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綱渡りのディナーコース

2013/05/12


「……ふう」
 ふと空に目をやれば、月はとっくに宙天を通り過ぎ、ほどなく山の向こうへと沈んでいく頃合い。
 いかに夜が悪魔の領分であろうと、日の出と同時刻からこんな時間帯まで働き詰めなら疲れを覚えるのは至極道理。己の使命に全力で取り組むべしとする勤勉な吸血鬼、元『暴君』現地獄のプリニー教育係兼魔王城のプリニー世話係ヴァルバトーゼもまた、時間の経過を認識した途端、双肩にしっかり疲労の重みを感じ取った。
 魔王城に徴集されて以来、彼はここのプリニーの再教育ともといた地獄でのプリニー教育とを平行する多忙極まる日々を送っており、こうしてようやく一段落つけると思えばあとは寝るだけの時間しか残されていないのもままあること。
 罪人が己の罪を償うため転生した種族、魔界では十把一絡げに扱われる木っ端悪魔プリニーどもへの教育は、彼にとってやり甲斐もあるし十分熱中できるが、だからと言って休息が不要な訳ではない。特に今は眠気よりも、胴体の奥っ側が騒がしく――。
「フェンリッヒ」
「は」
 傍らを歩く彼の忠臣にして懐刀、獣の毛並みを髣髴とさせる銀髪に褐色の肌を持つ人狼族の青年に一声かければ相手はすぐさま畏まり、どこから取り出したのか銀の小魚を恭しく差し出した。が。
「違う。そうではない」
 疲れが溜まっている影響もあり、青白い眉間に皺を寄せ否定の仕草を取る吸血鬼に、おやと首を傾げた長身の男。彼も主ほどではないにせよ朝から働き詰めで疲れているはずなのに、口元に余裕の微笑が浮かんでいるのは目の錯覚でもない。
「では、こちらでございましょうか」
 と、再びどこからともなくイワシエキス入りの表示が踊る栄養ドリンクを差し出したが、これにもまた黒髪の青年は不満げに首を振る。
「違う。……俺が口にできるものを出せ」
「はて。どちらも閣下の好物と認識しておりますが、何かご不満でもおありで?」
「大いにあるとも。人間の血を混ぜられては、いかな好物と言え口にできん。血が入っていないものを出せ」
 かの種族のアイデンティティに関わる特性であり、魔力の源であるはずの人間の血。それをどんな形式であれ摂取する気はないと間接的に告げた痩躯の青年の気概を、長らくのしもべは理解する気など微塵も持ち合わせていないようだ。鋭く命じた主へ、わざとらしいため息で返答する。
「そうはっきり仰られてはこちらも相応に答えるしかありませんな……。今のわたくしの手持ちでは、閣下のご要望に応えられるものはございません」
「なに? 一つもか? お前らしくもない……」
 悪魔の身でありながら、有能と忠実の両者を持ち合わせる男が珍しい。そう赤い瞳を瞬かせた吸血鬼に、人狼はしおらしく項垂れる。
「はい、わたくしとしたことがうっかりしておりまして、一切持ち合わせておりませんでした」
 伏せられた瞼から覗く黄金の瞳は相も変わらず隙がないが、それを突付いたところで彼の所持する飲食物から血が抜ける訳ではない。反して吸血鬼の腹の虫の騒ぎっぷりと全身に押し寄せる疲労感は以前より重みをいや増し、もうこの際なら何でもいいから口にしたいと半ば投げやりな気分になっていたが、そうなって喜ぶものがいる予感もするのはどうしたことか。
「……いかがなさいます、ヴァル様? わたくしが調理場まで新たなイワシを取りに行くのをお待ちになるか、それとももう人間の血が入っていてもこの場でお召し上がりになるか……」
 すまして選択肢を掲げる人狼の狙いは、第三者が見ても鼻につくほどあからさま。主たる男もまた相手の狙いをようやく察して苦々しげに唸るが、無意味と悟って肩からふっと怒気を抜く。
「……いや、自分で取りに行くことにする」
「おや。閣下がそのようなことをなさらずともわたくしが参りますが」
「待っていては空腹が誤魔化せん。……それにお前が取りに行くイワシにも血を入れられては、さすがの俺も心が折れかねんしな」
 ご冗談を、と人狼の口元が淡い笑みを滲ませる。たかがそんなことでこの頑固な悪魔の心が折れるならとっくに彼は本懐を遂げており、ろくすっぽ知らぬ別魔界の小僧魔王などには負けなかっただろうにと。
 黒髪痩躯の青年にとってもこの発言は冗談だったらしく、軽やかに一笑すると黒い外套を翻ししもべに背を向けた。
「では今日はこれまでとする。お前は先に休んでおけ」
「は、失礼いたします。閣下も早々にお休みになられますよう」
 軽く手を掲げて執事からの挨拶を流せば、吸血鬼は宣言通り台所に向かって歩き出す。気持ちは半ば急き気味でいたし、胃は悲鳴を挙げるが如く鋭い痛みを放っていたが、なるべく以前と変わりない足取りを心がけ。
 冷蔵庫で眠るイワシについても、乱暴に胃に詰め込む真似だけはすまい。長らくお預けを食らった末に堪能できる折角の好物なのだから、一口ずつ潮の香りとうま味を堪能し、小癪な骨も脅威にならないまで噛み砕いてから喉奥に流し込み、またあのぽってりと肥えて弾力を持つ赤身に牙を立てる。そんな一連の、今の彼にとって何よりの快楽に思いを馳せれば、疲れも空腹も極上のスパイスに鮮やかな変貌を遂げ、こうなった己の運命に感謝せずにはいられない。戦いから離れた生活の中でも、こうして身近な形式で生の充実感を得られるのはなんとも素晴らしいことではないか。
 かくして種族柄、食に関する執着心が他の悪魔より強い青年は、そんなふうに麗しの小魚を口にできる瞬間を夢想しながら調理場への道のりをやり過ごしていたのだが、期待とはいつだって予想外に覆されるもの。その妄想は彼が台所のドアを開けた途端、果たされることなく潰えてしまった。
「…………ん?」
 別にイワシの発注をうっかり切らしていた訳ではないし、躾のなっていないプリニーどものつまみ食いやボイコットの被害に遭った訳ではない。ただそれまで彼を突き動かしていた食欲をあっさり吹き飛ばす存在が、既におわしましていたからで。
「……あら?」
 それは、本来ならば魔界にいるべきではない異形の娘。
 三つ編みに結った艶めく桃色の髪や、身体を最低限しか隠せていない装束から覗く象牙の肌に華奢な肢体、整った目鼻立ちなら夜魔や高位の女悪魔にもいるだろう。だがそれ以上に目を惹くのは、悪魔の女たちがどう足掻いても決して手に入らない澄みきった薄青の瞳、更に小振りなりにも立派に白く輝く翼――即ち、魔界とは相反する天上の世界、光満ち溢れ神への畏敬と愛によって成り立つ天界の住人の証。世間一般的には天使と呼ばれる存在だった。
