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まくらばなし

2014/05/14


 自室の明かりをつけて真っ先に視界にそれが飛び込んできたとき、まず走ったのは驚きでもなく戸惑いでもなくただ心底の呆れというか落胆というか。ああそう、脱力だ。
 今日の保嫌所は複雑なことに朝から晩まで大賑わい、近くで天災でも起こったのだろうかと目を回したが新聞テレビは通常営業で、ただ単にそういう月の巡りだったらしい。
 それならいいと自分を納得させながら、早上がりしようとする同僚を引き留め、あと一時間二時間と頼みながら結局最後の患者まで一緒に見送らせたのは夜半過ぎ。その頃には職員一同口を利く体力さえ残されておらず黙々と帰宅準備に取りかかっていたが、帰り際、引き留めた相手にこれは貸しにしとくねと笑顔で一言投げかけられてどれだけ背筋が凍えたことか。それでもなんとか屋敷に着いて部屋にこんな違和感しかないものが置かれていては、脱力するのも仕方なかろう。
 とりあえず突っ立っているだけではどうにもならないので、元『業欲の天使』アルティナは疲れた足取りのまま、自分の寝台の半分近くを占領する黒い塊に近付いた。
 抱き枕、になるのだろうかこれは。彼女の身長より少し大きくて、毛玉の一つもなく均一な光の照り返しっぷりから新品だろう羽毛の生地の、真っ黒な筒状の物体は、質素な彼女の部屋にはやたらと違和感よろしく存在感がある。ついで抱き枕と言うには細部のつくりが甘く、海苔太巻の仮装、いやいや黒海鼠のぬいぐるみと言ったほうが良さそう。更に苦言を呈するならば抱いて寝るには困難だろう幅と厚みが統一されておらず、恐らくはこの大きさ、どうも人ひとり入っていてもおかしくない予感がひしひしと漂う。
 ちなみに彼女はこんなもの欲しがった覚えはないし、誰かにねだったこともない。背の羽が潰れないための枕ならもう自分で作ったし、ただでさえ狭いときがある寝台で抱き枕なんて無用の長物と言い切れた。
 なので誰だか知らないがこんな有り難迷惑を贈ってきた、運んできた、忍び込ん――いやともかく、こちらの気持ちを慮ろうとしない人物の正体を推理する必要はないと潔く判断を下し、抱き枕の横を素通りするといつも通り箪笥から着替えを取り出す。
「はあ……」
 心底深いため息が出たのは、別になんらかの意図があった訳ではない。猛烈に疲れていたのは間違いないし、今後同僚にどんな無理難題を吹っかけられるのだろうと不安を抱いたのは事実だし、それを真っ先に癒す手段は今のところ入浴しかないと信じているし、今から抱き枕について直接的なり間接的なり接触しようものなら体力精神力ともに削られるのは目に見えているからなんて理由では当然ない。
 タオルも片腕に引っかけてから立ち上がり、また抱き枕の横を素通りして帰ってきたとき同様室内灯のスイッチに手を伸ばす。するとぱっと室内の明かりが消え、部屋に帰って数分も経たないうちに再び人工的な闇が広がった。
 扉を閉めた瞬間、抱き枕がかすかに慄いたような気がするがきっと錯覚だ。疲れが極限まで達してどうせ幻惑でも見たのだろうと彼女はそのまま振り返ることなく浴室へ赴き、疲労に張った我が身を解そうといつもより長めに湯に浸かった。
 それから天使が自室に戻ったのは優に一時間後。三つ編みを解き下着の上にワイシャツを身に付けただけの姿でなんの気もなく照明をつければ、やっぱり黒い毛布の塊よろしく抱き枕は寝台の大半を占領したままだった――まあ一応無機物の枕が勝手にどこかに消えることはないはずだが。なのにどことなく項垂れているような、すすり泣きの嗚咽が聞こえてくるような、いじけてひとり物陰で泣く子どもの風情なのはどうしてなのか。
 まあ多分気のせいだろう。気のせいに違いない。
