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30分で三竦み

2012/05/19

 忠実なる僕とは、主の言動を総て受け入れてこそ成り立つ。
 基本的に自分はその通り、世界の支配者の器たる『暴君』が全幅の信頼を寄せる僕として最も相応しく、上記の言葉を体言している自信がある。
 しかしそう常々思っていたとしても、見なかったことにしようと速やかに判断を下すことも悲しいかなあったのだと、人狼族の青年は――闇夜に爛々と輝く肉食獣特有の、しかし知性に溢れた黄金色の瞳に、少々ごわつくものの豊かな銀の毛並みよろしく毛髪と、なめし革に似た褐色の引き締まった四肢を持つ執事は、ついほんの数秒前の出来事を振り返った。
 普段通り軽いノックをしてから扉を開けたつもりが、どうやらノックが聞こえていなかったらしい。ごっごっと鈍い音を立ててひたすら執務室の壁に額を打ちつけ続ける黒髪と黒い外套の背中を目撃した彼は、開けたはずの扉をいつの間にかそっと閉めてしまっていた。
 いやしかし、そんな行動を取った人狼を誰が責められよう。
 これであの黒髪の青年、つまり彼の主が、自傷癖持ちだの精神虚弱で日常的に危なっかしい妄想に囚われるだのややこしい欠点を持っているなら相応に対処する覚悟はある。
 だがかの人物はむしろ逆。どのような逆境苦境に見舞われようが、――都合のいいように記憶をねつ造する部分はあるものの――自分を強く保ち、悪魔として気高くあり続ける尊き志と強靱な精神と、病気や重傷でさえ気合いと根性で乗り切る強靭な肉体の持ち主だ。魔力が戻っていないにも関わらず肉体までもが強靱なのは、愛食しているイワシの力によるものだと本人は断言していたが、彼自身は当然そんなもの信じていない。イワシの頭も信心から、なる諺に説得力を見出したりはしたが。
 ともあれ、この人狼の主、過去の魔界では『暴君』とまで呼ばれ恐れられた吸血鬼は基本的に奇行を起こすような悪魔ではなく、だからあんな行動を取るなぞ夢にも想定していなかった。そのため彼が扉を閉めてしまったのは、四百年の付き合いがあるにも関わらずそれを受け入れられないくらい激しく動揺したからに他ならない。
 自分もまだまだ忠実なる僕として未熟らしいと殊勝にため息をついた男は、主が奇行を起こした原因について考えようとし、すぐさま思い当たる節として脳裏に現れた女の姿に舌打ちした。
 ここ四百年間において、彼の主が制御不能な存在になりかけるのはただ一つ、否、一人の人間の娘に関して。
 戦時中、敵味方関係なく怪我人を治療し続けたとか言う下らない偽善者。主は清らかだの気高いだのと称えたが、彼にとっては空回りの努力で自分を追い込み、挙げ句命を落とした愚かな人間。
 その娘との約束のせいで、吸血鬼は以降四百年血を吸わなくなって魔力を失い地獄に堕ちた。それだけならまだしもプリニー教育係に使命感を見出した挙げ句イワシを好物にする、『暴君』時代からは考えられないほどのイロモノになってしまったのだから憎んでも憎みきれないとはまさにこのこと。更に死人は死人らしく過去の思い出の中にのみ息づいておればいいものの、かの娘は死後天使として転生したのだから堪らない。
 かくして娘の死から四百年後、主と再会を果たした忌々しい天使は、彼の妨害を回避し、それどころかこちらに二度にも及ぶ大きな借りを作る末恐ろしいほどの強運の持ち主で。世界を危機から救って以降は天界に帰ろうともせずちゃっかり地獄に居着き、今では地獄保嫌所で見習いとして働く始末。
 その女に、かの吸血鬼は滅法弱い。基本的に女子どもには甘い性質だが、ことあの天使となった娘については本当に恐怖のどん底に突き落とす気があるのか疑いたくなるほど弱いし甘いし以下省略。あの女はともかく主のことは悪く考えるまい。
 兎角、主があんな奇行を取るのもどうせ件の娘が原因だろうと思えばやたら荒んだ気分になったが、かと言ってあのまま放置もよろしくない。そのため青年は仕切り直すつもりで、さっき閉めたばかりの扉へやや強めにノックを三回。今度は効果があったのか、扉の向こうから断続的に響いていた鈍い音が止んだ。
「失礼します、ヴァルバトーゼ様」
 続いて咳払いののち、腹筋を意識しつつ扉の向こうに呼びかけてからドアノブを回す。当然、表情もまたいつも通りの平然さを完璧に装って。
「……ああ、フェンリッヒか」
 結論から言えば、主はちゃんと正気に返って仕事をしていた。
 革張りの肘掛けに収まった黒髪の吸血鬼は、塔のように立ち並ぶ書類に囲まれているためか華奢と表現して差し支えないほど痩せており、頼りない印象さえあるがそれは一見だけのこと。墨色の髪から覗く血塗られた氷柱の眼光は鋭く、青白い相貌も若いながらに貫禄と威厳が滲んでまさに人狼が理想とする世界の支配者たらしめている。
 しかし近付いていけばその貫禄も威厳にも、急ごしらえゆえの陰りが差してしまう。手元の書き途中らしいペン先が付着した書類は真っ白で裏表の確認さえできていないし、インクケースに達せないまま机に立ち竦む判子は焦りの象徴めいてなんとも情けない。
 それでもこの気高き吸血鬼の僕としての矜持から、主の虚勢に野暮な指摘はすまいと心に決めて、執事兼参謀兼秘書の男は本来告げる予定だった用件を口にした。
「工場から先月のプリニー生産数の詳細が届きました。先々月ほど大幅には減っておりませんが、今回もまた緩やかな減少傾向にあるとのことでございます」
「ふむ、人間どもは順調に畏れを取り戻しつつあると見て構わんようだな。結構なことだ」
 黒髪の吸血鬼が鷹揚に顎を引くと同時に背後の壁に赤い染みが滲んでいるのが目に入り、彼は小さく口の端を引きつらせる。そんな予感はしていたが、よもや怪我をするほど頭を強く打ちつけていたのか。
 対するプリニー教育係兼魔界与党『新党・地獄』党首殿は、僕の顔が強張っていることにも気付かずゆっくり机の上で両手を組む。この場面だけ切り取ってみれば、優雅な仕草と凄みが滲む面立ちにかの死神王に勝るとも劣らない威厳を感じるはずだ。
「だが油断は禁物だ。減少傾向にあると言っても依然魔界のプリニー密度は高い。人間どもを恐怖で戒める我ら悪魔の使命、ゆめゆめ怠らぬように各地区の悪魔に伝えよ」
「ははっ、畏まりました……が、まずは先に閣下」
「何だ」
「額のお怪我を、治療させていただけませんか」
 唐突な単語に怪訝に歪んだ眉間から、赤黒い血がたらりと一筋。走った痒みにようやく自分の異変を自覚した吸血鬼は、額に触れた白手袋の指先に目を見張る。
「こ……これは、よもや!」
「先程からここに籠もっておいでだったようですが、いつの間にかお怪我をなされたご様子。……暗殺者を返り討ちにでもなさいましたか」
「い、いやそんなことはないのだが……」
「でしたら何故……いえ、暗殺ではないのでしたら結構でございます。今すぐお手当を……」
 あくまで主の怪我の原因に不可解な態度を示しつつ、人狼は片手を挙げプリニーを呼んで救急箱を用意させようとした。何気に原因は把握しているし、下手に誤魔化されるより速やかに問題を処理できる。
 しかし何故だろうか。扉に軽く視線を向けただけなのに、尻尾の毛がざわついた。この感覚はつまるところ虫の騒ぎと言うやつだが、どうしてここでそんなものを覚えるのか――。
「……うむ。そうだな。では……」
 がらりと、後頭部から椅子を引く音が聞こえて。先とはまるで別人めいた、威厳がさっ引かれ全身から緊張が溢れんばかりの主の声も耳にして。成る程これかと青年はコンマ何秒かの世界の中で得心する。
「保嫌所に行ってくる!!」
「お待ちくださいヴァル様」
 瞬時に振り返った執事の目には、盛大に出鼻を挫かれあからさまにがっかりした顔の吸血鬼が映ったがそれしきでどうにかなるはずがない。あくまで毅然と、冷静に、内心の妬みなどおくびに出さず、書斎机の多くを占める書類の山にそっと手を置き主人を制する。
「閣下はご覧の通りご多忙であらせられる身の上。わざわざ御自らあそこに足を運ぶ時間すら惜しいほどではございませんか。すぐにプリニーを呼んで治療致しますので、暫しお待ちください」
「い、いやそれを言うならお前とて下手をすれば俺より多忙だろうが……。お前をつまらんことで拘束する気はない。自分の始末は自分で付ける」
「ありがたきお言葉、まことに恐縮の至りですが閣下のなすべきことはわたくしのなすべきこと。閣下の始末はわたくしが付けます」
「そう遠慮するなフェンリッヒ。たまの気まぐれだ、僕孝行でもさせろ」
「謹んでお断り申し上げます。さあ閣下、お座りください」
 大体本気で僕孝行をしたいなら今すぐにでも人間の血を飲んでほしいところだが、提案しただけでもそれはならぬと拒絶するのは想像に容易い。ならばここは意地でもあそこに行かせまいと気迫をみなぎらせる人狼に、吸血鬼も巻けず劣らず血の色の瞳に闘志を宿す。
「……いや。少し用件を思い出したのでな。治してもらうついでにそれを済ませる」
「どんな用件か、お聞かせ願えますか? 政務に関わることでしたら代わりにプリニーに向かわせます故」
 それ以外のことは許可する気はないと言外に含むと、ぎりりと歯軋り音を耳にしたが無視する。書類漬けの現状から気分転換を兼ねて別の欲求が生まれるのは仕方ないとしても、その欲求があの忌々しい天使との対面などとは言語道断。公私両面から許せるはずもないのだ。
 そう思考を巡らせたところで、青年は不意に気分転換の一言に過去の一場面をふと思い出し顎に手を添える。――そう言えば、あんなこと長らくやっていないが悪くないかもしれない。そうだそうだ、このまま意見のごり押しばかりでは時間の無駄。ならば、主を気分転換させつつも両者納得する方法で意見を通せばいい。
