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謹賀新年

2012/01/02

 昨年末にはご挨拶する間もなく書き納め更新して満足しちまいましたが、とりあえずこっちはきちんとご挨拶をば。
 新年あけましておめでとうございます。昨年は感想や拍手ありがとうございました。ちょっと間を空けてしまいましたが、ぼつぼつ更新していきたいと思いますので今年もよろしくお願いします。

 とりあえずお年玉感覚で久々にイチャイチャ書くつもりが初っ端からアクセル飛ばしてるので割と自分イチャ書きたかったんだなと遠い目しつつ書いてます。
 …けども次はあっちで上げるかもしれません。できれば書き納めとワンセットで読んでもらいたいところですが、まあ読まなくたって問題ないようにするしー。
 つかその前にあっちで上げてたのをこっちに収納すべきですねー。本当にすみませんこう言う方式ではどう対処すべきなんか全然決めてなくて…。
 当初はあっちで上げてるのを更に修正加筆する形式でこっちに更新って形式を取るつもりだったのですが、書き納めのようなオリ設定っぽかったり向こうに上げるのはどうなのかなーと個人的に尻込みするもの(中庸、修羅場)は向こうに上げてないんですね。なんかふらふらしちゃって申し訳ない。

 蛇足ですが書き納めでパパンが指摘したように、閣下はアガペー(慈愛)とエロス(恋愛)のみを愛と認識してるっぽいから否定してるだけっぽいけど、ストルゲー(師弟愛)やフィーリア(友愛)は愛と認識してないから何気に肯定してますよねー。それがちょっとイラっと来たりしないこともない。
 ちなみに個人的に閣下の割り振りはフィーリア:ストルゲーとしてフェさん10:0、フーカすん7:3、エミちん4:6、デスコ9:1くらいの感覚だと思います。アルティナちゃん? エロス全振りっすよ当然。