 それでもこの城の主である少年魔王の仲間には天使と堕天使が各一人ずついるせいか、城内で白い羽を持つ男女を見かけることはままある。だから彼が身構える必要はないはずなのに、それでも動揺してしまったのは、その娘の見目が、名が。
「こんばんは、吸血鬼さん。お夜食でも取りに来ましたの?」
「……あ……」
 無防備な、蕾が綻ぶような天使の笑顔に、いつかの記憶が疼痛と共に蘇る。
 青年がまだ同胞から『暴君』と呼ばれていた時代に人間界で出会った、気高く清く、能天気な看護師。血を吸うためにまみえた吸血鬼に恐怖の一片も見せず、むしろ彼を憐れみ自分の血を差し出した慈悲深き娘。人間からの同情など不要とその誘いを振り払った男に、なら自分を怖がらせるまで誰の血も吸わないでほしいと約束を持ちかけた剛胆な女。そしてその約束を交わしてからたったの三日で死んでしまった、儚く清く可憐な花。その名を――。
「……アル……いや」
 アルティナ。なんの因果か、眼前の高露出な天使はそんな彼女と同名、しかも姿かたちや声、自分への呼び方まで瓜二つだったが、生憎と同一人物ではないらしい。確証はないけれど、多分きっとそうだと思うしそうでなくてはいけない気がする。杭の奥にわだかまる黒雲を無理やり抑えながら、青年は咳払い一つで態度を改めた。
「お前はどうした、天使。こんなところで金策か? それとも誰かのへそくりでも探しているのか」
 冷ややかに言ってのけると、むっと眉をしかめられる。そんな仕草の一つでさえあの尊い娘を彷彿とさせられるも、やはり彼女は別人だ。そうでなくてはならない。
「……あのですね、吸血鬼さん。別にわたくしは四六時中お金のことを考えている訳ではありませんのよ?」
「どうだかな。少なくとも、身代金目的で悪魔相手に誘拐事件を起こした天使が言っても説得力がなかろう」
「…………」
 吸血鬼の険に溢れる発言そのものに間違いがないせいか、天使は不満げながらも押し黙る。
 この天使とあの人間の娘の大きな違いはそこだった。
 我が身を顧みず、どころか身を削ってでも他者を助けた彼女と違い、この女はどこまでも利己的で金を愛し、その業欲さは並大抵の悪魔では及びもつかぬ。本人曰く、上司からの命令で天界から入る予定だったが不正に魔界に流出した金銭を正統に『徴収』しているだけらしいが、そんなことを部下に命じる天使の上司の存在がまず信じられないし、金銭の話になると目が活き活きと輝く様子を見ればそれは言い訳に過ぎないと確信させる。
 だから天使が彼女であるはずがないのだと、青年はこの娘に出会ってから何度となく己に言い聞かせたことを、ここでもまた繰り返す。百歩譲ってもし彼女が天使に転生したのなら、どうして自分を憶えていない。どうして自分の古巣ではなく訪れるまで知りもしなかった別魔界で出会う。どうして思わせ振りな物言いと、謎めいた笑みを自分に寄越す。どうして。どうして。どうして。
「……何があったのかは存じませんけれど、機嫌が悪いのは確かなようですわね」
「別に……そんなつもりは」
 それでも娘の心根はやはり天使らしい余裕も持ち合わせ、彼に穏やかな声を背中越しにかけてくる。そんな彼女の両手には白磁の茶器が一式乗った盆が握られ、ここに来た本当の理由を知った吸血鬼は一気に居心地が悪くなった。どうやら女に意識を集中させすぎて、その手元を見る余裕さえなかったらしい。
「安心なさって。これを片付けたらわたくしはすぐに退散しますから」
 用意していたどころか戻しに来ただけらしい。時間帯を考えれば当然かと壁掛け時計を一瞥した青年は、自分もまた早急に用件を済ませるべく冷蔵庫の扉を開け、イワシがたっぷり詰まっているはずのビニール袋の中を覗き見た瞬間、絶望に慄く羽目になった。
「なんだと……!?」
 理由は簡単。置いた位置が悪かったらしく、鮮度を保つ意味合いで保管していたはずのイワシはどいつもこいつも半冷凍、霜がびっしり降りていたからだ。
 別に無理にこのまま食べられないことはないが、それはいわば冷凍食品を解凍の手間を惜しんで食べるくらいの暴挙に等しい。生魚なら別にいいだろうと仰る方は、シャーベット状の刺身をそのまま喜んで頬張っていればよろしい。たとえ生食を好んでいようとも、いや生食を好むからこそ、彼はその点について譲れないのだ。
「……ぐっ!」
 しかしイワシへの未練は捨てきれず、二つを一気に手掴みし冷蔵庫の周囲を見渡す。当然、解凍する手段は幾つもあったが、彼が最も理想とする生食への道は長く険しい。オーブンや網焼きの使用は、解凍を越えて加熱になる。それで鰹ならぬイワシのタタキになるなら最高だが、中がまだ凍っていれば美味さは半減。レンジの使用はイワシの脂肪分を考えれば危険だし、流水解凍はうま味が流れてしまうしかと言って自然解凍は気が遠くなるほどの時間を要する。
 だがこうなってしまえば背に腹は変えられぬ。シンプルに網焼きで火を通そうと判断した吸血鬼は、イワシをかぶりつけない現実と器具がどこに何があるのか見当もつかない焦りから周りの引き出しを手当たり次第に引っかき回し始めたが、その音の五月蝿いのなんの。
「ちょっ、ちょっと……急にどうなさったんですの?」
 あまりの騒がしさに、流しを使っていた天使が困惑顔で男のほうに振り返る。女は彼よりも余程ここの都合を把握しているらしく、いつの間にか水切り用の布巾でポットを拭っていた。
「い、いや……その。魚焼き用の網はどこにあるのか、お前は知っているか?」
 さっきの態度を考えれば、助けを乞うなど厚かましいにも程がある。気まずいながら訊ねた青年に、娘はぱちくり目を瞬かせた。美しい、深い湖面の底から星の煌めきを映した瞳が、彼を据えて――。
「網、ですか? 確か、そこの三番目の棚に……」
 ふっと相手の視線が逃れ、つられるように我に返った吸血鬼。棚にあるとは思わなかったと、見惚れかけた自分を忘れるべく彼女が指さす棚を開けすぐに目当てのものを発見したが。
「ぬっ!?」
 どうやらここのプリニーども、いや調理を担当する連中は網の手入れが苦手らしい。魚焼き用専用と思いきや、網にはいつかは判断に難しいが取りあぐねた肉片が脂と埃と一緒にこびりついており、怒る余力さえ惜しいほど疲労困憊していたはずの男は大いに憤慨させられた。