「……では閣下。ここは一つ、ゲームで治療方法を決めようではありませんか」
「ゲームだと?」
「はい。チェスでございます」
「ほほう……? チェスとは随分と久しいな」
 この発案は吸血鬼にとっても瓢箪から駒らしいものの、やはり食いつきは悪くなかった。執事から執務時間中にこの手の誘いをするのは珍しいため食いついた可能性はありうるが。
 人狼が『暴君』と呼ばれる悪魔に仕えて優に四百年。主な活動内容は全盛期から現在に至るまでかなりの変化はあるものの、使命に尽力する姿勢は一貫しているこの生真面目な吸血鬼は、しかし娯楽に興味が薄いほど無味乾燥な性格でもない。
 プリニー教育係となって以降あまりそんな暇もなくなったがやはり若者らしく娯楽には敏感で、どんなものにせよ時代の波に乗り遅れることなく一通りは精通している。とみにボードゲームやカードゲームは流行り廃りのない手軽で飽きのこない娯楽としてそれなり気に入っており、昔から小賢しい従者を相手に暇を潰した。
 で、その小賢しい従者こと人狼族の執事は、主の好物に更に釣り竿がしなるほどの餌をぶら下げ確実に釣れるよう細工を施す。
「ええ。もし閣下が勝てば保嫌所でもどこでもお好きなところで治療をお受けください。ですがわたくしが勝てば……」
「お前の言う通りここで治療を受けると。……いいだろう、その勝負乗った!」
 言い切って、黒髪の悪魔は机の二段目の引き出しから折りたたみのチェスセット一式を取り出し机の上に放り投げる。その勢いの良さを少しは書類の決裁にも見せてくれればいいのだが。
「それはよろしゅうございました。では失礼して……」
 そんなことを考えながらも軽く一礼してから執事は書斎机に余裕を作るべく、書類の山を隅へとゆっくり押しやったり分割して重ねたりの作業に取りかかる。そのまま待っておればいいものの黒髪の主人は淡々と黒白の駒を配置通りに並べており、手際の良さから察するに仕事には『かなり』うんざりしていたものと伺えた。
「持ち時間はどうする。時計は……」
「こちらにございます。五分の早打ちはいかがです? 久々のチェスですが、閣下もなるべく手短に終わったほうが都合がよろしいかと」
「ふむ、五分なら長丁場でもたかが知れるな。よかろう、それで行く。先攻は?」
「わたくしはどちらでも」
 これはあまり主を喜ばせる返答ではなかったらしい。ゆとりを持ったスペースを作り終えた青年は、無言で白手袋の握り拳を二つ差し出された。右を選ぶと、選ばれた手のひらに収まっていたのは白のポーンで、つまり彼が先攻。
 綺麗に駒を並べ終えたボードの、駒が白いほうが人狼へとくるり向けられる。潔く後攻を譲ったものの、痩躯の青年はやや不満げな顔をしていたが自分から仕掛けておいたのだから仕方ない。
「久しい一勝負とあれば先攻で挑みたかったが……まあいい。どうあろうと全力を尽くすのみ」
「光栄の至り。では、わたくしも全力でお相手致しましょう」
 当然だろうとばかりに小さく肩を竦められてからじっと見上げられ、それを試合開始の催促と受け止めた執事は簡素な椅子を持ってきた上で、まずはポーンを進めた。
 普段の彼なら吸血鬼の前でくつろぐことなどしないが、ボードゲームでこちらのみが立ちっ放しは違和感が強い。なにより公平な勝負を望む気高き対戦者に、こちらのみ俯瞰で盤と主の頭を見下す状況が長らく続くのはさすがにいただけないのだ。故に吸血鬼の忠実なる僕は主人の前で珍しく腰を降ろし、目線の高さを同じくしながらの対戦に洒落込んだ。
 当然ながら頭脳戦の典型例たるチェスは、人狼にとって得意だと胸を張って断言できる。久々の勝負であろうと思考が衰えた感はないし、黒が動いてすぐに駒を指すその手にも迷いはない。
 だがそれは吸血鬼もまた同じこと。単純馬鹿だと揶揄されがちで、彼も時折呆れながら似たような感慨を抱かせる痩身の悪魔は、しかしことボードゲームに至ってはきっちりと頭を使った駆け引きを繰り広げる。
 そのためこの四百年で、主人相手に限定した銀髪の青年悪魔のチェスの勝率はおおよそ六割。引き分けを入れれば三割六部で、多少リードしてはいるものの隙を突かれれば負けることもある危うい成績。吸血鬼がこの場で少しでも勝率を上げようと、また今回に至っては勝利した際褒美もつくためいつも以上に気合を入れる展開は想像に容易い。しかし、この勝負を誘った彼もまた負ける気はないのだ。
 それでもやはり気迫の問題か。最初に駒を取られたのは人狼のほうだった。たとえポーンとは言え戦力には違いない一手を取られ、彼は片眉を微かに動かす。
「……さすがは我が主」
「この程度で世辞は不要だ、フェンリッヒ。どうせお前も取るのだろう」
「そう言われると元も子もありませんが……」
 指摘通り、彼もまた同じくポーンを取り除き相手と駒数を同じにする。
 これで仕切り直しとなったはずだが、吸血鬼は彼の置いた駒の位置から危険を察知したらしい。むっつりと眉を歪めて顎を撫でる。
「……ナイトが前か。厄介な」
「これは単にほかの駒を動かし易くするだけのこと。閣下もお使いになられますし、よくある手法ではありませんか」
「否定はせん。だがお前のナイトは面倒だ。ここで潰させてもらうぞ」
 宣言通り、白のナイトが黒のナイトに押し潰される。だがそこは白のビジョップの通り道。黒のナイトはあっさり飲まれた。
 一連の逆転劇に、当然そう来ると予想していたのだろう吸血鬼は小さく肩を竦めてから軽く身を乗り出す。
「……ま、已むを得ん。お前の癖は既に知っている。ならば、こちらはその裏を掻くまで」
「ではわたくしは、ヴァル様の裏の裏まで掻くといたしましょう」
「つまり表か。ふむ、読みやすくてありがたい」
「ふふ、そう言っていただけるのはまことに光栄。お陰でこちらもことが優位に運べます」
 そんな言葉を交わしつつ、二人は淡々と駒を進める。
 確かに吸血鬼の言葉通り、戦略の癖は思考の癖。何度も同じ相手と勝負すればおのずと思考パターンは偏りが生じる。だがそれは対戦者もまた同じ。痩躯の悪魔の思考を本人よりも熟知している自負さえ持って、人狼は黒を少しずつ追い詰める。
 ビジョップに中央の駒を潰されたのが利いたのか、黒のビジョップも移動を開始するがその道行きは白のポーンが邪魔をしてクイーンにまでは届かない。已むなしとばかり黒のクイーンが躍り出て、白のナイトをぴったり狙う。
 防衛に手間取っている間に悠々白のポーンは全体的に前進しているためか、最早黒はポーンを壁として使うしか手がない。だが吸血鬼は冷静なもので、ちゃっかり懐に入ってきた白のナイトを拾い上げる。
「お見事」
「褒めるならキングを前線に出してもらいたいところだな?」
「それはいかな閣下であろうとお断します」
 ついに残った黒のナイトを倒しつつ、執事は主相応、優雅に笑んで盤を改める。
「さて、これで憂いは数えるほどになりましたな」
「……ふん。なら仕方あるまい」
 と、白のクイーンがポーンにやられた。が、それをポーンで押し返す。
 これで僕側からすれば手駒は劣勢、だが位置は優勢。巧くルークをおびき寄せさえすればプロモートは目と鼻の先。対する主は防衛に手一杯で、白のキングに近付くことさえできずにいる。おまけにチェックをかけられた。
 ――さて主はどう出るのか。
 長考の間があれば活路は見出せたかもしれないが、持ち時間はごく短い。しかしひたすらこのゲームに集中している今なら逆転されるかもしれないと思えば、人狼は見えない可能性にぞくりと背を奮わせる。
 このまま自分が勝てばそれはそれで構わない。だがここから突発的な閃きを宿した主に鮮やかに逆転されてしまうのも、こんなはずではなかったと自分が歯噛みする未来が訪れるのもきっと楽しかろう。
 これもまた一つの贅沢。もとより勤務時間中に党の首脳たる二人が、多忙な時間を割いてチェス盤を挟んでいることは贅沢を越えて無駄、ただのさぼりと見なされる。それでも今の彼は、このひとときに堪らない愉悦と満足感を得ていた。
 いいや、むしろこれは無駄だと謗られるからこその贅沢か。他者からすればくだらない価値しかないからこそ、この時間は広大な世界の中で自分たちたった二人にしか共感できない、何にも代え難い価値ある瞬間なのだ。それを四百年以上付き従う、世界の覇者に相応しき主と共有できるとは、なんたる至福であろう。
 胸の奥からせり上がる感慨に思わず人狼が口元を綻ばせ、ちらと時計に目をやった吸血鬼が苦々しげにチェス盤に手を伸ばした瞬間だった。
 短く、あくまで軽いノックが二度、白黒の尖り耳に届いて。続いて滑り込んだのは、金の鈴をひとの喉奥に誂えたかのごとき甘やかな女の声。
「失礼します、今月の保嫌所の出納帳を……あら?」
 声の主が誰なのか理解したときの主従と言ったら。百面相のお手本を探している芸術家がおれば、こちらでございと案内したとしても褒められこそすれ罵られることは確実にないと断言できるほどの変化が二人の間で生じていた。
 吸血鬼は顔を上げれば扉が真正面に見えるため、特にその人物の正体はわかりやすかったのだろう。まず怪訝に顔を上げ、目を見張り、嬉しそうに口元を緩めたかと思いきや、我に返ってぎゅっと口元を一文字に結び、戸惑いを押し隠すように顔を伏せる。
 扉に背を向けた執事が声の正体に気付いたのは主に比べて一寸遅い。それでも主と同じく眉をしかめて顔を上げ、眉根の皺を深くして、苦虫噛み潰したような面をするも、咳払いののち澄ました表情を装う。それでも本心は隠しきれず、背後からこちらに近付いてくる踵の高い靴独特の足音に片眉がひくひく痙攣した。
「お二人揃って休憩中でしたの?」