 そんなふうに彼女は己の考えを揺るがさぬまま鏡台に髪留めを置き、揃いの椅子の背もたれにバスタオルを広げ、チェストの下から瓶を取出すと、寝台の多くをいまだ占領したままの黒海鼠のぬいぐるみの足元に腰を下ろす。正直な話、これを寝台から引きずりおろす案もちらと浮かんだがそれはさすがにやりすぎだろうし。
 次にお気に入りの香油を手で少し温めてからふくらはぎに揉み込み、脚のマッサージに取りかかりつつ口を開く。このまま無視したい気持ちは強いが、かと言って完全に無視して寝付くまでこれに寝台を占領されるのはとても困るので。
「それで?」
 抱き枕もどきがぴくりと動く。しかし彼女はあくまで自分の脚に神経を注ぎながら続けた。
「一体、どんな考えがあってこんなことをなさったんです?」
 足首を両の親指でしっかり掴み、絶妙な圧力をかけたまま引き上げながら――自分でやるとあまり快感はないが、これをやるとやらないとで明日まで引きずる疲労感が段違いなのだ――話しかければ、黒海鼠の先端、いいや全身が不自然にもがく。
 生きた海鼠を見たことはないが、粘膜を吐き出す瞬間はこんな感じなのだろうかと脚を揉みながら見届けていると、予想に違わず切っ先からにゅっと男の顔が出てくる。幸い服は着ていた。
「おっ、まえ……! この俺を見て悲鳴を上げないどころか完全に無視した挙句一時間以上放置とはいい度胸だな!!」
 黒髪に長く尖った耳、鮮血色の瞳を持つ鋭い目つきの青年は、やはりそこそこ熱かったのか。いつもより髪のはね具合が大人しく首もとがうっすら汗ばんでいたが、肌は長いこと毛布に包まっていたにも関わらず青白いままで、悪魔の中でも特に冷たい肉体を持つ種族だろうと推測させる。
 ついで普段の彼の格好はこんな潰れた太巻きもどきではない。古風な赤い裏打ちを施した黒の外套に、赤い杭をアクセントにした黒装束と白手袋で隙なく決めて、その姿は悪魔の中でもとみに知られる種族を連想させよう。
 ――そう、吸血鬼。人界で有名なこの種族は、魔界においても上級悪魔として広く認識されている。
 しかも彼はただの吸血鬼ではなく、全盛期では悪魔の中でも『暴君』と恐れられたほどこの魔界で一、二を争う強者だった。だがとある人間の娘と交わした約束のため血を絶って以降、彼の首級を狙う悪魔たちから逃れるべく魔力を削る羽目になる。それから四百年後の現在、その絶大な魔力は枯れ容姿も変じ、地獄へ堕とされ薄給のプリニー教育係となった憐れな身の上。しかし話はそれで終わらず、育て上げたプリニーに褒美のイワシをやる約束が上司よろしく政腐命令によって邪魔されたのを切欠に政拳奪取を志し、風変わりな仲間を増やしていきながらとんとん拍子で魔界を制圧。更に魔界を弱体化させた元凶に始末をつけるべくその男の企てを尽く打ち破り、果てには神のシステムにまで反逆し魔界と地球を救ったカリスマにして大英雄にして生きた伝説、のはずなのだが。
 そんなご立派な肩書きを持つ青年がどうして自分の部屋で毛布の簀巻きになっているのか。理由は全く推測できないが、本人としても現状はそれなり突飛な発想らしいと伺える発言に、天使は心なし安堵しながら胸を張った。
「曲がりなりにもあなたと約束を交わした身の上ですもの。ちょっとやそっとのことで動じませんわ」
「…………む」
 動揺よりも呆れが勝った点は伏せた女の受け答えに、海鼠の着ぐるみから這い出てきた男はしかめ面で黙り込む。
 ますます彼の反応がいつも通りと思い知り、その大英雄と四百年前に約束を交わしたものの死別、天使に転生してから再会を果たした仲間の一人。今では密かに逢瀬を重ねる仲になった『暴君』に血を絶たせた原因である娘は、声音を和らげながらそちらに軽く肩を捻った。
「それで、あなたはどうしてこんなことをなさったの? 狼男さんがあなたのそんな姿を見れば、失神しかねませんわよ」
「あいつは……! ……いや、……」
 四百年前から『暴君』の魔力と悪魔には滅多にない器に心酔し、今もまだ彼に付き従う――ついでに娘との約束を魔力を犠牲にしても重んじる主にあの手この手で血を飲ませようと画策する――人狼族の青年について触れれば、痩せた男の肩が軋んだかと思いきや物憂げな陰を帯びる。