「ええい、どうしてここの連中は網を魚と肉とで別々に購入せんのだ!? 手入れが面倒なら業務用の使い捨てを買えばよかろうに!!」
「高い器具は長持ちする分、お手入れも楽だと思われる方って多いですわよね……本来はその逆、丁寧にお手入れするからこそ長持ちしますのに」
 しみじみとした呟きに全くだと頷いたところで、その声の近さに違和感を抱いた青年は首を横にやって軽く飛び上がる。予想に違わず、平気な面した天使の娘がすぐそこにいた。
「珍しいこともありますのね、あなたがイワシをお料理しようとなさるなんて。いいレシピでも仕入れましたの?」
 しかも本人は彼の冷たい態度を気にしていなかったのか、普段通りにこちらを覗き込んでくる。それだけの仕草に甘く柔らかく、どこか懐かしい香りが鼻腔にまで届いてきて、ああ止めろ止めろ別のものが溢れかねない。『彼女』と錯覚しかねない。
「……いや。その。冷蔵庫に入れておいたはずのイワシが、この通りな……」
 それでもどうにか我を保ち、手中のイワシを見せてやれば、猫に似た目の輪郭が一際大きく広がった。
「あら、霜ですか。……成る程、ならいっそのこと焼いてしまおうと思われたと」
「まあ、そう、なる……」
 もう空腹は女の香に塗り潰され、なめらかな白磁の肌に触れた瞬間、別の欲求に吹き飛ばされかねないほど。静脈がうっすら這う二の腕と乳房が重なり生み出す線に知らず生唾を飲み込んで、喉の渇きを自覚した青年はそこまで餓えている己に気付いて愕然とする。いやそっちがご無沙汰なのは否定しないが、そもそも自分は貪欲ではなかったはずだろうにと。
「……でしたら、わたくしに任せていただけません?」
「は?」
 しかしそんな彼の戸惑いは、よりにもよって眼前の天使の一言で吹き飛んだ。
 改めて視線を上げれば、娘はやはりいつもの様子で微かに首を傾げるだけ。否、どことは言わずぎこちなく見えるけれど、多分気のせいだろう。
「網がそんな調子なら、別の方法で火を入れたほうが手っとり早いでしょう? けれど、あなたはここの都合をあまりわかっていらっしゃらないみたいですし……あれこれ苦労して結局焦がしそうなら、ね?」
「……む……」
 言わんとすることはわからなくもない。確かにイワシの生食を第一に好むこの青年、火を使う料理はもといた魔界でもさしてやらずにいたため、馴染みのない調理場を使うとなれば火を通すだけでも失敗しそうな予感が強い。イワシなら丸焦げだろうと半生だろうと食べられる自信はあるものの、好物ならなるべく美味く食べたいと願うのは種族を越えた共通の願望ではなかろうか。
 反してここを使い慣れている天使の娘ならば、火を通すだけの調理でも美味く仕立てあげそうだ。いやしかし、だからと言ってその誘いに乗ってしまえば。
「……その前に、一つ質問がある」
「はい?」
「幾らだ」
「…………」
 単刀直入ずばりと問えば、返ってきたのは無言の、だが万言以上に娘の心を伝えてくる強い眼差し。続いてすうと目が細まって、冷気を帯びていく様子に吸血鬼は自分がどれほどの規模の地雷を踏んだか思い知らされる羽目になった。
「……そうですわね。あなたが随分とお困りのようでしたからペイ、と思いましたがこの際ですもの。頂くことにしましょうか」
「い、いや、別に取らないならそのほうが……!」
「わたくし職務怠慢な悪魔の方々から『徴収』するためにここに来たんですものねなら悪魔の方へはどんなことであれお金を取るのが道理でしたわたくしが気まぐれで職務怠慢を起こすなんてあってはならないことでしたわそれを思い出させてくれてほんっっとうに感謝します吸血鬼さん」
 立て板に水とばかりに理屈を並べ立てられ、おまけに輝かんばかりの作り笑顔でぐうの音も出せない状況に追い込まれた青年の、自業自得については何も言うまい。ともかくこれでこの天使からただ働きの機会を自ら失わせてしまった男は、薄給の身分にも関わらず不用意な出費に眩暈とそれ以上の後悔を覚えたが後の祭りである。
 しかし現在ふたりの前に据えられた物事は、終わるどころかまだ始まってもいない訳で。無言で頭を抱えてしゃがみ込む黒髪の青年へ、三つ編みの娘は調理台に腰を預けながら微かに口を尖らせる。
「……それで?」
「なんだ……」
「わたくしが代わりにお料理しても構いませんの?」
 断っても構わない、と暗に含んだ物言いに、まずその返事さえしていなかった吸血鬼、そのまま暫し長考。
 財布の紐を堅くして、天使を不機嫌にしたまま独り深夜の馴染みの薄い調理場でイワシ解凍に悪戦苦闘するか。それともなけなしの金を犠牲に安心と信頼のイワシ料理と娘の機嫌を取るか。揺れた期間はそこそこ長いのに、結果は当初考えていた通り。
「……まあ。頼む」
 立ち上がり、嘆息とともに答えを吐き出せば、天使は少し意外そうに彼を見たがすぐに気持ちを切り替えたらしい。涼やかで自信ありげな笑みを口元に刻むと素早く身を起こす。
「安心なさって。お金をいただく以上、不味いものはお出ししませんから」
「……そうか」
 そいつはありがたい話だが、口に出した途端に後悔してしまうのは何故なのか。たかが天使ひとりの機嫌をどうして優先してしまったのか。
 我がことながら不可解極まりないが、同時にやる気に満ちた娘の姿に満足してしまってもいて、妙に居たたまれない。居心地の悪さを押し殺すべくスツールを持ってきてそいつに腰を預けると、大げさなくらいの勢いで膝が落ちた。
「随分とお疲れですのね」
「と言うより、今日はろくに休んでいない」
 ため息混じりに答えれば、まあと調理台の向かいから感嘆の声を聞く。多分、こんな馬鹿げた判断をしてしまったのはそのせいもあるのだろう。金を払ってでも楽をしてイワシ料理を食べたいと思ったとしたら、外食と同じだ。別段おかしな話でもない。寸胴鍋に水を張った娘の背を眺めながら、そんなことを言い聞かせる。
「ならお昼もお夕飯も全く?」
「昼は仕事の傍らに済ませた。……夜は食っていないから、今から食おうと思って」
「……それはよくありませんわね」
 深刻そうな声に顔を上げれば、キッチンペーパーに何かを包んだ娘が、小皿にそいつを乗せてから更に大きめのマグカップを重石にしてレンジに放り込む。一連の動作には迷いがなく、流れるようで気持ちがいい。
「空腹期間が長い状態で急に食べると胃の負担になりますわよ? あなたも折角のイワシでお腹を壊したくないでしょう?」
「俺の胃は強靭だ。イワシならいつどれだけ食おうと負担にならぬ」