 一連の主従の顔芸を露とも知らず、書類の山に苦笑を浮かべたのは、桃色の髪と水色の瞳、魔界で滅多に見ないはずの丸い耳を持ち、更に魔界に本来いるべきではない白い羽を生やした華奢な天使の娘だった。――四百年前、他愛ない約束によって一人の有望な悪魔をどん底に突き落とした毒婦でもある。
「現実逃避なさりたいお気持ちは十分お察ししますけれど、溜め込みすぎてもあとで泣きを見ますわよ?」
「余計なお世話だ。大体お前の想像ほど時間は経っておらんわ」
 執事が女のお節介をばっさり切り捨てるも、黒髪の青年は正反対。穏やかな声で天使に現状を説明してやる。
「安心しろ、アルティナ。机にボードを置く隙を作るべく書類を縦に積んだだけで、仕事は増えも減りもしておらん」
「それはどうなんでしょう。減らすべく努力をなさったほうが……まあ、チェスですか」
 女独特の甘ったるい匂いを近くに嗅ぎ取った人狼は瞬時に振り返り、こちらに身を乗り出して覗き込もうとしていた天使にこれ以上近付くなと牙を剥く。
 たかが威嚇で怯える娘ではないが、それを無視するほど無神経でもなかったのがこの場では逆効果。彼女は詮方なしと彼から距離を取ると、すすすと半円を描くようにして書斎机の向こう、つまり吸血鬼のそばまで移動したのだ。
「貴様何を……っ!?」
 嫌いな女に近寄られるのは胸が悪いが、主に近付くとなるとそれ以上。立ち上がり一喝しようとした若き執事は、不幸なことに勢い余って椅子を蹴り飛ばしてしまう。
 そうして慌てて主にこの無礼を詫びてから椅子をもとの位置に戻す間、娘はちゃっかりポーンを手に取り隣人に話しかける。この要領の良さは天然なのか狙っているのか、どちらにせよ性質が悪い。
「このポーン、なんだかプリニーさんに似ているような気がしますけれど、……わたくしの気のせいですか?」
「いや、お前の勘は正しい。それは確かにプリニーを模している」
「やっぱりそうでしたの」
 卵形のシルエットに小さなくちばしを付けたポーンを手の中で転がしながら笑む天使に、つられるように吸血鬼も笑う。
 そんな些細な出来事によって、人狼が椅子と姿勢を直し終えたときには娘と主から漂う空気は妙に近しく、暗に党首が彼女の長居を許したと窺い知れる。これでは追い出そうとするほうが非難を受けかねない。
「……ええい。とっとと駒を戻せ!」
「はいはい、わかっております」
 命令に従うならそれだけでよかろうに。出納帳を書類の一角に置いた娘はもう一度身を乗り出すと、今度は別に二つの駒を手中に収める。そして再び甘えるように吸血鬼に訊ねるのだから、つくづく女とは厚かましい生き物だ。
「でしたら、この……幻獣族と、妖霊族でしょうか。これらは?」
「それはナイト、こいつはビジョップだな」
「では邪竜族がキングで、夜魔族がクイーン。……あれは、樹巨人族、で構いませんの?」
「ああ、あれがルークだ」
 今度は盤を眺めてあれこれと指で示しながらご指導承り、一通り何がどれなのかを把握した娘は駒をもとの位置に戻しながらふうんと興味深そうに対局の様子を注視する。
 本人が気付いているのかは不明だが、その軽く背もたれに寄りかかるような女の姿勢は、男にしなだれかかる淫婦と大差ない点に僕はぴくりと眉を動かす。しかし娘の肉体は立派な背もたれに軽くのしかかるのみで、痩躯の男の頭だの肩だの背だのに接触しないのは不幸中の幸い。
「魔界暮らしもそろそろ板に着いてきた頃だと思いましたのに、文化の違いをこう言ったかたちで目の当たりにするのはなかなか新鮮ですわね」
「そんなものか?」
「ええ、悪魔のチェスピースなんて初めて拝見しましたもの。……ふふ、おかしな話ですわよね。ここは魔界なんですからこう言うものがあってもなにも問題ないのに、なんだか妙に感心してしまうなんて」
「……まあ、そうだな」
 恥ずかしげな天使の娘の笑顔に、眺めていた黒髪の青年の目つきが白昼夢でも見ているように危うくなる。だらしない面構えへと変貌していく主人の姿に耐えきれず、執事は大きめの咳払いを一つ。
 我に返った悪魔は慌てて時計とチェス盤に意識を向けるが、取った行動は意図は革命的な攻めではなくルークを避けるための平凡なキングの移動ときたもので、この顛末は最早悲劇と表しても過言ではあるまいと人狼は内心肩を落とす。娘の出現のせいで、もうあの尊き未来への期待に胸膨らませた瞬間は、そうして覆される未来に震える可能性は失われたに等しいのだから。
「それにしても、幻獣族の駒はあるのに、一番チェスピースらしい魔獣族の方々の駒がないのはなんだか可哀想ですわね」
 まだ雑談を続ける娘に、人狼は今度こそ殺気をみなぎらせた視線でその口を塞ごうとするも、彼女がいるのは吸血鬼を挟んだ向こう側。格子硝子に守られて、悠々と小首を傾げる白金糸雀の小憎たらしさときたら。
「一応あるにはあるぞ。プリニーがポーンなのは共通だが、ほかの駒はそれぞれ種類がある」
「あら、そうでしたの?」
 その格子硝子こと吸血鬼は、天使に露骨な態度を取る僕をほのかな苦笑で宥める。彼にとっては邪魔とは思えぬ邪魔なのだろう。
「うむ。これは一例に過ぎんが、ルークが魔獣であったり、ナイトが魔翔であったり、……ビジョップが死告族、クイーンに妖花の場合もあるな」
「そんなに違うものなのですか……。ナイトが魔翔族なのは駒の特性を考えればまだ納得しますけど、クイーンに妖花族はどうなのでしょう……」
 吸血鬼にとって娘の反応は教え甲斐があるのだろう。その口元はまたしてもにやにやと緩んでいる。しかし反比例とばかりに対局への集中力は失われており、苦い心地で銀髪の青年は白のルークを動かしビジョップを取った。
「そう言えば、小僧の家のキングは死告族だそうだ。以前こいつを貸してやったら驚かれた」
「閣下、いつの間にそんなことを……!」
 あくまでも党首の、しかも昔からの私物をいくら仲間とは言えど一党員に貸すなどとは軽率に過ぎる。そう視線で咎める人狼に、黒のキングを動かす男もまた顔を上げるが仕草は軽い。
「いいではないか。あいつはものを乱暴に扱うような性格ではない。事実、傷一つなく返ってきたしな」
「それは結構でございますが……。小娘辺りには十分お気をつけくださいませ。あれは恐らく紛失しても悪びれません」
「わかっている。それ以前にあいつが俺の私物を借りる展開が想像できんゆえ、問題はなかろう。……お前はその点、気をつける必要がありそうだが?」
 背もたれ越しに対局を見守っていた女は、話を振られてそうですわねえと苦笑を宿す。
「わたくしとはだいぶ趣味も違いますから、フーカさんにものをお貸した記憶はありませんわ。……けれど、お話はよく伺います」
「話?」
「お部屋を訪ねたら、誰それに借りたなにが見つからないから一緒に探してほしいとか、多分借り物だと思うけど貸してくれたひとを忘れてるから現場を見たりしていないかとか。それと、又貸しの現場に遭遇したことも何度か……」
「………………」
 そんなこと、性格もあるが清貧が身に染み付いている三者にとっては考えられない話だ。
 大体借りものの紛失など失礼極まる。誰に借りたかを忘れるなんぞ以ての外だし、更に又貸しなんぞ返ってくるのか、返ってくるとしても勝手に自分が貸したものを別の知らない誰かに貸すなどいい気はしないだろうと、この場にいないプリニー帽子の少女に対して小一時間ほど説教をしたい欲求が主従共々滾々と湧き上がってきたが今はそれより対局がある。吸血鬼は深く苦い嘆息で、その衝動を押さえ込んだ。
「……全く。そんな調子なら、あいつはいつか完全に信頼をなくしかねんな」
「僭越ながら申し上げますが閣下。前提として、あれが失うほどの信頼を他者から得られるとは思えません」
「酷い仰いようですわね……。まあフーカさん曰く、自分に貸してくれると言うことはつまりその程度のものだと受け止めているそうですので、貸してくれなければあっさり引き下がるようですわ」
「成る程。それならそれでいいのか?」
「いえ、全くよくありません」
 断固として告げると、やはりそうだったかとあっさり頷かれる。この流されやすさは四百年経っても頭痛の種だが、流されやすいからこそ軌道修正も容易ではある。現在後ろで対局を眺めている娘との約束に関して、全く流されようとしてくれない点は非常に残念だが。
「それにしても、お前がこの手のゲームを知っているとはな……。少々意外だったと言うか」
 半ば銀髪の男が自棄を起こしているためか、黒のキングの逃走を白が追い詰める流れにも関わらず、吸血鬼は軽く後ろに首を向ける余裕を持って雑談を続ける。もう興味はそちらに移った――と言う訳ではない、多分。
「ふふ、そう思われても仕方ありませんわね。戦地住まいの看護師なんて、ろくな娯楽も知らない面白みのない女のイメージしか持ちませんでしょうし……」
「そ、そんなことは……!」
「ほう。自分を客観視できているようで何よりだ」
 慌てる主のキングをビジョップで追い詰めながら、執事は優雅にせせら笑う。当然、娘はそんな合いの手も余裕ある態度でさらりと流した。
「客観視は得意な部類に入りますの。それに、実際に腕を鍛えられたのは天界に召し上げられて以降ですから、そう間違った認識でもありませんわ」
「鍛えられた、と言うことはそれなりに自信があると見て構わんのだな?」
 キングを三回連続で動かすほどの境地におりながら、女と勝負する気満々の吸血鬼に、忠実なる僕は嘆息しつつ釘を刺す。
「どうせこの女のこと、天界での相手とやらもあのおめでたい頭の天使長か日和見主義の天使どもでございましょう。閣下を満足させる手腕を持っているとは思えません」
「……あのですね。それはちょっと失礼ですわよ狼男さん?」
 揶揄した自覚はあるため、娘が眉をしかめるのは想定の範囲内。ゆえに人狼は続くであろう反論を軽く聞き流す姿勢でいたのに。
「わたくしのことはともかく、フロンさまはチェスもかなりお強いんですから」
「ん?」
