スポンサーサイト

--/--/--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[↑]

出会い

2011/07/06

 あまりいい日ではなかった。
 折角の給料日なのに質屋は何か一悶着あったらしく、ようやくの休憩時間に夕方に辿り着いたときには酷い有様だった。
 この辺りでは珍しい石煉瓦の壁には無数の刃物による傷が残り、窓枠は破壊されて、今は布で覆われている。なめし皮でないとこの時期はまだ寒いだろうに、店主はけちだから色褪せた麻布を重ねていて、風が吹いたら埃っぽくなるだろうと思われた。ちなみに扉は丸ごとない。頑丈そうだったチョコレート色の木のドアの代わりに、やはりこちらも麻袋を加工したような布が掛かっている。急拵えのため仕方ないが、一気に貧乏臭くなった。
 ノックするものがないので彼女はとりあえずごめん下さいと挨拶してから布をかき分けるようにして店内に入ると、それはもう綺麗なものだった。――当然、ものがないと言う意味で。
 どこぞの貴族さえも使ったことがある質屋の証明品として堂々と飾り立てていた宝剣は勿論のこと、領主から授かったらしい鎧に、画家にたんまりと金を渡したのだろうこの店の住人たちがふくふくと描かれた肖像画でさえも額ごとなくなっている。所々棚が壊れているから、やはり強奪に遭ったのだろう。このご時世でこの場所ならば仕方のないことではあるが、同時に憐憫の気持ちも沸き上がる。
 片腕に包帯を巻いた、肖像画ではばら色の顔に立派な巻き髪の鬘を被って、今や赤ら顔に禿げ頭の店主は彼女が声を発した時点で客が誰であるかを理解していたらしい。ふてくされた顔に更なる機嫌の悪さを滲ませて、彼女を睨みつけた。
「あんたか」
「はい。今日はこれをよろしくお願いします」
 いつものように皮袋に入れた指輪を取り出し、目の前でハンカチで拭ってから秤の一方に入れる彼女の何がおかしいのか、店主は引き出しから片眼鏡を取り出すと唐突に鼻で笑う。
「あんたのも持ってかれたさ。どっかの売女にでも渡すんだろうよ」
「そうですか……。仕方ありませんわね」
 強奪者たちがどのような人たちかは知らないが、眺めるばかりでろくにはめないよりは有効な活用方法だ。彼女は自然とそう思って頷いたのだが、その態度の変わらなさが店主にとって癪に障るらしい。布手袋をはめて指輪に傷がないか片眼鏡で確認しながら嘲笑を浮かべる。
「余裕だねえ。ま、宝石なんかあったところで腹の足しにもなりゃしねえからなあ」
 その通り。だから彼女は今日、質に入れると言う名目で指輪を売っている。普段ならば彼女を相手にする際は嫌そうな顔で、口も利こうとしないはずの店主と珍しくも会話しながら。
「物々交換が可能ならば、それに越したことはないのですが……」
「よせや。てめえの懐にあった宝石なんざ、どんな家でも願い下げさ」
 何の病気がうつるかわかりゃしない、と吐き捨てる店主の言葉に、彼女の眉尻が少し下がる。なるべく清潔を心がけているのは自分の身だけではなく、身に付けるものとて同じなのに。
 だがそれを言ったところで納得してもらえないと知っているから、彼女は黙り込む。納得してもらえるほどの信頼とは口から出る感情的な言葉で得られるものではなく、行動と時間の経過と結果によって生まれるものだ。
 指輪をあらゆる角度で眺めた店主はつまらなさそうに息を吐くと、やはりつまらなさそうにペンを取り出し、帳面に数字を書く。ほかに町には質屋がないため交渉の余地もないと知っている彼女ではあるが、書かれた数字の桁に微かに顔を強張らせた。どうやら今月は、随分と節約を要求されるらしい。
 彼女の反応を盗み見て満足したのか。店主は金庫の鍵を取り出しせせら笑う。
「仕方ないのはわかってんだろ。うちは今朝からこのざまだ、金庫は無事だったとは言え、特に懐が痛くてね……」
「ええ、わかっています。――あなたとあなたのご家族に、神の祝福があらんことを」
 粛々と十字を切る彼女の何かが店主の逆鱗に触れたようだ。眉をつり上げ、一枚ずつ数えていたはずの貨幣を客相手に投げつけてくる。驚きはしたものの幸い彼女は腕が反射的に動いて前を庇ったため、物理的な痛みはなかったが。
