。それだけの仕草のどこにかような要素があったのか、甘くも古めかしい花の香りが立ち昇り、笑みを間近にした青年のひそめた眉が自然伸びてしまう。
「ハゴス様にお会いできるのが楽しみなのはわからなくもありませんけれど、今からそんなに気を張ってしまえばきっとこちらに帰ってくるまでにくたくたになってしまいますわ。そう言うことは、あちらに着いてからにしてくださいな」
 子ども相手のような窘め方に男は小さく鼻を鳴らす。彼女の指摘もまた間違っていないが、触れてほしい気持ちは強かったのでやんわりとでも断られるのは些か傷付いた。
 しかし過去の自分と四百年前から思慕していた娘が腕を組む光景を第三者目線で見せつけられずに済んだ男は、彼女の言葉に急に顔を上げ、そうだったと声高く呟く。
「この件についての報告はアルティナ、お前に頼む」
「……報告、ですか?」
 彼女は付き人として会合に出向くのであって、金の融通がきちんと為されるかどうかは密書に目を通した面々にしかわからないだろうに。さっきは自分が釘を刺しておいて、その張本人が墓穴を掘るのかと呆れの色も露わに己を見下した青年に、わかっているわとでも言いたげな視線が忌々しげに返ってくる。
「ああ。俺が言うのも難だが、過去とは言え俺の見解では大雑把過ぎて手応えもあまり当てにできん。話が終わったあとのハゴスの様子だけでも構わんし、……まあ単なる直感からの印象でもいい。ともかく帰還次第、お前の今夜の感想を聞きたい」
「……そう言うことでしたら、わかりましたわ」
 穏やかな笑みで肯首した娘に、頼んだぞともう一度真剣な顔で念を押す四百年後の自分の意図は何か。
 自分が同じ立場になったらと思考を巡らせると、身も蓋もなくふたりきりの時間を作りたいものとの考えに辿り着き、彼は呆れた吐息を漏らす。
「疲れているだろう女にわざわざ帰ってきて話を聞かせろとは、未来の俺は随分と人遣いが荒いらしいな」
「俺とて長々こいつを拘束する気はないわ。……しかし、あまり疲れているようなら一言、いや、翌日でも構わん」
 気持ちはわからなくはないが、いくらなんでも必死過ぎやしないかと未来の自分の態度に長身の吸血鬼はますます鼻白む心構えでいたのだが、彼女の様子にその気は大いに殺がれることとなった。
「ふふ……、お心遣いありがとうございます。それでは帰り次第、またこちらに伺いますわね」
 静かに瞼を伏せ笑んだ女の表情は、今は艶やかな化粧を施しているせいだろう。八重の花弁を持つ蕾が花開く瞬間のような、息を呑むほど美しくも後ろ暗い甘い疚しさを濃密に抱かせる。
 しかし疚しさなど、笑みを浮かべた張本人は恐らく抱いていまい。その証拠に微笑まれた未来の自らもまた、ほろ苦くもくすぐったそうに頬の辺りを歪めているだけで。
「ここで断言するな。疲れたなら明日でも構わんと言っただろうが」
 つまりこれは自分だけが感じ取ったものだと、ひとり時の爪弾きに遭った男は掻き傷が疼くような胸の痛みから実感する。こうなる理由はわからない。いや、正確にはあまり考えないようにしている。ただ確実にこの感覚を覚えるのは、娘がこの、魔力を失った己についてその優しさや気遣いを見せる瞬間だと気付いてはいた。おかしな話だ。この天使は自分も含め、誰に対しても優しいのに。
「今夜もあなたは遅くまでお仕事のご予定なんでしょう? でしたら、わたくしも疲れたからすぐに寝るだなんて言っていられませんもの」
「お前と俺とでは疲れの種類が違う。わざわざ張り合う必要はない」
 言葉の上ではぶっきらぼうなのに、魔力を失った青年が女を嗜める響きは柔らかい。注ぐ眼差しも同じく、呆れているのはかたちばかりで本心は娘を気遣っているのが見て取れた。
 普段からそうあるべきなのに。なのにどうして、あのときは娘を泣かせたのか。謝りもせず部屋から追い立てたのか。そうして、あんなことをいまだ女として触れてもいない天使に告げたのか。四百年後の己へ強い疑問が彼の中に渦を巻くものの、かと言ってこのときのように優しくするばかりではこちらも困――それはまた、何故。
 自分で自分の思考に驚かさせられる。この女に優しく接しないこの己に強い不満を抱いていたではないか。なのにどうして実際に優しく接すれば困るのか。自分以外に笑顔を向ける娘を見たくないからか。そんなもの、当人の好きにさせればいいはずなのに。――本当に? 心の底からそう思える自信は、一体どこにあるのだ?