 もしや喧嘩でもしたのだろうかと相手を覗き込めば、その横顔は珍妙な格好にも関わらず重く憂鬱そうに沈み、まさかの予感に天使も身構えた。
「あの方と喧嘩でもしましたの? わたくしでよろしければ、お話を伺っても……」
「いや。大したことは何もないが……」
「でも……」
 四百年前から続く娘との約束の件で意地を衝突させることはままあっても、基本的にこの主従の仲は悪魔では滅多にないほど良好と言えるはずだった。苦楽を共にした上での長い付き合いがそうさせるのか単純に相性がいいのか、忠義とは縁遠い人間界の現代っ子が気味悪がるくらい互いを理解し尊重していたのに、この青年が男の名前を出しただけで表情を曇らせるとは一体、二人の間に何が起こったのか。
 侵入してきたときの無体を一旦頭から捨て、相手へ寄り添うように半身を乗り出せば、ますます男は深く俯き目元の陰が濃くなっていく。その様子に天使の心はざわついて、どうか手遅れになりませんようにと内心祈りかけたところで血色の悪い唇が重々しく開かれた。
「……お前は知っているか」
「はい?」
「抱き枕、とは一体なんなのか」
「…………ええ、と?」
 なんなのか、とはまた抽象的にも程がある問いかけに、彼女は一瞬呆気に取られたものの、我に返ると唸りを漏らす。
 とりあえず彼が自分の部屋で仮装し、今もまだその足元に引っかかっている黒い繭もどきの形状から察するに、一般的な説明は省いても良さそうな予感はする。が、相手の真剣な眼差しからそれさえも一応踏まえるべきかもしれないと慎重に判断し、おずおずと口を開いた。
「……横向きに眠る人が抱きついて安眠する体勢を取るために作られた、一般的なものより大きめの枕、ですかしらね?」
「うむ、俺も似たような認識だ。……棺で眠る俺には不要だが、お前も含めて後面に羽を持つ種族なら必要なのやもしれん。とすると、案外需要があると考えるべきだろうな」
「はあ」
 なら互いの認識に問題はないようだが、恋人は相変わらず浮かない顔でいる。そも自分は人狼について訊ねたはずなのに、どうして抱き枕の定義を答えねばならないのだろうか――と、件の男と抱き枕を無理に繋げてまさかの発想が浮かんだところで丁度青年の声が被さった。
「それで……いや、だとしてもだ。俺はおかしいと思う」
「何がです?」
「………………」
 いつもは痩躯に反した堂々たる立ち振る舞い、加えて意思の強さを示すがごとき発声でその存在感を知らしめている青年の肩が、手が。珍しくも小さく、しかし見間違えるはずもなく確かに震える光景に、天使は思わず息を呑む。
 まさか。怯えている、あの彼が。
 弱体化したとは言え『死神王』と称された前魔界大統領とまみえたときも、魔界と人間界を陰で支配していた不気味な『断罪者』と対面したときも、その男を依代にした神のシステムに立ち向かったときでさえ真っ直ぐに敵を見据え続けたこの気高いひとが。まるで嵐に遭遇した無力な小動物のように、憐れな姿を晒しているなんて。
 すぐには信じられなかったが、それでも否定はすまいと覚悟を決めて、女は細く長い息を吐き出す。常に揺るがぬ男であっても、さすがに完璧ではないし万能でもない。そもが彼の完全無欠の強さにひびを入れ魔力を絶たせたのは自分なのだから、彼の弱さも受け入れよう。いやそれどころか、自分に弱さを見せてくれたことを喜ぶべきだと思い直すと。
「……フェンリッヒが抱き枕を作っていた。俺の」
「………………はい?」
 衝撃的な告白を聞かされた。
 抱き枕を作っていた。あの人狼の執事が。そのくらいなら別にいい。しかしどうして。その。
「……あ、あなたの、と言いますと?」
「詳しくは見ていないが無地の抱き枕に裏表ともども俺の写真を引き伸ばして貼り付けていた……はずだあれが目の錯覚でもなければ」
「え……えぇえ……」
