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出会い

2011/07/06

 あまりいい日ではなかった。
 折角の給料日なのに質屋は何か一悶着あったらしく、ようやくの休憩時間に夕方に辿り着いたときには酷い有様だった。
 この辺りでは珍しい石煉瓦の壁には無数の刃物による傷が残り、窓枠は破壊されて、今は布で覆われている。なめし皮でないとこの時期はまだ寒いだろうに、店主はけちだから色褪せた麻布を重ねていて、風が吹いたら埃っぽくなるだろうと思われた。ちなみに扉は丸ごとない。頑丈そうだったチョコレート色の木のドアの代わりに、やはりこちらも麻袋を加工したような布が掛かっている。急拵えのため仕方ないが、一気に貧乏臭くなった。
 ノックするものがないので彼女はとりあえずごめん下さいと挨拶してから布をかき分けるようにして店内に入ると、それはもう綺麗なものだった。――当然、ものがないと言う意味で。
 どこぞの貴族さえも使ったことがある質屋の証明品として堂々と飾り立てていた宝剣は勿論のこと、領主から授かったらしい鎧に、画家にたんまりと金を渡したのだろうこの店の住人たちがふくふくと描かれた肖像画でさえも額ごとなくなっている。所々棚が壊れているから、やはり強奪に遭ったのだろう。このご時世でこの場所ならば仕方のないことではあるが、同時に憐憫の気持ちも沸き上がる。
 片腕に包帯を巻いた、肖像画ではばら色の顔に立派な巻き髪の鬘を被って、今や赤ら顔に禿げ頭の店主は彼女が声を発した時点で客が誰であるかを理解していたらしい。ふてくされた顔に更なる機嫌の悪さを滲ませて、彼女を睨みつけた。
「あんたか」
「はい。今日はこれをよろしくお願いします」
 いつものように皮袋に入れた指輪を取り出し、目の前でハンカチで拭ってから秤の一方に入れる彼女の何がおかしいのか、店主は引き出しから片眼鏡を取り出すと唐突に鼻で笑う。
「あんたのも持ってかれたさ。どっかの売女にでも渡すんだろうよ」
「そうですか……。仕方ありませんわね」
 強奪者たちがどのような人たちかは知らないが、眺めるばかりでろくにはめないよりは有効な活用方法だ。彼女は自然とそう思って頷いたのだが、その態度の変わらなさが店主にとって癪に障るらしい。布手袋をはめて指輪に傷がないか片眼鏡で確認しながら嘲笑を浮かべる。
「余裕だねえ。ま、宝石なんかあったところで腹の足しにもなりゃしねえからなあ」
 その通り。だから彼女は今日、質に入れると言う名目で指輪を売っている。普段ならば彼女を相手にする際は嫌そうな顔で、口も利こうとしないはずの店主と珍しくも会話しながら。
「物々交換が可能ならば、それに越したことはないのですが……」
「よせや。てめえの懐にあった宝石なんざ、どんな家でも願い下げさ」
 何の病気がうつるかわかりゃしない、と吐き捨てる店主の言葉に、彼女の眉尻が少し下がる。なるべく清潔を心がけているのは自分の身だけではなく、身に付けるものとて同じなのに。
 だがそれを言ったところで納得してもらえないと知っているから、彼女は黙り込む。納得してもらえるほどの信頼とは口から出る感情的な言葉で得られるものではなく、行動と時間の経過と結果によって生まれるものだ。
 指輪をあらゆる角度で眺めた店主はつまらなさそうに息を吐くと、やはりつまらなさそうにペンを取り出し、帳面に数字を書く。ほかに町には質屋がないため交渉の余地もないと知っている彼女ではあるが、書かれた数字の桁に微かに顔を強張らせた。どうやら今月は、随分と節約を要求されるらしい。
 彼女の反応を盗み見て満足したのか。店主は金庫の鍵を取り出しせせら笑う。
「仕方ないのはわかってんだろ。うちは今朝からこのざまだ、金庫は無事だったとは言え、特に懐が痛くてね……」
「ええ、わかっています。――あなたとあなたのご家族に、神の祝福があらんことを」
 粛々と十字を切る彼女の何かが店主の逆鱗に触れたようだ。眉をつり上げ、一枚ずつ数えていたはずの貨幣を客相手に投げつけてくる。驚きはしたものの幸い彼女は腕が反射的に動いて前を庇ったため、物理的な痛みはなかったが。
「とっとと出てけ! てめえなんざに幸運を祈られるほど、うちは落ちぶれちゃいねえ!」
 罵声に少し、ほんの少しだけ心に衝撃を受けてしまい、彼女は屈んで床に散らばる貨幣を手早く拾う。金の台座に紅玉が輝く指輪と同価値とは思えないほど少ない数ではあるけれど、今の彼女に与えられたのはそれだけだから。
 すべてを拾って皮袋に放り込んだ彼女は、膝の埃も払わず失礼しましたと短く告げて店を後にする。苛立ちを抑えきれない顔をした店主は、心底嫌そうな顔でそっぽを向いた。

◇◆◇

 そんな調子で指輪を金に換え、向かった先は雑貨屋だが当然こちらも質屋と似たような、と言うより更につっけんどんに扱われ、先月と同じ金額なのに得られたのは包帯三束と脱脂綿二袋、石鹸一個に消毒液一本。悪意あっての交渉とは言え、これで診療所を一ヶ月持たせろとは手厳しい。
 何日持つかと思いつつ残りの貨幣を数えながら次に向かう先は――否と、彼女はそこで初めて躊躇する。もう陽は沈みかけているから、目的の場所は閉店している可能性もあった。であれば無駄足だ。体力の消耗は控えたいところだし、完全に暗くなる前にもう帰ったほうがいい。
 しかしやはり気になってしまって、彼女は早歩きでそこを目指した。町のはずれと言うよりも森の麓と表現したほうが適切な場所にある、小さな庵の薬局を。
 町のどの店も古い歴史あるそこは、通りにある薬局なんかより安いのによく利くとの評判をどんな世代からも得ているが、店主であり薬剤師でもある老婆の知識が教会とは異なる宗教からのものとされるため堂々と訪れるものは極めて少ない。最近大人しくなってはきたが、自称魔女狩り裁判員どもに暴力でもって適当な証言を引き出されるのは誰だって嫌だ。
 そして魔女狩りを目の上のたんこぶとしながらも黙認し、また通りにある薬局が掲げる十字と同じ教会で医療の教えを受けた自分が訪れるなんて、申し訳なさと無力な自分への憤りがあるけれど、それでも彼女はここに来てしまう。特に最近は、ここの薬でなければならないような患者が多いために。
「……まだ開いてます?」
 店全体が嵐が吹けば飛びそうなほど小さく弱々しい風情だったが、そこに詰まる知識と技術は確かなものだから、彼女は緊張しつつ木皮を何枚も重ねてできた扉をノックする。暫く待っても返答はなかったが、内部の閂が開いた音が響いた。
 失礼しますと短く告げて、店に入れば庵中に濃厚な草の匂いと白い煙が咽るほどに立ちこめていた。咳きこみそうになって何事かと口元を覆う彼女の姿をどうやって見たのか、煙の発生源、店の奥の竈で大釜をかき混ぜ続けていた痩身の老女は、こちらに一瞥もくれないままうふふと甲高い笑いを漏らす。
「また来たのかい。いけない子だね、夜鳴き鳥ちゃん」
「わたくしは小鳥ではありません、ただの看護師です」
 彼女はいつもここに来るとどのように振る舞えばいいのかわからなくて、雑貨店でも質屋でも自らが働く診療所でも見せないほど身構えながら卓の上に小さな貨幣を一枚置いてから訂正を申し出るのだが、老婆は彼女の声を聞きもしない。
「ひとり囀る可愛い鶯。籠で暮らせば良かろうに、あんたは我が身を軽々削る。そうすりゃもっと広く高くへ、飛んでいけると信じてるから。けれどそれはいけないよ」
 腰より高い位置にある大釜を底からかき混ぜるのは重労働のはずなのに、老婆の声は謡うようにして早速彼女を言葉で弄る。だから彼女は老婆が苦手だ。けれど苦手と思うことは老婆の言葉に正しさを見出しているからだと冷静に判断し、異教徒の戯言だと蔑もうとする自分を静める。
「ほそこい腕にゃあ荷物が二つ。重たく昏くも深いそいつら、両方持つのは難しい。なのにあんたは両方見捨てず、丸々抱えて空向かう。……いけないねえ、ただでさえどっちつかずだってのに」
 老婆は愉快そうにも嘲っているようにも、心配しているかにも聞こえる声音で、彼女に現在の自分を突きつける。確かに今の彼女の中では重い荷物に該当するものは多く、恐らく信念である空を目指し進むには苦しい。理解はしている、覚悟もしている。なのに老婆の声は、彼女の根本を一度大きく揺さぶる。原因は明確だ。どっちつかず、の言葉にその胸は素直にざわついた。
 だがそんな言葉をも受け入れようと、差し出された茶漉し付きの巨大な漏斗をしっかり掴んだ彼女は下唇を噛むだけで自分の動揺を抑え込む。この薬局で更に安価に薬を買える方法はただ一つ、こうして老婆の言葉に惑わされながら調薬を手伝うほかにないからだ。
「しかし迷うはあんたの役目。足掻き藻掻くがあんたのさだめ。何もできない凡人の、何も知らない俗人の、徒労こそが徳となる」
 ぶつくさと呟きながらも老婆の動きは淀みない。彼女の持つ漏斗に向かって湯気立つ柄杓の中身を注ぎ、大釜の中の液体で柄杓を満たしの動作を繰り返す。
 熱風と草の匂いが直接顔にかかる彼女にとっては、咳きこまないようにするだけでも歯を食いしばるほど辛い。その上、湯気立つ液体が漏斗にも遠慮なく熱を伝え、更に液体が飛沫となって肌にかかり、支える白い手がたちまち真っ赤に染まる。短い時間の手伝いと知っているはずなのに、彼女は幼い頃に親から皮の鞭でぶたれた思い出が蘇りかけ、我に返れと頭を振るう。それくらい、この手伝いは懲罰めいていた。
「堕ちるよ、堕ちる。あんたは媚びる。甘え驕って後悔するよ。恐れて焦がれて泣いて苦しみ、恥じて恨んで己を呪って誰も彼をも巻き込むさ」
 そこまで彼女が苦労して支える漏斗の下には口の歪んだ素焼きの水瓶が敷かれ、柄杓に張り付く草木と思しき物体が濾されるが、そのエキスをたっぷり吸い込んだ茶褐色の土臭い液体は贔屓目に見ても薬のもとには見えなった。だが老婆の知識と経験は、彼女の印象などものともしない。
 釜の底まで液体を掬い終えたらしい老婆は、彼女に漏斗を退けさせると水瓶を卓の下へと移動するよう手で指示し、今度は木のスプーンを取り出した。
「無知は罪なり、無為が罰なり。あんたの罪は肥えゆこう。知らず知れずにあんたは背負う。贖えぬ、四苦も八苦も何もかも。すべてがすべてあんたのせいだ」
 水瓶の底から何杯かを卓の上のフラスコに入れると、隣にすり鉢を持って来させ、灰にしか見えない粉をすり切り一杯と四分の三、続いて青みがかった石を二、三個、それと他にも油のようなとろみのある液体だの針状の黄色い結晶だの目が追い付かなくなるほどのものを手早くすりこ木で混ぜ合わせる。
 そうして満遍なく混ざったらしい鉢の中身をスプーン一杯、いまだ湯気立つフラスコの中に静かに流し入れると、薄汚く濁った木の汁もどきが一気に無色透明の澄んだ薬へと変化する。いつも老婆の動きを目で追っているはずなのに何がどんな効果を持つのか全く知らない彼女にとって、この光景はまさしく神の御業に近い。
「……皮肉な薬、痛み止めだ」
 いつの間にか手にしていた小さな漏斗を小瓶に差し込み、震える手でフラスコに中身を移すと老婆はものが乱雑に置かれた卓の下から椅子を取り出しそこへ浅く腰かける。
 コルクを探して自ら小瓶に蓋をした彼女は、手伝いと用件が終わったことに長く深い安堵の息を吐きつつ、手のひらに収まるそれを握りしめた。いまだ小瓶の中は仄かに暖かかったが彼女の火傷しかけた両手に比べて冷たいくらいだ。
「ありがとうございます。使ったらまた、お返しに参りますね」
「使ったあんたは枝切れでさえつかめんよ」
 虚ろな目で失礼なことを言われたが、彼女は深々と頭を下げてからいつものように神に向かって老婆の幸運を祈った。異教徒同士であっても助けてくれたのだから、それくらいはしても構わないはずだ。
 そうして顔と手と心を多少苦痛に晒して入手した薬を包帯と脱脂綿で包んで持つと、彼女は老婆の店から出てその冷たい風に首を竦める。
 黒々とした木々の向こうに覗く空は既に一面薄い青を纏った墨色に染め上げられており、とどめとばかりに冴え渡る白い満月が彼女を睥睨していた。それらの光景を目にすると、陽が沈んでどれほど経ったのかなんてことを考える前に、彼女は急ぎ町の中へと走り出す。
 しかし運が悪かった。場所柄水はけが悪いから今朝降った雨はぬかるみとなって彼女の足を時折引っ張るし、秋から冬へと入れ替わる季節の風は冷たくも激しく残酷に彼女を襲って足の速度は途端に鈍る。一部の乾いたところからの土埃も遠慮なく舞うため目潰しを喰らった彼女は、やむを得ず舗装された道ではなく、町の外周沿いに林を突っ切ることにした。東の森側にある老婆の庵から西の湖側にある診療所を目指すのだから、自然と遠回りになってしまうがそれも已む無し。
 地面は堅く障害物が少なく、視界が確保されている道を移動するほうが安全で楽ではあるが、風避けはないし舗装と言っても石畳が敷かれている訳ではないから今の彼女にあまり意味はない。むしろ悪所を歩く方が、危険に対する心構えが違うと言うもの。事実彼女は歩くことに全神経を傾けていたため、小走りで通りを突っ切ろうとするときよりも足はさくさくと進んだ。
 暗い夜道のただ中にあっても、彼女の姿勢は変わらない。両手に大切な荷物を携えながら、頭の中で淡々と診療所に着いて以降と明日のスケジュールを組み立てる。その中で睡眠時間と自由時間が普段よりも少ないのは、庵の老婆の言葉がいまだ彼女の脳裏に響いているからだ。どっちつかず、半端者。あらゆる意味でその通りだからこそ、否定できない。
 すぐにお説教に影響される自分に子どもっぽさを感じながら、それでも彼女はそうあろうと自分を励ます。怪我人は増える一方で手際だって自信はないけれど、だからと言って努力を怠る理由にならない。妥協を許す言い訳は必要ない。
 己を奮い立たせて顔を上げると、湖のほとりに篝火が見えた。今夜もまた吸血鬼狩りをするらしい。山も越えない距離で人と人との争いが繰り広げられているのに、元気なものだ。しかしその元気さは自分も見習わねばなるまいと、無理くり前向きに解釈し勇気を貰った気分になったところで彼女は違和感を抱く。視界の隅に何かがちらついた。火ではない、むしろ黒い影のようなものが――。
 目の錯覚かと頭を緩く振ってみたが、逆に違和感は強くなる。ちらつく影が増えて、きききと甲高い鳴き声を発した。
 どうやら蝙蝠らしい。屍肉を漁る烏はよく見るが、この辺りで蝙蝠は珍しいかもしれない。それとも巣の近くまで自分がずれてしまったのだろうか。獣道とは言え普段使うところを歩いたつもりなのに。
 見える位置に町があるとは言え、林で迷子はまずいと思った彼女は、足下への神経も配りつつ前をちらちら向いて足を早める。生憎と診療所の玄関を照らす蝋燭はもう切れた。だから近い民家の灯りを探すしかないのだが、木が遮ってよく見えない。
 葉ずれの音が彼女の背後を襲うように通り抜け、身構えるも背後からの強い風はない。あるにはあるが、この季節には珍しく生暖かい、そして何より嗅ぎ覚えのある血の、匂いを纏っていて。
 彼女の脳裏に鮮やかに浮かんだのは、先日診療所のそばで倒れていた患者の血塗れのシャツ。ここ数年で血塗れの人は多く診てきたつもりだが、あそこまでのものは初めてだった。よく洗ったつもりだけれどまだ染みが残っていて難儀した。いやいやそれよりその前に、あれを長く洗っていたからシーツやベッドカバーと一緒に乾かせなくて、夕方町へ買い物に出ていく前でも湿ったままだったはずだ。
 まずい。まだ干していたら患者に着せられない。逆に体力を奪いかねない。
 焦った彼女は大股気味に歩き出す。走り出したくて仕方なかったが、そうして転んでしまえば今までの道のりが無駄になる。だからはやる気持ちを落ち着かせ、黙々と歩いていくのだがなかなかどうして診療所らしい場所は遠いままである。当たり前だ。気持ちが急いた程度で距離も縮まるはずがない。
「おい」
 夜の木陰の更なる暗がりから、知らない人の声を聞く。今話しかけられても困るが、性分から彼女は声がしたほうを振り返る。だが誰もいない。幻聴か。それにしたって、はっきりと耳に響いた。苛立つくらい人の声だと思ったのに。
 そうしてまた歩き出す彼女の前に、再びちらつく影がまた一つ。蝙蝠の巣が最近できたのか。あれは何を食べたろう。小虫かそれとも木の実か。後者ならこちらもご相伴に預かりたい。鳥も山鼠も美味しい果実ばかり狙うと聞いたことがあるから、両方の特性を持つ蝙蝠の食べる木の実があればきっと人でも食べれるはずだ。
 そんなことをつらつら考える彼女を囲う蝙蝠は時間の経過と共に数を増して、ようよう彼女は気付いた。自分が彼らの巣に巣のそばへと移動しているのではなく、彼らが自分に近付いていると言うことに。
 原因はわからない。あるとすれば最後に立ち寄った老婆の庵だろう。熱していた葉は蝙蝠の好む匂いがするのだろうかと袖口の匂いを嗅ぐも自分の体臭しかしなかった。いや、背中や髪に匂いが付着しているのかもしれない。
 とにかく蝙蝠の好む匂いがどんなものかは知らないが、患者たちに不快な思いをさせてならない。今夜は体だけでなく頭も洗おうと心に決める彼女の眼に、人の顔が見えた。人気のない、ないからこそ彼女が足を踏み入れた暗がりの林に。
 誰だろう、と彼女がその顔を認識しようとした途端、周囲の蝙蝠たちが暴れ始める。鳴き声は一際大きく響き渡り、両手が塞がっているのに耳が痛くて彼女は肩を竦めた。そうして気付く、これらは喜んでいると言うことに。ならばその人が飼っているのか。どうやって。そもそも懐くのか。芸をするのか。疑問は絶えないがそれより先に。
 人はまるで木陰と一体であったかのように、何の気配も音もなく、彼女の真ん前に現れる。ぬるりと一歩黒い誰かが彼女のほうに進み出ると、それだけで蝙蝠どもは喜び勇んでその人の懐の中へと飛び込んだ。人影に触れた瞬間から蝙蝠たちの鳴き声も羽音も薄くなり、蝙蝠が一匹たりともいなくなると今度は無音の世界になる。そうして蝙蝠を孕んだ人物は僅かに顔を上げ、その青白い、今もまだ総てを見下す月と同じ肌に、夜の木陰よりも夜に見る血よりも更に黒く濡れた髪を彼女に見せる。
 立派な青年だった。黒く重厚な外套から覗く身なりもだが、その整った容姿もまた月光のような静謐さを感じさせる、貴族めいた雰囲気を持つ長身の男性がそこにいた。この辺りでは珍しい黒髪は前さえ片目を隠せるほど伸びているが、不潔な印象はなくむしろこのひとの纏う空気とその白い肌をより強調している。もう片方の射抜くように鋭い瞳は、丁度今日手放した鳩の血色の紅玉と同じで、そこに懐かしさを感じかけた彼女は駄目だと目をそらす。
 だが初対面で明らかに目を反らすのは失礼だろうと悟った彼女は己の行動を叱ってから、改めて男性を見上げる。一目見たときの印象は変わらないが、冷静に見ると超然と佇む男性からどこかしら体調が悪そうな、言い換えると退廃的な湿っぽい空気を感じ取って職業柄彼女は一気に不安になった。
「あのう……」
 どこかお体でも悪いんですかと訊ねかけたが、男性の表情はぴくりとも動かない。ならば体調が悪いわけではないのか。しかし他の用件となれば何だろう。こんな夜中に貴族の年若い男性が自分に話しかける理由があるとするならば――と彼女は頭を巡らせ、ありきたりな考えを浮かべる。つまりは夜の散歩中に道に迷ったとか、お付きとはぐれたとか。そう言えば最近は趣味の悪い、暇を持て余した御曹司が戦地に残る屍を見に来るなんて噂を聞いたことがある気がする。眼前の人物は、失礼な話だが確かにそんな趣味を持っていてもおかしくなさそうだった。
「すみません。急いでいるので何かお困りのようでしたらあちらの、篝火を焚いている方々に聞いてください」
 いまだ炯々と輝く松明を手にする人々を指し示す彼女を、貴族の男性は何故か怪訝そうに見ていたが何の反応もないので見られた側はどうしようもない。とりあえず彼女は頭を下げて男性の横を通り抜け、診療所を目指す。途端に目潰しを喰らったときのような風が顔に吹きつけてきて思わず目を細めるが、それでも足は止まらない。
 だがもしこのとき彼女が振り返りあの男性が化生のものだと気付いたら。あのとき怯えた顔を一瞬でも見せたら。少なくとも先のような平凡な言葉を投げかけなければ。
 『暴君』と呼ばれた吸血鬼の四百年以上に渡る乾きは、そして彼の築く覇道と絆の物語は、始まりさえもしなかった。

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約束

2011/07/06

 シャツを取り込んだ上で診療所に帰った彼女を待ち受けていたのは腹を空かせ暴徒と化した患者たちではなく、質屋に対して行ったような略奪にやって来た荒くれどもでもなく、温かいスープの香気だった。
「……お、……り」
「はい、ただいま帰りました」
 彼女の荒れ放題の髪をざっと手で梳いてくれる金髪の女性もまた患者には違いないが、比較的自由に動けるためこうして炊事を手伝ってくれることも多い。客から子どもを貰った上に、別の客から喉を傷付けられた元娼婦にとって邪魔なものがあるとするならぱんぱんに膨れた腹くらいなものだろう。それでもここで本格的に働いてくれるならば、子どもが邪魔になることはないと彼女は思う。
「夕食を作ってくれたのですね。ありがとうございます」
 礼を言われた女性は気にしないで、と仕草で示す。けれど一人まだだよ、と指を一本立てて、その夕食を取っていない誰かがいる部屋を指した。それは予想していたから、苦笑を浮かべた彼女は荷物を下げるとまずは竈に立ち寄った。
 自分の分の玉葱のスープに硬いパンを浸して手早く食事を終えると、残り一人分の夕食を持って病室に向かう。できれば患者が先のほうが良かっただろうけど、急いで走ってきてしまったために体力の消耗が考えられた。食事を抜く日も少なくないが、買出しに出て走ったりもした上に患者と意地を張り合うとなると毅然とした態度は取りにくい。
 問題の患者がいる病室はもとは一人部屋だが、今は五人が詰めている。他の患者は空腹が満たされたため寝ていたり同室でできた友人と低い声で思い出話に花を咲かせたりしているが、窓際の特に包帯だらけの男は窓の外を見たままぴくりとも動かなかった。けれどそれは普段と変わらないから、彼女は簡易ベッドの隙間を縫うようにして件の患者のそばまで行くと、スプーンを突っ込んだスープ皿とパンを彼の視界に納めようとする。
「食べてください」
 返事はない。いつものことだ。だから同室の患者たちも、さして彼女の声を気にしない。気にはしないが薄い反応は浮かべる。雑談の声があからさまに低くなった。
「食べてください。あなたの分です」
 けれど彼女は全く気にせず、むしろ声を張り気味に繰り返す。自分の行いの正しさを周囲に知らしめるため、と表現してはやや傲慢か。だが彼女の職務上でも人としても、眼前の自ら命を絶とうとす人を見過ごすわけにはいかないので批難される謂れはない。
 彼女の揺らぎない態度に、食べない患者は逆に揺らいだらしい。思い出したように欠伸をして、何でもないように声を出す。
「……誰か別の」
「これはあなたの分ですから、他の方には渡せません」
 言い放つと、背後から誰かがふざけた声を上げる。
「俺、ちょうど腹減ってたんだよ。くれな……」
「駄目です」
 相手が言い切る前に彼女は振り向きそちらをきつめに睨み付けると、患者の一人が痛そうに頭の上から毛布をひっ被る。退屈しのぎにからかわれているだけと知っているけれど、この手の冗談を彼女は好まない。
 向き直った彼女はもう一度、窓際の患者に同じ言葉を繰り返す。軍人が部下に命令するように、なるべく威圧感を含ませた態度を取ろうと試みながら。
「食べてください」
「いいよ。眠い」
 眉をしかめて患者は身じろぐが、ならばどうして窓の外を眺めてばかりで目を瞑ろうとしなかったのか。頑固な患者に腹立たしくなった彼女は彼の寝床の足元に座り込む。
 二人の押し問答を眺めていた野次馬どもが微かにざわめき、好奇の視線がより強くなったが彼女は全く気に留めず、こちらは逆に動揺を示した窓辺の患者にもう一度告げた。
「食べてください。でないとわたくしはここから一歩も動きませんからね」
 彼女は心底本気で言ったのだが、同室の患者たちはからかう気満々で、口笛まで吹いて冷やかしてくる。
「そのまま寝るならこっちで頼むぜ」
「いやいや、俺んとこのが温かい」
「もう一人混ぜてくれよ。四人でひっつきゃ薪もいらねえ」
 下卑た野次など耳に入れず、彼女は目を泳がせる男性にひたすら視線を送る。本来ならば軍服の似合う凛々しい金髪の美丈夫だろうに、頬がこけ目の下に深い隈を刻み、陰りが消えないその表情は弱々しく、物乞いのように惨めで頼りない。
「食べて」
 戦いの最中に何があってこの男性がそうなってしまったのかを彼女は知らないが、彼を憐れむ気持ちは紛れもない。しかし同時に怒りもしていた。あれだけ助けて苦しいとうわ言を漏らしていた人が、目が覚めたらこんなふうに消極的に命を絶とうとするのだから。
「食べなさい」
 男性を救うのにかかった金の問題や看病に費やした時間なぞ、今に始まったことではないから気にしていない。だが彼に包帯を使いきってしまったせいで別の患者が不自由したことは覚えているし、彼が今使っているベッドがもとはあどけない少年兵が死にたくないと泣き喚きながら臨終を迎えたところなのもしっかりと記憶に残っている。
 つまり冒涜しているのだ、この男性は。自分が誰かの犠牲の上で成り立っているとも知らず、体は生きていたいし本心もそれを求めていたくせに、今はこうして生きたくないとやせ我慢を抜かす。腹立たしくて仕方なかった。
「食べないならわたくしが無理にでも食べさせましょうか? もうスープは冷めてしまったから、火傷はしないはずですし。鼻を塞げば口を開けるしかありませんわよね……!」
 彼女がベッドの上で膝立ちになりスープ皿とパンをそれぞれ持って男性に覆い被さろうとすると、野次馬も含めた室内の全員がぎょっと目を剥いた。
「それはまずいって、おい!」
「いや、そんなこと……しなくても!」
 窓際の男性は慌てて首を振り、背後にいた野次馬どもも身を乗り出して彼女を止めさせようとする。しかし、その必要はない。彼女は勝利の笑みを浮かべると、すぐさま彼のベッドから下り質素な夕食を彼に差し出した。
「なら食べてくれますね?」
「ああ……わかったよ。食べます」
 降参した男性はことさらゆっくりした動きで質素な夕食を彼女の手から受け取ると、十字を切って食事を始める。
 この男性に限って言えば完食し終えるまで見るのが日課になりつつある彼女は、その丁寧な仕草に急激に頭の熱が下がって申し訳なさを覚えてしまう。彼は恐らく良家の子息で、だと言うのにこんなところまで来て戦争に巻き込まれ、貧相な診療所ですし詰めになって味の薄いスープを食しながらどうにか傷を癒している。虚しくて生きる気力がなくなるのも、当たり前だろう。
「……明日は少し奮発して、チーズも付けましょうか」
 気安い励ましの言葉をかけるのは難しいから、彼女は今できる精一杯の贅沢を呼びかける。急にそんなことを言われた男性は不思議そうな顔をしていたが、同室の患者たちへの効果は抜群だった。
「ほんとか!」
「おいおい……いいのか、祝日じゃないだろ?」
「ええ、今月はほんの少しだけ黒字になりましたから。たまには贅沢しないと、皆さんも傷を治す気になれないでしょう?」
 彼女もまた明るく患者たちに言って聞かせるが、男性の表情は変わらない。まあチーズ程度だ。商家では食卓に毎日上がって当然の、しかしここでは一切れでさえ見ない食品だから、芳しい反応が得られないのは当然か。
「……黒字なんて、出ているのか? ここは、こんな……」
 彼女が内心肩を落としたのちに窓際の患者から聞こえてきたのはか細いながらに疑わしげな言葉で、気遣われた彼女は悪戯っぽく笑って胸を張る。
「ええ、貧乏ですけれどね。わたくしは金庫番も兼ねてますもの、お金のやりくりくらいはお手のものです」
 嘘がさらりと彼女の口をついて出る。本当は赤字も大赤字だ。幸いよそに借金を作っていないが、私財はもう残り少ない。この調子で赤字が続けば、最悪来年は彼女の純潔も金に換えねばなるまい。尤も、近隣の住民で金を払ってまでこの痩躯を抱きたがる者などいないと知ってはいるが。
 男性は彼女の返答を受けて何事か考えていたらしいが、思い出したようにスプーンを持つ手を動かして、具など見えもしないスープを啜る。その唇が、能天気な連中に聞こえないよう薄く動く。
「……そうは見えない。君、無理をしていませんか」
 男性にあっさりと嘘を見破られてしまった彼女は、自分の演技力に少し自信を失って軽く瞼を伏せた。
「かもしれませんが、余計な心配はして頂かなくて結構ですわ。大体あなたもお金は持っていませんでしょう?」
 彼女の問いに男性は苦みが走った顔をするが、目はいまだ彼女に無理をするなと告げている。つい最近意識が戻った怪我人に、無理をするななんて看護師である彼女としては言われたくないが。
「他人の台所事情よりも、今は自分の怪我を治すことだけに専念してください……ね?」
 笑って彼女が発した台詞はどんな患者にもよく利く殺し文句と言えるもので、窓際の男性も例に漏れず、ぐ、と詰まった声を漏らして決まり悪そうに視線を揺らす。それに彼女がくすくす笑うと、スープ皿とスプーンがつっけんどんに返された。
 中を見れば見事に一滴残らず消えており、男性の胴体を覆う包帯やシーツにはパン屑一つもこぼした跡もない。やはり本当は空腹だったようだ。
「お粗末様でした。それでは皆さん、お休みなさい」
 だが男性のやせ我慢を咎めもせずに――散々咎めたから今言ってしまえばほとんど嫌味になりかねない――、彼女は笑顔を見せるだけで窓辺の患者と後ろの患者たちに別れの挨拶をする。それぞれ声なり仕草なりで反応を寄越した彼らの一番最後に、件の彼がこちらに小さく会釈した、ような気がした。
 挨拶めいたものではなく、心の底から安堵の笑みを浮かべた彼女は退室してからまた一度丁寧に会釈をすると、ついでとばかりに他の病室を見回る。結果的にはどこも普段の夕食後に見る光景ばかりで、今のところ異常はなかった。
 今夜は珍しく全体的に静かな日だからこのまま無事に一日を終えればよいが、油断は禁物だ。寝る前の見回りも欠かすまいと己に言い聞かせ、最後に自分の部屋に戻ると、蝋燭を点して繕いものを再開する。この診療所にいる患者の多くは兵隊だから、彼らの制服は彼らの私財でもある。ここに訪れたときのままにしておくのは勿体無いから、開いた穴なり染み着いた血痕なりは彼女の手でどうにかする。
 結局芯まで冷たくなってしまった窓際の男性のシャツは、他の患者のものより生地が分厚く仕立ても頑丈で、それだけ彼が高い地位にいる人物であることを示していた。しかしそれより問題は、シャツの袖口に着いた刺繍の柄。簡素なマークだから見逃してしまいがちだが、角度を変えれば国旗に見える。この国の、ではない――他国、どころか隣国のものだ。自分が生まれる前から今に続くほどの時間をかけて、小競り合いを続けている相手の国の。
 これに気付いてしまった彼女は、繕い続ける手の動きを止めて天井を仰ぐ。窓際の男性に訛りはなかった。寝言はどうだったかは忘れたが、会話自体は完璧にこの国の言葉でやり取りができており、子にきちんとした躾を施す家で育ち、配給される制服もまた立派なものとなれば彼の立場は自ずと推測できる。彼女は軍隊に詳しくないけれど、常識で考えれば敵国の言葉をわざわざ学ぶ立場は限られていると思われるから、その推測は正しいはずだ。
 だが彼女は深呼吸を一つするだけで頭を冷やすと作業を再開する。正直に言えば困惑したが、敵国の人を今まで看たことがない訳ではない。後々になって言葉が全く通じなかったり聞き取りづらかったりで、あの人はあっちの人かと気付かされたことは度々あった。お互い怪我をしているときでも喧嘩をしようとする人たち以外は、敵国だの中立国だの自国だのはどうでもよろしい。だからまあ彼が隣国の人間であっても気にしていないのだが、それにしたってと強い疑問も抱く。
 こんな軍服まで用意して貰える立場にある敵国の地位ある人物が何故、ああも傷付いていたのか。そんな人は普通なら、捕虜になってもそれなり丁重に扱わないと交渉の際、有利に事が運べないと聞いた。宣戦布告を伝えてくる使者を物言わぬ姿で帰せば、敵国だけでなく周辺国からの印象も悪くなるのと同じ理屈だ。
 もしあそこの戦いで窓際の男性が指揮官をしていた中隊が敵に捕まったとしたら。彼は真っ先に狙われて、討ち取られていてもおかしくないはずなのに今も生きている。命からがら逃げ出した、ようには見えない。彼の体にある無数の傷は急所を外していた。むしろあれはいたぶるような、一思いに殺すのではなく、相手をより強く長く苦しめ痛めつけ後悔させる目的があるようで。
 合点がいった彼女は知らず、眉根を寄せる。拷問なんてものは昔のお伽噺や魔女狩り最盛期のもので、今はとっくに消え去った悪しき文明だと思っていた。成る程、今の時代は戦争で拷問をするのかと奇妙な感心を抱いたりもする。感心と言っても、それを持ち出す者たちへの怒りと、懇々と説教をしたい気持ちは消えないが。
 だがそんな気持ちが強くなったところで今は意味はない。何より憤りは腹が減る。彼女はむかつきを落ち着けるため、一旦針を手放し祈りの姿勢を取って心の平静を取り戻す。神への信仰を示すためではなく冷静になるために祈るなんて、神父が聞けば閉口するかもしれないが彼女はそれを懺悔する気は一生ない。
 間もなく落ち着いた彼女は目下のところ、この穴と傷だらけのシャツをどうにかしなければならないと頭を切り替え、針と袖を持つ。穴の埋め方は思いつかないが、まずは切れたところを繕うべく、彼女は分厚いシャツに針を通した。

◇◆◇

 朝食は一人分減った。
 朝から重労働を強いられた彼女は、配膳を終えると――窓際の患者は昨日の会話が利いたのか、今回は大人しく食べてくれた――、墓穴を掘りに麻袋を入れた猫車を引き、故人と特に仲が良かった怪我人と共に墓場に向かう。
 墓場と言っても空き地に過ぎない。もとは教会があった場所だが、彼女が幼い頃に敵軍が火を点けたのでそのまま取り潰しもせず、残っているのは一部の瓦礫だけ。修復もされない上に雑草も伸び放題の荒れきったその光景は痛ましいし、だからこそ血の気の多い連中は敵のこの行為に怒りを覚えて志願する。事実、彼女と共に歩いていた一兵卒は到着した途端、深い悲しみの中に怒りを入り混ぜて、自分の包帯が巻かれた腹をさすっていた。誰がどう見ても、仇を取る気に満ち溢れている。よく考えたものだと言うべきか、それとも考えなしの無責任な演出と言うべきか。
 どちらにせよ彼女にとってもあまりいい場所ではないのだが、他に教会の加護を受けた墓場を知らないのでここに来るしかできずにいた。しかしもとから墓地だった場所は覚えているし、有料墓地は遠すぎる。診療所にも近いここに埋葬するのは悪い選択ではないはずだと、彼女はここに来るたび自分にそれらを言い聞かせる。
 二人で小一時間ほど時間をかけて穴を掘り、作った穴に麻袋を入れてから土を被せる。生きている患者のほうも眼前で命が失われていくありさまを何度か見たはずだから涙を流しはしなかったが、彼女もまた泣かなかった。ここは泣くべきところではないと重々承知しているからなんて言い訳が頭の隅に浮かんでくるが、多分、本当はもう慣れてしまったのだろう。あまり、慣れるべきではないことなのに。
「……ごめんな」
「え?」
 土を被せ終え、二人で天の国に旅立った人物へ祈りを捧げていたそのとき。腹と頭に包帯を巻いた患者にぽつりと告げられて、彼女はそちらに首をやる。思いつめたその横顔は、彼女のほうを見もしない。
「おれのわがままで、こんな長いこと外にいさせてさ。寒かったら、先に帰ってくれよ」
 震えた声は気遣いなど全く感じられず、むしろそんなことはないと告げればいいから帰れと拒絶されんばかりに刺々しい。ここに来るまでの間、自分の軽く沈んだ程度でしかない表情に苛立ちを覚えたのだろうと察した彼女は、一礼するとその通り先に立ち上がった。
「わかりました。……あなたも、無理をなさらないようにしてくださいね」
 怪我人なのに墓穴を小一時間も掘る時点で無理をしているのだが、そこはあえて触れずに彼女は元教会の墓地から足早に立ち去る。背中に視線は感じなかった。ただ微かに、だろうなと吐き捨てるかの如き声が聞こえてきて、あの患者の思考を裏付ける。
 冷たい女と思われているのだろう。感覚が麻痺した女だと見下しているのだろう。自分たちを助けた理由は善意や慈愛からではなく、自己満足によるものだと蔑んでいるのだろう。それらを完全に否定できない彼女は、否定できないと気付いた自分に何よりも悲しくなる。何度も何度も経験したのに、まだそんなことを引きずっている。
 目尻に涙が溜まってきて、そんな自分がますます疎ましい。その通り、図星を指されて動揺するほうが、死者を悼むより遥かに泣けてくる。誰かにどれほど尽くしたところで、結局自分は自分のことでしか感情を乱せないのだと思い知る。苦労の対価を強がって諦めているくせに、やはり心のどこかで欲している。誰かに優しい言葉をかけてほしいと、誰かに支えてもらいたいと貪欲に思って願って嗚咽となる。
 普段は我慢できたはずなのに、今日はどうにも疲れていたらしい。それとも彼女の涙腺が反応する規定量に、胸の痛みが達してしまったのか。彼女は本格的に泣く前に林に逃げ込むと、屈みこんでから顔を両手で覆い、泣き喚きたい気持ちをほぼ反射的に抑えて喉から声を絞り出す。つっかえる思いと口の端に上る言葉は切れ切れで、自分の感情を誰にともなく吐露することさえ今の彼女に多大な勇気を必要とさせる。卑屈になったものだと冷静な頭のどこかがため息をついた。以前はもっと、あらゆる意味で感情的だったのに。
 しかし以前も今も、自分の言動の根底に流れているのは自己犠牲の精神ではなく、自己満足の精神であると彼女の冷静な部分は指摘する。否定も肯定もできやしなかった。それだけで、老婆のどっちつかずと嘲笑う声が耳元に蘇る。――本当に、そればかりは否定できなかった。
 感情を一しきり発露させた彼女は、鼻をぐずぐず言わせながらも立ち上がり、林の奥から湖のほうへと足を運ぶ。鼻と目元が腫れぼったく、指で触っているだけでも熱いほどだったから、このまま診療所に戻る気はしなかった。
 湖の水は清浄だった。近くであれだけの血が流れているのに、眼前の人々が飢え苦しんでいるのに、湖畔とその向こうに見える城は美しく、その誰をも穢さぬ堂々たる姿が今の彼女をますます惨めにさせる。自然や建築物に気後れを感じるのは一過性のものだと己を慰める言葉も浮かぶが、本当に慰められるはずがない。
 とにかく彼女は懐から取り出したハンカチで水にそっと触れ、火照った瞼と鼻に軽く押し当てる。彼女の喉からほうと、ようやく嗚咽以外の声が漏れた。今はただ何も考えず、冷たくて気持ちの良い感覚に身を委ねる。そうすれば、自然と心の奥から吐き出した膿と血が流れ出て、ハンカチを放すときにはもう傷口の生々しい痛みは過ぎ去っていくように思われたから。
 すべてが落ち着きを取り戻し、ようやく診療所に戻ろうと立ち上がり踵を返したその瞬間、眼前に黒ずくめの誰かの姿があって彼女は軽く目を見開いた。何の物音もせず背後にいたものだから不意を取られてしまい、ああと裏返る声まで出る。
「どうか、されました?」
 鼻声になっていないか気になりながら誰かに焦点を合わせると、その人物は昨晩帰宅途中に見た青年であった。昨日と同じく貴族めいた服装で、僅かに憮然とした表情もそのままに彼女をねめつけてくる。しかしそんな目で見られても、彼女には何の心当たりもないから首を傾げることしかできない。
「昨日の方、……ですわよね。あのときは急いでいたので、お話を伺えずに申し訳ありませんでした。あのあとは、ちゃんとご用件を終えられましたか?」
 訊ねたあとで、彼女は他人の事情に図々しくも首を突っ込んでしまった自分に反省する。気難しそうなひとだから、怒らせてしまったのかもしれない。いや予感でしかないが、もう怒っているのやも。
「まだだ」
 しかし短く血の気の薄い唇から漏れた声は彼女の問いかけに応じていて、案外といいひとなのかと彼女は目を見張る。見張った彼女の顔の何かがよろしくなかったらしく青年の眉間に僅かな皺が寄る。意味がわからない。
「この地に来たのは久方振り故、一つ派手に挨拶をしてやろうと思ったのだがどうにも今回は運がないらしい。最初の一歩で躓いた」
「それはお気の毒でした……」
 何の話かはわからないが、不幸なことだと他人事ながら同情を示す。しかし躓いたと言ってもその足元は埃一つないし靴もきちんと磨かれている。まさかあれからずっと林の中を突っ立っていた訳ではないだろうが――と疑惑を抱いたところで、彼女は譜面通りに受け取りすぎの自分に赤面した。泣き過ぎて頭がろくに回っていないらしい。普通に考えれば挨拶をする人物と入れ違ったとか、そう言う意味合いのはずなのに。
「けれど、そんなに落ち込むことはないと思います。幸運の前に不幸が来るとも申しますし、あまり気にすることは……」
「ああ。俺もそう思う」
 彼女のしでかした勘違いを誤魔化すための言葉に、青年は生真面目にも深々と頷く。やはりいいひとではないかしらと、内心彼女は微かな笑みを浮かべる。気持ちが沈んでいたときに、そんなひとと出会えることは単純に嬉しかった。そんなふうに自分に接してくれる人物は、もういないと諦めていただけに。
「故にここで、その失態を取り戻さねばと思ってな」
「ここでって、……ここで?」
 周囲を見回し青年と彼女しかいないことを確認してから訊ねた彼女に、彼は薄い笑みを浮かべる。そんな印象はない皮肉めいたものなのに、何故か口元が輝いて見え彼女は違和感を抱いた。と言うか今更ながら彼の黒髪から突き出た耳の先が、奇妙なほどに尖っているのだがこれは一体――。
「……なに、簡単なこと。貴様の喉に喰らいつき、その鮮血を一滴残さず吸い尽くしてやれば良い!」
 哄笑した青年の犬歯が剥き出しになって、その鋭く尖った牙の先が血濡れの剣先よりも獰猛に輝く。途端、明るい日差しの中にあっても拭いきれないほど濃厚に彼を包んでいた翳りが、明確な夜の気配として彼女の肌と頭に伝わり彼の正体を言葉よりもはっきりと知らしめる。
 不死者の王、蝙蝠を従え霧に姿を変じ棺で眠る、人の血を糧として生きる人ならぬ怪物。それら恐るべき厭うべき存在の名を人々はこう呼ぶ。
「あなた、もしかして……吸血鬼、さん……!?」
 生まれて初めて見た化生に、彼女は心底驚いた。
 吸血鬼狩りが最近活発になっているとは知っていたが、まさか本当に実在するとは。人々は理解できない人物を魔女と呼び、目に見えぬものを擬人化して人外として扱っている程度の認識でいた彼女にとってはまさしく寝耳に水なのだが、その反応は青年よろしく吸血鬼にとっては芳しくようだ。ぎらつかせていた牙の輝きが消え、陰湿な雰囲気の人間程度の不気味さに戻ると眉間に深い皺が刻まれる。
「…………さん?」
「人の姿なんですのね……昔聞いた怖い話では、ヒルみたいな血の塊と聞いたのに。会話もできるし、昼間も普通に歩けるし……けど沢山の蝙蝠があんなに喜んでいたもの、こんな唐突に現れたのも、そう、ですわよね」
 聞いていた情報と違いが多々あるが、血を吸うと牙を見せて高らかに宣言したためこの青年が本物の吸血鬼と見て間違いなかろうと彼女は一度大きく感嘆の息を吐いた。
 悲しみに沈むひとの頭から手っ取り早く悲哀を忘れさせる強い感情は、笑いでもなく怒りでもなく驚きである。その法則はご多分にも漏れず彼女にも適応し、自己嫌悪に濁っていた胸が途端に高鳴り、手が震えて我知らず両手を握り締める。恐怖ではなく、未知のものに対する緊張や好奇心が全身を貫いたために。
「わたくし、初めて拝見しました! ここは久し振りだと仰っていましたけれど、いつ以来なのですか? やはり十年や二十年で利かず、百年二百年くらい前になるのでしょうか? そんなに長く生きていらっしゃるようには見えませんのに!」
「…………」
 眉間に皺を寄せたままの吸血鬼の咎めるような視線にあてられて、ようよう彼女は我に返る。先程から彼には醜態ばかり晒している気がして、申し訳ない気持ちが湧き上がった。
「ご、ごめんなさい、無闇にはしゃいでしまって……」
「全くだ。獲物にここまで訊ねられるとは、いかな俺でも記憶にない」
 獲物、と聞いて彼女はようやくいつもの自分に戻る。先程の言葉の意味を吸血鬼の立場になって解釈すれば、彼女がつっけんどんに扱ってしまったせいで気がそがれ、この界隈での狩りの出鼻を挫かれたと受け止めるべきだろう。自分が最初の獲物として選ばれていたと知り、彼女はこれを好機と受け取るべきか否かで暫く迷う。
「……あなたが唯一口にするのは血、なのですよね。家畜による代用は無理で、わたくしたち人間の」
「無論。今更血を吸われることに怖気付いたか?」
 牙を見せ獣めいた笑みを浮かべる吸血鬼の言葉が引き鉄となり、彼女の中であっさりと結論が出た。静かに首を横に振ると、彼女はごく自然と心の底から浮かんだ言葉をそのまま放つ。
「いいえ、意思の疎通ができる人間の血を吸わないと生きられないなんて、吸血鬼さんは可哀想だと思いまして」
「なに?」
 吸血鬼の眉が歪む。初めてそんなことを言われたのか、微かに血色の目も細くなる。
 しかし彼女は自然とそんな感想を抱いた。人間が畜生を食す際、わざわざどんな姿のどんな愛くるしく温かい生き物であったかを考えようとはしない。でなければその味を楽しむのも、食すことそのものも後ろめたくなる。その上でもし自分がその家畜の肉しか食せないなら、その家畜が喋ったりしたら、あまつさえ親しくなれるほどの知性を持っていたならば――考えただけでも彼女の胸の奥は重くなった。
 生きると言うことは何かを犠牲にしてでも自分の生命を維持しようとする事柄だが、吸血なる行為は特にそれを痛感するのだろう。眼前の吸血鬼の、知性的なのにとにかく人を脅そうとするその姿勢は、獲物を相手に親しむまいとする気持ちが働いているのではと彼女は想像する。それは生き物として間違ってはいないだろう。いないがやはり、彼女にとっては悲しい。
「けれど、飢えの苦しみはわたくしも知っています。わたくしの血を吸うと言うのでしたら、どうぞ吸ってくださいな」
「………………」
 吸血鬼が一晩吸血をしなかっただけで、どれほど飢えるものか知らない。それでも彼女はこの青年が無駄に獰猛である理由の一つが、飢餓感にあると判断した。のだが、どうにも彼は怪訝な顔をして固まっており、警戒の色濃い視線を向けられて、冗談の一つ二つは飛ばさねばならないのかと彼女は苦笑を浮かべる。
「自分で言うのも何ですが……見た目はそこそこ可愛いし、処女だし、血の味は悪くないと思いますよ?」
「……そんなものは関係ない」
 やはりそうだったのか、と彼女は小さく息を漏らした。吸血鬼が人を襲って血を吸うとは昔話にも聞いたが、処女を好むだのなんだのは今回の吸血鬼狩りが始まって以降初めて知った。だからまあ、彼らをより悪者にするための情報操作か、非力な女子どもを悪手から守る英雄として見られたい男たちの願望がことの真相なのだろう。
 吸血鬼は彼女の冗談で硬直が解け、冷静になる余裕ができたか。驚き見開かれていた目を細め、彼女の奥底を探ろうとする。そんなことをしなくても、彼女は心を偽る気はないが。
「貴様は何を企んでいる。目的を教えろ」
「企んでいるなんて人聞きの悪い。ただ約束してほしいのです。わたくしを最後に、他の人の血は吸わないと」
 勿論、悪魔が人間との約束を守るかどうかなんて彼女は知らない。そもそも約束と表現はしたが、これは一方的な要求でしかないのだから無視されることは重々承知の上だ。それこそ吸血鬼がこの願いを一蹴する展開さえ想定しながら静かに覚悟を決める彼女の肌に、しかしいくら待てども牙や白手袋に包まれた指が触れる気配はやって来ない。
 疑念を抱いた彼女がまた目を開けると、そこには再会した当初よりも明らかに苛立っている吸血鬼の姿があった。整っているが陰の消えないそのかんばせは、意外にも表情豊かであるらしい。夜闇と同じか、と彼女は悟った。
「貴様……、自分の命の心配はしないのか。悪魔たる俺を恐れぬとは、一体何者だ?」
「わたくしは、ただの一般市民ですわ。職業は看護師をしています。一応、身体は清潔にしているつもりですのよ?」
 胸を張って自己紹介をする彼女を、やはり吸血鬼はどこまでも疑わしげな赤い瞳で見つめる。確かに修道女の格好に似ているし、教会で医術を学んだから、悪魔払いの技術を持っていると思われているのか。だが現実は、彼女には抗う術など何もないし、そも抵抗しようと思わない。こんな環境ではいつ死んでも仕方ないから常にその手の心構えはできていた。私財は隠していないから遺品をまとめた際にすぐ気付かれるはず。診療所は暫く持つだろう。死ななければ貧血程度で済むだろうし、時間が経てば血の量も回復するからこの吸血鬼の飢えもまた凌げることになる。すべては彼次第だが、彼女にとってはどちらであっても最悪な結果には転ばない。
「ですから、さあどうぞ。わたくしの血を吸ってくださいな」
 吸血鬼のほうへと自ら足を踏み出す彼女の一体何が気に食わないのか。吸血鬼はますます苦み走った顔で軽く俯くと、決まり悪げに呟いた。
「っ、……悪魔を恐れぬ人間から血を吸うなど、俺のプライドが許さん」
「……プライド?」
 彼女は顔には出さないものの、心の底から納得すると共に驚いた。確かにこの吸血鬼は誇り高い、頑固と言うか意固地な性格をしていそうだ。誇りなんてものをさして意識せず生きてきた彼女にとっては青天の霹靂だったが、それは彼にとって一晩の空腹に耐えれるほどのものなのか。人の血を吸う絶好の機会をかなぐり捨てるだけの、価値があるのか。
「そんなに……怖がらせることが、大切なんですの?」
「悪魔とは欲深き人間どもに恐怖を与え、秩序を与える闇の死者。貴様の美醜になど興味がないが、その余裕面は気に食わん」
 そうだったのかと感心する彼女だが、今更頑張って怖がる演技をしようとは思わなかった。大体そんなことをしたって今からではあからさまに不自然だ。吸血鬼は納得しないだろうし、馬鹿にしているのかと怒る可能性さえある。
 それならば、あえて怒らせて問答無用で血を吸わせるのはどうだろう、いやしかしそんなことをするのは初対面の吸血鬼相手とは言え肩入れしすぎていないだろうかなんて考えている彼女にまったく気付いていないらしい。吸血鬼は何か思い立った顔で、昂然と告げる。
「……よし、ならば貴様を恐怖のどん底に陥れてから、血を吸ってやろうではないか!」
 どこか芝居がかった響きの声高らかな宣言を受け、挑発するかどうかでかなり迷っていた彼女は弾かれたように顔を上げる。次に、自分の意思など見事に無視されていると察して少し腹立たしくなった。どうやらこの青年、見目に反して子どもっぽい、独りよがりな部分がある。それともこれが普通の悪魔なのか。
 だがここで彼女が嫌だと口答えしては交渉決裂、自ら好機を手放すこととなろう。自分の反応が無視されたことは一旦放っておくと彼女は瞬時に頭を巡らせて、先程は綺麗に無視された代案を出してみせる。
「では、約束です。わたくしを怖がらせるまで、誰の血も吸わないでくださいな」
 今度の提案は吸血鬼の耳にもしっかり届いたか。それとも彼が興味を抱く取引であったのか。むっつりと噤まれていた口元に、初めて物騒なものを含まぬ淡い笑みが乗る。
「さっきから悪魔を相手に約束と約束と……。はん、面白い女だ」
「面白い、ですか……?」
 生まれて初めて投げかけられた言葉にきょとんと目を瞬いた彼女に、当然だろうと吸血鬼はまたも笑う。案外に人好きする印象だと、彼女の頭の隅が含み笑いで指摘した。
「無力で無知な人間の女が、この俺に約束なんぞ申し出るとは誰が思うか。よかろう、約束してやるとも! 貴様を恐怖に陥れるなど容易きことだからな!」
 大げさなくらい盛り上がった調子で言い放たれてしまい、彼女も吸血鬼が浮かべていた自信たっぷりの笑みが感染したのか。理由もなく満たされた心持ちになって、自然と片目を瞑り喉の奥で笑う。
「ふふっ、なんぞと言っても約束は約束ですからね? 言っておきますけど、わたくしを怖がらせるのはとっても難しいですわよ?」
「それがどうした。人の身で耐えられる恐怖など、たかだか知れている」
 人を舐めきった態度に、この調子では自分の逃げ切り勝利に終わるだろうと確信した彼女ではあるが、吸血鬼との約束になんの障害もない、訳はない。彼との再会で吹き飛んでしまったけれど、それでも今朝は身近にいた人一人を弔ったことを思い出し、思わず浮かべていた笑みを控えめなものにする。不謹慎だった。事情を知らない青年に罪はないが、さっきまでの流されて浮かれていた自分を強く戒める。
「それに、この戦乱の世の中ですもの。……怖がらせる前に、わたくしが死なないよう祈っていてくださいな」
「悪魔は祈りなど捧げぬ」
 彼女の内面など知る由もなく言い放つ吸血鬼だが、気持ちは少しは落ち着いたのか。廃墟となった教会をちらと視界に納めると、また彼女に首を戻して短く顎を引いた。
「……だが、約束を果たす前にお前に死なれるのは確かに困るな。よかろう、約束を果たすまではお前が死なぬよう見張ってやる」
「あら、構わないんですか?」
 彼女にとってはそれは見守られることになるのだが、悪魔は人を守ってもいいものなのだろうかと疑問を抱く。そんな彼女の問いに、ややも呆れた顔で吸血鬼は嘆息した。
「貴様を怖がらせるまで人の血が吸えぬのならば、どこにいようと意味はあるまい。だが俺が貴様を見張っていれば、貴様は死なず俺は貴様を怖がらせる機会を得る。どちらが有利かは自ずと判ろう」
 成る程と手を打つ彼女に、吸血鬼はふんと鼻で笑う。先程から明らかに機嫌が良くなっているが、彼はそれだけ退屈だったのか。単純に負けず嫌いなのか。後者の可能性が高かろう、と思いかけたところで彼女は緩みかけた口元を慌てて引き締める。
「けれど、なんだか悪い気もします。あなたはすごい悪魔さんなのでしょう?」
「その通りだが、安心しろ。約束はすぐに果たされる。お前の血を頂くまでに三日とかからんだろうからな」
「……さあ、それは、どうかしら」
 肩を竦めた彼女の口元は、先程自分を強く戒めたはずなのに奇妙なくらいくすぐったい。理由は彼女の胸どころか、頭でさえもごく簡単に導き出す。
 この吸血鬼を、彼女は好ましく思っていた。町の人々のように疎まない、診療所の患者のように自分の顔色を伺ったりしない。この短時間で表情を鮮やかに変え、感情を隠しもしない悪魔の言動一つ一つが、彼女の全身に新鮮なものを運んでくる。死に絶えたはずの軽やかな息吹を与えてくれる。吸血鬼とその獲物の関係なのに、立場は対等であるようなのが奇妙に彼女にとっては珍しくて、嬉しくて、ああ何よりも楽しくて。
 だから彼女はつい、戒める気持ちさえ忘れ、満面の笑みを浮かべて名乗った。
「自己紹介が遅れました。わたくしはアルティナと申します。吸血鬼さん、あなたのお名前は?」
「――ヴァルバトーゼ。魔界において『暴君』と呼ばれる俺に狙われたこと、泣いて後悔するがよい」
 なんの後悔していません、むしろ神に感謝したいくらいですと。彼女は微笑を浮かべて声ならぬ声で囁いた。