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For you

2012/01/11

 ふと脳裏に蘇ったのはいつかの出来事。
 なり損ないプリニーと人造悪魔の姉妹に強請られ、フィリングに潰したバナナ、生地にはたっぷりのチョコレートチップを練り込んだパイを作ってあげたら手放しで喜ばれたときのこと。個人的にはくどいくらいだが子ども受けはいいらしく、匂いに釣られて顔を出した死神の少年からのお墨付きまで得てしまって、勝手に次回の期待を寄せられ、それどころか聞いてもいないのに次々とリクエストを口にされ随分と困っていたとき。
 何だか知らんがいい加減にしろと冷や水を引っかける言葉とともに痩躯の吸血鬼が現れ――部屋に貯蓄した大半のイワシが、また『誰か』の手により人間の血を混入される被害に遭ったらしい――、台所に立ちこめる甘い匂いに軽く眉根を寄せながら冷蔵庫からいつも通り生のイワシを取り出した。助け舟を出してもらったこともあって、お一つどうですかと彼女が差し出したパイの誘いさえ断って、いつも通り。
 そんな彼に子どもたちは彼女お手製のパイ片手に心底呆れ、いやもういっそ憐れんでいたか。イワシで事足りる奴は可哀想な人生送ってんのねとか、ボクらの取り分が増えるからいいんじゃないか、こいつがイワシにしか興味なくて今は感謝してるよとか。最後の一人はひたすらパイを大きく頬張っては蕩けそうな顔で美味しい甘いと漏らすばかりで、しかしイワシ以外ろくに口にしない男にとっては何よりの嫌味として目に映った可能性がある。
 甘辛いイワシの煮付けでも喜んで口にする吸血鬼ではあるが、甘いだけの菓子に対して興味は薄いようで、彼女お手製のパイにしたって子どもたちに混ざって食べたいほどのものではないのだろう。だったら食べてもらえないのは仕方ないと引き下がり、台所から逃げるように退散した青年にブーイングを飛ばす三人の話題を逸らす目的もあってカフェオレを振る舞いながら、いつかあのひとにも喜んで食べてもらえるものを作ろうなんてことを考えたのは、はて半月前だったか、一月前だったか。
 ともかくそれを実行に移すのは今日ではないかと、彼女は、地獄に滞在する元人間現天使の娘は唐突に思ってしまった。これを天啓と呼ぶのなら、与えたのは宇宙のいずこかにおわす神様ではなく、天界におられるはずの大恩ある天使長の可能性が高いが仔細は問うまい。そう言えばあの上司にも、自分が天界にいたときにはあれこれを作ってほしいとリクエストを受けた経験があった。
 まあ今日は保嫌所から休みをもらっているし、買い物やら戦場やらに付き合ってほしいなんてお誘いも聞こえてこない。部屋の掃除や銃器を含む小道具の手入れは朝のうちに済んで、読みたい本も特になく眠気もなく散歩をする気もなく、暇を持て余しかけたところだったから丁度良かった。
 そんなことを考えながら自室から出て、特に大きな問題もなく台所を訪れた彼女は、扉を開けてすぐ目についた在庫管理中らしいプリニーに訊ねた。
「少し、ここをお借りしても構いませんか? あと食材も少し使わせてもらいますから……、こちらから、前の分も含めて幾らかお金をお渡ししたほうがよろしいのかしら」
「別に構わないッスよ。宴会を開くつもりでもないなら、お金も別に気にしなくてオッケーッス」
「まあ、ありがとうございます」
 予想外にも寛容な対応に、彼女は軽く驚きながらも膝を折る。しかしこんな対応を取ってもらえるのも、恐らくはイワシさえあれば満足する党首がその小魚に執着するあまり常に食費に余裕を持たせているからこそなのだろう。それに乗じて食品管理がプリニーとくれば更に財布の紐は緩くなるのは必然だが、彼女にとっては棚から牡丹餅。この天啓もなかなか侮れない。
 パイ生地は以前大量に作っていたものの余りを冷凍保存していたのでそれを冷凍室から取り出し解凍室――魔法技術を用いたものだ。この空間の中では通常に比べて大幅に時間を短縮した自然解凍が可能になる――に移すとして、また次の機会のために今回も生地を作っておくかどうか彼女は暫し迷う。五分程度の逡巡の結果、解凍室を使ってもやはり解凍に時間はかかるし、手持ち無沙汰になるのもいやだからなんていかにも可愛げのない理由で作ることを決定。
 そうと決まれば話は早い。手早くエプロンを身に付け、三角巾で前髪を覆い、グローブを外して手を洗うと彼女は思考を完全に切り替える。
 粉は真っ先に計量してからボウルに篩い冷蔵室に、塩は水に溶かし、バターはまた別の冷蔵庫にあるものが無塩かどうか調べてから計量、ほぼ一本丸々使う罪を誰かに対して心の中で謝罪する。彼女が人間として生きていた頃、さして具も味もないスープやら硬いパンを作った時代を顧みれば、こんな真似は贅沢を越えていっそ浪費に等しい。そもあまり腹の足しにならない菓子を作ること自体、どちらかと言うと背徳的な行為だと感じてしまうのは潔癖に過ぎるのだろうか。
 話を戻そう。必要な道具も手元に並べて準備万端と気合いを入れると、まずは冷やした粉と水をカードを使ってまとめる。パンを生地から作った経験を活かせばこの辺りはお手の物。尤も、パンと違い練る必要はない。
 粉っぽさを残しつつどうにか一つにまとまれば、深く切り込みを入れたあとラップで包んで一旦生地を冷蔵庫に寝かせる。ついでに冷凍した生地も解凍できているか調べるが、こちらはなかなか。それでもこの手の繊細なものはじっくり手間をかけるものだと知っている彼女は、冷蔵庫の戸を閉めタイマーをかけたところで先程食材の在庫を記していたプリニーから話しかけられた。
「いや~、アルティナさん手際いいッスねえ。なんか懐かしい気分になったッスよー」
「お褒めに預かり光栄ですわ。ですけど、懐かしい気分と仰ると……?」
 首を傾げた彼女の視線に、プリニーは肯首する。どうやらこの最低級悪魔は生前この手の職業に従事していたらしい。
 生前犯した罪の贖罪としてこの魔界でひたすら働かねばならない点はどんなプリニーでも変わらないため、罪そのものと向かい合えばそれ以外の記憶は自然薄れてしまったりどうでもよくなるものだが、彼はしっかり覚えているようだ。プリニーの自分どころか、そもそも自分が死んだことさえ今の今でも認めない少女を知っている彼女にとっては、そのくらい珍しくもなんともなくなってしまったが。
 生地を寝かせる間は暇なので、暫く彼女はそのプリニーと雑談に興じた。
 やはりそのプリニーは生前、本格的な料理店の厨房に立っていた上に部下が何人もいたほどの腕前で、菓子も得意だったらしい。彼の作る繊細で色鮮やかで、何より甘いデザートは店を訪れる多くの女性を魅了したようだ。身分ある人も大勢いらっしゃって、お褒めの言葉もたくさん頂いたんスよ、とそいつは心なし胸を張った。ついでに顔立ちも悪くはなかったから、そっと耳打ちされて時間外に客と調理師ではなく、一個人の男女として会うことも少なくなかったそうな。
「……あら、それでは生前犯した罪もそちら関係ですの?」
 次の展開がなんとなく読めてしまった彼女はわざとらしく咎める視線を送ると、相手は後味悪そうに頭を掻く。間抜けな印象さえあるペンギンの悪魔の姿をしたそれは、勤め先の女客たちとの火遊びに耽ったやり手調理師の面影など欠片だって見えてこない。
「いや~、あのときは自分、正直な話、調子乗ってたッスからねえ。……オーナーのお嬢さんにも同じような真似しちゃって、しかもそのとき三人のお客さんと関係続けてたッスから。恥ずかしながら、ご想像の通りッス」
「ま……それでは地獄に堕ちても仕方ありませんわね。ですけれど、調子に乗った結果死後こんなふうになってしまったのでしたら、しっかり反省できますでしょう?」
 女泣かせな元調理師に、同じ女として同情はできないためぴしゃり言い切ると、しかしそのプリニーはあまり懲りていないのか女好きは死んでも変わらないのか。いやいやと明るい口調で彼女の言葉を否定して、あくまで自然にこう言った。
「アルティナさんみたいな綺麗なひととこうやってお話できるなら、死んでプリニーになっても良かったって思えるもんッスよ。いや本当、地獄に天使とはよく言ったモンッス」
「……天使、ではなかったと思いますけれど?」
 死因ははっきりわかっていないが、女泣かせの罪で死後プリニーになってしまって、この屋敷の食材管理を任されているとなれば地獄での生活もそれなり長いだろうにこの調子とは心底恐れ入る。最早呆れを通り越し感心さえ覚えた彼女は、説教する気も失せて軟派な元人間の調理師に背を向けた。折り良くキッチンタイマーが生地の起床時間を告げ、自然と会話はお開きとなる流れのはずだが。
「それで、アルティナさんはなにを作るんスか?」
 未練がましい、のではなくこのプリニーはキッチンタイマーが鳴った程度で会話を終える気はないのか。平然と雑談を続けてきて、彼女はこの厚かましさこそが女慣れした人種の証なのだろうかと奇妙な方向で感心しつつ、冷蔵室から生地を取り出す。
「前回は甘いパイを作りましたので、今回はそうではないものをと思いまして……」
「って言っても、うちの冷蔵庫にあるのは大体お肉じゃなくてイワシ……あー、そっちッスか?」
 唐突にプリニーの真ん丸いはずの瞳が、ぐにゃりと歪んで空気を抜いたボールの形状になる。笑みと理解しているが一瞬身構えてしまうほど不気味にも見える辺り、最低級と言えど彼らも一応悪魔なのだと遅まきながら実感させられた。
 しかしそれを言うなら彼女だって、天界のプリニーほどではないが小さいなりに羽を持つ天使。下っ端悪魔にいいようにからかわれるなど、単身魔界に侵入した身として沽券に関わる。だから彼女は余裕の笑みを宿しながら、麺棒で生地を伸ばす作業に取りかかっていかにも何ともなさそうな態度を取る。
「……あら、なんのことでしょう?」
「誤魔化さなくたっていいじゃないッスか~。ま、アルティナさんのお手製なら、あの人どんなものでもどんな出来でも喜んで食べてくれるッスよ!」
「どなたのことを仰っているのか、さっぱりわかりませんわね」
 生地を伸ばす作業に集中する素振りも含めて素っ気無く言い放った彼女は、しかし内心少し、ほんの少しだけプリニーの発言に傷付く。うっかり裁縫針で自分の指を刺してしまったり、紙で手を切ってしまう程度の小さな傷ではあるけれど、それだってやはり痛みはあるし出血もするように。
 この軟派だがそれだけ女心も解しているであろうプリニーの発言通りになると、あのとき彼女は微かに期待していた。
 地獄に来てから愛らしくもわがままな姉妹のためや気まぐれから菓子を作った経験は何度もあったし、それをふたりの会話で話題にしたこともあるが、自分が作ったものをそのひとに口にしてもらったことは今までだって一度もなかった。だから台所に、現在彼女が地獄に留まる最大の理由たる約束を交わした吸血鬼が現れたとき、開口一番自分を助けてくれたとき、お礼の意味も込めて差し出したパイを、相手が手に取って一口でも食べてくれることを密かに期待してしまって。
 実際は、軽く困ったような戸惑ったような顔で視線を彷徨わせ、いい、いらんとぶっきらぼうな拒絶の一言をいただくのみ。相手が甘いものは苦手ではないが得意でもなく、特にチョコレートはどちらかと言うと苦手な部類に入るとの情報を、プリニー帽子を被った少女に聞かされねば彼女はその日一日上の空だった可能性がある。
 まあだから、このプリニーは既に間違っているのだ。子どもたちには受けが良い出来でも、甘い菓子は食べてもらえないと彼女はもう学んだ。そも人の血を吸う点を最大の特徴とする悪魔『吸血鬼』として、食に対するこだわりは悪魔一強いのやもしれない。そのため苦手なものも本当に苦手で、だから食べてもらえなかったのは仕方ないのだと彼女は自分に強く言い聞かせ――強く、なんて。それはまたどうして。
「……アルティナさん?」
 動きが止まっていると暗に指摘された彼女は、我に返ってもう生地が十分な大きさになっていると知ると、これ幸いとばかりに無塩バターがある冷蔵庫に飛びついた。開けた途端、顔にかかる冷気が気持ちいいのが逆に居た堪れない。
「わ、わたくしったら、ちょっと集中し過ぎてしまいましたわね。もう、十分な大きさですのに……っ」
「そうッスよ~。けど手遅れにならないうちに気付いてくれてよかったッス」
 慌てて切ったバターを取り出し、今度こそこちらに集中するよう自分に強く言い聞かせながら麺棒で軽く叩いてそれを押し伸ばす作業に移る。
 全く引きずっていないふりをして実際は今の今まであれを引きずっている己に今更彼女は気付いてしまって、そんな自分が情けなくて仕方なかった。大体、次こそは食べてもらおうなんて、冷静に考えれば隠しようがないほど未練がましいではないか。
 そうして前向きな振りをしつつそれでその場は納得してしまった己にも気付くと、いよいよもって恥ずかしくてならない。顔に血が巡っていく自覚が更に羞恥を加速させていく。そうなれば普段は冷静を心がけているはずの頭もあっと言う間に茹で上がり、惨めで狭量で粘着質で醜い自分に心底嫌気が差して、今から何もかも放り投げ冷蔵庫の中に閉じ篭ってしまいたくなる。
 しかしそんな衝動に反して、眼前のバターは順調に薄くなってしまった。となれば冷蔵庫に閉じ篭る計画を断念し、それを二つに折り、正方形を意識しつつ均一な厚みにする作業に移るしかない。
 そんな、やはり神経を使う作業に集中すべきなのに、天使の意識はもう一方、自分の内面につい向かってしまう。それでも手順を監視してくれるプリニーがいてよかった。他者の視線を感じなければ、彼女の手元は随分と疎かになっていたに違いない。
 今度は期待しないようにと、彼女は自分に強く言い聞かせる。甘くなくて彼の好物を使ったパイを作る訳だから、そのひとにどうですかと誘えば断る理由もないから受け取ってくれる可能性は当然前回よりも格別に高い。けれどそれだけだ。イワシならなんでも問答無用で喰らいつくひとだから、料理に顔を輝かせるとしてもそれはきっとイワシの力。自分の技量は関係ない。誰かが同じものを作っても、吸血鬼は快く受け取ってぺろりと平らげるだろう。
 そう考えると少し虚しさを覚えなくもないが、彼女だって料理の腕はそれなりに食べれるものを作る自信を持っているから、わざと失敗したり不味いものを作ろうなんて気は起きなかった。大体それは食材への冒涜になる。飢えを味わった身の上として、そればかりはやる気になれない。
 深々鼻から呼気を抜いて眼前の光景に意識を向き直すと、バターが既に丁度良い具合の厚さと大きさになっていた。そこに広げたまま冷やしておいた生地を取り出し、伸ばしたバターを生地の中央に来るように乗せてしっかりと包む。幸いこの過程は本当に余計なことを考える余裕もなく集中しなければならない作業のため、生地を均一に保ったままバターを包み終えてほっと一息ついたときには頭の中は一旦真っ白になっていた。
 けれど安心したところで何を考えていたのかを思い出す必要もない程度に以前の思考がするり浮上してくる点に、彼女は苦笑を薄く滲ませる。作業に没頭することで以前の悩みはどうでもよくなった、とやや強引に切り替えられないくらいにはやはりあの件は自分の中で尾を引いているといやでも自覚させられて。
「峠は越えたッスねー。あとは伸ばすだけッス」
「ええ。……ですけど、この作業が個人的に……っ!」
 打ち粉をたっぷり振ってぐっと麺棒に体重をかけると、心持ち今までの慎重さを捨てて生地を圧し伸ばす。しかしこれも均一に力をかける必要があるため、気軽な作業とは決して言い切れない。むしろ半端に力を籠める必要があるだけ、それまでのバターや生地を伸ばす作業に比べて彼女にとっては難所だった。
 しかし難所とは言え、生地が伸びてくれば力の籠め具合もさっきの調子にすぐ戻る。五分前後で長方形の、よく麺棒と一緒くたに連想されがちなパイ生地らしい光景が眼前に広がると、今度はそれを三分の一ほどに折り畳んで刷毛で粉を払い、残る一辺分も打ち粉を払って生地を正方形に整えると九十度に反転。バターを包んで以降と同じくしっかり生地を伸ばす。
 目前のことに打ち込めば、少なくともそのときだけは悩まなくて済む。醜い自分を意識させられなくて済む。そう考えれば、彼女はどんなものであれ家事は好きだと実感させられる。何もできず無駄な時間ばかりを過ごして自己嫌悪の渦に入り込むより、ともかく体を動かすほうが幾分か生産的だと前向きに思えた。四百年間の無駄な足掻きが尚更、そんな思考に磨きをかけたのかもしれない。
 だから彼のことを、脳裏にその姿を思い描くだけで胸の奥が熱を持ってたちまち自分の思考を狂わせてしまう黒髪の悪魔のことを、彼のために何かをして期待してしまいそうになる浅ましい自分を、このときばかりは忘れられるから、こんな作業も嫌いではなくむしろ好き。そう、多分あのひとと同じくらいには。
「……ふう」
 なのに雑念が振り払われ、奥底の温かな感情のみが胸に広がっていくところで生地は丁度良い薄さになってしまう。残念に思いながらまた三分の一ずつ折り畳み、刷毛で余分な粉を落とし生地を正方形に整えると、今度はラップで包んで冷蔵室に入れる。またも生地を休ませる必要があった。
 しかし幸運にも入れ替わるようにして解凍していた生地が程好い状態になったらしい。今度こそやるべきことに打ち込む心地になって、先程と同じ要領で生地を縦横それぞれ伸ばしてまた畳み、こちらは最後の仕上げ感覚で冷蔵室に入れる。今回は醜い己を意識せずに済んだからか、冷蔵庫に生地を寝かせたときには胸の澱は多少取れていた。
 だが四回も連続して同じことをすればさすがに手際もよくなるもので、最初に休ませたほうの生地をまた伸ばすには半端に時間が余っている。ならばいよいよフィリング作りに取りかかろうかと野菜を詰めた冷蔵庫を開けたところで、パイ生地を練る間じっと彼女を眺めていたあのプリニーが扉のほうに身体を傾けた。
「んじゃ、自分はもう行くッスね~」
「あ……ああ、はい。ご苦労さまです」
「いやいや、アルティナさんこそご苦労さまッス。しかしアレっすよ、アルティナさん」
「はい?」
「菓子類作ってるときに考えごとは止めといたほうがいいッスよ。特に特定の誰かのことを考えてたりすると、手元が超危うくなるッス。そのひとに食べてもらいたいなら、もっと作業のほうに集中すべきッス」
 気付かれていないと思っていたが、やはりそれは自惚れだったようだ。単刀直入に過ぎる指摘を受けて、またしても彼女の顔が一気に赤くなる。しかもこの場合は相手の発言がぐうの音も出ないほど正論であるため、天使は蚊の鳴くような声で返事を一言。
「……は、はぃ……」
「元料理人としてこれだけは言いたかったんスよね~。それでは、今度こそ本気で失礼しますッス~」
 言うだけ言うとすっきりしたのか鮮やかに台所から出ていったプリニーの、足音と表現するには軽々しい物音が遠のくのを耳にして、彼女はふうと大きく息を吐く。触った頬はやはり熱い。
 しかし動揺から少しは落ち着いてくると、あのプリニーは甘ったるい期待から自分が赤面していたのではと誤解の可能性をちらと頭に過ぎらせてしまう。そうではない、そんな浮ついたことは考えてないと今から走って引き止めてでも説得したい衝動に駆られるが、続けてそれは逆効果ではとも考えたため俯いたままぐっと下唇を噛む。
 まあとにかく、今はフィリングを作ろう。これは逃避ではない。パイ生地を寝かせている時間を有効に使っての具材選びだ。
 苦しい自覚はあるがそんなふうに自己暗示をかけると、彼女はどうにか視界に広がる光景をきちんと脳にまで到達させ、頭の中でぼんやり描いていたパイの完成型に具体性を持たせる。
 まず主役は言わずと知れたオイルサーディンだから、それと相性のいい野菜を探す。ざっと目についた限りではブラウンマッシュルームとオリーブが最適か。どちらもパイにも油気の強いのものに合うしえぐみや癖もない。ついでに幸運にも加熱用ミニトマトがあったのでそれも入れてさっぱりとした自然な味付け要員となってもらう。
 オイルサーディンを必要分瓶から取り出し油切りする間、野菜は歯ごたえが楽しめるくらいの荒い賽の目切りに。更に油と相性のいい二種は受け皿に滴り落ちたイワシの油で軽く炒めて水分を飛ばす。火が通り汁気を切ったらハーブスパイス入りの岩塩を少々、ボウルに入れたミニトマトと乾燥パセリと一緒にざっと混ぜる。イワシなら生のはらわたでも喜んで食べられる人物にとってこの辺りの過程は余計なことかもしれないが、だからと言ってオイルサーディンをパイ生地に包んではいおしまいでは彼女のプライドが許さないのでこのくらいは見逃してもらおう。
 続いて卵を溶き、油を切ったイワシを食べ易い大きさに切り終えたところでタイマーが鳴る。麺棒の作業は最後だとのお知らせだ。
 今度もまた穏やかな気持ちで室内と手を冷やして、打ち粉を作業台や麺棒に振ってから丁寧に、しかし手早くパイ生地を伸ばして折り畳むと今度は密閉できるビニール袋で包んで冷凍庫へ――これで今回粉から練った分については完成。続いて解凍していた分を麺棒で伸ばし、こちらは十二等分に切る。一方は二等辺三角形六つ、もう一方は長方形六つで三つには切り込み付き。
 オーブンに余熱を入れて、オーブン皿の上にいまだ冷たいパイ生地を乗せ、切ったオイルサーディンをたっぷり二枚ずつ。更にその上に長方形の三つにはそのまま野菜を乗せて胡椒をがりがり挽き塗し、もう三つは残る野菜にマスタードを絡めてから乗せる。前回は甘党向けの味付けで、今回は辛党向けだなんて少しあてつけがましいかもしれない。いやそれ以前の問題として、男性にはこちらのほうが好きなのだろうとの勝手な憶測でこうした訳だが、今まであの吸血鬼は辛党だとの主張を聞いた覚えもない。嗅覚が常人より優れているなら、やはりこちらも苦手なのだろうか。
 それでももう作ってしまった以上引き返せないため、具材を乗せた側の縁を溶き卵で浸した刷毛で塗ってから対になるパイ生地で覆う作業を六個分繰り替えす。続けてフォークで縁を押し付け、またしても溶き卵で照りを付けたところで折り良くオーブンが甲高く鳴って設定温度になったと知らせてくれた。こうも効率的に作業がこなせるようになる辺り、冷蔵庫にせよキッチンタイマーにせよオーブンにせよ、彼女にとって文明の利器の発展はそれこそ神や現代人に感謝しても構わないほどだとしみじみ思い知らされる。
 さて感謝はそれくらいにするとして、ミトンをはめてオーブンにパイを入れ、タイマーを設定し終えて蓋を閉める。それでもうパイに関する全工程は完了。あとは時間になるまで待てばいい。
 心なし緊張しながら待つ間ようやく料理の最後の過程、洗い物に取りかかる。期待しない想像しないと言い聞かせていたのにやはり何やら妄想しそうになる自分を必死で制して洗った料理器具を水切りし、道具をもとの位置に直すついでにシンク周りや作業台の掃除もしていると、ふと香ばしい匂いが鼻腔に届いた。
 ここのオーブンは業務用で、家庭用によくあるガラス面がないため中のパイの焼け具合については目視で判断できない。しかし見た目はともかく匂いについては焦げ臭さもなく、最低限食べる分には問題なさそうだ。そんなことを考えながら掃除をほどほどで切り上げ、エプロンを外しグローブを着け油気の強いものと合うお茶の準備に取りかかろうとすると、次第に焼きたてのパイの香りが台所いっぱいに広がっていく。
 昼食を摂ってから料理を始めた彼女としてはさして心惹かれやしないが、やはりと言うべきか今回も匂いに釣られてやってくるものがいた。この点だけは予想外にも、前回と違って単体で。
「アルティナちゃ~ん? 今回はなにを作っているのかなぁ~?」
 どこぞの人狼の青年なり死神の少年なりが気味悪がるくらいの猫撫で声で台所にひょっこり顔を出したのは、毎度お馴染み彼女の手料理には欠かさず味見役を買って出るプリニーなり損ないの少女だった。今回もご多分に漏れず相伴に預かるつもりなのだろう。
 しかし此度に限っては少女が愛する砂糖っ気は一切ない。そのためご愁傷様の意を込めて彼女が苦笑してみせると、茶色の瞳が不意を打たれたように瞬いた。
「今回は辛めの味付けですから、フーカさんのお口にはきっと合いませんわよ」
「え~いい匂いなのに……って、なんか魚臭い?」
 すんと鼻を鳴らして、台所中に立ち込める匂いの中から具材が何であるかを嗅ぎ取ったらしい。なかなか悪魔めいてきた嗅覚に、そう遠くないうちにこの少女の犬歯が牙になるのではなかろうかと天使はひっそり思いを馳せながら肯首する。
「ええ、この場合はフィッシュパイになりますでしょうか。ここではイワシは勝手に使っても構わないくらい豊富にありますけど、お肉はそうではありませんし……」
「ああ。あれ、フェンリっちのクーシー用でしょ。それでもササミってちょっと貧乏臭いわよね~」
 さらりとあのイワシ用冷蔵庫の片隅に隠されている上に何重にも封をされていた鶏肉の用途を把握している辺り、少女は随分ここに入り浸っているようだ。ついでによもや、ととある考えを過ぎらせた彼女はごく自然な調子を心がけ首を傾げる。
「ササミでもお肉には違いありませんわよ。それで、フーカさんたらあの狼男さんのお肉を勝手に食べようとなさったの?」
「ササミじゃなかったらね。アタシ、鶏は絶対モモ肉って決めてるから」
 鶏肉の中でも脂気の強い部位を好む辺り、これが若さの証拠だろうかとぼんやりと考えさせらた天使は、ついでにそこそこ意外だった事実についてやんわり口にした。
「フーカさんがどんなふうにモモ肉を調理なさるのか興味深いところですけれど、そのためにわざわざ買ってくるのもどうかと思いますしねえ……」
 本人としてはやんわりのつもりだったのだが、語尾の重々しさに意外だと思われている自覚はあったのだろう。少女は小さく口先を尖らせると、自分の料理の腕前についてかく語る。
「味音痴でも壊滅的なぶきっちょでもないんだから料理くらい普通にできるわよ。大体、父子家庭で親は職場から帰ってこなかったら、家事は子どもがやるしかないでしょ」
「それはそうなのですが……。ですけどフーカさん、こちらに来てから一度もその腕前をお見せになっていないのでは?」
「その辺はほら、夢の中でわざわざそんな面倒なことしたくないし。毎日の分はプリニーに任せりゃ勝手に出てくるし、たまにこうしてアルティナちゃんが売り物レベルで美味しいの作ってくれたりするし?」
 少女は厚かましい笑顔を作ると、当初の目的を忘れていないとばかりに彼女のもとへとすり寄ってくる。相手の態度に吐息をついた天使ではあるが、まあ自分が台所に立ってつまみ食いの被害に遭うのは毎度のことなので潔く諦めた。
「もう、おだてたところで今すぐにお菓子は作りませんわよ?」
「わかってまーす。今回甘くないんならお代わりしないもん、多分」
 多分、とはまた不吉な言葉である。六つ全てが彼の腹に収まるなんて最初から思っていないが、それでも二種類両方食べれる程度に残ってほしいものだとひっそり祈った彼女の背後で、オーブン用のタイマーが甲高い音を立ててパイの完成を知らせてくれた。
「おっ、もしかしてできたて一番乗り?」
 早々に辛めだと伝えたはずだが浮かれきった少女の声に、このままではいけない気がした天使の娘は重い嘆息とともに本格的な釘差しに取りかかる。
「それは約束次第ですわね」
「ん? 約束ってなんの?」