「とっとと出てけ! てめえなんざに幸運を祈られるほど、うちは落ちぶれちゃいねえ!」
 罵声に少し、ほんの少しだけ心に衝撃を受けてしまい、彼女は屈んで床に散らばる貨幣を手早く拾う。金の台座に紅玉が輝く指輪と同価値とは思えないほど少ない数ではあるけれど、今の彼女に与えられたのはそれだけだから。
 すべてを拾って皮袋に放り込んだ彼女は、膝の埃も払わず失礼しましたと短く告げて店を後にする。苛立ちを抑えきれない顔をした店主は、心底嫌そうな顔でそっぽを向いた。

◇◆◇

 そんな調子で指輪を金に換え、向かった先は雑貨屋だが当然こちらも質屋と似たような、と言うより更につっけんどんに扱われ、先月と同じ金額なのに得られたのは包帯三束と脱脂綿二袋、石鹸一個に消毒液一本。悪意あっての交渉とは言え、これで診療所を一ヶ月持たせろとは手厳しい。
 何日持つかと思いつつ残りの貨幣を数えながら次に向かう先は――否と、彼女はそこで初めて躊躇する。もう陽は沈みかけているから、目的の場所は閉店している可能性もあった。であれば無駄足だ。体力の消耗は控えたいところだし、完全に暗くなる前にもう帰ったほうがいい。
 しかしやはり気になってしまって、彼女は早歩きでそこを目指した。町のはずれと言うよりも森の麓と表現したほうが適切な場所にある、小さな庵の薬局を。
 町のどの店も古い歴史あるそこは、通りにある薬局なんかより安いのによく利くとの評判をどんな世代からも得ているが、店主であり薬剤師でもある老婆の知識が教会とは異なる宗教からのものとされるため堂々と訪れるものは極めて少ない。最近大人しくなってはきたが、自称魔女狩り裁判員どもに暴力でもって適当な証言を引き出されるのは誰だって嫌だ。
 そして魔女狩りを目の上のたんこぶとしながらも黙認し、また通りにある薬局が掲げる十字と同じ教会で医療の教えを受けた自分が訪れるなんて、申し訳なさと無力な自分への憤りがあるけれど、それでも彼女はここに来てしまう。特に最近は、ここの薬でなければならないような患者が多いために。
「……まだ開いてます?」
 店全体が嵐が吹けば飛びそうなほど小さく弱々しい風情だったが、そこに詰まる知識と技術は確かなものだから、彼女は緊張しつつ木皮を何枚も重ねてできた扉をノックする。暫く待っても返答はなかったが、内部の閂が開いた音が響いた。
 失礼しますと短く告げて、店に入れば庵中に濃厚な草の匂いと白い煙が咽るほどに立ちこめていた。咳きこみそうになって何事かと口元を覆う彼女の姿をどうやって見たのか、煙の発生源、店の奥の竈で大釜をかき混ぜ続けていた痩身の老女は、こちらに一瞥もくれないままうふふと甲高い笑いを漏らす。
「また来たのかい。いけない子だね、夜鳴き鳥ちゃん」
「わたくしは小鳥ではありません、ただの看護師です」
 彼女はいつもここに来るとどのように振る舞えばいいのかわからなくて、雑貨店でも質屋でも自らが働く診療所でも見せないほど身構えながら卓の上に小さな貨幣を一枚置いてから訂正を申し出るのだが、老婆は彼女の声を聞きもしない。
「ひとり囀る可愛い鶯。籠で暮らせば良かろうに、あんたは我が身を軽々削る。そうすりゃもっと広く高くへ、飛んでいけると信じてるから。けれどそれはいけないよ」
 腰より高い位置にある大釜を底からかき混ぜるのは重労働のはずなのに、老婆の声は謡うようにして早速彼女を言葉で弄る。だから彼女は老婆が苦手だ。けれど苦手と思うことは老婆の言葉に正しさを見出しているからだと冷静に判断し、異教徒の戯言だと蔑もうとする自分を静める。
「ほそこい腕にゃあ荷物が二つ。重たく昏くも深いそいつら、両方持つのは難しい。なのにあんたは両方見捨てず、丸々抱えて空向かう。……いけないねえ、ただでさえどっちつかずだってのに」
 老婆は愉快そうにも嘲っているようにも、心配しているかにも聞こえる声音で、彼女に現在の自分を突きつける。確かに今の彼女の中では重い荷物に該当するものは多く、恐らく信念である空を目指し進むには苦しい。理解はしている、覚悟もしている。なのに老婆の声は、彼女の根本を一度大きく揺さぶる。原因は明確だ。どっちつかず、の言葉にその胸は素直にざわついた。