[↑]

蜜月

2011/07/06

 彼女が吸血鬼と約束を交わしてから一日が過ぎた。
 結果として普段と何も変わらない忙しい日だったが、彼女としては驚くばかりに苦労を感じる傾向は減少していた。あの吸血鬼とは自分の勤める診療所の場所を教えて別れたのに、たかだかそれきりで心がうんと軽くなり、業務に対する集中力が増したように思われた。
 あんな短時間の出来事で心の奥から清浄になった自分を顧み、彼女は内心苦笑を浮かべる。それくらい、自分は寂しかったらしいと思い知らされて。
 自分のことを知らないひとに、立場を忘れて個として接することがこうも嬉しいなんて知らなかった。明日の夜か明後日、彼が悔しそうな顔を見せると、改めて友人として自分に接してほしいと願おうかなんて明るい未来でさえ夢想してしまう。未来など帳簿の中でしか想定しなかった彼女が、である。
 だがそんな心境の変化を周りにばらさない程度には、彼女はまだ冷静だった。仕事は仕事、個人は個人。個人的な秘密を抱える展開は日常のスパイスとして僥倖だが、そればかりを求めるほど彼女の心は浮つかない。何より体に染み付いた看護師としての感覚は、吸血鬼との出会いと比べるべくもなく彼女の心身に根付いている。ただ胸に生まれた色鮮やかな新芽を、時折愛でる余裕が生まれただけのこと。
 故に彼女は働き続ける。効率第一に考えられるべきところはそのように、臨機応変の心遣いが求められるべきところはそのようにそれぞれ意識して、緩やかに動くパズルを手を止めずに組み立てる感覚に近い。毎日それを行なってきたとなれば、誰でもこの生活に慣れるもの。尤も、床に就くときは常に反省しきりではあるが。
 しかしどう考えたって反省できないこともある。このとき彼女は本当に何の考えもなく普段の自分を貫いただけなのに、それがまさかこんなことになるとは全く予想もしておらず――。
「聞いてンのか、姉ちゃぁああん!?」
「ああ、はい。伺っていますわ」
 素っ気ない返事だったかと言ったあとでようやく意識がこちらに戻った彼女に、赤ら顔のじゃが芋頭はそうかいと深々頷いた、ついでに足元ががくりと崩れかける。一目見てわかるほどの酔っ払いだ。彼女だってこれに好き好んで絡まれるつもりはなく、むしろ絡まれた側なのでどうすることもできない。
「でーな? 俺ァな? 聞いてンの君に。聞いてんの!」
「はあ」
「姉ちゃんさ、なんで俺にそんな、意地悪なことすんのって! 聞いてんの、さっきから!」
 子どもがだだをこねるような物言いだが、大の大人が真似たところで気味が悪いだけである。そこまで思っていないものの、まずい相手に絡まれたとは考えている彼女ではあったが、自分の言動は偽れない。
「ですからさっきも申し上げました。わたくしは明日の寝食に困る方には施せますが、お酒を楽しむ余裕のある方には施せませんと」
「むーいちもんにゃ、変わりねえだろぉお!?」
「あります!」
 彼女が悲痛なほどに叫んでも、酔っ払いは話を聞きもしない。何より腕を掴まれているから逃げれもしない。普段ならば町の人々は自分に触ろうともしないためこんなことにはならないのだが、出稼ぎに来た傭兵は事情を知らず。彼女が死のはびこる診療所で働く死神か、死体と墓穴掘りに魅了された魔女だと噂されているなど、当然耳にしたこともないのだろう。
 ことの始まりは無一文の親子に金ボタンをくれてやったこと。いやもっと前であれば、窓際の敵国出身の患者が彼女にそれをくれたことから始まるか。
 昨晩宣言通りに無理をしてチーズを付け足した豪華な夕食を済ませたあと、食器を返される際に、窓際の男性から紋章を潰した金のボタンが彼女の手にこっそりと渡されたのだ。目を見張った彼女に男性は、真剣な表情で小さく首を横に振るだけで沈黙を貫き通すが、ただ青い瞳が雄弁に感謝の意志を告げていた。責任感ある人なのだろう、痩せ衰えたその顔からは予想もできないほど強い眼差しに、彼女はその価値ある私物を返すこともできなかった。
 金目のものとなれば売るのが基本である。くれた男性も自分にこれを手渡すと言うことはそれが本来の目的だと受け止めて早速今日馴染みの質屋に向かったのだが、到着するまでの道のりで子連れの浮浪者に出会ってしまい、彼女は眉をひそめた。
 もとはそこそこの生活ができていたのだろう、いまだ髪を結い、褪せてはいるが暖かそうな生地の服に身を包んだ痩せた女性が、しかし手荷物も持たず心配そうに見上げてくる着のみ着たまま十歳前後の少女を連れ、町角で所在なさげに立ち竦む姿は印象的だった。突然何をかもを喪って、ようやく辿り着いたのがここだったのか。戦線に近い国境付近の町ならそれだけ人や金の流れも多く、体を売って生計を立てるだろうと思っていたのだろうが、はたから見ても色気のないどころかつても知らぬ素人女に夜の商売人たちが易々と門戸を開くはずもない。安い娼館に住まわせてもらうとしても、事前に紹介金は必要だ。
 だから彼女は憐れな二人に声をかけ、立ち竦む理由を聞いて診療所に勧誘をしたりもしたのだが、怪我人のみとは言え兵隊ばかりと言うのが幼い少女に恐怖を与えたらしい。丁重に断られ、自分だけでも犠牲であろうとする母の強さを知らされたが故に金のボタンを握らせたのだ。
 質屋の場所や自分の知っている娼館を口頭で教えたその直後、深々と頭を下げる母子の手に、肉屋で飾られているソーセージのような指が割って入った。空の酒瓶片手に臭い息を吐きだす逞しい傭兵がそれまでのやり取りを見ていたらしく、他人にやるなら自分にくれよと絡んできて。ようやく掴んだ希望の光を奪われた二人の顔が絶望に染まりかけたその瞬間、彼女は傭兵の手から再びボタンをかっぱらい、母子に手渡すとすぐさま二人を突き飛ばした。それが多分、明確な分岐点。
 察した母は娘の手を引きながら逃げるように立ち去って、愚鈍な酔っ払いはああぁと情けない声を漏らし彼女の手首を掴んだ。しかしここで彼女でさえも逃げてしまえば、きっとこの傭兵はあの母子を探しに行くだろうと思えばこれは正しい判断のはずだ。
 そして今。彼女はどうしたものかと思案しながら酔っ払いと押し問答中である。町で呑めば彼女の噂は不吉なものとしてときどき人々の口に上っているらしく、傭兵たちとてあまり深くは関わってこないのだがどうもこの男は幸運にも――彼女にとっては不幸にも――聞き覚えがないらしい。だが自分の噂を盾にして今まで無防備だった自分にも非があると、今更反省する彼女ではあるがそれで事態は好転しない。当然通行人の多くは彼女を一目見ただけで避けていくし、むしろ嬉しそうな顔さえ浮かんでいたくらいなので助けなど来るはずもなく。
 幸いこの酔っ払い、すぐに暴力を振るう真似はしないようだが、彼女との体格差から見て抵抗すればどうなるのかは明らかだった。かと言ってこのまま落ち着くのを待つのもいけない。大体酔っ払いが落ち着くものか。おまけに野蛮であろうが紳士であろうが、三大欲求は人の身なれば等しく持つ。そして酒は概ねそれらを解放していく。
「んじゃぁー、あれだ! 姉ちゃんヤらして!」
「嫌です」
 予感はしていたとは言え頭痛を伴うレベルの誘い文句に、彼女は鉛のような吐息と共に拒絶する。だがそれで酔っ払いが引き下がるはずもない。痩せてはいるものの女らしく肉付く柔尻を酒瓶でぽんと叩いて、思わず嫌悪感を眉に見せる彼女にむうと膨れ面を近付ける。彼女は悪臭に咽ないようにしながらも、顔を背けるのに精一杯だった。
「んだがよーお、金が出せねえってんならそっちで満足するしかねーえ、てな話だろ。違うか?」
「ええ、違いますわね。催したのでしたら処理はお一人でもできるはずですわ」
 診療所に詰めている人々にそこまで元気があるのは少ないが、今までにもいたし体は動かずとも欲求はあるらしいと度々彼女が知ることもある。恐ろしく気まずい思いをしたことも、数える程度に何度かは。
「一人でっつったって神様にゃだーめーて言われてんじゃねーかよぉー。……んなカタいこと言わずにさぁ、な、一回、な?」
 その通りだったと彼女は一人で性欲を発散させることを禁じた神及び教会に恨みがましい気持ちを捧げるが、酔っ払いは彼女の祈りなど意に介さない。大人しくなったのを好機と見たか、どこぞの店の壁に彼女を押し付けると、白昼堂々細い両腕を片手で掴んで上半身の抵抗を防ぐ。
「……なっ、止めてください!」
 相手を睨みつけ、脚をばたつかせながらなんとか身を捩ろうとする彼女に、酔っ払いの声が急変した。
「おゥ、抵抗すんの?」
 軽薄で鬱陶しいのは変わりないのに、その声だけは正気に戻ったかのように冷たい響きを持っていて、彼女の全身が強張る。この調子では先程派手に抵抗しなくてよかったかもしれないが、今からのことを考えるとむしろ悪い方向に事態が転がっているとも取れる。何にせよ直ちに歯を噛み締め、襲い来る痛みを耐えようとする彼女の目に映るのは、巨大な人の拳。だったのに。
 まるで時空を切り裂いて生まれ出たのかのごとく忽然と現れた蝙蝠の群れが、酔っ払いの顔めがけて襲いかかった。ぎゃあと男の悲鳴が上がり、拳どころか彼女の両手首を掴んでいた手も離れる。彼女が暴力に屈する姿を見たかったらしい見物人たちがどよめくが、そんなこと張本人は気にしていられない。彼女は自身の無事を確認すると、安心する間もなくすぐさま走る。逃げ帰る。
 呆気に取られた人々は、その姿を見て彼女が本当に魔女だったと恐怖するかもしれない。だが彼女は実際は正真正銘の人間で、しかし蝙蝠を奇術のように出す知り合いはいるからその人物に走りながら頭の中で感謝の言葉を述べる。死なぬように見張ってやると言っていたが、まさしくあの拳は顔に直撃すると生死の境を彷徨いかねないものだったから。おまけにその一撃を喰らった挙句次に何をされるかを考えれば、むしろ助けてくれた相手に貞操を捧げても構わないくらい。
 人と壁に何度かぶつかりそうになりながらもここまで来れば安心かと思ったところまで帰ってくると、彼女は肩で息をしつつ、恐らくどこからか見ているのだろう誰かに話しかけた。
「あり、がとう……ござい、ます……」
 返事はない。だが気にせず彼女は一度咳き込むと、小さく笑んだ。
「……まさ、か、本当に助けてくれる、なんて……思っていなくて。ごめんなさ、い」
 視線はどこからも感じるようで感じないし、他者の気配なんてものも彼女は鈍いほうだ。けれど彼女はこれら自分の言葉が、独り言だなんて端から信じていやしない。
「……ふふ……、あのとき、わたくし、怖がってるって……思いました?」
 やはり返事はありもしないが、彼女は木の根に腰を下ろすとなるべくゆっくり息を吐く。心臓の早鐘は、それだけで少しずつだが納まっていくように思われた。
「けど、ね……あれが、あなたが目指す、恐怖、ではないと……思うんです、わたくし」
 突発的な暴力に身構えるのは本能的なものだ。怖いと思いもするだろうが、それはかの吸血鬼が指し示す恐怖のどん底とまではいかない。彼女は死を覚悟したことは何度かあるけれど、それだってそのとき自分にできることばかりが先んじて恐怖なぞ麻痺していた。
 死を覚悟した、と自ら記憶の糸口を引っ張ってしまった彼女は、心に暗い霧が立ち込める感覚を長く息を吸って受け入れて、今まで幾つも自分の手から零れ落ちた命の数々を想いながら長く息を吐き出す。絶命の瞬間、泣き喚いたものは何人いたか。苦しみ喘いでいたものは何人いたか。母の名を悲痛に漏らす声を何度聞いたか。
 それら以上に強烈に彼女の心に浮かび上がってくるのは、傷を看ていた患者に首を絞められそうになったときのこと。記憶にはないが、多分怖かったのだろう。けれどそれ以上に今の彼女の脳裏に浮かぶのは、その骨ばった手から解放され、反して殺そうとしていた人物が死した瞬間に見えたもの。
 診療所の板張りの床の下から、白い手が伸びていた。さっきまで自分の喉を締め付けていた白い手が、幽霊みたいに浮かび上がる。続いてその横に、親指だけがない手がのろりと生えて、そのまた奥には銃剣がいまだ突き刺さる真っ赤な手。小指と薬指が第二関節からなくなった手。無数の、今まで見た記憶がある手が、腰が抜けてへたり込む彼女にゆっくりと這い寄って来ってくる光景が、脳裏にこびりつく。
 そのとき自分が何を思っていたのかを、何を手だけの亡霊たちから感じ取っていたのかを、やはりこのときもまた彼女は思い出せなかった。あれは単なる幻か、悪夢を見たのだろうとわかりきっているけれど、たびたび思い出すと言うことはそれだけあの幻を強く意識していると言うことで。結果的に、現実の彼女はあの光景に影響を受けている。そうして自分の意地で留まって、幻には苛まれ、歪んだままに立ち直り、いや色んなものから生きるためにもと立ち直させられ、そのまま完成したのが今のこの、自己犠牲と自己満足と自己欺瞞の建築物。
 そんな自分に比べて、あの吸血鬼はどうだろう。きっと彼は自らの感情に常に素直であり続けたのだろうと彼女は思う。生贄のように我が身を差し出した彼女に向かって、忌々しげに怖がりもしない人間の血など吸えるかと吐き捨てたその目はやはり真っ直ぐな意思を感じさせた。純粋に、誇り高く生きてきたのだろう。自分の気持ちを偽らず、自分の生き方に迷いなどなかったのだろうその芯の通った強さが、酷く羨ましい。
「……あなたのこと、怖くなりそうにない」
 むしろその真っ直ぐな姿は自分にとっては眩しいくらいだと言ってしまえば、吸血鬼はどんな反応を寄越すのだろう。まだ知り合って一日しか経っていないのに、不思議なことを考える自分にくすりと彼女は笑うと、尻の埃を手で払って立ち上がる。
「いつ来られるのかわからないけれど、お待ちしていますね」
 やはり首から肩の辺りが汗臭いのは嫌だろうかと思いながら歩き始めた彼女の耳に、林側の遠くの茂みが僅かに動いて返事をする。それだけで、彼女は強く励まされた気持ちになった。

◇◆◇

 窓際の患者の包帯を換えながら、酔っ払いに絡まれて以降を伏せて話した彼女に振りかかったのは怒号でもなく失望でもなく、呆れた吐息だった。他の面子はもう眠っている。彼らはとっくに包帯を換えて、その重労働と痛みを癒すために、早々に夢の世界へ旅立った。
「あなた、は……、人が、好過ぎ、る」
 肩に包帯を巻かれるごとに痛みで顔を歪めながら言うものだから、そこまでしても伝えるべきではないだろうと彼女は唇を尖らせる。一瞬だけ包帯の結び目をきつめに締めてやろうかと思ったが、それまで洒落ではなく苦痛を味わった人に行うべき冗談ではないと己を律して蝶々結びをきっちり一つ。
「……それで、彼女らにやったのか」
「はい。ごめんなさい、せっかく頂いたのに結局……」
 繕い終わったシャツを持って頭を下げる彼女に、男性はゆっくりと首を振る。
「いや、僕は君にあげたんだ。君が満足する使い方なら、何をどう使おうと……構わな、い」
 彼女の手を借りながらシャツに袖を通した男性は、久し振りに上半身が温かいことに違和感でも持ったのか。首の周りを恐る恐る触れようとするものだから、彼女は彼が何を気にしているのか察して襟首のよれを直してやる。
 どうもと男性は声を漏らし、自らの手で前のボタンを一つ一つ留めていって、ほどほどで落ち着いたらしくゆっくりとベッドに横たえた。
「……前から思っていたが、よく効く痛み止めを使っていますね。もう利いている」
「ええ、柳の木から採れる痛み止めなんだそうで。この診療所の正反対の位置に、お婆さんが一人で営んでいる薬局があるんです。昔ながらの人ですから、腕はいいしお薬代は安くついて」
「へえ」
 しかし何でも見透かしてくる怖い魔女だなんて、彼女は口が裂けても言わない。同じ魔女の肩書きを背負った人間としてではなく、むしろ自分があの老婆を魔女と蔑むのならば、町の人々に蔑まれているため魔女と呼ばれる自分が何なのかわからなくなるなんて保身的な理由から。
「わたくしにも、薬学の知識があればいいんですけど。あのお婆さんを知ったのは看護師になってからだったから、弟子入りしようと思っても時間の余裕がなくて……」
「だが、薬剤師と看護師は役目が違う。確かに両方できるのが理想だが、実際に両方したらあなたの体が壊れますよ」
「あら、やってみなくてはわかりませんわ。この診療所に薬局を設けたら、体を動かすいい機会だと言って患者さんに鍋をかき混ぜてもらったり、外の空気を吸おうと言って遠出のついでに薬草を採ってもらったり、色々持ちつ持たれつができると思いますもの」
 立て板に水と表現できるほどの発言と突飛な発想に、男性は疲れの色濃い目を見開いて呆気に取られた。彼女が使用済みの包帯をまとめている間にたっぷり沈黙してから、はあとまたも大きく息を吐き出す。
「……傷口が開くじゃないですか。それじゃあここの患者は一生治りませんよ」
「その辺りは、看護師の目で線引きします。筋肉が鈍っている人は体を使う仕事をさせて、寝ているだけで退屈な人は手を使うだけの作業をさせて……とか」
 どうかしら、と自慢げに顔をしてみせる彼女に、男性は片眉を大げさなくらいつり上げた。
「患者にただ働きさせるなんて、とんでもない人だ、あなたは」
「まあ、失礼な。対価ですわ!」
 頬を膨らませる彼女の何がそんなにおかしかったのか。男性はこらえ切れぬように吹き出すと、そのままくつくつと笑い始めた。故意ではないのに笑われてしまった彼女としては少し気恥ずかしくなったが、彼の浮かべた笑みは悪くない。爽やかな印象の、晴れた青空を連想させる笑みだった。
「……笑えるようになったんですね」
 男性の笑みを見つめる彼女の顔が、とても嬉しそうだったからだろう。彼は照れたように表情を取り繕おうとするが、それを彼女の手が制する。無精髭だらけの頬に、白く細くとも荒れ放題の手が触れた。
「良かった」
 微かに目を細めて心の底から呟く彼女に、男性は魅入られたように見つめていたが、我に返ると気まずそうに俯いた。まるで悪戯が見つかった子どものような態度だが、そうなる理由を察するに当たって彼女は苦笑を浮かべてしまう。真面目な人だろうから、敵国で傷を癒すことが彼にとって後ろめたいのだろう。
「後がつかえていませんか。僕はもういいので、他の方に……」
「……そうですわね。お気遣いありがとうございます。では、お休みなさい」
 とは言えど残りは四人だから割合とのんびりできるのだが、彼女の仕事はどこまでもなくならない。どこで見ているのかは知らないが、あの吸血鬼が頃合いを見計らえる程度に一人で作業をする時間を作ろうと、彼女は敵国の軍人がいる病室から一礼して退出する。
 それから他の四人の、女を抱きたいだの実家に帰りたいだの寝飽きただのもう死にたいだの不平不満愚痴泣き言に彼女は適切な相槌を打って励まし宥めすかして、今日包帯を替える患者全員の分の包帯を回収を終えた。
 その足で竈に向かって火を熾し、専用の鍋に水と削った石鹸、そして回収済みの包帯を入れて沸騰するまで放っておく。帳簿を付けていれば時間が過ぎるのは早く、竈がぼこぼこと五月蝿くなったら適当に中をかき混ぜ、火種を弱めて鍋を冷ましてから包帯を取り出す。冷ますとは言えどまだ十分熱い湯の中から包帯を掴むと、冷たく歯の根が凍るほどの井戸水にそれを漬け、包帯にこびり付く汚れを手揉みで洗い流す。一部血や膿がこびり付いていたり、もうほつれ気味なところは多いけれど、煮洗いとは偉大なものでただの水洗いや洗濯板で洗うよりももっとずっと洗う時間が短縮できる上に仕上がりも悪くない。
 とは言えそれだけの苦痛もある。熱い中に手を突っ込んだ直後に冷たい水の中に手を入れるため、昔はその動作をすべて終わらせるのに一晩かけていたくらいだが、最近では指の皮も丈夫になって悲鳴を噛み殺す程度で作業ができるようになっていた。そんな調子ですべての包帯を洗い終えると、一本ずつ軒に吊るして包帯替えの全行程が完了となる。
 真っ赤になった手が乾いていくと粉を吹き、ひび割れが治る速度が遅くなっていることに冬の訪れを感じ始めた彼女は軽く憂鬱を味わいながら、淡々と彼女は残りの仕事を片付けた。

 今日一日の作業を終えてようやく部屋に帰っても、いまだ吸血鬼の姿は見えなかった。まあ一応なりとも女の部屋に堂々侵入していたら彼女だって困る。
 しかし来ないならその隙に残った井戸水で身体を清潔にしようかと、窓の向こうを見ながら服に手をかけ襟首を解放したところで、星も見えない窓の外からぬうと黒い袖が伸び、彼女の顎を白手袋が掬う。冷たい夜風の香りと温かい血潮の匂いが混ざった不思議な芳香が、彼女の鼻腔をくすぐった。
 眼前には赤い、三日月めいた笑顔。のっぺりとした白い相貌に闇に融けた黒髪の怪物が、彼女の白い喉めがけて人ならぬ牙を突き立て――。
「こんばんは、吸血鬼さん」
 命の危機に瀕してしかし、彼女は笑顔で自分の喉に喰らい付こうとする人物に、そんな呑気な挨拶をした。
 小さな顎を掬い上げたまま暫し沈黙していた吸血鬼は、舌打ちを彼女の耳まで響かせると手を放す。潔い態度に彼女は感謝の意を表して半歩下がった。あのままの姿勢で会話をするのは、正直に言って首が痛くなりそうな気がしたのだ。それから丁寧に、改めて裾を摘まんで頭を下げる。
「今日は助けて頂いて、本当にありがとうございました。あのまま拳を振り下ろされていたら、きっとわたくし、今こうしてお話しができていなかったでしょうから」
「既に貴様の命は貴様だけのものではないからな。礼を言われる筋合いはない」
 まあその通りだと納得した彼女は、軽く頷いてから吸血鬼が外のどこに立っているのかわからなくて窓の外を覗き込む。急に頭を乗り出された彼は僅かに身じろいで、窓から少し体を離したがそれでも一定の高さを保ったままだ。
 そうして彼がどこにいるのか理解した彼女は絶句した。空中、なのはまだいい。吸血鬼なのだから空を飛ぶくらい平気でできても驚くつもりはない。しかしそうではないらしく、彼の足元を支えていたのは無数に羽ばたく蝙蝠の群れで、彼女は慌てて彼の外套越しに腕を掴んだ。
「部屋に入って!」
「何だと?」
「彼らは、わたくしを助けてくれた蝙蝠さんでしょう? これ以上ご迷惑をおかけするのは可哀想ですからあなたは入って、さあ!」
 ほぼ命令する勢いで腕を引っ張る彼女に面食らったか。吸血鬼は手を引かれるまま窓枠を乗り越えると、外套を揺らしながら苦々しげに彼女の部屋に降り立つ。
「……蝙蝠如きに何故そこまで気をやる」
「だって、わたくしを直接助けてくれたのは彼らですもの。あなたにとっては普通かもしれませんが、わたくしから見れば酷い扱いです」
 控えめながらも吸血鬼に対し非難めいた視線を送る彼女に、吸血鬼は露骨に呆れた様子で見下した。
「あれらは俺の力の一部だ。意思などない。故に、貴様が気を揉む必要はない」
「そう……なんですか?」
 真相を知らされて、隠そうともせず彼女は落胆した。あの蝙蝠たちにそれぞれ意思があるのならば、知り合いが増えて素敵だろうにと考えていたのだ。幼い頃以来小動物に慣れ親しむ暇がなかった彼女にとって久々に動物と触れ合う機会だったのだが、意思がないなら意味は薄い。だが彼女は転んでもただでは起きない精神で、二日前を思い出す。
「……だったら、わたくしが初めて吸血鬼さんと会ったときの蝙蝠さんたちも、あなたの?」
「それがどうした」
「いえ。随分と頭の近いところを飛ばれたから、変な臭いがしなかったか心配でして」
 特に薬局からの帰りだったから、あの土臭さが全身に染み付いていないか気になっていたことを思い出す。しかしそんな彼女に対し、吸血鬼は相変わらずの無愛想な顔で言い放った。
「お前からは常に、人間の娘の匂いしかせん」
「臭くなかったですか? 今日もまだ、汗を拭っていなくて……」
「ない」
「……そう、なら良かった」
 安堵の笑みを浮かべる彼女の心境を全く理解できないのだろう。吸血鬼は忌々しげに口元を歪ませて毒づいた。
「何がいい。俺の嗅覚を確認し、大蒜でも摺って焚く気か」
「そんなことをしたら、わたくしも目や鼻がしみて随分辛い思いをすることになります。そうなればまともにお話しもできませんわ。だから安心してくださいな」
 整った容姿の処女の血が好物だなんて噂話と比べて大蒜のほうは信憑性があるようだが、吸血鬼とって不愉快な話題らしいため彼女はあっさり言い切る。あっさり言い切りすぎて逆に吸血鬼の癪に障ったらしく、柳眉が大いに歪んだ。
「……貴様。俺を馬鹿にしているのか」
「ごめんなさい。そんなつもりではなかったのですけれど、不快に思われたのでしたら謝ります」
 笑みを打ち消し自分の何がいけなかっただろうと過去の会話をなぞろうとする彼女に、吸血鬼は少し冷静になったらしい。小さく首を振り、決まり悪げに視線を落とした。
「必要ない。貴様に悪意はないことはわかっている。……俺にとっては、悪魔に悪意も恐怖も持たぬお前は不愉快だが」
「……不愉快、ですか?」
 面と向かって言われたのは、彼女にとってかなり衝撃的な言葉だった。昨日ぶりに吸血鬼と再会して浮かれていたのは認めるが、その勢いで彼に嫌われてしまうのはできれば避けたい。ようやく自分を、看護師としてでもなく魔女としてでもなく見てくれるひとに出会えたと思ったのに。血を吸って、もしくは血を吸えなくてはいお終いとされる関係にはなりたくなかったのだが、どうやら彼は違うらしい。
 そんなふうに悄然とする彼女の心のうちなど知らず、吸血鬼は微かに視線を揺らしながら鸚鵡返しを肯定する。
「不愉快だ。そも貴様、あのときの台詞は何だ。『怖くなりそうにない』だと? よく俺と約束をしておいてそんな台詞が吐けたものだな」
 やはりしっかり聞いていたのか。独り言の延長だったのにそれを覚えられ、彼女は気まずくなりつつもなるべく自分も正直であろうとする。
「あれは、だって……あなたは素敵なひとなんですもの」
「………………」
 吸血鬼は反応を示さない。示さないのではなく示せないのだと彼女は気付いていなかったが、不愉快そうに睨まれているままだと思い込んで、沈黙に対し唇を噛む。
「……あの……ですね」
 焦っていた。嫌わないでほしいと願っていた。しかしこの吸血鬼を相手にどうすれば機嫌を良くしてもらえるのかわからなくて、彼女はひたすらに正直な気持ちを打ち明ける。それくらいしか、好ましさの証明はないだろうと考えたが故に。
「お話しはほんの少しでしかできていませんけれど、あなたは自分の気持ちに正直で、信念を貫いて、そんな自分に自信があって……立派な方だと、わたくしは思いました。そんなあなたを尊敬しますし、憧れもします。だから、あなたを怖いと思うのは、多分、とても難しい」
 眩しいとまで行くと、悪魔としての自らを誇りに思っているらしい彼にとっては胡散臭いかもしれないと考え表現を選んだ彼女の精一杯の告白に、吸血鬼は硬直させていた顔をぎこちないながらに動かして、漆喰の壁にひびが入るようにして顔中に深い皺を刻んでいく。
「……悪魔に、憧れる?」
「いけませんか?」
 悪魔と言うより吸血鬼個人に対してだが、そこを指摘することを何故か彼女は躊躇した。理由は本人にもわからない。だがその理由を探るよりも早く、彼は大きく首を振って彼女の思索を遮る。
「異常だな。貴様の頭の中身は何が詰まっているのか、想像もできん」
「大したものは詰まっていません。日々を生きるのに、精一杯ですわ」
 苦笑を浮かべつつもやはり正直に応じた彼女の発言に、吸血鬼は鼻で笑って本気にしない。
「そんな人間なら五万と見たが、貴様はあれらと明らかに違う。普通の人間ならば、俺の姿を見ただけで恐怖し錯乱し、さしたる抵抗もできず血を吸われるのがその定め」
 彼女は抵抗もしていないし血を吸われる気はあったのだが、どうにも吸血鬼にとってはその辺りはあまり重要でないようだ。いや、つい先日になって重要でないと気付いたのか。彼の目に、昨日からよく見かける苛立たしげな光が宿る。
「……だが貴様は違う。自殺願望がある訳でもなかろうが、何故貴様は死を、並べては俺を、恐れぬのだ」
「死と吸血鬼さんが同等と言うのは、少し、傲慢だと思いますけど?」
 彼女の苦言に吸血鬼は、しかして態度を改めようともしない。そこまで自分に自信があったひとを苛立たせることに多少の申し訳なさを覚えながらも、彼女は素直に彼の問いを頭の中で反芻し、真摯な答えを浮かび上がらせる。
「戦時中の看護師となれば、普通の人より死を間近に見ます。死神ほどではないでしょうが、慣れていると言えば慣れているでしょう。だからこそ、わたくしは他の人よりも常に死を覚悟し、意識できているので、大きく取り乱すこともないのだと思いますわ」
 その返答は吸血鬼にとって納得できるものだったのか。しかめ面が僅かに和らぎ、深く考える顔になる。その横顔は雪降る湖畔の冴え冴えとした夜の風景を連想させ、彼女は自然と薄く笑んだ。こんなひとを恐ろしく思うのは、彼女にとってやはり難しいと再認識して。
「……あなたが怖くない理由は、自分でもよくわかりませんわね。何故あなたを怖がらなければならないのか、わからないくらいのと同じくらい」
「俺が人間の血を啜る姿を見れば、貴様も自ずと恐怖を覚える」
 吐き捨てるように呟く吸血鬼に、あらと彼女は首どころではなく身体ごと軽く斜めに傾ける。わざとらしい仕草の自覚は当然あった。
「けれど吸血鬼さんは、わたくしともう約束したでしょう? わたくしを怖がらせるまで誰の血も吸わないって」
「…………」
「わたくしの血を吸う姿を見せるにしても、それより先にまずわたくしを怖がらせる必要がありますわよね」
 だから彼女は窓から手が伸び喉元に牙を突き立てられた瞬間も、それは決して自分の皮膚を貫かないと理解していた。寸止めで恐怖を煽る手段も想定の範囲内だ。まあ想定できるから怖がらなかったのではなくて、ただ彼が待ち遠しかったため、驚きよりも喜びが勝ったのだか実際のところだが。
 吸血鬼の本領発揮は難しいと知らされた彼は、鼻から静かに呼気を抜き出すと口の端を不愉快そうに歪ませる。
「人間の身ながら考えたものだ。それで明後日まで逃げきる気か」
「逃げるつもりはありませんわ。迎え撃つと言ってください」
 自信たっぷりに訂正を願い出た彼女に、吸血鬼はならば武器が必要だろうが、と指摘する。はて吸血鬼に利く武器とは何ぞやと彼女は記憶の中を探ろうとするが、前提として吸血鬼のイメージがヒルのような血の塊であったのだから、そんなものに威力を発揮する武器など想像できるはずがない。暫く考えていたものの、彼女は初めて彼を相手に降参した。
「……吸血鬼に利く武器なんて、想像もできません」
「俺には利かぬが、あるにはある」
 どんな、と視線で問いかける彼女に、吸血鬼は顎を小さく引いて何かを指す仕草をする。ずっと手前のほうを指し示された気がした彼女は、彼の全身を注視してそれらしいものを探し――彼の胸を飾る、円形の真っ赤なタイピンに目を止めた。
「……これが?」
 ブローチ、と表現するにはややしっかりと留めすぎているそれを瞬きもせず見つめる彼女の視線に何を感じたか。吸血鬼は短く肯うと、彼女に向かって牙が覗く笑みを見せた。
「この胸の杭は常に我が胸を深く穿つ。……貴様の知る人の体とは明らかに別のものだ」
「常に、ですか」
 見る限りではタイピンかブローチとしか思えなかったし、本当にこれが杭ならば人体ではまず生きられないのに平然としている吸血鬼の姿に、彼女は不思議な感覚を覚える。傷付いているはずなのに平気でいる彼への憐れみか、傷を自慢する彼の幼稚さを微笑ましく思うのか。それとも杭を彼に打ち付けた誰かへの、憤りがあるのか。
 わからないままに彼女はつと目を細めて、吸血鬼の胸を見る。杭として意識してみると赤い金属の頭部は彼の装束にそぐわない無骨な印象で、それだけ証言通り深々と胸を穿っているのだろう。しかし白いタイにもシャツにも血の滲むあとはない。ますます悪魔の身体に好奇心を高めながら、彼女は自分の胸の奥から溢れた言葉を唇で形作る。
「触ってみても……構いません?」
 吸血鬼はすぐに反応しなかった。少し視線を彼女からそらして、いつもよりもぶっきらぼうな、なのに低い声を彼女の耳にするりと寄越す。
「……好きにしろ」
 口にしてから断られると思っていた彼女は軽く目を見張るものの、お言葉に甘えて吸血鬼のもとへと静かに距離を詰める。それからひとのそばに近付いたはずなのに闇夜の冷たさを肌に感じながら、ゆっくり片手を差し出して、彼の表情を伺いつつその胸へと指先を近付けた。理由はわからないが、彼女は自覚するほど緊張していた。多分、治療に関わりのない異性との接触を意識したのがこれが初めてだからだろう。
「あ」
 伸ばした指先に金属特有の硬さと冷たさが伝わってきて、彼女は微かに驚き指を震わせてしまう。杭から内部へと刺激が伝わっていないか不安に思ったのだが、吸血鬼の表情は変わらない。瞬き一つせず、触れた先から杭をそのまま引き抜かれまいと警戒していそうな視線を受けて、彼女は自分の信用のなさに軽く落胆する。つまり平気で触らせてくれたのは、この杭が自分の力なんぞではあっさり動かないものとわかっているからなのだろう。
 けれど幸いにして吸血鬼の手は彼女の手を掴もうとはしない。両腕は外套の中に納まったままで、胸の杭を触らせてくれている。だから彼女は、杭の十字に中指と薬指の腹で触れて窪みを淡くなぞる。決して押し当てないように、彼に痛みを与えないように。
「……冷たいのね」
 杭から伝わる感触は夜風にさらした金属そのもので、彼女は逆に指の先から自分の体温を与えようとするかのごとく動きを止めた。冷たい刺激は彼女が自分の鼓動を頭の中で数えるごとに次第に薄くなり、熱がじわりと触れたもののその向こう側に移って、指先と杭が温度差を感じなくなる。
「杭が温かくなっているって、あなたからわかります?」
 熱を与えた彼女は小首を傾げて訊ねるが、吸血鬼は何の反応も示さない。ただただ彼女を眺めているだけで、生返事さえ聞こえてこなかった。何か深く考えているのか。ならば邪魔はすまいと判断して、彼女は息を呑み杭の外周へと指を移動させる。
 自分の手のひらほどもない大きさの円を時計周りになぞるだけなのに、彼女は妙に緊張した。このまま触ってしまっても構わないのかと躊躇う気持ちが強くて、自分がとても大胆なことをしでかしているのではと落ち着かなくなる。けれどよくよく考えてみれば、吸血鬼の弱みとして穿たれた杭に触れているのだから、そんなふうに思うのも当然なのやもしれない。
 指で一周を終えた彼女は、触れたときと同じくらい慎重に杭から手を放し、まずは感謝の言葉を口にする。それからこの接触に問題が生じなかったことに安堵の笑みを作って、感想を述べた。
「……あなたに怒られるかもしれませんけど、ようやくあなたが悪魔なのだと、自覚した気がします」
 僅かばかり畏まる彼女の殊勝な態度に、それまで不自然に大人しかった吸血鬼が薄い冷笑を口元に刻む。
「今更か」
「はい、今更ですね」
 鈍感な自分が恥ずかしくて彼女は照れ隠しの笑みを見せるが、吸血鬼にはそんなもの通用しない。ただ彼は彼なりに期待するものがあるようで、外套が微かに揺れて彼の肩の線が下がった。
「では聞くが、俺を恐れる気になったか」
「それは多分……別の問題になりそうですわね」
 また睨まれる予感を覚えながら、それでも吸血鬼の前では自分を偽るまいとしている彼女は素直に答える。しかし彼は予想外にも、重々しく息を一つ吐き出すだけであからさまに眉間に皺を寄せたりはしなかった。
「……仕切り直しだ。今宵は興が殺がれた」
「もう、ですか?」
 寂しい気持ちを隠しもせず項垂れる彼女を、吸血鬼は見ようともせず背を向ける。漆黒の外套が、彼女の髪にさらと触れた。
「明日だ。――明日には必ず、貴様を恐怖のどん底に陥れる」
 声は明朗に響き渡り、彼女の胸を奇妙な感覚で撫でてゆく。寂しさも相まってか、緞帳めいた声に落ち着けるような苦しいような、むず痒い心地になりながら、彼女は吸血鬼の言葉に笑った。
「昨日も、似たようなことを伺いましたわね」
「どうせ明日には聞くまい。今夜は貴様の余命が延びたが、その幸運も今日が峠」
 吸血鬼が腕一つ動かさず、けれど確実に彼の意思により外套を大きく羽ばたかせる。窓からの風もないのに、裏地の赤が見えるほどにそれはざわりと蠢いた。
「待っていろ。貴様の血は明日、俺が飽くまで吸い尽くしてくれる!」
 相変わらず声高らかに、芝居がかった口調で宣言して窓の外へと出て行く吸血鬼の背は彼が外に出た途端たちまち夜闇に交じるように消えていって、一人取り残された彼女はほんの少し肩を落とす。開け放たれたままの窓には、蝙蝠の一匹さえ飛んでいない。いないけれど、柔らかな蕾めいた唇は静かに動いた。
「……はい……」
 何を焦っていたのかは知らないが、返事も待てずに去って行った吸血鬼のことを思い出すと、彼女の胸は悲しみとも苦しみともつかぬ胸が細いリボンで締め付けられる感覚を覚える。なのに、心のどこかはそれを温かく心地良く望んでいて。
「……待っています、吸血鬼さん」
 彼女は気付きもしなかったろうが、その口元と言わず顔に浮かんだ表情は、彼女が多く浮かべるどんな笑みよりも、幸せそうなものだった。

[↑]

別れ-前編

2011/07/06

 また、診療所の中で辛うじて生きていた命が減った。昨日は代わりに三人がここに放り込まれたから、むしろそれぞれ病室を圧迫するくらいなのだが、喪われた命の重みはスペースの広狭と比べるものではない。
 初めて同じ病室の人間が死んだのを目の当たりにした窓際の男性は、彼女が遺体を埋葬してから戻ってきたときにも戸惑った様子ではいたけれど、彼女の様子を気遣うほどに余裕があった。
「……あなたは、まだ、働くのか?」
 故人のベッドの周りを淡々と清潔にする彼女に対する言葉は、今まで同室の患者にかけられた視線なり言葉よりも幾分か温かみがある。それについては彼女も嬉しく思うけれど、それが二人三人と続けば不気味なものを見る目に変わることも既に知っている。だからいつも通りの笑顔を見せて、きっぱりと言い放つ。
「ええ。患者さんを一人喪ったからと言って、看護師が休んでいい道理はありませんもの」
 それなら毎日葬式を請け負い、また幼子に洗礼を施す神父はどうなるのか。そんなふうに思いながら、彼女はシーツの皺を手で払う。尤も、もとは分厚かった布の皺よりは背中の部分の擦り切れ具合のほうが深刻だが。
「それはそうだろうが、……いいのですか」
「いいと言われましても、それがわたくしの仕事ですから」
 苦笑を浮かべる彼女を見て、窓際の男性は軽く俯いた。恐らくに今の彼の胸には、彼女への薄暗い感情が漂いつつあるのだろう。知っている。何度彼女が患者からそんなふうに態度を変えられたのか、彼は恐らく知らないだろうが。
 しかし彼女の予想を裏切って、男性は言葉を選ぶため慎重に口を開けると、控えめながらにまたも話しかけてくる。
「だが今のあなたを見ても、平気そうにはとても見えません。少しでも、休んで気を紛らわせたほうが……」
「お心遣い感謝しますわ。けれど、仕事をしないとむしろ気が紛れません。だからこれでいいんです」
 これは本当だから、彼女は笑んで優しい男性に感謝の言葉を述べる。だがそれでも彼の様子はどことなく落ち着かない。
「……しかし……あなたは……」
 どうにかして休ませようと、もしくは感情を発散させようとしてくれる気持ちは嬉しいけれど、看護師として今ある彼女にそれらは不要だ。時折肩書きが剥がれて地が出てしまうときもあるが、そうだとしても患者に涙は見せまいとしている彼女にとって、男性の態度は危険だった。
 だから毅然とした態度を貫き、相手が差し伸べてくれる手を傷付けるくらい冷たい物腰を取ろうと覚悟を固める彼女に、男性は不意の言葉を漏らす。
「あなたは、僕を助けてくれたろう。敵国の人間である、僕を」
 今まで鬱陶しげに二人のやり取りを見ていた三人の患者たちの空気が変わる。ある者は上半身を起き上がらせ、またある者は盛大に眉間に皺を寄せ、残りの者は立ち上がる。当然だ、三人とも敵兵に直接やられたせいでこんなところにいるのだから。
「駄目、やめて」
 三人から窓際の男性を守ろうと、彼女は慌てて彼に背を向け身構える。その姿に、危機的状況であるにも関わらず彼は穏やかな声で続けた。
「今もそうだ。こうして僕を庇ってくれるくらい優しいあなたが、看病していた人が死んで心を痛めないはずがない」
「ええ、そうね。それに加えて今からあなたが乱暴な目に遭うかと思うとさすがのわたくしも泣けてきそうです」
 皮肉めいて告げるものの、男性は自分の言葉を翻す気はないらしい。それどころか、ははと小さく笑って彼女を焦らせる。
「僕にはそんな価値はありません。けれど、あなたがそう思ってくれることは単純に嬉しい。だから、……足が動かせるようになれば、行こうと思うんです」
「どこにだ」
 彼女の代わりに、歩ける患者が一歩彼らに近付く。彼女は一歩下がるもののその表情は真剣で、怪我をしているとは言え成人男性相手に取っ組み合いも辞さない心持ちであるのは明らかだ。そんな彼女の横顔を、窓際の男性は眩しそうに眺めて答える。
「裁判所、教会、こちらの軍の本拠地、領主の前……まあ、罪を償えるところなら、どこへでも」
 ほう、と誰かが声を漏らすと同時に、ふざけるな、と誰かが吐き捨てた。その両方の気持ちを理解できるらしい、男性は浅く頷いた。
「僕は向こうじゃ少佐の地位でね、それでも任務に失敗して君たちの陣営に捕まり、拷問を受けた。這々の体で自国に帰ったら、失敗を咎められ裏切り者として扱われ、家族まで殺された上で切り捨てられた。まあ敵はどこにもいるけれど、味方はどこにもいない訳だ」
 淡々としたその告白に、三人の患者の怒気が揺れる。あっさりとした口調だが、眼前の男性は自分たちなぞよりも余程凄惨な痛みを受けたと知ったからだろう。そんな目に遭った結果、この場で一歩も動けないものをいたぶるのはさすがに人として気が重い。
「けど、あなたは味方であろうとしてくれる。こんなふうに庇ってくれる。以前から、僕があっちの人間なのは知っていたんでしょう?」
 三人の視線と共に問われた彼女は短く頷く。それこそ何度だってあったからだ。敵を庇って味方に殴られた経験もなくはない。
「ええ、けれど今回が初めてではありませんわ。勝手に自惚れないでください」
「……はは、そうでしたか。けどそれならそれでいい」
 何がいいのかと彼女が目でのけん制を止めて振り向くよりも先に、男性は迷いがあるがそれでも強く、腹の底から呻いた。
「僕は、一瞬だけでもいいから、あなたのように誇り高く生きたいんです。……このまま、自分を偽ってばかりの生き方はもう嫌なんだ」
 彼女の呼吸が一瞬止まる。常に患者を軽々いなしてきた彼女の頭と唇が、動揺のため確かに凍った。
 ――自分は誇り高くなんかない。自分こそが短いながらに自分を偽ってばかりの人生を送ってきたのに、どうしてこの男性はそんな自分に憧れるのだと、疑問と、それ以上に火種のような怒りが彼女の胸から生まれる。
 怒りの正体は単純に、命を手放したいと告白されたことで。痛みに苛まれたため死にたいと漏らす患者は多いが、やはり人間は臆病な生き物だ。同室の患者が死ねばそんなこと、よく口にするものでも一月くらいは言わなくなるのだがこの患者は違うらしい。違うらしいからこそ、彼女は怒った。彼の本気を感じ取ったのか、それとも。
「立場や自分の気持ちを偽って生きるくらい、我慢なさい!」
 何度も自分に言い聞かせた言葉を思わず叫んだ彼女の声に、窓際の男性は小さく悲鳴を上げたものの、落ち着くとなにやら仕草を見せたらしい間を置いた。だが背を向けている彼女からは見えない。代わりに三人の患者たちが、それを見ていたようではあるが複雑そうなその表情からは、彼女の目では何も読み取れない。
「……無理です。いいえ、以前はできたし、自分に騙された連中を嘲笑ってさえいた。けど、きっと天罰が下ったんだ……。だから最期くらいは、せめて胸を張って……」
 弱々しい、遺言にしては聞くに堪えない言葉に、かっと彼女の腹の底が熱くなる。いやこれはむしろ冷たいのか。どちらにせよ奥底の体温が急激に変化した自覚のある彼女は、それまで背に庇っていた男性へと素早く向き直るとその頬に平手を打つ。
 乾いた音が病室内に響き渡り、男性に危害を与えるつもりだったはずの患者たちが何故か小さく肩を強張らせた。平手を打たれた人物は唖然と彼女を見上げ、平手を打った彼女はこれまで人を強く睨みつけた記憶がないほどに彼を睨みつける。
「わたくしの前で死ぬ話をしないで! これ以上そんな下らないことを話すのでしたら、そのまま追い出します!」
「……いや、しかし」
「そんな話をわたくしにすればどうなるのか想像もできませんか、あなたは!? わざわざあなたを、あなたたちを殺すために治療するほど、わたくしが暇な人間だと思っているのですか!!」
 掠れるほどに声を荒らげ、どんな顔をしているのか自覚がないほど激しく怒気を現す彼女のかんばせを、男性は戸惑った顔で見上げる。
 その態度にこそ、また彼女は腹立たしくなる。彼女ならば男性の言葉も意思も、天使のようにすべてを受け入れてくれるとでも彼は思っていたのだろうか。そこまで慈悲深いならそも彼女は看護に、生き延びさせることに執着していない。
 わざわざ苦痛を我慢させ、死に絶えるその瞬間までは希望を捨てないでと励まし続けるのは、酷く残酷なことをしている自覚がありながらもやはり目の前で誰かが死んでほしくないからなんて単純な衝動があるからで。それらは巌のように凝り固めた理屈をあっさり凌駕してしまうほど強い想いだから、結局彼女は諦めきれずに足掻き続ける。既に死してしまった命は悼むことしかできないけれど、死が目前に迫った命でも、生きているなら奇跡が起きると、起こせるかもしれないと信じ続けて。
 今朝亡くした命を相手に自分の無力さをまたも噛み締めさせられた感覚が、こればかりは何度味わっても慣れない強い憤りが、彼女の全身にありありと蘇った。悲しいことは悲しいし、悲痛な最期を迎えた兵士たちには同情もしよう。けれどそれ以上に彼女を襲うのは、よよと泣き崩れ、故人の思い出に浸る女性的な感覚ではない。そしてそれが何より強い感情だからこそ、彼女は今もまだここに立てている。
 完全に怒りで我を失った彼女は、普段ならば決してしないはずなのに男性の顎をわし掴みにし、視線を無理くり自分から逃さないようにして迷子の顔に呪いの言葉を浴びせた。
「生きなさい」
 それは呪縛。絶望の淵に落ちたものを、何の明かりも支えもない虚空へと強引に引っ張り出す残酷な。力強くともそれ以上に無責任な。
「あなたがわたくしに報いたいと願うなら、あなたの中のわたくしが満足するまで生きなさい。あなたに求めることは、ただそれだけです」
 言い放ち、女王のように傲慢な視線で返事を待つ彼女を、男性は恐ろしいものを見る顔で食い入るように見つめていた。三人の傍観者がもっと近くで彼を見つめていたなら、その表情は天啓を受けた信徒のようだと受け止めたかもしれない。
 が、二人の息が詰まるほどの沈黙は何も知らないノックによって霧散する。
「……ィナ、お……く」
「わかりました」
 喉を怪我した元娼婦が、病室の前で玄関を指して来客を教える。同時に彼女の身体から湧き上がっていた怒りがものの見事に消え去って、しかし入れ替わりで胸に去来する気まずさにより普段より素っ気無い態度になる。
 ここはもともと診療所だから外患の患者も当然受け入れているのが、体も満足に動かせなくなった兵士の詰め所となりつつある今では訪れる人も少ない。だからまだ軽傷の患者に受け付けをしてもらうことも多く、そのつもりで彼女は玄関に向かったのだが。
 娼婦が片手に金貨を持っていたことに彼女は最後まで気付かなかったし、それが診療所の患者たちと交わした最期の言葉になるなんて、思ってもいなかった。