「お料理です。わたくしばかりは不公平ですもの。味見をしたいのでしたら、いつかフーカさんの手料理、わたくしにもご馳走してくださいね?」
 片目を瞑って両手を軽く合わせてやれば、何故だか少女は呻き声を漏らして居心地悪そうにそっと視線を伏せてしまった。その際、同性におねだりってどうなのなんてぼやきが聞こえた気がしたがつるっと無視して無言の圧力をかけ続ける天使の行動はそれなり効果的だったようだ。我に返った間を置いて、ツインテールが煩わしげに左右に揺れた。
「ああもうわかったから! アルティナちゃん、焦げちゃう前にパイ! 早く出して!!」
「その『わかった』は約束していただける意味で受け取ってよろしいのかしら?」
「それでいいから! パーイ!!」
 ここまでパイに執着を示されるとなると、やけ食い気味にたくさん食べられる可能性が生まれてしまったような気がしてならない。自らが招いた新たな危機にひっそり冷や汗を浮かべた天使は、しかしこれについては自業自得なので大人しくオーブンの蓋を開け、分厚いミトン越しでも熱いオーブン皿を取り出す。
 そうして本日、彼女の数時間を割いて作り上げられた結晶が、鍋敷きの上に鎮座した。
「おぉぉお……」
「……生地の膨らみ具合は問題ありませんわね。あまり水っぽくならずに済んで何よりですわ」
 まだ焼けたばかりのせいだろう。オイルサーディンが自らの脂で軽く揚げられているらしき小さな音を立てぷんと青魚特有の匂いが立つが、それに野菜とハーブとバターの香りが彩って生臭さは食欲をそそる香りへと鮮やかな変貌を遂げる。パイの表面は光を照り返さんばかりの煌めく黄金色にこんがりと火が通り、更には黒くまではならずとも茶色く濃淡まだらに焼き目の化粧が施され、誰であろうが思わず生唾を飲み込みかねない光景が広がっていた。何より細やかに層を重ね空気を含んだ生地が、軽やかなのに脂気を感じ、香ばしいのに柔らかい、一口のつもりがたちまちのうちに平らげてしまう、パイ独特の夢中になる食感がこれにはあると言わんばかりにふっくらと盛り上がり、少女は吸い寄せられるようにまだ熱いオーブン皿に手を伸ばした。が。
「もう、フーカさんたら。今食べると火傷しますわよ?」
 横から伸びたミトンがひょいひょいとパイを掴んではバスケットに放り投げ掴んでは放り投げの動作を繰り返し、食べ盛り育ち盛り――もう死んでおいて食べても育つものはなかろうなんて野暮な指摘をしてはいけない――少女の本能的な衝動をスマートに殺ぐ。
 出鼻を挫かれた少女は口の端から溢れ出そうになる唾液を虚しく飲み込むことで、ようやくパイが二種類ある点に気が付いた。もしかしてこれは大事なことかもしれないと閃いて、俄然真剣な面持ちで製作者に訊ねる。
「三角のと四角のは何が違うの?」
「三角は……確かマスタードで、長方形は黒胡椒です。甘いイワシよりはこちらのほうが自然でしょう?」
 生姜煮ならともかくパイにする分にはご尤だ。素早く納得してから長考した結果、少女は黒胡椒味のものを掴もうとするが、事前の指摘通り熱くてろくに触ることさえできやしない。掴もうとした途端に指が熱せられるものだから慌てて離して、けれどまた掴もうとするもやはり落とし、パイがぽんぽんと不自然に跳ねる。
「あつっ、あっちっ、っこ、これっ、なんかお皿とかフォークとかないの?」
「作ったわたくしとしては、紙ナプキンで掴んで……」
「そっか、ナプキン! って、ここお店でもないのにそんなのあったっけ?」
 少女はできたてのパイの魔力にすっかり魅了されてしまったらしく、うろうろと適当な引き出しを漁るもなかなか適切のものが見つからない。反対に無自覚にもそう仕向けてしまった天使は冷静なもので、台所を見渡して分厚いペーパータオルを一枚巻き取り、少女の肩を突付いて差し出した。
 厚手の紙を受け取って軽く相手に抱きつくほどの感謝を示したプリニーもどきの少女は、ようやく運命の恋人と再会を果たした女さながら瞳を潤ませて、まだ熱い長方形のパイを無事掴んで口元まで持ち上げると即座にかぶりつく。せいぜい焦らされた身の上として、自分から焦らすつもりはないらしい。そうして。
「ふぁっひっ!」
 熱い、と言いたいところだったがそれも無理だった。そのくらいは熱い訳だが、同じくらい。
「ふまっ、ふんまっ、ふぉへ、おいひ……っ」
「……フーカさん、食べるか喋るかどちらかにしてください」
 先程からの展開を考えれば自然こうなる予感はあったので、天使は目尻に涙を溜めて身悶えする少女にすかさずぬるめのお茶を手渡す。それを感謝の眼差しで受け取る余裕もなくすぐさま飲み干した少女は、大きく一息ついてからしみじみ呟いた。
「あー……熱かった。口の中火傷しそうになったの久しぶり」
「そんなに急いで食べる必要なんてありませんでしょうに。オーブンで焼くもの全てができたてであればあるほど美味しいと言うものでもありませんわよ?」
「いやいやできたてに出くわした以上はできたてで食べなきゃ逆に失礼じゃない! アルティナちゃん、料理上手いのになんでそれがわかんないのよ!」
「そこまで責められるようなことではないかと。……まあ、それほど味についてこだわらないから、ですかしらね?」
 平然と言い放った天使に、パイをもう三分の二近く食べた少女は信じられないものを見る目を彼女に向ける。浴びせた眼光の鋭さにようやく相手が後ずさったところで、何を作るにも味が安定しない元女子中学生のなり損ないプリニーは口周りについたパイくずを口に運びつつため息をついた。
「なんだかなー……。アルティナちゃんてば人生だいぶ損してるわよ。ここまで美味しいの作れる腕前があって、自分が食べる分には味にこだわらないとかさ」
「その辺りは、手品師が自分の手品に感動しないのと同じですわ。それにフーカさんだって、自分が作った料理より誰かが作ってくれた料理のほうが美味しく感じますでしょう?」
「うーん、わかるようなわかんないような……でもま、これだけは言えるわ!」
 残りのパイを口の中に放り込み、茶もくいっと飲んでから背筋を伸ばして人差し指を立てた少女の次の行動及び発言がなんとなく読めた彼女は、まだどうにか自分のほうに近いバスケットをそっと引き寄せる。と同時に青いジャージの袖が閃く。
「アルティナちゃん、も一個お代わり!」
「だめです」
 ジャージはあえなく宙を切り、まだ熱いパイは幸いにして製作者の庇い立てを受ける。反して強奪が失敗に終わった少女は、盛大に頬を膨らませてわかりやすく不満を示した。
「えぇ~。いいじゃん、六つもあるんだし~。どうせヴァルっちにあげるんだろうけど、あいつだってこんな半端な時間にそんないっぱい食べないって!」
 さらりと図星を突かれたものの、その手のからかいはパイ生地を作る時点であのプリニーから受けている。そのため天使の娘は隙を一分も見せないまま、毅然とバスケットを庇いつつ言い返した。
「一つは既にフーカさんのお腹の中に収まります。もう一つ食べられれば四つ、つまりパイがこの場で既に三分の一も減ることになりますわね。そんな調子でしたら台所から移動中もパイがなくなる可能性は極めて高くなりますの」
「けどでも美味しいんだもん! もう一個の味も気になるの!」
 駄々をこねる少女は、そのまま本格的にぶすっと不貞腐れると思いきや。高性能なレーダーでも持っているのか、急に首をドアの方向に捻った。どうやら視界の端で援軍を発見したようで、呆気に取られた天使を放置し廊下に身を乗り出して、馴れ馴れしく誰かに話しかける。――パイをこれ以上減らさないつもりだったのにそれがすぐさま打ち破られる予感は、彼女でなくてもこの場に居合わせるものがおれば誰しもが覚えたはずだ。
「……って言ってもさあ。ボク、魚は苦手だって言っただろ」
「じゃ端っこだけ食べてあとアタシにくれればいいわよ。アンタ数合わせみたいなもんだし」
「それ味見じゃなくないかもう……」
 今回に至ってはやる気がなさそうに台所に現れた少女の助っ人は、前回甘いパイを喜んで頬張ったが本人が公言している通り魚は嫌いな死神の少年だった。
 これはどう転がるものかと小さく唸った天使は、改めて現状に気付く。そう、あの二人が台所の出入り口を塞いでいるせいで、パイが五つのままここを脱出することは到底不可能になっていた。窓から逃げ出す手口はパイが落ちる可能性が高く、挟み撃ちをされれば更なる犠牲が出る。敵が一人のときならともかく、二人に増えて手中のものを狙われる環境は圧倒的に彼女の不利だ。
 そうして内心焦る獲物の心情を理解している顔で、少女がうふふと底意地の悪い笑顔を浮かべる。本人に自覚はなかろうが、なかなかどうして悪魔らしい、どころか悪魔の手本のような表情だった。
「さあ、アルティナちゃん。大人しく渡してくんなきゃ、ちょっと痛い目遭うことになるわよ~?」
「え。なにその物騒な発言。ボク味見に呼ばれたんじゃなかったの」
「味見役と言うよりは、フーカさんの手下役、でしょうか……」
「えぇぇえ~……。そんなのデスコ専用でいいじゃないかよも~」
 パイだけを求めているはずが妙にいやらしく両手を蠢かせる少女にげんなりとした少年は、乱暴な真似をしてまでバスケットの中身を強奪する気はまだないようだ。しかしやはり台所に立ち込めるバターたっぷりの香りにはそそられるものはあったようで、このまま天使の味方をするつもりはないとばかりの視線をちらと黄金色の物体に向ける。
「……けど、アルティナも大人なんだからさ。フーカの馬鹿に巻き込まれるより、穏便にことを済ませたほうがいいんじゃないか?」
「もう……エミーゼルさんたら。それでは結局フーカさんの手下として働いていらっしゃるじゃありませんか」
「ちょっとアルティナちゃん、エミーゼルの馬鹿発言スルーしないでよ!」
 少女の憤懣に満ちた指摘に彼女は曖昧な笑みを作ってそうでしたわねえと呟くが、本気でそう思っているはずがない。知らぬは本人くらいなものだが『地獄』党の党員たちにとってプリニーもどきの風祭フーカなる小娘のおつむが色々と残念なのは、党首の好物がイワシであることくらい広く、かつしっかりと認知されているのだから。
 まあそれは置いておくとして。少女相手にやや冷め気味でも人狼の執事よりはまだ幾らか温かみのある眼差しを送った少年は、瞬きをするとその部分だけきれいに切り取ったように話題を戻して自らの立場を明らかにする。
「て言うか、ボクだってフーカの手下になりたくてなった訳じゃないぞ。ただの利害の一致。アルティナの作ったそれを味見してみたいから、こっちにいるだけだ」
「それではこうしません? 次はエミーゼルさんのお好きなパイをお作りしますから、今回はフーカさんをどうにか宥める方針で……」
 懐柔策に出ようと試みた彼女は、少年が顔を輝かせた瞬間確かに手応えを得たのだが、続けてその口元が隣からの何かにひくと歪む様子を見届けさせられて、悪手を打ったと知らされる。焦っていたとは言え、よく考えてみればこの手のやり取りは相手の耳に入らないようにすべきだったし、ついでに言えばこの面子の中で一番聞き分けが悪く強情なのは言わずがなも享年十四の少女であって、穏やかで理性的な、言い換えれば押しに弱い天使と死神の少年でどうにか丸め込める相手ではとてもとても――。
「……ふぅう~ん。アルティナちゃんてばそう言うことしちゃうんだあ。ちょっと意外だったな~」
 そんな訳で、少女はがらりと態度を変えて笑みを浮かべた。一見すればあくまでにこやかに、声も普段に比べておっとりと間延びした調子で。普段の素行はともかく見目かたちに関してさしたる欠点を持たない少女がそんな態度を取れば、容易に騙される男も世の中にはいるのだろう。しかしいつものこの少女を知っている面々からすれば、こんな変化は危険信号でしかない。そして少年は、危険を察知しいつの間にか及び腰になっている自分に気付いてしまった。
「お、おい、フーカ?」
「けどま、それまでアタシらも色々作ってもらったもんね~。勿論アルティナちゃんも食べるし、みんな分けっこしたけどさ。今更エミーゼルのためになんか作ってもおかしくないわよね~」
「ふ、フーカさん? なんでしたら、またその次にあなたの……」
「別に無理しなくていいわよ。大体その次の機会も、次の次の機会もいつになるかわかんないし」
 何度も頷く少女の姿にいやな予感を覚えた天使もまた、自然と一歩後ずさる。地獄で彼らとそれなりに寝食をともにしてきた彼女は、身骨に染みるレベルで知っている。妙に聞き分けがいい少女なぞ少女ではない。これは振りだ。爆弾を投下するための準備期間だ。
 しかしこのままパイを渡して大人しく引き下がってくれるのだろうかと、冷静な部分が辛辣に訝る。ここまで怒っているならバスケットごと渡さないと鎮まらない気もするが、それでは本来食べてほしかったひとの口に入る前に食い散らかされる。それはさすがにいやだった。あんなに恥ずかしい自分を自覚させられて、けれどやはり彼のためにこれを作った身の上としては。
 そんな逡巡する桃色の三つ編みにちらと視線を送るのが、本人としてはいわゆる最終勧告であって。つまり対象は揺さぶりに応じるつもりはないと受け取った少女は、向日葵のような笑顔を保ったまま爆弾を投下する。
「いや~、エミーゼルってばほんっとアルティナちゃんに愛されてるわよね~」
「は?」
「アルティナちゃんがエミーゼルのためだけにお菓子作ってあげるって知ったら、ヴァルっちどんな反応するのかしらね~?」
「はぁあ!?」
 笑顔を保って放たれた少女の言葉に、さあっと音が聞こえるほど勢いでもって死神の少年の顔から血の気が引く。
 冗談ではない。そんな話をよりにもよって、あの疑うことを知らない吸血鬼が耳にすればどうなるか。殺されは――まだしないだろうが、針のむしろを味わうのは必須。常日頃から天使と主の関係を進展させまいと目論む執事も便乗して、自分たちに向けられた疑惑を払拭できなくされるのではないか。
 そんな胃が痛くなる未来を想定すれば、イワシのパイだの次の手作り菓子なぞ些細なもの。しかしそれさえ差し出せばまだその未来を回避できるはずだと、少年の脳が賢明な判断を下したところでツインテールがゆっくり反転する。
 少年の反応に十分な手応えを得たのだろう少女は余裕綽々のまま視線を上げて。
「んじゃ、今からアタシ、ヴァルっちのとこ行ってく…………」
 そのまま。
 何故だかぴたりと一時停止した。パントマイムの技能もなかろうに、セメントでもひっ被せれば精巧な石像に見えるのではなかろうかと思しき見事な凍りっぷりで。
「…………ふ、フーカ?」
 唐突にそうなった少女に、少年は当初声に出そうとしたのとはまた違った意味合いの慎重さで名を呼ぶ。しかしやはり無反応だった。
「……お、おいっ、フーカ!?」
「………………」
 ついでに足を踏み鳴らしてみても視線さえ寄越さない完璧な硬直に、一体何がこの倣岸不遜ななり損ないプリニーにこんな反応をさせたのか疑問を抱いた彼は、とりあえず相手と同じものを見ようと背面を振り返りかけたところでようやく復活した少女の声を耳にした。
「……るのはやっぱり止めておこうかな~」
「ええ、それがよろしいですわね」
 振り返った少年が目撃したのはいつも通り整った顔立ちの天使が深く頷く姿であって、その表情はやや険しいくらい。般若だの修羅だのを彷彿とさせる憤怒に満ちてはいない。
 しかし少女が何を見て硬直したのかを考えれば、この女が原因に違いあるまい。と言うか状況を考えれば絶対にそれしかない。
 阿呆が過ぎて恐いものなしの元人間がこうも簡単に意見を翻すなど、一体この顔はどんな恐ろしい変貌を遂げたのか。想像するだけで尿意さえ催すような寒気が背筋に走り、知りたいようでやはり知りたくないと少年はひっそり頭を振る。
「ですけど、エミーゼルさんにここまでご足労いただいてこのままお返しするのもどうかと思いますし……仕方ありませんわね」
 そんな少年の心のうちなどどうでもいいのか。またもペーパータオルを一巻き分取ってから三角形のパイを掴んだ天使は、小動物めいて震える緑のパーカーの眼前に平然とそれを差し出す。
「ぁ……ああ、ありがと……」
「どういたしまして」
 反射的に少年が温かいパイを受け取ると、天使は軽い会釈をしてからなんでもなさそうに分厚い布ナフキンを引き出しから取り出す。それをバスケットに被せてから、猫を彷彿とさせるしなやかな動作でぎこちない二人の間をすり抜けた。
「それでは、わたくしはこれで失礼しますわね。お二人ともご機嫌よう」
「う、うん……」
 結局のところ桃色の三つ編みを持つ天使は少年の視界から消えるまで普段通りであり続けた訳だが、また戻ってくる可能性を警戒してかプリニー帽の少女は硬直が再開したかのように大人しい。
 しかしそれも束の間のこと。あの天使のヒールの音が台所に残る二人の耳から完全に聞こえなくなると、少女はぷはっと大きく息を吸って復活した。軽く喘いでいる辺り、どうやら息まで止めていたようだ。
「んあーもー……。ほんっっきで焦ったぁああ~……」
「自業自得。あんな手口であいつを脅そうとするからだろ……ついでにボクまで巻き込もうとしやがって」
 ぐたりと冷蔵庫に寄りかかる少女に、少年は今度こそ情が一片も篭っていない冷たい一瞥をくれてやる。ついでにもらったパイにも視線を落とすが、こちらは生地で具材を包んでいるためなかの具材がわからない。とりあえずイワシが入っていることには間違いないらしいが、唾液をじわっと滲ませる香りが邪魔をして詳しくまではわからず仕舞い。
「ま、もらった以上は食べないとな……」
「いーなー……アルティナちゃんのパイ~」
 自分を連れてきた少女のじっとりとした羨望の視線を無視するどころか心持ち見せつけるようにして、少年はまだ温かいパイを一口頬張る。そうしてすかさず、成る程と納得させられた。
「……ん。んまい」
 簡素だが明確な賞賛に、作った張本人でもないはずの少女が何故か自慢気に鼻を鳴らす。
「でしょでしょ。だからアンタ、残り全部アタシに寄越しなさいよ」
「やだよ! どんな理屈だよそれ!」
「アタシのお陰でそれにありつけたんだからお礼に寄越せっつってんのよ!」
 それこそどんな理屈だとばかりに少年は大口を開けて、パイをもう一口。
 簡単な調理ではなかなか生臭さが取れないイワシはハーブとオイル漬けにしていたためだろう。青魚特有の強い旨味と柔らかく肉厚な食感だけをきれいに残し、これがまず単純に美味だった。しかしそれでもまだ多少は残る青臭さを、水分を蒸発させてそれぞれ味が濃くなりつつ心地良い歯応えを持つ野菜とハーブの風味が見事に補う。ミニトマトの酸味に加えて程良く鼻に抜けるマスタードの後味は、オイルサーディンを更にパイで包んだ脂っ気の塊のはずのこの一品にさっぱりとした辛みを与えていた。それでも悪くはない。大人向けなのは否定しないが、味覚が敏感な子どもの彼とてこれは平気で、どころか喜んで食べられた。
「……あいつもこう言うのを差し出してくるんなら、別に断らないんだけどなあ」
 生のイワシを貪り食い、それだけでなく他者にも同じような食事方法を強制するここの党首を思い出した少年は、いまだ恨めしそうな視線を送ってくる少女の嘲笑を聞く。生憎と、そちらを見る気はまるでない。
「ヴァルっちがそんな工夫するはずないじゃん。つーかあいつだとパイ作るって言っても絶対イワシを丸々パイ生地で包むとかそんなのよ」
「……うーわー。何がいやって、想像つくのがやだなあそれ……」
 ついでにその完成体は青魚臭い油とバターの油でどこもかしこもぬめっていそうだと思えば、想像だけでも胸焼けを起こしかねない。
 慌てて意識を現実に戻した少年は折りよく眼下に茶器を発見し、ポッドの中のお茶をカップに注ぐ。天使が去り際に用意してくれたのだろうか、口に入れた瞬間は爽やかでもまろやかに染み入っていく苦みは、咥内の脂っぽさを優しく洗い流してくれる。しかし多少口元が急に洗い流されて脂っ気が欲しくなるからまたパイを口に運び、またまた茶を啜る。こうしてどちらも進む永久期間ができあがる寸法のようだ。
「はぁ……。こう言うまともに気を配った間食、地獄に来て久々に食べた気がする……」
 指先や口の周りに付着するパイくずを軽く叩き落としながら無事完食した少年の姿に、最後の最後まで望みは捨てなかったのか少女が改めて頬を膨らませる。
「……ほんとにあんたアタシに一口も寄越さず食べやがったわね。魚嫌いなくせに」
「お前の分のパイの余りでもくれたら考えてたよ。……で、ちょっと聞きたいんだけどさ」
 暫く躊躇した結果、やはり最後に咥内をすすぐことにした少年はお茶を煽ると、恨みがましい視線をこちらに送る少女におずおずと問いかける。
「お前があのとき固まってたのって、やっぱりアルティナの顔、見て、……だよな?」
「……あー。まあ、ね」
 反らされた視線のぎこちなさにまあね、どころの話ではなく大正解だと理解した少年は、震える心地でお茶をもう一杯。今度は喉の渇きを癒すのではなく、体を温めるためだがそれも正直意味はないほど震えていた。
「や、やっぱり、あいつ……怒ったらとんでもなく怖いのか……」
 あの普段は穏やかな天使でも、一度怒らせると逆鱗に触れる、の言葉通り落雷かそれに近い衝撃を与えられそうな予感に怯える少年の態度をどう捉えたのか。はあ、と語尾が上がり気味の少女の声が彼の妄想をすっぱり一蹴。
「アルティナちゃんキレたら超怖いのは確かだけど、違うわよ」
「違う……? ってお前、キレさせたことあるのかよ」
「うん、下に履いてるのブルマなのかパンツなのか確かめようとしたらさ……」
「それはキレて当然だな。てゆーかお前同性相手にそんなことするなよ!」
「いいじゃんアタシの夢の中なんだし、細かいことは気にしないの。……とりあえず、さっきのは怒ってなかったわよ。むしろその逆?」
 怒る、の、逆とは。
 考えていたこととまるで正反対の方向を急に指し示され、少年の目が点になる。そのくらい意外な発言だったから、彼は瞬時にその単純な正解が思いつけず、数秒ののちにようやく思考を巡らせる。
「……逆ってことは。泣くとか、悲しむとか?」
「そそ、そっちそっち」
 平気な顔で肯定した少女はふて腐れるのにも飽きたのか、立ち上がるととある冷蔵庫の戸を開けてなかを物色し始める。どうせ目当てのものはチョコレートかそれに類する菓子だと知っている少年は、それをさして気に留めず戸惑い混じりに呟いた。
「でもお前、あいつが悲しそうな顔する程度で自制するような心の持ち主じゃないだろ?」
「それどう言う意味よ!」
 冷蔵庫の戸を閉めると同時に吠える少女の手にはやはり、『黒い稲妻』だったかそんな仰々しい名を冠するチョコレート菓子が握られていた。この自称美少女のなり損ないプリニーは菓子を口にすればすぐ機嫌が良くなることも知っている少年は、別段宥める気もなく肩を竦めて疑問に応じる。
「そのままの意味だよ。けど悲しそうな顔って言っても、アルティナ、あのとき泣いてなかったじゃないか」
「そうだけど……え~と、なんて言うの?」
 ビニール袋をよいしょと横に裂いた少女は、クッキークランチチョコレート掛けの菓子を頬張りながらつい先程の記憶を探るように小首を傾げて言葉を選ぶ間を置いた。つい数分前パイを食べたはずだろうにまた甘いものを食べるその堪え性のなさは、女として致命的な気もするがここは他人らしく受け流そう。
「あのときのアルティナちゃんは、……そうね。すんごい可愛い子猫を拾って育ててたら、ちょっと目を離した隙にいなくなって、どこかなーって探してたら向こうから突進してくるダンプカーのタイヤの……」
「言うな言うなっ! そこから先はぜっったい言うな!!」
 自分だってものを食べているときにその喩えはどうなんだ。そんな思いを込めて慌てて手で制する少年に、わかっているとでも言いたげに少女が眉をしかめる。自分で喩えて自分で気分が悪くなっていそうだが、ならどうしてそんな後気味の悪い表現を用いたのか。それなり長い付き合いなのに相変わらず理解不能だとばかりの吐息がしみじみ漏れる。
「……ま、そんな感じで。しかもそれをモロに見ちゃいましたーみたいな顔してたの」
 だから本気でかなり焦ったのよアタシ、と付け足してチョコレートを貪る少女は、現在焦った片鱗など一つも残っていない。このダンプカーの運転手にとって、子猫の育ての親はそれなり世話になっている親しい人物だろうにここまで反省の素振りがなくていいものか。
 だがそんな現代っ子のドライさを差し引いても、正直なところ、少年はあまり納得できなかった。
「……あいつ、アルティナが。本当に?」
「それ以外の誰がいるってのよ」
 物わかりが悪いとばかりに嘲る視線を向けられ、少年は軽く眉をしかめる。彼とてそこまで頭が回らない訳ではない。少なくとも眼前の少女より理解力はあるので、そう簡単に納得できない理由をやや語気を強めて説明する。
「ボクが信じられないのは……、そりゃお前のその切り替えの早さとかもあるけど、あいつがお前の脅し程度で、そこまで言われるような顔をするのかってことだよ。大体あいつ、ここを出ていったときはいつも通りだったじゃないか」
「ハッ、これだからお子ちゃまは……」
「どう言う意味だよそれ?」
 大袈裟に肩を竦めた少女の表情はいかにもこちらを馬鹿にしているふうで、少年はますます腹立たしさを覚えながら一応反論を待つ。しかし彼はそも愛だの恋だのに馴染みが薄いため、続く少女のしみじみとした言葉を聞いたところで、あまり大きな効果は得られなかった。
「アルティナちゃんはそんだけヴァルっちラブなんだってことよ。ついでにあそこまでショック受けるってことは、自分のこと信じてもらえる自信は全然ないって感じ? 普段はあんなに夫婦夫婦してんのに、ほんっと面倒な性格してるわよね~」
「……はあ」
「アタシとしてはちょっとした意地悪のつもりだったんだけど、あんな顔されたらさすがに罪悪感くらい沸くわよ。同じ女の子として、健気な乙女心をその気もないのに木っ端微塵とか後味悪すぎでしょ」
 それだけならまだ格好がついたはずなのに、大体そんなことしたらもうお菓子作ってもらえなくなるし、と呟く辺り、少女は完全に悪魔の利己主義に染まりきっているようだ。そんな調子では無理から人間界に戻ったところでもとの生活は無理だろうなと思った少年は、いまだ釈然としない気分でお茶を一息。愛を平気で受け入れる元人間のご高説を承っても、彼が抱いた疑問の直接的な答えにはなっていないため吐き出した息は不安めく。
 しかしそのまま頭の中を落ち着かせてみると、あの天使はこのミーハーな少女を止める最も効果な方法を頭の中から弾き出し、そう思いこませるほどの迫真の演技をしてみせたのではないかとの案が閃いた。もとよりあの天使は土壇場を潜った数が多いだけに咄嗟の判断で失敗したことはないし、大人だから自分と違って精神的な余裕もある。自分が呆けているときにあれこれと巧く立ち回る方法を思い立った可能性もなくはない。何よりそう考えれば、去っていくときの余裕綽々とした態度もそれで説明がつくのだ。
 どうせ今もチョコレートを貪っている娘にそれを言ったところで反論しか返ってこないだろうが、個人的にその案にそれなりの説得力を見出した少年は、色々と複雑な心境になりつつもとりあえずそれを落としどころにしてお茶をもう一杯。今度吐き出した息もまたどこか情けないが、こちらは女なる生き物への恐怖が籠もっていたとかいないとか。