「しかもそいつをプリニーどもを使って量産していたのだ……。一点ものなら気の迷いや冗談として笑い飛ばしてやれるが量産だぞ量産!? 俺の抱き枕など量産するほど欲しがる奴がいるのか!? いるとしたらそいつらはそれで一体何をするつもりなのだ一体!? フェンリッヒ、お前はもしやこれが党首の使命の一つだとでも言うのか!? だとしたらどんな……!?」
 虚空に視線を彷徨わせたかと思いきや頭を抱え、激しい口調でここにはいない人物を問い詰め錯乱状態に陥っている吸血鬼の姿に、天使の娘は盛大に息を吐き出す。ついでに軽く視界が傾いたような気もするが、まさかこんなことで眩暈を起こすほど貧弱でないはず。ならば疲れが溜まっていたのだろうそうに違いない。
 とりあえず思うことはあるものの、取り返しのつかないようなすれ違いを起こした訳ではなくて良かったとしみじみ嘆息する。それにしたって抱き枕なんて、人狼の主への忠誠心から来る行動にしては少し背筋が薄ら寒くなるがいやいや着実になんらかの効果をもたらす呪いの人形作りより悪いことではない、と己に無理くり言い聞かせると。
「いや……そもそも俺に抱きついて眠りたいなどと考える数奇な奴などいまい? 今までの悪目立ちようを考えれば、むしろ多数の悪魔に恨みを買ったと見るのが妥当か」
「あの」
「とするとあれは俺に見つかっても問題ないように抱き枕の形状をしているだけのサンドバックではないのか?」
「吸血鬼さん?」
「そんなものを求める輩ならば野心の強い悪魔でも不出来なプリニーでも掃いて捨てるほどいてもおかしくなはいが……だとするとあいつは俺に言えないほどの恨みつらみを抱えていて、しかもそれで小銭を稼ぐ気だと!?」
「ああもう……そちらに行かれますの?」
 生真面目で頑固で、周囲の持ち上げぶりに反して自己評価もどちらかと言うと低めの青年ならそんな発想に陥るのは自然な成り行きかもしれないが、動揺のあまりマイナス思考を暴走させるのはよろしくない。だがそんな性根の相手に平凡な慰めの言葉は焼け石に水だろうし、ずばり言い切るのも気まずくなりそうなので仕方ないと天使は覚悟を決め。
「ヴァルバトーゼさん」
「なんだアルティナ!? まさかお前もっぷ」
 目を血走らせた男がこちらを向いた隙を突き、彼の頭をかき抱く。なるべく彼に負担がないよう気遣って、けれど有無を言わせぬ強引さで。
 どこにと問われれば勿論、女体の上半身で最も衝撃がない、脂肪のみが集まる箇所。即ち乳の房に。
「あなたのお気持ちは十分お察します。けれど、今は少し落ち着いてください」
 こんな手段を取ったのは果たして良かったのか悪かったのか。彼女の胸に顔を埋めさせられた男はそのままの体勢で完全に硬直しており、いかに男女の付き合いとして一線を越えていようともこれはやっぱりやり過ぎらしい。
 まあ彼も一応これで暴走は止まっただろうし、これから離す合図と謝罪の意図も含めて黒髪を撫でてやれば、男の肩がふと緩み、女の腰を軽く叩いてくる――言葉は一切ないけれど、それでも優しい手つきから気にするな、との意図は十分に汲めた。
 気持ちはありがたいが、このままではろくに会話もできないし遅ればせながら恥ずかしくなってきた。やっぱり離してあげようと腕を解いたのに、依然として彼の頭は乳房に食い込んだままぴくりとも動かず離れようとしない。
「……あ、あの?」
 彼女の言葉が聞こえなかったのか、胸の谷間に鼻面を埋めた青年はそのままの状態でやたら盛大な深呼吸を一つ。彼女が隙間風の絶妙な風圧と温度差にたじろぐと、さっき叩かれた腰の違和感が大きくなる。何事かとそちらを覗き込めば、添えるだけだったはずの両手がしっかとそこを拘束しており。
「は?」
 つまりさっきとは逆にこちらが捕らえられたと理解した瞬間、男の体が大きく傾き、彼女もまた引きずられる勢いで横に倒される。
「きゃっ……!」
 着地したのは当然寝台なので痛みはなく、代わりに強く感じたのは素っ気ない綿のキルトとスプリングのたわみ。ついでに倒された側の脇にも男の腕が食い込んできて、いやこれは横倒れの衝撃ではないと考えを改めたのはもう片方の手が臀部を揉んでから。