「そう思っているのはあなただけですからね? 身体はもっと繊細なんです」
 香味野菜らしきものを切りながら見透かしたように言われたところで、レンジから温まったとお知らせが入る。
 中からマグカップと小皿を取り出し、カップに顆粒と液状の調味料数種を入れて、いつの間にか用意していたらしき給湯ポットに湯を注ぎながらスプーンでかき混ぜる。そこでようやくキッチンペーパーを軽く絞って水気を切り、中のものをカップに投入。ついでに切った野菜も入れてもう一混ぜしたスープが、彼の前に差し出された。
「はい。と言う訳でまずはスープを召し上がってください」
 五分経ったかも不明な短時間で鮮やかに一品作り上げた娘の手腕に目を見張りつつ、湯気立ち上るマグカップの中身を覗き込む。鶏出汁ベース醤油仕立ての貝割れ大根と豆腐のスープらしい。僅かに鼻腔をくすぐられたが、大本命とはかけ離れた汁物に思わず渋い顔を作った。
「……イワシは」
「あとできちんと出しますから、準備運動と思って今はこれで我慢してください」
「しかしお前に払う分にはこれの代金も含んでいるのだろう?」
 なんの気もなく呟けば、休む間もなく微塵切りの最中でいたらしい天使がこちらに振り返る。いつの間にか着けていたエプロンは桃色でそれなり似合っていたが、それ以上に彼女の笑みが目を引いた。魅力的、と言うより威圧的な意味で。
「お疲れのようですから失言は大目に見ますが、それも過ぎると徴収費に影響しますからね?」
「…………わかった」
 仕方なくマグカップに口をつければ、やはりベースは鶏、なのだが。続いて馴染み深いうま味と味わいが鼻に抜ける。それも自分が求めていたものよりももっとこくのある、凝縮された風味が舌に浸透したと思えばさっと喉奥へと通り過ぎた。
「これは……!」
 目を見張り、改めてもう一口。やはり臭みを取り払ったような、しかし風味は紛れもない、おまけに美味なイワシのエキスと呼ぶべき濃厚な味わいを感じ取り、心当たりを見出した青年は思わず叫んだ。
「もしや、こいつはイワシの魚醤か!?」
「魚醤……ナンプラーのことですわよね? でしたら、ええ。プリニーさんたちお手製のものがありましたので、折角ですから使わせていただきましたの」
 あっさり肯定した娘はさして気にしていないらしく、今度はざくざくと音を立てて何かを切っている。さりげなく気を遣われていたと知った男は、この不意打ちに感激しきりであんな暴言を吐いたことを謝りたくて仕方なかったが、まあ女たる生き物はともかく現実的ときて。
「少し発酵が甘い気もしましたけれど、やっぱりあなたは平気でしたのね。そうそう。吸血鬼さん、大蒜は平気ですか? 口にした途端苦しんだりはしません?」
「あ、ああ……問題ないが」
 謝る暇を与えないどころか未完成品を平気で出したと告白された上、自分のペースで物事を進める厚かましさ。普段は金金と口うるさいもののそこそこ気の利く娘だろうに、この娘もなんだかんだで疲れているのではないかと訝しんだ青年は、現時刻を思い出し口を噤んだ。
 疲れているのは当然だ。そもそもここでふたりが顔を合わせた時点で深夜と呼ぶべき時間帯だったし、茶器を片付けたあと寝るつもりだったろう彼女は今、彼のために長居を決め込むどころか料理をしている。たとえそれが金稼ぎの機会だからだとしても、疲労感が消える訳ではなかろう。
 なら何故。この天使の娘は、一介のプリニー世話係に過ぎない吸血鬼をそこまで気にかけるのか。天使は確かに心根の優しい種族とされるし、業欲と呼ばれるこの女もその例に漏れない部分をちらほら垣間見せてはいた。けれどだからと言って、接点の薄い同居人にここまでするものなのか。しかしもし彼女が『彼女』なら。だとしたら、わからなくも――
「もう少しで次ができますからね」
「あ……ああ」
 炒めものらしい派手な音とアンチョビの香気に、また馬鹿馬鹿しい方向へ飛びかけた思考をリセットさせられる。
 今夜我を失ったのはこの短期間で何度目だろう。やはり自分は心底疲れているらしいと気まずく豆腐ごとスープを喉奥へ流し込む。
 しかし自棄気味な男心と相反して、スープは変わらず美味かった。あんなに手軽に作ったくせに、カップもレンジに入れてたから冷めづらくなっているのだろう。そんな女の気遣いが、胃にまで熱を伴い染み入ってくる。
 だから、本来なら相手を慮って大人しく待てばいいはずなのに。優しい熱に堪えきれなくなってしまった男は、思わず言葉を吐き出してしまう。
「……お前は」
「はい?」
「今日は、どうしていた。暇……だったのか?」
 我ながら不器用な質問だと苦笑しながら返答を待てば、そう長い間も置かずそうですわねえと笑う声を聞く。
「フロンさ……んの講習のお手伝いと、アイテム海潜りにご一緒したくらいで。わたくしとしては任務に取りかかりたいところですけど、あの方の目があるところでは難しくって」
「ほう」
 フロン、とは確か金髪の堕天使だったと記憶を探る。あのお頭の中にまで花が咲いてそうな娘がどんな罪を犯したのかは知らないが、堕天使と天使兵なら後者のほうが位としては上だろうに、何をそんなにしゃちこ張っているのか。
「あの娘が苦手か」
「いえ、仲良くさせていただいてますのよ。けれど、あの方は、その……」
 言い淀む天使を見上げれば、深皿に炒めたキャベツを盛っていた。どうやらあれが次の料理か。予感はしていたがこの娘、野菜好きの健康志向のようだ。
「……どうにも逆らえない方でしてね。混乱していますの」
「意味がわからん」
 珍妙な言い回しに素直な心境を述べれば、そうでしょうねと苦笑される。ついで空になったマグカップと交換する形式で受け取ったのは、チーズと黒胡椒で味付けたアンチョビたっぷりのキャベツ炒め。
「わたくしも、自分で言っておきながらよくわかりません。まあ今日は概ね暇だったのは確かですわ」
 会話の軌道を修正されて、フォークを受け取ったそばからキャベツを頬張った青年は、予想に違わぬ美味さに唸りながら大きく頷く。この天使が暇なせいで寝る時間のはずでもさほど疲れていないなら、自分の世話を焼いたのも納得できるからか心も幾分か晴れ晴れしていた。
「……お味はどうです?」
「尋常でなく酒が欲しい」
 間接的ながら褒め讃えたつもりだったのに、不幸にも娘はその意図をいまいち読めなかったらしい。困惑顔で彼を見返してきてから、湯沸かし中の寸胴鍋の近くにおいた彼のイワシをまな板へと持っていく。