「なに?」
 そっちか。と突っ込む前に知らされた耳を疑う衝撃情報に、黒髪銀髪両名の思考と反応、ついでにその後の行動もぴたり合致する。
 即ち、怪訝な顔で硬直し、今耳にした言葉が聞き間違いではないことを対戦者の表情から判断し、二人揃って姿勢を変えるほどの意気込みで天使の娘をじいっと見つめた。
 瞬きさえない赤と金の眼差しから発せられる、別にこんなところで上司をおだてずともいい、ばらす気はないから忌憚ない真実を聞かせろとの生温い無言の圧力は、むしろ桃色の髪の娘の神経を逆撫でしたらしい。執務室に響く抗議の叫びは、金切り声に近いほど。
「二人とも本当に失礼ですわね!? これは紛れもない事実です!! わたくし、こんなことで嘘なんかつきませんっ!」
「……と言われてもな」
「疑わしいぞ、思いっきり」
「……あなたたちはもう。名誉毀損で訴えて差し上げましょうか!?」
 主従がじっとり疑いの眼差しを向けても天使は憤慨したままで先の発言を取り消そうとしない、どころかこうして脅しているのだから、まあつまるところ真実なのだろう。
 それでもあの、月の落下を巨大ロボで防ぐなんてちょっと頭のネジがいくらか飛んでないと浮かんでこないような発想をした天使長がチェスに強いなんて、それこそ想像もつかないのも事実。
 悪魔の二人は脅しからの回避も兼ねて勝負に向き合うはずが、やはりその衝撃情報に気になって仕方ない。目配せで互いの同意を得ると、自然うんうんと唸りながらあの天使長がチェスに強い理由を考えた。結果、一分経たないうちに従者が素晴らしい発想を閃く。
「――そうか。アルティナがチェスに異常なほど弱ければその話も嘘にはならん!」
「成る程、そう言うことか!」
「お二人とも……そこまで仰います?」
 女の冷ややかな物言いに、吸血鬼はさすがに無礼が過ぎたと慌てて縮こまるが僕のほうはなんのその。主以外に礼を示す気はないとばかりに堂々ルークを進めると、まだ怒りが残った裏返り気味の声が男たちの鼓膜を震わせる。
「では、わたくしが今のお二人の勝負に勝ったほうに勝てば、わたくしより強いフロンさまの実力もご理解いただけますのね?」
「ほほう? つまりこのオレと勝負したいと?」
 悠々笑って断言する人狼に、黒髪痩躯の青年は暗い顔で押し黙る。その心境は苦渋の一言に尽きるだろう。キングの逃げ道をいくら探しても、すぐに取られてしまう予感しかなくなったのだから。
 それでもどうにかキングを長生きさせるべく頭を掻くほど盤を睨めつけていたのだが、持ち時間を意識してか。執念深い吸血鬼はついに降参。白手袋でぽんと黒のキングを倒して投了する。
 敗者は久々の全力勝負に負けたせいか、チェス盤を改める余裕さえないらしい。肘掛けへと勢いよく背を預け、ぐったりしたまま眉間を片手で解す。
「……はあ。また差が開いたか」
「残念至極にございますな、閣下。……おいアルティナ、駒は並べてやるからお前は椅子を持ってこい」
「あら、勝負を受けてくださいますの?」
「ああ。貴様に圧倒的な敗北感を与える機会を逃すほどオレは寛容でもないしな」
 大人気ないかたね、との椅子を取りに向かった娘の呟きは完全に無視して盤と駒を手前に引き寄せる。積年の恨みを晴らせる場を設けた以上、たかがその程度で怒りを見せるのはそれこそ大人気ない話だからだ。
 一方、敗北感に打ちのめされていた吸血鬼は、少しふて腐れることで周囲に目を配る余裕が生まれたのか。気だるげに腰をもたげると、余韻もなく次の勝負に取りかかる二者に告げる。
「……別に椅子など必要なかろう。今俺が座っているこれを使えばいい」
「いいえヴァル様、そう言う訳には参りません」
 以前、無人の隙を見計らったか。現在主の腰掛けている椅子で独楽のように激しく回転させたり、椅子に座ったままローラーの力のみを使って廊下まで目指そうと企み遊んでいた某馬鹿姉妹を発見した際、二人の首根っこ掴んで廊下どころか窓の外にまで放り出した執事である。あれは極端な例として、主のための肘掛けを天使に使わせてなるものかと心の内でめいっぱい強く誓うと、背後からも後押しの声が高らかに。
「ええ。お借りしても多分、慣れない座り心地で集中できなくなりますもの。あなたはそのままでいらしてください」
 人狼が腰掛けているものと同じ簡素な椅子を手にしながら書斎机のほうへと戻ってきた天使の娘は、ふと唐突に歩みを止めて思案顔を作る。椅子を対戦者と同じく机の手前に置くか、それとも机を挟んだ奥に置くかで迷っているようだ。
 冷静に頭を巡らせ、黒髪の青年悪魔と天使の娘の距離が密になるのは断然後者だと気付くと執事の行動は素早かった。椅子を移動させ、スペースを空けることで前者を促すと娘もあっさり従い椅子を置く。
「先攻後攻を決めるのはトスでよろしくて?」
「お前が先で構わん。そのくらいは譲ってやる」
「あらあら、随分余裕がおありですわね。けれどわたくしも断る理由はありませんし……、ここはお言葉に甘えさせていただきます」
 対戦者と視線をかち合わせたのを試合開始の合図と受け止めて、白い指先がポーンを前進。
 かくして火蓋を切って落とされた白と黒の戦いに、観戦者にして傍観者にして取り残された悪魔は一人、書類の谷間の向こう側で繰り広げられる光景に軽く鼻を鳴らすが、その意図は対戦中の二人にはわかるまい。
 同じくポーンを動かすと直後白のナイトが前線に躍り出て、対戦者が案外好戦的だと悟った青年。負けてたまるかとビジョップを白のナイトで狙いつつ、ナイトが逃げればクイーンを狙える位置にまでずいと進めた。
 被害を最小限に抑えようとの判断か。娘は黒のポーンを取り自軍のナイトを見逃したため、予定通りビジョップはナイトを丸々喰らう。しかしそこに来ると言うことは即ちクイーンからも射程範囲内。ビジョップは白のクイーンにあっさり奪取された。
「仕方あるまい。チェスに犠牲はつきものだ」
「そうですわね」
 仕切りなおしの意味も含めて白のポーンを潰すと、今度はビジョップが前線へと現れる。こちらもナイトを出して応戦状態を整えると次はクイーンまで前に出てきたものだから、人狼はその大胆さに舌を打って対戦者を睨めつけた。
 眼前にいるのは背筋を伸ばし、爪先まで隙のない天使の娘。肌の露出はやたら多いくせにお高く止まっているこの女が、こんな大胆不敵なチェスを指すなんて。
「……どうやら、オレはお前の性格を勘違いしていたようだな」
「それはどう言う意味かしら?」
「そのままの意味だ。チェスの基本は先に攻めに来たほうが負けの専守防衛……だと言うのに貴様ときたら」
「そうは仰いましても、先ほどの吸血鬼さんは守りに徹して負けたように思いますけど」
 言われてみればそう見えてもおかしくない。と考えたところで今度は自分が黒のナイトとその奥のクイーンを白のビジョップに狙われ、先とは攻守逆転のとんだ意趣返しに青年はくわと目を見開いた。
「ええい、性格の悪いやつめ!」
「……自分で性格がいいなんて自惚れるつもりはありませんけど、天使相手にその罵声は幾らなんでもあんまりではなくて?」
「なんとでも言え。オレにとって貴様が性悪なのは金輪際変わらん!」
 吐き捨てた青年はこちらもナイトを犠牲と切り捨て、新たにポーンを前進させるもそいつは白のナイトにあっさり潰される。表面上では全く動じていなかったくせに性格の悪さを開き直ったかと歯軋りしつつそれをポーンで奪い返すと、やはりビジョップで消された――ついでにチェック。先の一局は二十手でようやくだったのに、今回は十手早々の。
 眉根に皺を刻んだものの、青年は大きく深呼吸。冷静を心がけてチェス盤と、動じることなくこちらに微笑を浮かべてくる娘を見やり、心底に思い知らされた。
 この天使は強い。
 大胆な駒運びに呆れ、意趣返しをしてくる性格の悪さは忌々しいものの、それを引いても単純に強かった。個人的には悪魔として理想的な小賢しさだが、それを天使の女に見せつけられるとは、なんともありがたくない話である。
 仕方なくナイトをキングの前まで移行させ、じり貧と理解しつつ守りを固めたところで、足音に気付いた青年は椅子の上で軽く飛び上がった。主がわざわざ立ち上がり、こちら側にまで勝負の様子を見にきたのだ。
「ヴァル様!? どうしてこちらに……」
「あらあら、会話に混ざれず寂しくなりました?」
 天使の無礼な発言に、吸血鬼は肩を竦めてからかうなとぼやく。
「そんな訳はない。ただ向こうからではその、色々とよく見えんのでな……長丁場になりそうなら俺も椅子を持ってくる。気にせず続けろ」
 そうだったろうかと軽く身を乗り出せば、成る程あの革張りの肘掛けの前には時計が鎮座し、視界の障害になっている。だが時計の向こうを見れるくらいに目線は高かろうにと疑念を引きずりながら身体の位置を戻した人狼は、観戦者の視線がどこに向かっているのかを目撃してしまい、ようやく主到来の意図を解した。
 その上で思う。女の指摘は間違っていなかったのかもしれないと。それとも寛容な人柄ゆえ、一心同体とも言える長らくの僕と、最早用なしだが一応滞在を許す約束の娘との攻撃的な言葉の応酬に気分を害し、空気を和らげようとしにきたのかもしれないと。そうであってほしい。いやそうだ。そうに違いない。
 チェス盤を挟み身体の向きをやや斜めにした二人の一歩後ろに立つ吸血鬼の眼差しが、女の白い身体へと引き寄せられるなど目の錯覚に決まっているのだ。そうとも、自分の視線に気付いて慌ててこちらに向き直ったのもやっぱり幻覚だ。主は女の乳房に鼻の下など伸ばすほど助平ではないし、あけすけな女の色香に惑わされもしないのだから。
 現実逃避も兼ねてチェス盤に意識を戻すと、白のルークが玉砕とばかりにナイトを殲滅。お望み通り特攻隊を潰しながらも、青年は背に冷や汗を滲ませる。――もうキングを守る手駒が残り少なかった。