◇◆◇

 生き物とは死に直面して恐怖を感じるものだと、彼は知っている。知りすぎているほどに知っている。
 それは人間に限った話ではなく、悪魔であれ獣であれ天使であれ同じこと。しかし特に人間は、闇に、死の気配に敏感だ。
 胎内のように暗く染まった空を見て、彼らは自然と危険を感じて足を早める。瞼を閉じればいつでもすぐ現れる光景なのに、彼らは過敏に、滑稽なほど闇を恐れた。闇を切り裂く火を使い、石や砂を溶かして鋭い光を放つ武具を使い、彼らはなんとか獣や悪魔、時には同じ人同士で戦ってきた。
 そうしていつしか恐れを抱かなくなった人間たちに、原初の感情を思い出させるのが彼の、並べては悪魔の役目であって、悪徳に浸り享楽を貪り、人間どもを嘲笑うだけで生きるのが本質ではない。そうやって生きていれば足元を掬われると、彼はつい最近になって学んだ。
 思い知らされた対象は、おかしな女。頭の狂った人間。魔女ならぬ身でありながら強い魔法を使う娘。
 吸血鬼の帝王として魔界にその名を轟かせる『暴君』にとって、数日前に出会った人間の娘の印象を言葉にするならばまずそんなところだ。
 女は恐怖を感じなかった。いや、怯えることも人の顔色を伺うことも知っているようだが、そも闇に対しての恐怖が薄いらしい。夜であろうと日中であろうと、彼への態度は変化なく、ただ一人であっても眼前の出来事を淡々とこなす地に足の着ききった女だった。
 その人間は異常だった。血を啜る殺すと散々脅した自分に対し、平然とした顔で口を利き、笑みを浮かべ、同情し、挙げ句憧れるとまで抜かした。だが人間でありながら魔界に魅入られた憐れな存在でもなく、むしろ人間として生きることに誇りさえあるようで、だから矛盾を抱えており、狂っているのだと彼は結論付けるほどだった。
 その娘は無知な魔女だった。恐らく強い夜魔の生まれ変わりだろう。飾り気のない身であるにも関わらず、ただいるだけで彼の目と耳を引きつけて、どうにも調子を狂わせる。初めて月下のもとで見たときから、いやそれ以降も力は強くなっていく。どんな花よりも甘いのに、娘の性根を示すようにすっきりとした印象の芳香を放ち、緩い法衣の上からでも華奢とわかる四肢は昼夜を問わずよく働く。一人のときは近寄りがたいほど張り詰めた空気を持っているのに、他人を相手にするときは奇妙に人懐こい笑みを浮かべ。自分といるときは、時に息を呑むほど美しい。これが魔性でなくて何を魔性と呼ぶものか。
 内面や言動もまた不可解そのもので、自由な娘と思えばその実、何かに囚われているようでもあり。愚かな娘だと思えば直後に賢いと思い知る。純真なのに裏があるようで、慎みがないと思えば奇妙なところで恥ずかしがる。もっと気楽に生きられる技術と機転と器量を持っているのに、それらをすべて無駄にして今の居場所にしがみつくその理由は、悪魔の彼には想像もできない。娘が住まう町の住民は理解できないどころか、不気味だと思っているらしい。
 そう、娘は孤立している。
 城の奉公人の家に生まれた花の盛りの娘が一人、もう治る見込みがない負傷者ばかりが放り込まれる貧乏な診療所で、我が身を削ってまで治る治すと宣言して足掻いていくさまを見て、当初は町の住人たちも同情を寄せた。しかしそれも三年続けばどうだろう。
 相変わらず診療所には完治もせず墓に入っていくものばかりなのに、娘は看板を下ろさない。親と同じ職場に勤めようとしない。だから真っ当に壊れやすい神経を持つ人間は、娘をただの人間ではないと恐れ始めた。人の死ぬ瞬間が好きなのだろうと蔑んで、墓穴を掘るのが好きなのだろうと気味悪がって、下劣な者は死に損ないの男とするのが良いのだろうと嘲った。
 人間は同じ人間の、しかも何の暴力を振るわぬ者さえ恐れ疎むものだと彼は知っていたけれど、このときばかりは無性に腹立たしくて、危うく根城に退避した。娘との約束を破る気はないが、魔力を補充していない今、人間の住処で派手に暴れるのはいかな『暴君』と言えど短絡的な思考に思えたからだ。
 娘を恐怖のどん底に陥れるために本腰を入れたからとは言え、らしくなく人間の集まっている場所で情報収集などしたからか。胸糞の悪さは四日ぶりの魔界の空気を吸ってもなかなか拭い消えることはなく、彼は何度目かの重苦しい息を吐き出す。
 しかし平常心に戻るまでそう長くは必要ない。瞼を閉じ、頭を切り替え娘の声を思い出す。明瞭に響きながらも繊細な声は、人の心から恐怖を引き出すに最も密な現象について、なんと言っていたか。
「……死を常に見るが故に、死を常に意識する」
 だから覚悟もできている。彼は一応その場ではその回答には納得したが、今は疑わしく思い始めていた。娘自身は自分の気持ちに正直なつもりであったろうが、その裏の裏、奥の奥まで読まねば娘の本心からの恐怖を引き出せないはずだ。
 それに娘は死を恐れていないとまでは明言しなかった。当然と言えば当然だ。娘はあの華奢な身体で多くのものを抱えながらも背筋を正して生きている。抵抗も見せず血を吸えばよいと身を投げ出してきたものの、生きることに絶望している訳ではない。つまり人間が持っていて当然の生への執着心は娘の中にも確かに息づき、それは即ち死への恐怖心に繋がり、流れるようにして彼の独断場へも繋がるのだが、なかなかどうしてあの娘は。
 ――素敵だと。憧れる。あなたを。
 否と彼は大きく首を横に振り、不要な雑音を払い落とす。まったくもって忌々しくてならなかった。声を、言葉を、あの娘の表情を思い出すだけで、彼はとにかく調子が狂う。油断していれば違和感しかないむず痒さに押し流されそうになる。
 杭を触れることを許したのは、別段問題ない。あの細指ならどうやろうと引き抜くことなどできないだろうと思っていたし、事実それしきで彼はどうにもならない。
 問題は、基本的に怖いもの知らずで脳天気に接してくる娘が、まるでおっかなびっくりと言った態度で、息を呑むように触れてくるその姿にあった。長くも震える睫を軽く伏せ、それでも食い入るように自分の胸の杭を見つめるその表情。ミルクめいた白い肌に僅かに朱が差した頬と澄んだ湖の色をした瞳のコントラストは艶めかしくて、薄く開けられた花弁めいた唇はなんとも無防備で、彼はそのとき、正直に表現するならば打ちのめされた。
 『暴君』がたかだか人間の娘一人にここまで衝撃を与えられるとは、誰しも予想だにしまい。生温い風で不安感を煽り、蝙蝠で予感を覚えさせ、声や顔を出して不意を突き、姿を見せて詰みとなる結果のはずがあの、あのう、なんて一声だったときよりも激しい衝撃だ。しかし事実、彼はそのとき息を殺して杭に触れてくる娘のその姿に、限りなく熱い何かが溢れそうになっていた。時折見上げてくる娘の唇がどんな言葉を告げていたのかさえも耳に入らないほどのものが、彼のうちに時間の経過と共に膨れ上がりそのままぷつとはちきれてしまいそうになったけれど、結局娘が手を離し、二人の間の空気がもとに戻ると膨張した熱も次第に収束した。
 それ以降は言うまでもなく――いや、はっきり言うと逃げたのだ。敗走の途がここまで惨めとは知らなかった彼は、この屈辱を注ぐためにわざわざ人間の町に赴き、誇りなどかなぐり捨てる勢いで僕の手すら借りず娘のことを調べ上げた。そこで知った情報の多くに、ただ娘の行動を見ているだけではわからなかったものを収穫できてはいたが、同時に娘への理解が、恐怖を与えることへの糸口が遠ざかっていくように思えて。
 魔界に戻った彼の目的は、冷静になるためではなく身体を一旦休めるためでもなく、やはり娘の血を吸うためにあり。もう手段など選んでおられず、大統領府などと大層な名で呼ばれるその地域の『狂愚の庭』に足を踏み入れたのはどれほど前であったか。
 淡い紫の光を纏う、黒々とした身の丈の生垣がどこまでも続くこの庭は、魔力や意志が弱いものなら一歩足を踏み入れるだけで自分がどこから来たのかさえわからなくなり、命を終えるそのときまで永遠に彷徨い続けるとされる広大な、無音無臭無秩序の迷宮だ。だがこの地に抗うだけの魔力や強い意志さえ持っていれば、いつか迷宮は気まぐれを起こして足を踏み入れたものを導く。出入り口にではなく、当人が求めていた答えを知る賢者へと。
 彼の疑問に相応の返答を持つであろう人物は、どこにいるのか知っているし、何をしているのかも知っているが、直接尋ねる気などなかった。だからこうして彼は賭けに出て、迷宮に付き合うことで無駄な時間を消費する。無駄、そう無駄だとも。ひたすら歩き続ける最中にでさえ娘のことばかり考えて、苛立って、迷宮に付け入る隙を自ら与えてしまうのだから。
 だが彼の気持ちとは裏腹に、『狂愚の庭』は娘のことを考えてこそ答えを得ると判断したのか。苛立つ彼に我が身を滅ぼされかねないと恐れたか。人の手でもなく悪魔の手でも無理だろう、それまで永遠に続き写し絵のように整えられた生垣の一部の向こうが、彼が近付いた途端に騒がしくなった。
「それではちちうえ、みていてください!」
「ああ。……転ばぬようにな」
 場所に相応しからぬ子どもの甲高い声が、はいと元気な返事を寄越して生垣の向こうのそのまた奥へと遠ざかる。彼は足を止めはしたものの、誰かいるらしい生垣の向こうを掻き分けることなどしない。そこに自らが求める問いへと賢者がいると知っているからこそ。
 生垣の向こうを見つめる彼の視線を感じ取ったか。父上と呼ばれた悪魔が、一つの吐息と共に彼へと魔力を集中させる。
「……なにやら、久しい気配がするな。人の生き血を隠れ啜るが宿命の、矮小な黒い羽虫……」
 地響きめいて轟く声は、並の悪魔であれば縮み上がって我が身の罪にも向き直ろう。神が助けてくれると言うなら、悪魔にとって禁忌であるはずの祈りさえ捧げても構わないほど恐怖するやもしれない。だが彼は、そんな声と言葉と殺意を鼻で笑って弾き飛ばす。
「奇遇だな、俺も懐かしい腐臭を嗅ぎ取った。蛆虫どもに餌を与え、鎌で掻っ切るだけしか知らぬ髑髏のものだ」
 辛辣なやり取りののち、生垣を挟んだ二人の悪魔はそれぞれ沈黙でもって互いを明確に認識する。姿など見せる必要はなかったし、馴れ合う必要もなかった。悪魔にそんな生温さは不要だからだが、それ以上にこの二人は以前に殺しあった関係でもある。その上で互いに生き延びたため一目置いてはいるものの、そんな感情を表に出すのは愚の骨頂。気味が悪くて仕方がない。
「……して、その羽虫が何の用向きだ。余は虫の戯言に付き合うほどには寛大だが、生憎と遊んでやるほど暇ではない」
「ほう。子守に忙しい死神とは、なかなか上出来な笑い話だ。だが俺も、骨と長々じゃれ合う趣味はない」
 互いに姿を見せていないのにこれだ。生垣越しでの再会は彼らが自覚しているよりも物騒で、しかし暴力の一切がない辺り、それだけ『狂愚の庭』の気を揉ませたのだろう。
 だがそうさせた当事者たる彼は背景事情など知ったことなく、わざわざ大統領府くんだりまで来た理由を視線の先にいるはずの背中へと告げた。
「貴様に質問がある。用件はそれだけだ」
 簡単に過ぎる彼の言葉に、生垣の向こうは微かに息を呑む。いやそれとも、笑ったのか。そんな彼にこそ強い疑問を抱いたのか。
「……血染めの恐怖王が余に何を問う。血以外のものでも食したか」
「さて。ここ三日四日は何も口にしてはいない故、そんな日もあるやもしれんな」
 肩を竦めて、彼は生垣の向こう、過去殺しあった相手に過去最高の冗談を述べる。その意図は相手にも伝わったようで、逞しい声が唐突に、高くははと大笑した。
「……ハ、ハゴス様? どうかなさいましたか……?」
「いや、構わず……。久しく機嫌が良い自分に、気付いただけだ」
「は……」
 生垣の向こうのそんなやり取りに、娘の影響でか、らしくもないことを言ってしまった自分に呆れながらも彼は用件を話す。これ以上下らない言葉の応酬を続ければ、この迷宮を怒りで潰しかねなかった。
「人間の死を間近で多く見てきた人間は、死を容易に受け入れるか。……恐れぬのか、自らの命の危機さえも」
「…………はて、それは」
 問われた悪魔は顎に手をやるような微かな衣擦れの音を漏らし、真摯に考えているのだろう。暫くの間をおいて返ってきたのは、彼の予想を遥かに越えて明確だった。
「否、と言おう。余が刈り取った多くの人間は、死を間近に見、知ったからこそ恐怖する。恐れを知らぬは赤子か、魂のなき欠落者よ。故に死を間近で見てきたものこそ自らの死を恐れる。自分の眼前で他者が死ぬことすらに酷く……」
「だがあれは違う。命を狙われても尚、恐れぬ人間を俺は知っている」
 ほう、と楽しげな声が響く。余計なことを言ったかもしれないと後悔しても遅いが、相手はこの魔界を統べる王なる身。一度は戦った輩とは言え、相手の失言を聞き流すくらいに心は広い。
「確かに、死神と出会うても取り乱さぬ人間は稀にいる。だが奴らにも恐怖はある」
 そこだ。彼は生垣の向こうにいよいよ神経を集中させ、自然と眼光を鋭くして問いかける。
「奴らは何が恐ろしい」
「簡単だ。自分の命よりも大切なもの。それが失われることが、奴らを何より恐怖と、それよりも深い絶望へと追い込もう」
 自らの命より大切な、とはまた平凡ながら難しい話である。彼は単純にそう考えて眉間に皺を寄せたのだが、胸のうちに立ち込めた霧は確かに薄らと晴れつつあった。それさえ探り出せば、あの娘をついに恐怖のどん底へ陥れることができるのだから、喜びこそすれ面倒だと肩を落とす気はさらさらない。
「貴様も思い知っただろうが、そのような人間は殊更手強く見える。だがな、転じて見ればそれは実に弱いのだ。自分の命以上の執着を、違うものに捧げるのだから」
「……弱い、か」
 娘の姿を脳裏に描くも、とてもそうは思えない。しかし今の答えを求める彼に最も適した賢者たる相手は自分以上に死に密な、そしてそれ以上に恐怖を知る悪魔だから、結局は何も言わなかった。だが、その思考まで相手は読みきっているらしい。生垣の向こうは野太くくぐもった笑いを喉の奥で転がし、彼を意地悪く挑発する。
「そうとも、弱い。強いと思った自分の判断に呆れるほどにな。しかし、そうなれば悪魔でさえ実に弱い。過去の余が今の余を見れば、何とも恐怖を与え易い、腑抜けた悪魔がいたものだと驚くだろうよ」
「……ほう。興味深い話だ」
 獰猛に彼は笑うけれど、その爪も牙も本気で鋭くなりはしない。挨拶代わりに遊戯に誘われたが故に愉しそうだと目を輝かせたまでで、今は先約があるからまずはそちらを優先せねばならないのだ。
「だが貴様に恐怖を与えるのは、飢えを満たしてからにしよう」
 すげなく誘いを断られた悪魔もまた、本気で懐を見せつけたつもりはないだろう。何せ今は子守で多忙らしいと彼が茶化したばかりなのだから。
 話は終わった。子どもの明るい笑い声をきっかけに、生垣を軸に対称の位置にいるもの同士の魔力の密度と緊張感が薄まる。返答に満足した彼は外套を翻し、もときた道を戻ろうとするのだが、それを留めるつもりか生垣の向こうの悪魔は一言。
「暴君よ、余が貴様の問いに応じてやったのだ。代わりに一つ、答えを寄越せ」
 彼は無言で立ち止まり、半身を傾けそちらを振り向く。対するものは、奇妙に愉快そうな声音を含んで彼に問いかけた。
「それは苦労の甲斐ある馳走か?」
 苦労と表現され、彼は疑問を思い浮かべ、しかしそんな自分にこそ違和感を覚えた。ここ最近の血を吸わずして過ごした日々は、普段ならそこまで吸わない自分を不思議に思い、飢えと乾きに苦しみ苛立っているだろうに。今の彼はどうしたことか、苦痛など感じもしなかった。いや、あの人間の娘に翻弄される自分の情けない姿を思えば屈辱で眼前が真っ赤になりそうだがそれが強すぎるせいだろう、吸血による飢えも乾き感じている暇などないのだ。
「……あれの恐怖に塗れた顔次第、だな」
 短く答えて、彼は今度こそ歩き出す。生垣の向こうに反応はなかった。彼が耳を傾けていれば、噛み殺した笑い声が本当に小さく聞こえたかもしれないけれど。

◇◆◇

 『狂愚の庭』から抜け出た彼の前に、直ちに跪く者が一人。豊かな、頭髪と言うより獣の毛並みに近いくせのある髪と尾を持ち、なめし皮めいた褐色の肌の人狼族の青年で、同時に彼の従僕である。いつぞやかに命を助けてやって以降、随分と恩義を感じているようで彼の忠実な僕を自称し、しかし彼さえも舌を巻くほどその通りに付き従ってきた。
「お帰りなさいませ、閣下。存じ上げてはおりましたが、閣下が無事に戻られたこと、このフェンリッヒ心から安堵しております」
「ふん、いつも大層に過ぎる奴よ。だがそれも許そう、今の俺は機嫌が良い」
 尤も、彼がこの人狼に怒ったことのほうが数少ない。だがそれを指摘もせず、人狼は主の表情を伺いながらも立ち上がり、薄い笑みを刻む彼の後を追う。
「と申されますと……例の人間の娘との約束の、突破口を見つけられたのでしょうか」
 彼は力強く頷きながら足を早める。行き先は当然決まっていた。ここへは娘と交わした約束を果たす糸口を見つけるために戻っただけで、それを得た今となっては長居する理由もないのだから。
「それはよろしゅうございました。閣下が狩りにあちらに赴いたにも関わらず、四日も血を吸われておられないなど、わたくしには信じ難きことでした故」
 彼の仕草を見て取った人狼は、ややもわざとらしいくらいに声を高くしてその感情を示す。この程度で我がことのように喜ぶからこそ、彼はこの僕をどうにも憎めない。むしろ悪魔でありながら従順であろうとする姿勢に、微笑ましささえ持つほどだ。
「一方的に血を啜ってばかりとなれば、いかな俺とていずれは飽きる。ときには災禍も愉しめ、フェンリッヒ」
「は……」
 人狼は主の命に畏まるが、その表情はまだ僅かに硬い。主の行く道を遮ろうとはしないものの、ぴったり横に張り付くその顔を視界の隅に納めてはいたが、理由を彼は察するつもりなどさらさらなかった。そも従者の顔色を見る主人などどこの世界にいるものか。
 そんな彼の思考こそを理解しているのだろう。従僕は頭を下げた頭を戻したのちに、真剣な表情で彼の前に一歩先んじ、行く先を遮る非礼と覚悟を見せつけるかのごとく身を屈める。
「……閣下、恐れながらお願いがございます。これから閣下が向かわれます先に、今度はわたくしもお供させて頂きたいのです」
 彼の視線が微かに揺らぐ。しかし何故自分がそんな反応をしてしまうのかわからなくて、彼は従者へその不快感の矛先を向けた。
「お前から見て、それほどまでに今の俺は頼りないか」
 意地の悪い自覚を持ちながら彼は人狼に訊ねると、予想していたとおり従僕は静かであるがしっかりと首を横に振る。
「いえ、さようなことは決して。ですが閣下と約束をした娘とやらが、何か罠でも……」
「それはない。安心しろ」
 下手な冗談にもなりはしない突飛な発言に、彼は人狼が言い切る前に笑い飛ばしたのだが、その判断こそ何らかの危機感を感じているのか。従者はいえともう一度首を横に振ると、顔を僅かに上げて眉根を寄せるほどに必死な顔を見せてくる。
「閣下はその娘とやらを過信しておられます。人間はどこまでも弱く、それ故に結託する生き物。閣下の御目を疑う訳ではありませんが、どこかで……」
「罠があったとして? それで、たかだかそれしきで、俺がどうにかなるとお前は思っているのか。お前の主ヴァルバトーゼは、人間の罠で命を落とすほど弱いと」
 つまらない杞憂ばかりを口にする人狼に、いかな彼でも気分を害して睨みつける。それだけの仕草であるにも関わらず、長身の悪魔は激しく動揺し憐れなほどに身を縮こまらせた。
「滅相もない! ……ただ……、ですが、わたくしは……」
 珍しくもうなだれ口ごもる人狼の姿に、娘との約束を果たすことばかりに気を取られ、急いていた彼もさすがに頭が冷める。そもがこの従者は誰よりも彼に忠実であるのだ。主を想ってこその行動と心配だろうとその気遣いを察してやると、彼は嘆息でまずその気持ちを労い、静かに命じた。
「言え、フェンリッヒ。許す」
「……は。まさかとは思うのですが、閣下はその娘の血を本当に吸われる気でいられるのかと、わたくしは不安で……」
 意味のわからないことを告白されて、片眉を大きく歪める彼に、人狼は焦って言葉を付け足す。
「と申しますのも、わたくしがあなた様に従って以降、このようなことはありませんでした。人間と約束したことも、数日とは言え血を吸わないことも、わざわざ閣下が一人の人間を恐怖に陥れるために御自ら動かれることも……」
「そうだったか」
 自覚はないが、確かにそうかもしれないと彼は過去を振り返る。いや、人間と約束したことも血を吸わないことも、ほんの気まぐれで起こした過去は、この人狼が付き従う以前にあったのだ。今となってはその詳細も朧気でしか思い出せず、蘇る記憶はつまらないの一言に伏す結末であったはずだが。
 だから彼は人狼の言葉にさしたる驚きを示しもせず、微かな笑みを浮かべてその肩を慰める。
「やはりお前のそれは杞憂だ、フェンリッヒ。俺は今日、あの娘との約束を果たす。妙に力んでいるのは事実だが、俺はあれを恐怖に陥れることも、その血を啜ることも、忘れる気など一つもない」
「でしたら……そのお姿を、遠くからでも結構でございます。せめて我が目で見届けさせて頂けませんか」
 尚もしつこく食い下がられて、彼は呆れの息を吐く。この人狼、すべては主のためにとかしずきその通りに働くものの、なかなかどうして我が強い。だがそれをも彼は健気な忠誠心と受け止めて、この場は降参を示してやった。
「好きにしろ。だが、お前はあの娘に手を出すな。あれは俺の獲物だ」
「……承知しております」
 大仰な態度で深々畏まる人狼の姿に、彼もまた軽く手をかざし受け入れ移動を再開する。だが従者の表情はますます強張っていくことに、彼は気付いていなかった。
 ああ人狼が不安に思うも詮方無きこと。かの従者は結局言えやしなかったが前提として、彼が一人の人間ごときにここまで執着することなど、今までありもしなかったのだ。

[↑]

別れ-後編

2011/07/06

 一日も経たず戻ってきた人間界の、彼と約束した娘が住まう町は、彼が魔界へと一時戻ったときと同じようでやや違う空の色をしており。あのときが朝焼けも近い未明であるならば、このときは宵の口、夕日が沈んだばかりの夜の始まりで。
 早速彼は従者を連れて町はずれの診療所に向かったのだが、そこに目当ての娘の姿はなかった。遠目からでもよくわかる、鮮やかな桃色の髪も瑞々しい香りの肢体も、澄んだ声は窓の外からはどこにも見えず。
 いやそれよりも、診療所の内部が昨日一昨日と比べて明らかに違う。娘の放つ空気に染まり、のんべんだらりとしていた患者たちが遠目からでも今は剣呑で、ろくに体も動かせないはずなのに取っ組み合いの喧嘩さえしでかしそうな、重苦しくぎすぎすと互いの様子や言動を伺っている始末。
 何があったのか、娘はどうしてここにいないのか。違和感を覚えながら彼は人狼に素早く視線をくれる。蝙蝠を飛ばせば内部の様子も詳しくわかろうが、人狼の聴覚が手元にあればその必要もない。
 長い付き合いの人狼はそんな主の仕草一つですべてを察したようだが、どうにも表情は良い予感を連想させない。いや人間の住処を鼠のように探ること自体、悪魔の身ならば好いてはいないだろうが、彼の望みとあらば眉一つ動かさず死地にも乗り込む従僕はしかし、今は渋い顔で重々しく口を開く。
「確認させて頂きますが、閣下と約束した娘の名は……」
「アルティナだ」
 短く、自然と力を込めて告げた彼をどう見たのか。人狼は刹那、怪訝に眉をひそめたが主の視線を受けて自分の表情の変化を自覚しもとの顔に戻ると、細く長く息を吐き、淡々と呟いた。
「……その娘は、どうやら連れ去られたようです。恐らくは人間同士の諍いに巻き込まれ、唐突に」
「いつ……いや、どこへだ」
 愕然とするのも束の間、たちまち矢継ぎ早に問うた彼に、人狼は短く首を振る。
「それがわからぬが故に、奴らも戸惑っているのでしょう。……原因は」
「いい。直ちに町に戻りあれの行方を探す」
 返事も聞かず外套を翻し直ちに闇に紛れゆく彼の姿に、人狼は躊躇の間を置いたが、それでも何も言わず追従した。
 そうして町に戻った二人の悪魔は、狭くもない町を人の目をかい潜り、ときに欺き情報を集めた。得られた結果は当然ながら彼らにとって芳しいものではないのだか、町の人間たちにとって悪くない、どころか明るい話題であるらしい。
 町外れの診療所に詰める魔女がようやく捕らえられたのだと、彼らは口にした。ついに白昼蝙蝠なんぞを出したせいで目を付けられ、偉い人が動いたのだそうだ。この戦時中に、祝い酒までやる始末のものさえいた。
 だがどこにかは誰も知らないらしい。立派な制服を着た軍人やら、教会勤めの奉公人やら、彼らに付き従う傭兵やらが娘を囲って町を練り歩いていた姿が多数目撃されただけで、実際のところは魔女裁判だとさえわかっていないかった。誰かが直接一行に、娘をどこに連れていくのか、どうしてあそこから引き剥がすのかを喜色を浮かべて尋ねたらしいが曖昧に濁されたきりで。
 複数の立場あるものが連れ添えば、それこそどこが目的地かはわからなくなる。湖の反対側にある戦場の無数の天幕うちの一つか、教会か、どこぞの宿か。それとも全く関係のない民家にいるのか。考えれば考えるほど、捜索範囲は広がっていく。
「ええい、糞が……!」
「……閣下?」
 独自に集めた情報を集約し説明し終えた人狼に、彼は情報を集める以前より落ち着くどころか態度を悪化させて、何も言わずに再び診療所に戻る。
 速度も含めて唐突な主の行動に慌ててあとを追った人狼がようやくその姿を捉えたときには、彼の手に見も知らぬ女の私物と思しきハンカチがあった。窓から娘の部屋に入り探し当てたらしいそれを、彼は迷いなく従僕に突き出す。意味は明確、であるはずなのに。
「……閣下、それは」
「探せ、フェンリッヒ。誇り高き人狼たるお前にこのような真似をさせるのは心苦しいが、俺は諦めたくはない」
 人狼の目元に翳りが走った。臣下を気遣う心を持ちながら、それでも人間を匂いで探させる眼前の悪魔は、この従僕が傾倒する『暴君』にしては一時的とは言え感情的に過ぎる。そこまでの執着は悪魔にとって危ういと本能的に察した従者は、無駄だと薄々予想しつつも小さく首を横に振った。
「相手はたかが人間でございます。閣下が約束を守るに値する存在ではございません」
 人狼の想像通り、彼は僕の制する声など聞きもしない。それどころか、今までどんな命令でさえ逆らわなかった従僕に牙を剥くほどの怒りを見せる。
「貴様は二度同じことを言わせる気か、この俺に!」
「いえ閣下、断じてそのようなことは……!」
 叫んだ彼に、人狼は明らかな動揺を示す。しかしそれで嫌でも主が冷静になりそうにないと悟ったのだろう。逡巡の果てに短く顎を引き、ゆっくりと白手袋から女の私物を受け取った。夜空の下でちらちら輝くそれは刺繍が入っており、従僕は微かな違和感を覚えるも今は無視する。
「お前は町を探せ。俺は外を探す」
「畏まりました」
 短く人狼の重苦しい姿に、ようやく彼は自分の焦りを自覚する。いつの間にか震えていた唇から重い息を吐き出すと、その銀髪にことさら優しい声をかけた。
「……フェンリッヒ」
「は」
「お前に人探しなどさせること、すまなく思う。これは本来、俺一人で行うべきだと言うのに……」
「……いえ」
 視線を僅かに伏せた人狼は、改めて彼へと身体を向き直らせ、胸に誓いを立てるよう手を添える。
「すべては我が主のために。……わたくしも、誇り高きあなた様の約束のために、全力を尽くしましょう」
「頼む」
 彼としては当たり前に念押しした一声に、人狼がもの悲しげな顔を作る。彼は自覚していなかった。この従僕に彼が頼んだことなど、今まで数えるほどしかないと言うのにその一つがこれになるとは。
 彼は人狼と別れると、そのまま暗い林を走る。霧となり蝙蝠となり月光が照らす静かな世界をひたすらに。たかだか数百人程度が暮らす人間の町の周辺でしかないのに、普段ならば睥睨する価値しかないこの地は、今の彼には酷く広い。心細いほどに暗く深い。
 胸に去来する感情の正体を、今の彼に見極める余裕などない。ただ彼の脳裏に浮かぶのはあの娘の、アルティナと言う名前の娘の穏やかな横顔であり、自慢げに胸を張る姿であり、嬉しそうに目を細める笑みであり、あどけなくも切なげな、その狂おしいまでに美しい表情で――。
 頭の中で何度もその名を呼ぶ。意味はないとわかっていても、それしか今の彼にはできなかった。心の中で何度も叫ぶ。そうする理由は彼にはわからない、知らない。ただそうしてしまう、衝動的に。
 林の陰に誰かの陰を見る。娘かと思うがそれは木陰に過ぎず、一瞬の期待とそれがすぐさま裏切られた失望感に彼は木の幹を蹴り上げ薙ぎ倒す。深々と地中に根を張っていたはずなのに容易く横倒れた木の周辺で、付近の巣にでもいたのか鳥が羽ばたき小動物たちの鳴き声が騒がしく響いた。
 無闇に探し回るのはやはり無理なのか。このまま屍となった娘と再会するしかないのか。想像しただけで腸が煮えくり返り、己の無力さを思い知る。
 立ち尽くし、血を流さんばかりに強く手のひらを握りしめる彼に何の奇跡が起きたのか。いつぞやか娘もこんな体勢をしていたと思い出した彼は、そのまま初めて出会った場所も記憶の階層から引っ張りだした。
 診療所よりも更に町のはずれにある、廃墟と化した教会の前の湖で、あの娘は顔を冷やしていて。その背に音もなく立って振り返るのを待っていたのだ。それだ、そこだと思い至った彼は走る。比喩でなく風よりも速く、死よりも疾く。
 廃墟と化した教会に着いた彼は、辺りを見まわし人影を探す。ここにもやはりいないのか、ならば墓地かとそちらに足を向けかけたそのとき、誰かの投げ出された足を見た気がした。
「……吸血鬼、さん?」
 ようやくの、ほぼ一日ぶりの再会に、彼は心の底から安堵の息を漏らしながらか細い声のするほうへ首を向ける。だが、その視線の先には。
「アル……ティナ……」
 人形のように力なく焦げた石煉瓦に半身を寄せて、月下に照らされている以上に青白い肌の、今まさに生き絶えようとする娘がいた。

◇◆◇

 魔女裁判であれば良かった。
 さしたる証拠もない荒唐無稽な噂であれば、毅然とした態度を取り続けさえすれば時間は稼げる。魔女ではないことの証明は難しかろうが、それでも一日で完全に無罪のものを追い込むのは難しかろう。この町には裁判所などないのだから、領主や教会の本陣にお伺いを建てるにしても時間を要する。魔手から逃げきることはできなくはなかった。
 しかし今、取り囲む三人の男によって彼女に向けられている疑惑はそのようなものではなく。運が悪いほうへと坂道を下るように転がっていった結果の現実的な、密偵容疑である。当然彼女は無罪を主張した。しかし、奉公人はおどおどとした口調ながらも指摘して。
「け、けど、けんど、……あんた、金、持ってんだよ、な……?」
 いない、とは言い切れればどんなに楽か。彼女に私財はある、一応ながら。減っていくばかりで増えもしない、診療所の売り上げから金を工面できなくなって以降、給金として毎月換金するものだが。
「質屋では上客だったそうじゃない。あの人、ほら、けちだから君から買った品々で随分荒稼ぎしてきたらしいよ?」
「お蔭さんで、あんたの話引き出すのにかなり渋られたがな。ボタンなんかあの女は売ったことねえって、どうにも認めやがらなんだ」
 ボタンとは即ち昨日、窓際の男性がくれた純金のそれのこと。あのとき出会った母子は言いつけ通り質屋に売ったのだろう。だが四人のうちの誰かとその現場で遭遇し、ボタンに象嵌された紋章が、潰されてはいるものの敵軍の旗印と知らされて狼狽したらしい。自分たちは敵軍なぞには無関係だ、ここに売りに来るといいとこれこれこんな格好の人に手渡されたと告白して、それを彼らのうちの誰かと聞いた質屋の店主は盛大に舌を打ったと言う。
 その仕草こそ命知らず。心当たりでもあるのかと詰め寄られたが、店主はいやいやと慌ててそんな女など知らないと誤魔化した。母子は自分たちこそが無罪であると主張するため、知っているはずだいつもここに売りに来ると言っていたとしつこく食い下がり。
 結局のところ母子は無罪となった。否、質屋は小金持ちなのもあって町の住人からあまり信用がないから、彼こそが嘘をついているのだと決めつけられた。確かにそんな背格好の女はここの常連だと認めた店主は、しかし金ボタンなぞあの女から受け取ったことはないとわざわざ過去の帳面を引っ張り出して説得したらしい。軍人は口調を真似て切々と語る。
「ボタンとなれば、普通ならいくつもあるでしょうお客様。いっぺんに売ればそりゃあ怪しまれますからね、一つずつ売りに来るものですよ。けれどほら、見て下さいな。あの女が今まで売りに来たのは指輪やブローチやらそんなもので、きっとあれは偶然拾ったんだ――ってね?」
 偶然など起きるはずがない。隠し持っていたのが底を尽きたか、誰かから貰ったかのどちらかだとの彼らの判断は、皮肉なことに真実であった。
 大体、ろくに金を払うものもいない診療所に勤める看護師が何故そこまで金になる装飾品を持っているのか。敵軍から報酬として受け取っていたのではないか。向こうの要人の愛人ではないかと憶測を受けても、店主はそんなことはないあの娘は無実だと、頑として譲らなかったと言う。
 彼女は自分が今まさに密偵の容疑で民衆裁判にかけられているよりも現実感を掴めず、その話を聞いていた。質屋で値段の交渉をした経験もなく、大人しい客として振舞っていても噂を信じている店主には、ずっと毛嫌いされてきたと思っていたのに。何故庇う。金づるがそんなに惜しいのか。強奪されたばかりでも命も店の評判も惜しかろうに、どうしてそんなことで自分を。
 震える彼女の姿を確認した軍人は、にこりと笑って小さな顎に手をやった。
「君、良かったねえ。こんなことになったら誰にも庇ってもらえないって思ってたんでしょ。良かったねえ、お礼言わなきゃねえ。もういないけど」
 唐突に地面がなくなった感覚を、味わうのならば今がまさに。それまで顔色が悪いものの毅然としていた彼女が一気に顔色を失う姿を見て、傭兵の一人は床に唾を吐き捨てた。
「殺した訳じゃねえぞ。たまたま、打ちどころが、悪かったんだ」
 そうそうそう、と誰かが笑う。笑い声を耳にして、彼女の目尻に涙が浮かぶ。頭の中いっぱいに膨れ上がってくるのは、どうして何故と問いかける言葉ばかりで、胸を埋め尽くす感情などろくに自覚もしていられなかった。
「そ、それと、だ。……あんた、前、揉め事、起こしてた……敵、の、なな、難民……」
「いやまあ確かに、怪我人をどうにかすんのがあんたの仕事だろうがな。もうちょっと分別ぐらい持ってくれないと……ま、長引いてくれたほうが俺らも食い扶持しのげるけど?」
 確かにそんな過去はあった。それを彼らは、敵味方の区別なく看病するのではなく平等に振る舞うことで情報を得られると、もしくはその繋ぎになると判断したのか。彼女がいる診療所は、敵地の中の丁度良い隠れ蓑として利用されていると受け取ったのか。
「しかし今回は運が悪かった! くだらん一卒兵や難民ならどうにか隠し通せるってもんだがね、君にボタンをくれたの、あれかなりのもんだ」
 軍人は大げさな仕草でしみじみと腕を組むと、そう、彼女、と小首を傾げて何か思い出す仕草を取る。
「君んとこに喉使えない子、いるだろう。あの子がね、身振り手振りで教えてくれたんだ。君がつい最近入った、金髪碧眼の患者と親しいって。わざわざ痛み止めの薬まで買ってやるくらいだって」
「彼は……!」
 確かにその彼、窓際の名前さえ教えてもらえなかった男性こそが、もとは敵軍のそこそこの地位にいた人物ではあるけれど、一度こちらに捕まっている。拷問を受けて逃げ帰り、それでも自軍から裏切り者として扱われていたと、今朝話を聞いたばかりなのに。
「ああうん、彼も君のあとでちょっとね。とりあえず今は君だよ? そっちのが重要じゃない?」
 軽薄に言い含める軍人の、その軽々しさが逆に今の彼女にとっては何より重い。町の中で自分を庇ってくれた人がいたと、知った直後にその人物がもうこの世にいないと知らされた彼女には、眼前の人懐こい笑みの人物こそが悪魔に見えた。それでも本物の悪魔を知っている彼女は、唇を噛み締めて崩れ落ちかけた背筋を伸ばす。
「……わたくしは何も知りません。密偵なんかじゃありません」
「うん、言うと思った」
 あっさりと頷く軍人は、しかし立ち上がった際にひらりと彼女の髪の一房をつかみ取り、不意に引っ張り上げる。
「けど無理だから、ね。吐いてもらうよ、国のために」
「……っつ!」
 それだけでも十分な暴力の気配に、彼女の身体が明らかに強張る。だがこれさえも、彼女は覚悟していた。こんなに理性的なものとは思わなかったけれど、いつしか自分は民衆裁判の手によって命を落とすかもしれないと、自分が魔女だと囁かれていると知った際に想像していた。
 故に覚悟は決まっていて、早鐘を打ち始める鼓動を体内から聞きながらも彼女は深呼吸する。動揺を押さえ込み平静たれとする態度に、軍人はうふふと愉快そうに笑う。
「いいね、骨のあるのは好きだよ売女ちゃん。ああそれとも、処女だったりする?」
 その通り、と彼女の視線の厳しさが物語る。同時に十分なほど強張っていた彼女の全身が更なる硬直を増すも、軍人は下劣な舌なめずりさえせず、むしろ慈悲深く微笑んだ。それこそ彼女が一歩後退るほど、穏やかに。
「じゃあ君が正直に話したときにでも、……まあそうじゃなくてもかな。臨機応変にさ、適当なので貰ってあげよう。うんそれとも、人じゃないほうがいい?」
 愕然とした彼女の耳に、別の誰かの面倒臭そうな声がええと不満を漏らした。慣れているのか、彼らはそんなことにでさえも。
「なら何だよ。死体でも引っ張ってくんのか?」
「おったってるの探すの面倒でしょ。ま硬直してるならモノ千切りとってもいいけど、それだとそれで動かすの手間だよね。……あ、そうだ。野良でいいから犬いない? 蛇は見ててつまんないから却下ね」
「それこそ探すの面倒だ。……まったく、あんた本当に趣味悪いねえ」
 そう嫌そうに言うくせに、口の端にはどこか冷たい笑みを浮かべて傭兵の一人が肩を竦める。そうして彼女を、青白いを通り越し土気色になりつつあるほどの顔で呆けている彼女を見る。見られていると自覚して、ようやく彼女は溢れそうになる涙を堪えようとわななく唇を閉じようとするけれど、それを誰が許すと言うのだ?
「んうぅ……!?」
 彼女は顎を掬い上げられて、強引になめくじのようにのたうつものを口の中に放り込まれる。だが目を瞑れもしなかった彼女はそれがなめくじではないと、無理くり思い知らされた。夢ではなく、幻でもなく、軍人の清潔な糊の利いた制服の襟が視界に広がり、しかしそれをも凌駕する脂臭い体臭がいまだ誰も触れたことのない咥内を犯す。舐る。
 そうして暫く放心していた彼女が激しく抵抗を示すと、それを軍人はやけにあっさり受け入れて、ただし足掻いたために倒れたのは彼女のほう。
 口を袖口で拭い、それより先にと溢れる唾液で咥内を洗い流そうと激しくえづく彼女の背中に、軍人はやけに嬉しそうな声をかける。
「奪っちゃったぁ」
 気楽そうな声と共に彼女の頭の隅に、とある吸血鬼の端整な横顔が浮かび上がり、強い後悔と悲しみと共に、泡沫のごとく消え去った。
 彼女が絶望したのを好機と見たか。軍人はなにやら傭兵二人と奉公人に命ずると、抵抗する力をなくした彼女の腕を掴み椅子に仰向けで寝転ばせる。そうして何故か首から上だけを椅子からはみ出させ、もう嬲られるのかと衝撃が抜けきらず放心した彼女のどこか冷静な頭の中の囁きを裏切るように蝋を塗った布袋を被せた。
 急に視界が遮られ、頭を振るう彼女を理性的に抑え付けるその手際の良さ。ようやく混乱した彼女が袋の中に空気穴があり、それはぴったり口と鼻の穴用に開けられていると触れた空気の流れで知ったその瞬間。
「ふぶっ、……がっ、ごっ―――――ッ!」
 口の中に土臭い水が入る。仰向けになっているため遠慮なく、布も漏斗のかたちのように高さをつけているから抵抗もできず鼻の穴にも気管にも入り込む。溺れてしまうと彼女は焦り、抵抗しようとするけれど大の男たちが支えているのだ。そんなことできるはずがない。
 まずいまずいまずい死ぬ息もできない死んでしまう駄目だ駄目だそれはいけないけれどこれで――と、彼女が思ったところで水の流れが止んで、鼻の奥がつんとするけれどようやく息ができると知った瞬間、あの軍人の声がした。
「ね。話して。正直に」
 こうしているのか、普段から。彼女の呼気を求めて激しく上下する胸に、恐怖ではなく怒りが湧き上がる。絶対に負けるものかと、認めてやるものかとまさしく命の危機に晒されているのに彼女は思ってしまう。
「……無罪です、わたく――ぅ、ぐぶっ!?」
 また水を注がれる。砂利がないものの泥水の臭がしたものが無遠慮に、不意を狙って。どうせこのまま溺れ殺しても構わないと思っているのか、彼女が本当に無罪かどうかであるなどどうでもいいのか。
 負けるものかと己を奮い立たせながら、彼女はひたすら死の恐怖と戦う。そう戦えた、恐ろしいことに。彼女にはそれが本能からの感覚であると知っていたから、足掻くことはどうしようもないけれど屈しそうになる自分を励ませた。励ます自分でさえも、水を気管に注がれ命の無事を知らしめるために息をさせられ、そのたびにみしみしと軋んだ音を立てていたけれど。
 軍人は彼女に優しく話しかける。認めてくんないと、ときに馴れ馴れしい物言いで。それからこの拷問が、どれほど効率的かを嬉しそうに語ってくれた。ああそうとも、『くれた』だ、彼女はこの一生で最も不要なご高説を承った。曰く手間がかからないと、曰く場所を選ばないと、曰く死の苦痛を水槽でやるような拷問よりももっと少量の水で済むと――って言っても今君にあげてる水は排水ってやつでね。別にいいでしょ、井戸水汲むの面倒だしさ。再利用ってやつだよ――、曰く何よりこれの優れたところは目立った外傷がないのだと、曰くうっかり殺してしまってもそれは事故で済むのだと。
「水の量もタイミングも、対象の反応を見れば調整できるからね。便利なもんだよ、よく考えられてる。東の人間どももなかなか侮れないなあ」
 満足気に笑って拍手する軍人は、彼女を抑えつける傭兵二人に割って入って、その激しく上下する乳房をつと指で触れた。それだけで、彼女は唇を奪われたときのことを思い出し身体を必死に捩ろうとする。
「可愛いねえ、いい反応だ。……けど君、こんなことされても頑固だからなあ。これ利くのかね?」
 別の段階に移ると知り、彼女の袋で覆われた目から我慢できずに涙が一、二雫溢れる。だがそんなことは露知らずとばかりに、軍人は奉公人に言ってのけた。
「野良犬見つかんなかった?」
「……へ、へえ……ど、う、にも……」
「ま、仕方ないか。んじゃ君らでいいや、誰からする?」
 抑えつけられた自分の上で、陵辱の相談がされているなどどんな生娘が耐えられるものか。浅い呼吸を繰り返しながら最早理性も持たず抵抗するしかできずにいる彼女の何かに気付いたらしい。我先へと進み出る奉公人を宥める軍人の声に、今までと違うものが交じる。
 何がおかしいのだろうと思っているのは傭兵たちも同じこと。奉公人も戸惑っていたらしいが、軍人の冷静な、この排水をどこから持ってきたかの質問にへりくだりながらこう答えた。
「あ、あすこ、はずれの、奥、に、……庵が、あるんでさ。や、薬師の、ばばあの……」
「ああ、いたね。僕らが行く前に自殺した人でしょ」
 自殺。あの老婆でさえも。こちらは恐らく本当に魔女裁判にかけられるところだったのだろう。自らの無罪を主張するより先に、あの人物は自ら苦痛なき生を終えたのか。
 ここに来ただけでもう何度目かの衝撃に、またしても律儀に打ちのめされたが痛みか苦しみか何なのかわからないもので浅い呼吸しかしていられない彼女の耳に、奉公人のえへへと笑う声が届く。
「へ、え……。そこ、に、でで、でっけえ瓶がありまして、な。そいつ、色は、すす、澄んでますが、み、水じゃなくて、変な臭い、してるもん、ですから……」
「そいつをこの子に使ったんだね?」
 はいはいと、大きく頷く奉公人の声を聞き、咽び喘いでいた彼女は、溺れるような呼吸で必死な喉からどうにか言葉を振り絞った。
「……柳の、痛み止め」
「ああこれ、鎮痛剤なの? ちょっとそれじゃ君、痛がらないじゃない」
 口先を尖らせているであろう軍人に、彼女はどうしたことか笑いたくなってきた。だがその根源から来る感情は穏やかとは言い難く。怒り、どころか恨んでいると、言ってもいいかもしれない。彼女にとってはこんなどす黒い感情を特定の人物に抱いたのは初めてのことだったが。
「……大量に摂るとね、呼吸、うまく、……できず、に、死んで、しまうん、ですよ……」
 だからあれは皮膚に塗って使うものだ。そう、彼女は初めてあの痛み止めを受け取った際にしっかりとした口調で老婆に説明された。殺すつもりがないのなら、口からの摂取は禁ずる。薄くガーゼで浸して塗るだけに使えと命ぜられ、それ以来彼女はあの人の言葉を馬鹿正直に受け取ってしまい、どうにも嫌えなかった。
 そして今、それを知らされた四人の男は、彼女ほどではないにせよ、いくらか衝撃を受けたらしい。まずはやはり真っ先に軍人が反応を示した。
「だとすると……まずいなあ。この子放って逃げちゃおっか」
「これからだってのに?」
 二番手を申し出た傭兵は、死体かもしくは死にかけた女でも構わないらしい。明らかな不満の声を漏らすが、軍人は当然でしょうと苛立たしげに肯定した。
「領主さまが見られるらしいからね。直接顔を見せられるかどうかはご気分次第だけど、そんでも身体の見た目だけでも綺麗に、無事に、生かしておかなきゃなんなかったの」
 その言葉にこそ、彼女は何よりもの衝撃を受けた目を見開いたことなど、ついに軋んだ板が真っ二つに折れ、そのまま抵抗することもできず恐怖の底、どころか奈落に陥れられたとはここに集う誰もが知るまい。いやそれどころか町の中にさえいやしない。もう知っている可能性があった人物は、先程亡くなったとわかっているが故に。
「……うそ……! ……や、……だ……、なんでっ、なんでぇ……!」
 今まで感じてきたには黒々とした靄が、彼女をぶわと襲う。目の前が真っ白から真っ黒になり、また真っ白に転じ、ああどちらであろうと関係ない。冷や汗がどっと出て、呼吸の乱れ以上に彼女の胸を鷲掴みにしてひねり潰しそうな重苦しい悲痛が襲う。歯の根どころか全身が震え、目尻に浮かぶ涙は塩辛く、腹の奥から得体の知れないものがこみ上げる。
 これが恐怖。白い手は幻でしかなかったから、そうではないかもと記憶に封ができたはずのもの。けれど今のそれは現実に迫り来る、いつとも知らず自分を追い込もうとするもの。奪うもの。呑み込むもの。これが、それが、原初の『喪失』への本能。
 喘ぎながらもそれまで毅然としていた彼女の態度に、軍人がおやと嬉しそうな声を漏らし、煽り立てる。
「どうして怖いの、僕にも教えてよ。素敵な方だよ、立派な方だよ。なのになんで怖いの、ねえねえ教えて?」
「……やだ、どして、……なんで、……なんでやめて、……! いや、やめて、やめて、やめてやめて……!」
 彼女は乱れる。みっともなくもがく。子どものように首を振り、涙と鼻水と柳の薬で顔じゅうを滴らせて、それでも恐怖に取り乱し、領主の名を悲鳴として礼拝堂に響き渡らせる。
「来ないでよ、お父さまぁぁああ……!!」
 空気が、一挙に冷えた。

◇◆◇

 尋問所と化した教会で完全な混乱をたったの一声で招いた彼女はそれから逃げた。逃げおおせたのではなくて、逃がしてもらえた、か。
 まず領主の娘と名乗ってしまった彼女の言葉を彼らが信じたのは、皮肉にもそれまで頑として拷問に耐えてまで密偵容疑を認めなかった彼女がああも取り乱していたからで。この期に及んで嘘を吐かない娘であると判断した軍人は、さっきまでの態度が嘘のように怯えた。
 死にたくないと、まず軍人は腹の底から言った。唖然としたままの傭兵たちを乱暴に叩き、奉公人を蹴りつけて澄んだ井戸水を持ってこさせるように命ずると彼女の顔を覆っていた袋を取っ払い、これ以上ないほど平伏した。申し訳ございません申し訳ございません何とお詫びをすれば良いのかわかりません嗚呼ですがですがせめてもお慈悲を頂きたいのですどうかどうかどうかお父上にはこれまでの無礼を隠していただきたいのです――。
 先程までは自分の命を危機に晒し、神のごとき傲慢さと余裕を持って自分の苦しむ姿を見て楽しんでいた人間と全く同じように思えずに、彼女は衝撃を受けたけれど、どこか凪いだ気持ちでそのつむじを見つめていた。さっきまでなら怒りもあったし、怨んでもいた。そう言えばこの軍人には唇を奪われたし、誰が破瓜を頂くかの相談をしていたのが砂時計をひっくり返す間もないころ。
 けれど。今彼らを恨んだところで、傷めつけたところで、恐怖を与えたところで何になるのだと、痛み止めの効果もあってか、僅かな意識の混濁を感じながら彼女は他人事のように思う。どうせ彼女は死んでしまう。あと何時間持つかの命。多分に軍人が水を持ってこさせようとしているのは胃の中のものをすべて吐き出させ、薬の効果を少しでも薄めようとしているからだろうが、焼け石に水でしかない。
 それよりも恐ろしいのは、彼女にとって死ではない。いやあれもまあ怖かった。痛くて苦しくて辛くて必死になってしまった。けれど魂の底から震えるような、黒い波が押し寄せてくるような恐怖は、彼女が一市民として生きれないこと、もしくは死ねないこと。家出をした領主の娘として城に戻り、ただ一人で短いながらに、それでも不器用に必死で地に足を着けて生きてきた彼女の今までのすべてを無に帰すこと。
 だから彼女は軍人を許した。許した代わりに自分のあとをした追うのを禁じて、もう小枝さえ摘めない腕力であるため教会の扉を開けさせ、診療所へと自分の足で戻って行った。それからぼんやりと、ああ最後まで自分はどっちつかずに生きてたのだなと思い知る。
 走馬灯、であろうものを数多く見ながら彼女は歩く。二十にもなっていないのに我ながら濃厚な人生だったとやはり他人事めいて笑う。いくら深呼吸を意識しても、ゆっくりと歩いてもどうにも息が上手くできなかった。息苦しさに意識を朦朧とさせながら、何度も蹴躓きそうになりながら、彼女は歩く。ただのアルティナとして生きてこれた、自分の力で初めて作った自分の居場所に戻るために。
 苦労もあったし、痛い思いもした。寂しい、悲しい思いは数えきれない。けれどそれでも前を向いて生きてこれたのは、自分の行動に責任を持つことが、即ち自由であることがとてもとても嬉しくて、面白かったから。湖の向こう側に見える城で戦禍の一欠片も知らず安穏と従順に過ごす頃を思い出すたびに、彼女はあそこよりもここがいいと自分に何度となく言って聞かせていつしか自然とそう思うようになった。
 思い込み、だと自分の気持ちを疑うこともままあったか。そのたび自分の半端さを自分で責めることも多い。けれど尋問を受けたとき、今の生活が奪われることを想定して頭の中が真っ白になった自分に、彼女はようやく心の底から思っていたと自覚する――愛していたのだ自分は、あの診療所での生活を。ただの一般市民として、ただ一人の人間として生きてこれた人生を。
 だから彼女は慈しむような微笑を浮かべ、奇妙に晴れやかな気持ちで一歩ずつ足を進める。人の多い道は嫌いだから、あえて林の中を進んだ。最期の帰路は、いつか誰かと出会ったときと同じ道筋で。
 それを思い出すと、彼女の穏やかであったはずの心が小さなさざ波を立てる。彼には悪いことをした。今日で最後の約束の日だったのに、こんなふうになってしまうなんて思いもよらず。けれどあの吸血鬼の顔を思い出しながら逝けるのであれば、個人的には上出来だと彼女は笑おうとする。どろりと全身が濁っているように重い今では、それも難しい話だけれど。
 林を抜けて、風によろめく彼女は自分が手をついた場所を見て、乾いた笑いを漏らした。ざらりとした感触は煤だらけの石煉瓦で、道を間違えてしまったらしくここは朽ちた教会だと知る。
 教会で死にそうな目に遭って、教会で死んでいくなんて悪い冗談だ。だがまあここなら猫車もいらないし、墓穴を掘るだけでいいのだからと思って歩くのを止め、静かに腰を地面に付ける。そうして冷たい風に煽られながら、彼女は浅い呼吸の中でも精一杯にそれを整えようとする。
 そんなとき、何か黒い陰が視界を過ぎった気がして、また走馬灯を見たのかと彼女は思う。けれどなんだか懐かしい匂いがして、これはと胸が高鳴った。単純に、嬉しかった。彼がそこにいることが。
「……吸血鬼、さん?」
 切れ切れの呼吸に紛れて声を上げる。名前、覚えているけれど。最期くらいは呼ばせてくれるだろうか、なんて脳天気なことを考えている彼女の前に、その黒い誰かは振り向いて。
「アル……ティナ……」
 泣きそうな顔をしながら、吸血鬼は彼女をまっすぐに見てくれた。

◇◆◇

 吸血鬼はほぼ反射的に細い体をかき抱いた。抵抗の欠片もなく腕に納まった彼女が虫の息であることを察したのだろう。またはそうなった理由でさえも理解していたらしい。ならば助けに来てくれたつもりだったのだろうかと、彼女は少し喜んだのも束の間。彼は彼女の肩を抱く手に力を込めて、町のほうを睨みつける。
「人間どもめ! この怒り、皆殺し程度で済ましてやるものか……!」
 自分を胸の中に収めておきながら、吸血鬼の吐き出す言葉は呪詛のように荒れ狂っているものだから、悲しくなった彼女は弱々しくも首を振る。
「やめて、ください……わたくしは、復讐など……望みません」
 そうして彼女は外套を掴もう手を伸ばすけれど、指を動かすことさえ酷くだるい。ここに来るまでで随分疲れて、抱かれているのに冬を先取りしたように寒くて、そのせいで指がかじかんでいるのだろう。それでも何とか、彼女は吸血鬼を止めようとする。
 対する彼は、のろりと動く娘の無力なその姿を見て、心を千々に乱されていた。あれだけ華奢でも瑞々しくあった肉体が今や弱々しく、自分の腕の中で眉をしかめるのに精一杯とは異常だ。それ以上におかしいのは、彼の頭のほうで。娘の言葉を一字一句聞き逃すまいとしながらも、次から次へと後悔の言葉ばかりが溢れそうになってくる。
「わたくし、誰も、恨んでなんか、いない、……後悔、してない……から、だから……」
 むしろ彼女は恨みを昇華し後悔もなく、晴れ晴れしい気持ちでいると言うことを、吸血鬼に伝えるのは難しい。特に今、こんな状態では火に油を注ぐだけかもしれないと、彼女の悲しげな目が何よりものを告げていた。
 彼は娘に目で諭されたものの、気持ちがそう簡単に収まるはずがない。激しく首を振り、人形めいて脱力しきった娘の言葉を耳にした上でその意思を退ける。
「復讐ではない。……お前が死ねば、俺はもう二度と人間の血を吸うことはできん。その、腹いせだ」
 彼にとっては間違いない本心だが、娘はいよいよ涙でも流しそうなほど目を伏せる。その顔を見て、彼は後悔する。見ていられない、笑ってほしい。恐怖に突き落とすつもりだった相手に、ひたすらそう願う。
 けれど吸血鬼よ。お前は腹いせをしたい程度で、約束を交わした女を抱くものなのか。悲しげな顔をするものなのか。――もし本当にそう言うものだとすると、自分だけ勘違いをして盛り上がっているのが滑稽で、彼女は力を振りしぼり手首を持ち上げようとする。
 気遣うように彼が彼女の手に手を添えた。手袋越しの彼女の体温は人ならぬ身の彼でさえ冷たく感じ、彼女にとっては仄かに冷たいくらいだけれど、互いに生き物特有の逞しさと柔らかさは確かにあって、ふたりの肌へと染み渡る。
「だった、ら……血を。どうせもう、長くはありません、から……」
 握ることすら難しい手首を見せつけ、せめても泣きたい気持ちを封じて微笑もうとする彼女の善意を、やはり吸血鬼は怒りの形相で忌々しげに振り払う。
 彼は確かに怒っていた。こんなときでも自分との約束を優先し、泣きそうな顔をしているくせに相手を気遣い続ける娘に苛立っていた。しかも普段は機転が利くくせに今の誘い方はなんだ。不器用にもほどがある。普段の娘らしからぬ。
「ふざけるな! 俺は約束を守る! お前を怖がらせるまでは誰の、……お前の血も吸わぬ!」
 駄々をこねる子どものように言いすがり、彼は娘を更に強く抱く。馨しい娘の体臭よりも濃い、土の臭いと冷たい死の匂いが、その魂ごと包んでいく感覚を知り、彼の胸の奥、杭が埋まるよりも深い部分が酷く痛む。痛くて痛くて、視界がぼやけた。
 慟哭めいた声を聞き、彼女はいよいよ霞みつつある視界を恨めしく思う。水めいたものは流れてこないけれど、それでも吸血鬼が泣いていないか不安になって、彼女は血を吸わせるために掲げたつもりの手首を、もっと上へと持っていく。
 流れるように白手袋が、彼女の手を彼の頬へと導いた。ひやりと触れる彼女の手は彼の頬を冷まし、彼女の手に熱を、生命力なるものを与えようとする。
「それに俺は、……お前が死なぬよう、見張ってやると言った。なのに、……!」
 鼻が詰まったような声が聞こえ、彼女の指先が微かに濡れる。温かいどころか熱いくらいのそれは確かに命あるものが流すもので、羨ましくて眩しくて、それ以上に彼女は酷く、自分の中の彼への想いが高まっていくのを自覚する。それは何と名付けられている感情なのか、彼女は頭の中をもう、探れない。余裕がない。
「……まじめ、なのね、……へんな、吸血鬼、さん」
 微かに笑んだ娘の顔は、死に際のようには見えないくらい静かで穏やかで。ああその調子でこのまま健やかにあれと彼は願わずにはいられない。そんなのは無理な話だと、激痛を発する胸の奥が告げているのも無視して彼も口の端を無理に歪めた。
「……笑えるならば十分だ。生きろ。そうすれば、その脳天気な頭に、俺が恐怖を刻んでやる」
「ごめんな、さ……」
 それは無理だと、彼女は笑い続けていようとする。けれど難しくなりつつあった。眠気と言うには猛烈なそれが意識を無遠慮に秒単位で奪っていって、息苦しさに口元が引きつる。喉は、声はちゃんと出ているのだろうか。
「約束、して、困らせ、て……血、吸わせて、あげられ、なくて……」
 もういい、もう喋るなと彼はわめく。待てと、いずこかにいる名も知らぬ娘の命を刈り取ろうとする死神を殺したい気持ちになりながら、けれど彼は眼前の娘の姿から目を離せない。離したくない。きつくきつく手と肩を抱き、生きろと願い続けていると言うのに。
 そんな中、娘は、彼女は、ああそう言えば、と一つのことを思い出した。
「ゆい、いつ……心、のこ…………」
 自分はまだ呼べていないけれど。好きな人に、名前を呼んでもらったのだ。