「お酒……ですか? おつまみのつもりで作った訳ではないのですが……」
「それでもこれは十分酒の肴になる。……白、いやこの際辛口ならなんでもいい。ともかくこれと酒で腹を膨らませても俺は全く問題」
「ありますっ。今からメインをお出しするのにもうこれでいいなんて、料理人泣かせの女泣かせにも程がありますわよ!」
 遮るついでに叱られてしまい、そうだったかと反省した青年は酒恋しさを抑え込みながら先の娘の発言を反すうする。――料理人泣かせはともかくとして、女泣かせ、はちょっと別の意味になってしまわないだろうか。しかもそれをよりにもよって『彼女』に似た天使に叫ばれるのは、別人と割り切っていてもやけに後ろめたい。
「……吸血鬼さん?」
「ん。な、なんだ」
 珍妙な口元の強張りを誤魔化すつもりでキャベツを大きく頬張れば、こちらをちらと見ていた娘の首が正しい位置に戻った。
「ぼうっとしていらしたから、さすがに眠くなったのかと思いまして。……そう言う意味で食欲がなくなったのでしたら、我慢なさらないで教えてくださいね」
「安心しろ。誇り高きプリニー教育係はこの程度で力尽きん」
「そうですか……ふふ」
 自信たっぷり、それをも超えて傲然と言い放てば、返ってきた反応は苦みと呆れと、それからどうしてだろう。微かな申し訳なさを含んだような、笑い声で。
 だが最後の表現は未確定。またもフライパンに火を入れた天使は油を垂らすとまな板の具材を投入して、こちらに振り向く素振りさえ見せず彼の直感に確証を与えない。
「……随分と、今のお仕事を満喫していらっしゃるのね」
「まあそれは……いや待て。今、と言ったか貴様?」
 つまり自分の昔を知っているのかと――別人だと割り切ったはずなのに、娘の言葉に浅ましく食いついてしまう愚かしさよ。当人もまた必死な自分に気付いてすぐさま恥じたが、天使の肩は緊張もせず、てきぱき木べらを動かすだけ。
「ええ。あなたのお付きの……狼男さん? が、よく『暴君』時代がどうこうって愚痴っていらしたから」
「そうか……」
 しもべから昔話を聞いたのなら、納得しないこともない。そうとも落胆などしないと、自分に言い聞かせながら彼はキャベツを口に運ぶ。眼前の、小振りな羽を持つ華奢な女の背に意識を吸い寄せられてしまいながら。
「それで……あなたは昔の……魔力や生活を、惜しんだりはしませんの?」
「ああ」
 それでも声ははっきり届いたから、相応にはっきり答えてやった。
 今の環境に不満はない。魔力を失い、地獄に堕ちても、この城のプリニー世話係として徴収されても自分の根本を変える気はない。今できることを精一杯やる。たった一つの、単純にしてどこまでも極められる使命を、誇りをかけてやり抜くのみ。
「過酷な仕事であることは否定せんがな、それでも今の生活は昔より遙かに充実感がある。責任の重みも、努力の成果も直に感じさせられるのは愉しいとさえ思う。こうなった己の運命に、俺は感謝こそすれ悔いは一片もない」
 ある程度胃が満たされた影響か、自覚以上に力強い声で言い切ったその瞬間、瞼の裏に誰かの面影がさっと過ぎる――朝露を宿す花に似た、可憐で清楚な人間の娘。慈悲深くも孤高の、当時の自分よりよっぽど意志を貫く辛苦を知り、それでも前を見据え続けた強く気高い心の持ち主。
「……いや、後悔しないことはないが。悔いたところで過去が変わる訳ではあるまい? ならば今に活かすのみよ」
 絶対に、もう二度と、約束は破らないと。
 あのとき胸を貫いた激しい痛みと誓いのお陰で、以降の彼は辛酸を極めた敗走の道を転がり落ちていった訳だけれど。それでも今はしもべと共にプリニー教育係として充実した日々を送っているし、イワシと邂逅を果たしてからは人間の血への執着もなくなった。それは素晴らしいことだと、今でも強がりでなく思っている。
 そうとも。魔力がない、それがどうした。それでも自分は以前よりも、強く気高い心で生きていけるのだ。
「それは……あなたが前向きだからこそ仰れることです」
 しかし満ち足りた気持ちで己の根本を再確認した男と違い、天使の声は震えていた。相変わらず彼からその顔は見えない。見えないのに、泣いてしまいそうな予感を痛烈に誘うのは何故だ。
「あなたがどうして魔力を失ってしまったのか……詳しく聞く気はありませんけれど、きっとあなたに非はないのでしょう?」
「……さてな。あると言えばあるし、ないと言えばない」
 自由なほうの顎に手を添え、素直な心情を呟く。
 守ると約束しておきながら、娘の身に危険が迫ったそのとき、目を離してしまったのは己の失態。だがその娘の身に危険が迫った理由については、冷静に判断すれば娘自身が蒔いた種に過ぎない。
 だから誰が悪いのかと問われれば、多分あの娘になってしまうのだろう。
「いいえ、あなたは悪くありません。……そう、思うだけですけれど」
「何故……んごっ!?」
 何故そう思うのか。赤の他人が。『彼女』でもない守銭奴天使が。
 口を開きかけたとき、フライパンに何を垂らしたものやら。じゅわっと大きな音と同時に強い酸味が無防備な鼻腔を直撃し、そこそこ嗅覚の優れた吸血鬼は声もなく悶絶する羽目になった。
 そんな背後の男の様子を知ってか知らずか、少しむせただけの天使は咳払い一つで続きを語る。
「……ここでの生活しか存じ上げませんけれど、あなたは責任感の強い、真面目な悪魔さんですもの。あなたに非があったとしても、それは単に運が悪かっただけで……魔力を失う切欠を作ったほうに、問題があるのではないのですか」
「べほっガほッ……なっ、何が言いたい!?」
 こちらようやく気管に空気が通るようになった――それでもかなりつっかえ気味だが――青年の問いに、小さな羽が動く。海中で、羽根を毟られもがき溺れる鳥を連想させて。
「……あなたが無理をなさる必要はありません。今からでも切欠に全ての責任を押しつけて、なんでしたら切欠そのものをなかったことにして、血を吸」
「断る!!」
 相変わらず鼻から喉にかけての違和感は拭えないし、反射的に出した声も軽く掠れているから裏返っていたかもしれないが、それでも彼は断固として告げた。
 あってはならない。約束を破り人間の血を吸うことなど。『彼女』との出逢いそのものをなかったことにする選択など。そうやって不都合から目を瞑って得られる魔力に、どんな価値があると言うのだ。それに、それに。