「随分と攻めるな……。フェンリッヒの台詞ではないが、ふむ。お前にしては、少々意外ではある」
「こう言う場では手駒を惜しむべきではないとフロンさまから教わりましたし。……さてこれで、あの方の名誉は回復できましたかしら?」
「……ふん、気が早い女だ。まだお前の勝ちが決まった訳ではあるまい」
「そう言えばそうでしたわね」
 反論しつつもまたもやチェックをかけられる。これもまた自爆を兼ねた壁崩しと意図を理解していながら、人狼は防衛に手一杯。ついでに背後の主の視線の行き先にも気を取られてしまうため、逆転狙いどころか対局にもろくに集中できやしない。
 それでも冷静を心がけ、恐らく次の手で襲って来るであろうルークのためにナイトをキングの盾に選んだはずなのに、クイーンが懐に入ってきて予想はあえなく裏切られた。
「……この!」
 ナイトでクイーンを潰し、向こうの手勢はポーン、ルーク、ビジョップ。対するこちらは位置が悪いものの、それらに加えてクイーンもナイトも残っている。つまりこれを凌げばポーンを蹂躙し放題だと安堵の息を吐いた男は、しかしチェス盤を改めてぎょっと目を剥く羽目になった。
 何故ならば白のルークの軌道上に、障害は皆無。おまけに軌道の果ては黒のキングの隣、あのナイトとクイーンを狙ってきた白のビジョップの軌道範囲内、かつ黒の他の手駒全てが届かない、完全な隙が生まれてしまったのだから。
 つまりこれは。
「チェックメイト」
 高らかな天使の宣言とともに、白のルークが滑るように黒のキングの真横に着く。その通り、投了でもなく引き分けでもなく『詰み』だった。
「ほう」
「ぐっ……!」
 吸血鬼の感嘆が飛ぶと同時に、人狼はがっくりと項垂れる。恐らくクイーンでチェックをかけられた時点でキングが丸裸になるようナイトを誘導されていたのだろうが、あれをそう簡単に防げる手なぞ思い浮かばない。結局のところ、見事なまでの完敗だったのだ。
「なかなか見ごたえのある勝負だった。まさかあのビジョップがこの終盤でこんな効果をもたらすとは」
「一応言っておきますと、そこは偶然ですわよ? 布石としての効果を閃いたのはキャスリングをした辺りですし……」
「それでも十分だろうが。……しかしフェンリッヒが詰みで負けるとはな」
 よりにもよって天使の娘に負けた敗北感で打ちひしがれている人狼の真横で、盤を前にして盛り上がる男女の図々しさよ。まあ自分も第三者の立場なら盛り上がっていた可能性があるくらいに、あのビジョップの効果は見事だったと青年の冷静な部分が渋々認める。
 しかしそれでもこの銀髪の執事にとって、天使の娘の勝利を称えるのは難しかった。何より一連の振り回され方はまるで今までのこの娘と自分の舌戦も含めたあらゆる攻防戦のそれとそっくり同じ。翻弄されかけるも自分はしっかり相手と互角に遣り合えていると思ったところで見事に隙を突かれてやり込められる手法なんぞ、今まで何度味わってきたことか。
 よもやチェスでも同じような目に遭うとは思っていなかったと、人狼は心持ちげんなりしながら顔を上げる。そうして、黒い外套の向こうからじっと注がれる娘の眼差しにこの対局の切欠を思い出し、重く口を開いた。
「……あの天使長に対する見解は撤回する。これで満足か」
「ええ、十分ですわ」
 吸血鬼を挟んだ向こう側の女が作るその笑顔は、薄暗い地獄とはまるで不似合いに輝いているのが憎たらしいことこの上ない。
 惨めかつ大人気ないと自覚した上で歯軋りする僕の姿をどう受け止めたものやら。二人の間でチェス盤を眺めていた黒髪痩躯の青年は、淡々と駒を並べなおすと娘のほうへと不敵に口の端をつり上げた。
「ではアルティナ。ここでもう一勝負だ。構わんか?」
「わたくしと吸血鬼さんとが、ですか?」
 目を瞬き訊ねる娘に、吸血鬼はうむときっぱり肯定してから執事に向き直り、椅子を空けるよう仕草で指示する。しかし彼は即座に応じられず、むしろやんわり拒絶しようとする。
「か、閣下? ですが、この女は……」
「あいつの強さは今の勝負でよくわかっている。それでも我が僕の名誉のため、ひいては悪魔が天使に負けっぱなしとは収まりがつかんからな」
「つまり仇討ち、ですか。ふふ、良かったですわね狼男さん。僕思いの優しいご主人様をお持ちで」
 そんなこと今更この女に言われるまでもないが、このまま席を譲れば主は負け、主従ともども完膚なきままに天使に惨敗を帰す展開しか予想できない青年は静かに狼狽えた。
 しかし控えめにおとがいを上げれば、真紅の真っ直ぐな眼差しが容赦なく自分に降り注いでくる。あの狡猾な女の罠などびくともせずに破壊する力強さは頼もしく、自然とすがりたくなるも、やはりいけないのではないかと思い留まれば葛藤はいよいよもって激しさを増す。――主人を信じていない訳ではない。ただ自分の名誉を不意にしても、主人の名誉を守るのが忠実なる僕ではないのか。それとも。いや。やはり。
「フェンリッヒ」
 長らく危うい均衡を保っていた天秤は、落ち着いた声と肩に軽く添えられた白手袋によってついにバランスを崩す。言葉にせずとも伝わってくる気迫と細いのに頼もしい指の重さに負け、男はとうとう腰を上げた。
 主へ悪魔としての意地を託した青年は、胸を張る主人に日頃以上の誠意を込めて畏まる。
「……ご健闘を、ヴァル様」
「うむ。安心して俺の勝利を待つがいい」
 小憎らしいほど堂々とした応答とその姿に、知らず人狼は目を細めてしまう。恐らくは匂いさえない漆黒の、昏き森へ唯一届く月光さえも、この男ほど眩くあるまい。
 やはりこの人物こそ自分の命と夢を託すに足る、世を統べるに相応しい悪魔だとしみじみ実感した執事の隣で、悪魔の男と天使の女が向かい合う。
「そう言うことだ。誇り高き悪魔の意地、たっぷりと思い知らせてやるから覚悟しておけ、アルティナ?」
「できればお手柔らかにお願いしたいところですけれど……。あの? 吸血鬼さん?」
「うん?」
 それなり緊張感が漂った、最後の対局とするにはぴったりのやり取りのはずが、娘は気になるものでも発見したようだ。対戦者の眉間の辺りをじっと睨んでいたかと思うと、至って気軽に男のほうへ手を伸ばし、その黒い、硬質な前髪を白く華奢な手でさらり掻き分けた。
「やっぱり……」
 続いてほろ苦くため息を漏らすと、指先に淡い光を宿して青白い額を柔らかく撫でる。あくまで優しく、見るものが見れば後戯を連想させるほど淑やかに。
 当然、こんな突発的な行動を見せつけられた主従を襲ったのは衝撃、驚愕、それとまあ、それぞれ憤怒なり憎悪なり羞恥なり戸惑いなりが個々別々に。
「キッッサマ!!! 何を勝手に閣下に触れて……!」
「なっ、なっ、なにを唐突に……!?」
 二人して娘が吸血鬼の前髪を掻き分けて以降、たっぷり五秒は固まっていたのは幸か不幸か。
 娘の指先から淡い光が消えたとほぼ同時に、怒って主から引き剥がし、また赤面して指から逃れる青年悪魔たち。対する天使はそんな彼らの過剰反応に呆れ気味に目を瞬く。
「吸血鬼さんの額に傷があったから治したまでです。お二人ともそこまで嫌がらなくてもよろしいんじゃなくて?」
「だからと言って急にそんな真似をするな痴れ者がっっ!」
「そ、そうだぞアルティナ! 不意打ちにもほどがあるわあんな……そのっ、ともかくあんなこと!!」
 微妙にニュアンスが違うものの、憤慨している点では合致している二者の言いように、本人としては役目を全うしただけの天使は少々傷ついたようだ。軽く頬を膨らませ、さっさと腰を下ろしてしまう。
「はいはい、申し訳ありませんでした。では次はわたくしが黒で構いませんから、早く始めてしまいましょう?」
「……あ、ああ。そう、だな」
 投げやりな娘の態度に、ようやく動揺が落ち着いたか。治療を受けた黒髪の青年も我に返った様子で簡素な椅子に腰を下ろすが、それにしては妙に居心地悪げ。
「その……アルティナ……」
 おずおずと、対戦者に対し割れた硝子片に触れる慎重さで声をかけるも、女は憮然としたままチェス盤を睨みつけ、そちらを一瞥もしない。
「どうかなさいまして? 先攻はおいやでした?」
「い、いやそうではなくてだな……。……すまん」
「はい?」
 冷ややかな天使の声に、男は生唾飲み込むと、ばつの悪そうな顔のまま声を低くして続ける。
「礼を言うのを忘れていた。それと、……さっきのあれは、少し驚いただけであって。別にお前に触れられるのがいやだと言う訳では……」
「……ヴァルバトーゼさん」
 娘の囁きはほんの微かなもの。なのにその一声でかっと目を見開いた痩躯の青年は、肌の血色をやたらと良くしてなにやらまくし立てる。
「だっ、だからと言って触れてもらいたいとかそんなことはないぞ!? い、いやこの言い方も誤解を招くな……その、あれだ! 触ってくるならそれで構わんが、その前に一言ほしいと言うか!」
「……わかっています。あなたの仰りたい通りに受け止められますから、少し落ち着いてください」
 伸びやかな娘の声は、黒髪の青年悪魔にとって鎮静剤になりうるらしい。ぴたりと動きを止めた吸血鬼に、天使はそれはもう丁寧に、ほんのり頬を染め、輝くばかりに破顔一笑。
「……ふふ。では、始めましょうか?」
「ん……あ、ああ」
 一瞬だけでもほうとため息吐きかねないほど見惚れている主を目にして、――今までのふたりのやり取りに割って入るタイミングを逃したため口惜しいが黙って見るしかできなかった――人狼族の執事は確信した。
 これは負ける。
 勝負が始まる前からこんな調子では絶対に白が負ける。
 だがそれでも主人を悪くは思うまい。自分の名誉のために戦ってくれた。ただそれだけで満足すべきだと、銀髪の青年は強く己に言い聞かせ、勝負の行方を見守る羽目となった。