◇◆◇

 最後まで他者に気遣い続けた娘の唇が、息を吐き出さぬまま停止する。羽のように軽い肉体なのに、それから増した重みは彼にとって磔刑の十字架よりも重い。確かに命が失われ、骸となったが故の変化に、彼は何よりもの痛みを味わった。
「おい、死ぬな…! 死ぬな、死ぬな、死ぬな……!!」
 いくら耳元で叫んでも、いくら身体を揺すぶっても、娘は反応を示さない。ただ眠るような青白い顔が揺れて、そのくせ瞼は開かれない。瞳には二度と光が灯らない。笑みさえも浮かべない。
「俺に約束を守らせずに逝くな! 勝手に死ぬなど許さんぞ! 起きろ、おい、アルティナ、おいっ、おいっっ……!」
 彼が人間の名を呼んだこと、初めてだったと娘は知っているのだろうか。覚えているのだろうか。わからない、わからないままに彼はひたすらに娘を抱きしめ、それでも叫び続ける。
「アルティナッ、アルティナっ、っっ、ア、ルティナ……ぁ、アル、ティナぁあぁぁ…………!」
 続く声は最早泣き濡れているのに、けれどやはり娘はいつまで経とうが目を覚ます気配はなく、それ故に娘を見つめ涙を流しながら彼は思い知らされる。死んだのだと。自分ではない誰かに殺され、この娘とはもう二度と言葉を交わすことも、意思を持って触れることも、互いを見つめるどころか意識することさえもできないのだと。
 胸の杭の奥がじくじくと痛む。これほどまでの痛感は幾度となく闘ってきた彼に経験のないもので、この傷を癒す手段など人間界どころか魔界、天界にでさえあるまい。今も彼の目尻から止めどなく流れ続ける想いの奔流は、恐らくこの胸に痛みを刻んでいくように熱い。そんなことをしなくても、自分はこれを死しても忘れることはないのに。
 彼は泣く。ひとりの人間の娘を喪ったことをひたすら嘆いて、その躯を抱きその娘の生前の輝かしさを思い出しながら、ただただ胸の痛みを涙と嗚咽で示す。けれどそれは化生の咆哮としては聞こえず、まるでひとりの人の男のような、ありきたりで平凡で無害で、ただ声の主がひたすら悲しんでいることしかわからない泣き声で――。
 どれだけそうしていただろう。
 嘆く気持ちは静まったが、娘の穏やかな死に顔を貪るように見つめ、その柔らかく仄かに温かかった身体が骸となって着実に冷たくなっていくのを抱きしめることで直に感じ取った彼の背後に、馴染みのある気配が近付いてくる。気付けばもう、空は白みつつあった。
「……閣下」
 苦しそうな声だった。自分を心配しているのだろう。それがわかるほど頭の中は冴えているのに、いまだに彼の胸は血を流さんばかりに痛み続ける。涙はいつからか枯れていた。
「……お前らしくもなく、遅かったではないか」
 娘の骸を抱いたまま立ち上がろうか、彼は暫く考える。迷ったが、やはり止めた。魂なき亡骸なれば手元においても意味はあるまい。ただ胸の痛みが増すだけと判断して、彼は丁寧に骸を横たえらせるとその白い手を一度きつく握る。背後からの足音が近付いてくる。
「娘の匂いが強い場を発見したのですが、どうやら入れ違いでしたようで……。その娘は人間の、つまらぬ諍いに巻き込まれていたようです。密偵の容疑をかけられていた、とか……」
「そうか」
 今更それを知ってどうなろう。娘が蘇ってくるわけではないのだから彼は気もなく返事をする。しかし人狼はそれで主が人間に怒りをぶつけるなり、そのような人間たちに見切りをつけるなりの反応を求めていたのだろう。無反応と知り怪訝に眉をひそめる。
「……お怒りではないのですか?」
 人狼は決して口にはせぬものの、娘を亡くした際の主の慟哭をしっかりと耳にしていた。人間相手にああも取り乱している声が自分が従う『暴君』のものであると信じられなかったが、気性が激しい人物であるとは熟知している。そのため従僕は彼が一旦落ち着いてから、このような出来事を起こした人間どもの住まう町に向かおうとしたのだが、主は静かに首を横に振るだけでその心情を示す。
「怒りはある。約束も、人間の女一人守れなかった自分へのな」
「閣下!? いえ、ですが閣下に責任はございま……」
「ある。俺の責任だ」
 言い放つその声に迷いはない。迷いがなさすぎて、人狼は二の句を継げられない。誇り高きこの吸血鬼が自分で自分を苛む言葉を何故こうも簡単に引き出してしまえるのか。疑念を抱く従僕は、彼の心のうちを感覚的に予想していたはずだ。それが答えと気付くのは、もう暫く後のことだが。
「……帰るぞフェンリッヒ。ここにいてももう何も変わらぬ」
 立ち上がり断言する彼の言葉に、人狼は何も言えず付き従おうとして、懐の違和感に気付いた。もう既に、遺品となってしまった娘のものだ。
「では……これは、どう致しましょう」
 距離を詰めて訊ねる人狼の手の中にあるのは、娘のハンカチ。ふとあのときの、わざわざ林の中に入ってから泣き喚いていた娘を理解できぬと呆れて見ていた自分が随分と昔に感じられて、彼は仄かな苦笑を浮かべる。また胸が痛んだけれど、それ以上に娘への温かな、くすぐったくも痛ましい気持ちが勝った。人はそれを、何と呼んだか。
「ああ……、これか」
 彼は壊れものに触れるようにハンカチを受け取ると、人狼に向き直り小さく首を振る。先に行けと命ぜられた従僕は、不安げな顔をしていたものの無言で承り、早々に林の奥へと消えた。
 人狼の足音と気配が遠のいたのを待った彼は一人湖のほとりにまで歩くと、屈んでからハンカチで水を軽く撫でる。それから立ち上がり濡れた布を顔に当てると確かに清浄な刺激が肌に触れて、泣いて火照った顔が冷えていく。残り香が、微かに彼女の気配を描いた。
 ――成る程。確かにこれはいいな、と彼は薄く笑い。同じ仕草をしていた瞼の裏に蘇る、あの娘に向かってハンカチに口付けたまま告げた。
「……俺はもう、約束は破らぬ。絶対に、二度と」
 城から吹く急な風に外套をはためかせた彼は、ついでとばかりにハンカチから手を放す。いずことも知れぬ淡い朝焼けの空に舞ったそれは、まるで白い羽のように見えた。

[↑]

その後

2011/07/06

「わたくしはこれから、ただのアルティナになります。苗字なしのアルティナ。ええそう、ただの一般市民。いずれ看護師になります。もう教会にも行ってきました。明日からあちらで見習いとして勉強をするの」

「お父さまはわたくしが本気だってことをわかっておられないんだもの。だからこうして、わたくし一人の力でも、できるってことを、証明します」

「診療所よ。怪我をした人や、居場所がない人をみてあげるところ。そう言う場所をつくるんだって、わたくし、決めました。もちろん、自分だけの力でよ」

「それで、そこはお金を払わなくてすむようにします。だから色んな人が来るはずだわ。そうしてわたくし、たくさんの人とお知り合いになるの。お友だちになるの」

「多分、恋もします。素敵なひとと、わたくしの診療所で、夜の湖を見ながらお話しをしたりするの」

「そうなったら、もうそれ以上幸せなことなんかないのでしょうね!」

◇◆◇

 『暴君』が血を吸わなくなってどれほどのときが過ぎただろう。以降の彼は大きく変わった。そうとも、たった一人の娘に変えられた。彼の心が約束を破った痛みと追憶から次第に現実に戻っていくと、静かな、飽くなき戦いの日々が幕を開けた。
 戦う相手は今まで戦った宿敵と認めし古強者ではない。いまだ名高き『暴君』を討ち取ろうと無謀にも挑んでくる無知蒙昧な者どもでさえない。悪魔狩りをしようと群れてへっぴり腰で立ち向かってくる人間どもなぞでは当然ある訳もなく。ある種、吸血鬼にとって全く予想だにしていなかったもの。従僕である人狼と、本能と、過去の浅ましき傲慢さであった。
 吸血鬼が血を吸わなくなった、つまり娘との約束を守り続けると知って人狼は愕然としたのちに奮闘を始めた。最初こそは彼の宣言が一時の気の迷い、もしくは一人の人間への弔いだと受け止めていたのだろう。左様ですかと暗い顔をして見せ、大人しく引き下がっていたものの、それが一月二月と続けばさすがに危機感を覚えてしつこさも増す。その上で、彼は同じことを告げた。胸を張り、そのときどきの言葉は違えど、強い意思と娘への想いは同じく変わらぬものを籠めて。
「俺はもう約束を破らぬと誓ったのだ。故に、人の血は吸わぬ」
 それではいけませんと、人狼は首を横に振る。何がいけないと吸血鬼が問えば、魔力を失うと、血を吸わないなど吸血鬼の矜持に関わると、『暴君』としての地位と実力が揺らぐだと。それらは確かに大切だ。悪魔である身として、自分の力が衰えるのはやはり苦痛ではある。だがそれらよりも前提の、悪魔としてあるべき土台の問題として、大切なものがあったのだと彼はようやくあの痛みから得られた。
 自分の信念を貫くこと。誇り高く、約束を違えずに生きること。それこそが、もとからある力に甘えた誇りではなく、個として一から築く本当の矜持だ。そう、彼は学んだ。
 今際の際で娘が告げた一言が、吸血鬼の痛み続けた胸に光を宿す。無実の罪で殺された臨終を迎えても尚、気高くあった娘の言葉が、吸血鬼に自らもそうあれと思わせる。『暴君』の名声に驕っていた自分を怖がらなかった娘が、そんな儚い命でさえも救えなかった自分の無力さが、彼をより高みにへと導いてくれる。
 そんな吸血鬼の心情を、人狼は理解し得ないらしい。おかしな話だ。この従僕もまた自分に付き従うことで、寿命を縮めている可能性があるのに。命を削ってさえも自分の信念に従うことなど、お前ももうしているではないかと問いかけるのだがこれに僕は。
「ですがこれでは、自滅と何ら変わりはありません、閣下……!」
 苛立たしげに、告げてくる。自分が強く想うものに生き長らえよと願うのは吸血鬼もまた経験があるし、主従は互いにそう思っていることだろう。だが『暴君』の肩書きは、約束を破ってようやく得られる魔力は、今の彼にとって誇りと同価値ではない。
 揺らがぬ吸血鬼に、人狼はいつものように後悔の言葉ばかりを口にして、どうにか血を飲ませようとしてくる。ときに欺き、ときに挑発し、ときに自らに爪を向けかけてでさえも。危うく口にしかけたときもあったが、何とか彼は吐き出せた。胃が引っくり返るほど嘔吐など、『暴君』として飽きるほど人の生き血を啜っていた自分ではなかった経験だ。だがそうしてまで約束を貫き通したことに、荒々しい勝利の手応えと自信を感じもした。
 閑話休題。自分の従者が自分の誇りを善意によって穢そうとしてくると言うのは、吸血鬼にとってなかなかに気が引き締まる経験だった。まったくもって油断ならない、忌々しい。だがその気持ちは嬉しく思う。だからだろうか、彼は以前より自分の中での人狼への信頼が増したように思えた。普通は逆であろうに増したのだ。その上で芽生えた油断ならない好敵手を見つけたような、秘めやかな緊張感がまた心地良かった。
 吸血鬼が血を吸わなくなっても、『暴君』討ち取ったりを狙う無謀な輩は少なくない。それをどうにかあしらっても、魔力は衰えていく一方なのだから自然、従僕と協力することも多い。命の危機を感じることも当然増えた。それだけに、死地を潜り抜けたあの充実感は素晴らしかった。生きるとは何と面白きことかと、心の底から思えてしまう。――そう、あの娘も過酷な日々の中で感じていたのだろうに。
 本能は、また従僕とは違った意味でなかなかに強敵である。人狼の誘いに対する最大の潤滑油だ。そのときどきの精神次第で迷いもするし、ときおり無性に誰かの喉笛を食い千切りたくなることも、正直に言えばままある。
 飢えと乾きは代用品を色々と試してみたが、どうにも今まで体に馴染むものはなかった。さすがに魔力を失ってしまったため体が退化を始めると、いかな吸血鬼でも危機感を持って、人間界で言うところの家畜に当たるものの屍肉を食したりしたのだが、どれもこれも口に入れたそばから後悔が込み上げて来る。それでもなんとか大きな後悔を、自壊しかねないほどの強大な後悔を招かないために無理をする、その苦しみと言ったら。吸血ばかりに甘えていた自分が、その上で『暴君』よ『恐怖王』よと一目置かれていた自分が、いかに恵まれていたかを思い知らされる。だが自らを戒める約束を、破るつもりなど彼には毛頭なかった。
 そうして本能は往々にして協力者を見繕ってくる。たった一人の人間でさえ怖がらせられないくせに偉そうな過去の自分を引き合いに出して、暴力でもって万能であったような顔をしていた過去を鮮やかに魅せ、吸血鬼が発掘した矜持を彼奴らはへし折ろうとする。そんなことはさせてなるものか。あの約束を守らねば、そうしてあの約束を守り続ける自分を誇らねば、娘の死は無意味になる。それを恐れた彼は、圧倒的に不利な状況であっても必死でもがき続ける。
 自分の気持ちと闘うのは、どのような急襲よりも油断ならない。疲れで気が緩んだその瞬間に、飢えを感じて人型の悪魔を見た瞬間に、手首を捧げてくる従僕を見た瞬間に、吸血鬼の心にするりと入り込んで誘ってくる、その執念深さと来たら。この誇りに関して強敵である人狼でさえ可愛く見えるほど。
 今、吸血鬼の眼前にいる人狼は、眉間に皺を刻んでなにやら深く考え込んでいるらしい。なにやら、などとは無責任な言い回しか。血を吸わない主のことを案じているのだ。
「……存外、感情が表に出やすいな、フェンリッヒ。以前はよくわからなかったが、それだけお前の顔などろくに見ていなかったと言うことか?」
 他の悪魔から見て転落の日々――吸血鬼にとっては過酷であるが相応に誇り高き闘争の日々――が火蓋を切ってから、彼から人狼に話しかけることも多くなった。互いの沈黙なぞもう慣れきっているのだが、ときにこうして言葉をかけてやることを彼は楽しんでいたし、相手の気遣いはすまなく感じながらもやはり嬉しく受け止めていた。
「は、……ああ、いえ……」
 深く物思いに沈んでいたようだ。浮かない顔で言葉を濁す人狼はこのようなとき、大抵はあの娘が亡くなったときのことを考えているのだと知っている。ようやくその強い痛みを静観し、深い傷跡からなんとか膿が治まってきたような状態の吸血鬼にとっては、多少に羨ましい話だが。
「……我らがこうなったのもあの娘のせいです。わたくしにとっては、無意味と知りながらも悔やむばかりで」
「ああ、全くだ。だが、過去を悔いるのは無意味だぞフェンリッヒ」
 自分も過去を引きずりながらあっさり言い切り、やはり過去を持ち出す人狼に告げたのち、吸血鬼は昂然と胸を張る。
「俺はこの事態でさえも己を貫けることを誇らしく思う。……血を吸わねばそのまま飢え狂い、苦しんだ挙句に浅ましくお前の喉でも食い千切り、後悔のまま息絶えるのではないかと思っていたが、なかなかどうしてどちらも頑丈だ」
 いや、魔力を失った退化はもう始まっているのだから心はともかく体のほうは限界なのだろう。それでも今の吸血鬼には意思がある。娘との約束を守らんとする強靭な信念が、悪魔としての誇りを思い出したが故の、それを貫き通す自信と喜びが。
「俺は今、生きることの苦しみと、楽しさを味わっている。やせ我慢などではなく、心の底からこれは愉しい。『暴君』の名に甘えていたときとは、比べものにならん充実感だ」
 笑う吸血鬼の心は事実凪いでいながら、奇妙に熱く高ぶっていた。これが生の実感。これが誇り高く生きると言うこと。『暴君』と呼ばれていただけの自分には、感じもしなかった自分の生命力が、今は心底頼もしい。
 そんな顔を見て、いくらか人狼の気も紛れたか彼の熱さに引きずられたか。薄暗い顔が仄かな呆れの笑みを滲ませる。
「……やせ我慢などと口になさる時点で、やせ我慢しておられるのではないですか」
「違う」
 断固と告げるその心情は子どもめいてむきになった部分はあると、吸血鬼は微かに自覚していたがそれでもそんな自分を飲み込む。やせ我慢など麻痺するほどにしているからだ。彼は確かに笑みを刻むと、自分の手のひらを見つめてその奥に潜む自らの血潮にこそ命があると実感し、静かにゆっくりと拳をつくった。
「俺は生きる。どれほど困難な道に瀕しても、屈辱の敗北を味わっても、誇り高く己を貫き通して生きてやる」
「……は」
 そうして末路があの娘と同じような、はたから見れば惨めで不幸なものだとしても。それでも自分はあの娘と同じように、気高くあった自分に後悔せず死んでいけるだろうと彼は信じる。――いや、後悔なら一つ、消えないものがあるけれど。ああそれでは、あの娘と同じになってしまうのか。
 不意に陰る吸血鬼の内面を読んでいるのか無視しているのか。人狼はすぐさまいつもの慎み深い面構えになると、大仰な仕草で自分の片胸に手を添える。
「約束の内容はさて置くとして、その誇り高き志には、このフェンリッヒ心底感服致し、あなた様への忠誠心が増すばかりです。閣下のように我が身を削ってでも気高くあられる悪魔は、向こう一万年は現れますまい」
「どれだけ俺を誉めようと、血は吸わぬぞ、フェンリッヒ」
 昨今の特にしつこい言葉を思い出しながら吸血鬼が多少くすぐったさを感じながら告げると、人狼はおやと小さくも高い声を漏らした。
「先回りされてしまわれましたか。流石は閣下」
「いかな俺でも流石にわかる」
 それだけ吸血鬼を相手に血を吸え血を吸えと小うるさい人狼は、主の否定の言葉さえも軽やかに受け入れ、それではと話を続けたがった。
「では今日は血を吸うようにお願いするのは、これを最後と致しましょう。ですが、代わりに一つ、わたくしの問いにお答えいただきたく」
「何だ」
 質問一つで今日だけでも従僕の勧誘から逃れられるのならばお安い御用と受け入れる気でいる吸血鬼に、人狼はいつも通り穏やかな口調でありながらも顔から笑みを打ち消して訊ねる。
「……閣下があの日、何事もなく娘と会ったのでしたら。どのようにして恐怖に突き落とす気でおられたのかを、お聞かせ願いたいのです」
 何そんなことかと吸血鬼は息を吐きつつ述べた。魔界から人間界に行くまでで、いやもっと以前、あの迷宮から出るまでの間、得られた情報をもとにあらゆる可能性を考えて、これぞと思うものを見出した自分の歓喜を思い出しながら。
「あの娘を魔界へと連れ攫い、二度と人間界には戻さんと言ってやれば……あの娘の顔は、見事に青ざめるだろうと思っていた」
「……左様で、ございますか」
 苦み走った人狼の心中はどうあったか。当然吸血鬼は知ることもないけれど、それでも言い放った自分に後から疑問がふと浮かび上がる。
 娘を攫ったあと、それから思惑通り血を吸ったあと、自分はどうする気だったのだろうと。これで約束は果たしたと人間界に帰してやるのか、手間をかけさせられた分、躯となるまで血を啜ってやるのか。それとも、――それとも?

◇◆◇

 淡々とシャベルで棺に土を被せると空気を抜いて、次は墓石を持ってこさせる。大の男複数人の手によって目的地へと移動する波打つ長髪の乙女と百合の花が彫られた墓石は、有料墓地にその身を埋められるとは言え随分と立派なもので、見物していた女性はおやまあと声を上げた。
 さっきから見ていた限りでは棺の色も白くて立派なものだったし、故人はお姫様のような待遇だが葬式を行うにしては素っ気ない。何か訳ありなのだろうかと墓石を移動させる男たちの誰かに話を聞こうとしたのだが、どうにも身なりからして雇われただけの身の上のものが多いらしく、ようやく一人掴まえられたのは墓石も移動し終わったあと。真新しい土の盛り上がりに長々祈りを捧げていた、身なりの良い人物の袖を引っ張ると、女性は遠慮もなく尋ねた。
「あんた、この人とどう言う関係があんのさ? 恋人かい、それとも娘かい?」
「……いえ、わたくしは、代理で参っただけのことで。直接は関係、ありません……」
 女性の勢いに戸惑っていたらしい壮年の男性は、そう答えるものの表情は軽く沈んだままだ。まあその通りと言えばその通り。墓場で浮かれた顔を見せているなんて、今ではこの罰当たりな女性だけだろう。
「直接ってどう言うことだい。……て、これ、おかしくないか。どこにも名前がありゃしないじゃないか」
「はあ、まあ、その通りで……」
 新品同様の、墓石でなければ大層な芸術品めいた墓石には、しかし墓標の部分は綺麗につるりとしたままで、これでは本当に誰の墓かもわかりはしない。ますます何か事情がありそうだと女性は内心舌舐めずりすると、男性の腕に自前の胸を押し付けた。
「教えてくんなさいよ。どうせ死人の話なんだ、誰も傷付きゃしないだろう?」
「……ま、まあ、そう、なのですが……」
 しかしそんな色気が通じるほどに男性は肥えていない。それどころか女性に強く抱きしめられれば骨まで折れてしまいそうなほどの体型だから、これは無意味と知った女性は舌打ちしてから身を離す。これでは脅迫でしかないと、分別できるくらいに頭は冴えている。男性のほうもそう思っていたようだがこちらは受け取り方が違うらしく、解放されるとこちらはほうと安堵の息をついてからようよう話し始めた。
「……実は、ですね。今日この土の下で眠られておられる方は、大旦那様……前の領主さまのお嬢様でして」
「へえ、お嬢さま!」
 では本当にお姫様と言うのは間違っていなかった訳だ。だが領主さまの父上さまの娘御ともなればもうとっくにどこぞへ輿入れされているだろうに、どうしてここで、しかも下々の墓地なんかに埋めるのだと訊ねると、従者らしい男性はやはり暗い顔ではあ、と一声。
「この方は……もう随分と前に亡くなられていたのですが。大旦那様がお亡くなりになった際、こちらに移すようにと遺言がありまして」
「なんでなのさ。貴族様はご家族のお墓で一緒に眠ればよろしいじゃないか」
「……いえ、実はですね。このお方は、その、お城を、飛び出されまして……」
 いかに好奇心旺盛な女性でもその言葉には目を見張る。それでも家出、と大声で訊ねたいのを、この吹けば飛ぶような男性の前で言わなかったのは彼女にとって一生に一度あるかないかの幸運だ。まあそうできた理由は、それをわめいてしまえば、多分この男性は吹き飛ばされたきり口を噤んでしまいそうなほどに恐る恐ると教えてくれたからだが。
「どうしてそんなことされたんだい。あれかい、やっぱり駆け落ちかい?」
「いえいえ、お嬢様が出て行かれたのは十三かそのくらいで……恋ではなく、なんでしたか。どこぞに働きたいと仰ったことが原因らしく、大旦那様に反発して飛び出されたと、伺いました」
「はーあ、働いてほしいもんだねえ。下々の生活ってのがどんなのかたっぷり見せてやりたいよ、貴族さまにさあ!」
 嫌味たっぷりに声を高くする女性に、男性は勘弁して下さいとでも言いたげに両手ですがりついてくる。だがそれでどうにかなる女性ではなく、むしろ男性の態度に鼻で笑ったほどだった。どうせこの男性も貴族の下でへいこらしている心の中では、舌を出すことも多いだろうに。それとも大旦那様とやらが死んでしまったから、その幽霊に監視されているとでも思い込んでいるのだろうか。
「結果お嬢様は一度も帰らず、不慮の事故で若くして亡くなられたので……憐れに思われた大旦那様が、どうにか遺体だけでも回収して手元に置かれ」
「それで、どうしてこっちにやるよ」
「……お嬢様は短い間ながらに確かに平民として生き、死んだのだから、今からでも遅くはない、望み通りに弔ってやろうと、最近になって申されまして。……御自ら手配が終えられた、その直後に病状が悪化し……」
 もとからだってあまりいい印象はしないのに、ますます暗く沈みゆくような顔になる男性の姿に、女性は先の自分の予想が正解と知る。だがそれと名前が彫られていないのには関係あるまいと訊ねると、男性はそれも大旦那様のご指示なのですと答えた。
「お嬢様の名は伏せて、ただの名無しとして眠るが道理であって、これこそが本人の望むことだろうと。……屍を手元に置いたのは、自分のわがままでしかないのだから、自分が死ねばこれに愛着を持つ者もおらぬ。であらば知り合いの多かろう土の下で眠らせてやれ、と……」
 切々と語る男性の、ひいては大旦那様の慈悲深い御言葉に、しかし女性はばっさり一声。
「女々しいねえ、たとえ父親と言えど大の大人が、娘一人にそこまであれこれとさ。死人相手にそこまであれこれ気を遣うだなんて、余程御仁はお暇であらせられたのかい」
 今に生き過ぎているにも程がある感想に、同情の言葉や反応が来るであろうと思っていたのか。男性は目を回しながらも首を振る。
「こ、後悔していらっしゃったのでしょう。……家出を止めなかった御自分にも、無理に連れ帰るならばいつでもできると高を括っていた御自分にも」
「後悔ねえ? どうせ誰だって何したってなんかを後悔してるもんだろ。そんな手前が特別後悔しているみたいな物言い、本当女々しいったらありゃしない」
 吐き捨てて、女性は自分で引き止めたにも関わらず男性をしっしと手で追い払う仕草を取ると、墓地から離れてその隣の建物へと移動する。当然有料とは言え死者の集う場に近い施設なのだから、そこも死の臭いを漂わせてもいいはずなのだが、現実は違っていた。
 白い漆喰の建物は、教会であらばどうにもいけ好かないのにここは清潔な印象で。当然薬の臭いもするのだが、それ以上に人と声で賑わっていて女性は好きな場所だと思えるほどだった。不思議な感覚だ。診療所なんて、薬臭くて死臭が染み付いて、聞こえてくるのは重病人の呻き声ばかりだと思っていたのに――尤もそれは、幼い頃、肝試しの感覚で見に行った、町外れにあった診療所の光景が影響しているのだろうが。
 しかし女性が何より好きなのは、この場所でもないしこの診療所が醸し出す雰囲気でもない。ここで一番偉いけれど、気取らない働き者がいたからこそ、女性は頻繁に診療所を訪れた。普段は卵や果実なんかも持ってくるが、たまには手ぶらで土産話を持ってくるだけもいいだろうと考えて。
 診療所のドアを開け、作業中のはずだろうに世間話で盛り上がっている患者たちからの挨拶もそこそこに受け流し、階段を上がると女性はこの建物の中でも特に立派なドアをノックしてから部屋に入る。
「こんにちは、先生!」
「ああ……こんにちは、今日はまた、どうされました?」
 書物と植物と調薬道具がみっしりと並ぶ部屋の奥には窓の外を眺めていたらしい、金髪碧眼の白衣の男性が、金持ちであるのに人懐こい笑みを湛えてわざわざこちらに振り向いてくれる。それだけで女性の胸は高鳴って、なんとも甘い白昼夢さえ見てしまいかねない心持ちになった。相変わらず不気味な女の影が不意に視界の隅に見えたような気がしたが、それにも構わず女性は捲くし立てる。
「いえね、さっき先生も窓からあっち見ていらしたでしょう。あの新しい墓、あそこの」
「はあ、そうでしたか。すみません、考え事をしていたもので……」
「そうかい。けどまあそれでもいいや。あそこでね、面白い話を聞いてきたんでちょっと先生にも教えてあげようかと思ってさ」
 そうして活き活きと、ときに勝手な解釈を交えて話す女性の顔を、やはり先生と呼ばれた男性は穏やかな微笑を浮かべながら細々とした相槌と共に聞き入ってくれて。女性はこの優しい男性に浮き足立ちながら、それでも身を引き締める。何故と言ってこの男性、そこそこ長い付き合いであるにも関わらず、自分のことを一向に話してくれないのだ。妻子がいるのか、恋人でもいるのか。それさえもわかっていないひとに恋をするなどとは、豪胆な女性であっても勇気が必要になる。
「そうですか……そんなことが」
「それでさあ、先生はどう思う? あたしは、死んだ人間のことを考えるのは悪くないよ。悪くないと思うけど、行動に移すまではちょっとどうかと思うんだよねえ……」
 深刻そうな顔を作ると、女性はなるべく遠慮がちな口調でしみじみ呟く。先生と呼ばれた金髪の男性は、それはまたどうして、と穏やかな調子で水を向けてくるものだから、女性はここぞとばかりに控えめな笑みを見せる。偽りの気遣いの、社交性から来るものではなくむしろ猫を被っていると言ったほうがより適切なものだ。
「だってそれだと、生きてるのも死んでるのも、みんな可哀想じゃないか。生きてるあたしらは死んだ人のことなんかどう考えたってわかりゃしないんだから、生きているなりに精一杯幸せだったらそれでいいってもんだろう。なのに死人のためになんて言いながら、生きてるあたしらがあれこれ苦労したところで死人に通じているかどうか……結局、自己満足でしかないよ」
 緩く首を振りながら、やり切れなさそうに含蓄のある言葉を漏らす女性に、金髪の男性はしみじみと同調してくれた。
「……そうですね。確かに自己満足なのでしょう。ですがそれでも構わないと思ったからこその行為を、貶すのはどうかと思いますよ」
 内心では勿論貶していたけれど、口調ではなるべく憐れむように告げたつもりが本心を読み当てられ、女性は一瞬焦りを覚えた。
「貶してなんかいないよ! ただ、なんて言うか……」
「ええ、わかっていますとも。あなたは心根の優しい方ですからね」
 すべてを理解してくれているような柔和な笑みを向けられて、女性は安堵の息をつく。しかしこのまま甘えて居座り続けるのは、いずれぼろが出てしまいそうだと判断するくらいの計算高さは持ち合わせているから、女性は男性に言われるよりも先に膝を軽く折った。
「ありがとう、先生こそ優しいお方だよ。こんなあたしにでもただで薬をくれるんだからさ」
「当然のことですよ。あなたにはいつも物資を頂いているのですから、それくらいはしないと逆に失礼だ」
 嬉しい言葉にどうしても笑みが零れてしまいながら、女性はなるたけ丁寧に礼をするとそれじゃあまたねと踵を返しドアを閉める。そのまま出て行く背中を見届けた男性は、階段下へと遠のいていく足音が消えるまで、貼り付けていた笑みを掻き消して、深く、重々しい吐息を一つ。
「……貴様に何がわかる」
 握り拳を作る。ドアの奥、実験の一パターン風情がなんでも知ったふうなことをと、蔑む気持ちを隠しもせず。
「何が理解できる。ああそうとも、彼女の気持ちなどわからない、わかりようがない。だがそれは貴様も同じじゃないか」
 聞くもののいない反論を述べる声こそが震えており、男性の心情を明確に描く。いや、それほど明確ではなかったか。震える理由は怒りか動揺か、張本人でさえ理解していないのだから。
「けれど彼女は言ったんだ。『僕の中の彼女が満足するまで』と言ったんだ! それは僕にすべての判断を委ねると、そう言うことだろう。それは信じられていると、つまり、そう、だろう……!」
 男性の言葉は独り言でしかないけれど、それでも彼には見えていた。可憐な顔立ち、桃色の髪に澄んだ空色の、華奢な聖女が眼前にいて、自分に微笑んでくれている姿を。ただの幻影であり、自分の意思で虚空に描いたものだと知っていながらしかし彼はそこにこそ自信を見出す。
「だから、間違っているんだよ! あのひとのために僕が行動を尽くすのは正しい。それをあのひとは望んでいる……!」
 反論はない。反論はない。なればこそ男性は歓喜に声を震わせていると自分で思い込んで、清い乙女に手を伸ばす。受け入れるように、自分の脳裏に描いたひとが、自分の手に両手を重ねる姿を想像して。
「ああそうだ……正しいですよね。僕はあなたに生きろと言われたのですから当然生きます、何をしても、どうあっても、どれだけの命を食い潰してでも!」
 悲鳴はない。否定の声は聞こえやしない。だから男性は恍惚とした笑みを浮かべ、幻の乙女から手を放して跪く。信徒が現人神に拝する際のように、額を床で汚さんばかりに深々と。自分の頭に手を掲げ、そうあれと微笑を浮かべる乙女の姿を思い描きながら。
「……前領主など。あなたを殺した連中を野放しにした奴だ。そんなのが誰にどれだけ慈悲を注ごうが、あなたを救わなければ意味はない」
 否定の声は男性に届かない。幻ではないけれど幻以上に霞がかった存在が、父の慈愛に泣き濡れようとしながらも叫んでいることなど知りもしない。
 男性の前におわす幻の乙女は、彼の頭の中では僅かに表情を堅くした程度。そのようなことを言ってはなりません、なんて他人事めいたお行儀のよい言葉を彼の脳に伝えてくるだけだ。他人の命を食い潰すような人間に、彼女がそんな言葉だけで咎めるはずがないと言うのに。
「ええ、わかっています。優しいあなたならそう仰ると。けれど僕は、……やはり我慢ならない」
 ゆっくりと頭を上げて男性は静かな表情のまま、乙女に向き直る。その内面ではどす黒い炎が燃え盛っていたが、彼は彼女の前では怖い顔はすまいと心に決めていた。そのためあくまで口調も含めて穏やかなまま、人の道から外れた提案を平然と話す。
「うらぶれたあの墓からあなたを救い上げ、あなたをあの白い墓石の下に入れて差し上げたいくらいだ。――娘の屍? そんなもの、砕いて肥料にすればよろしい」
 やめてと誰かが叫んだのと同様に、幻の乙女の眉間に縦筋が入る。過激な発言だと自覚した男性は、それだけで厳しい母からのお仕置きに怯える子どものように再び屈み込んだ。
「ああ、申し訳ありませんでした……! そうでしたね、そのようなことをしてもあなたは喜ばない。あの診療所から遠ざけてはならない!」
 そんなことではないと言うのに。そもそも自分はあそこにいないのに。肉声なき誰かが何を言おうとも、男性の耳には届かない、聞こえない。都合の良い幻と会話するだけですべてを終わらせてしまう。
 いや今は、その会話さえできていなかった。怯えた流れのままにまたしても頭を床に付けた男性は、更にそのまま深く背中を丸めて肩を震わせる。聞こえてくる声には嗚咽が滲み、顔を見ずとも表情がわかる。感情の振り幅が次第に大きく激しくなっていくのが、彼を見守るしかできずにいる幽かな存在にも伝わってくる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、僕を許してください……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、あなたが僕を匿ったばかりにごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
 この光景を見るものがおれば、誰しも見ていられないと目を伏せるだろう。床に頭を擦りつけたまま、みっともない啜り泣きの声を漏らして逞しい肉体をわななかせる男性の姿は、見苦しく惨めであるのに同じく奇妙に大げさで滑稽な印象もあって、つまるところとても正気の沙汰とは思えない。
 けれどそんな男性にこそ、影も実体もないものは近付こうとする。その背中を慰めて、謝ることはないのだと告げてやりたいのに。そうすれば、彼はこんなことを続けないと信じているのに。意思はあっても影も実体もないからこそ、手であろうものは彼に触れられない。喉もないから、空気を微かにでさえ振動させられる声も出てない。そんな自分に遣り切れなさが込み上げてくるが、食い縛る歯さえ今のそれにはありもしない。
 肉体のない自分に対し、それは腹の底から煮え滾るがごとき憤りを感じながらも逃げる道は選ばなかった。立つ足がなかろうが踏み留まり、この自分の言葉を呪縛に生き続けるものを解放してやりたいから。それさえどうにかなってしまえば、安心して逝けるのに。なのに、現実はどうにもならない。意思があっても、見ているだけでは足掻くことさえできない。悪意と言う名の底無し沼に足を取られ、抵抗しながらもゆっくりと溺れ沈んでいくこの男性に、手を貸すことさえできやしない。
 やるせなさに狂ってしまいそうになる。だがやはり、それには脳がないから狂うことさえもできやしない。意識の端からざわついて、怒りにのみ支配される感覚に引きずられそうになって、そのまま長らく怒っていれば怨霊になってしまいかねないと自らの心境を危惧する。ああそう言えば――怨霊は悪魔、なのだろうか。
 悪魔と単語を思い浮かべるだけで、誰かの姿が連想される。もう自分の生きていた年齢近くの歳月を肉体なき状況で過ごしていると言うのに、まだ引きずっている自分に呆れながらそれでも気持ちは止まらない。あの悪魔はそれが『彼女』として事切れてから一度もここに姿を見せない。優しいひとだからこの付近では人を狩らないようにしてくれているのだろうが、もう忘れてしまったとしたら。考えるだけで、それが怒りとは同方向の何かに飲まれる。
 けれどそれは当たり前だろうと、何度も冷静に己に語りかけた思考を使ってもとのものへと戻ろうとする。正確には答えてくれなかったけれど、きっと何百年何千年と生きているあの彼が、自分のことなど覚えているはずがない。たったの三日、僅かな時間に言葉を交わし、視線を数える程度に交わしただけの人間の娘を、どうして記憶に留める必要がある。仲間や知り合いとの死に別れも多く経験してきただろう。だから覚えていなくて当たり前。忘れてしまって当然。自分との約束なんて、きっと彼には無意味なもの。
 鋭い痛みが怒りを蝕む。蝕んだ先から滲んだ感情は、今度は悲痛となってそれを侵食する。あまりの辛さにどうして自分は最期の瞬間にあの感情に気付いたのだと、悔やんでしまうもそれこそ無意味。切なさばかりが込み上げ、苦しさばかりが溢れて、恋しさだけで溺れてしまいそうになる。しかしこれらの感情は、それにはどう足掻いても報われるものではなく――大体、彼がどこにいるのかも知らないのに。彼が今の自分を認識できないかもしれないと想像するだけで、唐突に醜いものに変じてしまうかもしれないのに。そんな結末、死よりも嫌だ。
 そんな恐怖もあってか、それは『彼女』の命を奪ってしまった人々に対し怨讐を願う男性にのみ執念を向ける。けれどこの選択もいつの日か、自分を無念のあまり化け物へと変える結末を迎える可能性は大いにある。いいや大体がここに死神をどうにかやり過ごしながらも留まっている理由だって、無理に天へと逃げるのだけは嫌だから、なんて浅ましい未練があって。
「そうは見えませんよー?」
 今も尚続く男性の慟哭の中で、聞いたこともない誰か、少女の声を耳にして、それは恨みの魔物になりかけた自分からもとのものへと戻っていく。だが戻っていく最中にも探したのに、どこにも声を発したものの姿は見えなかった。当然、眼前の男性が気付いているはずもない。なのにどうして、と戸惑うそれは気付く。自分の思念に、反応されたのだと。
「ええ、その通りです! あなたの死しても他者を憂い続ける優しさ、苦しみ悲しみながらも魔道には堕ちんとする気高さ、汚れを知っていながらも汚れを身に付けまいとする意志の強さ! どれをとっても遜色ない!」
 明るい声だった。長く厳しい冬に耐えてようやく感じた春の陽光のような、爽やかな野原に咲く素朴な花のような、耳にするだけで温かいものが満ちてくる声が、それに今まで以上により明確な人の姿を取らせる。
 向こうが見えるくらいに存在感は希薄だが、自分の手らしきものが見えたと驚いたその瞬間、つむじから上へ引っ張り上げられて、『彼女』へ変じたものは思わず悲鳴を漏らした。
「きゃぁあ!?」
「あっ……ごめんなさい、やりすぎちゃいましたかねー」
 診療所の屋根を越え城の尖塔さえも見下ろすほどの場所に放り投げられた『彼女』の前で、えへへと能天気な笑顔を見せたのは、絹糸めいた淡い金髪に夏の海底よりも鮮やかな瑠璃色の瞳、それと同じ色合いの大きなリボンに可愛らしくあどけない顔立ちの、見るからに穢れのない少女だった。光輪こそは持たないものの、その長髪の背中から覗く純白の羽は間違いなく、少女が天使だと証明している。
 自分が天使に雲の上へ引っ張られたことを知った『彼女』は暫く呆然としていたが、同時に悲しくもなってしまう。ついに死神から逃れ続けた自分は天使によって地上から強制的に引き剥がされて、転生の輪の中に組み込まれ、すべてを忘れて一から生きていかねばならないらしいと知ったからだ。
 だが『彼女』の予想に反して、天使は相変わらず明るい調子で、生前の姿でいるであろう魂をじっくり眺めて微笑んだ。その笑みは、神聖であれど傲慢な天使のイメージとはかけ離れて温かい。
「天界の住人として、あなたをスカウトしに来ました。もしあなたがいいと言うのでしたら、のお話ですけど」
「……てん、かい?」
「天使、とあなたがた人間が仰るものです。興味ありませんか?」
 暢気な口調で語られたのは、『彼女』にとって青天の霹靂。これが嘘や夢であるならばそちらの方が余程安心できる、突飛極まる話だった。だがどれほど『彼女』が衝撃を受けても、幻であるならば都合よく掻き消えてしまうはずの天使は消えもしない。それどころか、足から崩れ落ちそうになった『彼女』を支えてくれた。肉体を失ってから長らく、誰かに触れず触れられなかったはずなのに。
「……そん、な。だって、……わたくしは、そんな……」
「畏まることはないですよ~」
 『彼女』の体を支えてくれる、その白く温かな手の柔らかさ。触れられているだけで今までの悲しみが浄化されていくような確かさに、『彼女』は知らず目尻が熱くなる。
「今まであなたがその心に刻んだ傷は無数にあるけれど、それだけあなた自身は磨かれた。そうしてできあがった珠のように輝く魂が、悲しい存在になるだなんて見過ごせません」
 言葉の意味は深く捉えられない。けれどそれでも真正面から誉めてくれるのが、自分のことを案じてくれるのが嬉しくて、『彼女』は温かな涙で頬を濡らす。そんな『彼女』を天使は迷いなく子ども相手のように抱き締めて、『彼女』の喉から生まれる呻きがますます大きさを増す。細腕に抱かれる心地よさと胸の内からこみ上げてくる熱い奔流は、今まで悲しく黒く染め上げようとしてきたものとは正反対の清浄なもの。
「よく頑張りましたね。……えらいえらい」
 抱かれたまま頭を撫でられて、『彼女』はそのまま泣き崩れた。この天使に自分の心や信仰心をつまびらかに暴かれて、やはり天使となるにはふさわしくないと言われても満足してしまうくらいに晴れやかな気持ちになったから。
 だがまだ『彼女』は知らない。のちに天使が生前、自らの精神安定のために祈りを捧げてきた『彼女』を許すことを。泣き止んだ『彼女』が天使となる道を選ぶことを。以後四百年、天使の身でありながらやはりあの憐れな男性のために孤独に奮闘することを。
 そうして四百年の終わり際。誰かと、生まれて初めて恋をしたひとと再会することを――このときまだ、『彼女』は知らなかった。全く何も、知らなかった。


―完―

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後書き

2011/07/06

 書いてみた上での各キャラ所感。

・看護師アルティナ
 「魔性の女」の称号は堕とした男の数じゃなくて堕とした男が世界に与える影響力の多大さによるもんだと改めて教えてくれたマジ天使。外見からだと大概なんでも問題なくこなす色気も可愛げもない、ついでに友だちもいない完璧超人で、その内っ側は努力根性やせ我慢の無自覚に息苦しい子にカスタマイズしたのはまあ正直な話、私の好みなんですが。人間の頃は普通に無理してたんじゃないかなーと思っております時代的にも環境的にも。あと天使になってからはメンタルかなり鉄壁かつしなやかになったから心折るのすんげー大変そうなんでこっちはまだ心折る隙があるなと思ってプロット練り練りした記憶が。辛い目に遭わせたくなる原因の大半は公式表情差分にレイプ目があるせい。
 辺境伯の娘設定は本編回想やOPで出てくるお城とかドレス姿とか、一人称「わたくし」で丁寧語使いとか、閣下が一目惚れする程度に気高くて処女の重要性がわかってる賢いお嬢さんがあの辺りの時代の平民な訳がねえだろう的な感覚から捏造しました。
・暴君ヴァルバトーゼ
 本編見た直後は大人で威厳たっぷりだと思ったけど、見返すと言動割と……無駄にテンション高い。取り返しのつかない出来事や大きな後悔をまだ経験してなかった印象が強いので、一目惚れで初恋で三日で相手デッドエンドとかそりゃトラウマになるよなーと思いつつきっちりと取り乱して泣いて後悔して成長してもらいました。感情表現の素直さと精神面での振り幅は暴君のときのほうが実直かつ苛烈なイメージが強いです。ついでに調子乗ってるから思い遣りスキルは低めで相手に主導権握られるのきらい。つまりガキ。当然か。
 フェさんへの接し方まで変わっちゃったのは露骨すぎたかしらと思いもしますが、まあ公式も結構露骨だからいいよね。
・敗残少佐ネモ
 やることなすこと裏目裏目に出てほんとごめんね……ってアルティナちゃんの次に罪悪感感じながら書いた記憶も鮮やかに。本人は到って善良たらんとしているのに、物事が悪いほうへ悪いほうへと転がっていく完全な道化を意識しました。悪堕ちしてからの大成功っぷりも含めて皮肉とかほんとごめん。
 暴君閣下とニアミスさせようかと迷いましたが、それやるとアルティナ―閣下の物語なのにブレが生じる可能性があるかなと思って没。彼女への気持ちは仄かな思慕→畏敬→崇拝にとんとん拍子でクラスチェンジする辺り、こいつも閣下と同じくらい結構ちょろいかと。つか接し方違ってたらガチで三角関係だったよね。
 ディスガイア4はとある女の子のために世界を破滅させようとするちょろい男Aを同じ女の子に惚れたもう一人のちょろい男Bが阻止するおはなしです。
・執事フェンリッヒ
 その後で彼視点で血を断った閣下の苦悩を書こうとしてすいすい進むけど恐ろしい女々しさにざっくり削除して閣下視点で書き直しました。お陰で閣下のイケメンタル具合がはっきりしたよありがとうありがとう。
 閣下のアルティナちゃんへの気持ちや閣下の変化に真っ先に勘付きながらもそれを指摘・明確化するのを一番怖がってる存在として認識してます。蛮勇で愚直な主に臆病で狡猾な従者と書くと本当バランスいいよねお前ら。
 ついでに割と踏み込んだ質問して「やっぱこれって……」って自分から勝手に曇るのは正直に言うと私が曇らせたいからです。つか頭いい設定のくせに誰がどう見たって明らかなふたりの恋愛はいっそ憐れなくらい避けようとしてる必死さとそれを利用することもできない不器用さが可虐心を煽って仕方ないんだこりゃもうそっちで散々っぱら苛めていいよって誘われてる気分になるんだ。
・死神王ハゴス
 質疑応答自体は平凡なのにどうして出したのって聞かれたら出したかったからとしか言いようがないくらい好きです。だって苦悩の賢君だよ! 堅肥りのダンディで上品だけど悪魔らしさも忘れてない寛容なおじさまだよ! 無視するほうがおかしかろう!
・モブ
 医者も看護師も逃げだす激戦区な割りにアルティナちゃんが恋や閣下とのお話できて吸血鬼狩りもできる環境の辺り、目に見えて悲惨にはなってないと受け止めました。周囲の人間も長い戦時中だから荒んではいるだろうけど結構きちんと順応して「人間」やれてたんじゃないかなーと思ったため、薬師ババア以外皆それなりに屑でそれなりに人情派に。ずぶずぶと治安悪化して疲弊して腐っていくのは戦争だからしゃーない。
 うら若い女の子を複数の人間が私刑しておいてレイプなし即死なし瀕死で放置(及び逃亡を許す)は不自然なので、まああんなかたちが落としどころかなと。あいつらも含めて完全な糞野郎を出したつもりはありませんがどうなんでしょうね。
 舞台は閣下の服装とか吸血鬼のモデル的とかお城のモデル的にオーストリー辺りを想定してるんだろうなー。