「あれに……あいつに罪はない! あいつとの約束で俺の魔力が失われたのは事実だとしても、あいつとの出逢いのお陰で俺は失ったもの以上のものを得た! つまりあいつの罪は帳消し、どころか多大なる釣りがある以上、恩人とさえ言えるのだッ!」
 そうだ『彼女』は罪人などではない。優しく清く強い心根の娘が、罪過の鎖に汚されるなどあり得ない。それが自分に関わることとなれば尚更だ。
 力強い男の宣言に、だが天使の娘もまた譲らない。決して振り返らないまま寸胴鍋の中身を一杯フライパンに投入すると、怒りに声を荒げる。
「……ですからっ。そんな受け取り方は、あなたのその前向きさあっての思考でしょう!? 普通はそう受け止めませんっ!」
「そうかもしれんな。だが当事者たる俺がそう捉えている以上、外野がなんと言おうが意味がない。どこのどいつがあれを罪人と定めようとも、俺はあれの味方であり続ける」
「――――っ」
 その一言で女が息を呑んだ、のは気のせいだろうか。
 細い肩の娘はそのまま数秒硬直していたが、ふっと息を漏らすと寸胴鍋を掴んで中身をシンクに流し込む。もうもうと立ち昇る湯気に思わず顔を背けた男は、微妙な居心地の悪さもあって残りのキャベツを黙々と口へ放り込んだ。
 天使もまた継ぎの言葉を見いだせないでいるらしい。ざるに入ったスパゲティをフライパンに投入すると、具と絡めて味の微調整。皿に盛りつけ、彼の前に最後の一品を置くまでずっと無言を貫き通した。
 またようやく吸血鬼にかける言葉も、素っ気なさの塊のようで。
「どうぞ」
「ん……」
 霜が降りていたイワシ二尾は、多少解凍させてから三枚に卸して使ったようだ。一口大に切られ、玉葱だの茸だのと一緒に炒めてスパゲティの具の一つとなった。そのパスタも美味そうな匂いを漂わせていたが、柑橘類の刺激臭が一際強い。彼の気のせいであればいいのだが。
 実のところ、あのむせた記憶は彼に軽度ではあるがトラウマと警戒心を与えていた。香りに刺激を受け咥内に唾液が満ちてくるも、一口食べたらあの強烈な酸味しか舌に感じないのではなかろうかと、いやな予想が沸き上がる。食べ物を粗末にする女ではないだろうが、天使とはつい先ほど喧嘩をしたばかりの相手に美味いものを出すほど心が広いのか確信が持てないのもある。
 女の側をちらと確認すると、もう彼女は吸血鬼の反応など一向に気にしていないらしい。寸胴鍋やらフライパンを騒がしい音を立てて洗っており、こちらを振り向く様子さえない。
 正直なところ、酸っぱいだけのパスタを山のように食べるくらいなら多少冷めても美味いアンチョビキャベツで引き上げたい。しかし出された料理を残すのは、赤貧のプリニー教育係としても心苦しい。何よりもこちとら今までの料理に金を出さねばならないのだ。
 なら、やはり食べるしかないだろう。
 やむを得ず腹を決めた男は、まだ皿に残っていたアンチョビとキャベツを一欠片残さず口まで流し込み、完全に食べ終わってからこんもりとしたパスタのほうにフォークを突っ込む。
 フォークにスパゲティを絡めるだけでまた新たな湯気と香りが生まれ、その中でも特に酸っぱい香りが鼻腔に届いて悪寒を沸き立たせる。鼓動は早く耳の内側まで響き、唾液が渋味を帯びてきた。
 しかしそれでも食わねばなるまい。血の匂いがしないだけ、執事に任せるより安全に食べられるはずなのだから。
 そうして一口、期待どころか絶望さえ抱きながら無造作にフォークを口に放り込んだ青年は、そのまま荒っぽく咀嚼、嚥下。してから暫しの放心状態を味わった。
 最初、何が起こったのか彼は自分でも全くわかっていなかった。だから真実を確かめるべく、もう一度さっきと同じことをして。なのにあっと言う間に噛み飲み込んでしまうから、また。と思ったらまたまた。更に。もう、ずっと。
「んむっ、ふくっ……っは、んぐ、ん、んむむっ!」
 気付けば皿から口にそのまま流し込みかねない勢いで、吸血鬼はひたすらスパゲティを貪っていた。それくらいに、美味かった。手も口も止まらず、我を忘れてこの一品に耽溺した。
 大蒜とバターの絶妙なうま味と塩気は勿論のこと、火を通すことで甘くなった野菜に、イワシがそれらと絡み合いつつもどっしりと主張してきてたまらない。レモンの風味は予想よりずっと軽いのに、こってりしがちな味わいに爽やかな酸味を与えており、お陰でどれだけ食べても飽きがこなかった。またそれらを中和しつつ引き立てるぷりぷりの麺が、出汁と絡まって美味いのなんの。長々と咀嚼してもいいし、喉越しを味わうように流し込んでもいい。イワシのうま味を長らく堪能できるのに、骨も気にせず好き勝手に食べ散らかしても全く問題のないこの贅沢さ。ああ、至上の快楽とはまさにこのこと。
「……はぁあ。食った……」
 結局、彼が一息ついたときには具の一粒さえ残さず食べきって、皿は薄らと油が残るだけ。何の料理が乗っていたのかもわからないほど綺麗に平らげていた。量についても最初は多いとげんなりしていたのに、絶品となると申し分なし。いやそれどころか少し物足りない、腹八分目とさえ思うくらい。
 心なし膨れた腹をさすりながらうっとり満足感に浸っていた男は、すぐさま眼下の食器が下げられてようやく現状を思い出す。
 天使が。それまで自分と声を荒げるほど意見を衝突させていた娘が、予想を遙かに越えて百二十点満点のものを食べさせてくれたのだ。これは礼を述べるどころか謝ったほうがいいのではと焦点を合わせてみれば、やはり彼女は素っ気なく。
「お粗末様でした」
 淡々と洗ったパスタ皿の水気を切ってから、ざっと布巾で拭って食器棚に直す。一連の動作に雑念はない。それ以上に熱さえない。彼の感想さえ、多分期待していない。
「それでは」
「いやっ! 待て!」
 軽い会釈ののち立ち去ろうとする天使の腕を、身を乗り出して掴み取る。
 それまで軽く俯いたまま、もしくは彼に顔を見せないようにしていたらしい天使の娘は、男の強い眼差しを浴びると身を竦ませて視線をそらす。その瞼がほんのり赤らんでいるのは、気のせいにしていいのか。否。
「……その、すまなかった」
「はい……?」
 よくあるまい。そう思ったからこそまず真っ先に謝罪の言葉を口にしたのに、驚きに目を瞬かれる。自分の態度に傷ついたのではないのかと微かな疑問を抱きはしたが、素直に告白することにした。
「直前にお前にきつい物言いをしたせいで、復讐がてら酷い味付けをされるかと身構えていたのだが……美味かった。疑って、悪かった」