「ちょっ……と、もうっ、ヴァルバトーゼさんっ!?」
「ん?」
「そこまで許した覚えはありませんわよっ! 正気に戻ったなら手を離してくださいっ!」
 片手は脇を――つまりは顔にかかる乳圧を更に愉しむべく――、もう片手は尻をしっかと掴み、先の醜態を忘れちゃっかり楽しむ気になっている男のつむじをぺしと平手打ち。なのにそれでしょげるべき青年の腕は逆に力強さを増し、柔肌を撫でる鼻息も粘っこくなる。
「断る。そもそもお前は俺の抱き枕姿を見てもニ時間以上放置しただろうが。ならこのくらいの罰は受けて然るべきだ」
「ぃっ、一時間ですあと当然でしょう!? 仕事から疲れて帰ってきたらあんなふうに出迎えられて喜ぶ人がどこにいますかっ!?」
「ふむ、そうさな……。お前が俺の棺で待ち伏せるなら厚着より薄着のほうがありがたいが、お前は別に俺が薄着で待ち伏せても喜ぶまい?」
「かと言ってあんな格好で出迎えられても全く嬉しくな……ぁっ、めですったら!」
 脇から胸の頂を挟んで弄くり回す手を阻止したいのに、がっちりと固定された頭が邪魔で触れることさえできやしない。その頭を引き剥がすのだって脇をくすぐられればすぐに頓挫し、背を仰け反らせようとすれば尻の割れ目から更に奥まったところに冷たい指が這い寄ってくるしで、ひゃうと情けない声まで出る始末。
 しかも彼女のそんな反応に吸血鬼は谷間の中から欲望滲んだ含み笑いを漏らしてきて、ああ全く本当に忌々しいことこの上ない。
「ヴァ、ル、バ、トぉゼさんっっ! いい加減っ、はなし……んんっ!」
「断る。俺が再び錯乱すれば、お前も体を張った甲斐があるまい?」
「っこ、こまで身体を張るつもりなんて皆目ありません! これ以上調子に乗るなら、ぁ、お一人で好きなだけ混乱していただいて結構ですっ!」
「ほぉう? ならお前の身体を滅茶苦茶にしてしまってもいいと言うことか。それはありがたい」
「どうしてそうなりますのっ!?」
「激務をこなせば同程度のストレス解消もまた必須。大体、忠実なしもべがその裏で自分の抱き枕なんぞ作っておれば…………」
 と、唐突に言葉尻を掻き消した吸血鬼、そのままの状態で暫し沈黙。覗き込むと小刻みに震えており、どうやら自分からその件に触れたくせにまだ傷は癒えていなかったらしい。
「……もしもし?」
「とにかく! 疲れているのはお前だけではないし、切実に休息を求めているのもお前だけではない! むしろ俺が、俺の方こそが重症なのだッ!!」
 ワイシャツのボタンと肌の境目に収まったまま深呼吸を繰り返す浅ましくも必死な恋人の姿に、天使の娘は軽く天井を仰ぐ。
 あの出来事がどれほど彼に衝撃を与えたのかは知らないが、一刻も早く忘れたがっているのは間違いないらしい。その手段として自分が選ばれたのは喜んでいいのか、それともそんな不純な目的のために訪れて欲しくなかったと落胆すべきか。
 まあそうは言っても天使なる種は基本的に寛容な精神の持ち主である。彼女も例に漏れず、疲弊しているのは間違いないようだし、求められるなら応じようとため息一つで割り切って、吸血鬼の後頭部を撫でてやる。
「……わかりました。今は一応、そのお言葉を信じますけれどね」
「一応とは何だ一応とは。と言うかお前、妙に体臭が薄いぞ。お陰で物足りん」
「お風呂から上がったばかりなんですから匂いが薄いのは当然です。……喋れる余裕がおありなら、あなたが好き勝手なさる前に一つ、わたくしからの質問に答えてくださいな」
「質問?」
 許した途端、口で器用にワイシャツのボタンを外し始める男の姿に、呆れを通り越しいっそ感心しながら女は頷く。
「一番最初に伺ったでしょう。どうしてあんな格好でわたくしの部屋にいらしたのって」
 問われて男の眉が盛大に歪む。さして不自然な質問でもないはずだが口からボタンを外しむっつり噤まれて、どうしたのだろうと顎を引けば、こちら珍しくも紅い瞳が揺れていた。