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がんばれ男の子

2011/07/06

 悪魔の多くは棺で眠る。人ならぬ身であればこそ、人の死体を入れるそこで眠る文化であるのか、それとも箱で眠る行為を人間たちが死人のようだと恐れたからこそ開けた寝床を作ったのか。どちらが先かは定かではない。だがまあ概ね羽が邪魔な人型の悪魔でもない限り棺こそが悪魔にとっては寝床であり、だからこそ吸血鬼も眠りを欲する際はそこで眠る。
 彼の体にすっぽり――とはいかずややも広く深い棺は、悪魔でさえもその名を恐れた『暴君』と彼が呼ばれていた時代からの品。愛用とは断言せずとも、長きに渡る寝床となれば自然と愛着は湧いて出るもの。
 執事の気遣いか彼の趣向か、古い瑪瑙の石棺は品の良い螺鈿細工が施されており、内部も負けず劣らず美しい。彼の外套の裏地と同じ血よりも深い真紅の絹が均一に張られたそこは、死者どころか生者でさえも羨みかねない、胎内に収まる嬰児のような深き眠りを誘う空間だった。
 しかし嬰児がときおり外部からの刺激に中から腹を蹴るように、彼もまた外部に違和感を持てば眠りからも覚めるもの。誰かが近付く感覚があって、彼はもう起床の時刻かととろりと深い暗闇の中、浅い眠りにたゆたうまま思う。それにしては全身が眠りを欲していて、昨晩はそれほど肉体を酷使したつもりがないためどういうことだと疑問を抱いた瞬間だった。
「んむうっ!?」
「……ん?」
 棺の蓋が開いた途端に大きなものが放り込まれ、ただちに蓋が閉められた。少なくとも彼の身長程度に大きいそれは相応に重みがあり、彼の身体の上を芋虫のようにのたうちもがく。
 吸血鬼にしては小柄で華奢な体型の自覚はあるものの胆力はそれ以上にあると自負する彼は、眠気を妨げた自分の上で暴れるものに手を伸ばし、何が落ちてきたのか確認しようとしたのだが、動かそうとした手に場違いな柔らかさを感じ取る。
「んんっ!」
「……ぅん?」
 巨大な芋虫もどきが放り込まれたときから彼の手はそれのどこかに触れていたらしく、相手がびくりと跳ねた。どこかであるかはいまだ視界がぼやけている彼にはわからない。人間より夜目に慣れているとは言え、一切の光なき寝床ではいかな悪魔でも何が起こっているのかは直ちに把握できないし、それに何より眠いのだ。この物体は眠気を吹き飛ばす価値があるのかと、まどろむ彼の頭の隅ではそんな疑念さえ沸き上がる。
 だが芋虫もどき――何か紐めいたものを巻いているらしい。彼の腕や胴にそれらしい感触があった――の重みは無視できず、接触面積も多いものだから無視して眠れそうにはない。面倒なことこの上ないが、彼はようやく起きる気になって口を開き、ふと、甘い芳香を嗅ぎ取った。
 知っている匂いだ。女特有の、芳しいと表現してもいいくらいのものである。だが何故ここでこの香りを思い出すのかと、ようやく焦点があった目を使うためゆっくりと顎を引いて全容を視界で把握し、ようとしたところで彼は硬直した。全身のときが止まったと表現してもいいくらいには驚いた。
 彼の視界にまず飛び込んできたのは頭だった。自分の胸にもたれかかる、棺の中の闇においても鮮やかな桃色は彼がよくよく知っている女のもの。その次に飛び込んできたのは頭よりも更に下、女性として発達すれば突き出らざる終えない出っ張りの、白いワイシャツに窮屈そうに収められた柔肉二つとそれを上下左右で縫うようにして何故か、赤い紐が拘束しているのが目に入り。以降はよく見えない。いや、見えたかもしれないが下に視線がいくよりもやはり柔らかそうなのが自分の腹に潰れているのに目が惹きつけられていやそんなことよりも。
「……あ、アル、ティナ、かお前!?」
「んっ!」
 相手の顔がすぐ下にあるのに大声を発した彼は、叫んだ直後に相手に肩を竦められる。竦められて柔らかいものもまた震えたが、今の彼にはそこまで気にしていられる余裕はなかった。長年思慕していた相手から、こんな時間にこんな状況で密着した体勢でいられて動揺するのは人も悪魔も変わらない。
「こっ、こんなところで一体何をしている!? もしやあれか、寝惚けたか!? それにしたとしても何故俺の棺なんぞに……!」
「んっ、んうむぅふっ!」
 くぐもった声が違います、とでも言いたげに彼の耳に入った途端、首がくいと彼のほうを向く。彼女の顔を至近距離に捉え、彼は赤面するよりも先に絶句した。何故と言ってその花のかんばせと賞するに相応しい彼女の鼻から下に、他者の手によるものだろう布で覆われていたからだ。まあ平たく言って猿轡を噛まされていたのだが、それにしたって誰がそんな格好を予想するものか。
「……なっ、何をして!? いや、され……、された側か!?」
 激しく頷かれ、ようやく彼は正しく現状を認識した。さっき棺に放り込まれた巨大な芋虫は彼女であって、その彼女は猿轡を噛まされた挙句に全身、身動きが取れないように拘束されている、と。何故。何故。自分の腹に彼女の胸が来ると言うことは、転じて彼女の腹に自分の腰が触れると言うことでそれは位置的にかなり危険なのに。いや危険と言って何が起こるわけでもないがまあ心情として彼はそんな危機感を抱いた訳だ。
「と……とりあえず、それは、お前は……あれか、身動きが、取れんのだな?」
 またも肯定される。見ればわかるだろうと第三者は責めるやもしれないが、しかし今の彼には重要な問題であり、放り込まれた上に拘束された彼女にとってもまた誤解されてはならない問題だった。このふたりは互いに互いを悪く思っていないけれど、それにしたってこの状態はあんまりにもあんまりだからだ。
 とにかく自らは拘束を受けておらず、また安易な発想だが逃げ場は残されている彼は、すぐさまその案に飛びつけるだけの冷静さは残っていた。長らく触れていればそれも惜しくなるやもしれないが、驚き戸惑いが大きい今ならまだ間に合う。
「……よし。ではまず俺が一旦外に出て、お、っ、くっ……」
「ん……?」
 彼は彼女の下敷きになっていないほうの手を掲げ、棺の蓋を内側から開けようとする。だが重心が傾くことで彼女の胸が更に潰れ、ワイシャツ一枚を隔てたものの存在を感じずにはいられない。甘かろう柔かろう、たわわに実る芳醇な肉の果実の誘惑だ。
「……ぞ……?」
 それもどうにか食い縛って耐えた彼に待ち受けていたのは、あまりにも残酷な手応えであった。普段は片手でも動かせるはずの棺の蓋が、どれだけ力を籠めても動かないのだ。びくりとはするようだが、響く音から察するに外から鍵がかけてある。いや確かに棺にはそんな部分はあったが、何度も使っていない。しかし今はかかっている。つまり。
「……と、閉じ込められただと!?」
「んううぅうぅ!?」
 彼女のくぐもった驚愕の声が響いたのちに、本人たちは到って真面目だが間抜けな印象が拭えない沈黙が訪れる。一人は追い詰められた心境で静かに混乱しており、もう一人はやはりこれはもしやそう言うことかと誰とも知れぬ犯人の狙いに親指の爪を噛みたい気分になっていた。
 が、閉じ込められたふたりは互いに読心術を会得していない。それぞれ我に返ると、相手は自分と同じことを考えているのだろうと勘違いをしてまず彼は首を激しく左右に振る。
「おおおお落ち着けアルティナ! な、何もここから永久に出られないと言うことではない! 朝になれば確実に、フェンリッヒが異変を察して鍵を探し出す!!」
「……ん、うぅ……」
 彼女はそんなことわかりきっている。だからやや眉を歪めながらも小さく頷くと、続いてゆっくりとした動作で彼に見せつけるよう首を振った。落ち着いた対応を取られた彼は、その仕草にこそどうにか混乱から抜け出せたが、彼女の意図が何であるのかすぐには察せず目を瞬く。
「お前は何を……そう、か。それを取れと、と言いたいのだな?」
「んぅ」
 顎を短く引く彼女に、彼は下敷きになっていないほうの手を使って桃色の後頭部を狙うがなかなかに難しい。恥ずかしさを堪えながら胸に載った頭を抱くように手を回せば、片手でもどうにか結び目には到達する。のはいいが、彼女の口を拘束している布は固結びで結ばれているらしい。片手では解きにくいと知らされて、彼は遠慮がちに言葉を選ぶ。
「……両手を使いたいのだが、その……平気、か?」
「ん……」
 彼女の腰から下の辺りが揺さぶられ、その感覚が彼の脚にまで伝わってくる。まだ眠気で朦朧としていたときに手で揉んでしまった柔らかい箇所について、彼はあえて想像すまいと己に言い聞かせるとゆっくりと手を動かした、が。
「ぐっ……」
 彼女の下敷きとなっていた指が、微かに動くだけでしっとりとした感触の肌に触れる。彼はイワシのことだけをひたすら考えるよう自分に囁き続けるも、触覚とは真実残酷なもの。手だけでなく腕までもが、他者の温かみと、他者の身体に触れることで相手の身体が微かに強張る感覚でさえも感じ取ってしまう。それが何を伝えてくるのかと言えば――さて。
「……んぅう。んっんん……」
 早く、一気に。彼女の声のイントネーションはそう告げるも、それができれば今の彼はこんなに苦労していない。大体、女体がこうも柔らかいのがいけない。いや女体自体に罪はない。成長すればそうなってしまう自然の摂理に逆らおうとするのは八つ当たりに近い。だがその文句を封じてしまえば、彼はどうして自分が女体の下敷きになった腕を引っこ抜くことにこうも気合いを必要としているのかが不明になる訳で。いや、不明ではなく真っ当な理由があるのだがそれは現時点で追求すべきではない。
 ともかく。ともかく。歯を食い縛り、ゆっくりと上げていけばいくほど抵抗なく自分の腕なり指なりを受け入れかねない女の肌に猛烈な吸引力を感じながらも、それでもどうにか彼は、勇気なのか意地なのか理性なのか見当がつかないものを振り絞って片手を解放した。
「ぐ……っ、くぅぅぅ、……う!」
 その反動で拘束された女体がまたも揺れたが、そんなことより彼は自分の片手が無事ほの温かい箇所から抜け出せたことに大きな達成感と安堵――と、本当に小さく、微かではあるが無念――で胸いっぱいになり大きく脱力する。
「ふふ、ふ……誇り高き悪魔たる俺の力を侮るな!」
 誰にともなくそんな勝利の声を高らかに告げるも、唯一この場でその発言を耳にした天使は怪訝な顔でいた。ろくな反応は得られないと知り、彼はやや肩透かしを喰らった気分になりながらもようやくその頭に両手を回して猿轡の解体に取りかかる。口を拘束するだけなのにしっかり結ばれているようで、割合と難儀はしたがそれでもすぐに解けた。
 顔に跡が付かないようにとの配慮からか。彼女の口を拘束していたのは変哲もない布で、広げればタオルらしい手触りと形状をしていた。何故か磯臭い。
「……ありがとうございます」
 ようやく口が利けるようになった彼女はふうと大きく息を吐く。ところどころ湿った匂いのきついタオルを自分たちの足下へと放り投げた彼はそれを受け流すと、両腕をもとの姿勢に戻せないことに今更気付きながらもなんとか訊ねた。
「お前は、その、どうしてそうなった?」
「お風呂から上がったところで襲われてましたの。気付いたらここに放り投げられて……喋れもしないし、身動きも取れないし、一体何事かと思いましたわ」
 声は苛立っているが、怒りの対象は彼ではあるまい。彼女にはそれくらいの分別がついていることくらい、彼も理解していた。
「我が屋敷で襲われたとは物騒な……。他に体に異常はないか」
 単純に心配して俯いた彼は、そのまま不意に自分の胸に頬を載せた彼女の表情を見てしまう。さしたる心構えもないせいで、完全に油断していた。
「ええ、ご心配なく。……縄が色々食い込んで痛い以外は平気ですわ」
 ほろ苦くともその顔から浮かぶ彼女の笑みは、こんな状況であってもいつも通り彼の目には眩しい。しかもまさしく目と鼻の先ほどの至近距離でそれを見てしまい、しかもまだ胸が自分の腹に埋れているままだと自覚して、彼は今更過ぎるほど今更に自分の鼓動が高鳴ってしまうのをどうにか誤魔化そうとしながら滑稽なほど頭を上へそらして空笑いをした。
「そ、そうかそうかそうか! それは、……まあ、良かった、な?」
「このままわたくしたちに何も起きなければ、の話ですけれどね……」
 そうであったと彼は我に返る。他の女悪魔ならともかく、よりにもよって彼女相手にこんな状況で一晩無事に過ごすと言うのはいかに彼でも難しい。いやちょっと待て。何も、とは何だ。聖女のように清らかであった娘が自ら想定することか、と彼は目を驚きに見開くが、彼女はその反応をこそ想定していたのか。ややも恥ずかしげに頬を染め、口先を軽く尖らせた。
「ここまであからさまな状況を作るんですもの、犯人の狙いはその、……それでしょう。確実に罠がある、とは言い切れませんが、何か、誰かの思惑があってこんなことになってしまったのは確実ですわ」
「……そう、だな」
 説明を受けて、ようやく彼もこれがお膳立てされた展開なのだと知り底のほうから頭が冷える。ある意味で実に悪魔らしいが、随分と荒っぽく情緒もない、直接的なセッティングもあったものだ。現在これっぽっちも楽しくない嬉しくないかと問われれば返答に迷うものの、他人の思惑にそのまま乗るのはあまりいい気はしない。ことこの娘が関わるとなれば、彼は特にそう思う。
「とりあえず、無事一晩過ごせば良い話だ。朝になるまであとどれだけかはわからぬが、このまま会話を続けていればどうにか犯人の狙いは潰えよう」
「いえ、あの……最低でも、わたくしの縄は解いてほしいのですが?」
「む……」
 確かに、彼女が身動きも取れないからこそ彼も難儀しているのだ。縄を解いて彼女が動けるようにしてやれば、胸だの腹だのが無闇に接触する姿勢を回避できるだろう。幸い、彼の棺は横向きになっても大丈夫な深みがあるし、幅も持ち主が縮んだこともあってか狭くはない。体勢を考えれば接触箇所を大幅に減らして時間を潰せるかもしれなかった。
「よし、ならば解くか。……一応訊くが、お前、縄抜けは」
「できるならとっくにしています! ……あなたの位置からは見えませんけど、ここ」
 と、彼女の指が彼のズボンの一部をつまんだ。それだけで彼は奇妙に恥ずかしいが、舌を噛んで口元が緩みかけたのをどうにか堪える。
「ここにわたくしの手があるのですけれど、手首がものの見事に固定されていて……どうにかしようにも、どうにもなりませんわ」
 ズボンと言うことは、彼女の手は胸の位置より遥か下に固定されているらしい。ご丁寧なことだと彼は肩を僅かに下げ、さてこれからどうするかと思案する。
「……今の俺の手はそこに届きそうにない」
「ええ」
「体の位置を俺かお前、どちらかが変えようにも、その……やはり……」
 今、彼女の胸が彼の腹に押し潰されているようなことになりかねない。それは彼としてはなるたけ避けたい。向こうもそう思っているだろうとの思い遣りに、彼女はどうしたことか微かに息を吐き出すと、彼に同調することなく小さく俯く。
「……か、覚悟は、します……」
 か細いながらに彼女の声は緊張と、それ以上の決意に満ちていて、下敷きとなった彼は大いに動揺する。まさかそこまで淫らな女ではあるまいと信じたいのだがさすがに四百年も経てばそうなるのか。いやいや、初対面で処女だと告白したのだからもとからこの娘はこうだったかと目まぐるしい思考を飛ばしながら、彼は声を裏返らせる。
「なっ、何のだ、何の!?」
「不可抗力として! その、……ふ、触れてしまうことに関してです!」
 顔は見えずとも明らかに恥じらいが伺える彼女の口調に、彼は奇妙なくすぐったさと、悪魔であれば言葉にするも恐ろしい感覚を覚えてしまうが同時に拍子抜けもした。まともに考えればその通り、恥ずかしいが我慢すると言う意味であるはずだろうにどうして過激な方向に捉えてしまったのかと、そんな自らをすぐさま叱咤したが。
「……わたくしたちは、今や被害者同士なのですから。お互いを助けるためと思えば、このくらい、我慢します」
「う、む……相わかった」
 最も恥辱に耐えるべき側がそう言ってしまえば、彼も肯定的な返事をするしかない。そのため彼も覚悟を無理に決めたのだが、さてここからどうすべきかをまだふたりは論じていないのだ。
 それぞれが自身の心音を妙に大きくして、しかもそれが相手に触れてしまっているため明らかにお互いに伝わった二重の恥ずかしさに硬直して暫く。誰かがえほん、と咳を一つ。
「……で、では、どう、しましょう。ヴァルバトーゼさんは、どんな体勢が良いと思いますか?」
「体勢……か」
「体勢……ですけど」
 またも気まずい空気が流れそうになり、彼は慌てて両手を棺の左右に添える。さっきから所在無かった両腕がここで役に立とうとは、天の采配も捨てたものではない。
「お、俺とお前、それぞれがこの両端に寄ればだな、まだ俺かお前どちらかにせよ移動がしやすいと思うのだが!」
「え、ええ、そうですわね! ではそうしましょうか!」
 最早相手の顔など見ていられないし、自分の顔も見せたくない。その一点については強く共通していたふたりは彼の言葉通りにしようと思うのだが、どちらがどちらに動くのだ。
「で、ではわたくしは、この、こちらに寄りますから、あなたは……」
「う……」
 彼女はもとから彼の片手を下にしていた側へと重心を傾けようとし、ふたりの接触部分が若干少なくなる。だが裏を返せばそれだけ彼に触れている部分に彼女が更に密着するということでもあり。甘い匂いのする上に筋肉も骨も感じないものが彼の片腹に押し付けられる、どころか強調される。彼の奥底が再び熱を持つ。
「……う……ぐ……」
 頷こうとして呻きが生まれた。今の彼が噛み締める奥歯にかかる圧力は、金剛石さえ砕けるほど。しかしそれだけでは状況は好転しない。生クリームめいた誘惑に耐えた上で、彼もまた自分の体を動かさねばならないのだ。
「っ……ぐ、……ぎ……くっ」
 彼女が押し付けてくるところから逃げるようにして体を動かす。ここもさっきの、柔肌から手を引き抜くとき同様の覚悟と勇気と決断力を持って彼は臨んだ。少しずつ動いていけばいくほどあの柔らかいのが引いては吸い付き、弾けては寄り添いとなるのだが、やはり一気は難しく。だが着実にずれていく体は、彼女から確かに離れていくからこれでいいと自らを励まして、彼はついに万感の思いを込めて雄叫びを上げる。
「……イ、ッ、ワ、ッ、シィイィイイ゛、ッッ……!!」
 彼が一気に体を引き抜く、と共にワイシャツの向こうの小さく弾力が宿る頂が掠った気がしたが無視した。ようやく彼女の下敷きから両端に向かい合って横向きとなった彼は、ついに得られた開放感に肩で喘ぐ。それは彼女も同じらしく、ふたりの間を支配していた緊張感がどうと霧散した。
「はあ……。よかった……」
「……うむ。やはりイワシの力は侮れん」
 強引にイワシを持ち出す彼に、余裕がようやく生まれたらしい彼女が脱力した笑みを浮かべてはいはいと相槌を打つ。
「この際でしたらイワシの力でも何でも構いませんわ。第一関門突破、と言うところですから気を抜かずに参りましょう」
「……そうだったな」
 これで済むのではなく、これが始まりであったことを思い出した彼は、改めて向かい合う娘を見る。見たところで状況は変化しないのだが、一応。当然、冷静に状況を再確認するためであって、不純な動機は一切ない。
 彼女の首から上はいつも通り、ではあった。ここまで近い距離で見上げられることはまずないが、それでも豊かな桃色の髪もそれを活発に見せる印象の三つ編みも、釣り目がちな目元に整った顔立ち、初夏の澄み渡る湖面めいた青い瞳も、触れずとも見ればわかるしっとりとしたきめ細やかな白磁の肌も何も変わらない。
 問題は首から下――寝間着がワイシャツ一枚きりであること、はこの際置いておく。彼個人としては露出の低い清楚な、足首まで覆い隠すナイトドレスが好ましいのだがそれを言ってどうされたいと質問されては墓穴を掘りかねないので我慢するとして。ともかく油断しきってボタンを二つ三つ開けた彼女の女性としての証が目立ってはいるものの、扇情的な赤い縄は、ほっそりとした首も華奢な肩も、脇も腕も腰も容赦なく彼女の白いワイシャツと身体ごと蹂躙しており、艶かしい存在感を放つ菱型の模様はいっそ痛々しい。
 距離を開ければ確かに彼女の臍の辺りに、腕にも絡み付く赤い縄が手首とは言わず親指にまで巻き付いてそこを厳重に固定しているのが見え、それはより強い痛ましさを彼に抱かせる。そう、見ていてあまり、いやはっきり言っていい気はしないのだ。なのに彼は喉の奥が乾くような、どことは言わずむず痒くなるような、とにかく見ていて居た堪れなくなる感覚を覚え、体が妙に熱っぽい。その感覚を何と呼ぶか、『暴君』であった彼が知らない訳ではないのだが、今まさに憐憫の情を抱く以上にそれを感じてしまう自分をどうかと思わずにはいられない。
「ヴァルバトーゼさん……?」
「あ、……ああ」
 怪訝な顔で名を呼ばれ、我に返った彼は背中に棺の側面を当てたまま体を下へとずらす。そうして顔が顔に近付いてしまうが目線だけでも下にやり続けることでどうにか耐え、なるべく胸には触れないよう気を配りながら、縄で固定されている手首へと両手で触れる。彼女もそれは覚悟しているらしく、軽く手を握って彼の進行の邪魔にならぬようにしてくれたのだが。
「……おい、アルティナ」
「はい?」
 手探りで、幸いにも前に突き出された形式で固定されている手首の辺りの結び目を探していた彼は、その手応えについて次第に嫌な予感を覚える。
「お前はこう言う、……拘束に対して、学があるか」
「ないです!」
 にべもなく断言されて内心肩を落とした彼に、彼女は何を思ったか責め立てるように軽く頬を膨らませる。
「そ、そう言うのでしたら、あなたのほうが、おありではなくて? 捕獲とか、教育的指導とか……」
「あ、あれはまた、これとは違う問題であってだな……」
「わたくしから見れば、さしたる違いはないと思いますけれど」
「違う、まったく違う! それを言うなら、お前が『徴収』していた時期にこの手の技術を習得していても不思議は……」
「ありません! 縄抜けと縄をかけるほうはまったく違います!」
「ええい、聞いただけだろうが何故そこまで頑なに拒絶する!」
 脱線を始めたふたりの間に、痴話喧嘩めいた、当事者間では刺々しいが第三者からは鼻白む雰囲気が流れる。だがいくら気まずかろうがここには第三者などいないのだから、話題の脱線に気付くのもやはりふたりのうちのどちらかでしかない。
「……それで。今のわたくしに何か問題でもありましたかしら?」
 多少冷ややかな口調ではあるものの彼女が渋々話を元に戻すと、彼はそうだったと不本意な心持ちを引きずりつつ本題に入る。
「俺にはよくわからんのだが……縄は、一本なのか? つまり、この手首を拘束している縄と、お前の体を縛っているものは、同じなのか」
「どう、……でしょう」
 これまで彼女は手首周辺の縄を調べていなかったらしい。指に到るまで強固な拘束を受けていれば、それすら難しいものなのか。今手先を動かされて男女の指が重なるのは場違いな恥ずかしさがあるので彼は一旦手を放すと、そこを触って得た感覚を述べた。
「……その量ともなれば体とは別の縄で拘束していると思ったのだが、今のところ結び目らしいものは見つからん」
「つまり手を自由にしようにも、わたくしの体を拘束する縄そのものの結び目を解かなければいけない、と言うことですか……」
 落胆する彼女に、彼はそんな不安の声がまず拘束された張本人の口から上ることに嫌な予感を抱いた。
「結び目がどこにあるか、お前にはわからんのか?」
 だとすると現状、客観的に探せる唯一の存在が彼しかいなくなるため、彼女の体中を見なければならないと言う、精神面での消耗が予想される事態が新たに発生するのだが、そうではないらしく彼女は緩く首を振った。
「いえ、まあ、大体わかってはいるんですけれど……」
「なら問題はあるまい。早くそこを教えろ」
 そうしてとっととそれぞれ安心できる状況で朝を待ちたいと考えている彼に、しかし彼女は呻き声を漏らして、唇を一度舐める。誰がどう見ても躊躇していると見受けられたその直後、やけくそめいた勢いで彼女は告げた。
「お臍より下、……です」
「臍? ならばお前にも手が届くだろうが」
「いえ、それは……む、難しくて」
 何故、と彼は手首から視線を外して彼女を見る。思っていたよりも顔が近くて急激に気まずさがぶり返してきたが、それよりも彼女の態度が気になったため、彼はまた視線をそらしたいのを我慢した。しかし今度は彼女の側が気まずそうに視線を泳がせる。どうやら、どちらかがその気になってもタイミングの問題で、ふたりはこの距離ではまともに視線を合わせられない宿命にあるらしい。
「……あの、ちょっと想像してほしいのですが、お臍の下はなんと言いますか?」
「下腹だろう」
「ではその下は?」
「………………うんん?」
 二重の問いかけに、彼は横向きのまま首を傾げる。相対する彼女の顔が更なる赤みを増していたが、それでも彼女は逃げなかった。
「その下です。そこです」
「……そこが、何。いや、何を」
「全部、わたくしに言わせる気ですの?」
 その返しで、彼女の歪んだ眉と態度で、ついには俯いて彼の視界から完全に逃れようとしたことで、彼はすべてを理解した。つまりはまあ、呼吸を止めて完璧に、お手本のように硬直した訳だが。
「………………は?」
「そこです。結び目らしいものがあるのは」
 言い切って、彼女は自らの内部にうるさいほど響く心音を落ち着けようと深呼吸をする。その間、向かい合う彼は深海のごとき沈黙をひたすらに貫いており――しかし、それも数秒してどうにかまともな生き物としての活動を再開した。
「あ、あ、アルティナ……?」
 彼の完全に裏返った声に彼女は瞼を伏せたまま、なんです、と些か素っ気なく応じる。そんな態度を取られた理由など、放心から抜けきれない今の彼には二の次三の次だ。とにかく今は、馬鹿にうるさい自らの鼓動とその他諸々の障害を押し殺し、まず今頭の中に押し寄せてくる仮定を全力で回避すべく喉を動かす。してみれば結果的に冷静な対応であり、衝撃も過ぎると絶叫する機会を失うものだと今になって彼は学んだ。
「て……提案がある」
「はい」
「縄を切る」
「……どう、やって?」
 目を瞬いて訊ねる彼女に、彼はとりあえず今あるものを使おうと頭を捻る。
「手で千切る」
「できますの?」
 一縷の望みに追いすがる表情の彼女が少し間を詰めただけで、その甘く濃い芳香がたちまち彼の土台をぐらつかせる。こんな調子では縄を千切ろうにも、どこかしら彼女に自分から触れて、力を入れることさえできやしまい。噛み千切るのもまた同様に難しいと直ちに悟った彼は、情けない声を漏らして首を振った。
 希望を打ち消された彼女はまた少し瞼を伏せ、しかし一切彼に対して不満げな顔はしない。それに後味の悪さを覚えつつ、彼はもう一つの提案を示す。
「お前の縄は解かずに一晩過ごす」
 返事はない。代わりに広がる沈黙は、彼女の心情を痛いほど彼に伝えてくる。そうでなければ口にしたそばから彼が自分の発言に後悔し、自責の念が襲ってきただけの話だ。生真面目な彼がやはり自分の発言を取り消すべきかと懊悩した隙に、穏やかな声が響いた。
「……そうしましょうか」
 彼がちらと対面に目をやると、緊張が緩んだらしく細い肩がふと張りを失う仕草を取った。実際、動くことで結び目の切れ端らしいものが自分の太股に触れて、自分の胴体の先端に近いところに違和感を抱いた彼女は、十分その可能性を視野に入れていたのだ。
「少し窮屈な程度ですものね。わたくしだって一晩くらい耐えられますわ」
 次に彼に向かって顔を上げた彼女の顔はさっぱりと、諦めたが故に妙に明るい。だが彼のほうはその明るさにこそ心が痛み、やはり自分の提案を取り消す道を選ぶ。理由は単純明快だ。自分のまさしく手が届く範囲であると言うのに、この娘にこれ以上、痛みと恥辱に耐えさせるような道を選びたくなかった。
「いや、待て」
「けれど、背中を向けるくらいは手伝ってくださいな。この格好だと、さすがにそこまでは難しくて……」
 軽く眉根を寄せて笑う彼女に、自分の揺るぎなき意思を伝えようと、彼はまだ触れやすい位置にある片耳に人差し指で触れる。
「アルティナ」
「ん……っ」
 横になりながらも小さく飛び上がった彼女の耳は、人の姿であれば最も冷たい場所であるのに妙に熱い。彼が悪魔であることを差し引いても、この体温は異常だ。それと彼女のやせ我慢を得意とする性分を思い出し危機感を募らせながら、彼は改めて自らの決意を表明する。
「先程の言葉はもう忘れろ。お前を助ける」
 真剣そのものの彼の宣言に、彼女は軽く目を見張り、次にくすりと微笑んだ。笑った対象は当然この状況でそんなことを真面目な顔で告げる彼の滑稽さであり、またそんな彼にうっかり胸をときめかせてしまった自分でもある。
「そんな贅沢な言葉、こんなときに聞きたくなかったですわね……」
「……からかうな」
 しかしなんと取り繕おうと放った言葉はもう取り消せない。ゆえに彼も顔が熱くなってきた自覚を持ちつつ、彼女の耳に触れた指をもとに戻して深呼吸をする。新鮮な空気が肺に満たされる感覚は薄く、むしろ人肌のそれと彼女の蕩けそうに甘い体臭が混ざりあったものが体内に侵出して、空気でさえも彼から落ち着きを奪おうと意地が悪い。
 騒がしい脳の奥の感覚を頭の中の手で追い払うと、彼は気合いを入れて背を棺の側面に押しつけ、彼女の顔より下、痛々しく拘束された手よりも更に下が見える位置へと身体を下げようと少しずつ移動する。
 彼女は縄の接触箇所から、痛みではなくはっきりとした熱と意識が妙に明確になっていく感覚を不思議に思いながらもどうにか身じろぎ彼の進行の邪魔にならないよう心がける。とは言え棺はそこまで広くない。立って歩けば半歩もしないうちの距離を息を殺して移動した彼は、彼女の手に静かに触れて、相手へ確認するためも含めてゆっくりと拘束された手を退け――。
「ぶ」
 吹き出しまた顔と身体の位置をもとのところまで戻す。彼女はそれを咎めない、どころか是非ともそうしてほしかった。彼と同じ衝撃を味わったからだ。
「……な……っっ、そん、なっ!」
 ふたりは完全にそれを考慮していなかった。彼の側からは彼女の身体はまず胸部、次に手、腰と太股くらいしか見えておらず、彼女の側からはやはり胸、腹、手、脚と続いて、完全に結び目がある位置が死角になっており。そうしてふたりの死角にあったのは、彼女の寝間着の裾が完全に捲れた状態。つまるところ彼女の下着が外気に、並べてふたりの視線に晒されたのであった。
「何故、…………白い?」
 色気云々以前に普段の格好と比較しまず単純にそんな疑問を抱いた彼に、彼女はついに目尻に涙を浮かべながら答える。
「わたくしだって眠るときくらい楽な格好をします!」
 そうか、と短く相槌を打ったのち彼はどう反応していいものか途方に暮れる。と言うより声に出すべきではなかったと、今度ばかりは本気で後悔しても後の祭り。子どもではないのだからそんな布切れ一枚で歓声を上げることはないのだが、いやしかしその奥に潜むものを隠すための布としてそれは偉大にして重大な存在でもあり、どちらにせよ乙女の小さな花園を覗いてしまったことには相違ない。
 しっかりと彼の目に焼きついてしまったのは色か形状か赤い縄とのコントラストか。身も蓋もない話、布だけならば問題ないのだ。着用者が彼女でなければさえなければ、やはり問題はなかったのだが現実ではどちらも違っていた訳で。とにかく猛烈に気まずい思いをしているもののそのお陰もあって妙に落ち着いてしまった彼とは違い、彼女のほうはついに平静を保てなくなったらしい。普段から脚も肩も胸でさえも剥き出した格好であるのに、そこだけは見られたくなかったのか。涙をいまだ睫毛に溜め込んで、きつく彼を睨みつけた。
「……目を」
「ん?」
「瞑ってください! もしくは見ないように解いてください!」
 無茶な話であるはずなのに、彼はそれをすぐに拒否できなかった。それくらい彼女の気迫は凄まじく、同時に憐れを誘う様子であったがために。
 彼は眉間に皺を作るも、まずは何も言わず鼻からゆっくり息を抜く。脳は取り乱した彼女をどう落ち着かせるか、説得するかの、彼にしては珍しく他者の気持ちを慮る方向で働いていたが、その辺りはこの吸血鬼、考えるより直感頼りのほうが効力があるくらいなので成功率はおのずと知れる。
「あー……アルティナ、一ついいか」
「なんです!?」
 彼女は鬼気迫った形相であるはずなのに、べそをかいているせいで可愛らしくも見えるのがいけない。彼にそんな甲斐性があって恥ずかしさがなければ思わず抱きつきかねない程度に、その取り乱し方は小動物の威嚇めいていた。
「それはどのみち、……結び目を解くのが難しくなる。そうなれば俺の指も、余計な部分に触れてしまうかもしれないし、お前もあまり、いい気はせんはずだ」
「どうせ触られるんでしたら見られないほうがよっぽどましです!」
 そう言うものなのか。咄嗟に問いかけたくなった彼は、唇を細やかに震わせながらもなんとか落ち着こうとする彼女にうっかり和みかけて顔を隠す。いやしかし、それだけ彼女がこんなふうに動揺する姿は彼にとって貴重だった。
「……ま、まあ、一度見てしまったものは仕方ないと割り切って」
「無理です、もう無理です! ……ああもう、本当になんでこんなことに……!」
 悲痛なまでの彼女の声は、同時に彼の声でもある。俯き涙を一筋二筋流しかねない彼女とは対照的に、彼のほうは天を仰ぎたくなった心地ではあるがまあ気持ちの点では共通していた。だが気持ちが通じようにも、誰か及びどちらかが動かなければ状況は変化しない。当たり前だが自由に動けるものはここでは彼しかいないのだが。
「わかった……お前の言う通りにしよう。だが、どんな結果でも覚悟はしておけ」
 俯いたままの彼女が無言で頷くのを見届けると、彼は先程と同じようになるべく相手と距離を開けつつ下へとほんの少し移動する。そうして手がおおよそ結び目に届くであろう位置まで到着すると、まずは親指まで拘束している縄に触れた。
 微かに彼女が息を呑む気配を感じ、彼は相手に意識されることに居た堪れなさを覚えるがこれから先の道行きはそれどころではない。縄に触れたまま彼は肩を一度竦めて緊張を解すと、意を決して首を上に固定しながら、更にゆっくりと体を下へとずらしていく。同時に縄に触れる指先が、彼女の手首より下へと移動する。
 縄を伝っていくだけだから、彼女の肌に直接触れるわけではない。それでもワイシャツの皺や縄越しに伝わる体温は彼の指にそれより一枚下の、熱くて吸いつくような肌の持ち主の歪みも汚れもない肢体へ意識を誘って、いつからか治まったと思った動悸がまたも明確に彼の内側から響き渡る。
 縄を隔てた腹部の緊張さえも伝わってくる感覚は生々しく、目をそらしているはずなのに彼の脳裏には今自分の指がどこにいるのかがありありと想像できた。縄の上から彼の指がワイシャツとはまた別の凹凸を感じ取り、蟻よりも遅々とした進行はついに彼女を完全な混乱に招いた下着への到達を知らせてくれる。
「ぅ……」
 まだ鼻声のままの彼女が微かに唇を開く。普段ならばそんな声は彼の耳には届かないし、届いたところで聞き流すのだが、このときばかりはぎくりと停止させられるほどの力を持っていた。
 彼の一時停止に彼女は邪魔をしたと察し、下腹を強張らせながら短く一言。
「続けて、ください」
 言われるがままに彼の指は縄を伝うが、縄からはみ出た指と腹を仕切る布地が違っているせいか、それともそんなものだったか。下った先は熱かった。直接触れていないはずなのに彼の指にさえ湿った熱が伝わってくるほど。
「……ぐっっ」
 熱と共に指に伝わる絹のなめらかさは彼が身構えていた以上に甘美で、その向こうにあるものへの期待を自然と掻き立てる。縄が無骨な感触であるためか、本当に僅かな接触でしかなくてもその心地良さは異常だ。これでもっと縄が太ければそも絹には触れなかっただろうし、かと言って縄が細かったり彼女の肌へと食い込んでいたらそれはそれで割り切れて緊張しなかったかもしれない。そう言う意味では絶妙だった。絶妙に悪かった。
「……タ、タヅクリ」
 故にこのまま黙っているのは危険と判断し、乾いた喉から搾り出すように必死の抵抗を示した彼の言葉をどう受け止めたか。彼女の全身がぴくりと震える。指に熱くてさらりとしたものが触れた気がした彼は、更なる抵抗でもってそれを気のせいであると自分に言い含める。
「ウルメ、ドンボ、シコ、ナナツボシ、ママゴ、ユワシ、ホホタレ、アオコ、メギラ、カエリ、ヒラレ、ブト、オラシャ、ゴマメ、ゴコオ、モロクチ、ハンガン、ドオメ……!」
「……なん、ですの、それ?」
 細やかに肩を震わせながら問う彼女の声は、動作の点では先と変わらないものの感情の方向は明らかに違う。ミリ単位で下に移動しながら読経の勢いで呟き続けていた彼は、息継ぎののちに昂然と言い放った。
「イワシの別名だ! 主にカタクチイワシとマイワシとウルメイワシの三種のみだが!」
 予想はしていたらしいが、彼女の声に薄い笑みと感心がない交ぜになったらしいものが現れる。しかしもう泣いてはいないし、取り乱す様子もない。
「まあ……、そんなに沢山」
「うむ。イワシの別名だけを言い続けるのは膨大な量になるからな……三種に制限した上でなければ、いかな俺でも言い足りぬ」
 実際にそんな真似はしないが心持ち胸を張った彼に、彼女はようやく過度の緊張が解れたのか喉の奥で金の鈴が鳴るような笑い声を転がす。
「ですけど、あれでも全部ではないのでしょう?」
「当然だ」
 深々と頷きかけて、うっかり下を見かけた彼は慌てて首を戻す。その仕草を彼女は見ていたらしくまたもくすくすと笑い声が彼の耳をくすぐるが、今度は些か恥ずかしい。
「……わたくし、今初めて、心の底からイワシに感謝しますわ」
 だが単純に嬉しい言葉を耳にして、彼も彼女の口調とは同様に、こんな状況とは思えないほど穏やかな笑みを口元に刻んだ。
「それは重畳。今晩無事に朝を迎えればお前も食え」
「あら。そう言う想定は、『失敗フラグ』と言うのだそうですわよ?」
「はん、失敗が怖くて行動など起こせるか」
「ご尤もですけれどわたくしはここは慎重を徹して、返答を保留にさせていただきます」
 つれなく断られた彼は嘆息するが、それが区切りであるかのように指先に障害物との遭遇を感知し、軽く目を見開いた。思わず押して確かめたくなるのを堪えながらもう片方の手を静かに近付けつつ、結び目の形状を確認する。猿轡と同じく固結びだ、よりにもよってこんなところでさえも。
「……見つかり、ま、した?」
 彼としては軽く触るだけのつもりでも、彼女にとってはしっかり押されている感覚であるらしい。腰が彼の指から逃げようとするのを支えるべきか迷いながら、彼は小さく肯定した。
「ああ。予想はしていたが、片手で解けそうにない。その点は……」
「は、ぃっん……!」
 白い喉が引きつって、漏れかけた悲鳴を飲み込む。いや実際には悲鳴、ではないのだろうが違うものとして捉えれば今度は彼の精神面が危なかろう。
 ともかく結び目にようやく辿り着いた彼は解こうとまずは片手でそこを固定するが、やはりそれだけでも彼女にとって酷い刺激があるらしい。彼の指が縄と縄の向こうに触れる面積が増した上に、絹に包まれた珠の肌がわななく。
 だがそれを彼は舌を噛む痛みで無視し、もう片方の手を結び目に添える。そうしてようやくそこを解こうと球状のまとまりに爪を立てるが、それにこそ彼女は我慢ならないような甘い声を発した。
「んぁっ、んぅん……っ!」
 添えた側の手に一瞬、彼女のなめらかでほのかに汗ばんだ下腹がひくりと埋まりかける。まずかった。彼女もだが彼もまた猛烈にまずかった。
「お、オイザサ!」
 だが彼には意地がある。こんなところで不本意なこんなお膳立てに乗せられてたまるものかと強い反発心を沸き上がらせて、脳をどうにか別の方向で働かせようとイワシの名を叫ぶ。
「ナキナキウルメッ!」
 娘のことは想っている。そんな欲求がないと言えば嘘だ。だができることならば自分の意思と彼女の意思が合致したと確かに知れた際に自然とそうなるべきであって、明らかな第三者の介入が考えられる今はそのときではないと、彼は思っているから。
「カワナシドブ……ッッ!」
 機会がなかったかと言えば否。互いを想っているとわかる出来事は確かにあった。たまにどうしてあそこで触れなかったのかと思い出しては悔やみもするが、それでも彼は強がりと自覚した上でも現状に満足しているのだ。恐らくは彼女も今の、そばにいて相手の存在を感じるだけで、ふとした瞬間に視線が重なりあうだけで、とりとめのない会話をして相手の反応を見れるだけで、幸せを噛みしめていたのだから、こんなことで生まれる実りなど望んでいない。
「ボウワレイワシ……ッ、キンタルッッ!!」
 故に彼は抗う。悪徳を美徳とする悪魔の身ながら徹底的に。女が女と呼ばれる由縁に触れながら、そこを間接的に縄で締め付け刺激を送ってしまいながら、それでも自分の掻き消えそうな理性を奮い立たせてひたすらに。相手の気持ちも確かなら、そこまでする必要はなかろうと他者ならば呆れるかもしれないがそれでもやはり、彼は純粋に、触れている相手に、娘に、彼女に、拒絶されたくは――。
「トッポウルメ、ヒラゴイワシ、……スウゲンイワシッッッ!!」
「ヴァル、バトーゼ……さ、ん……っ」
 他者の名前を呼ぶとは即ちその他者を声で抱くと誰かが言ったが、これはまさに誘うような声の抱擁だった。喉の奥からこみ上げてくるものを押し殺すように切なげに。けれど同時に、もう我慢ならないとでも言うかのように。
 無防備にも彼は見てしまう。彼女の震える睫毛の隙間から、青い瞳が蜜のように濡れているのを。眉根を寄せ、頬を紅潮させ、唇を噛み締めたその端から脆い銀糸が一筋流れたのを。それは場合によれば泣き顔であると表現できるだろうが、しかし今の彼女はそうではない。ああだが事実として、その感覚も極めれば種類は違えど熱い涙を流すほどであるし、理性なく崩れた顔は泣きわめいているようにも見えるか。
 とりあえずまずかった。猛烈にまずかった。何がまずいと言って、彼の片手はいまだ結び目を解いておらず、なのにいつの間にかもう片手は下腹にしっかりと触れて汗に濡れ、しかも彼は彼女の何かを乞うような表情を見てしまって、甘い体臭の中に塩気めいたものも嗅ぎ取ってしまって、粘りのあるものの音も耳にして、つまり。
 拒絶の意思は一つたりともないと、彼は思い知らされたのだ。
 多分に、命綱が切れた登山家とはこんな心地なのだろう。あれだけの葛藤と努力が薄氷を割るよりもあっさりと、自分の中に秘めた決意でさえもごく簡単に消失してしまい、彼はただ何の抵抗もできず堕ちてゆく。喉の渇きを癒す心地で、思うがままに、今触れているつがいとならんとする娘への欲望を示す方向へと。
「アルティ、ナ……」
 流れに身を任せ結び目に食い込ませていた指先を放した瞬間に、それが解けて彼の指に絡みつく。重くまとわりつくそれを反射的に指を払いのけ、たところで気が付いた。解けて。解け、て――?
「………………」
 顎を引いて下に首をやれば、夢幻でも都合のいい錯覚でもなく、解けた赤い縄が未練がましく彼の小指に絡まる光景が目に入る。あれだけ爪を立てても、ほじくり返そうとしても強固に動かなかったものが、今になって。
 この光景を目にして彼は判断を強いられた。解けた事実を無視するか、それとも彼女を救うべきか。悪魔ながらに生真面目な気質の彼なれば当然後者であるべきだし、ほんの数秒前まではそう考えて奮闘していた訳だが、縄を解いてしまった瞬間の彼は違う。彼にしては珍しく、本当に何度あるかも知れないほど本能が理性に打ち勝ったと思しきときだったのに。よりにもよってそんなときに解けてしまい、彼は唖然としつつも迷った、猛烈に。その時間は恐らく数秒、だが体感ならば永遠だ。
 結局、肺から目一杯息を吐き出すと、彼は縄を摘み直して彼女のほうを見やる。彼女もまた開放感を戸惑いつつも受け止めたらしく、瞬きもせず見開かれた目は嵐が過ぎたあとのように静かだった。
「…………解け、たぞ」
「あ、……は、い……」
 頷いて顔を上げた彼女の目にはもう、揺らめく情欲の炎はない。まだ頬の赤みは残っているがそれだけで、その表情から垣間見えるのは悄然でも渇望の残り香でもなく夢から醒めたばかりのような、放心状態に程近く。彼女は解けた縄の末端を見てから手首をのそのそと動かすが、縄はゴム製ではないのだ。それしきの仕草ではまだそこまで解けない。
「手首までは、お願いしてもよろしくて?」
「……ああ」
 言葉も普段通り、真っ当過ぎて色気もない。いや相変わらず彼女の拘束はいまだ完全に解けていないのに彼が途端に色気を見出せなくなったのは、単純に結び目を解かねばならないと言う自分に課せられたシチュエーションそのものが失われてしまったからだ。たかがそれだけではあるが、しかし彼にとっては自己の行動につながる点は非常に重要であった。
 最大の機会を盛大な肩すかしで終わらせてしまった彼は最早どうでもよくなって、彼女の腕と手首に絡む縄を解くためまたも触れるが、今度はざっくばらんで緊張感など髪の毛一本ほどもない。贈り物のラッピングを解くと言うよりも、貨物船から積み荷を下ろす下っ端船員の気分で縄を解き、ついにどこかからの荷物よろしく贈り物である娘は自由を手に入れた。
「はぁ……、ありがとうございます!」
 彼女が一息、しみじみと感謝の言葉を告げてから拘束が解けるまでの早さと来たら。彼が呆然と眺めている間に脇が、腰腹胸が秒単位で赤い縄から解放されていく。それなり激しく動いていても、彼のほうにそれほど接触しない辺り、やはり縄抜けは手慣れているらしい。一体天界では何を学んでいたのやら。
 しかし手慣れていても視線は感じたくないのか。ワイシャツの裾はもう捲れていないのだが――腰が自由になると真っ先にそこを正した――、彼女は眺めている彼に気付くと片手を伸ばし、恩人の顔上半分を隠す。
「あ、あまり見ないでください……」
「……それを今言うか」
「今だからこそ言うんです」
 彼の目のくぼみに納まった白い手はいまだ興奮の熱を残しており、彼の瞼に柔らかく温かく心地良い圧力がかかる。それだけで、先程までは見事に消滅していた腹の奥のむず痒さがまた鎌首をもたげそうになるのだから男とは単純なものだ。しかしここまでどうにか無事にやってきたのだから、最後に一悶着起きるのはいただけない。
 もう縄は解け、見るなとまで言われたのだから用事は済んだも同然。故に静かに手を払いのけた彼はゆっくりと体を反転させ、今まで背を預けていた棺の側面を前に寝る姿勢を作る。棺の中でこんな格好になることは滅多にないが、それでも娘にのしかかられたり、向かい合ったりするよりも余程健全に眠れる体勢だ。事実この姿勢に落ち着けると実感しただけで、疲労感が一気に彼の全身に押し寄せる。
「……俺はもう疲れた。眠れるようなら眠っておく」
「っしょ、はい……お疲れ様でした。それと改めて、助けてくれてありがとうございます」
 いまだ縄抜けの最中らしい彼女の声は穏やかで、彼の疲れた心を軽やかに撫でる。彼女こそが今夜疲れた原因ではあるけれど目に毒となる光景が広がっていないだけに彼は素直にそのくすぐったさを受け入れて、瞼を閉じながら淡い笑みを浮かべた。
「俺が望んだことをしたまでだ。感謝の気持ちを示したいのならばイワシで示せ」
「イワシでどうやって示せと仰るのかしら」
 彼女の苦笑を含んだ声ののち、ふたりの足元の隙間に縄らしいものが投げられて、彼はようやく彼女が完全に縄を解ききったと知る。続いて向こうも彼と同じく背中をこちらに向けたらしい。羽らしいものが彼の背中に掠った。
 そうして暫く棺の内部に他者を意識した就寝直後特有の、落ち着くようでぎこちない沈黙が支配していたのだが、彼女はふととあることに気付いたのか。半身を彼の側によじって控えめながらに訊ねてきた。
「狭くありません? ここはあなたの棺なのですから、もう少し、こちらに寄っていただいても構いませんのに……」
「……いや、それには及ばん」
 実際に狭いことは狭いのだが、彼女の側に寄るのは躊躇する。そんな彼の心境を察しているのかいないのか。彼女は彼の脚に添えられた手を握ると、自分のほうへ引き寄せる。自然、不意に引っ張られた彼は軽く丸めていた肩を彼女の側へと傾けてしまう。
「アルティ……っ!?」
「主に縮こまっていられると、居候も居心地が悪くなりますわ。あなたは功労者なんですから、もう少し厚かましいくらいでいてくださいな」
 とは言え彼女もそれほど大胆なことはしていなかったようだ。彼が背中から倒れかけた空間は予想を越えて余裕があったが、彼女を振り向き見れば無理をして隙間を開けた訳ではないらしい。確かにこれならばと多少気楽に彼が隙間を埋めると、天使の羽が今度はしっかりと触れてくる。しかし悪い気はしなかった。羽毛の感覚が安堵を誘うのか、彼女の背中の一部が触れたと実感できるからかはわからないけれど。
「……あの」
 控えめな声に閉じかけた瞼をまた開けて、彼は軽く持ち上げられた片手に視線をやる。彼女に手を握られたのを彼が強く握り返してしまったままでいたのだ。
 声をかけられた意味は彼とて十分理解できてはいたものの、このまま放してしまうのは惜しいと素直に考えた。背中で触れ合うだけなのも悪くないが、何せ彼は悪魔であって多少は貪欲なのだ、このくらいはしても構うまい、と頭の一部が囁いた。
「厚かましくてもいいと、お前が先程言ったではないか」
「……そうですけど」
 思うところがあってすぐさま手を放した彼は、戸惑い気味の白く柔い手に改めて指を絡める。深く、静かに、ゆっくりと。
 悪くはなかった。傷のない、かたちの整った細い指が自分の手の隙間を埋める感覚は。指の腹と爪のかたちを確認するように撫で上げて、軽く驚かれる反応は。仕返しとばかりに彼女の指が彼の指の一本に、絡みつこうとするのもまた。
 背中を向けているため相手の顔は決して見えないものの、その表情ならば鮮やかに彼の脳裏に描かれる。多分に彼女は幸せそうな、照れ臭そうな顔をしているのだろうと思いを馳せ、その顔を直接見られないことに安堵と僅かな無念を滲ませた。しかし彼もまた似たり寄ったりな顔をしていることなど、鏡のない棺の中では知りようはずもない。
 彼の親指が彼女の手のひらを撫でると、彼女の指がくるりとそれを包んで指の背を擦る。そうはさせてなるものかと人差し指と中指が割って入れば彼女の側は先手を打って小指までもを使って彼の手を拘束しようとするが、彼はやはり上手く逃げおおせ。負けるものかと飛び込んでくる彼女の手を彼の手は柔く受け入れて、絡まり、もつれあう。
 片手だけの攻防戦に終わりはない。きっとどちらかがこれに飽きてしまうか、疲れて眠ってしまうまで。けれどふたりはそんな勿体無いことなどあっさりできやしないから、やはりそれに終わりはなくて。
 胸に滲む温かく甘く締め付けられるような感覚に身を委ねながら、彼らは不意に予想する。この調子では夜が明けるまで、自分たちはこんなことをしているのだろうと。

◆◇◆

 予想は正解か不正解か。
 ふたりが外の騒がしさに気付いたのはほぼ同時らしく、瞼の重さや節々の窮屈さ、自然と漏れてしまう欠伸からやはりいつからかまどろんでいたらしいと知る。ついでに重なりあっていた手もどちらともなく一撫でして、この一夜を共にしたお互いに暫しの別れを無言で告げる。
「ご無事であられますか、ヴァル様!?」
「……ああ、問題ない。眠い以外はな」
 外から見れば鍵がかかっている程度だろうに、随分と必死な人狼の呼びかけに彼はいつもの態度で応じて片手を放す。彼女もそれに従いながら、ワイシャツのボタンを一つ留め、横向きのまま軽く屈みこんで縄を拾った。
「眠……? ……いや、まさか、おい泥棒天使、お前か!? 貴様、そこで一体閣下に何をした!?」
 さすがに人狼ともなれば、棺からでも匂いを過敏に嗅ぎ取れるらしい。男の部屋に女の匂いがあればわかりやすいとも言えるのだろうが、とにかくあっさりと存在がばれた彼女は自身の潔白は揺らがないため堂々応じた。寝起きから元気なものだ。
「言っておきますけれど、わたくしもヴァルバトーゼさんも被害者ですわよ。大体わたくしがこの方の部屋に忍び込むのが目的なら、こんな間抜けをするとお思い?」
「見せつけるような奴だろうが、貴様のような雌猫は!」
「……そんなことをしたらあなたがヴァルバトーゼさんから本当にかたときも離れませんでしょう? そこまでわたくしは考えなしではありません」
 棺の内と外とで一歩も引かない二人の舌戦は、こんなときでも普段と変わりないらしい。それはさて置くとして、ようやく執事がこの異変に気付いたと言うのにこのままの状態であることに不満を抱いた彼は鶴の一声を放つ。
「とにかく鍵を持っているなら棺を開けろ、フェンリッヒ。言い争いならそれからでもできる」
 主の命令とあらば最優先が従僕の道理。それ故に人狼はまだ文句を言いたげな呻き声を漏らしたが、そうこうしている間にも棺の中の光景がどのようになっているかを考えたらしい。すぐさま上下左右の鍵を開けて棺の蓋を持ち上げる。
 ようやく得られた彼女の匂いがしない空気が入り込んできて、彼は安堵の息をつく。一晩過ごせばさすがに慣れるが、芯から酔いそうな香りはやはり彼には毒だった。彼女のほうは伸びをした勢いのままに立ち上がると、苦い顔で蓋を両手に持った人狼相手に例の赤い縄をひらりと投げる。
「この縄でわたくしは拘束を受けていましたの。犯人捜しをしたいのでしたら証拠の品を置いておきますからどうぞ」
「拘束……?」
 怪訝な顔の人狼に、肩を解しながら上半身を起こした彼は、裸足のまま棺から颯爽と出て行く彼女を目で追いながら頷いた。
「猿轡まで噛まされてな。だが安心しろフェンリッヒ、お前の主は誇り高き吸血鬼――あれしきでどうにかなるような軟弱さは持ち合わせていない」
 実際には動揺し続けた上にどうにかなりかけた訳だが、そこは言わぬが花というもの。彼女は表情を変えるまいと口元を震わせ、そんな努力を露と知らぬ人狼のほうは縄を見て僅かに顔をしかめたが、彼の態度に嘘偽りはないと感じ取ったのか。ようやく逆立っていた銀髪を治めて主に賛美の言葉を送る。
「さすがは我が主。あの天使の品性下劣な罠だけではなく、龍涎香にまで打ち勝たれるとは」
 唐突に見知らぬものの名を示されて目を瞬いた彼と内心首を傾げた彼女に、人狼は棺の足元に丸め込まれた猿轡で使われた布を拾う。それが香のもとらしい。
「いわゆる淫薬として人間界に伝わっているものですが……まあ所詮は人間に効果のあるもの。我々悪魔には何の意味もないと言うことかと」
「……そう、だな」
 動揺を押さえ込みながら、ふたりは密かに彼女がああもああだった理由を知って安堵する。そんなことで盛り上がる趣味があるのかと、それぞれ薄らと不安を抱いていただけにこの事実には人狼の知識へ純粋に感謝したいくらいだった。だが、本当にそれをすれば本格的にややこしいことになる。
「そ、それではわたくしは帰って寝直しますわ。お二人ともおやすみなさい」
「うむ。お前もご苦労だった」
「とっとと出て行け!」
 そそくさと逃げる天使の背中にそれぞれ労いと罵倒の言葉をかけた主従は、扉が閉まったのを見届けるとそれぞれ吐息をついた。ひとりは苦々しい顔で、もうひとりは名残惜しい顔で。
「閣下は……その、本日はどうなさいます。お疲れのようでしたら、ただちに代えの棺を用意致しますが……」
 嬉しい気配りに彼は一瞬そちらの道に惹かれかけるが、やはりと首を振って立ち上がり彼女の香りが染みついた棺の外に出る。疲労感はあるけれど、それでもまあ悪い気はしなかったのは何が原因であるか。
「いや、これしきのことで俺の教育を待つものどもを放置してはおけぬ。いつも通り業務を執り行う」
「ははっ」
 深々と畏まった人狼は、命ぜられることで通常運営に頭を切り替えたようではあるが、最後に一つ。
「……ですが、この件の犯人についてはどう致しましょう。わたくしとしては、なんとしてでもこのような真似をした者を捜し出して、それ相応の罰を与えたいのですが……」
 穏やかな口調ではあるがその犯人とやらを見つけ次第くびり殺しかねない表情の人狼を、彼はふん、と笑い飛ばす。
「構わん、捨て置け。結局俺たちの間には何も起こらず、犯人の狙いは潰えたのだからな」
 不満げな顔だが頷いた人狼に、彼は小さな笑みを宿す。本当のところは犯人を恨みたい気も説教したい気もあったがまあ、あのかけがえのない時間を得られた恩赦と言うことで処罰を打ち消してやろうと判断したために。





後書き
 シチュエーションラブコメ(ちょいエロ)いいよね……いい……ってだけの煩悩を迸らせた結果です。寝間着で亀甲縛りも白パンも趣味じゃないけどアルティナちゃんなら似合うよね派です。犯人は誰とか考えてません。
 一番最初のヴァルアルだからがっしり気合い入れたはいいものの、閣下がイワシの別名叫んでる辺りでふと「自分何書いてるんだろう」と頭抱えたくなったのは仕方ないですよね。