 だがそんな言葉をも受け入れようと、差し出された茶漉し付きの巨大な漏斗をしっかり掴んだ彼女は下唇を噛むだけで自分の動揺を抑え込む。この薬局で更に安価に薬を買える方法はただ一つ、こうして老婆の言葉に惑わされながら調薬を手伝うほかにないからだ。
「しかし迷うはあんたの役目。足掻き藻掻くがあんたのさだめ。何もできない凡人の、何も知らない俗人の、徒労こそが徳となる」
 ぶつくさと呟きながらも老婆の動きは淀みない。彼女の持つ漏斗に向かって湯気立つ柄杓の中身を注ぎ、大釜の中の液体で柄杓を満たしの動作を繰り返す。
 熱風と草の匂いが直接顔にかかる彼女にとっては、咳きこまないようにするだけでも歯を食いしばるほど辛い。その上、湯気立つ液体が漏斗にも遠慮なく熱を伝え、更に液体が飛沫となって肌にかかり、支える白い手がたちまち真っ赤に染まる。短い時間の手伝いと知っているはずなのに、彼女は幼い頃に親から皮の鞭でぶたれた思い出が蘇りかけ、我に返れと頭を振るう。それくらい、この手伝いは懲罰めいていた。
「堕ちるよ、堕ちる。あんたは媚びる。甘え驕って後悔するよ。恐れて焦がれて泣いて苦しみ、恥じて恨んで己を呪って誰も彼をも巻き込むさ」
 そこまで彼女が苦労して支える漏斗の下には口の歪んだ素焼きの水瓶が敷かれ、柄杓に張り付く草木と思しき物体が濾されるが、そのエキスをたっぷり吸い込んだ茶褐色の土臭い液体は贔屓目に見ても薬のもとには見えなった。だが老婆の知識と経験は、彼女の印象などものともしない。
 釜の底まで液体を掬い終えたらしい老婆は、彼女に漏斗を退けさせると水瓶を卓の下へと移動するよう手で指示し、今度は木のスプーンを取り出した。
「無知は罪なり、無為が罰なり。あんたの罪は肥えゆこう。知らず知れずにあんたは背負う。贖えぬ、四苦も八苦も何もかも。すべてがすべてあんたのせいだ」
 水瓶の底から何杯かを卓の上のフラスコに入れると、隣にすり鉢を持って来させ、灰にしか見えない粉をすり切り一杯と四分の三、続いて青みがかった石を二、三個、それと他にも油のようなとろみのある液体だの針状の黄色い結晶だの目が追い付かなくなるほどのものを手早くすりこ木で混ぜ合わせる。
 そうして満遍なく混ざったらしい鉢の中身をスプーン一杯、いまだ湯気立つフラスコの中に静かに流し入れると、薄汚く濁った木の汁もどきが一気に無色透明の澄んだ薬へと変化する。いつも老婆の動きを目で追っているはずなのに何がどんな効果を持つのか全く知らない彼女にとって、この光景はまさしく神の御業に近い。
「……皮肉な薬、痛み止めだ」
 いつの間にか手にしていた小さな漏斗を小瓶に差し込み、震える手でフラスコに中身を移すと老婆はものが乱雑に置かれた卓の下から椅子を取り出しそこへ浅く腰かける。
 コルクを探して自ら小瓶に蓋をした彼女は、手伝いと用件が終わったことに長く深い安堵の息を吐きつつ、手のひらに収まるそれを握りしめた。いまだ小瓶の中は仄かに暖かかったが彼女の火傷しかけた両手に比べて冷たいくらいだ。
「ありがとうございます。使ったらまた、お返しに参りますね」
「使ったあんたは枝切れでさえつかめんよ」
 虚ろな目で失礼なことを言われたが、彼女は深々と頭を下げてからいつものように神に向かって老婆の幸運を祈った。異教徒同士であっても助けてくれたのだから、それくらいはしても構わないはずだ。
 そうして顔と手と心を多少苦痛に晒して入手した薬を包帯と脱脂綿で包んで持つと、彼女は老婆の店から出てその冷たい風に首を竦める。
 黒々とした木々の向こうに覗く空は既に一面薄い青を纏った墨色に染め上げられており、とどめとばかりに冴え渡る白い満月が彼女を睥睨していた。それらの光景を目にすると、陽が沈んでどれほど経ったのかなんてことを考える前に、彼女は急ぎ町の中へと走り出す。