◇◆◇

 さて実際のところはと言うと、少年少女はそれぞれ及第点をもらえる程度に正しかった。
 少女の脅しに対し、彼女の心に修復不可能なまでのひびが入りかけ、目の前が真っ暗になったのは紛れもない事実。呆れ気味の指摘を受けたように彼女は相手に自分を信じてもらえるなんてちっとも思っていないし、一瞬で脅迫者を制する方法を冷静に考えられるほどの余裕はなかった。
 しかしそれからすぐは少年の予想通り、培われた逞しさから瞬時に立ち直ったものの、結局のところ現状維持を貫くのが得策ではないかと悟り、やすりをかけた硝子玉さながら曇った瞳をかっ開いた虚ろな表情そのままにして、少女の企みを見事に潰すことに成功。
 だから少女が真剣に危機感を抱いたのは間違いでもなく、少年がその割には随分と態度に余裕を持って台所を出て行ったことを訝るのも間違いでもない。しかしどちらがより正解に近いかを問われれば、プリニー帽を被ったほうになるだろう。
 何故ならば、台所を出て目当ての人物の部屋へ向かっているはずの天使は現在廊下の片隅にうずくまり、猛烈に後悔していたのだから。
 パイのために用意したお茶一式も紙ナフキンも持たないまま台所から出てしまったことに気付いたのはあれから数分後。今にして思えば布ナフキンを一枚どうにか持ち出せたのは僥倖だったが、やはり心もとないため取りに戻る選択肢も思い浮かべたのだが、まだあの二人がいれば猛烈に気まずい。けれどお茶も紙ナフキンも持たないままバスケットだけ持ってあの書類だらけの部屋に訪れるなんて、相手の立場を考えればまた気まずい。
 先程自分の詰めの甘さを思い知らされつつもどうにか危機を乗り越えはしたが、それから十分も経たない今にして、彼女は真剣にパイを渡すのを断念しかけた。多忙な青年に差し入れをして立つ鳥跡を濁さずのまま退室できるならともかく、そのひとの部下やプリニーに迷惑をかけるのはどうにも心苦しい。
 ならばもう自分ひとりでこれらを食べてしまうかと吐息をついたところで、彼女はふと何か重大なヒントを見逃したような気がして顔を上げ、過去の思考をなぞっていく作業に取りかかる。
 それほど時間をかけることなく、それはプリニー、のところで止まった。そう、何も彼女が差し入れを直々に渡しに行く必要はない。彼らに折りを見てパイを渡すよう頼めばいいのだ。
 確かに一般的なプリニーはおおよそだらしなく、悪魔らしい意味でいい加減な性格をしているものが大半だが、ことプリニー教育係に対する彼らの姿勢は勤勉、忠実そのものと表現できる。そのひとに渡してほしいと言伝てればいくら彼らの主食であるイワシを使った食べ物でもつまみ食いは避けるだろうし、気を利かせてお茶や紙ナフキンを添付してくれるものもいるかもしれない。
 そうと決まれば話は早い。うずくまったときとはまるで正反対に目元を力強くして立ち上がった彼女は、早々に執務室を目指して歩き出す。――感想はまたいずれ聞かせてもらえばいい。内容がイワシをもっと多くすべきだの辛かっただの、食べてもらえたとわかる一言であれば、きっとあの時間の報酬としてはお釣りがくるほど満足できる。
 と、彼女としては現状最良に近い落としどころを見つけて喜んでいたのだが、タイミングの問題だろうか。それともこれもまた天啓の範疇内か。天使が次の角を越えてようやく執務室に辿り着くところで、目的地の扉が開き、書類を山と抱えたプリニーが三匹出てくる光景に出くわした。
 ごく当たり前の光景だったのに彼らからもまた忙しそうな雰囲気を感じ取ると、退屈が高じて軽食を作っていた我が身を省み気後れしたのか。ふと我に返れば彼女はバスケットを持ったまま角に隠れており、どうしてそんなことをしてしまったのか自分で自分の行動に疑問を抱きながら一歩足をもとに戻そうとしたのだが。
「……で。骨煎餅はどうした」
 聞き慣れた男性の声に、彼女は慌てて戻しかけた足をまた角に隠す。
 ここで人狼の青年と顔を合わせる訳にはいかなかった。何も手にしていないなら普段通りそれなり舌戦を楽しんだのだが、今の彼女はあからさまな弱点を手にしているのだ。それを見逃す彼ではないだろうし、あの方に媚びを売る気かとか浅ましいこと目論むなどと指摘されれば一切反論できないので、ここで己の身を晒せば一方的な負けとなる。そんな勝負は常に寛容たれと心がけている彼女でさえも遺恨が残るため、息を殺して必死にやり過ごす。
「あの、今日はオレ、骨煎餅は用意していないッス。なんでも、ベリトさんが閣下に新しいイワシ料理を味見してもらいたいとのことなので、お茶だけ……」
「ほう?」
 ベリトが誰なのかは知らないが、それはまた時期が悪いものだと盗み聞きの立場にある彼女はひっそり落胆する。この屋敷のお抱え料理人ならこの屋敷の主の好みも理解しているだろうし、それだけ信頼も大きかろう。そんな悪魔の新作と自分の凡庸な味付けのパイとでは、どちらがあの吸血鬼の舌に馴染むか考えるまでもない。
 ここに来て天啓はあまり当てにならないらしいと頭の中で嘆息した彼女は、しかし一応あの人狼が立ち去るまでこのまま隠れ潜む気でいるため足の位置も変えずに会話を聞く。
「それは殊勝な心構えだと褒めてやりたいところだが、その新作とやらが小休憩の時間に遅れては意味がない。特に空腹の閣下をお待たせするなど以ての外。……態度によっては再教育も考えねばならん」
「……そうッスね。ベリトさんに、遅刻したんで恥ずかしい過去をフェンリッヒ様とヴァルバトーゼ様に暴露するよう伝えておくッス」
 どうやらベリトなる悪魔はプリニーらしい。やはりイワシを主食としているため、こちらもイワシを好む吸血鬼の嗜好も熟知しているのだろう。
 ますます自分がパイを作ったタイミングが悪いと思い知らされて、最早彼女の精神状態は落胆を通り越しいっそ憂鬱と表現できるほど落ち込んだ。が、そこまで弱っている天使をこれ幸いと攻撃したがるはずであろう人狼は風上にいたため不幸にもそれに気付かず、茶出し役のプリニーの模範的対応に軽く頷く。
「よかろう。それと、この程度のごま擦りでは給金には影響せんと伝えておけ。……ああ、あともう一つ」
「なんッスか、フェンリッヒ様?」
 かつりと、石畳の廊下に靴音が響く。プリニーたちの足音とは全く異なる質量で聞こえるそれは執事だろう。どうやら遅刻したプリニーが訪れるまで、この青年も待つ気はないらしい。随分と多忙らしいのは主と同じか。
「人間の血は絶対に入れるな、もし入っているなら即刻破棄しろと伝えておけ。閣下の口にするものにそんな真似をしていいのは、世界でこのオレただ一人なのだからな」
「………………」
「あ、アイアイサーッス!」
 それはそれは力強い宣言に、彼女は呆れを通り越し生温かくも微笑ましい気分になりつつ足音が完全に遠ざかるのを待つ。まああの人狼があんな調子なのは今に始まったことではないのでそこはさらりと受け流し、慎重に慎重を重ねて、足音が完全に聞こえなくなってからもう三分ほどの間を置いてようやく移動しようとすると、不意に後ろから声をかけられた。
「お、アルティナさんじゃないッスか~」
「きゃっ」
 いつの間にそこにいたのやら。先程執事と会話していたらしいプリニーがこちらを覗き込んでいて、彼女は自らの激しい心音を聞きながらもどうにか頭を下げる。
「お、お疲れ様ですプリニーさん……」
「いやいやそちらこそお疲れ様ッスよ」
「はい?」
 驚かれもせずこんな時間帯にこんなところいる理由も聞かれず丁寧に頭を下げられて目を瞬いた天使に、茶出し役のプリニーもまた顔を上げてバスケットに一旦視線をやってから目を瞬かせた。
「あれ。ベリトさんが作ったパイ、わざわざ持ってきてくれたんスよね? そう聞いてたんッスけど……」
「は、はい? そうなんですか?」
 随分と間抜けな返事をしてしまってから、天使の娘はふととある考えを過ぎらせる。対するプリニーは彼女にそんな返事を寄越されるとは思ってもいなかったと見えて、混乱気味に前足で頭を掻いていたがそれに構っている余裕はなかった。
「……あの、そのベリトさんと仰る方は、もしかして食品管理をなされているプリニーさんですか?」
 おずおずとした質問に、戸惑いをいまだ残したプリニーは同じくおずおずと首を動かし。
「そうッスよ。あとあの人、超がつくほどの女好きッス。今はナンパできる容姿じゃないッスけど、昔はぶいぶい言わせてたらしいッスね~」
「……………そ、それは」
 つまりあの元調理師のプリニーが、自分の作ったパイを自分が彼に届けても自然な展開を仕掛けたと知り、彼女はどうとも表現に難しい気持ちになって思い切り息を吐き出した。
 常日頃から殺意やら敵意やら物騒な感情には縁がない彼女をして、杞憂だった先の自分への虚しさと羞恥と余計な世話をしてくれるなと願うあまりにあのプリニーを発見次第天高く投げたい気持ちになったが、当事者が姿を見せていないならそれもできそうにない。大体彼女はプリニーの見分け自体が得意ではないので、今後そんな情熱を燃やしたところで上手く逃げおおせられる予感もする。
 しかしここは自分の反応に更なる混乱を覚えているらしきプリニーを宥めてやるのが先決だと冷静に判断するだけの余裕をどうにか取り戻した彼女は、薄っぺらくも自然に見えるはずの笑顔を浮かべて見せた。
「……ではそうなりますわね。わたくし、台所に行ったら急に名前の知らないプリニーさんにこれを押しつけられて、困っていたところでしたの」
「あ、そうだったんスか……?」
 事情を聞かされ安堵の息を小さく吐くプリニーに、そうなんですと頷いた彼女は以降ごくごく自然な態度を装って、バスケットを指差し微笑む。
「ですけれど、丁度吸血鬼さんにお話があるところでしたから良かったですわ。これ、わたくしがあの方にお渡ししてもよろしくて?」
「そこは全然問題ないッス。あ、けどフェンリッヒ様に見つかったらヤバいッスから、用事が終わったらすぐに帰ったほうがいいッスよ」
「ええ、勿論。そこは了承しています」
 こちらとしてもあの執務室で侃々諤々の舌戦は自粛したいと肩を竦め、仕事が残っているらしいプリニーと別れてから彼女はついに曲がり角から出て、ようやく執務室の扉の前に立つ。
 なるべく意識しないようにと心がけて、廊下を出てからここに着くまで緊張する暇がなかったためそんな気分にはついぞならなかったのに。今更おかしなくらい鼓動が高鳴ってしまい、そんな自分に苦笑が滲む。けれどなんてことはない。お茶はあちらで用意しているようだし、ここで自分はバスケットを渡すだけなのだと言い聞かせれば次第に体も解れてくる。
 咳払いをしてからノックを軽くもスタッカートを利かせて二回。意味があるのかないのか曖昧な控えの間を挟んだ執務室に、その音はきっちり届いたらしい。
「誰だ」
 暫くの間を置き扉の奥から小さくともこの世で一番好きな声を耳にして、彼女はうっかり口元を緩めてしまいながらいつも通りの声を意識し話しかける。
「わたくしです。……少しだけ、よろしいかしら」
「……ん。ああ、構わんが」
 自分が来るとは思っていなかったらしい声から軽い動揺の色が聞き取れて、そんな素直な彼にくすぐったさを感じ取りながらドアノブに手をかける。
 これでようやく目的達成。ここに来るまで色々あったが、それらの出来事をそのうち時間に余裕が生まれた彼に話すのもきっと悪くない。
 けれど今は一言。バスケットの中身を受け取ってもらって、一口食べて、一言もらえれば。それで今日一日は満足しようと、彼女は胸に宿る温かい心地に身を委ねつつそっと扉を開けた。







後書き
 飯もの調理ものを書きたくて書きまし、た。三大欲求にまつわる話を書くのはたのちい!(睡眠欲以外) あとフーデス編で判明した閣下チョコ嫌いなのかーそうなのかー(にたにた)ネタ。
 ちなみにベリトはうちの初期プリニー(現アチャ子)の名前。つかパイパイ書くと(おっ)パイって書きたくなって仕方ないとかそんな酷い人間性の持ち主で本当に申し訳ない。

[↑]

For me?