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The Brides of Vampire

2011/07/06

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The Brides of Vampire-after

2011/07/06

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35日前

2011/07/06

 少年が差し出した焦げ茶のカードは一枚きりの割に書類五枚分ほど分厚く、金の枠の箔押しが施された見るからに気合いの入った逸品だった。箔押しの枠の最上部に描かれた紋章は、月と太陽の杖を軸に左右対称に絡まる双蛇と、それらを支えて牙剥く大蛇。紛うことなき大統領府直下の証が奥ゆかしく煌いているにも関わらず、それを受け取る人狼族の執事フェンリッヒの仕草はあくまで軽い。
「何だこれは」
「開けるくらいはしてから聞けよ。……招待状だ」
 フェンリッヒの一瞥を受けて渋々説明する元大統領の息子である死神エミーゼルに、人狼は一笑に伏して投げ返そうとする、がそこを遮るは野暮ったくだぶついた青いジャージの袖の持ち主。らんらんと目を輝かせるなり損ないプリニーの少女フーカに、手をつかまれたフェンリッヒが嫌な予感を覚えるのもむべなるかな。この少女は阿呆であるだけに常識も通じ難く、勢いで多くの行動を決めるため、狡猾を自負する人狼にとっては御し易いようで扱い辛い。
「なに、招待状って!? アタシたちのためのパーティーとかやってくれる気なの、あんたんとこのパパ!?」
 冠婚葬祭にはまだ呼ばれない年頃の少女には耳慣れぬ、だがそれだけでも十分吸引力のある単語にしっかり喰いついたフーカの迫力に、エミーゼルは半ば気圧される。だがここまで同行してくれた彼女の阻止により、父親から受けた指令がこれで無碍にはならないことに密かに安堵もした。
「あ、まあ……大体、そんなところだな。旧政腐からのお前たちの戦果を称えた祝宴ってことでさ。ヴァルバトーゼの性格を考えたら、こんなのはやらないほうがって、父上も迷ってたらしいけど……」
「当然だ。こっちの議会で開く政治資金パーティーならまだしも、旧政腐が主催する祝宴なんぞ、政拳交代が済んだ今になって取り入ろうとする愚鈍どもの吹き溜まりでしかないだろうに」
 相変わらずの歯に布着せぬ物言いに、エミーゼルは背の高い悪魔を相手に厳しい表情を作る。フェンリッヒが主以外を過小評価するのは今に始まったことではないが、身一つで大統領の座に就くほど人間たちを恐怖に陥れた勤勉な悪魔でありながら、『断罪者』を名乗る人間に脅されてまで魔界の維持に心血を注いだ父についてまでそんな評価を下すのは、独り立ちを目指す彼とてさすがに気分が悪くなった。
「そのくらいは父上だって気を遣う。お前ら次第ではあるけど、ほかに招待する予定の現役議員はこっちの議会にも顔を出す最低でも上級、最上級クラスだぞ。それから別魔界の魔王とか魔神とか貴族とか、とにかく凄い面子が……!」
「ほう」
 フェンリッヒはその説明にようやく食指が動いたらしいが、微かに目を細めるだけでやはり主にまでこの話を通す気はないらしい。持っていた招待状をエミーゼルに突き返そうとして、それが自分の手元が消失していることに気が付いた。犯人の心当たりは―― 一人しかいないのだが。
「きさっ、小娘!?」
「うわっ、模様みたいな字……。これどっちが参加でどっちが不参加?」
「……ここの下に丸書いとけばいいよ」
 それじゃあ、といつの間にやら持っていたペンで丸を書いて招待状をエミーゼルに返そうとするフーカの手から、フェンリッヒがすりのように鮮やかに、とは言い切れないものの暴風の勢いでそれを奪い取る。
「ああっ、なに勝手なことすんのよ!」
「それはこっちの台詞だ糞小娘! お前が勝手に参加を決めるな!」
 が、この少女が怒られたくらいで口惜しそうな顔をするなんて大人しさは勿論なく。ちょっと、と怒りの篭った一言で人狼に襲いかかり、招待状を取り返そうと身を乗りだすが、フェンリッヒはそれをも見越して大きく背後に跳び退く。突進が空振りに終わったフーカは、驚異の身体能力で床につんのめりかけた勢いを逆に利用して相手との間合いを一気に詰め、今度は褐色の腹へ頭を向ける。
 直前に身体を反転させて頭突きを背中で受け止めたフェンリッヒだが、その振動で少しだけ踵が浮きかけた上にフーカの手はいまだ諦めず招待状を探そうと虚空を掴んでいる始末。このまま押される一方では危険と察し、手にした分厚い招待状を破こうとしたところで奥の扉が開いてしまった。
「……な、何事ッスか?」
 現われたるは山のような書類を持った魔界の消耗品悪魔の代名詞であり生前罪を犯した人間の魂が入ったプリニー三体。どうやら執務室での運搬作業に携わっていたらしいが、その奥からフーカとフェンリッヒの珍妙な状況を覗き見たのだろう。吐息一つを漏らした、現与党設立者にして元『暴君』にして世界を救った覇者にしてプリニー教育係である生きた伝説の吸血鬼、ヴァルバトーゼが足を止めた彼らの背中を押すように促しながら控えの間に顔を出した。我に返った小悪魔たちは、慌てて書類を携えたまま廊下に出て行く。
「先程から騒がしいと思って見てみれば……俺が一人奮闘している最中に、お前たちは一体何をじゃれついている」
「奮闘って単に判子押してただけだろお前」
「じゃれついてなどおりません閣下!」
「ヴァルっちー、フェンリっちが意地悪するー」
 三者三様の反応ないしは突っ込みを一挙に受けて、ヴァルバトーゼは驚きに目を瞬いたものの基本的に彼はこのくらいでは動揺しない。別の言い方をすればマイペース、神経が図太いとも言うか。真っ先に目に付いた執事とプリニーもどきの少女を冷静に観察し、ふたりがそうなっている理由と思しき焦げ茶のカードをすぐさま発見した。
「フェンリッヒ、何だそれは」
 ヴァルバトーゼの自他共に認める忠実なる僕にとって、招待状の一枚など見られたところで無碍に断ると思えば大きな問題はない。しかし自分が誤魔化すようにこれを破る姿を主に見られるのはみっともないと判断したフェンリッヒは、正直に話すことにした。
「前大統領から、我々が『恐怖の大王』を退けたことに対する祝宴の席を設けたいとの申し出がありまして。閣下はこの手の催し物があまりお好きではありません故、わたくしが処理をしようとしたのですが……」
「何言ってんの、パーティーよ!? イケメンとディナーとスイーツ溢れる夢のチャンスを、なんで見逃さなきゃなんないのよ!」
 フェンリッヒの腹に絡まったまま腕を伸ばして招待状をひったくろうとするフーカに、人狼は片手でその頭を鷲づかみにして招待状を持つ手のほうを天井へ向かって掲げる。少女はうわ大人げない、と呻いて飛びかかろうとするがまるで無視した顔のまま体は必死で抵抗する執事の姿を見て、一人絡んでもいない少年悪魔は吸血鬼がじゃれついていると表現したことに今更ながら合点がいった。だがそう表現したヴァルバトーゼは、この光景にもパーティーにもさしたる興味を持てないらしく、素っ気ない仕草で外套の肩を揺らす。
「ならば、行きたい者だけ行けばいい。俺の代理として我が党の議員が赴けば、向こうの面子もまだ立とう」
「……確かに、それは名案です」
 主の言葉に招待状を持つ腕を下ろしたフェンリッヒから、すかさずフーカはそれをひったくるもその表情は満足げとは言い難い。
「じゃあ、ヴァルっちは行かないの?」
「資金パーティーならまだ明確な目的があるゆえ頭も切り替えられるが、ただ騒ぐだけの祝宴など、どうにも落ち着く気にはなれん。お前は違うと言うのなら、デスコの同行も許可しよう」
「それは許可じゃなくて当然。……けどこう言うのって、やっぱりみんなで行くもんじゃない?」
 珍しく相手の顔を伺うようにして訊ねたフーカに、エミーゼルが首を傾げる。ヴァルバトーゼに負けず劣らずマイペースなこの少女はそこまで寂しがり、と言うか協調性のある性格だと思わされた記憶は薄いため、正直に疑問を述べた。
「どうしたんだよ、こんなことでお前が足並み揃えようなんてさ」
「アタシだって気くらい遣うわよ。ただ、ほらさあ……」
 軽く俯いて遠慮がちな表情を浮かべさえするフーカに、ますます違和感を募らせたどころか心配さえしたエミーゼルだが、次に彼女の発言を耳にしてそれを一挙に打ち消す。
「お偉いさん議員とか興味ないし。そう言う面倒くさいのはヴァルっちとフェンリっちが相手して、アタシは普通にパーティー楽しみたいって言うか……」
「ああ、うん。お前はそう言う奴だったよな」
 エミーゼルは本音をぶちまけたフーカにしみじみと納得するも、同じくそれを聞かされたふたりの悪魔は納得どころとは相成らず。苦虫を噛み潰した顔で、フェンリッヒが吸血鬼に提案する。
「ヴァル様、ここは一つデスコの同行を禁じてこの小娘一人に閣下代理を任せると言うのはどうでしょう」
「妙案だな」
 苦い顔とはいかずともあまり面白くなさそうなヴァルバトーゼまで執事の言葉に同調するものだから、フーカは堂々と面倒ごとをなすりつけてくる彼らに目を剥いた。まあ面倒の押しつけに関しては、元は彼女のほうが先なのだがそれはそれ。
「なにそれ、あんたたち酷い! 鬼、きちく、どえす、悪魔ー!」
 フーカが思いつく限りの罵倒を述べても、ここは地獄。悪魔が住まう魔界の一部なのだから、それらは吸血鬼や人狼にとって罵倒ではなく賞賛の言葉として受け止められるのが常である。当然、黒髪と銀髪の主従は誇らしげな笑みを浮かべて鷹揚に頷いた。
「うむ、その通りだ」
「今更おだてたところで提案は覆さんぞ、小娘?」
「そう言う意味じゃないってーの!」
 喧しい三人のやり取りに、取り残され気味だったエミーゼルが吐息と共に割って入る。このままの勢いで漫才を始められて自分の指令がうやむやになるのは、正直言ってありがたくない。
「フーカの狙いはともかく、こっちとしては当然お前らも来てほしいとは思ってる。祝宴って名目ではあるけど、単にちやほやするためだけじゃない……、しな」
 最後の言葉に籠められた、この気弱な死神にしては妙に緊迫感のある響きにフェンリッヒは軽く目を見開いた。どんな内容にせよやはり興味は持てないらしいヴァルバトーゼの表情はつまらなさそうで、祝宴を譜面通りに受け入れていたフーカはいまいちよくわからない顔をしていたが、とにかく三人はエミーゼルの説明を聞く気にはなったらしい。それを確認すると少年は唇を舐めて、慎重に言葉を選ぶ。
「魔界は今、お前らの一挙手一投足に揺れている。本当に与党としてこの魔界の頂点に君臨するのか、それと魔界の抑止力――」
 耳慣れない言葉にフーカは何ぞと目を瞬き、ヴァルバトーゼは浅く眉根を寄せる。そうだったと、やや早口でエミーゼルはこの吸血鬼の下らなくもけなす気になれないこだわりを汲んだ。
「じゃなくて教育係だな、それとして旧政腐が解決できない異変や危機に陥った際にだけ活動して、基本は旧政腐に運営を任せるのか。それとも協力体制を取るのか……。人間界との関係だって曖昧だ。この党の議員だってみんな色々不安に思ってるのに、お前らは政拳奪取したあとどころか、『恐怖の大王』を倒したあとでさえも何の表明もしなかっただろ。だから……」
「旧政腐が用意した公の場で改めて、閣下の意向を知りたいと」
「そう言うことだ」
 フェンリッヒに要所を言われてしまったエミーゼルではあるが、人狼の表情から悪くない手応えを感じたためにむしろ笑みさえ浮かべて肯定した。意向を知りたいと言われた張本人は、いつもと変わらぬ態度で下々の戸惑いを一蹴する。
「改める必要などなかろう。俺は自分の信念を曲げたつもりはない」
「その信念がわかってる奴が少ないって話だよ。魔界が腐敗した元凶はどうにかなったけどそれっきりだし、大体、お前の言う『再教育』だって具体的な話は出てないだろ」
「ま、こっち戻ってから忙しくなったしやることも増えたけど、なんとなーく政拳奪取する前のノリを続けてる感じはするわね」
 おつむの問題で執政にあまり関わらないが、ヴァルバトーゼ直属の部下としての立場を持つフーカでさえそんなことを言うのだから、それより下っ端の議員や完全な第三者にはこの吸血鬼の動向は不透明で、顔色を伺おうにも伺えない状態が続いてきたのだろう。そうなれば、現在最も深刻な問題である『畏れ』エネルギーの回復作業に魔界全土が集中するのは当然難しい。
 忌憚ない意見を聞かされ深く考える姿勢となった主の姿を見て、フェンリッヒは黄金の瞳を静かな野心に輝かせ顎に手をやりしみじみと呟く。多少にもったいぶった態度ではあるが、口元に浮かび上がる緩い線は彼の心情を素直に表していた。
「確かに『恐怖の大王』を退けて以降、事後処理に追われていて今後の計画は白紙に近かったな。……いい機会には違いない」
「事故処理って言ったって党内や地獄のことだろ。お前らが魔界を空けている間、代わりに誰がこっちを治めていたと思ってるんだ」
 答えは当然ながら旧政腐の悪魔たちに決まっているが、フェンリッヒは少年が完全にあちら側の立場でものを話しているのが癪に触ったらしい。格好はそのまま、片眉だけをつり上げてエミーゼルに指摘する。
「そう言うお前もオレたちに同行していただろうが。結果的に得るものがあったのならば図々しい物言いは止せ」
 図星を指されて押し黙るエミーゼルを尻目に、フーカはフーカなりに疑問に思うことがあったようだ。吸血鬼をちらと見ながら、誰にともなく訊ねる。
「あんまり難しい話はよくわかんないけどさ……今の魔界大統領ってあの馬鹿でしょ? ヴァルっちは割とどうでもいいんじゃないの?」
 どうでもいいはずがない。死神の少年と人狼の青年はほぼ同じタイミングで肩を脱力させると、一方は忌々しげに、もう一方は片手を痛むこめかみに添えて少女の疑問に答えてやった。
「早い者勝ちで大統領の座を手に入れたお飾りそのもののアホと、現在も議会を動かし地球を『恐怖の大王』から救いさえした我らが閣下。どちらが影響力があるかは一目でわかるだろうが」
「アクターレが今大統領としてやってることなんて定期ライブくらいなもんだよ。ま、下手に執政に関わられるよりそのほうが放置できていいけどさ……」
 そもそも現大統領が何をしているのか全く知らなかった――興味がなかったとも言える――フーカは、自分で訊ねておきながらへえと気のない相槌を打って、いまだ思考の海に沈んでいるらしいヴァルバトーゼに水を向けた。
「それで、ヴァルっちはこれからどうすんのよ」
 勇気とは無謀の別名とはよく言ったもの。軽く短く簡単に過ぎる言葉だが、その問いに含まれた意味は重く広く深く影響力を持つ返答を要求し、そのくせ言い訳無用ときたものだからこの娘はとみに恐ろしい。人狼の青年と死神の少年はあまりの率直さに一瞬背筋が強張ったが、ヴァルバトーゼは何食わぬ顔で口を開けた。
「目下はその祝宴とやらに出席する。俺の意向を伝えることによって魔界の戸惑いが拭い去られるのならば、ここは代理で済ますべきではなかろう」
「あ~、……そっち?」
 フーカもまたふたりが緊張したものと同じ意図で訊ねたつもりでいたらしいが、吸血鬼の返事は実に現実的な問題に対するもので。エミーゼルはここで彼が改めて意向を宣言しなかったことに安堵を覚え、フェンリッヒは主があえて返答を避けたその内面に薄々勘付きつつも少女の手から招待状を奪い返して一歩進み出た。
「閣下の仰せとあらば、わたくしもそのように致しましょう。……幸い、日程も時間も既に決まっています。調整はし易いかと」
 招待状を主に見せるように開いた執事に、ヴァルバトーゼは任せたと一言述べて中身を一瞥もせず執務室に戻ろうとする。行くことになりはしても祝宴そのものにはやはり興味など持たないらしい。招待状を奪われたのに主従の後ろで声を出さないまま笑顔で万歳をしていたフーカは、逆に興味津々でそれを覗き込む。
「で、で、いつやるの? 明日? 明後日? 何時から?」
「当日教えてやるからお前はそのまま踊り狂っていろ」
「え~、フェンリっちだと開始一分前くらいに言いそうだし~」
「惜しいな、三秒前だ。尤も、その場にお前がいなくても探してやる気など毛頭ないが」
 当初はフーカに面倒ごとを一挙に押しつけようとしたくせに、今度は地獄に放置する気満々の人狼に少女は口先を尖らせる。しかし祝宴の主催側に通じている少年が、そんな不躾を見過ごすはずがない。
「あのなあ……お前ら出席する以上はそれなりに気合い入れてくれよ。名目上では身内でのささやかな席ってことにはなってるけど、魔界全土が注目してるんだぞ?」
 気合い、とは。フーカが眼光を鋭くし、フェンリッヒが改めて招待状の文面に目を落とし、ヴァルバトーゼが一貫して興味がなさそうな顔をする、約一名を除いて頭に過ぎった予感を、エミーゼルは間接的な言葉でもって裏付ける。
「更衣室はそれぞれ個別に用意しているし、泊まりがけでも構わないように手配は整えてる。祝宴は一晩だけだけど、お前らは一応主賓だからな」
「別魔界の連中を呼ぶのなら、ゲートの用意はあるんだろうが。それならそこまでせんでもいい」
「まあそうだけどさ……」
 会場にいきなりゲートで来るのは礼儀に反するだの、忙しいのにそこまで指図されてたまるかだの、たかだか一晩くらいいいだろうだの、小さなことをくどくどと言い争う死神と人狼の間に、喜色のオーラを溢れさせた人間の少女が全く空気を読む気などなく乱入する。
「……更衣室って、なにそれ!? どう言うこと!?」
 ほぼ確定だろうに、明確に言われていないのがそれほど嫌か。高まる期待に頬を紅潮させるフーカに、エミーゼルは目を瞬き呆れた顔で一声、彼女の希望通りはっきりと言ってやる。
「いや、普通に正装で参加しろってことだよ」
「正装…………正装!」
 エミーゼルを一瞥もせず言い切ったフーカは、自分の発言そのものが琴線に触れたらしい。触れたどころかとんでもない衝撃が彼女を襲ったらしく、言ったきり少女は暫く石化したように硬直する。急に押し黙られた少年は、向かいの人狼ほど彼女が次に起こす反応が予想できていなかったのか。顔を背けたり耳を塞ぐこともなく、ジャージの肩にそっと触れようとしたのだが。
「きゃぁああぁあぁあ~~~~!!!」
「ぅわっ!?」
 控えの間どころか外にさえ届くような黄色い悲鳴を上げて、フーカは身悶えした。唐突な大音量に距離を開けていた主従は無事にやり過ごしたが、無防備にも近付いてしまったエミーゼルは小さな悲鳴さえ漏らして耳を塞ぐもそれしきで頭に響き渡る衝撃が取れるはずもない。
「ドレス!! マジでドレスなの!? ようやく、待ちに待って! アタシの夢が乙女チックな展開を、イケメンとの甘酸っぱいロマンスメインになるって言うの!?」
 うずくまるエミーゼルなど気にも留めず、星が瞬くばかりに目を輝かせ頬をりんごのように赤くしたフーカは、ああそれだけならば十分動いても可愛らしい少女として形容できるだろうに。ついでに口元をにやけさせながら、くるくると踊ったと思ったら飛び跳ねて即興の踊りを披露しているものだから奇行を起こしたようにしか見えず、男衆からそれに見合った厳しい、もしくは冷めた視線を受けることとなった。
 しかしそんな視線を受けても当人は浮かれきって目に入らない。いてもたってもいられなくなったのか、控えの間から飛び立たんばかりの軽やかな足取りで扉に向かうが、それに釘を刺すのが吸血鬼の執事であるにも関わらず、実質年少者たちのお目付け役も兼ねつつある人狼だ。
「事前に言っておくが被服代は自腹だぞ」
「ええ~っ、なにそれ! フェンリっちせっこ!!」
 しかしそれしきではフーカの興奮には完全に水を差したことにはならないようで、ツインテールは相変わらずうさぎの足取りさながらに跳ねたまま。そしてアドレナリンの放出によって頭が冴えたか、少女は早口でドアノブに手をかけつつ言い返した。
「けど別にいいもんね! アルティナちゃんに事情話したらお金貸してくれるかもしれないし、今からどこでも鍛えに行けばドレス代くらい稼げるもんでしょ!」
 はしゃいで出ていったフーカの歓声といまどき懐かしいスキップの足音を耳にしながら、エミーゼルは招待状を受け取ろうと取り残されたふたりのほうを向き返り、フェンリッヒの顔を見て身体を強張らせた。舌打ちさえしないものの明らかに不機嫌を露わにしている人狼がそんな表情になったのは、少女の捨て台詞が原因だろう。よりにもよってあの天使の名前を出すなど、大した置き土産を残してくれたものだと彼は少女を恨めしく思う。まあ問題は天使だけで完結していないのだが。
 しかしエミーゼルは続いて目撃する。フェンリッヒが険しい顔をしたと思った途端に眉をひそめ、またしてもすぐさま猫を被ったように大人しい表情を作ったのを。どう言うことだと人狼に相対する吸血鬼を見てみると、これが全く問題ない。どころかフーカが出て行く前とさほど変わらない様子で、少年は瞬時に猛烈な違和感を抱くが、次に冷静になるよう自分に言い含めてから心の中で問いかける。この吸血鬼は、天使の着飾った姿を見て盛り上がるような悪魔だろうかと。
「……いやあ、どうだろうなあ」
 見目よりも気高さだの純真さだのに興味を抱いたらしいから、それはないのかもしれないと思えばフェンリッヒが瞬く間に百面相を見せた理由も遅ればせながら理解できて、エミーゼルも落ち着きを取り戻すのだが少年の呟きはほかのふたりにしっかり聞こえていた訳で。
「何がどうした、小僧」
「えっ、あ、ぁあ、いや……その」
 そのヴァルバトーゼに話しかけられ、焦った少年悪魔は舌をもつれさせながらもどうにか話題をそちらに持っていくまいとする。ふたりきりならそんな話題になってもいいだろうが、執事の前でそれを言う勇気はまだ彼にない。
「祝宴まで一ヶ月ちょっとしかないのに、堪え性も計画性もないあいつがそこまで金貯めて正装一式準備できると思わなくってさ……」
「ならばそちらで手筈を整えてやればいい。かような場では女……とは言えあいつはなり損ないプリニーだが、それでも生物として女である以上は着飾るのが仕事だからな」
 実に地に足の着いた意見に、エミーゼルは考えておくと肩を竦めてフェンリッヒに手を掲げる。だが執事は主の意見にあまり賛同できないらしく、苦々しげに俯いた。
「ヴァル様はあれらに甘過ぎます。奴らが祝宴の席に同行できるのも、閣下のお供だからこそだと言うのに……」
「どうせ服などさしたる額ではあるまい。我が党における今までのあれらの働きを思えば、そのくらい好きにさせてやっても構わんだろう」
 何故か執事の指す人称が複数形になったことにも気に留めず、吸血鬼は薄い笑みを浮かべて自らの寛容さを示すのだが、その認識はエミーゼルでさえ甘いとしか言いようがない。事実、ヴァルバトーゼの発言を受けて人狼の眼光が俄然鋭さを増し、脚色の必要がないだけに立て板に水の勢いで否定する。
「いえ、女物となりますと閣下の予想額の五倍十倍にもなりましょう。ほかにも貴金属などの装飾品を入れると、それこそ我が党の財源が大幅に狂わんばかりの金額を請求されるかと……」
「……何だと!?」
 祝宴の話題の最中では大きな感情の揺れなど一つもなかったのに、ここに来てようやく深刻な表情で愕然とした吸血鬼は、続いてそうならなかった現状にしみじみと安堵の息を吐いた。
「ならばお前の判断は間違いではなかったと言うことか。さすがは我が僕だな、良くぞあの時点で小娘を制した」
 ヴァルバトーゼに恭しく礼をすると、執事は自分の発言の影響力を改めたため満足したのか。ようやくエミーゼルに向き直り、招待状をその小さな手に受け渡した。
 人狼から幾多の冒険を経て戻ってきた招待状は、交錯する思い――と表現すると真面目だが実際には人狼とプリニーもどきの少女との奪い合い――に翻弄されてややも柔らかく歪んでしまったが、得られた成果に誇らしげに見えたのだが。さてそれは、少年の気のせいだったのだろうか。

◇◆◇

 フーカから説明を受けたふたりは、彼女の予想を裏切って冷静で、誰かのように舞い上がらんばかりに喜びはしなかった。かと言ってフェンリッヒやヴァルバトーゼのように煩わしくは考えていないらしい。嬉しくは思っているらしいが、浮かれきった少女と同じテンションになれないと言うだけの話。
「皆さんに褒められるのは嬉しいデスが……デスコはラスボスとして、恐れられるか媚びられたいのが本心デスよ……」
 と、ちやほやされるだけの状態にむず痒そうなのはフーカの妹にしてラスボス修行中の人工悪魔デスコで、そんな彼女に一時は魔界をその手腕で騒がせていた元怪盗の天使アルティナが宥める。
「出席者はほぼ悪魔なのでしょう? 力量を伺ってくる方や、虎視眈々と弱点を探しに来る方ならともかく、手放しで褒める方はあまりいらっしゃらないと思いますわ」
 天使の唇から紡がれるにしては物騒な想定ではあるが、それでデスコは幾分か励まされた気になったらしい。背中からにゅうと薄色の触手をまろび出して、嬉しそうにそれらを蠢かせるのだがまたすぐに萎びた。
「そう、デスかね! ……けどデスコ、頭脳戦はちょっと苦手デスから、そう言うのはヴァルっちさんやフェンリっちさんにお任せすることになりそうデス……」
「まあそれでいいじゃん。アタシらはアタシらでのんびりパーティー楽しめばさあ」
 方向性は違えども、姉妹揃って同じような役割分担を想像するとは。血の繋がりがないはずなのに起きたこの偶然を、しかしフーカは当然と受け止めてカタログをふたりの前に差し出した。勿論そんな洒落たものが地獄にもとからある訳はなく、彼女たちが戻ってくるまでゲートを駆使して魔界で少女が自ずから購入したのだが、悪魔流の移動方法にすっかり慣れていることなど本人は露と気付かない。
「おおう……色々あるデスねえ……」
「本当に。フーカさんたら、片っ端から買いましたの?」
 それぞれ適当なのを手に取り、地球や別魔界、どころか天界からのインポートだのセミオーダーだのオートクチュールだの。華やかで目を引く文句がずらり、色とりどりのドレスと共に並ぶカタログをざっと眺めたり食い入るように見つめたりのふたりに、フーカはえへへと照れ笑いをする。
「や~、初めてドレスなんか着るって思うと興奮しちゃって。色々買い込んじゃったから、正直今、お金ないのよねー……」
 ちらりとアルティナの顔を覗き見ながら告白するフーカの態度に何か企らみごとの気配をしっかりと読み取ったのだろう。手にしていたカタログの一冊から顔を上げると、天使は訝しげな顔で少女に話しかける。
「……フーカさんは、どうしてそれをわたくしに仰るのかしら?」
「だぁーって、フェンリっちがドレス代は自分たちで出せって言うんだもん……。アルティナちゃん、お金まだ貯めてるんならちょっと貸してほしいなーなんて……」
 声を落として言い淀むフーカだが、話した中身は交渉のいろはを無視してあまりにも率直だった。金銭がらみの問題はここで起きないと思っていたのだろう、アルティナは僅かに唖然としていたものの、吐息をつくとやけくそめいて一言ぼやく。
「貸すなら十一、かしら」
「トイチ? なんデスか、それ?」
「いえいえ、さすがのわたくしでもそこまで酷くはありませんから……お気になさらずとも結構ですわ」
 意味もわからないのに誤魔化された姉妹は揃って顔を見合わせるが、それによって読み取れたのはやはりお互い十一なるものを知らないと言う事実だけだ。だがそんな言葉を教えてくれた張本人に気にするなと言われたのだからそうしようとあっさり頭を切り替えて、カタログに並ぶドレスの数々を吟味する。ついでにその言葉によって、アルティナに借金をするかしないかが曖昧になったことなどふたりの頭からすっかり拭い去られていた。
 吟味と言っても、まだ先が長いこともあってそれほど真剣に見る気はない。思ったよりも肩をむき出しにしたのが多いだの、いつものスカート丈のものを選ぶ気なのかだの。普段の会話の流れのままに、それぞれ勝手に思ったことを言っては誰かが受け止めるのんびりとした時間が流れていたのだが、デスコの一言がささやかな切欠となって話はまた別の展開を迎えた。
「あ、おねえさま。デスコは必要ないデスが、買うのはドレスだけデスか? 靴とかアクセサリーとかは……」
「そう言やそうねえ……。ヒールとか履いたことないけど、ドレスに革靴じゃねえ……」
 今の自分の格好を改めるフーカは、その流れでアルティナのヒールに目をやった。少女のものより生地が分厚く底も厚く、最早木靴でも履いているような印象を受ける天使の靴はついでに踵もしっかり高い。
「フーカさんの気合い次第ですけれど、普段底の平らな靴ばかりでは急に踵の高い靴は慣れませんわよ? 当日心置きなく楽しみたいのなら、今からでも慣らしておくべきですわ」
「そうなんだ……。パーティーのためだし、頑張るけど……」
 呟いてまだ楽な足を惜しむように踏み締めたフーカは、今までの単語の連なりから思い浮かんだものがあるらしい。カタログからふと目を放し、あのさあとほかのふたりの気を引く。
「パーティーってさ、ただ食べたり飲んだり、偉い人と話すだけなのかな」
「さあ……魔界の祝宴がどんなものなのかは知りませんけれど、わたくしの知るものでは演奏つきで踊ったり、道化師を呼んだり自分たちでお芝居を催したり、別室でオークションやカードゲームなどをしたりはしていましたわね……」
「そんなに沢山あるデスか!? デスコ、ダンスくらいしかイメージなかったデスよ!」
 妹の言葉に同意したフーカだが、彼女が主張したいのはそこではなく。いや、ある意味ではデスコの言葉通りなのだが。
「……ダンス。あるのかな、アタシたちが行くパーティーにもさ」
 フーカにしては真剣な、緊張感ある面持ちで訊ねたのは、男性陣には逆立ちしたってわかるまい、体験できると思ってもいなかった乙女の憧れがその催しに篭っているからだ。共感できるデスコはおお、と身を乗り出して目に星を描き、やや冷静なアルティナは曖昧な笑みを浮かべるも、冷や水を引っかけるほど野暮ではない。
「あってもおかしくはない、でしょうね。立食パーティーだけでは味気ないですし……、かと言ってスライムから虫型までいらっしゃる悪魔の皆さんが手と手を取り合い踊る姿はあまり想像できませんけれど」
「それってつまり、踊れないより踊れたほうがいいってことよね?」
 口調はあくまで静かだが眼をぎらつかせながら訊ねたフーカに、天使は勢いに飲まれてええまあ、と肯定する。その反応を受けて、デスコは大いに焦った。
「おねえさま、デスコ、ダンスなんてしたことないし知らないデス!」
「アタシもよデスコ。……けど安心しなさい。ここに、知っていそうなのが一人いるじゃない」
 姉に促され、視線を転じた先は軽く身構える桃色の髪のパーティーに詳しい天使であり。四百年を生きた彼女ならば知っていてもおかしくないと察したデスコは、大いに納得してフーカの無言の催促に便乗する。
 直接は何も言われていないものの、姉妹の視線と態度にひしひしと彼女たちの熱意を感じ取ったアルティナは、ほんの少しはカタログに視線を転じたり視線をあさっての方向にそらそうと試みたのだが、結局無言の圧力には耐えられなかった。金銭の催促よりもまだ健全だと受け止めたのが仇となって、手間の面では未知数なのに彼女は渋々口を開いてしまう。
「……わたくしだって、多くは存じませんわよ」
「けど知ってるんでしょ!? お願い、アルティナちゃん!」
「デスコたちにダンスを教えてくださいデス、アルティナさん!!」
 必死の上目遣いでアルティナにねだる義姉妹は、男たちを相手に頼むときはわがままな子どもの駄々の延長か、もしくは勝気にも命令する勢いなのだが。今は両手を組んで必死に祈る仕草をした上に瞳を潤ませており、まるで心臓を差し出す心持ちで告白をした相手からの返答を待つ乙女のように健気で可愛らしいものだから、天使はついに降参した。
「…………もう。わかりました、教えます」
「あっ、りがとー!!」
「ございますデスー!!」
 姉妹はその返答を聞きハイタッチを交わして喜ぶが、アルティナにとっては短期間とは言え厄介事を抱え込んだようなものなのだ。片や手放しで喜び、片や眉間に軽く指を添えるこの状態では、後腐れなく教えてもらうなどこのふたりであっても後ろめたさは感じてしまう。掲げた手をただちに下ろすと、天使の顔を見て態度を改めた。
「お、教えてもらう以上はわがまま言わないから! お金の貸し借りは今は無理だけど、困ったことがあったらなんでも言ってよ!」
「そうデス、このご恩は忘れませんデス……!」
 ラスボスが天使に借りを作るとはどうなのだろうと思いつつも、アルティナは慌てたふたりの様子に思わず目を細める。子ども故に我を通したがる部分が多いが、等身大の優しさも持ち合わせているこの少女たちを彼女はどうにも憎めない。
「……ええ、今はお二人のそのお気持ちだけ受け取っておくことにしますわ」
 やんわりと告げてアルティナは閉じていたカタログを開き直すと、それでもう気持ちを切り替えたのか。ふたりに対して悪戯っぽい視線を向ける。
「それにしても、先程のお二人のおねだりは随分と堂に入っていましたわね。普段からあんな調子で殿方に接するのでしたら、ロマンスの一つや二つもあるのではなくて?」
 からかわれたふたりは、しかし全くの無意識で行っていたらしい。それぞれ目を瞬くと、フーカはぎこちないながらも照れた笑みを浮かべ、デスコは頬を赤らめるがどうしたことか鼻息も荒い。
「……そ、そうかなぁ?」
「デスコもついに、色仕掛けを覚えたということデスか! いつしか言葉一つで男の人を洗脳できるようになるデスか!?」
 それはどうだろうかと悪魔以外のふたりは漠然と考えたが、六人の中でマスコットガールとしての役割を大きく持つデスコの興奮をそぐ真似はすまいと視線を重ねて速やかに同意する。それから話を切り替えるつもりなのだろう、人差し指を立ててアルティナは笑った。
「では、明日から早速練習するとしましょう。教えるからには完璧に身に付けてもらいます。それにあと一ヶ月程度しかないのですから、遠慮は致しませんわよ?」
 なかなか挑発的な言葉に、フーカとデスコは意気揚々と胸を張り、それぞれ元気良く受け答える。
「了解なのデス!」
「ふっふっふ……体育の成績だけは良かったんだから、いくら脅されたって楽勝に決まってるわよ!」
 勝気な返答に暫し目を瞬いたアルティナは、次に期待していますとやんわり笑い、それで今夜はお開きとなった。

[↑]

17:40

2011/07/06

 体感でしかない話ではあるが、子どもにとって一ヶ月は長くとも、大人にとっての一ヶ月は瞬く間だ。科学的根拠も含め、精神面での影響力が大きな原因なのかもしれないがともかく、その常識は地球外においても通じるものらしい。魔界にその名を知らしめた六人は大人ならば淡々と一ヶ月を過ごし、子どもならば目まぐるしい一ヶ月を過ごすこととなった。運動量で言うのならば、六人はさして変わりはないのだろうけれども。
 だが時間は常に平等だ。いつの間にか主催と主賓の間を行ったり来たりの伝言役として地獄と大統領府を往復していたエミーゼルは、祝宴当日になってようやく肩の荷が降りたことに今まで生きてきた上で久し振りなくらい心の底から安堵した。この一ヶ月、招待状を父に返してからそれではと流れのままに、招待予定議員や料理やらのリストを渡されて主賓たちの好みに調整するよう仰せつかる日々が続いたのだが、これに対し大統領府の悪魔たちは誰も代理を申し込むこともしなければ気遣いでさえしなかったのだ。むしろお坊ちゃまにはそれが適役でしょうなどと、褒めそやして逃げ場を封じてくるのだから性質が悪い。
 結果的にこの一ヶ月間を実質主催側の監督役として駆け回る羽目になったのだが、それに幸か不幸か少年本人は気付いておらず。いや気付かされる暇もないほど忙殺されたまま当日を迎えたエミーゼルは、夕方になって簡略化もしていないし半ズボンでもないオーソドックスなタキシードに着替えを終え、あとは始まるのを待つだけと、五人に口酸っぱく言いつけておいた集合時間より少し前に専用のロビーに足を踏み入れる。誰もいないと思っていたのだか、窓辺のソファにはもう三人の人影があった。
「なんだよ、お前ら。もう来たのか?」
 窓にへばりついて次々と訪れる招待客を吟味中だったらしい、振り向いたのは茶髪の少女。ベースは膝を隠す紺のサテン地に、金のリボンを前に結んだウエストから下、白い刺繍の小花を散らすように縫い付けられた黒いシフォンがふわりとしたシルエットを作る可愛らしいドレスを着ていたのは、プリニーの帽子を被っていないため一瞬誰かと見紛ったが、長いツインテールはいつもの通りのフーカだ。とは言え髪型のほうも完全にいつも通りではなく、二つの結び目には黄色と白の造花があしらわれている。
「あったり前でしょー。ここに泊まれる絶好のチャンスなのに、どうして時間ギリギリに来るなんてもったいない真似できるのよ」
「お昼過ぎに伺ったら、お茶やケーキも頂いたのデスよ。さいっっっこうでしたのデス……!」
 こちらはいくら着飾ってもよくわかると少年は思っていたのだが、なかなかどうして。薄紫の布地の裾の辺りに鮮血の赤やら金色の目の、どこぞの神話における虚空の門を連想させる刺繍が施された、やはりこちらも重ねたシフォンが柔らかなエンパイアラインのロングドレス姿のデスコは、いつもの触手が背中から出ていないため大人しい印象だ。まあそれでも禍々しい角やら金の目やら尻尾やら特徴的な手までは隠せないらしいから、雑踏に紛れても見分けはつくほうだが。
「フーカさんもデスコさんも、本番があるのに沢山食べるものでしたから見ていて焦りましたわ。ドレスが入らなくなったらどうなさるおつもりだったのかしら?」
 そして残ったアルティナは、いつもの三つ編みの下部を解いてうなじから下を一まとめにした状態で、金糸と桃色の絹糸で縁取り華やかな印象となったロイヤルブルーの襟を立てた上着に同色のベスト、純白のたっぷりとレースを使ったタイを襟から出し、空色のキュロットズボンに絹の靴下と言う、つまるところ中世ふうの男装だった。
「……なんでその格好なんだよ、アルティナ」
 途中ふたりまではそれなり似合っているものだと感心していたエミーゼルは、最後の一人で大いに脱力する。指摘された天使はそんな反応を貰うとは思っていなかったらしい。普段と比べて凛々しい仕草で顎に手を添えて首を傾けた。
「やはり男装はいけませんでしたか? 悪魔の方々でしたら、このくらいはユーモアの一つとして受け止めていただけると思ったのですけれど……」
「いや、うん、たまにそんな夜魔はいるけどさ……」
 いまだ未熟を自覚するがそれなりに上級悪魔の中で生きているエミーゼルは、筋骨隆々な体格のくせに自然と女装をする男悪魔を――要するに変態である。力もあるだけ性質が悪い――公の席で見たことくらいは何度かある。その逆もまた然りであるがそちらは見目麗しいため、公衆の場で受けを狙ってそんな茶目っ気を出すものは珍しくない。だが仲間内では最も女らしい体型の天使が男装を選ぶことに、少年は大きな疑問を抱いた。
「デスコさんとフーカさんに踊りを教えていましたら、わたくしは必然的に男性役ばかりになりますから……。もういっそのこと本番もそちらで行きましょうか、と言う話になりましてね」
「あと、アルティナちゃんてば自分が天使なのに遠慮しちゃってさあ。羽見せた格好だと反感買いやすいんじゃないかって不安っぽいのよ」
 本人からの説明には浅い納得しか示せなかったが、フーカの補足説明には思わず説得力を感じてしまい、死神の少年はどうとも言えない気分になる。厳選されたとは言え招待客の大物悪魔がすべて天使が祝宴に参加することを受け流せる気質の持ち主かと言えば自信がない。着込んでいるのも一見して目立つ天使の羽を隠すためと思えばこそと察し、エミーゼルは砂を噛んだ顔で息を吐く。
「……過剰反応だよ、なんて簡単に笑い飛ばせないのがな」
「本当に身内のささやかな席でしたら、わたくしも警戒はしないのですけれど。これで最悪の場合、皆さんにご迷惑をおかけするような展開は招きたくありませんし……」
 実際のところは別魔界からの魔王さえ招く規模の祝宴だ。そんな席でも男装程度ならば軽く受け流されるが、天使が主賓となるとどんな空気が流れるかをエミーゼルは知らない。だから何かが起こってしまうかもしれないよりも、何も起こらないようにする彼女の方向性は無難であって、その判断はもてなす側の苦労もわかる少年としては感謝こそすれ安易に笑い飛ばせない。
「そんなことになってもデスコたちは平気なのデスよ。ラスボス修行の一環として、絶対に勝ってみせるデス!」
「頼もしい限りですけれど、それでは折角の祝宴が滅茶苦茶になってしまいますでしょう?」
 力強く宣言するデスコを宥めたアルティナの表情は、我慢する様子はなくむしろ明るく、いつものように穏やかだ。恐らく本人としては、警戒心もあるにはあるが茶目っ気が主体だったのだろう。おおかたどこぞの吸血鬼を驚かせようとでも考えたのか。
 俄然それが本命な気がしてきたエミーゼルは、ようやく肩の強張りを和らげ、着飾った姿を見せて何らかの反応を待つ顔をしている三人へ感想を述べる。
「……ま、悪くないかもな。そのまま黙ってれば、どっかの馬鹿が引っかかるんじゃないか?」
「当然よ。馬鹿は嫌だけど、このパーティーでイケメンの一人二人は確実にゲットしてみせるんだから!」
「デスコも、おねえさまにお手伝いしますデス!」
 拳銃のかたちを作った片手を顎に沿えて自信満々の笑みを浮かべるフーカに、デスコはガッツポーズで応援する。が、それではどうにも難しかろうと天使が助言を与える。
「野望に燃えるのは結構ですが、そう思われるのならまず女の子らしい態度でいましょうね」
 自分たちが野望と相反し男らしさに満ちた仕草を取っていたと知らされた姉妹は、その一声にはーいと暢気な返事をするものだからエミーゼルは思わず吹く。幼児ではあるまいにその返しはどうなんだとくつくつ笑ってから顔を上げたところで、フーカがずいと少年の前に進み出た。それから好奇心に煌く視線をたっぷりと、つむじの先から靴の先までまぶしてくる。
「ふぅーん……」
「な、なんだよそんな……じろじろ見てきてさ」
 フーカだけならまだしも、彼女を挟んで座っていたデスコやアルティナの値踏みするような視線まで受けてしまい、自分に何かおかしな点があっただろうかと尻込みする少年に、しかし投げかけられた言葉は爽やかな好感を持ってくせの強い金髪に降り注ぐ。
「きちんとした格好だと、あんたもちゃんとお坊ちゃんに見えるもんなのね~」
「本当に。立派ですわよ、エミーゼルさん」
「パーカーがないからそのぶん、個性が弱くなったデスけどね……」
 最初のふたりはともかく意地悪く笑うデスコの発言に、鏡の前でもそれを気にしていたエミーゼルは大いに動揺してスーツの袖口を三人へと見せつける。銀の台座に、白蝶貝と黒瑪瑙で描かれた髑髏の模様が燦然と輝いた。
「そっ、そんなことないぞ! ほら、これを見ろ! 父上から貰ったドクロのカフスボタン!」
「そんなとこ、一体誰が見るデスか?」
「そう言やいつもみたいに赤い蝶ネクタイでも半ズボンでもないし……あ、けどあれも普通って言えば普通かな。改めて考えてみたらパーカーだけで個性出してたのねえあんた……」
 少し前にエミーゼルの服装について褒めたと思ったら、いきなり駄目出しを始めた辺り、女の話題の転換の目まぐるしさを死神の少年は身をもって思い知らされたが、それ以上にこの姉妹は情け容赦ない。幼い悪魔は目尻に涙を浮かべつつも、必死の抵抗を試みた。
「ふ、ふふ、フーカにだけは言われたくないっっ! それで髪型でも変えてみろよ! お前、絶対に誰だかわかんないって!」
 だが少年は必死過ぎた。初撃で地雷をぶち抜いたものだから、ドレスの試着をしたときから薄々同じことを考えていたのだろうアルティナとデスコは仮面のように薄い笑みで押し黙り、フーカの顔面に怒りのひびが入る。まずいと悟るもとき既に遅し。
「……ほっほぉ~う。あんた、このアタシが地味だと言いたいワケ?」
「い、いや、そんなつもりじゃ……!」
「うむ、地味だな」
 あっさり言ってのけたのは、一応笑みを絶やさぬまま手先をデスコの触手のように蠢かせるフーカでもなく、それに危機感を募らせ身構えるエミーゼルでもなく、それらを固唾を呑んで見守るふたりでもなく完全な第三者。青年らしく低く通っているが、古葡萄酒の甘さを含む吸血鬼の声に、四人は一斉に首をそちらへやった。
 ロビーに入ってきたばかりらしい。ヴァルバトーゼの外套は、いつもと違って蝙蝠の羽めいた形状のケープを三段四段と重ねたようでいながら、外套の先はとろりと夜闇が広がっていくありさまめいて黒々と蠢く。その奥に見える金の縁取りは、恐らく外套と揃いの黒い上着のものだろう。淡い金のベストからは白いシャツの襟と優美な線を描くタイが覗き、いつもは裸の胸に食い込む赤い杭がタイピンとして機能している。ベストの下には赤いサッシュに黒のキュロットパンツと絹の靴下と、中世の貴族のような吸血鬼の服装に、子どもたちは歓声を漏らした。
「おおー。なんかいつもと雰囲気違うじゃん、ヴァルっち」
「デスデス、古式ゆかしい吸血鬼って感じデス!」
「ああ、これってあれか……」
 軽く眉根を寄せた吸血鬼が口を開こうとするより先に、彼の後ろに控えていた、ポケットチーフだけが血のように赤い、黒と灰色を使った燕尾服の人狼がすぐさま扉を閉め、翻って優雅な仕草で暫し立ち竦んでいた主を一人掛けのソファへとエスコートする。普段のフェンリッヒならば薄らと笑みを浮かべた表情にでさえ皮肉な印象が拭えないのだが、今や彼のかんばせは己の仕事に満足げに輝いていた。
「どこぞの泥棒天使は知っていてもおかしくあるまいな。装束だけとはまことに不本意だが、これぞ我らがヴァルバトーゼ様の全盛期時代のお姿だ」
 へーえと少女ふたりが感心しているんだか興味がないんだか曖昧な声を漏らす手前で、エミーゼルはやっぱりと頷いて、奥に戻った位置にいるアルティナは微笑を一つ。
「お二人は祝宴にあまり興味がないと伺いましたのに……狼男さんたらヴァルバトーゼさんの昔の姿を再現なさろうとするなんて、気合いを入れていらっしゃるのね」
「旧政腐が用意した折角の機会だ。閣下には魔力も含めて往年のお姿に戻っていただくには丁度いい」
 吸血鬼を縛る約束を交わした相手に冷たくも野望に満ち溢れて言い放ったフェンリッヒの様子を見受け、デスコは声を潜めて隣の姉に囁いた。
「フェンリっちさん、こんなときにもヴァルっちさんに血を吸わせる気満々なんデスね……」
「こんなときだからこそじゃない? 別魔界の連中に閣下の真のお力とゴイコーを示すのだーとか、フェンリっちなら考えそうだし」
 いくら声を潜めたところで他の面々が黙っているため姉妹のやり取りは主従にも丸聞こえなのだが、人狼は気のないフーカの発言を黙認したのか澄ました顔で受け流し、対する吸血鬼はしみじみと頷く。
「お前の言う通りだ、小娘。先もイワシの骨煎餅の袋詰めを軽食代わりに手渡されたが、ほんの一部分だけ血を塗っていたり、目玉が固めた血であったりと、こやつめ、いつも以上に狡猾な手段を使ってくる」
 執事を顎で指しつつ教えるヴァルバトーゼがどことなく誇らしげな理由は、それらをすべて看破した事実と自分の観察眼に自信があるからこそだろう。だがフェンリッヒは涼しい顔で畏まっており、今夜彼が主に血を吸わせる計画がこれだけでないことを予期させる。まあ今は、そんな想像をする余裕もなくこの主従の執念深さに呆れを通り越して感服している者が大半だ。
「……ヴァルっちさん、それ全部、見破って別けてから食べたんデスか」
「当然だ」
「割と食い意地張ってるわよねーあんた……ってそうじゃない! ヴァルっち、さっきの台詞どう言う意味!?」
 吸血鬼がロビーに訪れたばかりのときの一言を思い出し、急激に怒りが湧き上がったらしく人差し指を突きつけて凶弾する姿勢を取るフーカに、ヴァルバトーゼは何だったかと顎に手をやってから、ああと思い当たって平然とした面持ちで改めてもう一度。
「意味も何もない。お前の見目は地味だ、小娘。派手なほうがいいとも言わんが、今のお前はプリニーの被り物していなければほかの人間と見分けがつかんのは困る」
「……ほんと、気持ちいいくらいあっさり言ってくれるわね。よし、それじゃあエミーゼルだけじゃなくてあんたも……」
 真正面からはっきりと意見を突きつけられ、フーカは今の自分の格好を顧みることなく喧嘩を買う気になった。口元をひくつかせながらもどうにか笑みを維持し、デスコのほうへと体を傾けて、小さな背中を包むエンパイアドレスを後ろからずり下ろそうとする。少女の中に仕舞いこんだ獲物を出させたいのだ。
「だ、大丈夫デスよおねえさま! おねえさまは超可愛いデスし、普段の格好だって簡素でありながらこれ以上なく秀逸でわかりやすい究極のデザインなのデス! それに中身の個性はばりんばりんデス!」
 鋼の掟は絶対であっても、この場で乱闘を繰り広げられるのはいかなデスコにとっても気を揉む展開のか。単純にドレスを勢いのまま腹までずり下げられたくないだけの可能性もあるにはあるが、ともかく怒り心頭中の姉を相手に必死で慰めようとしているのに、フェンリッヒは健気な少女にあえて誤った方向で慈悲深く提案する。
「デスコよ。お前の姉の個性が完全に失われる前に、あの被り物を取ってきてやってはどうだ?」
「あ、それならもう持っているデスよ」
 と、姉が背中の割れ目をどうにかこじ開けようとしているのをさらりと無視してプリニーの帽子を取り出しまたすぐに背中の割れ目を戻したデスコに、さすがのフーカも大切なはずの妹に向かって唸るような怒号を発した。
「デースーコぉ~~!! あんた、なんでアタシの言うこと聞かなくてフェンリっちの言うことは聞くのよ!?」
「け、けどやっぱりおねえさまのアイデンティティーは……!」
「まあまあフーカさん、落ち着いて」
 と、デスコの肩を持つ、と言うより考えなしのやり取りによって今この場で掴み合いの喧嘩を起こしてほしくない、六人の中では数少ない常識人で穏便派のアルティナが、フーカのきのままの首にグラスの滴をぽたりと垂らす。彼女の目論見通り、不意を打たれた少女はソファの上で悲鳴を漏らしてからそちらに半身を捻った。
「ちょっと、アルティナちゃんまで邪魔しな……っ!?」
「怒ってばかりでは折角のお化粧も崩れてしまいますし、何よりもう少しで時間ですもの。ここは一旦引き下がり、あとで個人個人に前言撤回させるのが女の子としてスマートですわよ?」
 どんな慰め方だと誰かが内心思ったものの、見返してやれと間接的に発破をかけた発言でフーカの怒りはどうにか治まったらしい。少女は頬を膨らませると渋々デスコのドレスから手を放し、男装の佳人の胸に飛びついた。
「……もういいわよ。みーんな許してあげるから、アルティナちゃん、アタシと一番最初に踊ってね」
「はいはい。それでフーカさんの気が済むのでしたら喜んで」
 少女の背中を軽く撫でてやりながら応じる天使に、デスコが悲痛な声を漏らし、エミーゼルは生き延びたことへの安堵の息を吐き、フェンリッヒはつまらなさそうに鼻を鳴らし、ヴァルバトーゼは子どもが描いたような拙い直線を口元に描いた。レースのタイに頬をくすぐられながら、フーカは仲間たちの反応を見取ってようやく本当に許してやろうと思えてくる。
「はあ……これで今のアルティナちゃんのおっぱいが柔らかかったらなー」
 抱かれたままフーカは思ったことを口から出すが、そんな言葉を聞かされて動揺するのは種族に差なし。男性陣は何も口にしていないにも関わらず盛大に吹き出すかまたは咳き込んで、彼女を抱いていたアルティナさえも慌てて少女から距離を置いた。
「ふ、フーカさんが仰ったんでしょう!? 男装するなら最低限さらしは巻いてほしいって……!」
「そんなこと言ったっけ? けどさらしだけでどうにかなるもんなのねー。今この中で一番胸大きいの、確実にアタシだし」
「おねえさま、男の人もいるのに着替え中の流れでお喋りするのは乙女としてどうかと思うデス……」
 直接的な指摘を受けてそうだったと我に返ったフーカの眼には、男悪魔三人が頭を寄せあいなにやら必死に会話している様子が映った。会話の内容は女性陣には聞こえていないほど低く小さく徹底していたが、おおよそこんな調子だ。
「おい小僧。嫌な予感しかせんから一応聞くが、踊りは取り消せないのか」
「もう客が入ってる今になって正餐形式に変更なんて……お前無茶なのわかって言ってないか? それに一番でかいホール使ってるんだぞ。踊る広さは十分あるし、看板立てて踊るなって書いても誰も聞きやしない」
「げに恐れるべきは小娘の直感よ。想像力のないはずの現代の人間でどうして円舞があることを事前に察していたのか……!」
「パーティーだのドレスだの浮かれておりましたから、その流れで踊りを連想したのでしょう。我々悪魔の祝宴が些か古めかしく、奴らにとっては想像し易いのもまた問題かと」
「大統領府の催しだぞ、歴史と伝統があるんだから当然だろ!」
「うむ、その点は小僧の言う通りだ。だが……、だからと言ってだな……その、……良くなかろう、この事態は……!」
「仰る通りでございます、閣下」
 吸血鬼の悲痛な叫びに、フェンリッヒもまた苦い顔で同意を示す。彼の頭の中ではフーカが天使と踊ったあと、強引に少女が主と天使の腕を結びつける展開が違和感なく予想されたため、断固として阻止すべきだと心に誓うほどだった。
 だが三人で頭を詰めたところで意味はない。運命の女神とは場の空気を支配するものを誰より好むもの。そのため男衆の会話内容を予想もできていないはずなのに、フーカは気軽に丸くなった大中小の肩へと命じた。
「そうそう、ヴァルっちもあとで踊って。フェンリっちとエミーゼルも。絶対ね」
「へ!?」
「はっ!?」
「はぁあ~!?」
「折角のパーティーだもん。みんないつもと違った格好してるし、王子様と運命的な出会いを果たす前にそのくらいの思い出作りはしないとね~」
 呆気に取られて頭を上げた三人に、少女はプリニーの帽子を結果的に妹の背から取り出したらしいバットで弄ぶ。一瞬腕力にもの言わせるかと男悪魔たちは身構えたが、そこまでせずとも言葉で断ればよかろうとフェンリッヒが声を張り上げた。
「何故貴様なんぞと踊ってやらねばならん! しかもオレだけではなく閣下までをも巻き込むとは図々しい……!」
「え~、そこまで怒るようなことじゃないでしょ~? 十分もしないってのに大人げないわねえ、フェンリっち」
 思わず語尾を荒立てたフェンリッヒに、フーカはさして意識していないが的確に急所を突いた。否、この場合は連携と表現すべきだろう。人狼が女子どもに対して噛みつかんばかりの勢いでいると、大抵はその主である吸血鬼が急激に冷静さを取り戻してしまうのだ。
「……一曲だ。それでいいな」
 短く息を吐き出したものの、ヴァルバトーゼは抵抗なく誘いに乗る。当然だと腕を組む少女を尻目に、フェンリッヒはそんな温情ばかりを与える主を見過ごせずに喰らいついた。
「ヴァル様は甘過ぎます……! 特にこいつらは、一度気を許せばどこまでも付け上がることくらいご存知でしょう!?」
「不快なほどと思えばその旨は伝え納得させる。……そも、俺のその甘さとやらはお前の手厳しさが原因だと思うが?」
 からかい混じりに微笑まれ、フェンリッヒは不意に舌でも噛んだような顔になった。吸血鬼は柔らかく述べたものだし、胸中ではこれっぽっちもそんなことを思っていないのだろうがそれはつまり、彼の言動のせいで主が気を遣ってしまうと言う意味だ。主従の関係であれば本来は逆であるはずなのに。
「……閣下がそう仰るのでしたら、わたくしが断るわけには参りません」
 思いきり少女を睨みつけながら畏まったフェンリッヒに、男悪魔の最後の一人が天を仰ぐ。こうなってしまえば少年だけ断る道は自然と絶たれたも同然だからだ。それこそ、五分十分程度の付き合いなんだから別にいいじゃないかと言われてしまえばその通り折れるしかないのだが。
 ともかく祝宴が始まる前から鮮やかな手腕で四人に踊り手を得たフーカに、最後まで取り残されたデスコは悲しげな顔で姉を見上げる。
「お、おねえさまは、デスコと踊ってくれない気デスか……?」
「ダンスって男の人がリードするんでしょ。そうじゃなくても、アタシらどっちもリードできる腕前?」
 冷静な指摘を受けて肩を落とすデスコに、フーカを挟んで対面しているアルティナが慰めるように提案する。
「それでは、フーカさんと踊ったあとでよろしければわたくしと踊りましょうか?」
「関節ダンスデスか……。はうぅ、けどそれが一番いいかもデスねえ……」
 悄然としながらもどうにか自分に納得させようとしているデスコの絹糸めいた髪の頭を、フーカが慰めるように撫でてやる。別に仲間はずれにするつもりはないのだとの意思表明に、悪魔の少女は僅かばかりは元気を取り戻したらしい。丁度彼女が顔を上げたところでロビーの扉がノックされ、六人は会場に赴く時間が訪れたと知る。その心のうちは六人それぞれ明暗重軽期待に不安とまた濃度が違ってはいたが、気持ちの切り替えくらいはできて当然。
「お待たせいたしました、皆様どうぞこちらへ」
 ダークスーツに身を包んだ悪魔がドアを開けて会釈をすると、フーカが妹にバットを渡し勇んでソファから立ち上がり、それを鮮やかに収納したデスコも速やかに真似て、アルティナがゆっくりあとを追う。肩を竦めてから顔を引き締めるはエミーゼルで、ヴァルバトーゼは眉間の皺を薄めて速やかに立ち上がり歩を進め、男性陣のしんがりを勤めるフェンリッヒは近付いてくる女性陣三人との距離感に警戒を露わにしつつも廊下に出ようとするのだが。そんな人狼に人間の少女は能天気に笑いかける。
「なになに、アタシがいつもより可愛いから意識してんの?」
「そんな訳あるか阿呆が」
「じゃ別に毛逆立てなくてもいいじゃない」
 燕の尾のかたちをした後ろ裾からすっぽりと現れる銀の尻尾を、フーカはからかうつもりで手を伸ばすのだがそれを人狼が許す訳がない。逆に先手を打って手で払い除けるも、今度は少女が両手を使って尻尾に触ろうとするので、更にフェンリッヒはむきになって二本腕のちょっかいを振り払い、たちまちふたりで下らなくも本人たちとしては真剣な攻防戦が繰り広げられる。その間、残りの四人は自然と距離を詰めたのにも当然目に入らない。
「……おい、アルティナ」
「はい?」
 喧嘩中の執事を尻目に、ヴァルバトーゼが天使に声をかける。彼はいまだ彼女が男装をしている理由を聞いていないからだとエミーゼルは察したが、デスコはふたりを眺めていて彼女なりに思うことがあったのか。姉譲りの考えなしで呟いた。
「今のおふたりの格好、結構お揃いっぽいデスね……」
 ぶふ、と醜い音が黒曜石の廊下に響き渡り、その声らしきものにカマキリの威嚇に似たり寄ったりな状態を保っていたフーカとフェンリッヒが一斉にそちらを向く。果たしてふたりの目には顔を真っ赤にして硬直した天使と、壁に片手をやってもう片手で顔を覆い隠す、今にも膝から崩れ落ちんばかりの吸血鬼の姿があった。
「閣下、いかがされましたか!?」
「隙あり!」
 慌てて吸血鬼に駆け寄ろうとするフェンリッヒの隙を突き、フーカがその尻尾を一撫でする。結果的に勝負に負けた人狼はついに堪忍袋の緒が切れ、長い廊下に響き渡る大音量でにやつく少女に叫んだ。
「小娘ぇえええぇッ!! 貴様ッッ、いい加減にせんか!!!」
「きゃーっ、フェンリっちが怒ったー!」
 フェンリッヒの怒号はフーカにとってさしたる効果を生み出さないが、唐突なデスコの一声に動揺していたふたりを正気に戻すだけの効果は十分にある。特に少女を調子に乗らせる切欠を作った自覚があるアルティナは、追いかけっこをしようとする彼女を軽やかに別方向から捕獲した。
「も、もうっ、フーカさんたら! このまま狼男さんをからかってばかりでは遅れてしまいますわよ!」
「……う。それもそうね」
 ご尤もな横やりと案内役の悪魔からの冷ややかな一瞥を受けると、いかなフーカも多少は気恥ずかしさを覚えつつも落ち着いてきたようで、小さな謝罪の言葉を寄越して天使に腕を捕捉されながら進行方向へと歩きだす。
 フェンリッヒのほうはと言えば、腹立たしさはなかなか収まらないしかめ面であったものの、天使と吸血鬼の距離間を意識したからか咳払い一つで表情を切り替えて、長らく呼吸でも止めていたのか大きく息を吐き出し復活した主の隣に寄り添う。
「いかがされましたか閣下。どこかお加減でも悪くされたのでしたら……」
「……い、いや、大事ない」
 俯きがちに首を振られるも、どう考えても誤魔化しにしか見えやしない。自分が目を離した隙に何が起こったか知らない人狼は、主から目を離してしまった原因たる少女を横目で警戒しつつ残りの三人に聞こえる声で訊ねようとするが、それもまた遮られた。
「え、エミーゼルさん! お礼を言うのが遅くなりました。いい仕立屋さんを紹介してくださって、ありがとうございますっ!」
 アルティナによるあからさまな話題の提示に人狼が怪訝に眉根を寄せるも、フーカは動揺していたふたりを見ていないからか。従順にこくりと首を動かし同意する。
「あ、そうそう。アタシら結局買いに行く暇なかったもんね」
「いつもの修行もあるデスけど、ダンスの練習で忙しかったデスからね~。ありがとうございますデス、エミーゼルさん」
「別にいいよ。この祝宴じゃボクはお前らとこっちの繋ぎ役だから、お前らが恥をかけばそれはボクの責任になる」
 大人びた返しに、案内役の悪魔も含むエミーゼル以外が軽く感心を示した。特にこの少年が父の威光を振りかざしてばかりの頃を知っていた仲間たちにとって、この成長ぶりは悪魔の身であっても悪くない言葉が出る。
「……ふむ、あの小僧がなかなか言うようになったものだ」
「よねー。これでフェンリっちがもうちょっとヴァルっち以外にデレてくれたら文句ないんだけど」
 また絡まれるのかとうんざりした顔を隠しもしないフェンリッヒは、フーカを睨んだ流れで彼女の腕をしっかりと掴んで離さない天使の姿を捉え、一ヶ月前少女が話していた提案を思い出す。
「それで、仕立てた金はどうした。貴様はこの小娘の言う通り貸してやったのか。それとも天使として慈悲深く『恵んで』やったか?」
 意地の悪い訊ね方にも関わらず、アルティナは表情一つ変えず横に振る。金銭がらみの嫌味や悪口を投げかけられることなど、彼女にとって以前なら日常茶飯事だ。泥棒と罵られていたときに比べれば、こんな嫌味は傷にもならぬ。
「請求書の発行をお願いしましたわ。三人分一括で、宛先は一応『地獄』にしていただいたので、後でサインを」
「せんぞ。経費では落とさんと既に小娘に伝えたはずだ」
 きっぱりと告げたフェンリッヒは揺らぎなく、その反応に天使は鼻から静かに呼気を抜きつつ視線を弾き返す。そんなことくらい知っている、とでも言いたげに。
「……立て替えるくらいはしていただけますでしょう? その後の処理一切はそちらにお任せします。お金の振り分けも含めて、ね」
「なら、貴様に三人分一括請求が望ましかろうな。天界に送金もできないまま清貧を味わっておけ」
「それはいつものことですし、フロン様にもそうなるかもと事前に説明はしておきましたから。とりあえず事前に教えていただける点は感謝しますわ」
「本気でそう思っているのなら早く天界に帰れ。オレにはそれが最も嬉しい『感謝の示し方』だぞ?」
「そこまでは深く感謝していませんわねえ……。と言う訳で、ここは白々しいと承知の上で、言葉だけ受け取ってくださいな」
 当事者間では通常運営なのだろうが、ほかの四人にとってはひやりとさせられるやり取りに、空気が緊迫感を生み出しかけたそのときだ。黒曜石を削った長い廊下の奥から、誰かの声が聞こえてきた。これから向かう先はホールなのだから、人の声など聞こえて当然なのだが――嫌な予感を猛烈に誘うのは気のせいか。
「……ちゃーん……!」
 わかりやすいほどわかりやすい、野太く荒々しいのに奇妙に爽やかな印象さえ持つ、今は弾んだ心地でいるのであろう声。一同が吸血鬼と人狼だけで進軍を開始したときから頻繁に、それはもうしつこいくらいに立ちはだかったと言うべきか邪魔しに来たと言うべきか神経を逆撫でしに現れただけと言うべきか。ともかくよくよく耳にして、そのたびにうんざりとさせられた声に、六人の身体が反応を示す。
「坊ちゃーん! 坊ちゃぁーん!!」
 その上でどう考えても自分のことを呼ばれてしまい、エミーゼルは肩と言わず全身を硬直させる。だがその理由は恐怖ではない。いやむしろ恐怖であったほうが余程ましなくらいの警戒心と言うべきか、迫り来るであろう精神的疲労感に今から彼はやつれんばかりに幻滅した。
「あー……アホじゃん」
 フーカがぽつりと呟いて、今では珍しい銀のラメがびっしりと入ったタキシードを輝かせ全速力で走ってくる、金髪に稲妻状の眉を持つ悪魔を目視する。無論、彼女だけではないのだが多くの仲間はそれを無視して、こっちに来てくれるなと願ってさえいた。しかしその悪魔はそんな彼らのささやかな願いなど知るよしもない。
 一応この魔界の現大統領アクターレが、全速力で走ってきたのだろう彼らの前まで来ると足で急ブレーキをかけ、汗を軽やかに撒き散らしながらライブの写真集の表紙にありそうなポーズで急停止する。何人かがその汗を体ごと捻り、また颯爽と取り出したハンカチで防壁を作って避けた。
「あっ、て言うかなんだよお前らも一緒かよー? んもーオレ様そこまでVIP扱いとかマジ困るー」
 ポーズを決めて満足したのだろう。すぐさま女の子のように腰をくねらせながら何故か照れているらしいアクターレに、エミーゼルは顔を背けて短く吐き捨てる。
「……くそっ、なんでバレたんだよ!」
 小声ながらにもあらゆる感情が滲んでいるものだから、これをどうにかしろと真っ先に命ずるつもりだったフェンリッヒは少年にいくらか同情を含んだ声音で訊ねた。
「お前……一応こいつには隠していたのか?」
「当たり前だろ! 祝宴だなんて知られたら乱入されるに決まってるし、ボクはこいつが現大統領なことさえ別魔界の連中に知られたくないんだ!!」
 案内役の悪魔がご尤も、と密かに同意するがそれで慰められるほど少年が現在抱えさせられた問題は小さくない。フーカを始めとする素朴な頭の持ち主が脳天気に話しかけてしまったせいでエミーゼルの頭痛は更に強くなった。
「なんであんたが困るのよ」
「だってこれアレだろ? オレ様の魔界大統領就任パーティーなんだろ?」
「……そ、そうだったのか!?」
 衣装は変わっても相変わらず馬鹿正直に信じるヴァルバトーゼに、人狼もまた少年と同じくこめかみを押さえつつしっかりと否定する。
「違います閣下。そのアホの言葉を鵜呑みになさるのはいい加減にお止めください!」
「て言うか、ボクらが地球に行ってる間、お前もう勝手に就任ライブやったんだろ!」
 続くエミーゼルの指摘を受けるも、アクターレは咎められた気など更々ない顔で頬を掻いた。
「そりゃやりましたけどぉ~、こんなに大規模じゃないって言うか、金かけてないって言うか? なのにこんなときに坊ちゃんにここまでやってもらえるなんて、オレ、考えてもみなくて……」
 演技なのだろうが乙女のようにはにかむアクターレに、デスコが姉にぼそりと気持ち悪いデス、と感想を漏らす。フーカは辛辣にそれじゃあ見なきゃいいのよと提案し、姉妹は利害の一致から向かい合って対話を開始したのだがこれは一旦放置することにして。
「違う!! これはお前のための席じゃない!!」
 エミーゼルは声を裏返らせ悲痛なまでに否定する。必死過ぎて咳き込んだその背中を天使が撫でさするが、そんな少年の必死さなど微塵も知らず、アクターレは人懐っこく笑う。
「まったまた~。そんな照れなくてもいいじゃないですか~」
「照れてない! 大体あっちにはマイクないんだぞ、アンプもないしギターもない!」
 今までの少年の言葉を柳に風と受け流してきたアクターレが、ここで初めて軽く目を見開く。心をそのまま声に出してもそれは困った、とでも言いたげな程度でしかないのだが、エミーゼルはようやく得られた手応えに、いまだ余裕はないもののどうにか口元に笑みを刻んで顔を上げ言い放つ。
「お前のライブに必要そうなものは、今の大統領府には一切ない! ……事前にそうした。ぶっちゃけると捨てた!」
「ええっ!? ま、マジですか!?」
 いかなアクターレでもそれは困るらしい。ならばまた買えばいいんじゃないかと他の面々は内心思うのだが、彼にとっては余程大切なものだったのか。恐る恐ると言った風情で少年に訊ねる。
「今日のために色々特注しといたんですけど……もしかして、アレとか、ソレも……?」
「ああ、捨てたぞ。お前のサインの刻印入りのキーボードからドラムからスピーカーからライトまで、ぜーんぶな!」
「んな――――ッッ!?」
 それなら捨てられれば顔色が変わるのも仕方ない、と一同のうちの幾人かが納得する。同時に彼らはそんなものを勘違いのまま用意するアクターレの神経の図太さに、怒りを通り越し感心さえ覚えた。当然、彼に対し珍しくも穏やかな感情を向けてた彼らの心境など、雷で貫かれんばかりの衝撃を受けている青年悪魔には感じている余裕もないが。
「そんなもんにまで政腐の金使ってんの……」
 完全に無視するつもりだったはずだろうにフーカが呟くも、愕然と言葉を失っているアクターレの耳には入らず。逆にここが好機と見た少年は一歩、派手な悪魔との距離を自ら詰める。
「けど、一つだけいいことを教えてやるよ。……廃品回収車が出て行ったのは、三十分前だ」
「さ、三十分!?」
 動転するアクターレに、少年の思惑に気付いたかそれとも全く同じではないが結果的には悪くない展開を思いついたか。フェンリッヒがわざとらしく語尾を上げる。
「ふむ。三十分なら、追いかければまだ間に合わんこともないな?」
「ええ、走って追いかければまだなんとか」
 アルティナも彼らの魂胆を察し調子を合わせて深々と頷くと、アクターレは弾かれたように顔を上げ、もと来た方向を戻るか戻るまいか躊躇うように首を左右に振っていたが、どちらに惹かれているのかは明白だ。それでも迷いはまだ色濃く、結果として彼は自分を誘導した三人に縋るような視線を送る。それでは彼らの勝利となると言うのに。
「えーと……は、走ったら、取り戻せちゃったり……?」
「多分、ですけれど」
「恐らくは、な」
「ま、頑張れ」
 全くそんな気もなくエミーゼルがふたりに目配せをしつつ笑むと、それを単純に応援と受け止めたのだろうアクターレは勇気を出した顔でしっかりと一つ頷いて踵を返す。
「じゃ、じゃあ、ちょっと行ってきますねー!!」
「おー。無事回収し直せたら一曲くらいは聴いてやるよー」
「イェェエエエェエエエッッ!! アーイウィルビィバァアアアアックッッ!!!」
 雄叫びを発しながら猛烈な速さで遠のいていく背中に、そのまま永久に戻ってこなくていいぞ、と呟いたのは誰だったか。まあ誰でもいい。とにかく無事イレギュラーを退けられたエミーゼルは、銀のラメの背中と途中から付き従う桃色のネコサーベルが完全に見えなくなるまで待つと、奈落の重みが感じられそうな息を長く深く吐き出した。
「……まことご立派になられました、エミーゼル様」
 しみじみと案内役の悪魔が賞賛の声をかけるも、少年はそれに応える余裕などない。しかしデスコの素朴な感想には反応してしまう辺り、損な方向に意識を向けてしまう気質なのだろう。
「あの速さと情熱なら、ほんとに帰ってきてライブをやりそうな気がするデスよ」
「いらないよそんなもん!!」
 悲鳴に近い拒絶に、しかし姉妹はそこまで嫌がるならばとやや呆れ気味にやり返しつつ移動を再開する。
「だったらあんなこと言わないほうがよかったんじゃないの? うちには頑固な約束魔がいるんだからスルーはできないしさ」
「そうデスよ、最後の一言で確実に戻ってくるフラグが立ってしまったデス」
「そ、うかなあ……」
 自らも足を動かしながら薄暗い顔で俯くエミーゼルに、的確な表現を受けた吸血鬼は慈悲深いのかそうでないのか曖昧な、しかしやはり揺らがない言葉をかける。
「何にせよ、悪魔として実に見事な手腕であったぞ小僧。よし、奴が戻ってくるようであれば俺もお前の約束に付き合ってやろう」
「えー……」
「ヴァルバトーゼ様、どうか……! どうかそれだけはお止めください!」
 またも安易に交わされそうになった約束にフェンリッヒが阻止しようとするが、曰く神聖な儀式を阻止されるなど長らくの僕であっても憤懣ものらしい。むうと眉をつり上げて、ヴァルバトーゼは外套を執事のほうへと翻す。
「何故だ、フェンリッヒ。この小僧の成長を称えることの何が悪い」
「誰にどんな賞賛を与えようとわたくしは閣下のご判断を阻害いたしません。ですが、あのアホの茶番に付き合う必要性は皆無であると断言します!」
 人狼は普段より力強く告げたものだが、理由は単純に彼が言った通りではあるまい。暴君であった頃に限りなく似せた今の主が、――約束をするだけならまだいい。しかしその内容があまりにもくだらない点に彼は拒絶反応を示したのだ。
「……フェンリッヒの台詞じゃないけど、無理にそんな約束しなくてもいいぞ。そんなもんに付き合ってもらったって、別にボクは嬉しくもなんともないしな」
 約束を交わす対象のエミーゼルさえも冷めた声でヴァルバトーゼにそう言うものだから、吸血鬼は不満げに押し黙る。だが彼らを包むのは沈黙であり、意固地な約束魔の了承の声はいくら待っても聞こえてこない点から、前言撤回する気はないのだと一同は悟った。
 頑固な主に頭を抱えたフェンリッヒに、アルティナがしみじみとご愁傷様ですと同情を示すも、今にまで吸血鬼に影響を及ぼした約束を交わした彼女に労われるのは痛烈な皮肉に近い。人狼は歯ぎしりせんばかりに睨みつけるも涼しい顔で受け流され、そんなふたりに飽きないねえとフーカがぼやく。
 それから一分もしないうちに案内役の悪魔が立ち止まり、彼らに向き直って姿勢を正し、改めて一礼した。理由は真正面を見れば誰とてわかる。ついにホールに到着したのだと。
 怒りの形相で来訪者を睨みつける悪魔の石像が囲う背の高い観音扉の向こうからは、光とざわめきが隠しようもないほど漏れ、この祝宴の規模の大きさを改めて教えてくれる。だがこれで尻込みするようなか弱さなんぞ彼らにはとっくになく、むしろ戦いを前にして引き締まったような顔付きで扉が開くのを待つ。
「……おや。今宵の主役たちがどうやら到着された模様。それではどうぞ皆様、全力の殺気と魔力を放って我らが英雄たちをお出迎えくださいませ」
 扉の奥から聞こえてきた、穏やかな調子なのに発言そのものの意味合いは物騒な声に、フーカが目を瞬いた。
「……何それ。普通だと拍手とか歓声でしょ」
「それは地球の常識だ。ここは魔界で、オレたちも客も悪魔だからな」
「望むところデス! 会場いっぱいの殺気、ラスボスとして堂々と受け止めてみせるデス!」
 フェンリッヒの説明を受けてより一層の気合いを入れるデスコの背後で、エミーゼルがこっそりと呟くとアルティナが苦笑を浮かべる。
「……ま、体面ってやつだよ。乱痴気騒ぎの前振りなんだから、ここでちょっとは悪魔らしくやっとかなきゃな」
「つまりわたくしたちは面子を保つための犠牲、なんですのね。悪魔の方々も大変だこと」
 仲間の声を背に流しながら、吸血鬼が一歩前へと進み出る。会場側はまるでそれを見越していたかのように静かに、一筋の光しか放っていなかった観音扉の隙間を大きくしてゆく。光と共に明確になる会場の様子とたじろぐほどの視線を浴びながら、ヴァルバトーゼは笑って背後の面々に告げた。
「――さて。往こうぞ、皆のもの」
 呼びかけに応じる声はてんでばらばら、一つたりとも重なりはしなかったがそれでも。吸血鬼は薄い笑みを絶やさぬまま、殺気の中へと身を投じた。