 じわと、例えようのないほどの危機感に焦りが滲む。けれどその感覚を、男は悪魔としての防衛本能と無理に歪めて受け止めた。いつか娘の笑顔を見て言の葉に触れて、天使が持つ力に完敗を期したと思い込んだときのように。
 そうして遅ればせながら、もう完全に手遅れにも関わらず言い聞かせる。このままこの天使に尻尾を振っていてはならないと。そうとも、確かにこの娘の笑顔はいい。泣かせるのも辛い思いをさせるのも論外だ。しかし元来、天使と悪魔は相反するもの。たとえ悪魔であろうが接するもの総ての敵意を殺ぐ力を身に宿した天使の好きなようにさせていいはずがない。
 だが悪魔は天使にどう対応すべきなのだろうかを彼は知らない。人間相手ならば恐怖でもって戒めると言う大義があるが、天使にはそんなものあったろうか。相手が敵意を見せれば躊躇なく応じてやればいい。しかしそうでないのなら。それどころか、友として己に情を持って接してくるのならば。
 わからない。わからないけれどどうにかしなくてはならない焦燥感だけは強いから、彼は無防備な細腕を掴んでやや強引に自分のほうへと引き寄せる。急にそんなことをされた娘の白く細い肩が小さく強張った。自分が乱暴なことをしたからだと理解しているのに、胸が痛むのはどうしてだろう。
「あら、もう時間でした?」
「……ああ」
 しかし嫌われている訳ではない。その証拠に女はなんともなさそうに笑いかけ、腕を掴んだ己の手に優しく片手を添えてくれる。
 少しずつ力を緩めて最終的に解いてやれば膝を軽く折られ、そのまま扉――ではなく、党首となった四百年後の己に向かって、彼女は軽く身を捩り丁寧に挨拶をした。たかがそんなことで胸が薄暗い方向に染まりかけるのはどうしてだろう。
「それでは、行って参ります」
「うむ。危険はないと思うが、……まあ、気をつけろ」
「はい」
 そんなやり取りと微笑を痩躯の吸血鬼と交わしたあと、娘は扉のほうへと身を翻してドアノブに手をかける。その瞬間、彼はちらと先の彼女と同じように背後を振り返って。
 いかに髪や体格、地声の音程さえも変わろうがこれだけは初めて見たときのままだと娘に称された己の鮮血色の瞳を視界に納める。別段まじまじと見つめる価値もない顔だが、それでも籠める思いは明確に伝えるため。
「危険などない」
 何事かと軽く目を見開いた未来の自分に、一度女と交わした約束を破った男に、彼は昂然と告げる。
「俺が守る」
 お前ではなく、俺が。
「あいつは、俺の――」
 ■だからなと。
 口にしかけて、けれど何を言うのか唐突に忘れてしまった彼は、意味不明な己の行動に首を傾げつつ体の方向を戻し、ドアノブを握った女に寄り添うようにして執務室を出る。
 取り残れたるはひとりの吸血鬼。否、そもここは元来彼の仕事部屋であるから、来客が去ってようやく本来の状態に戻ったと言うべきなのだろう。しかし青年の内面はふたりの客人が去って一息つける余裕など皆無、どころか嵐に呑まれた木っ端船さながらの。
 何故なら彼はしっかり理解していた。あの四百年前の、人間だった頃の娘と出会ってもいない己が先程なんと言おうとしたのかを本人よりも明確に。その理由は簡単。あれが声に出そうとした独占欲は、娘と出会った直後から今の今まで己が胸の杭の奥に息づいて今も衰えようとはしないため。
 あのままふたりきりにさせていいはずがない。ないのに動けない。よりにもよって昔の自分の顔、いや昔の自分そのものが、あのとき彼女に言えやしなかったどころか今も口にできないままの言葉を、この自分相手に告げようとするなんて珍妙に過ぎる体験をしたせいで。