 その、はずなのに。
「……リザインしますわ」
 嘆息して自前のキングを倒す仕草をした天使の娘の言葉が信じられなくて、青年は目を見開いたまま一時停止した。主の前でなければ耳の穴もかっぽじっていた可能性がある。
「……は……?」
 気高き吸血鬼がもぎ取った勝利に、賞賛するでなく感激するでなく阿呆のように口を開いただけなどとは、本人とって大いなる失態だろう。
 しかし幸いにも先攻の男は対戦者の声を聞くまで息をするのも忘れていたようで、緊張と集中を一気に解き放ち執事の反応を豪快に見逃した。
「ようやくか……! なかなか疲れる戦いだったな、お互い」
「随分長く致しましたものねえ……持ち時間ぎりぎり、もしかして越えていたのではないかしら? それにしても意外でしたわ。吸血鬼さんがあんなにクイーンを動かす方だったなんて……」
「時と場合によるがな。さっきのお前の攻め方を見て、マイナーピースよりもメジャーピースのけん制のほうがよく利くと思ったまで」
「その点は確かに。あれは絶対にこちらの懐に入ってくると予想しておりましたもの。見事に振り回されてしまいましたわ」
 くすくす笑って対局の流れを振り返る天使の娘の横顔と、満足げな吸血鬼の主の横顔を食い入るように見つめながら、人狼は頭の中で十分前から現在に至るまでの記憶を振り返る。別に一人で脳内反省会を開くつもりはない。ただ記憶の綻びがないか、幻覚をかけられたような異変はないかの確認である。正直に言えば、それを疑っているのだが。
 しかし導き出される結論は異常なし。始まった際はお互いやたらと対戦相手の顔を眺めたり、目が合ったらはにかむように笑ったかと思いきや恥ずかしそうに俯いたりと、本気で戦う気があるのかわからない、生温く苛立たしい空気が流れていたのは事実。左記の出来事は無言で繰り広げられていたため咳払いでしか自分の存在をアピールできず、露骨に甘ったるい会話でもあれば即座に割り入る気満々だった彼は、普段以上に隙なく対局を眺めていたためうっかり見逃した記憶もまたないのだ。
 気になったのは大胆極まる天使の駒運びが今回に到っては守りに入っていたことくらいだが、主が一足先に攻めに来たからと思えば納得。つまりあの戦いも主の勝利も現実に起こったことだと次第に実感させられ、銀髪の青年悪魔はようよう執事魂を奮い立たせていつも通り主を称えた。
「……さ、さすがは我が主ヴァルバトーゼ閣下! この悪辣なる泥棒天使に正々堂々勝利されるとは、感服の至りでございます!」
「うむ。辛勝だったが勝ちは勝ちだ。我ら悪魔の名誉は守られた」
「は……左様で」
 吸血鬼は自分の頭で自分の勝利を得たためか。面立ちからはいつも以上の自信と満足に満ち溢れ、どことなく鼻も高そうな。
 そんな主人の姿を改めることで、青年の頭にもようやく現実が現実として馴染んできた。その上で理解させられたのは、自分の読みの浅さ。
 対局が始まる前の時点でこの気高き吸血鬼が負けると思い込んでいたため、あんなに自分は混乱してしまったのだろうと省みれば少々恥ずかしい。その思い込みも、先に自分が主に勝ったから、その自分より強い女に主が勝つはずがないなんて、単純な図式を真実だと勝手に当てはめていたからこそ。たかが一度の勝負でそんなこと、参謀役の思考かと思えば己が心底情けなくなる。
「ふふ。世界の均衡は保たれた、とでも言うべきかしら? 圧勝ってなかなか難しいものですわよねえ」
 敗者の天使はこちらいつも通り穏やかなもので、三者による勝負が一通り終わったためか。地団駄を踏むこともなくチェスボードを二つに折りたたんで、内部に駒を収納しようとする。
「おい、勝手に……」
 反射的にそれは自分の仕事だと娘の手からチェスセットを奪おうとした人狼は、ここではたととあることに気が付き硬直した。その隣で座ったままふんぞり返っているいまだ青年は勝利の美酒に酔っており、この状況の滑稽さにいまだ気付いていない。
 淡々と丁寧にチェスピースを収納している娘はちょっとした透視能力の持ち主なのか。単に偶然が重なっただけかもしれないが、まるで推し量ったようなタイミングで口を開いて。
「……そう言えば、ちょっと疑問に思ったのですけれど」
「なんだ?」
 人狼の眉が引きつる。しかし天使は彼の異変を察することなく、その上で単刀直入に訊ねた。
「どうしてお二人とも、唐突にチェスをされていたんです?」
 ああ、やはり。
 本人としては至って素朴な疑問なのだろうが、投げかけられた側にとってはそれどころではない。吸血鬼はふんぞり返ったままの姿勢でぴたり硬直し、人狼はとどめを刺された気分で片手で己の顔を覆う。
 しかし幸運にも、主従揃って衝撃からの立ち直りは早かった。赤と金の視線が素早く交差すると、実力で世を渡り歩いてきた悪魔らしく見栄っ張りでもある男たちは共々、深く息を吸って。
「気分だ」
「たまには悪くなかろう」
 真実の隠匿を選んだ。
 かくして臨時チェス大会は幕を閉じる。たかが一局のつもりが三局に増え、賭けが丸ごと無意味になってしまったこの結果に、多忙なはずの主従は複雑極まる表情を浮かべていたが、小休憩を取ったつもりと切り替えればこんな時間も悪くない。
 そう自分に言い聞かせながら、二人は仕事に戻るべく頭を切り替える。ひとり事情を知らない天使の、不思議そうな顔を見ないように心がけながら。