2012/01/11

 執務室に入った途端、突然の熱風を顔に受けて彼女は小さく悲鳴を漏らす。
 魔法の風でもなさそうだがどうして部屋に主がいるはずなのに窓が開いているのかと目を瞬いてそちらに視線をやれば、なんのことはない痩身の吸血鬼本人が窓を開けたと知って小さく唇を尖らせた。普段からプリニーたちが心を込めて掃き清めているので埃は少ないが、この部屋には飛び散ってはならない書類も多いだろうに。
 案の定、熱風に煽られていまだ机に残っていた書類が軽快な音を立てて宙を舞い、その音色に外套の肩を強張らせた吸血鬼は慌てて窓を閉める。
「……もう、一体急にどうなさいましたの?」
「い、いや。何故かイワシの匂いを幻嗅したので換気しようと思ったのだがな……」
 どうやら開けた本人も部屋に入り込んでくる風がここまで強いと思っていなかったようだ。黒髪の青年は扉側を一瞥する余裕もなく、閉めた窓に鍵までかけて、すぐさま近くに落ちた書類を拾い始める。
 それを手伝う前にバスケットを一旦どこかに置こうとした彼女は、口の中で小さく呻いた。必要不可欠なはずの布ナフキンが、先の強風に煽られて部屋の隅の床にへたりと張り付いたのを目撃してしまったため。
 反射的に拾い上げるも布ナフキンは無地だからすぐさまどちらが床に付着した面なのかわからなくなるし、床に落ちたものでパイを掴んで食べるなど、どれだけ清潔を保たれているとは言え気分が悪い。
 最後の最後でこれとは。運があるのかないのか本格的にわからなくなってきたが、これについては自分のミスでも――いや、原因には違いないかと、彼女は軽く落ち込み書斎机の前に立つ。
「イワシの匂いは幻ではありませんわよ」
「は?」
「プリニーさんたちの代わりに差し入れを持って参りましたの。……今のあなたにとっては、色々とご迷惑になりますけれど」
「差し入れで迷惑……? 一体何を言っているのだお前は」
 おおよそ舞い散った書類を拾い終わったらしい吸血鬼は、いきなり声の調子を沈ませた天使の娘の方へとようやく身体を向ける。
 そうして軽く目を見張った吸血鬼の愛しくも鮮やかな血の色の瞳と焦点が合うと、彼女は無理からに微笑を浮かべてバスケットをかざした。初めて会ったときより幼くなってしまったけれど、それでも長く焦がれた黒髪の彼を前にして心がそれほど明るくなれないのは、少し残念ではある。
「強いて言うなら……日頃の感謝と労いの気持ち、ですかしら。一応お金は取りませんから、ご安心なさって?」
 白い手中のバスケットの中身を認識し、パイの具材がイワシであるとまで瞬時に嗅ぎ取ったらしい。扉の前で執事がぼやいていた通り空腹らしかった青年は一瞬少年さながら目を輝かせたが、すぐさま現在自分が置かれた状況を察して悄然となり、渋々首を横に振る。やはりそう来ると思っていたのに、うっかり女も肩を落とす。
「今はその……気持ちだけ受け取っておく。生憎と、書き仕事中に油分の強いものはな……」
「そうですわよね……。わたくしも、そのために用意はしていたのですが……」
 熱風に吹き飛ばされた布ナフキンを取り出すと、革張りの椅子に腰掛けた悪魔は怪訝な表情を見せる。あるならそれで構わないとでも言いたげに身を乗り出し手を伸ばしてきたが、さっきの風で床に落ちてしまいましたのと彼女が説明すれば、その手もすぐに引っ込んだ。
 それから痩躯の吸血鬼は風を巻き起こした原因が自分にあると得心して、イワシの内蔵を五つほどを噛み潰した面で頭を下げる。
「……すまん。俺のせいか」
「いいえ違います。わたくしが最初に説明しなかったせいで……」
「お前の差し入れの匂いを幻だと思い込んでいた俺にも責任はある。……ま、今は食えんが、それは夜食にでもさせてもらうとしよう」
 残念そうに苦笑を滲ませつつ、なんでもないように告げる彼の態度は潔い。それに倣って未練はあるが彼女もすぐに退散しようとしたのだが、誰かの腹の虫が盛大に、かつ未練がましく鳴くのを耳にする。
 腹の虫の飼い主は、言うまでもなく黒髪痩身、約束の相手と死別して以降も自らに血を禁じ続け、現在はイワシが好物と成り果てた風変わりな吸血鬼。長々とした鳴き声が終わっても重く横たわる沈黙に対し、本人は尋常でなく気まずそうに格好を取り繕おうと書類を自分の顔の前に立てるが、そんなことでもう一人が誤魔化される訳がない。
「やっぱり無理をしてらっしゃるんじゃないですか……」
「そんなことはないっ!」
「じゃあさっきのあれはなんです?」
「茶だ! 茶で少し胃が動いただけであって、別に俺は空腹でも何でも……」
 党首が使うには朴訥な印象の素焼きのカップを掲げる彼の説明を聞きながら、彼女は同じ柄の大きなポッドを掴んで中身の重さを推し量る。まだ一杯半程度は残っていそうだが、それにしたってかなり軽い。あの短時間で空腹を紛らわせるためたっぷり飲んだのは、どうやら間違いないようだ。しかし水分は生憎と腹持ちがよろしくない。むしろ胃が活性化される可能性もあるくらいだ。
「そうなれば、更に辛いと思いますけど?」
「根性で耐えればどうと言うことはない」
「辛いのは否定なさらないんですね……」
 手痛い指摘を受け、虚勢を張る男は書類の隙間から忌々しげな視線を天使に向ける。目つきもそこに籠められた感情も普段に比べて剣呑なのに妙に気迫に欠けている辺り、多くの悪魔に気のせいだと受け止められていた『イワシパワー』は存外影響力があったと伺い知れた。
 しかしここまでやせ我慢を強いるなど、もとより吸血鬼の魔力の源である血を些細なはずの約束により現在進行形で絶たせている彼女としてはやるせない。
 だから頭の中の靄を振り払い、仕方ないとため息一つで割り切って、天使は布ナフキンで覆っていたため少ししっとりとした長方形のパイを素手で掴む。自分の差し入れに手を出された青年は一瞬眉根を寄せるも、相手が製作者ならばとばかりの渋い顔。
「なんだ。お前も食うのか」
「いえ、そうではなくて……」
 ではなくて。
 躊躇いながらもパイを掴んだその手を、彼女は自分の口元ではなく更に前へと持っていく。書類に囲まれた机を挟んだその向かい、このパイを本来食べてもらいたかったひとの口元に届くように、軽く身体さえ乗り出して。
「…………どうぞ」
 少し、顔が赤いかもしれない。けれどこれしか今の彼に食べてもらう方法がないから、天使の娘は湧き上がる恥ずかしさにも耐え忍び相手が食べられる位置にまでパイを掲げて一旦停止する。
 対する悪魔の青年は、ぽかんと阿呆のように口を半開きにしていたがすぐさま正気に戻って、顔を通り越し耳まで一気に赤くする。手中の書類がくしゃりと歪み、その光景に女の背筋に冷たいものが走った。
「な……な、ななな何をしているお前はっっっ!!」
 裏返り気味の声で放たれた叱咤に、彼女は憮然と頬を膨らませる。このままぐだぐだと押し問答が続けばますます恥ずかしくなるだろうから、できればあっさり流して欲しかったのにと――まあ彼にはどだい無理な話だが。
「いいからこのまま召し上がってください。あなた、お腹が空いていらっしゃるんでしょう?」
「だ、だからと言って……!」
「血だけでなくイワシまで我慢させた上に、差し入れをお持ちしてこのまま夜遅くまで食べてもらえないなんて、わたくしとしても心苦しいものがありますの。かと言ってあなたの手袋を油で汚す訳には参りませんし、ナプキンも使えないとなると、こうするしかありませんでしょう?」
 理屈っぽくも立て板に水とばかりの反論を並べ立てる彼女に、いまだ落ち着きそうにない男は口の中で何やら呟いていたが、それらは明確な意味を持って僅かに赤らんだ丸い耳にまでは届かない。とにかく吸血鬼はそれはしたくないとでも言いたげに強い視線を飛ばすが、それしきでこの天使が引っ込むはずもなく。逆に肩の力をふと抜いて相手を宥めようとする。
「このくらいで恥ずかしがらないでください……。別にわたくしだって、あなたを子どもや要介護老人扱いしたい訳ではありませんのよ?」
「されてたまるかそんなもの!」
 かと言って、脳みそまで蕩けているのかと思しき恋人たちの模範行為に挙げられるであろうことをしたい訳ではない。ただ必要に迫られただけだ。
 実際にそう考えているし、その主張を貫き通す気でいる彼女は、恥ずかしさはどうにも消せないがこれは仕方ないことなのだとばかりに相手の鼻面へパイを突きつける。
 しかしそんな天使の娘の、眉や目つきは険しいのにどこか熱っぽく潤んだ薄青い瞳が、ほのかに赤く鮮やかな頬が、軽くすぼんだ柔らかそうな唇が、青年の頭の中を乱暴なくらい掻き乱してしまって。
 先の理由を聞くに当人はそんなつもりなどないようだが、これで、こんな顔をされて、甘い意味合いとしての行為を意識しないほうがおかしい。百歩譲って普段の態度ならまだ赤子にやるような食べさせられ方でもどうにか耐えれたかもしれないが、眩暈さえ起こしかねない破壊力の表情を晒しておいて、自分の手ずから食えなどとは一体どんな誘惑だ。大体、大口を開けて頬張ってしまったら相手の指も口に運んでしまいそうではないかこれでは。いやそれともあれか、もしかしてそれが狙いなのか。親指を軽く食むどころか舐めしゃぶってやればどんな反応を寄越す気なのか。掠れるような甘い悲鳴を漏らすくせに、健気に身を乗り出したままの体勢を維持しようとするのか。そう言う遊びか勿論大人の意味合いの。
 らしくなく感情的に意地を張るような顔の、それでも身を乗り出したまま腕を下げようともしない彼女の姿は、男に奇妙な期待と危うい妄想を掻き立てる力を持っていたようだ。ついに気持ちが抑えきれず、彼は締め上げられそうな胸の切なさから立ち上がりかけたが、別の意味できりきりと締め上げられそうな痛みを放つ胃によって我に返らせられた。
 嗅覚の優れた吸血鬼の鼻先に、好物のイワシを使ったパイなんぞをぶら下げられれば当然胃も活性化する。早く食えとばかりに食欲は内側から青年を急かすが、やはり恥ずかしさと自らの邪念を意識してしまって体は素直に動かなかった。そもそもいい年をした悪魔が、よりにもよって四百年前から並々ならぬ執着心を注ぐ娘の手で直に飯を食わされるなどと。これを強いられる理屈はわかるし納得もしたが、やはり猛烈な羞恥心はそう簡単には静まらない。
 赤面のまま硬直する青年の腹がまた鳴った。それに彼女は呆れ気味の息を鼻から抜いてもうと憤りの声を漏らす。それでも手にしたパイは、彼の口元から頑として動かない。
「一口でもいいから食べてください。感想を伺ったら、わたくしはちゃんとすぐにでも帰りますから」
「……帰る?」
 完全に方向性が違う慰めを受け、赤い瞳が怪訝な色に染まる。これに対し、彼女も恥ずかしさから相手の顔をきちんと見ていないのが悪かった。なんともないように頷いて、彼の期待に見事なまでの冷や水を吹っかける。
「ええ。わたくしがここにお邪魔した目的はこの差し入れをあなたにお渡しすることと、これの感想を伺うことですもの。それを聞けばすぐさま帰りますから、残りを召し上がりたければ……そうですわね、プリニーさんにでもお手伝いしてもらってくださいな」
 それなら恥ずかしさも少しは薄れますでしょう、と天使の娘は完全に方向違いなアドバイスを、よりによって可憐な笑みを浮かべて寄越す。一口食べればもうそれっきり、パイが全てなくなるまで彼女の手で食べさせられると思い込んでいた彼にとって、予想外なほど素っ気なく。
 しかし結果的に彼女の説明は功を奏した。それを青年が聞かされることなく長いこと躊躇っていればそのうち天使の娘は我慢できずに帰ったかもしれないし、一口分彼の口に放り込んでそのまま帰ってしまったかもしれない。だから説明を受けたのちの彼の頭の中には、恥など綺麗に消えており。
「……そうか」
「え」
 短く静かに首肯して、一息分の間も開けず眼前のパイにかぶりつく。
 唐突な行動に娘は多少面食らったものの、彼女が求めていた行動をようやく取ってもらえたため、文句も言わず固唾を飲んで相手の反応を見守る。
 咀嚼の間は長くもなく短くもなく。けれど秒単位で自らの心音が耳や頭に届き始めた天使にとって、立ち眩みでも起こしかねないほどの時間を置き。
 それまで何度か頬や顎と一緒に動いていたが、最後とばかりに喉仏が大きく躍動し、口の中のものがなくなった証明に吐息をついた男は、これから一字一句聞き逃すまいと必死な彼女に向かって一言。
「味がせんな」
 非常に冷酷な感想をくれた。
 当然そんな言葉が返ってくるなど全く予想していなかった彼女は目を見開いて、口の端を引きつらせる。
「…………はい?」
「聞こえなかったか。味がせんと言ったのだ」
 止めとばかりにもう一度。
 ご所望の感想を聞かされた天使の心境はいかばかりか。少なくとも、床下が急にすっぽ抜けるくらいの衝撃は味わっていたことは間違いない。
 具材の水分量も満足感もだが、当然味にも気を配ったのに、なのに味がしないとは何か。それなり料理の経験がある者にとって青天の霹靂に等しい評価に、彼女はぎこちなく狼狽えた。まずいだの好みの味付けではないだのとの感想をもらったほうが余程建設的である。
 しかし彼女はそのまま打ちひしがれるほど軟弱ではない。暫くの放心状態からどうにか立ち直ると、味見役の少女の言葉や自分の嗅覚を思い出して抗議する。
「そ……そんなはずはありません! あなた、きちんと食べてくれました!?」
「お前もさっきから見ていただろうが。どこかに戻す素振りをしたか、この俺が?」
 パイを口に運ぶときと正反対に冷ややかな彼の態度に、まさか本当にその通りなのかと焦って彼女は既に歯形のついたパイを小さく一口。その光景を目撃した吸血鬼の眉が一瞬ぴくりと反応したが、余裕を失った天使の娘は咀嚼に必死でそれをうっかり見逃す。
 そして自作のパイを味わい飲み込んだ末に、彼女はようやく黒髪の吸血鬼を睨みつけて抗議した。
「……あります。きちんと味は付いてますっ!」
「ほう、そうだったか?」
 しかし青年は平然とそれを受け流し、視線を彼女から外して手元に移動させる。ようやく先程皺だらけにしてしまった書類の状態に気付いたらしく、書斎机に広げて手で伸ばそうとしながら平然と告げた。
「ではこれでお前の目的とやらは済んだな。とっとと帰るがいい」
「………………」
 急に彼の態度が冷たくなってしまった理由は、彼女にはわからない。何か酷いことを言っただろうかとさっきから頭の中を引っ掻き回して記憶を漁っているのにそれらしいものは見つからないし、強いて挙げるならこれかと思うものはあっても青年が怒る理由までは想像できなかった。
 だから彼女は悲しむよりも先に彼の理不尽な振る舞いに対し怒ってしまって。頭ごなしの命令にもええそうしますわねと従う気がまるで湧かず。
 次に天使の娘が取った行動は、パイを片手にしたまま無言で壁の隅に置かれた椅子を掴んで、それを何の断りもなしに書類机の向こうに運び、青年の椅子の真横に置きそれに腰かけること。案の定、吸血鬼は戸惑い交じりの鬱陶しげな視線を寄越してきたが、彼女は凄んだ視線で跳ね返し、またも食べかけのパイを差し出した。
「食べてください」
「感想は言ったはずだが?」
「あれは感想ではありません。今度こそきちんと食べて、味わって、感想を仰ってください」
「……はん。注文が多い奴だ」
 鼻で笑って茶化されて、彼女はますます腹の奥を熱くしながら無言でパイを突き出す。それこそ相手の頬にこれがのめり込んでも構わないくらい身を乗り出しながら。
 そこまでされるのはさすがの彼でもお断りしたいらしく、彼女の細い手首を掴んで自分の口元にまで誘導する。他者の視点に立てばこの光景は随分とお熱く見えただろうに、生憎と怒りの熱で頭から客観性を失った天使はそんなことにも気付かない。
 吸血鬼のほうはと言えば――彼女がここまですると思っていなかったのか。一応女の手ずからまたもパイを頬張るものの、伏せた瞼の奥にある目は落ち着かない。内心やり過ぎたと反省していたのだが、今更態度を変えるのも不自然だし、本人にその気なくともこちらとてしっかり傷付いたので相殺されるだろう多分と願ってもいた。
 二口目は最初のときより互いの緊張感は薄いものの、横たわる感情はむしろ刺々しく、おまけに一方通行気味でいる。彼としては相手をここまで怒らせる気はなかったのだが、はてさて一体どうしたものか。
 無遠慮どころか敵意にも似た天使の娘の眼差しを受けながら、吸血鬼の青年は黙々と咀嚼する。
 実際のところパイはまずくない。むしろ今までイワシを食してきた年月の中でも、五指に入るほど美味だと手放しで賞賛できる。いや、製作者がこの娘だからこそそう評価している部分は正直否定できないが。
 しかしそれを素直に言ってしまえば、天使は恐らくはにかむような笑みを宿してくれるだろうけれど、その後あっさり帰ってしまうのはいただけない。ここ最近ろくにふたりきりの時間を取れずにいたのにそんな呆気なく逢瀬を終わらせるなど、彼女が納得しても彼はそれを許す気などさらさらなかった。だからあんな心ないことを言って――余談だが彼もまたイワシを懇切丁寧に洗って調理したのに、味がしないとの感想を凄腕調理師のプリニーに頂いた屈辱的な思い出がある――、どうにかこの場に繋ぎ止めようとした結果がこれとは。
 さて今度はどう言って誤魔化すものかと頭を巡らせた青年は、口の中に残ったものを飲み込むと茶で咥内の脂っ気を漱いでからふと感想を思い立つ。
「……脂だな」
「当然です」
 バターたっぷりのパイ生地とオイル漬けのイワシのほかに、野菜も炒めているとなれば脂分がないはずがない。だから彼女は相槌を打つ速度で肯定し、続けざまに軽く椅子から身を乗り出して訊ねる。
「それで、その脂はあなたにとって不快なものでしたの? ……よく考えれば、油分が多すぎて気分が悪くなるかもしれませんわね。その辺りは申し訳なく思います。それ以上にお口に合わないと仰るのでしたら、どう言う傾向のものがあなたにとって最善なのか、よろしければ教えてください」
 たかだかパイの一つでどうしてそこまで必死な顔をするのか。しかも出てくる言葉の数々は、この出来に関わらずマイナス思考で彩られているときた。どれだけ自分の腕に自信がないのやら。
 漠然とした疑問が頭の奥から生まれるが、しかし彼女をこうして独占できるのは悪い気がしないため青年は毅然と言い放つ。
「俺にとっての最善など、お前も知っているだろう。生のイワシそれ以外に有り得ん!」
「…………あの。それはそれで困ります」
「何故だ」
 訊ねて、肘掛けに軽く身を寄せ口を開ける。最後の一片も食べさせろと仕草で命じた彼に、こちらももう気にしていられなくなったか彼女は乞われるまま相手の口にパイの残りを放り込む。
「それでは調理の意味がありませんもの。素材のいいところを引き出して、悪いところを差し引いて、また別の素材を使って美味しさや栄養を補うのがお料理でしょう? ですけど、あなたのお言葉では……」
「……だが俺は、イワシの長短全てをありのまま受け入れる。他の素材など余計でもないが、別になくても構いはせん」
 しかしイワシに秘めた栄養効果を引き立てる調理法があるなら、それを試す気は常に持っている。それを探るものたちが増えればそれだけバリエーションも幅広くなるし、味も豊富に生まれるだろう。だからこそ彼は今も多くのものにイワシを布教しているのだ。そうしてゆくゆくは全ての栄養素がイワシにあると証明される日が訪れ、素晴らしい至高の逸品にして他に比類なき滋養を秘めた食材であると世間が認めることを待ち望んでさえいる。そこには独占欲など欠片もない――ただひとり、今は自分のすぐそばで困ったように眉をひそめる娘と違って。
「お料理は化学ですわよ? それに食材一つ取っても、茹で方焼き方揚げ方、火を通す方法や味をつけることで栄養が変化するものです。ありのままを受け入れては悪いものもあるでしょう」
「例えば」
「ほうれん草のシュウ酸ですとか」