 それはある意味では分離と表現できるのだろうか。再会して以降も昂り続ける想いを直接表現することもできない今の自分と、なんとなれば悪魔の誇りなどあっさり手放しその言葉を躊躇いもなく相手に伝えられるであろう過去の自分は、起点を同じくしただけの完全な別人だとでも。
 ならばその完全な別人に、女の心に上手いこと滑り込んだあれに奪われてしまうのか。四百年の枯渇と苦しみの果てにようやく再び巡り会えた、あの清く可憐でしなやかな強さを宿す彼だけの花を。命を。生きる意味そのものを。
 そんなこと、絶対にさせてはならない。
 体内からようやく衝撃が抜け出た痩躯の吸血鬼はゆっくり立ち上がったが、今更行動に移すなど遅すぎた。
 直後、軽いノックのあと開かれた扉の向こうからぞろりプリニーどもが一礼ののちおん出てきて、まず手始めに青年の進行を阻止する。今後我が身に降りかかる未来を一切知らない彼は、また書類が追加されるのかと最早他人事の気分で鬱陶しく眉根に皺を作るがさにあらじ。
 魔界の最低級悪魔たちはどうしたことかその頭やら腹の鞄やらに見慣れぬ機材を携えていたのだ。そうしてそれを組み立てたり、幾匹か肩車をしてから棚の上に置いたり、何をどうする気かさっぱりわからず目を瞬くばかりの青年を尻目に、突然の来訪者たちの最後の一人、人狼が入室し空気が一変する。
「フェンリッヒ様、設置完了いたしましたッス!」
「よし。ならば総員解散せよ」
 敬礼後この命令にもまた従順に応じて、プリニーたちはつむじ風の勢いで去っていく。自分の断りもなく機械を設置された彼としてはただでさえ良くない機嫌が更に低下してしまい、これを命じたらしい僕に一応静かに訊ねるも視線と声は随分と刺々しい。
「……フェンリッヒよ。何故、わざわざ主の部屋にかようなものを置く?」
 指先でダークグレイの物体を突付く。脚立を使って書斎机を真っ直ぐ見つめられるようにされたそれの名前を、彼とて知らない訳ではない。棚の上やら窓際やら照明の上に置かれたものも、これと同類なのも知っている。しかしそんなものが、どうして自分の執務室に設置されればならないのかまでは知らない。
 だから吸血鬼は堂々訊ね、対する執事は主の機嫌の悪さと今後の展開を予想してか軽く目を伏せいつも以上の下手に出て、まずははっきり頭を垂れた。
「ヴァル様に何の断りもなくこのようなものを設置した件につきましては、まことに申し訳なく思っております。ですがこれは、その、……『暴君』ヴァルバトーゼ様が……」
 言い淀んで出てきた名に彼の眉が動く。件の『事故』以降、その男との関係が悪化していることをいやと言うほど理解している人狼は一つ咳払いをして間接的に相手の形相が変化している自覚を促すと、どうにか説明を続けるが。
「『今夜はあいつが仕事を放り投げてどこぞに行方を眩ませる予感がするから、買収にも脅しにも屈しない監視を付けろ』と申されましたので、このように監視カメラを」
「おんのれぇええええええええッッ!!!」
 言い切る前に、地獄の釜底ですら割れんばかりの咆哮を耳にして、人狼は瞬時に気が遠くなった。
 そうしてこんな調子の主をここに引き止めろなどと、もうひとりの主たる長身の吸血鬼はなんたる無茶を命じるのかと割合本気で恨みたくなったが、まあ結局。彼は四百年に及ぶ『暴君の僕』としての矜持から、逆立ちしたってその命を拒否する気にはなれないのだ。
 故に人狼の青年は、立ち眩みを覚えながらも同時に強く己が胸に誓う。痩身の主を、プリニー教育係の吸血鬼を、いまだ人間の娘との約束にこだわって人の血を吸わない頑固な悪魔を、今夜は書類漬けにすると。


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