◆◇◆

 丁寧に執務室の扉を閉めたその後ろに、何故かあの天使の娘までちゃっかりいて、青年、相手に聞こえんばかりに大きく舌を打つ。
 当然そんなことでこの図太い娘は怯えない。けろりとした顔で人狼の後ろ三歩分ほどの距離を保ったまま、控えの間から廊下まで追従してくる。
 執務室に出入り口が一つしかないから仕方ないが、この状況では自分が天使をエスコートしているようで非常に不愉快。だと言うのに娘ときたら、更に彼を不快にさせる問いを投げかけてくる。
「本当に気分の問題ですの? その割にはさっき妙な空気が漂っていましたけれど」
「うるさい。お前には関係ない」
 実際には大ありだが、賭けをするに至った原因たる張本人がわざわざこちらにまで顔を出して、勝負がつく前に賭けをぶち壊したのだ。おまけに自分の勝ちのはずなのに勝手に怪我まで治されたのだから、青年の口調がいつも以上に刺々しくなるのはやむを得ぬ。しかし彼にとって何より腹立たしいのは、久しい勝負に熱中しすぎてその辺りのことをあの瞬間まできれいさっぱり忘れていた己の鳥頭ぶりだが。
「……そう仰るのでしたら追求はしませんが。折角ご主人様に仇討ちをしていただいたのに、随分とご不満そうですわね?」
「貴様と二人きりの状況でオレの機嫌がいいほうがおかしかろう。……大体、王手を決められて喜ぶ奴がいると思うか」
 長らくチェス歴はある上に、そこそこ腕には自信があった。なのにあんなに鮮やかに詰められてしまったなんて、青年にとっては屈辱に近い。しかし娘はそう思わないらしく、控えめな苦笑でまあまあと諫めてくる。
「その点は仕方ないものと諦めてくださいな。もしあなたがあの方に負けていれば、わたくしもあなたと戦うときに手心を加えたかもしれませんけど……」
「つくづく胸糞の悪い偽善者だな貴様は。下手な情けは止めてもらおうか」
「それはつまり、巧い情けなら問題ない、と受け止めて構わないのかしら?」
 予想から斜め上の発言にいつもの調子で言い返そうとした彼は、そこでぴたりと止まってもう一度、脳内で先の言葉を反すうする。その上で理解したのは、要するに彼女は自分は巧い情け――ではなく、手心を加える方法を会得していると言うことで。つまりあの気高き吸血鬼相手の勝負でも、この天使は手心を加えた可能性がある。いやむしろ、そのほうが自然ではないか?
「……貴様!」
 廊下に繋がるドアノブを握ったまま、青年は憤怒の相で娘を睨む。しかし天使はとっとと先に行ってくださいとばかりに距離を詰めてきた。
 今更だがここまで自分の威嚇が無視されるのは、かつて名を馳せた傭兵『月光の牙』としての自尊心にひびが入りかねない。それはそれとしてこの女に故意に接触されるのはいやなので、誘導通り廊下に出て、更に周囲が無人と確認してから人狼は改めて牙を剥く。彼も何気に、環境に順応しつつある。
「どう言うつもりだ! 貴様とて、閣下がお情けで得た勝利なんぞ嫌がられることくらい理解できるだろうが!」
 と、迫力たっぷりに責めたつもりが、娘は調子を一切崩すことなく首を横に振る。わざと負けたことに罪悪感を感じていないにしても、ここまで堂々としているのは少々おかしい。
「別にわざと負けようと思って負けた訳ではありませんわ。ただ少し、対戦中に吸血鬼さんを見ていましたら……」
 ら。眉根を寄せたままじろり娘を睨む。彼女は基本、こちらの脅しなど気にも留めないはずなのに、このときばかりは少し視線をずらしてむず痒そうに呟いた。
「……その、癖が。いくつかありますでしょう、あの方? 唇の先を軽く尖らせたり、顎に添えた手の小指を、こう……」
 軽く丸めた手のかたちだけ真似て、小指で薬指をとんとんと叩く。確かにその仕草はあの吸血鬼が深く考える姿勢を取る際によくやる癖だった。どんな事柄にせよ猪突猛進、単純明快を好むため、普段そんな癖を余人に見せる機会はない。
 それがどうしたと険しい目つきで促せば、娘は何を躊躇っているのやら。頬にじわりと赤みを宿し、むず痒いと言うより最早雌臭いと表現しても構わないほどの顔つきでほろりと笑う。
「……そんな癖があるなんて知らなかったものですから。なんだか、そちらにばかり目がいってしまって」
「はあ?」
 意味がわからないと暗に含めて呟けば、娘は同意を得られないと知り少々無念に思ったのか。軽く肩を竦めて嘆息する。
「まあ、狼男さんは長らくあの方のおそばにおられますものね……。わたくしの感動に共感できなくても仕方ないのかもしれません」
「対戦者のたかが癖の一つや二つを知った程度で、勝ちを手放す気になる思考なんぞ共感したいとも思わんがな」
「別に誰でもいい訳ではありませんわよ? 好きなひとだからこ、……っっ!」
 そこで天使は自分で自分の口を塞ぐも、ありとあらゆる意味でそんなこと今更である。無意味である。もう少し頭のいい女だと思っていたがやっぱり阿呆なのだろうか。いやこれは隙があると捉えるべきか。
 顔を瞬時に赤くして周囲を見回した娘は、誰もいないと確認してから一息つく。直後、くるり振り返り般若さながらの剣幕で青年へと口封じを命ずるように睨んでくるも、こちとら赤面した女の形相に怯えるほど可愛い度胸はしていない。しかしこの逸話をそのまま主に聞かせれば非常に面白くない展開になると想像できる冷静さはあるため、彼はプリニーの爆発を彼方で眺めるようなぞんざいさで頷いた。
「ああ、安心しろ。つまりお前は閣下の癖に気を取られて集中力散漫になった挙げ句負けた間抜けだと」
「色々と反論したい気持ちはありますが、とりあえず現状そう言う認識をしていただけると大変ありがたいですわね……!」
 その割には声が震えているが、これは恥辱と言うよりいまだ羞恥が色濃く残っているためだろう。どこまでもあざとい女だと鼻を鳴らす。
「ま、閣下が知ればご不満を覚えられるだろうことは事実だ。ついでに失望されてしまえば万々歳だが……」
「あら、どうかしら?」
 自分の手柄ではなく相手の自爆だが珍しく弱味も得たことだし、まだ動揺を引きずっているならたっぷり脅して日頃の恨みを発散させようとしたのだが。娘はどうしたことか、まだ頬に赤みが残っているくせに彼以上に不敵な笑みを口元に浮かべ反論してきた。
「このことを吸血鬼さんにお教えしたところで、負けん気の強い方ですもの。もうわたくしとチェスをしないと不貞腐れるより、リベンジを望まれる可能性のほうが高いのではなくて?」
「…………」
 確かに。
 なんと、あのときあいつは全力ではなかったのか。ではもう一度我らの誇りをかけて勝負だ、などと意気込む主の姿をありありと脳裏に描いてしまった青年は、ついでそのあと、しかし俺も奴も今は忙しいから夜にでも訪ねるとしよう、と何故か言い訳がましく呟く主の姿も想像してしまう。
 大義名分はどうあれ、あの世界の覇者となるべき吸血鬼が、この忌々しい女の部屋に足を踏み入れるなどそれだけでも憤懣もの。もっと悪い可能性として、その日から吸血鬼は毎晩のようにこの女の部屋に『チェスを打ちに行く』やもしれない。
 腹の底から湧き上がってくる怒りを宥めるべく、人狼は長々と鼻から息を吐き出した。その流れで絶対にないとは言い切れない未来を阻止する方法を、少々熱を冷まさせた頭を回転させて瞬時に複数思いつく。しかしその中でも、最も成功率が高いのは面白くないことに――。
「ですから、このことは内密に。お互い、そのほうが色々と安心でしょう?」
 小憎たらしく口元に人差し指を立てる天使の娘に、人狼の執事は強かに鼻を鳴らす。
 その通り、彼もまた同じことを考えていた。志尊き吸血鬼に、実はあの女は手加減していましたと伝えなければ、主はあのまま上機嫌で書類裁きに精を出してくれるだろう。つまり現状維持が最も無難。この女と秘密を共有するなんぞ、不愉快極まりない話だが。
 まったくもって腹立たしいがその通りにしてやると、一睨みしてやれば天使は雌狐めいた悪戯っぽい笑みを浮かべてから一礼する。
 憎らしい女と以心伝心してしまい、くるり翻った三つ編みと白い羽の生えた背中を眺めながら、青年は盛大に眉をしかめてしみじみ思う。
 主と久々の対局のはずがこんな結末になるなんて。チェスなんぞ、するのではなかった。