「あれは口内炎に効く」
「シュウ酸そのものが、ではないでしょう。摂りすぎると骨粗鬆症になりますし、殿方には恐ろしい病気も生み出すと聞きましたわ。……それにイワシのプリン体も危険だとあなた、いつか仰っていたじゃありませんか」
 そうだったかもしれないが、そこは悪魔らしく自分に都合の悪いことは聞き流す方向で行く。悪びれもしない横顔にその意図を読み取ったらしく、彼女はむっと口元をへの字に歪めた。
「……それで。まだ味はわかりませんの?」
「ああ。特に何か明確な味を味わった覚えはないな」
 しれっと言ってのけると、負け方面の消化試合の心地でいるのか。天使の娘はどうにもやり切れなさそうなため息をついてから三角形のパイを手に取る。
 少し悪い気がしたが、男としての矜持を失うことなく現状維持を貫くためには仕方ない。そんな矜持さえも正直に口にすれば、子どもっぽいと笑われてしまう可能性が高いため。
「……よろしいですわ。次にイワシの料理をお持ちするときがあれば、それはもうたっっっっぷりと調味料を入れて差し上げますから」
 次に表情を切り替えた女の、ありありと恨みの篭った言葉と妙に迫力がある笑顔を頂戴し、青年の背に冷や汗が流れる。天使の恨みつらみとは悪魔に比べて根深いのか性質が悪いのか。天使の知り合いなど彼女以外ろくに知らないので、その辺りについて学ぶ術は彼にない。
「確かに調味料を入れれば味はわかるがな……それでは美味い不味いを通り越してその味しかせんだろうが。それでもいいのか、お前は」
 とにかく次も寄越せと指で示せば、彼女は言われなくてもとまた身を乗り出し、最初のときよりもずっと乱暴な勢いでパイを彼の眼前に固定する。その際、微妙に首を伸ばさないと食べにくい位置に固定されたのは気のせいではなさそうだ。
「別に構いませんわよ? だってあなた、味がしないと仰るんですもの。辛い酸っぱい苦い甘いでも、感想をいただけるならそれで満足致します」
 どれも度を越すとまずいとの評価を下されかねないが、それさえ今の彼女は気にしていないらしい。少し食べ辛そうにパイを頬張る男の刺々しい視線を傲岸な眼差しで弾き飛ばす。
 しかし折角の彼女の手料理でさすがにそれは勘弁してほしいので、彼はようやく感想らしい感想を、しかしこの状況を維持するための言葉を、どうにか絞り出す。
「……イワシの味はする」
「まあ不思議。なんの味もしないはずなのに、ここに来て今更イワシの味が?」
 嘲る口調はもう既に、この吸血鬼の企みなどとっくに見抜いているような、やはり気付いていないような。どちらにせよ判断に難しいため、彼は意地を張って言い訳を口にする。
「……ようやく口に馴染んできたからな。天使が自ずから作る料理は、悪魔にとって味覚を狂わせる抵抗力があるのやもしれん」
「さして特別なことをした記憶はありませんのに……」
 でまかせを平気で信じて落ちこむ彼女に趣味悪くうっかり胸が高鳴ったが、そこは嘘だと気付いたようだ。はっと顔を上げ、天使の娘はそれはありませんと鋭く否定するついでに残りのパイを青年の口に詰めた。これは少しやり過ぎだ。
「今回フーカさんに味見してもらいましたけれど、あの子は最初の一口で味がわかっていましたわよ? それまでもエミーゼルさんやデスコさんにもわたくしの手料理は食べてもらっていますし、悪魔でも問題はないはずですっ!」
「……ふぃや、んぐ、いや待て。あいつらにまでこれを食わせたのかお前」
 食い意地の張った吸血鬼としては聞き流せない話だ。今から件の三人に吐き出せとまでは言わないものの、価値相応に給金を天引きしようと心に決めた彼の問いかけに、いえいえと娘はあっさり首を振った。
「今回はフーカさんだけです。それにお菓子を作ってあげたことは以前もお話ししたでしょう?」
 そうだった。しかし幸いなことに逃げ口は残されているので、彼はこれ幸いとそちらに飛びつく。
「奴らは悪魔として半端、もしくは未熟だ。完全な悪魔として長く生きてきた訳ではないなら、天使に対する抗力も未熟なのだろう」
「……ですけど。あなたの仰る通りでしたら、つまり」
 何も手にしていない白い指が、彼の顔にするりと近付いてくる。急に何をしでかすのかと上半身を捩る彼に、天使はもうと呟き椅子から腰を浮かせ、深く刻まれた胸と胸の隙間まで覗かせて男の口元に触れた。すぐさま離れてしまったが、整った指先には茶色い薄い膜のようなものが付着している。パイくずだ。
「こんなふうにわたくしが触れるだけでも、あなたは痛みか何かを感じてしまう、と言うことになりません?」
 娘は笑って訊ねる。言葉の粗を突く意地悪なものではなく、世話をする誰かに振り回されて苦労しているが、それもまた楽しいと言いたげに。
「……そうか?」
 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
 少なくとも、彼は彼女に触れられることに対して特別な何かを感じはした。ほんの微かでしかないのに、触れられた箇所が熱い。いや、そこではなくて。
 もっとこの娘に触れたい触れられたい欲求が、潮が満ちていくように胸の杭の奥から熱く湧き出る。それは天界の住人たちが悪魔に影響を与える力などではなく、ただ彼女が彼女だからこそだと吸血鬼は理解していた。桃色の豊かに波打つ長髪に、きめ細やかな白い肌。何より尊く輝く薄青い瞳の、初めて出会ったときは人間で、四百年振りに再会を果たしたときはその背に天使の翼を生やしたこの娘が、彼に緩やかな渇欲と、そう呼ぶにしては妙に胸に重い、繊細なものに触れることへの躊躇いに近い怯えを催させる。
「……アルティナ」
「はい? お代わりですか?」
 小さく、鳥の雛がやるように首を傾ける。その仕草にさえ胸は息苦しさを増し、喉奥から何かが溢れかねない。そして触れられた以上は触れたい。どことは限らず、強いて言うなら全身を。
「……いや。その」
 触れたい。触れたい。触れてしまいたい。
 つい声で抱いてしまったことを取り繕おうとする舌はろくに動かず、ただそんな欲求だけが高まっていく。まともなはずの思考が秒単位で侵食されて、ひたすらに娘だけを求めてしまう。腕に抱きたい。唇を重ねたい。その瞳に自分だけを映させたい。自分の名を呼ぶ声を聴きたい。甘い、堪らなく心地良く耳を撫でる声を。
「……いい加減、まともな感想を頂ければよろしいのですけど」
 つと視線が逸らされる。甘いことは甘いが吐息混じりのほろ苦い声に唐突な申し訳なさを覚えて、彼はうっかり奥底の衝動に従いそうになった自分を抑え込む。これで名前を呼ばれでもしたら襲っていたに違いない。執務室で女を組み敷くなど、いつ誰に見られるかわかったものではないと言うのに。
「って違うわ! そんな問題ではない!」
「え? ち、違いました?」
 己の脳内のある意味で脳天気な発想を否定するはずが、長方形のパイを手にしかけた娘を混乱させてしまい、彼は今度こそ慌てて言い訳のために頭を回転させた。誤解から彼女を追い出して、手ずからパイを食べさせてもらえないのは困る。欲情している場合ではない。
「い、いやその、あれはお前に向けて放った言葉ではなくてだな……」
「確かに受け答えにはなっていませんでしたけど、あれはお代わりについて仰っているのだと受け止めるのが一番自然では……」
「だから違うと言っている! ……あれだ、独り言だ。お前は気にせずともよい」
「……はあ」
 この聡い天使相手の言い訳としては、素っ気ない上に強引極まりない。当然娘はあまり納得していない顔をしていたが、少なくともパイを自分が食べさせることについて問題ないと受け止めたのか。穏やかな笑みを宿して、三角形のほうのパイを手に取る。
「では、お代わりは問題ないと受け取ってよろしいのかしら?」
「ああ。問題はない。腹が減っていたのは事実だしな」
 あくまで真っ当な感想を告げないように意識しつつ応じれば、娘は軽く頬を膨らませる。この反応では隙を見て自分がまともな感想を漏らすと思っていたのだろうか。自分に血を飲ませようとする執事とは、また違った意味で油断も隙もない。が、それもまた心躍るのは何故なのか。
「……ようやくイワシの味がわかるくらい味のしないものでも、お腹が膨れれば構いませんの? なんだかおかしな話ですけど」
「この手のイワシとはまた違う脂気のものは食い慣れていない。……ん、ふぁいはい、」
「口の中に食べ物を詰めたまま喋らないで。子どもではないんですから……」
 そんなにふうに呆れながら、子どもに叱る母親のように注意するのも少し矛盾している。頭の中でそう反論しながらも、彼は指摘を受けたまま黙々と咀嚼に集中した。
 こちらも美味には違いないが、彼としては黒胡椒のほうの、あっさりとした辛味がより好ましい。マスタードのまろやかな酸味と辛味も悪くはないが、磯の――つまりは塩気、転じて生のイワシとより馴染み深い味わいの――味が引き立つのは断然にあちらだろう。
 そう言う意味では先程、彼の独り言を気にして彼女がパイを持ち替えたのは幸運だった。この青年、好きなものは最後に食してじっくり堪能する性格であるからして。
「……大体、この手のものは久々に口にする。長らく生のイワシを愛食していれば、味わい慣れぬのも当然だろうが」
「そう言うものですの? ……よくわからない理屈ですけど」
 釈然としない顔をされるのも仕方ない。本人とて、この言い訳は無理があると茶を飲みながらひっそり反省していた。だがまともな感想を言ってやるのは最低でも最後の一つを食べ終わってからだと決めているため、ここは無理にでも意地を張る。
「そう言うものだ。……この際だ。残っていても始末に困る。最後の一つももう寄越せ」
「はいはい……」
 最早ふたりともすっかり慣れた心地で、片方は雛鳥さながら椅子から身を乗り出し大きく口を開け、もう片方は親鳥よろしく掴んだ餌を静かに相手の口へと導く。雛鳥は親鳥の指先にまで触れない程度に餌を咥えると、思いきりそれを噛み千切る。千切ると表現しても、前歯で切れるパイ生地は脆い。お陰でふたりの椅子の隙間の床下は茶色いくずで無残なありさまだったが、翌日になればプリニーどもがきれいに掃除しているだろう。
 そうして今日の彼女の最後の手料理を、吸血鬼は瞼を伏せてまでしっかり味わう。
 それまであまり気にしていなかったが、脂が回った野菜にもオイルサーディンの風味がほのかに移っている。イワシの風味を宿した野菜と言うのも新鮮だし気に入った。これからはオイルサーディン製作係のプリニーには、更に大量に作らせてイワシの旨味を吸った油も調理に使わせるとしようと心に決める。魚嫌いの子どもたちにとっては悪夢でしかないが、そんなこと彼が気にする必要はなかろう。
「もう一口」
「はい」
 最後の一口分もじっくりと堪能しつつ、彼は台所に眠る特製アンチョビの存在を思い出す。
 このパイには全く文句はないが、あちらもいずれ彼女に使って調理してもらいたいところだった。ついでにその際は茶ではなく酒の肴を意識したものを作って欲しい。それをふたりで味わえれば更に満足すること請け合いだが、悲しいことに物事はそこまで上手く運ばないものだと青年も骨身に染みて学んでいる。そのため、願望を口にするのはあっさり諦めて青年は最後の一欠片を喉の奥へと押し流して一言。
「……ん。美味かった」
「はい、お粗末さ……はい?」
 バスケットと椅子を持って退散する気でいたのか。両方に手をやって中腰の姿勢のまま固まった娘に、もう隠しごとはせずに済んだ男は平気な顔で止めを刺す。
「美味かった。……ふむ、強いて言うなら、あれだな。イワシの量を倍にすれば」
「いえ、あの、そうではなくて……!」
 愕然とした表情を張り付けて、彼女は悶えるように首を振る。衝撃が過ぎてそんな仕草でさえぎこちなくなったのか。しみじみと自分は悪いことをしたらしいと思い知らされ、青年は茶を口にしつつ嘆息する。
「……お世辞、にしてもこのタイミングは少しおかしいでしょう」
 動揺を引きずる声に、青年は毅然と首を横に振る。苦しい言い逃れをせずに済んで胸が清々しい辺り、つくづく自分に嘘は向いていないらしい。だからと言ってこの娘に対する全ての想いを吐き出すのは、いまだ多大な勇気と、悪魔としての誇りを一旦よそにやる割り切りの良さが圧倒的に足りていないが。
「世辞でもないし嘘でもない。大体、嘘なら最初から言うわ」
 つまり同情や慰めとして美味いと言ってやるとの意だ。その意図を正しく汲んで、つまり彼の評価が真実であると理解させられ、彼女は水面に顔を覗かせる鯉のようにはくはくと口を開閉する。何もそこまで驚かなくてもいいだろうがと、吸血鬼は自分があまり信頼されていない気分になった。正直な話、面白くない。
「……でも。でしたらどうして、あなた、あんなに感想を避けていたんです!?」
「それは……その」
 これは正直なことを言っていいのか迷う。いや、手ずからに食べさせ続けてもらいたかった点は伏せればいいではないかと気付いて、彼は俯きかけた顔を上げる。それでも少し、いやかなり、これから甘ったれた発言を漏らす自覚はあった。
「……感想さえ聞けばすぐに出て行くとお前が言ったからだろうが! 折角の機会にそんな、……っ」
 勿体無いことを。寂しいことを。無念なことを。
 言葉にしようと思えば思うほど自分が矮小だと知れて、彼は続きを一旦放棄、大きく首を振って自棄気味に吐き捨てる。
「ええい、おめおめと逃がして堪るかっ!」
 そう、逃さないし離さない。
 喧嘩くらいはあるかもしれないし、うっかり傷付けてしまうこともあるかもしれない。傍目からはわからずとも、娘の身体に永遠に消えない傷を付けたい気持ちは恥ずかしながら持ち合わせている。けれどもう四百年前の悲劇は繰り返させないと、吸血鬼は眼前の天使があの人間の娘だと確証を得たとき己に誓ったのだ。
 広義も狭義も含んで言い放った青年に、何を見出したものやら。彼女は暫く惚けていたものの、唐突にぷっと吹き出して、そのままくすくすと顔を隠して笑い始める。笑わせる気もないのに笑われてしまったなど、誇り高き悪魔にとっては恥辱に等しいが、睨みつけるだけで済んだのはこの娘だからこそ。
「……何がおかしい」
「いえいえ、大したことではなくて。その、……ふふっ」
 大したことではないくせに、娘の笑いはなかなか止まない。居心地の悪さも手伝って更に眼光鋭く睨みつけると、ようやく笑いの発作が止まったようだ。目元の涙を拭うと、彼女は妙に幸せそうな、まさしく天使に相応しい笑みを吸血鬼に向ける。
「……わたくしも、あなたと一緒に過ごせて嬉しかったですわ。引き止めてくださってありがとうございます、ヴァルバトーゼさん」
「なっ……!」
 完全に自分の気持ちを把握されて。その上、自分と同じ気持ちだと告げられて。とどめに甘い声で名まで呼ばれて。
 一気に顔を茹で上がらせる彼に、彼女は照れ笑いを浮かべて椅子の背もたれに手をやる。パイもなくなったし、もうこのまま帰るつもりなのだろう。
 まだ頭の中がろくに動かせないけれど、もう少し色々とじゃれたい気持ちを抱えたままの青年は完全に油断しきっていた。天使が帰ってしまうと察し、すぐさま捨てられた小動物めいた視線を無遠慮に彼女に注いで、このまま帰る気でいた娘の後ろ髪をぐいぐい引っ張る。
 しかしそんな顔をしたところで女のほうが切り替えが早いものだ。椅子をもとの場所に戻した彼女は扉ではなく、最後とばかりに書類机の向こうに渡って彼の手に届く範囲にまで近付くと、困ったように微笑みいまだ不貞腐れた口元に張り付いたパイくずを優しく手で払う。唇と白指が掠れる感覚は、予想外にも心地よい。
「……また、お作りしましょうか?」
 今度はアンチョビを使った酒の肴にしてほしいとか。今度はもっとパイに入れるイワシを増やしてほしいとか。今度は黒胡椒だけでいいとか。色々と言いたいことはある。けれど今それらを全て伝えるには少し時間が足りない。
「お前の好きにしろ……」
 だから彼は胸いっぱいの感慨を込めて、低く囁く。要望はある。けれどそれ以上に、この娘が作るものならどんなものだって喜んで食べる自信はあった。
 なのにどうしてだろう。娘は意外そうに目を瞬かせ、あらと意地悪い笑みを口元に滲ませる。場違いにも悪寒がした。何故か。
「でしたらお菓子でも構いません? チョコレートたっぷりの甘いものでも」
「い、いやそれは……!」
 どうしてこの娘が自分の苦手なものを知っているのかと、身構え狼狽える青年に彼女は冗談ですとばかりの軽やかな笑み。
「ふふ、そうですわよね。わかっています。ですから、ちゃんとあなたの食べたいものを仰ってくださいな。次に持ってくるときは、あんなことを言わせないくらい研究してまいりますから」
 食べたいものと言われても空腹は満たされたところだから食欲も薄いし、眼下に咲く花のかんばせが意識を奪ってまともに頭が動かない。そもそも生のイワシを貪り食うのが日常の男に、料理をリクエストしろとはそれなりに難題だ。
 けれどこちらの答えを今か今かと待ち望む煌めく瞳に見惚れてうちに、ふと吸血鬼はとある答えを頭の奥から引っ張り上げた。我ながら糖蜜を煮詰めたような回答だと思う。普段の彼ならこんなこと、思っても決して声にまで出さないはずだ。しかし考えてみれば、それくらいしか今の青年にとって激しく求めるものはない。
 逆上せている自覚はある。しかしこの場なら、この距離なら、この空気なら許される気がして。
 だから彼は、生唾を飲み込んでそれなり勇気も奮い立たせ、どうにか欲しいものを口にする。
「……あ、アルティナ」
「はい? 思いつきました?」
「い、いやそう言う意味ではなくてだな、……その、なんだ。おま……」
「ヴァルバトーゼ閣下ー。よろしいッスかー」
 肝心なことを伝えようとしたときに限ってこれだ。
 人狼の執事に同じような邪魔をされるとついでに天使と口論しかねないのでまだいいとして、この介入に慣れているとは言え一気に気持ちが削げた彼は鼻から深く呼気を抜く。対する娘は青年の落胆ぶりが気にかかっていたようではあるが、それでもこれで休憩時間が終わったと察してバスケットを持ったまま慌てて扉のほうへ向かう。
「では、今度会ったときに聞かせてください。約束ですわよ?」
「……ああ、約束だ」
 しかし去り際、他愛ない約束にうっかり男を夢見心地にさせる要領の良さを見せつけて、娘は扉を開けた。そこには予想通り、新たな書類を持つプリニーが何体も。天使の来訪を知らなかったらしく、それぞれ目をぱちくりと瞬いたり冷や汗を掻いたり申し訳なさそうに黙り込んだりと余計なことを考えている輩の多いこと。
 それはともかくとして、今夜も夜更けまで彼の仕事は終わらないのだろう。そんな過酷な状況でも、娘と交わした約束と、先程までの出来事が青年の気持ちを浮上させる。
「体調には気をつけて、お仕事お励みになってくださいね」
「わかっている」
 こちらは全く気にしていない、プリニーと入れ違いで控えの間、続いて廊下に出て行く桃色の三つ編みを挟んだ小さな白い翼をしみじみとした吐息で見送った青年に、書類を手にした木っ端悪魔たちはやはり居心地が悪そうな。どう考えても数十秒前まで甘い時間が繰り広げられていただろう空間にそんな気もなく入り込めば、彼らどころかどこぞの無遠慮な元中学生とて身じろぐのが道理だ。
 しかし彼とて切り替えくらいはできて当然。相手の姿が見えなくなると、だらしなく緩んだ己の頬を一叩きし、プリニーたちを眼光鋭くねめつけ腹の底から声を張り上げる。
「何をぼさっとしている。お前たちもとっとと己の職務を果たさんか!」
「あ、アイアイサーッス!」
 小休憩は終わったのだ。これから彼女に言われた通り、たっぷり仕事に励んでやるとも。
 そう自分の頭に宣言すると、一喝を受けて動き出すプリニーたちに満足しながら、吸血鬼はこれ以上ないほどやる気をみなぎらせて書斎机に目を落とした。