 頭を下げて相手の反応を待ちかまえると、ほんのりとした笑みを返される。慈しみを含んだ、それでも遠慮がちな貌で。
「……そんなこと。夢中で食べていらしたから、お気に召していただいたのはよくわかっておりますわ」
 言われてみればその通り。あれだけ恥も外羞も捨てて貪っていれば、不味いと受け止められるはずがなかろう。今更ながらそんな自分が恥ずかしくなってきた青年は、しかしと食いついた。
「なら何故、そうも……目が、腫れている」
「……ええと」
 気まずそうに伏せられる瞼は、やはり赤くて痛々しくも腫れぼったい。娘の肌が白いせいか、尚更に泣いたらしい痕跡が目立つ。
 もし本当に泣いたのなら、それはやはりあのときなのか。たかが他人の一意見のはずなのに、大人げなく一喝してしまった自分に悔いつつ、もつれる舌を焦り動かす。
「俺の身を案じてあんなことを言ったのなら、……すまん。意志を翻す気にはならんが、ああも大声を出す必要はなかったと、反省している」
 改めて頭を垂れようとしたが、それより先に肩に手が乗る。華奢な、柔らかい指が彼の動きを制そうと強張り食い込んできて――その感触の、痛みを感じてもいいはずなのに、くすぐったいくらいの心地良さは一体。
「……いえっ。別にわたくしはそんなことでこうなったのではなくて……!」
「そうなのか?」
 また見上げれば、また視線が逃れてしまう。どうして真っ直ぐ見返してくれないのか。何か、後ろめたいことを抱えていないのか。
 杭穿つ胸中を、疑問と痛みと奇妙なほどに静かな熱で満たしながら、紅い眼差しがひたと女の横顔を見つめる。己の激情を押し殺すように、細やかに震える睫は思い出の中の誰かとほとんど、いやそのまま重ねればぴたりと一致してしまいそう。
「……ええ。レモンの果汁が思ったより目に染みましてね。あなたに誤解させないよう隠したかったのですけど……それが裏目に出ましたわ」
「そうだったか……」
 それなら仕方ないと納得したのか。嘘だとどこかで勘付いていても、それ以上深入りすれば何かが崩壊しかねないと察してしまったのか。
 どちらにせよ、漠然とした危機感から男は長らく掴んでいた娘の腕を放してやると、相手の手も離れていった。
 白く細く、すらりと整った手が自分の体から遠のいていくたった数秒のその光景が、何故だか無性に淋しく胸を打つ。その手を奪って娘ごと自分の胸に引き寄せたい衝動にさえ駆られてしまう。その流れで抱き締めて、硬直するか暴れるだろう彼女に何と囁きたい。どんな言葉を、想いを、捧げてしまいたい――
「……それにしても、驚きましたわ」
「んっ?」
 不意の声に我に返れば、控えめな笑みを宿した天使の横顔。しかし満面でもなければ慎ましくもなく、どちらかと言えばほろ苦い、失笑と表現したほうが良さそうな具合だった。
「吸血鬼さんが頑固なのは存じていましたが、ここまでとは思っていませんでした。あなたと約束を交わした方は……なんと言いますか」
 小さく竦めた肩は剥き出し。墨染めの法衣にきっちり身を包んでいた清楚な『彼女』とはかけ離れ、下品と評してもいいはずの格好の娘は、なのにやはり、天使だと確信させる可憐な笑みを浮かべ。
「罪深い方ですのね」
 幸せな方ですのね、とも聞こえたのは、きっと空耳。でなければ、血を吸わなくなった切欠を忘れるべきなんて主張はすまい。そう、男は思う。思うことにする。
「……さて。どうだかな」
 だが吸血鬼、お前はどうして気付かなかった。
 眼前の天使は一体どこから『約束』なんて言葉を持ち出したのか。約束により血を断ったと、どこでどうやって知ったのか。それを指摘すれば、胸を覆うわだかまりが解けたかもしれないのに。本来の、正しい運命が繰り広げる再会でなくとも、後悔と淋しさを癒す機会を得られたかもしれないのに。
「――さて。満足していただけたようですし、最後にわたくしのお仕事で有終の美を締めくくりたいと思うのですが……」
「……仕事? っか、金か!?」
「ええ。最初に申し上げた通り、お代はきっちりいただきますわよ?」
 気持ちを切り替えた声音が、男の感傷をずばり切り裂き今まで完全に忘れていたことを思い出させる。
 そうだった、彼はこの娘と今夜最初に取引をした。薄給のプリニー教育係の身分にも関わらず、業欲の天使相手にいいカモになると覚悟した上で料理を作ってもらったのだ。
 満足感に満たされ完全に緩みきっていた体を、どれだけぼったくられるかの不安と覚悟に強張らせながら、それでも取り乱すまいと男は踏み縛って天使を睨む。
 その面構え、気迫も緊張感もたっぷりなのに、どうしてかそれ以上に情けなく見えてしまって、彼女は思わず吹き出してしまいそうな口元を指で隠した。
「……ええと、あれがあれくらいで……」
 頭の中で金額を計算する小芝居までしながら、相手の反応をしっかり伺う。出会ったときより幼く、表情豊かになった彼の姿を脳裏に焼き付けるべく。
 人間だった頃の自分を看取ってくれた風変わりな悪魔。気高くて自由で、不器用なりに優しかった吸血鬼。とある魔界に『徴収』目的で時間旅行をしたつもりが、大恩ある天使長が堕天使の時代に辿り着いた上、あの『彼』と遭遇してしまって随分驚いた。
 しかし時間旅行者がタイムパラドックスを起こすのは重大な法律違反。だから絶対にこの彼に自分の正体を話すつもりはないし、深入りしないよう気をつけていたはずだったのに。
 この時代でも『彼』は『彼』で、やはりどうしようもなく惹かれてしまうのだろう。気付けばこうして手料理を振る舞い、血を飲ませようと説得して、結果失敗、返り討ちに合ったどころか惚れ直させられたのだから。
 それでも自分ばかりいいように振り回されるのは少し悔しいし、――きっとここでの出来事は、自分がもとの時代に返り、彼もまたもといた魔界に帰ったら、その瞬間に互いの記憶も薄れる胡蝶の夢。ならばそれまでしっかり自分を覚えてもらって、あらゆる感情を抱いてもらって、心に留めて頭のほんの片隅にお邪魔させてもらいたいから、彼女はちょっと困ったふうに口を尖らせ、あらかじめ考えていた言葉をそらんじる。
「申し訳ありませんけれど、吸血鬼さん。お代は少しの間、保留にしていただけません?」
「どうしてそうなる」
 黒く凛々しい眉が訝しげにひそめられる。そんな仕草にさえ胸が切なく、その痛みに溺れてしまいそうになる。けれど、気持ちを吐露する真似は絶対にしない。