後書き
 閣下とアルティナちゃんとフェさんで遺恨のないパワーバランス発揮会と言うか。絶妙なバランスで成り立ってる大人組が僕は大好きです。
 勝者のほうが敗者への好感度が高い(健全、不健全両方の意味合いで)とかそんな意図も含めたつもりですけどもチェス描写でいっぱいいっぱいでメンタル面あんまり書けなくてとほー。

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最近PCカクカクだわー

2012/05/23

 割と黙々と書いてたら今の自分のペースが大体どんなもんかわかってきて、最初着手してたときと比べたらやっぱり勢い衰えてるのうと思うと寂しいような。まあ某所とか見るに世間からのDシリーズ二次に対する関心そのものが薄くなっちゃってるっぽいからしゃーないですけどね。
 現状では新作やらよそ様との共同企画の発表やら、期待値高めてくれるのはいいんだけどお金使ってばっかりな日本一ちゃんにははらはらしっ放しで、せめて百騎兵の発売の目処ついたらなーと思わずにはいられない。クラダンはもとから攻略本出てないからレガシスタも出ないっぽいけども、公式の協力が必要な他社から出る関連商品がまだ出揃ってないって結構社内かつかつな気がするんですが邪推ですか余計なお世話ですか。またD5出すときにD4に社運かけてたっぽい家計簿火の車みたいな状態にならないようにしてね日本一ちゃん…。けどまたヴァニラウェアと組むなら大歓迎よ日本一ちゃん…。

 最近久々に吸血鬼モノ古典文学作の特に有名な二作を読み直しました。
 一方はガチ百合なのも有名だから普通に読めたんですが、もう一方がホモ成分ありとはリアルタイムで読んでた当時わからなくて(訳者の気遣いもあるんでしょうが)、微妙に戸惑ったりしましたがやっぱり長い時代を経ただけあって熱い。面白い。
 特にそれまででもたっぷり母性アピールしてたミナさんが、自分も吸血鬼に、穢されちゃっても旦那一行に「伯爵もまた犠牲者なんです。憎むのでなく憐れんであげて」って説得する辺りにヒロインの風格とをひしひしと感じて、こりゃフラグ立ってると思うわードラキュラ×ミナ映画あるのは当然だわーと納得。あとハンティング体勢満々の伯爵の登場方法が昔読んだのと比べるとかなり詳細に書かれてて、これは登場即悲鳴上げられても仕方ないと納得。
 母性と知性と勇気に溢れたヒロインと、黒髪に青白い肌、赤い瞳の紳士的な振る舞いをする(けどやっぱり根は荒っこくて悪魔らしい狡猾な)吸血鬼は当然、読んでる最中びくんびくん来てました。もうこれでパロったろーかとさえ思いました。
 しかしミナ→アルティナちゃん、伯爵→閣下にするとして、ミナの旦那さんのハーカー君とか宿敵ヘルシング博士とかルーシーは誰にするんだとの問題が。
 ミナの旦那さんとして考えればハーカー君はネモになっちゃうけど、伯爵をイギリスに渡らせてしまい、伯爵の獲物でもあった因縁の人物として考えればフェさんでもありだけどアルティナちゃんと夫婦のフェさんとかそれだけでもう爆笑もんだ。けどネモはハーカー君より博士のが自然だしー。
 ……いや博士はハゴスパパンに変更して、フェさんは博士の元生徒のお医者さん、その患者のキチ○イはアホターレでもいいかなあ。吸血鬼の僕として、患者をフェさん、お医者さんをエミちんにしてもありっちゃありか。そんでルーシー・フーカ(しかないし…)にプロポーズしたアメリカ人をアホ、貴族を…デスコ?
 面子の当てはめだけではかなり無理があるから設定に手入れたら……うん。D4風ドラキュラはやっぱりシリアスになんねえ。ギャグだ。むしろギャグだ。

 まあそれはともかく。JOYSOUNDで裸レクがリクエスト投票開始してたので早速会員登録してポイント全部つぎ込んできた訳ですが、あれっていつ頃結果わかったり実際に配信されたりするんでしょうかね。
 下手したらサントラより先に裸レクフルメロがわかったりするのかしら。んな訳ねーよって感じに発売してくれたらいいんだけども。…にしても何故JOY……コーラス入るのかわかんないしあそこ。DAMもおくれよう……。

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ぼくの考えたアルティナちゃん編R~リターンズあるいはR指定じゃん~

2012/05/31

 ついに天界のほかの天使長にアルティナちゃんが天界法を破った事実がバレた!
 近く天界から使者が来て裁判に連行すっから覚悟してろよオメーとのお触れをいただき戸惑うアルティナちゃん他一同。天界に連れ戻されるより前に裁判を回避する方法はないのん!? とフロンちゃんに詰め寄ると、アルティナちゃんが犯罪犯した元凶は一応あるにはあると。なんなんですかそれは!

「え~と……そうですねえ。妊娠とか?」
「は?」
「ん……?」

 確かに妊婦さんを裁判にかけるなんて母胎にストレス与えて下手したら……なんてことになると天使たちも後味が悪い。出産まで待ったら乳飲み子と引きはがしちゃうことになってやっぱり天使たちも後味が悪い。結果、アルティナちゃん逃げきり大勝利万々歳。ではあるけれど。

「ににににに妊娠なんてっっ!! そ、そもそもわたくしは生まれてこのかた四百年、異性とお付き合いしたことなんてありませんのに!!」
「そそそそうだ! だ、大体妊娠とはな、心に決めた相手とともに次代に命を繋ぐ崇高な事態であって、裁判逃れをするためにやるべきでは……!!」
「じゃーヴァルバトーゼさんはアルティナちゃんが天界で重犯罪者として裁かれてもいいって言うんですかー?」
「そ、それは……」
「仕方ありませんヴァル様。この女の命は諦めることに致しましょう。さ、アルティナ。残りのごく僅かな時間はくれてやるから、お前はその間たっぷりと閣下を説得して約束の件をなかったことにしろ」
「無理無理、絶対ムリだって。てゆーかあんたこそ諦めなさいよフェンリっち~」
「デスコ、でけきればアルティナさんには地獄に残っててほしいデス……」
「ボクもどっちかって言ったらそうだけど……だからって、に、妊娠はなあ……」

 まあ別の方法調べてみますけどあんまり期待しないでくださいね~と出ていくフロンちゃんに、いまだ混乱が尾を引く面々(主に吸血鬼と天使)。
 ほかにも方法をみんなで考えてみようぜ! とはなったものの……。

「天界からの使者を追い払うのは無理なのか?」
「そ、それはいわゆる宣戦布告になりますので……畏れエネルギーに不安のある今の魔界的に危ない橋なのでは……」

「わざと命に関わるほどの重軽傷を負う。……安心しろ。オレがこの手できっちりと見極めた上で実行してやる」
「そのままうっかり殺しちゃいそうなツラして言うなっての」

「天界からの使者さんたちが来る前に、デスコたちが天界を征服しちゃえばいいのデスよー!」
「成る程、いい考えだ」
「いけませんっ! もっといけませんからー!」

「えー。そこまで文句言うならアルティナちゃん、やっぱり妊娠しかないんじゃない?」
「か……考えさせてください……」

 と、一旦この場ではお開きになったものの翌日から始まるファンクラブからの反乱よろしく「天界に帰っちゃうとかいやなんでどうぞオレの子を産んでくださいお願いします!」猛攻!
 アルティナちゃんは無事この騒動から脱出できるのか? つーか天界裁判から逃れられる方法はあるのか? やっぱり妊娠するしかないのかそうして一体誰の子を!?


 オチ? 勿論アルティナちゃんが閣下に協力してもらおうと腹決めた直後にラミントンさんが降りてきて「はい裁判開始だねはいアルティナ有罪だねはい堕天使になってねはいじゃあここで修行頑張ってね」って勝手に決めて勝手に堕天使にされて(けど議会で戻せる)退散に決まってるじゃないですか。

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