後書き
 閣下にパイ届けるまでがだらだら続いてしまったので仕方なく二分割して閣下にパイ食ってもらったら結果がっつり甘くなりましたとさー編。
 ちなみに閣下が本能と理性の間をぐらぐらしていた辺りでアルティナちゃんに名前呼ばれてぷっつんして押し倒す展開も途中まで書いてましたが収拾付かなくなったんで没にしました。

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DM20たんが来たよ!

2012/01/12

 ついにうちの初代ポメラDM10たんがキーボード\^-p@hjk辺りの反応ヤバくなったので彼氏にプレゼントとして贈れオラッって言ってたのが最近になってようやく到着。ベッドに寝転びながらだかだか打って堪能しております新型ちゃん。
 ちなみにDM10たんは1ファイルにつき16kbしか入らないキツキツボディでしたがDM20たんは30kbも余裕のユルユルボディなんですよね。…なんかこう書くと昂奮するな…(最悪だ)。
 しかし最近毎回言ってるけどシェイプアップを図りたいのでDM20たんの性能に甘えるのはほどほどにしたいところー。その前に具体的に何を書きたいかはっきり決めてないのに書き始めるせいで中だるみしちゃう癖をどうにかすべきですねうん。あと詰んでるエロゲ崩したい…。

 とりあえず以下お返事です。遅れまして本当申し訳ない…。

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・あの子の巣穴

2012/01/14

 魔界修行に来たほかの天使にとってアルティナちゃんってどうなのかなあとかホームシック的なものあるのかなあとかうたうだ考えてたら長くなった!

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Riding hag

2012/01/28

 魔界の淀んだ空と濁った空気を抜け、人間界の澄んだ空の下に降り立った直後。温かいのに爽やかな風を真っ向から顔に受けて、彼は知らず目を瞑り呼吸を止めた。
 それでも風は風でしかない。敵を切り裂く魔風ほど危なっかしくないし、眠りの鱗粉を撒いたり戦意を恐れへと変貌させることもなく、見事彼の不意を打っただけのただの風は害意など皆無とばかりに通り過ぎていく。
 息を止めたのは瞬きの間。だがその動きをなす瞼は先からのどんよりとした薄暗い空と反する鮮やかな青空と太陽の白光に馴れていないためきつく閉じられたままで、彼は風が通り抜けての更に数秒後、ようやく目元の緊張を解いた。
 吐息をついて、自然吸い込むのは先の他愛ない急襲と同じ薫りの温かく、なのに清水のような甘さと澄明さを含んだ空気。辺りを改めて眺めれば鮮やかな萌葱に瑞々しい深緑や黄緑が光の加減で重なって、その中に転々と白やら黄色やら素朴な色味の野の花が風に揺れている。木陰の多い林の木々だって、照りつける陽光の白さを反射したように明るい色味で心なしか活き活きとざわめく。その奥からは鳥の囀りが長く響き、つがい探しの真っ最中と伺い知れる。もっと注意すれば兎や鹿や栗鼠などの足音も耳にできただろう。
 もうすっかり春だった。
 ここ最近は陽が落ちた頃合いに顔を出すばかりだったから、寒さも和らいだ程度の認識しかなかったが昼間はこんな調子とは。人間界の自然の美しさなんぞ正直なところ興味は薄いが、こんな陽気は悪魔の彼とて悪くない。もっと早くこの時間帯に来るべきだったと内心悔やむが、魔界と人間界は当然ながら同じときを刻まないし、自分がここに何時間の間隔を置いて訪問しているのかも明確に覚えていない彼にとっては詮無きこと。
 それに夜は夜で悪くない。むしろここ最近の自分は夜の訪問を狙っていた節があると思い出すと、誰にともなく後ろめさを覚える。結果どんな時間にも一長一短あるものだから、後悔するほどのものではないと先の自分を白々しく慰めてから歩き出した。
 向かう先は案外すぐ。ここに彼が現れたときから視界の隅にちらちら入っていたその建物は、小ぢんまりとした石煉瓦の、一見するところ玄関を広く開けた古めかしい民家にしか見えない。だが近付けば小さいなりに看板があり、更に近付けばそこに掠れた文字で診療所と書いてあるのがわかるはずだ。
 しかし診療所を直接訪ねるかどうかは曖昧で、むしろ今の時間帯なら入りたくないとさえ思う男は期待と不安を胸中でない交ぜにしながら足を早める。この辺りは大きな湖に面しているためか、それなりに強い風がよく吹いて彼の外套をこまめに弄んできた。
 本当のところこの歩く距離さえも惜しいのであの診療所のすぐ近くで現れればそれが一番いいのだが、患者なり住民なりに現れる瞬間を目撃されてはややこしいことになるので避けている。とは言えそれも自主的な判断ではなく、ある事件から慎重になった診療所の主からのお願いによるものだ。
 それに対して心配するなと一笑に伏せれば良かったのだが、生憎と彼もあの件では随分と肝を冷やした。だから渋々従って、人間界を訪問する際は常に人気のないところから現れるようにしている。それでも近隣の住人や患者の一部からは疑いの視線を浴びもするが、連中はこちらが堂々としておればそれ以上深入りしてこないことは既に学習済みだ。
 以前の自分なら不特定多数の人間に気を配るなんて考えもしなかったと省みれば、口の端に苦い笑みがつい滲んでしまう。いまだこちらに来るときにはひとりでいるが、いつかあちらで待つ僕にこちらの出来事全てを話せばどんな反応を寄越すやら。少なくとも狂ったのかと疑われかねないし、それを否定できそうにないのがどうにも口惜しい。
 ああそうとも狂っている。そうでなければみすぼらしい診療所を訪れるだけで、こうも心が弾むまい。
 ああそうだそうとも。狂っていなければ説明がつくまい。愚かな人間を恐怖によって戒める闇の使者が、人間の生き血を啜るがさだめの吸血鬼が、その人間と昵懇の仲になるなど。
 しかしそれさえも今の彼にはどうでもいい。あれを手放すくらいなら狂ったままで構わないとさえ思いながら、ようやく目と鼻の先の距離にまで詰めた診療所を改めて仰ぎ見る。
 以前と同じく診療所は雨風を凌げる最低限の環境をどうにか維持しているような状態で、相変わらず修復は行われていないらしい。それに見合うだけの金子を与えたはずだが、慎重を要して貯蓄中かそれとも別のことに使ったか。どちらもありうるとため息をついて、まず庭のほうへと足を向ける。
 途中、窓の向こうに好奇の視線らしきものを感じはしたがそれも無視して裏手に回ると、やはりそこにいた。
 ふんわり波打つ桃色の髪に、墨染めの法衣。そうして垣間見る白い肌と、同じ白でもまた色味の違うシーツの海のコントラストは自然界にはない鮮やかさで、春の陽気よりもこちらのほうが彼には余程心に染み入った。だが眺めているだけではとても心は満たされやしない。
「アルティナ」
 水蜜桃が帯びる汁気よりも潤沢な情を込めて、男はその背中に声をかける。呼びかけられた娘は洗濯挟みを掴もうとする手を止め、花のかんばせをこちらに見せてくれると同時にすぐさま微笑んだ。たまらなく華やかに、たまらなく美しく。
「まあ、今日は随分とお早いのね」
 あの湖より目映い青い瞳をこちらに向けられ、話しかけられる甘美感と来たら。『暴君』などと大仰な異名で他の悪魔たちに一目置かれるよりも、こちらのほうが心に響く。
 そんな気持ちを隠しもせずに薄い笑みを含みながら娘のほうへと駆け寄ると、相手も同じように近付いてこようとするものだから慌てて手で制した。
「お前はそこにいろ。転びでもしたらどうする」
「わたくし、そんなにぼうっとしておりません」
 むすっと頬を膨らませる仕草は普段の大人びた娘が作る表情とはまた違い新鮮で幼さく可愛らしいが、脳天気なのはいささか困る。
 呆れ気味に息を吐き出しようやく手に届く範囲にまで近付くと、淡い芍薬色の頬に静かに触れた。手袋越しに伝わる肌のなめらかさに、どうしようもなく胸の奥が疼く。
「……別にお前が胡乱だとは思っていない。お前ひとりの身体ではないのだから、慎重に慎重を重ねろと言っているだけだ」
 娘は相手の手に自分のものを重ねて、そっと男の筋張った手の甲を撫でる。頬に手を添えるのが彼なりの挨拶なら、その手を撫でるのが彼女なりの挨拶だとばかりに。
「慎重に慎重を重ねたら、一つのことにいつもより何倍も時間をかけてまうでしょうに」
「それでも構わん。大体、お前は一人でなんでもかんでも背負いすぎる。あの金で従業員でも雇えばお前の負担も減るだろうが」
「今まで一人でやってきましたもの。このくらいは平気です」
「俺は平気ではない。いいから雇え。金が足りぬと言うなら出す」
「お金の問題ではないの。わたくしがいやだから雇いません」
「雇え」
「いやです」
 意見の衝突に、それぞれ相手に触れていた手を離してからお互い一歩も譲る気なく睨み合う。しかしそれも束の間のこと。
 唐突に空気が強張る沈黙のあと、わざとらしいくらいきつい視線を投げかけてきた娘のほうが耐えきれずぷっと吹き出せば、つられて彼も喉奥を振るわせてしまう。以降ふたりはにらめっこの引き分けめいてくすくすと笑いあうが、何がおかしいのかわからないためどうにかもとの空気を取り戻そうとしかめ面を作ろうと試みた。けれど結局のところ笑いのほうが先にこみ上げて、それからあとは言うまでもない。
 何がおかしいのやら。本人たちも全くわからなかったものの、とにかく無性におかしかったからひとしきり笑い、娘なぞ目尻に涙を浮かべるほど笑いの発作に身を委ね、ようやくそれが治まった頃にああもう、と肩を竦ませた。
「全く。あなたがいらっしゃったせいで、洗濯物が干せないじゃありませんか。さあさあ、少し離れて?」
 咎めるのは言葉ばかり。実際のところは情に満ちた声と表情で距離を開けるよう促され、彼は仕方ないと竿立てに軽く背をもたせかける。これでも妥協したほうだ。
 腕を組み眼前の女をとっぷり眺める姿勢の彼に、眺められる娘はちらちらと視線を送ってくるもその目元には気まずさよりも照れや茶目っ気のほうが幾分多い。それを受け青年もまた口元をにやにやと緩めてしまいながら、世にある何よりも心惹かれるものをしみじみと目で愛でる。
 娘の横顔は美しかった。遠くから見てもそれははっきりわかるのだから、手が届く距離でおれば思考が溶けかねないほど。人形めいて丁寧に造られた顔かたちは無論のことながら、意思の強さと魂の清さを顕す瞳の薄青い光彩はどんな宝石とて及びもつかぬ。その下のなめらかな頬は花の色を滲ませていながら妙に心掻き乱す鮮やかさを持ち、ふっくらとした線を描く鮮やかな唇は触れれば蕩けそうなほど柔らかい。
 あの唇に触れてしまいたい。化粧気もないのに瑞々しい、花弁の潤いを宿すあれに。指でも構いやしないが今度は手袋を通さずに。もしくは唇同士で。
 そんな邪な思考を受けているとはいざ知らず。娘の四肢はてきぱきと動くも、胴体の一部が普段とは勝手が違うためか少し窮屈そうでもある。しかしそれも仕方ない、と彼は野暮ったい法衣の下からでもわかる、膨らんだ腹を感慨深く見やる。
「……無理はするな」
「ふふ、あなたってば最近はそればかり」
「当然だ。腹の子はお前と一蓮托生だからな。お前が無理をすれば自然それも無理を強いられる」
「わかっています。……けれどだからと言って、あなたのご厚意に甘えすぎるのも申し訳ありませんもの」
「甘えればいい。幾らでも」
 男は嘆息とともに断言する。もっと甘えて、もっと頼ってほしいのにそうしてくれない娘への苛立ちを微かに込めて。とっくに自分は娘に甘えて頼った――いや、あけすけに表現するなら溺れたのだ。それもこれ以上ないくらい情熱的に。
 その結果が娘の月日とともに大きくなっていく腹なのだから、こんなときこそ甘えて頼ってもらわなければ立つ瀬がない。細君となる女を守れず、頼ってもらえなくて何が男だとさえ思う。
「……そんな。あなたに甘えるなんて、できませんわ」
 女は笑う。洗濯物を持ったまま、こちらを見ず恥ずかしげに、ほろ苦く。
 生まれたままの姿を晒し、その上で胎に新たな命を宿すほどの深い仲になってもまだそんな態度を取るのかと、男は眉をひそめる。この娘の自立心の高さは基本的に美点だが、それも過ぎれば短所になる。
「遠慮はするな。いずれ妻となるお前の頼みなら何があろうと聞く」
「あら、本当に? 約束できます?」
「当然だ。俺が今までお前と交わした約束を破ったことがあったか?」
 そう告げたとき、何故だろう。彼の中で最も深く穿たれた杭の奥が、僅かなりに痛みと不快感を覚えたのは。
 しかしそれを気のせいだと受け流し、改めて娘に意識を転じた男は、先の胸に覚えたものと似た、嵐を引き連れる空と同じ色の何かを相手からも感じ取る。
 何故だろう。ただ軽く、遠慮がちに俯いているだけの女に何故そんな。
「……まあ、ふふっ」
 笑い声は変わらず可憐で、理由もなく感じてしまった不安を払拭された彼はそこで肩の力をふと抜いて。そのままこちらに顔を向ける娘の笑顔をなんの心構えもなしに見てしまう。あのときの。虚ろな。
「うそつき」
 目尻に苦痛の涙のあとを残し、死に瀕する娘が浮かべた精一杯の笑顔を。