 しかし運が悪かった。場所柄水はけが悪いから今朝降った雨はぬかるみとなって彼女の足を時折引っ張るし、秋から冬へと入れ替わる季節の風は冷たくも激しく残酷に彼女を襲って足の速度は途端に鈍る。一部の乾いたところからの土埃も遠慮なく舞うため目潰しを喰らった彼女は、やむを得ず舗装された道ではなく、町の外周沿いに林を突っ切ることにした。東の森側にある老婆の庵から西の湖側にある診療所を目指すのだから、自然と遠回りになってしまうがそれも已む無し。
 地面は堅く障害物が少なく、視界が確保されている道を移動するほうが安全で楽ではあるが、風避けはないし舗装と言っても石畳が敷かれている訳ではないから今の彼女にあまり意味はない。むしろ悪所を歩く方が、危険に対する心構えが違うと言うもの。事実彼女は歩くことに全神経を傾けていたため、小走りで通りを突っ切ろうとするときよりも足はさくさくと進んだ。
 暗い夜道のただ中にあっても、彼女の姿勢は変わらない。両手に大切な荷物を携えながら、頭の中で淡々と診療所に着いて以降と明日のスケジュールを組み立てる。その中で睡眠時間と自由時間が普段よりも少ないのは、庵の老婆の言葉がいまだ彼女の脳裏に響いているからだ。どっちつかず、半端者。あらゆる意味でその通りだからこそ、否定できない。
 すぐにお説教に影響される自分に子どもっぽさを感じながら、それでも彼女はそうあろうと自分を励ます。怪我人は増える一方で手際だって自信はないけれど、だからと言って努力を怠る理由にならない。妥協を許す言い訳は必要ない。
 己を奮い立たせて顔を上げると、湖のほとりに篝火が見えた。今夜もまた吸血鬼狩りをするらしい。山も越えない距離で人と人との争いが繰り広げられているのに、元気なものだ。しかしその元気さは自分も見習わねばなるまいと、無理くり前向きに解釈し勇気を貰った気分になったところで彼女は違和感を抱く。視界の隅に何かがちらついた。火ではない、むしろ黒い影のようなものが――。
 目の錯覚かと頭を緩く振ってみたが、逆に違和感は強くなる。ちらつく影が増えて、きききと甲高い鳴き声を発した。
 どうやら蝙蝠らしい。屍肉を漁る烏はよく見るが、この辺りで蝙蝠は珍しいかもしれない。それとも巣の近くまで自分がずれてしまったのだろうか。獣道とは言え普段使うところを歩いたつもりなのに。
 見える位置に町があるとは言え、林で迷子はまずいと思った彼女は、足下への神経も配りつつ前をちらちら向いて足を早める。生憎と診療所の玄関を照らす蝋燭はもう切れた。だから近い民家の灯りを探すしかないのだが、木が遮ってよく見えない。
 葉ずれの音が彼女の背後を襲うように通り抜け、身構えるも背後からの強い風はない。あるにはあるが、この季節には珍しく生暖かい、そして何より嗅ぎ覚えのある血の、匂いを纏っていて。
 彼女の脳裏に鮮やかに浮かんだのは、先日診療所のそばで倒れていた患者の血塗れのシャツ。ここ数年で血塗れの人は多く診てきたつもりだが、あそこまでのものは初めてだった。よく洗ったつもりだけれどまだ染みが残っていて難儀した。いやいやそれよりその前に、あれを長く洗っていたからシーツやベッドカバーと一緒に乾かせなくて、夕方町へ買い物に出ていく前でも湿ったままだったはずだ。
 まずい。まだ干していたら患者に着せられない。逆に体力を奪いかねない。
 焦った彼女は大股気味に歩き出す。走り出したくて仕方なかったが、そうして転んでしまえば今までの道のりが無駄になる。だからはやる気持ちを落ち着かせ、黙々と歩いていくのだがなかなかどうして診療所らしい場所は遠いままである。当たり前だ。気持ちが急いた程度で距離も縮まるはずがない。
「おい」
 夜の木陰の更なる暗がりから、知らない人の声を聞く。今話しかけられても困るが、性分から彼女は声がしたほうを振り返る。だが誰もいない。幻聴か。それにしたって、はっきりと耳に響いた。苛立つくらい人の声だと思ったのに。
 そうしてまた歩き出す彼女の前に、再びちらつく影がまた一つ。蝙蝠の巣が最近できたのか。あれは何を食べたろう。小虫かそれとも木の実か。後者ならこちらもご相伴に預かりたい。鳥も山鼠も美味しい果実ばかり狙うと聞いたことがあるから、両方の特性を持つ蝙蝠の食べる木の実があればきっと人でも食べれるはずだ。