「いや。その。なんだ……あのときは俺もまだ混乱していたと言うかな」
「まあ、一時間放置されても我に返れないほど酷く?」
「今夜は泣いても許さんと思え。……そもそもあれはお前の帰りがあまりにも遅いせいで余計な発想が浮かんだだけであって!」
「冗談ですわよ。そう仰っても保嫌所は基本的に飛び込みの患者さんばかりですし、忙しさに波があるのは仕方ありませんわ。あなたと会える予定が明確なら都合もつきますけれど、あなたはもっと唐突ですし……」
 やんわりとプレッシャーを与えてくる呟きに、藪を突付いて蛇を出したと察した青年は乳房に両頬を挟んだまま、更に苦々しげに眉を歪める。
「……ともかく。お前を待っている間、ふと需要と言うか……そう。あいつがあんなものを作るのは、つまり必要だからであって、ならば実はお前も密かに欲しかったりするのだろうかと考えて……」
 衝撃的な出来事から立ち直れないまま、いやむしろ衝撃を癒してもらおうと突発的に恋人の部屋を訪ねた男は、手持ち無沙汰のあまりここでも思考の暴走を引き起こしたらしい。自分の抱き枕があれば彼女はどんな反応を示すか、体当たりで実験することに決めたのだ。
 だが抱き枕と言っても自分がそのまま横になっているだけでは相手に意図を汲んでもらえない。となるとそれらしい姿に仮装するしかないが、ビニルで我が身を包んでも枕らしい柔らかさが大いに欠ける。ならばと物置から毛布と安全ピンを持ってきて、寝台に毛布を広げてから包まり、一人四苦八苦しながら即席の抱き枕を作ったそうな。
「下半身はまだ楽に留められたが、やはり肩や腕の余裕を考えねばならん辺りは難しくてな……頭部もかなり知恵を絞った。全身を毛布で覆い切れたときは自力でイワシの骨を取り出したとき、いやプリニーどもの出荷に立ち会ったとき並みの達成感があったが……」
「……そんなことで達成感を持たれてはプリニーさんたちに悪いでしょうに」
 もっと辛辣な意見も過ったが、最愛のひとに投げる言葉ではないと己を押しとどめながら天使はさり気なく身を捩る。太腿の辺りに妙に硬いものがぐいぐい寄ってきて居心地が悪いのだ。
 しかも吸血鬼はそんな彼女の心中をちらとも汲み取ろうとせず、普段の厳格なプリニー教育係の仮面をかなぐり捨てて駄々を漏らす――ついでに腰まで押しつけてくるのは甘えなのか嫌がらせなのか本能か。思案したところで意味はあるまい。
「だとしても俺はなぁ、期待していたのだぞ! 騒ぎ立てるまではいかずとも、小さく悲鳴を上げるとかこわごわ触ってくるとか……正直な話、通報されたとしても苦笑で諌められても悪くないとさえ思えていた! なのにお前ときたら……ッ!」
「……ま、まぁ……それは、その……」
 文字通り胸中で切実に、それをも越えて痛切なほどの声で叫ばれ、娘はいわく言い難い表情で片頬を引きつらせる。
 疲れていなければ彼好みの反応をしてやれたかもしれないが、こちらもある意味切実に休息を欲していたので投げやりな対応になってしまうのは致し方なかったのだ。むしろ自分は疲労困憊で帰ってきたのに、どうして彼はこんな能天気な姿を晒しているのだろうと呆れさえ抱いていたが、正直にそれを告白すればどうなったものかわかったものではない。となると話の行き先を誤魔化すしか手はなく。
「と、とりあえず、あれでわたくしが抱き枕にどんな印象を持っているのかはよくおわかりいただけたでしょう?」
「それについては心底理解した。お前は俺の抱き枕なんぞこれっぽっちも欲しくないとな!!」
「あぁもう、拗ねな、……ぃっ!」
 下半身を這う指遣いがいつもより荒っぽいのはそんな恨みも含んでか。痺れに似た快楽よりも通電めいた痛みのほうが強いにも関わらず、順調に熱っぽいとろみを増していく己の身体にも内心呆れながらどうにか声を絞り出したのに、男はそんな相手の反応にさえ気付かないまま。
「拗ねてなどいない! お前が俺に対していかに無関心かを思い知っただけだ!」
「いえ、別にわたくしそんなつもりは……」