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18:08

2011/07/06

 乾杯の後と前では幽霊屋敷と遊園地ほどに違うなんて、誰も教えてくれなかった。
 事前に扉の前で聞いてはいたが、あんなにどろりとした圧迫感とその奥に潜む、少しでも隙を見せれば取って食いかねない殺気を身に受けたのはフーカにとって初めてのことで、ここの魔界の悪魔は大抵が能天気だったがやっぱり別魔界は勝手が違うのか、人間や人工悪魔や天使はお呼びじゃないのかなんて彼女にしては珍しく胸中をシリアスな気持ちが占領していたのだが。
 翠の炎が揺れる巨大なシャンデリアに、壁側には黒と白の布を張り巡らした黒大理石の豪奢なホールを突き進み、壇上で主賓の更なる主役であるヴァルバトーゼが乾杯の声高らかに杯を掲げ中身を一口含むと、それだけで会場の空気が魔法でもかかったように一変した。緊張感も殺気も悪魔たちの雄叫びめいた歓声で台風一過後の空さながらに霧散し、どこからともなく心踊るおどろおどろしくも華やかな音楽が始まり、勢いよく開いた扉からは食事やグラスが載った銀盆を持ったプリニーや人型悪魔の給仕が次々現れ、球場ほどあるホールの一部の壁が扉となって開かれ、その向こうにまた小さなホールらしき空間が現れる。
 呆気に取られたフーカが我に返ったときにはもう既に、彼女が脳裏に描いていたパーティーのイメージほぼそのままの、賑やかで煌びやかな光景が広がっていた。違和感があるとするならば、それらの光景を繰り広げる賓客が完全な人の姿でいるのが少ないことと、彩りが黒に寄りがちなこと。それとさっきまで自分たちに注がれていた視線の一つたりともこちらに向けられていない、悪魔たちの異常なまでの切り替えの早さくらいなものだ。おまけに公式の場だから堅苦しい挨拶なんぞあると思ったのだが、皆最初から、めいめいに飲んで食べて騒いでいる。
 それにしたってあっさり切り替え過ぎるだろうと、フーカは思いつつ乾杯の際に手渡されたグラスを一気に仰ぐ。木苺味の炭酸水は正確にはシャンパンと呼ぶべき代物なのだろうが、アルコール分はごく薄く、ほとんどジュースに近い。だが十五歳には刺激的な味なので、たっぷり塗ったグロスを気にせず少女は唇を微かに嘗めて隣に顔を向ける。
「これ、お代わりってあるの?」
「……適当にボーイ探せば、どっかにあるんじゃないか」
 エミーゼルの返事が投げやりなのは、彼は彼でついさっきまで緊張の極限にいたからだろう。弛緩しきった顔の少年はうたた寝中の猫のように目を細め、フーカと同じ中身らしいグラスを少量口に運んでほうと息を吐く。
「何よ、あんたらが受けたプレッシャーなんて、アタシたちが受けたのよりまだマシでしょ。パーティーは始まったばっかりなんだから、しゃきっとしなさい」
「そうデス! エミーゼルさんたちよりもデスコたちのほうがずっとずーっと大変だったんデスからね!」
 純粋な悪魔ではないため、別魔界の悪魔たちとっては好奇心もあったのだろう。男性陣に比べひときわ強い殺気を受けた姉妹がそんな口調で叱咤する気持ちを、理解できない少年ではない。だがだからと言って簡単に気持ちを切り替えるのも難しいようで、鬱陶げな声を漏らす。
「……そんなことわかってるよ。ただボクの場合は前大統領の息子って立場があるから、お前らとの緊張とはまた別の理由で緊張してたんだってば」
「それでもここまで歩くのと乾杯だけの間だったじゃない。ほらほら、もう終わったんだからとっとと元気出す!」
 背中を軽く叩かれて、エミーゼルは呆けていられる暇はないと諦め吐息をついてから周囲を見渡すと、ヴァルバトーゼがこちらに近付いてくる姿をすぐに捉えた。お付きのフェンリッヒはと言えば真っ先におべっか使いに現れたのだろう見知らぬ悪魔に捕まっているが、主へと注ぐ視線は何故か厳しい。
 フーカたちもヴァルバトーゼに気付いて三人が首を傾げると、彼はデスコを直視してから手をちょいちょいと動かして自分と三人の中間地点に寄ってくるよう指示する。目を瞬きながら指示されるまま、巨大な花瓶の前に尻尾で全身を持ち上げ吸血鬼の姿を隠した悪魔の少女は、次の瞬間硬直した。
 背後でべっ、と何かを吐き出す音と、一秒もしないうちにそれをぼちゃと受け入れ水面の揺らいだ音が三人の耳に響く。吸血鬼が口から出したものが、花瓶の奥へと消えていったのだ。
「ふ、ぇえええっっ!?」
「な、なに吐いてんのよヴァルっち!?」
 訊ねてしまったものの吸血鬼が吐き出したものが何なのか、乾杯の際を思い出せば普段阿呆だの知性の欠片もないなどと散々言われているフーカにだって予想がつく。エミーゼルはそれにも増して唖然としていたが、どうして公式の席の、しかも大切な乾杯の一口でそんな無礼をしたのか、少女より一足先に理由までも察した。こちらをまだ見ている人狼に、呆れた視線を送りつつぼやく。
「……もしかして、ヴァルバトーゼの杯の中にまで、フェンリッヒ……」
「に、人間の血を、仕込んだデスか……!?」
「そのようですわね」
 顔を伏せたままの吸血鬼に咥内をすすぐための水を手渡しつつ、アルティナが呆然としている子どもたちに割って入る。背中をそっと制されてまだ振り向くなと指示されたデスコ以外のふたりは、ヴァルバトーゼが念入りに内部から頬を動かすのを眺めながら天使に訊ねた。
「アルティナちゃん、気付いてたの?」
「狼男さんがイワシの骨煎餅だけで諦めるような方ではないのは知っていますから……。嫌な予感がしたので一応、あの悪魔さんたちに狼男さんへ真っ先にご挨拶するようアドバイスをしましたの」
 そのついでにアルティナは水を取りに行ったのか。確かにあのままヴァルバトーゼがおべっか使いの悪魔たちに絡まれては、もしくはフェンリッヒとふたりきりでは、いつしか彼は人間の血が入ったグラスの中身を喉の奥まで運びかねなかった。ごく少量であったとしても、吸血鬼にとっては大いなる問題だ。
 口の中を完全にすすぎ終えたらしい、水のグラスに巻いていた黒いナフキンで口元を拭ったヴァルバトーゼは黄金の杯の中身も一緒に花瓶の中へと捨て、アルティナにそれを手渡す。
「まさか俺もこのようなときにあいつが仕込むとは思わなんだ故、完全に油断していた。もっと以前に察しておれば、小僧を呼んで杯ごとを取り替えられたろうが……」
「お前、それどう言う意味なのかわかってるんだよな……?」
 主賓の中の主賓の悪魔に、乾杯の席で杯を交換されるなど。前大統領の息子であり、今も大統領になるべくして修行中のエミーゼルにとっては悪いことではないどころか光栄だが、自らの立場のため極度の緊張に陥っていた彼からすれば心臓に悪い。
 しかしそんな少年の気持ちなど慮る気は霞ほどもないらしい、吸血鬼は平気な顔で答えた。
「そうすればお前もアクターレからの政拳奪取はやりやすかろう。利害は一致しているのだ、何の問題がある」
「何の、どころじゃないっての! ボクはお前みたいな図太い神経持ってないんだから、そんなアドリブは……!」
「仮にも大統領を目指す悪魔が、できないなどとは言うまいな」
 ヴァルバトーゼの先手に、少年は喉から出かけた言葉を慌てて呑み込む。もし父が公の場で主賓中の主賓にそんなことをされれば、やはり動揺なぞ一つたりとも見せずに応じただろうと想像してしまうと、反論する気は更に失せた。
「……ふ、ふん、別にそんなことされても平気さ。けどボクは死神なんだ。吸血鬼じゃないんだから、人間の血なんて飲みたくない」
 エミーゼル本人でさえ苦しい自覚のある文句のつけ方だったが、意地の張り方については悪くないようでヴァルバトーゼは片目を瞑って鷹揚に頷いた。普段の格好なら多少にわざとらしい仕草だが、今の古風な服装であればその芝居臭い大仰な仕草も奇妙に馴染む。
「確かに……、それは失念していたな。だが血の味はお前が思うほど悪くはないぞ」
「そう思っていらっしゃるのでしたら、今からでも是非血を吸っていただきたく」
 鬱陶しく絡んでくる悪魔たちをどうにか追い払えたようだ。苦々しい表情を隠しもせず執事が割り込んでくるも、ヴァルバトーゼはいつものごとく胸を張る。
「焦らずとも良い、フェンリッヒ。アルティナとの約束を果たせばそうしてやる」
「その女が閣下と結託しようとは思いも寄りませんでした。……あれの邪魔さえなければ、この祝宴が二重の意味で輝かしいものになったでしょうに」
 それはこの人狼にとってだけだろう、とエミーゼルが指摘したい気持ちをシャンパンと一緒に飲み込む。デスコも同じ心情らしく、いまだ吸血鬼を隠すように尻尾を伸ばした少女は苦い顔で少年と目を合わせた。
「……それで、泥棒天使は何処に行った。文句の一つも言ってやりたいところだったが逃げたのか」
「アルティナさんなら、もうあそこでおねえさまと踊ってるデスよ」
 エミーゼルの問いへデスコが代わりに答え、少女はグラスを持っていないほうの手で段差を降りたホールの中央を指す。男衆がそちらに目を凝らせば成る程、目立つ桃色の後ろ髪が茶髪のツインテールと共に翻り、元人間のふたりが踊っている姿が確認できた。
 公式の場と言えど、悪魔であれば人間の席ほど堅苦しさは必要ない。これは踊りについても言えるもので、華々しく荘厳な曲が流れていても初っ端から賓客たちはめいめい好きなテンポで舞っている。それでも平たく言ってめまぐるしく回るのが売りのワルツともなれば、いかに会場が広かろうとカップル同士の接触もよくあること。それでも今までふたりは上手くやっているらしく、足取りも軽やかに器用にワルツの型を繰り返す。ときにその場の一回転だけで接触をやり過ごすかと思えば、ステップを踏みながらほかの賓客の間を大胆にもすり抜けるのだから意識してそうしているらしい。
 当然だが見る側が察するだけの苦労など、実際に踊る側が感じている苦労にはおくびにも満たない。男性陣からのほのかな感心の視線を浴びていることなど知らず、フーカは旋回の勢い余ってアルティナに寄りかかりかけ、あらと短いながらにこの一ヶ月で抜群の効果を持つ一言を受けて慌てる。
「……くっ、こう!?」
 足を止めないまま上体を反らし、前屈みになりそうだった身体を美しい姿勢に戻すと、アルティナは口元だけに笑みを刻んで頷いた。
「ええ、そうです。立ち直りの姿勢も綺麗になりましたわね」
「そりゃ一ヶ月みっちり鍛えられたもんね! これがアタシにとって最後のテストよ!」
 負けじと不敵に笑ったフーカは、アルティナのほとんど崩れない上半身に付き従うと背後に視線だけで気を配る。女性は男性のステップに誘導される側なので、その必要はないとわかっていても彼女はこのままの勢いを維持していたかった。特訓中にそんな気持ちが湧き上がったからなのもあるが、やはり踊るのは、身体を動かすのは楽しいから、途中で誰かにぶつかって礼をして微妙な雰囲気でまた踊りを再開するのは嫌だ。
 アルティナはそんなフーカの要求を汲んで、賓客たちの隙間を器用に縫って踊り続ける。本番で一番最初に踊る緊張もあってか少女は彼女に従うので精一杯だったが、他人にぶつからないように神経を配りつつ相手をリードせねばならないのだから天使はもっと気を張っていることだろう。そう思えば踊りの教師たる彼女に対して尊敬の念も抱くし、負けたくない、釣り合えるくらい綺麗に踊りたい気持ちがふつふつと湧き上がるのがこの負けん気の強い少女独特の思考回路で。
 フーカはワルツやダンスに抱いていた甘い幻想を、これはスポーツだと認識させられることで打ち砕かれる。しかしそれはそれで大好きだし、爽快感と身体を動かしているのに頭が澄み渡る感覚は何より気持ちいい。脳内麻薬が放出される精神状態でおれば、自然と笑みが浮かび上がる。――結果的にそんな色気のない状態になってしまったのは、少女がグラスを給仕に渡すアルティナの手を引いて誘い、最初だから全力でお願いねと頼んだからなのだが、過程はどうあれ心まで躍るのには違いない。
「アルティナちゃん、アルティナちゃんっ……!」
 相変わらず余裕はないし、ついていくのに必死だったがそれでも高揚感は止められず、フーカは呼吸を乱しそうになりながら眼前の女性に話しかける。対するアルティナは何ですか、と訊ねてくるもさすが、汗の一つも浮かんでいない。けれど今の彼女は、それさえ気に留めず目を細めた。
「ダンスって気持ちいいね! 今、アタシ、超楽しい!!」
 フーカは熱が入った身体と心の奥から浮かび上がる気持ちを素直にパートナーに伝えると、男装の天使は微かに目を見開いてそれまで優美であった動きをほんの僅かに軋ませる。違和感を持った少女が目を瞬いたそのときにはいつも通りに戻っていたが、どうかしたのかと疑問の視線を送ると彼女はくすぐったそうな笑みを浮かべる。
「……もう、フーカさんたら。いつの間にそんなに綺麗になったのかしら」
「き、綺麗!?」
 生まれて初めて受け取った女として最大級の賞賛の言葉に、相手の腕の中を潜り抜けるように旋回しながらも戸惑うフーカ。女らしい彼女にそんなことを言われるのは、照れを通り越して驚いてしまう。だがアルティナは世辞のつもりなどない顔で、少女を独楽のように回しながら深々と頷いた。
「さっきの笑顔は、とても。デスコさんが見たら、白馬の王子様が本当に来てしまう、なんて焦りそうでしたわよ」
「そ、そんな心配いらないってば! 王子様もデスコもアタシのなんだから!」
 動揺を押さえ込めないまま子ども特有のわがままを言い放ったフーカに、今度はまた別の意味でアルティナが目を剥いた。と思ったら吹き出して、まあまあと子どもをあやす笑みを作る。
「フーカさんたら……。ですけど一応、さっきの笑顔は同性のわたくしでも思わず見惚れてしまいましたもの。そのご褒美に……」
 ご褒美とは、とさっきから何度か同じように自分だけターンを繰り替えさせられていたフーカが不思議に思いながらもまたアルティナの腕の中へと舞い戻ってきたところで、何故か肩に手を触れられず腰に手を回された。と思ったら膝裏にも手で触れられて、まさかと思った瞬間に抱え上げられる。
「はいっ!」
「うわっ、わわわっっ!?」
 そのまま猛烈な勢いで回転されて、アルティナの腕の中で一瞬縮み上がりそうになったフーカだが、これも振りの一つだと察するとただちに抱かれたままなるべく姿勢を真っ直ぐにして周囲に笑みを振り撒く。
 丁度曲のクライマックスと言うこともあって決めには相応しいものだったらしい。曲が終わると同時にまたヒールを地面に戻した少女は――勿論、この日のために踊りだけではなくヒールにもしっかり慣れた――、周囲の悪魔たちの賞賛なのか皮肉なのかからかいなのか、とにかく多くの視線を浴びることとなった。が、最後の最後で世に言う姫抱きをされたフーカにとってそんなもの全く気にならない。
「アルティナちゃん、あれ、練習中に教えてくれなかったよね!? あんなのダンスの振りにあるの!?」
 勢いのままフーカを抱えて回旋したアルティナは、やはり多少に無理をしたらしい。彼女と手を繋ぐと肩を軽く上下させながら、デスコたちのいるところを目指しゆっくりと雑踏を掻き分ける。
「……当然、本物のカップルや挙式でもなければ普通はしませんわ。けどフーカさんが女の子として一歩、魅力的になられた記念に、ね?」
 悪戯っぽく笑ったアルティナに、フーカは複雑な気持ちを抱く。人生初のパーティーの、本番のダンスで大成功を収めたともなれば恩師兼パートナーに抱きつきたいほど感謝したい気もするのだが、反面姫抱きはそれこそ運命の人にしてほしかったと思いもする。まあ彼女はあまり中に溜め込まない性格だ。気心の知れた仲間の天使だからこそ、そんな心のうちを正直に告白した。
「その気持ちは嬉しいし、正直さっきのもちょっと興奮したけどさ、アタシの人生初のお姫さま抱っこはアルティナちゃんって、ちょっと……」
「あら、どうせこれもフーカさんの夢、なのでしょう?」
 だから気にしないでもいいだろう、ととぼけたアルティナに、フーカは歯軋りしかねない顔で近くを通りがかったプリニーからグラスを受け取る。一口煽ると冷たい炭酸が喉に弾けて心地良く、多少は冷静さも取り戻す。
「……そうなんだけどー。でも、ほら、やっぱり気分ってものがあるじゃない?」
「まあまあ、あまりお気になさらず。同性ですから予行演習扱いか、数に数えないほうがよいのでは?」
 派手に落ち込むほど衝撃的でもないのだから、アルティナの言葉通りにしようか、と吐息一つであっさり思考を切り替え、フーカは仲間たちの前へと跳んで戻るとピースサインを決めてまずは第一声。
「どうだった、アタシの華麗なダンス!?」
 当然いの一番に反応を寄越すデスコは目を輝かせ、感嘆のため息を漏らすどころか興奮の面持ちで激しく頷いた。
「凄かったデス、おねえさま! 最後のくるくる回ってたところとか、とっても綺麗でしたデス!!」
 人生二度目の賞賛の声が妹からの評価とは。それでも褒められて悪い気はしないので、フーカは満足げに笑いながらその頬をうりうりとくすぐってやるのだが男性陣のほうはと言うと。
「うむ、初心者とは思えぬ見事な身のこなしだった」
「興味がない」
「……あの最後の、正直滅茶苦茶浮いてたぞ?」
 ヴァルバトーゼはいいとして、最後のふたりの色気のなさときたら。もとよりそんな連中なのはわかっていたが、一ヶ月の苦労に対する言葉がそんなものとはフーカの努力に見合わないため彼女は猛然と抗議する。
「ちょっと! 可愛い女の子の精一杯のダンスの感想がそれって、あんたたち普通ありえないわよ!?」
「前から言おう言おうと思ってたけどさ……自分で自分のこと可愛いとか言う女のほうがありえないぞ」
「事実を言って何が悪いってのよ!」
「……強いて言うならそれを事実とか言う神経の図太さが悪いかな」
 エミーゼルから冷めた指摘を受けてむうと怯んだフーカだが、人狼の徹底した態度に一度冷静になりかけた頭の熱が再び急上昇する。
「ヴァル様、どうやらこの祝宴では蓋付きのシャンパンクーラーがイワシ入れになっている様子です。ほら、このように……」
「ほう、悪くない趣向だな。遠目からでもわかりやすく、尚且つ鮮度も保たれる……!」
「こぉ~らぁ~~~! 無視すんな――ッ!」
 まんまとイワシに釣られる吸血鬼に微妙な気分になるがそれ以上に、完全に少女を無視する気に満ち満ちているフェンリッヒへの怒りが強く、少女はいつかと同じようにタックルをかまそうとする。が、慌てた残りの女衆によってそれは見事阻まれた。
「フーカさん! その格好で体当たりはいけません!」
「そうデスおねえさま! ずるっと行って顔からべしゃってなったら、おねえさまだけじゃなくてデスコも辛いデス!」
「それでこいつが大人しくなるなら、オレとしては実に望ましい展開だな」
 ため息混じりに主がイワシを咀嚼する光景を見ながら、人狼がぼやく。それから取り押さえられた少女のほうへとようやく首を向け、呆れの色濃く彼女を見下した。隠す気もなく鬱陶しげだ。
「で、貴様はオレに何を期待している」
「『興味がない』以外の感想! 具体的にはヴァルっちぐらいの褒め言葉!」
「なら初めからそう言え。ついでにオレは、貴様に褒め言葉なんぞ死んでも吐く気はない」
 断言されて、折角気持ちよく踊っていたのに何の価値もないと間接的に決め付けられたような気分のフーカは大いにむくれた。しかし彼女がそんな手酷い物言いをされるのは、ここに来るまでの間で散々フェンリッヒをからかったのが大きな要因でもある。尤も、そんなことをしなければ人狼から無難な感想を聞けていた、とはならないだろうが。
「フーカさん、落ち着いて。狼男さんがヴァルバトーゼさんのように褒めるようなことが起きれば、それは天変地異の前触れか何か企んでいる証拠です!」
 少女以上にフェンリッヒから険悪に思われている自覚を持つアルティナがそう宥めると、言い過ぎとは決して思えないのだろうデスコもこくこくと同意を示し、エミーゼルもまあなあと天使の言を肯定する。
「ツンデレのこいつに真正面からの褒め言葉を期待するなんて……フーカ、お前どこまでテンション上がってるんだよ」
「お前までそれを言うか!」
 エミーゼルの一声に噛みつく人狼の姿を見て、少しだけ落ち着いたフーカは腕を組みこの長身の悪魔をどうにか一泡吹かせようと考える。いや一泡吹かせるだなんて暴力的なものではないが、とにかく自分が感じた不快感をフェンリッヒに与え返そうといまだ興奮冷めやらぬ頭を捻り、再び曲が流れた始めたところで少女はふと思い立った。
「あ、……そうだ。ヴァルっち、踊って!」
「ああ……確かに約束していたな。良かろう、踊ってやる」
 イワシを二尾食べ終えたヴァルバトーゼが頷くと、尾を名残惜しげにシャンパンクーラーの中に放り込んでからフーカの手を取り一同から離れようとする。形式的な誘導方法はごくあっさりとしていて色気なんぞ皆無だが仕方ないものとして少女も割り切ると、まずはどこぞの人狼以外の面々に片手を振る。
「んじゃ、また行ってくるね~」
「ええ、お気をつけて」
「いってらっしゃいデス~」
 ひらひらと手を振り返したアルティナやデスコの次に、シャンパンクーラーを持つフェンリッヒへと視線を注げば少女の思惑通り。先のフーカほどかはわからないが、明らかに不機嫌な顔で彼女を睨みつけてくる。それに普段人狼がやるように鼻で笑ってみせてやると、ざわと静電気でも生まれたように毛を逆立てるのだから面白い。
 だがそんな少女の鼻っ柱は、思わぬところから鮮やかに手折られた。
「小娘、フェンリッヒをそうも挑発するな」
「…………わかったわよ」
 今度の踊りのパートナーたる吸血鬼に諭すように言われて、フーカは身体を誘導される方向へと戻しつつ息を吐く。あてつけがましい誘い方になってしまったが、それを踊っている最中にまで引きずればヴァルバトーゼにも悪かろうと考え、彼女はさてと気合いを入れた。誰かを煽ることよりも、自分が楽しみたい欲求のほうが強いのもあって気持ちの切り替えはあっさり成功する。
 そんな姉の後ろ姿を眺めていたデスコが、またも置いてけぼりを喰らった顔をしており雨に打たれ見捨てられた仔犬さながら寂しそうなものだから、アルティナはさて、と小さな肩にあえて明るい声で話しかけた。
「それではわたくしたちも約束通り、踊るとしましょうか」
「……あぅ、けどアルティナさん、さっきおねえさまぐるぐる回してたから、疲れていないデスか?」
 ラスボス修行中ながらにしっかりこちらを気遣ってくれる優しい悪魔の少女に、アルティナは慈しみの笑顔を見せて首を横に振る。
「平気ですわ。フーカさんたら、まるで羽のように軽かったんですのよ?」
 それはデスコにでさえすぐにわかる嘘だが、アルティナもフーカも同じ女だ。同性を持ち上げて、重かったです疲れましたなんて感想は口が裂けても言えないし言いたくないのだろうと察すると、差し出された絹の手袋を少女は控えめに握り返す。
「それじゃあ、お願いしますデス!」
「はい。ではわたくしたちも移動しましょうか」
 王子様めいた姿の天使の腕に掴まると、悪魔の少女は尻尾を使ってなめらかに移動していく。そう、基本的に移動方法が尻尾頼り浮遊系のデスコの場合はどうやって踊るのか。この謎に対して好奇心が湧き上がったエミーゼルはアルティナたちのほうに自然と視線をやるが、フェンリッヒは相変わらず主のほうが気になるらしい。舌打ちののちに吐き捨てるような声が少年悪魔の頭上から降ってきた。
「小娘、調子に乗りおって……」
「……そんなの、フーカならいつものことだろ」
 エミーゼルは呆れて話し相手を見上げると、映るフェンリッヒの表情は刺々しく、言い換えれば余裕がない。普段なら落ち着いた皮肉っぽい態度を貫いているのがこの人狼だろうにどうしたことかと疑念の視線を向けるも、当然芳しい反応などある訳もなく。
「何を見ている。お前もあの小娘の肩を持つ気か」
 逆に喧嘩を売られかねない眼差しを返されて、少年はまさかと肩を竦めた。物騒な脅し文句がないだけに本気で不機嫌なようだが、だからと言って公の場で暴れるほど短絡的ではないと人狼の性格を理解しているため、彼の口調に緊張は薄い。
「フーカがいつもよりはしゃぎ気味なのは誰が見たってわかってる。けど、さっきのはお前もちょっと大人げないと思うぞ?」
「人間の魂をようやく一人刈ったばかりの半人前に言われたくはないな」
「その半人前に注意を受けてるお前はどうなんだよ……」
 エミーゼルの切り返しに、フェンリッヒは苦い顔で押し黙る。少年はその反応を気にすることもなく横切る給仕を呼び止め、今度は淡い黄金色のシードルに手を伸ばした。ついでにオードブルの皿も受け取る。
「適当にそれっぽいこと言ってやれば、ああもむきになることもなかっただろ。お前ならよく考えたら褒めてないような言い回しだって考えられたはずなのに、どうしてあんなに頑なな態度なんか取ったんだよ」
「閣下もだが、お前たちがあれを甘やかすからだ」
 シャンパンクーラーをプリニーに押し付けた人狼は憮然と答えたが、それが本心からの言葉だなんて少年は微塵も思えずパテの載ったクラッカーを手に取る。
「甘やかすって言ったって、さっきもヴァルバトーゼが釘を刺してただろ。……それにフーカが調子に乗って痛い目見たって、ここは魔界なんだから自業自得ってやつだ。同情する奴のほうが少ない」
 だからせいぜい調子に乗らせておればよい。そのうち足を踏み外すのを待って、落ちたところを得するものがぺろりと食す。それが悪魔として正しい在り方のはずなのに、人狼の考えは違うのか。まあ彼自身、ほかの悪魔に絶対の忠誠を誓い、そんな自分に誇りを持って今の今まで生きている点では悪魔としては異質に違いないがこれとはまた別の問題ではなかろうか。
 ともかくエミーゼルの発言そのものには今の荒み気味な人狼とて問題を感じないのだろう。フェンリッヒは苦労を滲ませた深く長い嘆息ののち、本音であろう言葉をぼやく。
「……あれがどんな状態であれ、もれなくオレに絡んでこなければ、オレも喜んで放置するんだがな」
「あぁ、うん、……確かに」
 確かにまずそこからの問題だった。しかしフーカは今ここにいないため、フェンリッヒの苦悩に対する答えは問いかけようにも返ってこない。なのでこの話題はクラッカーと一緒に胃の奥に流すことにした少年の耳に、一足先に切り替えたらしい人狼のあっさりとした声が届く。
「さて小僧。この際だから一応聞いておくが、このあと父親は会う予定はあるか」
「そりゃあ親子だし。……なんだよ、ヴァルバトーゼと父上を会わせたいって言うのか」
 フェンリッヒから父の話が出てくるとなればそれしかないだろう、と察するくらいにエミーゼルは彼の性格を把握している。いつぞやかは女性陣に優しいものだとからかわれていたが、人狼は吸血鬼の執事として頭を働かせる際、実に悪魔らしく知恵を回す。
 予想通り、話が早くて助かる、と人狼はなんだか久し振りだと思わせる笑みを口元に刻んで肯定した。続いて平静に、だがどことなく面白そうな表情を消さないまま少年に説明する。
「閣下はお前たちの手前、毅然とした態度を取られているが、実のところ具体的な方針についてはいまだ迷っておられる」
 具体的な方針、とはヴァルバトーゼがこの祝宴に出席する真の理由。政拳交代を果たし、更には魔界の深刻な『畏れ』エネルギー不足の原因を退けたのに、大統領の座をよりにもよって早いもの勝ちでよその悪魔に譲った伝説の吸血鬼が何を考えているのか。これからどうするのか。どのようにしてこの魔界と人間界を地獄に落とすか――それらを明確に公言すること。だが彼は、出席したにも関わらずいまだそれら諸々の問題については明言を避けている。つまりは人狼の言葉通りなのだろう。
「……まあ、迷ってないなら乾杯のときに一言あってもよかったもんな」
 しかし今夜、吸血鬼が何も言わないはずはないし、言えない展開は誰も望んでいない。乾杯の席で無言となれば、形式上祝宴が終わる時刻になれば確実に発言を求められるだろう。それによって魔界の今後と、ヴァルバトーゼ自身のすべてが決まる。そして彼の忠実な僕たるフェンリッヒが主に何を求めるかと言えば無論、プリニー教育係の地位に戻ることではなく。
「ヴァルバトーゼ様には魔界大統領の座など通過点に過ぎない。だが、あの方は支配者の座そのものにあまり興味を持たれておられんからな。オレのほかに火付け役は必要だ」
 底意地の悪い含み笑いを浮かべてエミーゼルに間接的な圧力をかけてくる人狼に、死神の少年は彼の視線から逃れる意味で身体を傾け返答を濁す。
「ボクはヴァルバトーゼのこれからなんてどうでもいいし、むしろ魔界大統領もやるなんて展開になるのは困るから、父上にはあれこれ言ってくれなんて頼めないぞ」
「お前なんぞにそこまでは期待していない。ただ二人が会えば……まず昔話は出るだろう。お前の父は暴君であった頃の閣下の実力を知りながら生き長らえる、数少ない悪魔だ」
 しみじみと呟いたフェンリッヒの遠望の眼差しに、少年は露骨に呆れた。『暴君』と呼ばれた吸血鬼が死神王と思い出話に花が咲くなんて光景、不自然極まるがまだ想像の範囲内としよう。だがその流れであの頑固な悪魔が暴君時代を懐かしみ、自らの魔力を復活させ覇道へと突き進む、なんて展開までもはどうにも彼の想像力の限界を超えている。
「父上と戦ったときにもイワシと絆で乗り切ったあいつが、思い出話だけで変わるもんか?」
「……言っただろう、迷っておられる、と」
 人狼のくすぐるような囁きに、エミーゼルは得心する。成る程、この一ヶ月間でフェンリッヒは主を存分に揺さぶっていたらしい。執事であればふたりきりの時間もいくらでも作れるし、真正面から約束を破って血を吸えと言う訳でもないのだから、大きな抵抗も示せず吸血鬼もその気にもなりやすい。相手が停車しているうちに坂道を造りレールを敷いて、ほかの誰かにアクセルを切らせるとは、相変わらず隙のないことだ。
「お膳立てならお前は気にせんでいい。しかし、そうだな……これからニ、三時間ほどすれば、お前が閣下を誘導して差し上げろ」
「どうしてボクがそんなこと!?」
「前大統領の息子が出れば、周囲も察するし閣下も誰からの指示か予想しやすい。だがオレがそこにまで付き沿えば、いかなあの方でも怪しまれる」
 つまりフェンリッヒは偶然、もしくはあくまで前大統領側から吸血鬼へとアプローチをかけた流れに持ち込みたいらしい。慎重、と呼ぶべきなのだろうが、彼の場合その性質もあるのでエミーゼルはあえて違う言葉を選ぶ。
「……お前ってほんといやらしいよな」
「狡猾と言って貰おうか。……どこぞの猿に語彙が似てきたぞ、小僧」
 それまで青年悪魔の言葉通り狡猾な印象を放つ微笑が、不愉快そうに歪んだ。だがエミーゼルはその変化を目にしてようやく胸の圧迫感が解れた思いがして、気が抜けてしまったシードルで唇を潤す。ついでに、仲間の女性陣がこの人狼に対してからかい混じりで対応することが多い理由をなんとなく、否ようやく言葉に出せるほど理解した。
「気にするなよ。その猿――て言うかあいつらは、きっとさ」
「はん?」
「お前のその、狡猾さばっかり見たくないんだろ」
 悪魔としては賞賛に値する一言であるはずなのに、そんな自分を間接的に否定されたためだろうか。それともそんなふうに思われることに何か奇妙なものを感じ取ったのだろうか。フェンリッヒは眉根にしっかり皺を刻み込むと、一言吐き捨てる。
「余計なお世話だ」
「ボクに言うなよ」
 尤もな指摘を受けて、人狼の眉間の皺が更に濃くなったのは言うまでもない。

[↑]