 そんなことをつらつら考える彼女を囲う蝙蝠は時間の経過と共に数を増して、ようよう彼女は気付いた。自分が彼らの巣に巣のそばへと移動しているのではなく、彼らが自分に近付いていると言うことに。
 原因はわからない。あるとすれば最後に立ち寄った老婆の庵だろう。熱していた葉は蝙蝠の好む匂いがするのだろうかと袖口の匂いを嗅ぐも自分の体臭しかしなかった。いや、背中や髪に匂いが付着しているのかもしれない。
 とにかく蝙蝠の好む匂いがどんなものかは知らないが、患者たちに不快な思いをさせてならない。今夜は体だけでなく頭も洗おうと心に決める彼女の眼に、人の顔が見えた。人気のない、ないからこそ彼女が足を踏み入れた暗がりの林に。
 誰だろう、と彼女がその顔を認識しようとした途端、周囲の蝙蝠たちが暴れ始める。鳴き声は一際大きく響き渡り、両手が塞がっているのに耳が痛くて彼女は肩を竦めた。そうして気付く、これらは喜んでいると言うことに。ならばその人が飼っているのか。どうやって。そもそも懐くのか。芸をするのか。疑問は絶えないがそれより先に。
 人はまるで木陰と一体であったかのように、何の気配も音もなく、彼女の真ん前に現れる。ぬるりと一歩黒い誰かが彼女のほうに進み出ると、それだけで蝙蝠どもは喜び勇んでその人の懐の中へと飛び込んだ。人影に触れた瞬間から蝙蝠たちの鳴き声も羽音も薄くなり、蝙蝠が一匹たりともいなくなると今度は無音の世界になる。そうして蝙蝠を孕んだ人物は僅かに顔を上げ、その青白い、今もまだ総てを見下す月と同じ肌に、夜の木陰よりも夜に見る血よりも更に黒く濡れた髪を彼女に見せる。
 立派な青年だった。黒く重厚な外套から覗く身なりもだが、その整った容姿もまた月光のような静謐さを感じさせる、貴族めいた雰囲気を持つ長身の男性がそこにいた。この辺りでは珍しい黒髪は前さえ片目を隠せるほど伸びているが、不潔な印象はなくむしろこのひとの纏う空気とその白い肌をより強調している。もう片方の射抜くように鋭い瞳は、丁度今日手放した鳩の血色の紅玉と同じで、そこに懐かしさを感じかけた彼女は駄目だと目をそらす。
 だが初対面で明らかに目を反らすのは失礼だろうと悟った彼女は己の行動を叱ってから、改めて男性を見上げる。一目見たときの印象は変わらないが、冷静に見ると超然と佇む男性からどこかしら体調が悪そうな、言い換えると退廃的な湿っぽい空気を感じ取って職業柄彼女は一気に不安になった。
「あのう……」
 どこかお体でも悪いんですかと訊ねかけたが、男性の表情はぴくりとも動かない。ならば体調が悪いわけではないのか。しかし他の用件となれば何だろう。こんな夜中に貴族の年若い男性が自分に話しかける理由があるとするならば――と彼女は頭を巡らせ、ありきたりな考えを浮かべる。つまりは夜の散歩中に道に迷ったとか、お付きとはぐれたとか。そう言えば最近は趣味の悪い、暇を持て余した御曹司が戦地に残る屍を見に来るなんて噂を聞いたことがある気がする。眼前の人物は、失礼な話だが確かにそんな趣味を持っていてもおかしくなさそうだった。
「すみません。急いでいるので何かお困りのようでしたらあちらの、篝火を焚いている方々に聞いてください」
 いまだ炯々と輝く松明を手にする人々を指し示す彼女を、貴族の男性は何故か怪訝そうに見ていたが何の反応もないので見られた側はどうしようもない。とりあえず彼女は頭を下げて男性の横を通り抜け、診療所を目指す。途端に目潰しを喰らったときのような風が顔に吹きつけてきて思わず目を細めるが、それでも足は止まらない。
 だがもしこのとき彼女が振り返りあの男性が化生のものだと気付いたら。あのとき怯えた顔を一瞬でも見せたら。少なくとも先のような平凡な言葉を投げかけなければ。
 『暴君』と呼ばれた吸血鬼の四百年以上に渡る乾きは、そして彼の築く覇道と絆の物語は、始まりさえもしなかった。

関連記事
スポンサーサイト
[↑]
Copyright (c) 掃き溜め All Rights Reserved.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。