「わたくし、うっかり電卓を忘れていましてね。それに材料はあなたやこちらのお城のものでしょう? ですから材料費と光熱費は無料にするとしても、まず原価を出さなければわたくしの取り分である技術費は出せませんし……」
「……な、成る程」
 可愛げの欠片もなく理屈をすらすら並べ立てれば、青年、軽く退いていく。
 予想はしていたがその通りの反応をいただくのもそれはそれで傷つくなと思いつつ、天使となった娘はですから、とにっこり微笑んだ。ちなみに本人にとってのにっこり、であって実際にその笑顔を向けられた男にとってはにんまり、のほうがより適切だったが。
「また後日、改めて計算してあなたに請求しますので、そのときまでお待ちください」
「後日……って、おい、いつかわからんのか!?」
「わかりませんわねえ。明日はシシリーさんとペタさんにお誘いを受けていますし、フロンさんに見つからないよう計算するのもなかなか難しくて」
「それでも……!」
「それにあなただってお忙しい上に一つところにいらっしゃらないみたいですし、また顔を合わせられる機会がいつになるかわかりませんもの……」
 彼に食べさせる手料理の代金なんて、実際には内約を事細かに計算せずともこちらの胸先三寸で決められる。財布事情を慮ってこの場で安く提供してやることもできたが、結果的に彼女は彼と次に会う機会を繋げる方法を取った。
「ぐっ……! ならば仕方ないが……いいか、なるべく早く教えろ! 変に間を置いて利子などつけられてはかなわんからな!」
「借金と同じような扱いはどうかと思いますわよ? 別に利子をつけてほしいと仰るのならそうさせていただきますけど」
「いらんわ!」
 打てば響く返答に、くすくす笑って一足お先に失礼しようとドアへと歩く。しかしそれだけで会話を終えるのは惜しいから、振り返り際も晴れやかな気分で微笑んで。
「また食べたくなったら、お気軽に仰ってくださいね」
 しっかり宣伝しておくと、スツールを掴んだ中腰のまま、居心地悪げに目を伏せた吸血鬼はぽつりと吐き捨てる。
「なら、とっとと教えろ……」
「…………」
 色々言葉は足りなかったが、意図は彼女にもしっかり伝わった。参考にしたいから値段を早く教えろと、つまりそういうことなのだと。
 本人としてはそこまでこの彼が自分の手料理を好んでくれるのは予想外で、思わず目が点になったがそれでもなんとか我に返り。
「……ど、努力はします」
 頬を引きつらせながら言い逃げて、明かりも疎らな夜の廊下を駆けていく。
 悪魔も眠る夜半過ぎに、騒がしい音を立てるなんてみっともない自覚はある。けれど頬の熱さが、いくら引き締めようとしてもどうしても緩んでしまう口元が、ああそれらをも増してどんな痛みより激しく胸を穿つ切なさが、猫を被る余裕などきれいさっぱり奪ってしまったから。
 罪なひとだと彼を責める。自分に気付きもしないくせに、自分を忘れてくれない吸血鬼に。どこまでも自分を貪欲にさせてしまう、唯一の悪魔を。






後書き
 D2のふたりの関係は4の本編中と勝るとも劣らない勢いで絶妙にいじらしくて好きよグフフ……ネタ。
 家族家族した仲間たちの視線が薄い上にただの食客でしかないからある意味自由度上がったけどやっぱり気付かない(ことになってる)アンバランスさがこの状況でバレたらどうなるんだろう欲を煽られてそわそわします。

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アビリティにヒロインってどうなのよ

2013/05/25

 友人曰く「私になんの断りもなく映画化しやがった」うさこちゃん映画見るの結局忘れましたこんばんは、それまで様子見だったくせに百騎兵の花の魔女さまに購買意欲煽られてるちょろい人間はこちらです。けどドラゴンズクラウンが……社長を筆頭にガチで身を削ってるヴァニラゲーとの発売日が一緒だなんてうぐぐ……(慈悲の女神アルテナで吹いた人はボクと握手!)。

 D2のサントラパッケが描き下ろしなんですね。3と4は素材使い回しだったじゃないですかーなんで今回だけまた描き下ろすんですかーやだー。……今回フェイスアイコン描かなかったから多少は予算回せたりしたのかしら。
 DLCの次に気になるのはドミニオンだけど日本一括りでおなご優先っぽくて男子はどこまで出るんだろうってのが微妙に不安ですたい。閣下はまず間違いなく出るだろうけど……(某シュバルツで唯一描き下ろしなかった某執事を眺めながら)。
 そいや某シュバルツではアルティナちゃんもピンでは描き下ろしありませんでしたね。ある意味ではそれより嬉しい閣下と一緒でしたが、それを見て「閣下は単品でキャラが立つけどアルティナちゃんは閣下なしだとやっぱキャラ薄いよね…」と微妙に曇った記憶が。
 そもがディスガイア及び日本一の恋愛担当的意味合いでのヒロインって、旦那の存在をキャラの根源に組み込んでるので、一応ピンで成り立つだけの設定は土台としてあるけどストーリー通しで見たら「この子この人(orこいつ)とくっつかなかったらどうなんの…」となるくらい嫁の役割が強いと言うか。母性的、献身的、受容的な印象が強いので関係が発展する相手がいないと厚みが生まれず、そういう意味では変化を約束されたキャラクターですね。
 反対にマスコット枠ヒロインは自立精神満ち溢れ、自由を愛する逞しさが強い印象。なので割とお手軽にキャラを立てれるけど成長、変化の要素は薄い。どこぞで「母性がない≒少女性」との暴論を見て微妙にツッコみたい気分になりながらも結構合ってる気がしたので、「永遠の少女」とでも言いましょうか。やっぱ前者と比べるとバランスは取れてるんですね。
 ズベ子は微妙に上記の例外のような気もしますが、きっぷの良い姉御調の接し方とかマオの永遠のライバルである自分を保とうとする点を考えればどうにか後者のカテゴリ寄りな気も…? つーかそれ言うなら姫様の可愛がり方も慈しみではないので3だけなんか例外にしたい。女どものが精神的に男前とかそんなんだからアルマがヒロインとか言われるんだよ!
 まあともかく私が言いたいのはあれですよ。ヴァニラウェア調のヴァルアルとかいっぺん見てみたいよねっつかドラクラのドラキュラが女で吸う対象も女でサフィズムとか社長趣味全開すぎんだろちょっと古風な吸血鬼紳士期待してたのにー!!!


 ……あれなんか違う気がするな。まあいいやお返事でーす。

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