「天使はあれか、愛だのなんだの抜かす癖に一度釣った魚には餌をやらんのか!? お前の情はそんなものなのか!?」
「ちょ、ちょっと、いくらなんでも……!」
「それとも魔界暮らしと徴収生活に慣れきって、天使以前に人間の頃の初心さえ忘れたと言うのか!? となれば最早……、教育的指導しかあるまいッッ!!」
 そう断言する時点で拗ねを通り越して腐している裏付けだが、当人はそんな自覚もないのか。ついでにそんな結論に達した辺り、まだまともな精神状態ではないと否が応でも知らされて、天使の娘は肩を軋ませる。
 自棄だか開き直りを起こした心境の彼に無理に行為に及ばれるのはさすがにいけない。肉体的な負担ならまだ回復する手段があるが、精神的に食い違って傷つけあうなんて互いに後悔しかないだろうに。そう判断すれば、相手の気持ちを慮る余裕も遠慮も一旦放棄。力任せに相手の肩を突き飛ばし、男と距離を取るとこちらも半ば自棄の勢いで声を荒げる。
「でしたらあなたは不要なものを無理に欲しがれと仰るの!?」
 不意の暴言を叫ばれ、開けられた距離を詰めようとした青年のかんばせが軋んだかと思いきやゆっくり、大きく歪んでいく。
「ふ、不要……!? お前、俺を……っ!」
 男の声は今やみっともなく掠れ裏返り、大きく見開かれた瞳は動揺に激しく揺らぐもそれ以上に絶望が色濃く、その様子を一目見れば能天気な某姉妹とて肝が冷えかねないほど。一つ一つであれば小さな不幸と笑い飛ばせる規模の暴走とが積み重なり続けて生まれたこの滑稽極まる悲劇の果てに、誰よりも強靭な精神力を持つはずの吸血鬼の心が折れかけるとは本人だって予測できまい。
 しかし激情に駆られた天使の娘は気にも留めない。暴言を放った表情そのまま、彼へ本音をぶちまける。それで相手がどうなろうが知ったことではないと瞳をぎらつかせ。
「当たり前です、枕に何ができますの!? あなたに勝るものが一つもない、いいえそもそもあなたの代わりなんてわたくし、欲しくありませんっ!」
「………………は?」
 それでも男の錯乱が失せ、唐突に正気を取り戻したのは何あろう、女の愛があってこそ――いや、言い切った彼女の光の使者らしからぬ形相や気迫のせいかもしれないがとにかく。
 ようやく話を聞いてくれそうな反応に、天使はわざとらしいくらい肺から呼気を抜きつつ自ら男のほうへ近づいていく。まさか彼とてこの状態で襲ってくるほど猪頭ではないだろう。
「……あのですね、ヴァルバトーゼさん。わたくしはあなたの抱き枕ごときでなんて到底満たされませんの」
 そうして口を半開きにした男の肩、丁度突き飛ばされたところを今度は優しく、撫でるように白い手が添えられる。たかがそれだけの重みは妙に心地よく、あどけない小動物が甘えてくるような、そっと寄り添いこちらを慮ってくれているような、邪気のない気遣いと慈しみが言葉よりもはっきりと、男の胸の杭の奥にまで染み入った。
「だって枕はこんなに冷たく筋張っていませんし……なのに触れているだけで切なくて、苦しくて。それ以上に幸せな気分になんてなりません。たまに意地悪を仕掛けてもこないし、大切そうに触れてもくれない。目を合わせられないし、会話だって、口づけだってしてくれない……そんなもの、あったところで虚しくなるだけですわ」
 微笑を浮かべてきっぱり断言する女の判断はなかなか辛辣、ついで我が儘なはずなのに、その厳しさが彼にとってはむしろこそばゆい。枕ごときに彼の代理は務まらないなんて、よくよく考えてみれば当たり前のことなのに、彼女に公言されるとこうも心が浮き立つのは何故なのか。
 もっとも、理由など改めて探る必要はない。言葉よりも明確に彼を導く感情の、胸に込み上げてくる狂おしさに耐えきれず、男は喘ぐように息を漏らした。
「……アルティナ」
「はい? ……ぁ」
 彼女が肩に手を添えるなら、こちらは頬、否それをも越えてうなじと背を支え、無言で仰向けになるよう促す。押し倒すと表するほど荒々しくはない、それどころか娘の背に生えた羽さえ労わりながらゆっくり組み敷けば、瑞々しい唇が妖しくも可憐にほころんだ。