「あ」
 滑る。汗が。
「あ、ああ」
 頭が。響いて。鼓動が。割れる。
「あ。…………あ、は」
 息が、掠れ。ながら。それでも。
「は……あ……」
 ようやく。ようやく、あれが。あの光景があの出来事があの記憶が夢だ幻だあり得ないことだと理解したその瞬間、彼はどうと全身から力が抜ける感覚に浸る。過ぎったのは安堵か悲しみかわからない。ただ酷く、酷く。
「……は、……はは……」
 肩が震える。頭が痛い。いやそんなところだけではない。目も背も膝も腹も何より胸も、気持ち悪くて重たくて全ての血管の裏側に蛞蝓にでも這い回るような不快感に襲われて、知らず自分の体に爪を立てる。呆気なく新鮮な痛みの稲妻が二の腕に走り、冷たい身体のくせにそこだけじわりと熱が帯びる。
「ははっ……」
 けれどそれで。
 ようやく、本当にようやく彼は正気に戻れた。
「……あは。ははははははははははは」
 その上で哄笑する。
 どろり濁った闇の中、あのときのあの光景とはかけ離れた孤独の墨色に包まれて、自分が今どんな状況でどんな顔をしているのかも知らず、ただただ腹の底から衝動に身を委ねて笑う。
「はははははははは。はははははははははは!」
 だっておかしかったのだから。そうとも心底おかしかった。これは笑うしかないだろうと思えるくらい、滑稽で悪趣味であ嗚あ呼酷い本当に酷いこんな夢を見せたのは誰だ殺す殺す尊厳など微塵に叩き潰して恥も外聞もなく惨めたらしくひと思いに殺してほしいと涙ながらに乞われても無視して常に身体が頭が耐えきれる瀬戸際の苦痛を与えて息絶える瞬間まで心を壊させることなくただひたすら神経を削り取っていくように嬲り殺す殺す殺す殺す!
「……は」
 しかしありったけの殺意を漲らせたところで誰かが死にもしない。何より自分の夢を操れるのは今のところ自分だけなのだと理解した背年は、それを最後にぷつり糸が途切れた瞬間のように笑いを止める。
 その上で、まず深く息を吸い込んだ。そんな動作だけで冷静になれるのかは曖昧だ。しかし全身を覆う異常な不快感がようやく寝汗によるものだと認識できる程度に頭は醒めたらしい。傷付いた二の腕にも汗が張りついて沁みたが、先の夢に比べればこんなもの。
 無事なほうの片手を患部に添え、傷の深さを確かめる。案外浅い。暫くすれば血も止まると判断し、改めて彼は周囲に意識を向ける。確認したって胸が痛むだけだが、それでもこちらが彼のどうしようもない現実なのだから。
 周囲は闇。窓も閉じているためか、あの春の陽気と鮮やかさに包まれた人間界とはかけ離れて黒い。爽やかさも陽光の暖かさも含まず、湿った冷気がじっとりと肌にまとわりつく感覚は不快で、動揺を引きずる心にどうしようもない孤立感を与える。
 匂いもまた、瑞々しい草木と澄んだ流水の薫りなんて陰もかたちも含まぬ、常冬の氷雪に覆われた不毛の大地独特の。微かに漂う別種の臭いは自分から放たれるもの。汗の塩気に、血の鉄臭さ。
 手に確かめた自分の身体は今でさえみっともなく震え、感触と違ってどうにも頼りない。そう感じてしまうのは血を吸わないことで減る一方の魔力の衰えがつい昨今身体にも及んだ自覚によるものか。それ以上にもしこんな状態では、奇跡が起きてあのときあの瞬間に舞い戻っても、娘を守れるのかさえ曖昧な。
「……そんな、こと!」
 やり遂げてみせる、か。それとも無意味な仮定でしかない、か?
 血を吐くように張った声の続きは、結局のところ紡がれなかった。
 しかしもし世界のどこかにそんな秘術があるのなら、自分の命と魔力を無に帰してでも行う気はあるけれど、魔力を失う一方の自分にそれが探し出せるかどうか。
 仮定の虚しさはあれ以来何度も味わったのにまたしてもそれに浸る自分にどうしようもない救いのなさを覚え、彼は再び笑う。今度は小さく、力なく。
 その流れで顔を両の手で覆う。思いのほかしっかりとした感覚に、これは現実なのだと不用意に思い知らされてまたしても胸の奥が鋭い痛みを放った。この痛みはあのとき味わったものと相違ない。いまだ癒えぬ傷跡を自ら掻き毟るのは、これで何度目だったろう。
 普段の彼なら自傷に浸る性格ではないのだが、自然思い出してしまえばこうもなる。しかし今宵は一段と痛む。まあ当然だ、あんな夢。
「……夢、か。そうか、夢か」
 舌で単語を転がす。それだけで更にこちらの世界に現実感が増し、掠れた喉の放つものとはまた別種の痛みがどこかに走って、そんな自分を彼は嘲笑った。
 顔から手を放してみると、どうにも自分は上体を起こした体勢でいたらしいと認識する。棺から外を見ればすぐそばに蓋が落ちていた。壊れていないのは不幸中の幸いか。
 けれどこのまま再び横になる気はないから、仕方なく起き上がり蓋を棺に填めてその上に腰を下ろす。室内を眺める体勢を取りながら、実際のところその鮮血色の瞳は具体的なものを一つたりとも捉えていなかった。
 無論、心の目のほうは違う。人工的な闇の向こうを貪るように見つめる姿勢で、男は先の夢を回想してしまう。悪夢としか言いようのない、ひたすらに輝かしくて幸せそうな、だからこそ今の彼にとっては苦痛でしかない幻想を。
 あの夢の自分が覚えた感情の諸々が輝かしくて魅力的な光を放っていただけに、夢から現世にまで伸びる影がいまだしつこく胸の奥に刻まれ消えそうにないのが恨めしい。約束を交わした人間の娘のもとへと訪れることの期待も。法衣をまとった桃色の髪の後ろ姿を目にしたときの悦びも。笑顔を向けられ、頬に触れ、言葉を交わす感慨も。そして何より。
「は、はは……」
 あれが自分との子を、宿すなど。
 酷い夢だ。本当に。世にあるどんな悪夢よりもこれより惨いものは滅多になかろう。自殺の夢のほうが、まだ幾分かましな心地で目覚められる自信があった。
「……夢、だと……」
 もう一度呟いた言葉は、しかし先のとはまた違った意味合い。眠りの最中、暇を持て余した脳が描く荒唐無稽な映像としてではなく、いずれ訪れる未来への望みを指すそれとして。つまりあの夢は、自分の『夢』であったとでも。
「……ふざけるな!」
 激しく頭を振る。その動作により、いまだ濡れた首や頬に自分の髪が張りついたのが鬱陶しい。しかしそれさえも今の彼には気にならない。
 なんて馬鹿げている。愚かしい。そんなはずはないだろうに。
 悲しいことだが、吸血鬼は好色と見なされがちな種族ではある。事実獲物である人間と子を作るものもそれなりに多く、ダンピールなる吸血鬼と人間の合いの子への総称が人間界でさえ広く知られているほど。
 しかし彼は今まで一度たりとも人間の女にそのような感情を抱いたことはないし、抱くべきではないとさえ考えている。人を戒める闇の使者として、彼らには恐怖を与える以上の接触など不要。世界の秩序を自ら乱す真似など、いかに悪徳を礼賛する悪魔であっても言語道断――ああそうだとも。姿を現し血を吸ってやろうと脅しても、まだあの娘は自分を怖がらなかったから接触が長くなっただけのこと。
 しかし結局のところ、あの人間の娘に恐怖を与えることは永久にできなくなった。それを思い返した途端、胸の無骨な杭が軋んで知らずそこに手が伸びる。娘が、彼女が、自分に唯一触れたところだと彼は気付いていたろうか。
「あいつ、は……」
 その上で思い出す。あの楚々として慈悲深く、自然体でありながらどこまでも美しかった女を。
 脳裏にその姿を描くだけで持て余すほどの切なさがこみ上げて、人間に、いやそれ以前に今まで誰に抱いた経験のない、大切にしたいのに忌々しいなんて矛盾した感情が胸の中に芽生えていたのだと言葉以上の説得力で思い知らされる。
 ああいやしかしだからと言って、それは、やはりいけないのではないのか。放蕩に耽る三下ではなく使命に忠実な闇の使者として、自分だけはその境界線を犯すべきではなかろうに。
 それにそうだ、即物に過ぎるのだ。あそこまで輝かしい心身を、悪魔が簡単に穢してはならぬはず。きっとかように都合のよい夢を見た自分のことだ。もしあの娘を衝動のまま手をつけたところで、夢中で貪り尽くしその魂を見る影もなく蹂躙してしまい、嘆く女の背を眺めてようやく我に返り、こんなはずではなかったなどと世迷い事を抜かすに違いない。
 いいやそれ以前に、百歩譲ってあれとそんな関係を結びたい願望がもしも自分にあったとして。
 ならば何故自分はあれから目を離した。あのとき交わした約束を、言葉通り守ってやらなかったのだ。そこまで強い興味を抱いた人間を、どうして。
「……は、はは」
 数多の言い訳よりも覆せない真実として横たわる最大の矛盾が、激痛を伴い男の胸を深く穿つ。もし娘の本来の寿命が尽きるまで沿い遂げたい願っていたとして、いいや願っていたなら尚のこと、その女を守れなかった輩がかような感情を持つ資格などあると思うのかと誰かがせせら笑っているようで。
 その指摘に反論などできるはずもない。しかしあっさりと受け入れられることも異様に難しいから、彼は息を呑み。
「…………アル、ティナ」
 すがる心地でその名を呼んだ途端、――うそつきと。夢で目にしたあの笑顔が、今も脳髄にまで焼きつき消えない臨終間際の娘の笑顔と重なる。眉根を引きつらせてしまいながら、その通りだと喉の奥で笑った。流れのままにまた片手が顔を覆う。隙間から漏れるは悲痛の喘ぎ。
 現実の記憶にある女の心底の優しさと清らかさが、むしろ今の彼には塩として膿が滲んだ生々しい傷に沁みる。
 そうとも、あのときあの娘は自分を罵るべきだった。偉そうに約束などとほざいた吸血鬼に、約束を破った愚かな悪魔として罰を与える正当な理由があった。なのにあれはもう一つの約束さえ反故にして良いと自分の身を気遣い、血を吸わせてやれなくて申し訳ないとさえ謝って。
 どうしてああも気高く無辜の娘が、同じ人間どころか彼らが畏れ何より忌むはずの悪魔へと謝罪せねばならないのか。人の身にあって当然の醜さを一片でも見せてくれれば彼だって深く傷付いたけれど、それはそれとして受け入れたのに。いやむしろ、そうされてしまえばここまで傷が痛むことはなかったのに。
 聖水を注がれて心身を浄化できるのは人間や天使たちであって、悪魔に注がれればそれはこの上ない毒となる。たとえそれを向ける気持ちが心底の善意であっても、効果のほどは変わらない。
 そう言う意味ではまさしく、あの娘は悪魔にとって猛毒だった。その毒に目を留め、惹かれた挙げ句に触れてしまった吸血鬼は今も尚、身を焼くほどの激痛に苛まれる。
 ああしかしその毒はなんと甘美であったことだろう。触れればぬるま湯めいた心地で心のたがを外させ、更に心を委ねればじわりじわりと染み入ってくる感覚さえ気持ちよかった。強固な立場も使命も、その水に洗い清められ忘れてしまいそうになった。
 しかし今。慈悲と称される聖水の源は何かを吐き出すことはない。水脈ごと無惨に枯れ果てて、同じものは二つと世界に現れることはなくなった。その水の甘さに魅了された風変わりな悪魔がひとり、助けられたはずなのに。
 それを再認識しただけなのに、何故だろう。喉が重い。目尻が熱い。全身が何かに押し潰されてしまいそうで、どうしようもなく心細い。誰か、いいやあの娘に、そばにいてほしい。けれどそれは絶対に叶わないとわかっているから、彼はその名を呼ぶしかできない。
「……アルティナ……!」
 だが許してほしいとは言わない。いっそ恨んでほしいくらい。
 そうして怨霊と成り果て自分の眼前に現れてくれるならば、どんな呪いが付き纏おうが喜んで受け入れた。その後いかに我が身が衰弱しようが苦しみの果てに死のうが、またあの娘の存在をそばに感じ取れるならば受け入れるのに。
 けれど現実の、記憶の中で事切れる寸前の娘はいまだ笑ったまま。悲しそうに、なのにどこまでも優しく。自分の命の危機を察することもできず、助けもしなかった吸血鬼を気遣って。
 それが、どれほど男の心を苛むか。
「アルティナ、アルティナ、アルティナアルティナアルティナ……ッ!」
 責めてほしかった。恨んでほしかった。憎んで蔑んで見下してほしかった。
 そうすればあの出会った三日そのものを罠として受け入れられたはずなのに。忌々しい人間の娘との約束のせいで自滅の道を突き進む道化として生きられたはずなのに。それが本来の悪魔と人間の関係だろう。なのにどうして人間に向けるべき優しさを、あの娘は悪魔にも向けたのか。その優しさがどれほど我が身に辛いのかさえわからないのか。なんて恐ろしく、罪深い娘なのだろう。
 ああそう考えればあの娘は間違いなく恐ろしい。かの死神王と幾夜も費やして引き分けに持ち越したほどの吸血鬼に、自責の念を与えて血を断たせるなどどんな悪魔も思いつくまい。むしろ誰かが差し向けた罠であったと知らされれば、どれほど心安らぐことだろう。
 けれど彼は内心理解していた。いくら喚き散らして娘の性根の穢れを願っていようが、自分が心底思い込む気がないからこそ、記憶がそのように改竄されることもないのだと。
 そうとも。今はこうして衝動のまま思っていても、本心は揺らぎない。実際、臨終間際のあの娘に悪魔に馴染み深い対応を取られでもすれば、その瞬間自分の心は粉々に砕け散っただろうと思えばむしろそうであってくれるなと願いたいくらい。
 いや、だからこそ。あのとき心が完全に砕けてしまえば、今こんな苦しみを味わわなくても済んだのだろうと思ってしまうのか。あの娘を唯一無二の存在として記憶の中に留めることなく、飢えの苦しみを知ることなく、踏みにじられた憤りだけを胸に宿し、誇りも使命も何もかもを捨てて血を吸う享楽と木っ端悪魔どもを蹴散らすことのみを生き甲斐とするまことの『暴君』として魔界に君臨したいとでも。
 仮定でしかないのに、頭の奥がかっと怒りで熱せられ、彼は棺の蓋に拳を叩きつける。
「そんな、もの……!」
 何の価値がある。悪魔の肩書きさえも似つかわしくない、ただの浅ましい化け物ではないか。
 おぞましい生き物に成り下がった己を想像すれば、吐き気さえ催しかけて男は忌々しく首を左右に振りかぶる。
 なりたくない、そんなものになど。約束を守っていたい。あの輝かしき思い出を、娘の魂を、世にある誰にも穢されたくない。
 ならば結局。今まで通り記憶の中にある娘の優しさに身を焦がし、罪の意識に苛まれ、交わした約束を守り貫く辛苦の道を往くしかないのか。
 そうとも。見返りがなくても、虚しいと理解していても、娘に出会った何よりの証としてあの約束を守り抜くしか、今の自分が満足できる術はない。――それがあのとき娘を守れなかった自分に下す罰であり。あの娘への弔いだから。
 そう、悪夢の果てで決意をより強固にしたところで、男は記憶の中で力なく笑う女にかけるべき言葉を見出し、震える瞼を伏せる。
「……すまない、アルティナ」
 今更に過ぎる謝罪の言葉にも、記憶の娘は反応を寄越さない。
 生きていれば、遅いと文句を言うのか。そんなの気にしないと能天気に笑っているのか。そんな想像さえ、今は無意味。
 その事実に胸が痛んだが、しかしそれもまた自らに架せられた罰と思えば仕方ない。
 ああそうだ。満たせぬ孤独も癒せぬ苦痛も底無しの飢餓さえも受け入れよう。その苦しみの果てがたとえ無惨な死であっても、ただひとりの女を助けられなかった男には相応の末路だ。
 いつの間にか項垂れていた男は深く息を吐き出すと、静かに目を瞑る。それだけで意識が浮ついて、そのまま眠ってしまえそうなほど疲れていたのかと衰えた我が身に驚いた。
 ――二度と見たくはないけれど、再びあの夢の続きを見たとしても構わない。また現実に舞い戻り、苦しみ後悔することさえも、娘を救えなかった自分への罰なのだから。





後書き
 DLCコンプ特典に過去ティナちゃんお着替えがいつまで経ってもこねーじゃねーかよオラッ! 閣下のせいだろオラッッ!! な気持ちを込めて全力で曇らせましたとさ。
 ネタ元はヒでフォローさせてもらってる某さんの「閣下がアルティナちゃんのお腹が大きくなってく白昼夢とか見ちゃったら悶絶しそう」的呟きで、閣下は悶絶で終わるけど暴君時なら死にたくなるよね! って思って即実行。

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