「……いらない理由、ご納得いただけまして?」
「ああ」
「ちなみにちょっと伺いたいのですけれど。あなたはわたくしの抱き枕、欲しいと思ったりするのかしら?」
 訊ねられ、男の目が点になる。
 最初のうちにそう問われればあのとき一瞬でも絶望しなかったかもしれないが、となるとあの切々たる言葉を投げかけてもらえなかったかもしれない。ならどうしてそれを最初に訊かないと詰るのは止めておこうと判断し、ざっと考えを巡らせる。
 結論としては至極単純。彼女が傲然と言い放った一声と全く同じ気持ちだったから、彼もまた躊躇なく答えた。
「いらんな。俺にはお前がいればいい」
 それは良かったとにこり笑む、その小癪ささえ悩ましい。
 このままふたりの意見が合致したのを皮切りに身体まで一つになってしまいたかったけれど、さすがにそれはもう少しあと。自分と肌を重ねることも幸せだけれど、言葉を交わし眼差しを交わすことも愉しいと告げた女の意図を汲んでやらねば甲斐性なしの汚名を着るだろう。ならばと若き吸血鬼は己を抑え込み、頭に過った記憶を喉の奥から絞り出した。
「しかしお前、……いつか、俺の人形を持っていなかったか? あれも本来なら必要ないと?」
 問い返せば、今度は娘が目を点にする。
 その辺りのこと、どうやら本人はうっかり忘れてしまっていたようだ。目を瞬くとほんの少し気まずげに、それでも普段通り落ち着いた物腰で首を横に振った。
「ああ、いえ。あれは可愛いから大切に仕舞っていますわ」
「おい」
 自分の代わりは不要と告げられた直後にそんな返答を浴びるとは思ってもみず。短く突っ込むもやはり娘はいつも通り、怖がる片鱗さえなく悪戯っぽく笑い転げる。
「ふふふ、わたくしあなたほど頑固じゃありませんもの。本物より一つでも勝る要素があるなら、喜んで頂ますとも」
「この……」
 柔軟と称えるべきか、ちゃっかりしていると皮肉るべきか。憎々しく睨めつけてやっても彼の腕に収まったままの天使は柳に風と受け流し、それどころか夢見るような目つきで彼を見上げてくる。
「……ヴァルバトーゼさん」
 丁寧に。音の一つ一つも連なりにもすべてがすべて、この女にとって特別だと知らせる声が、吸血鬼の痩せた背筋を粟立てる。
 潤んで煌めく瞳は、いつも見飽きぬうす青の。加えて今なら淡い桃色、金、はたまた乳色の紗でもかかっているかのごとく、絶妙な風合いで彼を捉えて放さない。
 それを縁取る瞼は真珠、頬はばら色。天からの寵愛を受けたに相応しい気高く精巧な顔かたちはえも言えぬ艶を滲ませ、か細い首筋は男なら容易に手折れそうな風情なのに、若木のしなやかさを湛えて美しい。そこから流れ繋がる鎖骨も肩も、乳房も腹も。その色かたちを映やす、深く吸い込めば脳髄までもが蕩けそうな香り漂う豊かな桃色の髪もまた。
「あ」
 意図的に触れたつもりはないが、女の目が見開かれる。続いて自分の出した声に、恥じ入るようゆっくり伏せっていく瞼があんまりにも繊細そうで、男は思わずそこに口づけた。流れで女のシャツを今度こそ剥ぎ取り。
「ぃやぁ、……めっ、ぁう、ヴァルバ、トぉぜさん……っ」
 咎めるにしては甘すぎる声を肴に、男は緩慢にして執拗に責めていく。
 それこそ彼女が告げたように、枕などでは代わりにもならぬ満足感を与えてやる気になっていたし、今までもこれからも、代わりなんていらないと、彼がいいと告げたに等しい女の真摯な気持ちに応えるべく、男は天使を抱きしめる。きつく、深く、それこそ抱き枕など比較にもないほど情熱的に。







後書き
 4R発売前に流したフェンフェンの魔ニが一位取ったねSS。
 一位になるとは思いませんでしたが面白いから書いちゃえ的にしこしこ書いてたら一位取って遠い目したのはいい思い出でもない(ノマカプ人間的に)。

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