18:23

2011/07/06

 デスコはどうやって踊るのか。死神の少年が抱いた疑問に対する返答は、実に無難で面白みも突飛な発想もなく。単純に移動や旋回には尻尾を使って、実際の脚はそれらしく動かすだけで本当に足を地面につけはしない。練習中、三人がああだこうだとアイデアを出し合い、実際に試し、悪魔の少女自身が選んだ方法がこれだった。つまるところ、少女自身が割合と無難な発想を好むとも言えようか。
 紆余曲折はあったし努力はしたのだ。靴を選ぶとのフーカの言葉に惹かれ、子ども用の靴を履いて実際に足を使って踊ってみたものの、常に低空飛行か尻尾を使っているため歩行そのものをしないデスコにとって、踊りは実に難儀した。しかも尻尾を使って上に丈を伸ばさなければ身長は一メートルにも満たないのだからパートナーの姿勢も辛くなるし相手も限定されてしまう。結果的に自分が躍るとなるとまず予想していた状態になって、少女は残念に思ったものだ。
 だが、たかが尻尾を動かすだけなどと侮るなかれ。旋回しながらの移動なぞデスコにとってこれまで思いも寄らなかった動作のため、勘所を得るに到るまでまさしく血の滲むような努力を要した。当然、真っ当に考えればそんなことラスボス修行とは全く関係のない、無駄な努力に値するのだろう。しかし欲求は理屈を凌駕する。フーカと同じようにステップを踏みたい気持ちは強く、途中で優雅な動作を身に付ければラスボスとして貫禄が出るのではないかと無理にこじつければ練習にも熱が入った。結局、姉と踊ることはできないのだと本番当日になって知らされたけれど。
 とは言え練習中には手と手を取り合いふたりで踊ることは何度かあったし、尻尾を踏まれたり足を払い落としたりと姉妹喧嘩勃発一歩手前まで騒がしくしていたのも楽しかったから、すべてがすべて無駄になった訳ではない。ただやはり、寂しい気持ちは隠せないし割り切れなくて。
「……デスコさんは本当に、フーカさんが大切ですのね」
 デスコのペースで踊りたいとの要求に合わせ、フーカのときと比べゆっくりとした動きでリードしているアルティナが微笑む。背筋を正しながらも心なし項垂れた彼女の気持ちを汲んでくれたのか、ふたりの旋回は終わり際の独楽に近い。慌てて少女が顔を上げ、速度にやや勢いが戻る。
「はいデス。何せデスコはおねえさまのために造られたラスボスデスから!」
 明るく迷いない答えに相反して、少女の心のうちは浮上できないままでいた。その大切な姉と踊れない現実が、彼女の予想を越えて未練がましく胸の奥にくすぶっていたからだ。勿論、踊れない理由はデスコ自身に問題がある訳ではないから、可能性は残されている。それでも多少気になって、少女は手馴れたパートナーに質問した。
「あの、アルティナさん。ダンスをするとき、ドレスを着た女の子同士で踊ってはいけないとか、そんな決まりはあるデスか?」
「ありませんわ。フーカさんが仰っていた通り、どちらがどちらをリードするかで、揉めたりテンポを掴めなかったりはするでしょうけれど」
 なら良かったと心の底から安堵したデスコは、次に足元を視界に入れて我に返る。このままぼうっとしていれば、自分が姉をリードすることなど到底不可能。かと言ってフーカが自分をリードしてくれるかと考えれば無理だろうから、自分が男性側のステップを覚えるしかない。落ち込む暇など一秒だってあるものか。
 が、この短い間で男性のステップを覚えられるようならばそもそも踊りの基本姿勢と女性のステップだけで一ヶ月もかからない。見ているだけでも忙しないのに加えて、今も踊っている最中だから自分の尻尾遣いも疎かにできず、デスコはあっさり目を回した。
 勿論そこはパートナーが助けに入る。アルティナが小さな腰を引き寄せて、自分にもたれかかるように仕向けると小さな悪魔の少女は慌てて上体を起こした。姉ほどではないにせよ、彼女だって眼前の天使にみっちりと、それはもう骨の髄まで踊りの姿勢は仕込まれている。叱られないと知っていても身体は反射的に引き締まるもの。
「だ、大丈夫デス!」
「大丈夫には見えませんでしたわよ? 俯いては姿勢も綺麗に見えませんし、むしろ混乱を誘いますからそんな学び方はお勧めしません」
 姿勢についてやんわり指摘を受けることに背筋が震えたが、それ以上に少女の動揺を呼んだのが学び方、の一言。あっさりと自分の思惑がばれていたと知り、デスコは恥ずかしさから頭の中で身悶えする。隠す気もなかったが、教えて下さいと頼んでもいないだけに気まずくて仕方ないのだが幸いにしてパートナーは天使である。悪魔の少女の内面を慮ってこそすれ、いたぶったりは決してしない。
「何も踊るだけがパーティーのすべてではありません。皆さんと飲んだり食べたりお喋りしたり色々見て回るのも、また一つの楽しみではなくて?」
「そうデスけど、それだとおねえさまは一人でどっか行っちゃうかもしれないデスし。……やっぱり、二人で楽しむ時間が欲しいのデス」
 会場を見て回るだけならよそへも視線や気持ちが行きがちだが、踊りとなれば強制的にふたりきりだ。その中で培われる小さな出来事もまたふたりきりだからこそ共有できる思い出だとデスコは捉えていたため、姉と踊ることへの執着心は強い。大切なひとが相手なら、それが普通だと彼女は思うのだが。
「……アルティナさんは、ヴァルっちさんと踊れなくていいデスか?」
 素朴な問いにアルティナの足取りが硬直しかけ、別のカップルと危うく接触しかける。そんな事故を怪盗修行で鍛え抜いた反射力で瞬く間に回避はしたものの、彼女の胸に走った動揺は見ているものがおれば隠しようもない。ましてや今、その彼女と踊っているデスコなら無駄な足掻きだ。
「そ、……そんな気持ちはあると言えば、ありますけれどね」
 だから天使はデスコの無遠慮な視線を受けて本音を漏らすけれど、彼女は存外意地っ張りな面がある。頬を赤く染めながらなんともなさそうな顔をした。
「どうせ狼男さんに阻まれますし、あまり期待はしていません。この祝宴では特に、お忙しくなるでしょうから……」
「けどヴァルっちさん、今はおねえさまと踊ってるデスよ?」
 正直なところ、その事実に対して少女は羨ましさを覚えずにいられなかった。デスコは姉も師たる吸血鬼も、両者共々大切だけれど、だからと言ってふたりが踊れて自分が踊れないことには複雑な気分を抱いてしまう。眼前の天使は、やはり天使なだけに違うのかと彼女の顔を慎重に覗き込むと。
「……ええ、そうですわね」
 ほろ苦くとも改めて笑った天使のかんばせは、落ち着いているが何とも思っていない、なんて表現は決して当てはまらず。デスコと同じ気持ちでいながら、その実、少女より割り切ろうとする努力が垣間見えるだけ無理をしているように見えた。
「けれど、お二人が険悪でいるよりも、踊れるくらい仲がいいほうがずっと素敵なことですから」
 その点はデスコも異論はない。だが、大切なひとが他者に受け入れられることの喜びと、その他者への接し方に羨ましさを抱くのはまた別で、切り替えられるなんて少女は到底思えなかった。しかしそんな本音を耳にして眼前の天使が自分と同じ気持ちだと自覚すると、少女はこの女性に一層の親近感を持つのだからひとの心は現金と言うべきか。
「……デスコとお揃いデスね」
 ――大切な人が誰かに受け入れられるのが嬉しいもの同士。なのに、その誰かが酷く羨ましいもの同士。そんな気持ちを込めて微笑みかけると、アルティナもデスコの考えを理解してくれたのだろう。目を瞬き、悪戯の共犯者を見つけた笑顔で短く頷いた。
「ふふ、言われてみればそうなりますわね」
 これでこれは一つの関係だ。あまり誉められた感情からの繋がりではないけれど、甘悪いくすぐったさを覚えて笑いあううら若い天使と悪魔の姿は微笑ましくも興味深く映ったのだろう。誰かが横やりを入れてきた。
「なになに、なんの話?」
 ふたりの横に綺麗に滑り込んだのは、渦中のカップル、のうち少女でつまりデスコの大切なひとのほう。連れあいの青年は、何故か盛大に目をそらしていた。それでもふたりの息は乱れていないのだから大したものだ。彼の執事と三人で地獄から這い上がってきただけのことはある。
 ともかく唐突に現れたふたりにふたりは驚いたものの、自分たちと同じ感情を抱いている様子など一欠片もなさそうな表情を見ると、ささやかな怒りみたいなものが沸き上がった。なので天使と悪魔の少女は、視線を重ねるとすぐさま結託する道を選ぶ。
「秘密ですわ。わたくしとデスコさんだけのお話ですもの」
「そうデス。こればっかりはおねえさまにも内緒なのデス」
 澄ました顔で視線をかち合わせ、ねえ、と深く同意しあった意地悪なふたりに、フーカはきびきびと舞いながらも頬を膨らませる。
「えぇ~、なにそれ! ちょっとくらい教えてくれたっていいじゃない」
 悪魔の少女と天使のステップに合わせて速度を落としながらフーカは執拗に絡みつくも、身を乗り出されては危うく接触しかねない。速度は大したことがないものの、姉に怪我をさせたくないデスコは慌ててアルティナのほうへ身を引いた。
「お、おねえさま、それ危ないデス……!」
「ええ、お喋りは曲が終わったあとで。ね?」
 仲間はずれを味わった寂しさを胸に抱きながら、しかし諭されてしまったフーカは一応引き下がってパートナーにちらと視線を送って相手の手を取り直す。そうして妹とさっき踊ったパートナーから離れていったところで、ようやく真正面を向いた相手に訊ねた。
「アルティナちゃんと約束しなくてよかったの?」
「何のだ」
 いつかは言われると覚悟していたのだろう。苦みを走らせていながら顔をさして動かさないまま聞き返すヴァルバトーゼに、フーカは躊躇いもなくにやついて応じる。
「踊る約束に決まってんでしょ。今日二人ともあんまり口利いてないし、ヴァルっちも聞きたいこと色々あるだろうし、いいチャンスだったのにさ~」
「……話など、踊らずとも聞けるだろうが」
「そうかなあ? じっくり話するなら、こう言う姿勢のが邪魔入らないでしょ」
 告げてフーカは一挙に前髪が重なるほど吸血鬼に顔を近付けるが、相手が目を見開いた瞬間にまた顔を離して笑みを浮かべる。一番初めで全力を出しきって緊張を解し、更には一度も躓かず無事故で終わったため自信さえ身につけていた彼女は、二度目ともなるとこうして踊っている最中にふざけたりもする。それでも今のところ接触事故を起こしていないのは、無論のことながらヴァルバトーゼの腕前が大きい。
「そんなふうに男をからかうな、小娘。尻軽に見えるぞ」
 反してヴァルバトーゼは赤面するでもなく派手な動揺を示すでもなく、ため息をついて浮ついたパートナーを注意する。後援会で老若男女、どころか人外の悪魔にまで媚びを売られ続けた彼にとって、フーカのちょっかいはむしろ大人しい部類に入った。その点は彼女もさして効果を期待していなかったらしく、彼の反応はほどほどに受け流して発言に小さく首を傾げる。
「しりがるって……それどう言う意味?」
「一途ではない考えなし……気の多い女に見える、とも言い換えられるな」
 成る程そりゃあ大切ね、と納得しながら少女は一人旋回する。その身体を受け止め腰に手を添えると、吸血鬼は一つ賢くなったフーカを見て満足げに頷いた。相手が教育対象であるプリニーもどきである点も多少関係しているが基本的にこの男、悪魔にしては異常なくらい面倒見が良い。
 しかし視線に色気を感じられないのは着飾ってより可愛くなったと自惚れているフーカにとってほんの少し複雑な気持ちを抱きかねないので、少女は疑わしく声を潜める。
「……やっぱり男ってさあ、悪魔でも控えめでおしとやかな女の子のほうがいいもんなの?」
「騒がしく我の強い女を見れば、相対的に好感を持つやもしれん。だがすべての男がそうではあるまい」
「……よね。そうよねー!」
 当たり前のことではあるが、淀みなくやんわりとした反論を受けてフーカは安心する。これから男漁り、なんて露骨な表現まではいかずとも乙女のロマン溢れる出会いを果たしたい彼女にとっては、踊り終わって以降、絶望的な心持ちでホールを見て回りたくなかった。しかしそんな彼女の思考を読む気がないヴァルバトーゼは、生真面目な顔でさっきの話題を引きずる。
「デスコがお前とお前の父以外に殺さない人間を次々増やしていくと考えてみろ。お前とて、そんな妹には好感を持たんだろう」
「いや、大切な妹なんだから、大量破壊兵器になってほしくないって気持ちはあるわよ……?」
 そうだったか、とヴァルバトーゼは不意を打たれて目を瞬いた。頼りになると思ったら変に抜けた喩えを持ち出してくる彼に、少女は大いに脱力したが下半身は変わらずきびきびと動いて吸血鬼のリードに従う。
「ま、そっちの話はいいとしてさ……ほんとに、これからどうすんのよ、ヴァルっち」
 ヴァルバトーゼがこの祝宴に参加する目的を、フーカはまたしても一ヶ月前と同じような言葉で問いかける。彼女にとっては小難しくて色気のない話題だが、それでも地獄に住み、魔界の住人として馴染んでしまっている以上、全く無関係な話ではないことくらいは理解できた。答えの重さだって深刻さだって、彼女なりではあるが真剣に捉えている。
 けれど吸血鬼の青年は赤い瞳を微かに揺らすだけで、やはりこの場での回答は避けた。頭の中はイワシだの約束だのほかも含めて三つ四つほどしか構成する要素がないと思われる彼でさえも、魔界の未来を決める言葉は少女の問いによって出せるものではないのか。それともまた、違う理由があるのか。
「……お前は、これからについて考えているのか」
「あの件でちょっとはね。デスコもいるし、今のところは地球征服ルートが妥当なんだろうけどぉ……」
 質問を返されると思っていなかったものの、フーカはさほど動じることなく笑んで答える。あのとき返答を濁した吸血鬼の態度は彼女から見ても印象深く、ここ一ヶ月はふとしたときに将来について考えることも偶にあった。とは言え、少女はヴァルバトーゼほどの影響力はない自覚があるから自力で今後を考えねばならず。それに伴う責任も自分が負うのは当然のこと――建前では夢なんだからこの際、突飛な目標を持って本気でそのための具体的な計画を練る道もこのまま現状維持で怠惰に過ごす道も選べるが。
「あーあ……。夢でこんなに色々悩まなきゃなんないなんて、ほんと生々しい悪夢だわ。とっとと目覚めてくんないかなあ」
「まだこれを現実だと認めないつもりか。いい加減しつこいなお前も……」
 うんざりした顔でぼやかれて、フーカはふふんと鼻で笑う。勿論、頭のほうでは夢ではないと気付いているし自覚もあるが、表面上はそれを認めていないことにしなければ、今の少女の待遇や立場などが瓦礫のごとく崩れてしまう。プリニー教育係はそれなりの期間を共に過ごしてきた仲間であっても彼女が認めてしまえば最後、例外なくプリニーとして教育を施すだろう。そんな展開など彼女にとって損しかないのもあるが、ついでに言うと今のはまた別の理由がある。
 単純に、フーカは吸血鬼が自分の言葉を信じていることを実感したかった。誰にだってそうではあるが、ヴァルバトーゼは相手の言葉を鵜呑みにすると表現してもいいくらい信じやすい。恐らくここで彼女が愛の告白なんぞをしてしまえば、彼は真剣に受け止めた上で反応を寄越すことだろう。
 そんな想定をするだけで、いい奴だなとしみじみ少女は吸血鬼への評価を高める。それでも胸に宿るものに惚れた腫れたなんて表現は違和感があるから、彼女にとって彼の存在は恋人や運命のひとなんかより稀有ではないかとも考える。肉親でない異性に対し、親しみを持つけれど色っぽさは欠片も湧き上がってこないなんて、彼女にとって今まで想像もできない関係だから。
「ま、今のところさ、アタシはヴァルっちがこれからどんな道を選んだって、ついてってやるわよ」
 しかし信頼関係には違いない。秋晴れの空のように気持ちよく、これまで築いたようにこれからも続けていきたい欲求だけを胸に滾らせたまま、フーカはヴァルバトーゼに力強い笑みを向けた。確かな気持ちを伝えられた悪魔の青年は、うむと短く、だがはっきりと誇らしげなものを口元の直線に宿らせる。
「安心しろ。お前のためにも地球には『畏れ』エネルギー回復のため以外には干渉せん」
「オッケー、それ聞いて安心したわ。ヴァルっちと地球の未来をかけてガチバトルなんて、アタシも避けたいしね」
 とは言いながら、この先いつかどこかで対立してしまったとしても、それまでの過程に後悔がないのならこの吸血鬼とは正々堂々戦うのが礼儀だとフーカは思う。ヴァルバトーゼもきっと同じ気持ちでいるだろう。そう考えただけでますます力強い喜びで胸が熱くなる、ところで音楽が止まった。慌てて旋回を続けかけた足首を止め、その場でテレビで観たようにぎこちなく膝を折ると、相手はより優雅な仕草で応じる。
 終わりまで完璧に決めてのけたヴァルバトーゼを盗み見て、さすがに慣れているだけのことはあるとフーカは軽い羨望を覚えた。一番最初のパートナーより落ち着いて踊れたのも、彼の手腕あってのことかと思えば更に嫉妬が湧き上がるが、最後まで美しく決めた以上は足を踏んで周囲の悪魔にぼろを出すべきではない。しかし会話くらいは許されるはずだと、少女は妹たちを目で探しながら吸血鬼に囁いた。
「で、ほんとに誘わないの?」
「……誘わん!」
 けれど話しかける気はあるようで、吸血鬼の目も誰かを探してあちらこちらと忙しない。デートの約束でもするのだろうかと内心はしゃいだフーカは、着飾った見知らぬ悪魔たちの中でようやくこちらに近付いてくる仲の良いふたりと目が合い、合流できた喜びとこれから待ち受けるであろう光景を妄想し明るい顔で手を掲げる。が、思わぬところから別の誰かの声がした。
「こちらにおられましたか、閣下」
「こっ……!」
 ここで来たか、と絶妙なタイミングに過ぎる乱入に呻いたフーカは、いつの間にか吸血鬼の自分をエスコートしてくれた手が解放されているのに気付く。犯人は、言わずと知れた銀髪長身の人狼。いつまでも壇上で自分たちを眺めているほど大人しくないと知っていたものの、よりにもよってここで割り込んでくるとは完全に予想外だった。そして野次馬根性的には最悪だった。
 愕然としているフーカを尻目に、フェンリッヒは恭しく下げた頭をもとに戻し、主にややも疲れ気味な顔を見せる。案の定、ヴァルバトーゼは疑念の眼差しで執事を見上げた。
「どうした、フェンリッヒ。少し見ない間に随分とやつれているようだが」
「いえ……。閣下に一言ご挨拶をしたいと申す別魔界の連中をあしらっていたのですが、なかなか数が多いため少し困難になって参りまして……」
 言葉尻を濁す人狼は、悔しそうに眉をしかめる。今後の意志を表明するだけのためにこの祝宴に訪れた主の手を煩わせる真似など、決してすまいと心に決めているのに自分の未熟な手腕によってそれも難しいとでも言いたげに。そんな態度を取られてしまえば、慈悲深い吸血鬼はただ踊っているだけだった自分の代わりによく働いたこの執事を、労いこそすれ貶すなんて塵ほどにもあり得ない。
「そこまでお前が気に病む必要はない。俺もここに来た以上、そんな真似はせねばならんと覚悟していた」
 慰めて、多少は気が楽になったのだろう微笑を浮かべるフェンリッヒの表情を確認すると、吸血鬼も微かに笑みを宿すがこちらは励ますような具合で。やりたいことはあったものの、人狼が疲弊しているのにその主たる自分が遊び呆けているようではいけないと気持ちを切り替え、執事に命じる。
「案内しろ、フェンリッヒ。お前の主ヴァルバトーゼは、有象無象の相手をお前に一任させるほど無責任な悪魔ではないからな」
「……ありがたき幸せ。では、どうぞこちらに」
 緩慢な動作で進行方向を示すフェンリッヒは、吸血鬼が自分より前にまで来たのを見届けたあと、つるりと顔から疲弊の色を取り除く。そうして誰かを待つか彼らの邪魔をしようかで右往左往しているフーカと目を合わせ、何かを言いかけた少女を鼻で笑い飛ばしてから主のあとを追った。

◇◆◇

「それで、次は誰だ?」
 『九冥神塔の管理者』ユン・シミルと殺意を交わし、『大公爵』アシュタロには敬意を示し合い、『道化』インレ・ライラとたっぷり喋り、『至高王』アブラクサス相手にイワシの素晴らしさを説き――その他、世にも名高い大魔王、魔神、貴族や上級議員とあらゆる言葉を交わしたヴァルバトーゼは、顔色一つ変えず後ろに控えた執事のほうに振り返る。
 ここで普段のフェンリッヒならば、主と同じように平然としているか、もしくは数々の大物悪魔を相手に全く調子を崩さぬ主に、静かだが誇らしげな表情を湛えているべきなのだが、今日のこのときは違和感が強い。眉間に微かな皺を残し、遠くを見つめていたが主の視線を感じたため咳払い一つで取り繕おうとする。ヴァルバトーゼがプリニーもどきの少女と踊った直後も疲れていた様子ではあったが、今とは疲れの度合いが違う。
「……はっ。続いては魔王『乾季』ファイヤフローフィールド……」
 褐色の相貌がほのかに青白くなるほどとはおかしいと、吸血鬼の青年はこの事態を深刻に捉えた。人狼が彼と共にいながら呆けるなど滅多にないこと。今は適切な処置を取るべきと速やかに判断し、ヴァルバトーゼは吐息を漏らして執事の言葉を遮る。
「いや、フェンリッヒ。そいつと会うのはもう暫くしてからにしよう」
「それは……。お疲れになられましたか、閣下」
 しくじったとでも言いたげに、人狼の青年の瞼が軽く伏す。それでも疲れているのはお前だろう、と言ってやらない程度にヴァルバトーゼは彼の誇り高さを知っていたから、平静を取り繕うのに精一杯の執事へはっきりと頷いてみせた。
「ああ。お前はイワシを調達しろ。俺はあそこで少し休む」
「畏まりました」
 壁際に面した誰も座っていないカウチソファを指差して、一礼した執事を尻目にヴァルバトーゼはそこに一人腰を下ろす。無論、それで本当に休めはしない。挨拶回りをしに行く道中もだったが、やはりここでも主賓の主賓たる吸血鬼は賓客たちが我先に印象付けたがる存在だ。人狼がシャンパンクーラーを携えて現れるまでの数分間、彼は六人の悪魔から話しかけられた。勿論、それぞれ中身は媚びを売ったり喧嘩を売ったり洗脳を試みたりと多種多様。
「お待たせして申し訳ございません、ヴァルバトーゼ様。どうやらわたくしと閣下が共にいる姿を見た悪魔が多いのでしょう。随分としつこく絡まれまして……」
「仕方のない話だ。お前は俺の僕なのだからな」
 エレシュキガルと名乗る女悪魔を、執事と入れ替わらせるようにして丁重に追い払ったヴァルバトーゼは、人狼の手からイワシを受け取り、彼を休ませるためにもいつもよりゆっくりと、現在吸血鬼にとって唯一の命の糧を味わう。
 よく冷やされている小魚は鮮度はやや劣るもののぽってりと太っており、一口食べると脂の量は程好く身は弾力を持ち好ましい。骨はいつものように油断ならぬ歯応えと鋭さを持つものの噛めば噛むほど程好い旨味を醸し出し、赤身の脂気に対するアクセントとしては最適だ。熱気が篭った会場内の空気と反する冷たい海の香りが喉の奥を通り抜け、吸血鬼はいっときすべてを忘れる心持ちで深く長い恍惚の息を吐いた。
「……ここのイワシもチバ産ほどではないが悪くないな。むしろ美味い、九十九里浜沖のものと勝るとも劣らない。……どこのものだ」
「オカヤマ、との話を伺いました」
「ほう、瀬戸内海か。あそこは温暖な海域のため生食には向かんと聞き及んでいたが、なかなかどうして悪くないではないか……!」
 今後イワシの発注先の一つとして検討するよう申しつけたヴァルバトーゼに、フェンリッヒは淡い苦笑を浮かべながら承る。普段ならそこで血を吸わないのかと、下手に出ながらもしつこく一言勧めるのがいつもの執事なのだがやはり今は大人しい。
 これは随分重症だと思い知らされた吸血鬼は、物憂げな顔のフェンリッヒからイワシを受け取り、ふたりで巡った悪魔たちの中で誰が彼の執事をこのように追い込んだかを推理する。割り出す方法は単純明快。人狼の言動に違和感の兆候を抱いたのは一体いつだったか、人狼に接触した悪魔とその際の反応を記憶の層から掘り下げていくだけだ。そうしてこと細かに思い出した結果、新たなイワシをゆっくり食して二尾半分程度でそれらしいのにぶつかった。
 本命はうさぎの姿をした、しかし人の姿でもある悪魔。ヴァルバトーゼからすればよく喋る軽薄な悪魔程度の印象しか持たなかったし、うさぎが魔王とは、と人狼が半ば馬鹿にしていた記憶もあるので当初は問題ないかと思われた。しかしあちらの付き人が、相手に話しかける前に不安そうな顔で囁いたのは印象強く――魔王様は気まぐれに過ぎる残酷な御方。どうかそのお言葉についてはあまり『深く考えないよう』お願いいたします――、執事とふたり退出する際、彼のほうにだけ微笑んでいた光景もまた怪しい。ほかの連中の反応とくれば、馴れ馴れしくフェンリッヒの肩を叩いたのがいたくらいで、おおよそ無視したり従者として扱ったり歯牙にもかけないのが大半。執事だけに微笑んだ『道化』が、何かしでかしたと見るのは自然な流れだろう。
 不幸にも付き人の言葉通り、フェンリッヒは深く考える性質だ。ついでうさぎの魔王を見下していた節はあったから油断していたかもしれない。そこをたちまち見抜き、本人としてはからかうつもりで急所を突いて呆気なく心を再起不能にする、なんて話は精神攻撃を得意とする悪魔にはよくある話。あの悪魔は頭の中を見通せるのかと思わせるほど鋭い観察眼と巧みな話術を持っているため、人狼の心もそうやって傷付けられた可能性は高い。
 ヴァルバトーゼは頭を切り替えイワシの残りを口に放り込むと、指でもう少し執事に近寄るよう指示し、その通りにした彼に無言で手のひらを下へとかざし、つまり跪くよう命じる。急な命令にフェンリッヒはようやく怪訝に眉を動かすも、操り人形さながらに理由を聞こうともせずそのまま片膝を立て、もう片方の膝を黒大理石の床に付けた。その反応に、命じた当事者が目を細める。
 この人狼がヴァルバトーゼの命令を受け入れるのは当然のこと。経験はないが憤っている彼に笑えと命じても無理に従おうとするのだろうが、今の考えなしに従う姿はやはり違和感が強いため、吸血鬼は小魚の尾を細かく噛み砕きつつ渋い顔を作り身を乗り出す。それからあえて無造作に、けれどしっかりと白銀の頭に手を置いた。次に指を立て、犬猫の腹にやるようにしてかき乱す。
「ヴァ、ヴァル様!? 一体何を!?」
 急に頭をかかれた人狼は、軽く飛び上がらんばかりに驚愕し頭を持ち上げようとする。それをヴァルバトーゼは指先に力を籠めることで制すると、眉間に皺を寄らせたまま告げた。
「何を呆けている、フェンリッヒ。誰の言葉に惑わされようと、お前はこの俺、約束を違えぬプリニー教育係の僕だろうが」
 当たり前の言葉なのに、フェンリッヒの瞳が揺れる。それほどまでに『道化』の傷に侵食されていたと知らされて、彼はここに到るまで気付けなかった自分の鈍さに腹立ちつつ、反面そこまで自分の精神状態を押し隠そうとする執事に呆れた。尤もこの人狼がすぐさま誰かに助けを求めるような根性なしの部類であれば、『暴君』であった頃の彼は助けるどころか歯牙にもかけなかっただろうがそれとこれとは話が別。体の傷は生きてさえいればどうにか癒せるが、心の傷はそうもいかない。
「対してあの悪魔は今夜一度か二度、たったそれだけ顔を合わせたきりのよそ者だ。そんなものの一言に惑わされるなど、お前らしくもない」
「……閣下が何を仰っているやら。わたくしには理解できません」
 まだ隠すかと、肝心な部分で頑固な執事の態度にヴァルバトーゼは忌々しく奥歯を軋ませた。
「足掻くな。あの老婆にお前が何かを囁き、そのせいでお前が覇気を失っていることくらい俺でも察する」
「……そのようなことは」
 この場に及んでないとは言い切れまい。フェンリッヒの金の瞳に宿る光は、光であるのに薄暗く、沈んだ彼の内面を露にしている。そんなもの、普段の人狼の目つきではない。ここまで追い込んだ悪魔に腹立ったが、報復より今の人狼の心を救うほうが先だと冷静に判断するだけの余裕は残っているため、吸血鬼は声の調子を落とし穏やかに言ってやる。
「『道化』がお前に告げた言葉を教えろとは言わぬ……。だがもしお前がそうも追い込まれている原因が俺ならば、教えてやろう」
 俺ならば、の一言に人狼の眉が微かに動いたのを見て確証を得た吸血鬼は、胸をそらし小さく息を吸ってから厳かに告げる。それが人狼の救いとなることを願い、長きに渡る僕にして友なる男の心の平穏をもたらすことを欲しながら。
「お前の忠誠に誤りはない。故に、お前の今までの努力も無駄ではない。お前はそのままお前の意志を貫けば良い」
 少なくともフェンリッヒが血を吸わなくなったヴァルバトーゼを見捨てていれば今まで彼は生き延びはしなかっただろうし。なんとか吸血鬼が一人、地獄でプリニー教育係として生き延びることができたとしても、反逆の切欠たるプリニー処分でさえ防げたかさえわからない。以降、今に到るまでの道程は言うまでもなく。現在進行形で約束を破らせようとする僕に苛立ちや怒りを覚えた経験は数知れないが、それでもこうして今もまだ彼が自分の矜持を貫けるのは、それ以外にも得難いものを得られたのは、やはり眼前で跪く悪魔の青年が自分によく尽くしたからだと彼は信じて疑わなかった。
 しかし吸血鬼にとって、フェンリッヒへと向ける気持ちと言葉には恩義など含んでいない。いつか返さなければならないものとして頭の隅に刻む義務や責務はない。相手が窮地に陥れば損得もなく助けると思うだけ、健やかにあれ長らく生きよと願う、恐らくはこの人狼がヴァルバトーゼに持つ、尊く穢れのない感情と同じもの。故に彼は淀みなく、相手が今欲しているであろう言葉をかける。
「フェンリッヒよ。お前はお前が誇る限り、誇り高き吸血鬼ヴァルバトーゼの僕だ。お前の主である俺が、それを保証してやる」
「……承知しております」
 返事は静かなもので、覇気のなさでは先程と大差ない。だが軽く俯いた口元は微かに柔らかさを滲ませており、それを目視したヴァルバトーゼは確かな手応えにもう一度、相手の頭を掻いた。今度のものは相手に自分のほうへと意識をやらせるためではなく、労いと励ましと信頼を込めて。そうして静かに手を放し、彼を下がらせた上で自分の膝に力を入れる。
「……さて、これで多少は疲れも取れたし腹も満たされた。行くぞフェンリッヒ」
 カウチソファから腰を上げ、跪いたままの執事の横を平然と通り抜けたヴァルバトーゼの耳に、微かな苦笑が滑り込んでる。どこの誰からの声か、などとは野暮な話。
「はい……」
 長身の、銀髪の人狼は衣擦れの音さえ立てず立ち上がると、踵を返し、胸に片手を添えて肩越しに彼を待つ主に告げた。
「すべては、我が主のために」
 いくら長くともにいても、フェンリッヒの心のうちはすべて把握はできやしない。ヴァルバトーゼは読心術など学ぶ気はない。しかしその通る声に真鍮めいた芯を感じた彼はようやく執事の心がもとに戻ったと知り、淡い笑みを浮かべた。

◇◆◇

 飴色の焦げ目にスプーンを入れると、奥から現れたるはカスタード色にバニラの粒がたっぷり見える、濃厚な味わいのプディング麗しクレームブリュレ。漆を塗ったような表面にフォークを入れれば、黄金色のバナナペーストと生クリームが二層に交わり、四方を囲むはスポンジなのかムースなのかも曖昧なくらい濃厚なチョコレートケーキ。ほかにも宝石めいて煌めくタルトだの、瑞々しいフルーツカクテルだの、目も眩むような種類のチョコレートにケーキの数はそれ以上。氷菓子にもできたてが売りの温かい菓子にも専属の悪魔がついており、甘い香りが漂う小さなホールの中で、地獄において著名な姉妹は――特に姉のほうは――もうここだけで生きていけると思ったそうである。
「感謝するわ、エミーゼル! あんたがここまで色々してくれるなんて、ぶっちゃけ思ってもみなかった……!」
「おねえさま、パーティー始まる前にあれこれ言ってたのほとんど叶ってるデスね……」
 呆然としたデスコの隣で、小山のように生菓子を盛った皿を片手に抱えたフーカは、フォンダンショコラのこってりとしたソースを絡めた苺だのキウイだのの美味さに感涙せんばかりの表情で脳裏の少年に感謝する。
 ちなみに何故脳裏なのかを説明すると、合流した姉妹が少年を発見した際、彼は既に政腐か別魔界の悪魔たちに囲まれており、それを割合と落ち着いて対応していたので話しかけ難かったからだ。この魔界の元大統領の一粒胤ともなれば、仕方のない話だろうが。
「ん~、けどもうちょっとこう、みんなでわいわいやれるもんだと思ってたのよね」
 ワルツの一曲目の終わりまでは仲間たちで集まれたのに、二曲目以降は完全に個別行動を取らされる形式になってしまったことに、フーカは多少物足りなさのようなものを感じていた。甘味を堪能する場で某イワシ星人だのその従者だのを連れてきても何の意味もないだろうが、かと言ってもう一人くらい仲間がいても良かったのではと思いもする。だがそんな発言を耳にしてしまうと、フーカの物騒でも愛らしく健気な妹は――ちなみに彼女は自分の願いをしっかり叶えた。結果、お互い足技のみを使った格闘かと見紛うほど酷い時間が流れたが――自分の立場を不安に感じてしまうもので。
「……おねえさまは、デスコと一緒だとつまらないデスか?」
「つまるつまらないの問題じゃないの。あんたはアタシのいるところにいて当然」
 きっぱりと言い放ち、見上げるデスコに安心と笑顔をもたらしたフーカではあるが、それでもやはり物足りなさは誤魔化せなかった。後半は半ばぐたぐだになった舞踏を終え、散策を開始して早々、頬がとろけるような生洋菓子類に出会ったと言うのに。それからテレビでしか見たことがない豪奢なホール、この魔界でも見かけない、おどろおどろしくも面白く、また美しかったり可愛かったりする悪魔たちの見目に彼らの会話、楽しげな音楽に包まれているのに。何か不満、とは言い切れないものの、僅かばかり味気ないような気持ちが拭いきれない。
「……アルティナさんだけでも、誘えれば良かったんデスけどね」
 デスコも姉ほどではないが、早速このパーティーに飽きそうな自分に気付いてそんなことを呟くと、まあねえと頭上からしみじみ返事が降ってくる。
「アルティナちゃん、ちゃんと逃げきれたらいいけどなー」
 話題の天使は男装していたのが不幸を呼び、同じく男装していたもののこちらは女性として熟れに熟れた肉体の線を惜しげもなく強調した淫魔――夜魔と似たようでいながら違うものらしい。ふたなりの意味が姉妹揃って理解できなかったのだが――の女王に捕まってしまい、多分に今は必死の抵抗中、もしくは逃走中のはずだ。
「ま、下手なことにはならないんじゃない? なっても女同士だからノーカンでしょ」
「そうなんデスか?」
「……知らない。正直女同士ってよくわかんないし」
 三人寄れば文殊の知恵だが、ここにいるのは世間知らずな姉妹がふたり。具体的な想像が生まれれば後味の悪い気分になるのは必然だが、言い換えると能天気なふたりだからこそさして危機感を抱かずに洋菓子を頬張っていられた。
 とにかく互いに与えた足へのダメージを回復するためのんびりと甘味を味わい、あれが甘いこれが美味いとマイペースに楽しんでいた姉妹ではあるが、砂糖漬けを長らく味わえば塩気も欲するのが人体なるもの。飲み物程度では口の中の甘味をリセットできなくなって、同じく美食に集う悪魔たちを避けながら、塩気のある品々が並ぶ別の小ホールまで移動して今度はそちらを堪能し、また甘味が欲しくなったら皿に残った菓子を食べ、を何度か繰り返した。
 それら自体には何の問題もない。楽しかったし美味しかったし、綺麗なものや少し危険そうなものに囲まれて、わがままな姉妹でさえ、この時間には何一つ不満なぞ生まれなかった。――強いて言うなら、不満がないのが最大の不満。文句を言う対象がよそに一つでもあれば、姉妹は多少盛り上がったかもしれない。性格が普段仲間たちから指摘されるほど捻くれているのではなく、満たされきることで生まれる堕落や傲慢さを恐れている、などと表現しては深刻に過ぎるか。
 結果的には危機感通り、いつの頃からか舌が料理にすっかり慣れて、視界に写るものにも目を見張ることがなくなって、音楽や悪魔たちの声さえも聞き流してしまうほどになると、無理をしてパーティーを楽しむ姿勢を作るのもさすがに辛い。当初はぺろりと食す気だった甘味が山盛り載った皿の最後の一切れを口に運ぶと、フーカは適当に確保したカウチソファに横たえたい気持ちを押さえ込み、めいいっぱい肺に溜まった息を吐き出した。
「……はあ。もー当分甘いもんはいいわ……」
 後半はほぼ苦痛を味わいながら喉の奥に砂糖とバターと牛乳と卵とその他諸々の化合物を流し込んだフーカは、隣で自分と似たような状態になっているデスコと目を合わせる。基本的に彼女の言動を全肯定する少女であっても、今回ばかりは赤い瞳は非難めいていた。
「デスコもデス……。おねえさま、テンション上がって色々取りすぎデス……」
「仕方ないでしょー。美味しそうだったんだしさぁ」
「美味しくないのなかったデスしね」
「でしょ? ま、お代わりしようとか今はもう絶対思えないけどねー」
「デスー……」
 会話内容も次第に薄くなって、今では交わす言葉は違っても中身は同じような怠惰なやり取りばかり。腹が膨れた以上に精神面での停滞を自覚したフーカは、これはまずいと気持ちをどうにか切り替えるよう自分に言い聞かせ、握り拳を作って腹の底から声を張り上げる。
「駄目よデスコ! こんなんじゃ今日お風呂入ってベッド入るときに『今日つまんなかったなーパーティーってあんなもんなんだー』とか思っちゃうわ! それってアラフォー負け組OLのお見合いパーティーと大差ないじゃない!」
「……あらふぉーって、なんデスか?」
「忘れたけどとりあえず寂しい独身とかそんな感じ! 女として超負け組!」
 勢いをつけてカウチソファから立ち上がったフーカの脳裏には、いつか何もすることがない休日にテレビで観た辛気くさい独身女性がお見合いパーティーに行くと言う、誰が得をするのか全くわからないドキュメンタリー番組が思い出された。大したリアクションもなく黙々と食事をするだけの女性を観て、こうもなりたくないとしみじみ自分が思っていたことも記憶の底から釣り上げてしまい、危うくそうなりかけている自分に十五歳にして少女は本気で危機感を抱く。その年齢について、現在の彼女の場合は享年と言える訳だが今は無視だ。
「そうよ、腹ごなしはこれで十分なんだから、アタシの王子様を探しに行かなきゃ!」
 それこそがこのパーティーに来た真の目的だろうにと思えば、フーカの弛緩しきった心も目覚める。デスコも宣言を受けてようやく当初の姉の目的を思い出し、そうでした、と立ち上がろうとするのだが。
「……おねえさま、王子様はどうやって探すデスか?」
「……あ」
 まずそこからか、とフーカは無理から燃え上がらせた気力を冷やされる。しかしたっぷり糖分を取った頭を動かす機会をようやく得たのだ。これしきで諦める訳にはいかない。
「とりあえずさ、それっぽいイケメン探しに行くのが順当じゃない?」
「探したらどうするデスか?」
「そりゃ声かけるんでしょ。話しかけてくれるのを待つとかストーカーっぽいし」
「なんて声をかけるんデス?」
「わかんない」
「………………」
 ここで姉妹と長らく共に戦ってきた仲間の一人でもおれば、この展開に何らかの反応を示したはずだろう。死神の少年であれば頭を抱えてとにかく適当に歩いてこいと散歩を命じたろうし、天使であれば苦笑を浮かべて散策に誘うかもしれない。吸血鬼ならばふたりに混じって唸り声を上げ、人狼は拙い思考を鼻で笑い飛ばす可能性が高い。現実的には全員いないので、時間の流れが危うく停まりかけた。
「……ま、なんとかなんじゃない?」
 姉妹が放つにしては長い部類に当たる沈黙を打ち破ったのは、当然イニシアチブを握る姉のほう。栄養をたっぷり取ったはずの脳を駆使してもこれぞと言う案は思い浮かばなかったからこそ導き出された投げやりな言葉である。
「そうデスね」
 妹のほうもやはり適切な言葉や方法なんぞ思い浮かばず、ただ姉の言葉に従う安易な道を選ぶ。ふたりとも事前にあれこれと考えるより何も考えずに動くほうが得意なので、ない知恵を絞って案を出したところで結果的にこうなったのだろう。と思えば、脱線もなく無駄な時間を潰すでもなくこの結論に至ったのは効率的だと褒め称えるべきか。
「じゃ行くわよデスコ。とにかくイケメンを見つけたら教えなさい」
「了解デス!」
 ツインテールをふわりと揺らし、悪魔の密度が最も高く、今もワルツの曲が聴こえてくる大ホールに向かったフーカの背中に敬礼したデスコは、ふと自分がフォークを握ったままなのに気付いた。姉が放置していった食器も含めて、このままにしておいても平気なのだろうかと不安に思い、丁度目の前を通ったプリニーに下げてもらう。
 そうして、さて自分もフーカの王子様を探しに行くとしようとようやくカウチソファから腰を上げたデスコではあるが、ここでようやく自分が置かれた状態を把握した。
 フーカが、いない。
「…………あれ?」
 カウチソファから少し離れて、辺りを見回すも姉のツインテールは見えず。
「……あれあれ?」
 もう少し離れて、立ち止まるフーカらしい人物を探そうにもやはり見当たらず。
「…………し、仕方ないデスね」
 姉が自分がいないことに気付いて貰えるようにと、カウチソファへと戻って待機しようとしたが、それより先に誰かがようやくと盛大な吐息をついてそこへと腰掛けて。
「ああもう疲れた、僕もう一歩だって動きたくない! なんだってこんな悪魔どもが多いんだ! つまんないよ、ねえ□&%*!」
 可愛らしそうな男の子の声がして自分も座れるかもしれないと思ったデスコは、しかし視界の光景に我知らず肩を強張らせた。
「け、けど、ここもマ、魔界、なん、だよね?」
「左様左様。悪魔が多くて当然の場所。ワシらはここに招かれた」
「あのう、あのね、ボク、ボクはね、このパーティー、素敵だと思うよ? 一体なんのパーティーなのか、ちいとも知らないんだけどさ」
「ふん、パーティーなんぞ! 太古の昔から悪魔の宴は肉と骨、血と涙、蜜と精とが混ざり合うあらゆる意味で淫猥なものであるべきなのに、ここのアレの取り澄ましっぷりときたら!」
 魔王か別魔界の貴族かはわからないが、とにかく一行の主である金髪碧眼の少年の姿をした悪魔は事実可愛らしかった。フーカの要望には少々年齢が足りなそうだが、それでも十分美少年と呼べる。だがそのお供は、黒い異形どもばかり。床を汚してそれきり磨り減っていくのも全く気にした様子のないヘドロの固まりみたいなものや、生ゴミの臭いを漂わせる埃の詰まったクッションみたいなもの、煙そのもの、中身の砂と綿を際限なくこぼしながら動く何かの剥製。皆が皆、かたちを保つ物質に対して無頓着なのに、怒ッキングでもしたように巨大なのが尚更に不気味さを煽る。
 嫌悪感と違和感を抱かせるがらくたどもに魂が宿った光景の具体例めいた一行を目にして、気味が悪いのは自分も同じはずなのにデスコは思わず気圧された。怖がらせること、恐れられること、強くなることについてはどうにか学べるし鍛えられていた自信があるが、彼らが強く放つ生理的嫌悪感において、姉に乙女として仕込まれていた彼女は全く無防備だったからか。
「……ん、なにさ君。なんか用?」
 気味の悪いものたちに囲まれていた少年が、不意にデスコの視線を捉えて見つめ返す。自然お付きの一行も彼女のほうに視線を注いでくるものだから、少女は慌てて首を振った。
「な、なんでもないデス!」
 『恐怖の大王』内で戦った悪意以上に手応えのなさそうな、やっつけられるかどうか――いやそれどころか、やっつけたと思ったら適当な何かに平気で乗り移ったり、無限増殖でもしそうな、そも根本的にヒットポイントの概念さえなさそうな雰囲気を持つ連中を相手にして、戦えるとは到底思えない。姉のいない心細さも相まってそう判断したデスコは、結果的にカウチソファから離れてしまい、行くあてもなくホールやその隙間をさまようこととなった。
 しかしデスコは忘れていたのだ。カウチソファを占拠した連中ほどではないにせよ、彼女だって程々に特徴を持つ外観の悪魔である。背中の触手は今は封じているにせよ、彼女の姿は雑踏の中にあってもその小ささと尻尾のお陰で結構わかりやすい。だから彼は平気でその小さな肩に触れて。
「おい、デスコ」
「ひぁ!?」
 さっきの連中の誰かかと思い小さく飛び上がった少女に、話しかけた悪魔は生真面目にも呆れて指摘する。
「……一体どうしたと言うのだ。仮にもラスボスを目指す悪魔が、話しかけられた程度でそんな反応をするものではないぞ」
 落ち着いた叱咤の声に、相手が誰かを理解したデスコはなるべく動揺を飲み込んで振り返り、白手袋の主を見上げた。当然そこにいたのは、黒い外套に身を包んだヴァルバトーゼ、つまり彼女の師である吸血鬼だった。

[↑]

19:44

2011/07/06

 フーカの王子様探しを開始したと同時に姉とはぐれてしまったと正直に告白したデスコは、次にヴァルバトーゼから同じくフェンリッヒとはぐれてしまったと聞かされた。しかしさすが『暴君』と呼ばれた吸血鬼。はぐれた切欠が自分のものとは比べものにならないと知り、彼女は感嘆の息を吐く。
「……その魔王さんはそんなに激しい人だったデスか」
「うむ。正直な話、少し待たされた程度で結界に放り込んで戦いを申し込むのは常識的にどうかと思うのだが」
 一休みしたヴァルバトーゼは、すぐさま『乾季』ファイヤフローフィールドとの邂逅を果たしたのだがこの魔王、フェンリッヒが出会い頭に片手で頭を抱える程度には面倒臭い性格の持ち主だった。
 仮にも魔王と呼ばれる炎のたてがみを持つ獅子の悪魔が、今宵の主賓たるふたりの悪魔を目にした途端、私はここまで遅い時間でしか会えないほど価値がないのですかと泣き喚くなど誰が予想するものか。この時間帯になったのには事情がある、決して貴殿を軽んじたつもりはないと主従が何度説明しても聞く耳持たず、咽び泣きながら赤い円陣を床に一呼吸の間で描き、吸血鬼の青年は抵抗する間もなくそこへと飲み込まれた。
 そして結界の中でヴァルバトーゼは、面倒臭い別魔界の魔王相手に説得兼腕試しとなりどうにか勝ち仰せたのはいい。問題はそのあと、誤解を解いて体の傷から服の汚れまで丸々綺麗に元に戻されて結界から会場へと送り返されはしたのだが、人狼の姿がどこにも見えないところに戻されたらしく。
「……疲れたのだろう。結界の割れ目があったところにいくら俺が話しかけても脅しても、うんともすんとも言わなくなってしまった」
「そんなに激しいバトルをしたのデスか……!」
「いや、あれは多分に泣き疲れだ。付き添いの悪魔の子守歌が聞こえていた」
 魔王が子守歌なしに眠れないのはどうなのか。だがヴァルバトーゼと対等に戦えるほどなのだから実力は凄まじいのだろうと、デスコは脳内で相手の悪魔の株を下げないようにする。ついさっき、生理的に受け付けないと言う理由で見知らぬ別魔界の一行を相手に逃げ出した自分を思えば、彼女はそう簡単にかの魔王とやらを貶す気になれなかった。
「かように悪魔が多い場とあっては、フェンリッヒや俺の鼻もあまり利くまい。お前が見た悪臭を放つ悪魔どもなぞと接触してしまえば麻痺する可能性もある」
 的確に傷口を小突かれて、デスコは小さく呻きを漏らす。自分がはぐれた事情は粗方説明したし、それについてさしたるお叱りは受けなかったものの、少女は吸血鬼の言葉にどこか自分を責めるような調子を感じ取ってしまった。
「うぐ……で、デスコはラスボスを目指しているのに、敵前逃亡してしまったのが悔しいデス……!」
「そう自分を責める必要はない。容易く喧嘩を売るのは雑魚のする真似。それに自分の弱点を学ぶことはラスボスにとって重要だ」
 建設的に励まされても気分が向上しないのは、それに対する耐久性の問題が大きい。デスコはいみじくも乙女として、生理的嫌悪を催すものに慣れる修行ばかりは避けたかった。
「ヴァルっちさん、勇者さんが不潔や、気持ち悪いのを武器にするヒトの可能性ってどれくらいあるデスか……?」
「……難しい質問だな」
 ほかの悪魔ならば一笑に伏しかねないが今のデスコにとって重要で深刻な問題を、ヴァルバトーゼもまたおとがいに手を添え真剣に考えた上で返答する。
「世界を救う重い使命を背負っているのだ。カリスマ性を所持している点から鑑みて気持ち悪い勇者はいなかろうが、不潔の面では……いや、そうでもないか」
 生理的嫌悪を催す勇者などとはもともと想像もつかなかったのだが、この吸血鬼に改めて言葉にされるとデスコは少し気が緩んだ。と思った途端に聞こえた意味深な語尾に、一抹の不安を感じて知らず固唾を呑んでしまう。
「基本的にラスボスのダンジョンは勇者にとって過去最大規模だが、本番の戦闘前には万全の体勢を整えさせる意味も含めて休息所を設置してやるのがルール、ラスボスとしての使命と言うもの。そのため、縛りプレイでもしていない限り不潔に過ぎる勇者一行が現れる可能性も少ない」
「それなら、まだなんとかなるデスかね!」
 ラスボスの根城に勇者側の回復場所を造るのは規則と知って驚きつつも、さっきまでの不安が杞憂だったとデスコは顔を明るくしたのだが、反対にヴァルバトーゼの顔は険しい。尻尾で身体を持ち上げて喜びかけたのも束の間、慌てて姿勢を正す少女に悪魔の青年は彼女の予想通り厳しい言葉を投げかける。
「だがデスコよ、ラスボスたるもの戦う相手を選り好みなどすべきではない。ついでに不潔、生理的嫌悪を敵対者に植えつけるのは悪魔の役目。人間の勇者よりも先に同類たる悪魔に勝たねば、お前はラスボスにもなれんぞ」
「ぐ……っ」
 的確な指摘を受け、不意にデスコは後退してしまう。ラスボスとして未熟な自覚があるだけに、悪魔の鉄則、力こそ正義を振り回し横暴な態度を取ることもできず軽くうなだれた。
「そうデスね……! うう、やっぱり頑張ってグロキモ慣れするしかないデスか……!」
「お前が必要と思えばそうするがよい。だが、何事も程々にな」
 少女の表情と気迫に切羽詰まったものを感じ取ったか、ヴァルバトーゼはさっきよりも穏やかな調子で声をかけるとはい、と打てば響くような返事。
 どこまでも素直で純粋なデスコに吸血鬼が思わず浮かべた微笑を見て、少女も何かしら感じるものがあったのか。姿勢を正すと、彼女は少し改めるようにヴァルバトーゼを見上げた。
「あのデスね、ヴァルっちさん」
「うむ、どうした」
 デスコの真剣な眼差しに何かあると見て取った吸血鬼は普段通りの態度ではあったが、それでも少女の緊張の余波を受けて笑みを薄める。負けず劣らず真面目な青年に、少女は口元を緩めそうになりながらなるたけ丁寧に頭を下げた。
「こんな場所で改めて言うのもなんデスけど、デスコの修行に色々と付き合ってくれて、ありがとうございますデス」
 深々と感謝された吸血鬼は、軽く目を瞬いたものの次には口元を引き締める。続いてその唇から形作られた言葉は、響きは優しいのに内容自体は存外に手厳しくデスコの頭に降り注いだ。
「ラスボスになる悪魔が簡単に頭を下げるな。そのようなことは俺を倒してから、物言わぬ屍の前で行ってこそ悪魔として格が上がると言うもの」
「お、お礼を言おうと思ったら屍にする必要があるデスか……!」
 また一つラスボスとしての知識を得られたデスコは改めて感謝することさえも封じられて呻いたが、吸血鬼の言葉にどこかしら引っかかりを覚えて、ふと首を傾げる。
「……あれ。それだとヴァルっちさんは、デスコと命をかけて戦いたいってことデスか?」
「現時点では食指が動かんな。だがお前が戦いたいと思うのならば、快く全力で応じてやろう」
「デスコもヴァルっちさんと戦うなら全力を尽くしますデスが、今のところ積極的に戦うつもりはないデスよ?」
 しっかり意見を合致させてしまったふたりの間に、どうとも表現に難しい沈黙が横たわる。師たる吸血鬼はそんな気概のなさではいかんとでも言いたいところだったが、先程自ら容易く喧嘩を売るなと教えた手前背中を押すのも違和感を持つらしく、悪魔の少女はいまだ学ぶこと多き身であるため師を倒して自信をつけるより、以降のデメリットのほうが大きそうだと冷静に考えを巡らせていたが故。
 まあお互い情にほだされ戦いたくないなどと腑抜けた意思表明はしなかったのだ。これはこれで良かろうとほぼ同時に頭を切り替えると、ふたりは静かに息を吐いて微妙な空気の停滞をもとに戻す。
「けどヴァルっちさん、やっぱりデスコは、ヴァルっちさんにお礼を受け取ってほしいのデスよ」
「ほう、そこまで言うなら何か理由があるのだろうな」
「勿論、今はヴァルっちさんに感謝したい気持ちも普通にあるデスが、いつかデスコがきちんとラスボスになったとき、こんなこともあったんだなって、センチメンタルに浸れる思い出が欲しいのデスよ! そうしてラスボスとしての格を上げたいのデス!」
 少女の馬鹿正直な要求はヴァルバトーゼにとって思いも寄らぬものだったが、その柔軟な発想は悪いどころかむしろラスボスとして必要な要素だと彼さえも認めるものだったらしい。ふむと短い唸り声を漏らしたのち吸血鬼は顎を引いた。
「ならば、お前のその言葉と気持ちは確かに受け取っておくとしよう。そして今後もその調子でラスボスを目指し精進するが良い」
「はいデス! とりあえず今はおねえさまとフェンリっちさんを探すのが先デスが……!」
 その通り、とヴァルバトーゼは深々と少女の言葉に同意を示す。デスコが自分と全く同じことを考えたと知り――まあ当たり前だが―― 一致団結したところで、人差し指を掲げて提案した。
「ではその二人を探しに行くとするが。デスコ、お前は一人で探すべきか、二人揃って探すべきかどちらが良いと考える」
「……ううーん、やっぱり、一人ずつ思い当たるところに探したほうが効率はいいと思うデス」
 具体的な方向性を提示されたデスコは、師に感心されたこともあるためか。頼れるひとと行動を共にする道ではなく、多少は寂しい思いをしても効率を重視した方法を取って、ヴァルバトーゼにますますの成長振りを見せつける。
「ふむ。では十分か……十五分置き程度の間隔でそれぞれ探し、時間になったらまたここに戻ってくる、と言うのはどうだ」
「問題ないデス! 今のところそれが一番いい考えだと思うデス!」
 力強く自らの案を肯定された吸血鬼は、たかだかそんなことでここまで盛り上がるデスコに微笑ましさを覚えつつ懐を探る。こんなところで役に立つとは思ってもみなかったが、今の彼の装束の胸ポケットには執事に持たされた懐中時計が納まっていた。それを鎖ごと自分の体から外して、時間を確認してから少女の手に渡してやる。
「では、お前にはこれを授けよう。時間になれば来い」
「……え。けど、それじゃヴァルっちさんはどうするデスか?」
 赤い手のひらの中で輝く純金の時計と吸血鬼とに交互に視線を送りながら訊ねるデスコに、ヴァルバトーゼはなんともない顔で肩を竦めた。
「俺は放っておいても話しかけてくる連中は多い。悪魔であっても一応飾りとして時計を持つものは多かろうし、その時々に聞けば答えるであろう」
「そうでしたか……。ならわかりましたデス! 頑張ってお二人を探すデス!」
「ああ。では十五分後、またここでな」
 と言う訳で意外にもしっかりとした計画を立てて人捜しを始めたふたりではあったが、やはり詰めが甘かった。ふたりが落ち合った場所についてもちらと見るだけで改めて特徴のある点を確認せずに別れてしまったのは実に痛い。
 一人で執事となり損ないプリニーを捜して雑踏に身を投じたヴァルバトーゼは思惑通り多くの悪魔たちに話しかけられ、その度に適切にあしらっていたのだが、もうそろそろ戻る頃だろうと思ってその悪魔の一人に時間を訊ねたところ、デスコと落ち合う時間が近付いていると知ってすぐさまもとに戻ろうとした。そこまではいいが、戻ろうとしたところでそれらしい場所も少女も見当たらず。いや、幸いにしてここかと思える場所には辿り着いたのだが――しかし自信はない。近くの花瓶と垂れ幕に見覚えがあるだけだ――、薄紫のドレスを身に纏った悪魔の少女の姿はなく。
 しかしここで待機しておればいつかはデスコと再会すると判断し、彼が今宵乾杯の音頭を取った主賓であると知って話しかけてくる悪魔たちをあしらいながらひたすらに、ヴァルバトーゼは見知った仲間を見つけようと目を皿のようにしていたのだが、そんな青年に声をかけたのは悪魔の少女ではなかった。当然、人狼でもプリニーもどきの少女でもない。
「ああもう、お前こんなところにいたのかよ……!」
 特徴的なパーカーを身に付けていないため誰かと一瞬眉間に皺を寄せかけたが、くせのある金髪と生まれつきの黒い肌、それと鼻に一筋付いた傷跡でようやく馴れ馴れしい少年がエミーゼルとわかって、吸血鬼は安堵の息をつく。
「小僧、お前か。礼儀知らずの見知らぬガキかと思ったぞ」
「……親の顔も見てみたいってか?」
 いかな皮肉かと吐き捨てるエミーゼルに、そんな意図が全くなかったヴァルバトーゼはほう上手いな、と感服する。素の反応を受けてしまい、気まずくなった少年は声の調子を落とした。
「暗にフーカやデスコと同じようなこと言うなよ。特徴ないって言われるの、結構ヘコむんだぞ……」
 周囲の悪魔たちも、ようやく割り込んできた少年がこの魔界の前大統領の息子とわかるとさざ波のように、とはいかずともそれなりに大人しくなる。エミーゼルはそんな周囲の反応は慣れきっているのだろう。訝しげなヴァルバトーゼの腕を掴んで、ともかくこっちにと強引にどこかへ移動させようとするのだが、急にそのようなことをされてこの吸血鬼が大人しく引きずられるはずがない。
「何をする、小僧。俺はここでデスコを待たねばならんのだ」
「うん、どうしてだよ?」
「うむ、よくぞ聞いてくれた。実はだな……」
 エミーゼルの手を振り払った吸血鬼は簡単に事情を説明して自分の行動の正当性を示そうとしたのだが、この少年はヴァルバトーゼに比べて意固地でもないし主催側としての肩書きも背負っている。宥めるように頷くと、また彼の腕を掴んで移動を促した。
「ああ、わかったわかった。あとで誰かにどうにかするから、お前はこっちに来いってば」
「……誰の影響かは知らんがお前も強引になってきたな。せめてどこへ行こうとするのかくらいは話すのが道理だろうが」
 少年にしては珍しく焦りの色が見える方法に、ヴァルバトーゼが少しだけ苛立ちながら抵抗を示す。この詰めの甘さがどこまでデスコに影響を及ぼしているかは知らないが、いかに小さなことであっても自分の過ちを自覚させられると彼はどうにも落ち着けなかった。もとからそんな性格だった可能性も多分にあるが、四百年前の出来事がそれを決定付けたのだろう。
「……それは。言えないってことで察しろ」
 しかしそんなヴァルバトーゼであっても、エミーゼルのその仕草と言い回しには普通と違うものを感じ取った。彼らのやり取りを遠巻きに眺めたり盗み聞きをしていた悪魔たちなら、更に明確にその意図を理解できただろう。途端、周りの空気に緊張感が滲んだものだから、吸血鬼は野暮なギャラリーに軽い呆れを覚える。
「成る程……。お前や周囲にとってそれは大切らしいが、俺には俺で優先すべきものがある」
 やんわりと少年の背後にいる人物との会合を蹴ったヴァルバトーゼに、周囲がざわめく。しかしエミーゼルのほうはそんな能天気かつ野次馬根性な反応で済ませられないこともあり、降参したように肩を竦めた。
「じゃあ、ボクがお前の代わりにデスコを捜しておいてやるって約束するから……お前は今は大人しくボクについて来てくれ」
 さらりと約束を持ちかけられ、ヴァルバトーゼの気合いがそがれる。少年は吸血鬼自ずから約束の大切さを教えた悪魔だから、自分から約束を破るような真似はすまい。その点に疑いはないのだが、どうにも尻の据わりさが拭えなかった。
 しかめ面をはばかることなく作ってみせた吸血鬼に、エミーゼルはこれは更なる説得を重ねる必要があると判断して吐息と共に言葉を重ねる。
「それに、お前ここのことあんまりよくわかってないだろ。ボクならこのホールのどこに何が設置してあるかくらいは頭に入れてあるし、ボーイやプリニーのネットワークも使える。一人でどうにかしようとしないで、適切な処置が出せるやつに任せておくのが一番いいぞ?」
 ぐうの音も出ないほどの正論を受け、頑固であったヴァルバトーゼもようやく折れた。確かに場所だけではなく人材面でも有効活用できるのならば、下手に自分で解決しようとするよりそちらに任せたほうがいい。
「……よし。デスコについてはお前に任せておこう。それと、あやつに心細い思いをさせたなら俺の責任だ。見つけたら俺が謝っていたと伝えてくれ」
「わかったよ。……ほんとお前って変にまめで意固地だよなあ」
 心底呟かれるも、それを今まで誇りとしてきたヴァルバトーゼは肩身の狭い思いなど抱くはずもない。平気な顔で少年の背を促してようやく移動を開始する。
「まめと言われるほどではない。自分の尻拭いは自分でするのが普通だろうが」
「普通かあ……? まあ、今ならその気持ちもわからなくはないけどさ」
 吸血鬼の前を歩きつつ小首を傾げたエミーゼルは、相手の視線を気にしてか少し言い辛そうにぼやく。過去の無責任な自分を恥じている態度に、ヴァルバトーゼは成長の証を見て取るが少年の矜持を重んじ無反応に程近い表情で言い放った。
「そうとも普通だ。それにお前の父は、俺よりも勤勉で生真面目で責任感を持つ悪魔だったぞ。お前ならばそれくらい知っているだろう」
「…………うん」
 父親のことをかように表現されて、エミーゼルは僅かにくすぐったい心持ちで頷く。彼の執事と違い、ヴァルバトーゼが少年の父を王として、為政者として評価していたことは知っているが、こうも真っ直ぐな評価を下されると照れ臭くなった。そうなってしまう原因は、大統領の座を退いた今になってそんな評価を受けることか、それともこの吸血鬼の青年が父を褒め称えたからかはわからない。
「お前は……本当に父上のこと、認めてたんだな」
「当然だ。プリニー教育係が俺にとっての天職であるのと同じくして、多くの悪魔を従え上に立つ魔界大統領の座が、奴にとっての天職なのだろうと思っていた」
 どこぞの人狼ならば聞き流しそうな発言だが、前半はともかく後半は諸手を上げて賛成する気持ちでいたので少年は苦い顔ながら顎を引く。しかしそれが父のもとに向かっている今でさえ、過去形として語られているのは多少――。
「……思っていた、か」
「ああ。……仕方あるまい、倒したのは俺たちだ。今もそう思っているなどと言えば、むしろそれは奴への侮辱となろう」
 魔界の秩序はまず『力こそ正義』の一言から始まる。だからこの魔界を統べる頂点、魔界大統領は絶対的な力を持つ悪魔であらねばならなかったし、現在は例外がその座に収まっているが本来今もそうあるべきだ。そのためヴァルバトーゼは残酷であっても、死神王と謳われたその悪魔をもう大統領として相応しくない人物として呼ぶ。それがこの魔界の掟であり、魔界大統領を引退しながらも生き永らえた悪魔の末路であるため。
 無論のことながら、エミーゼルもその理屈は理解している。父の苦悩を知ったのちは現大統領を倒し、自分こそが次期大統領になろうと割り切れるくらいにはなれた。けれど今の父の心情を思うと、少年の胸にふと湧き上がるものもある。
「あのさ……怒らないで聞いてもらえるか」
 少年の悪魔の声音が微妙に落ち込んだのを察して、青年の悪魔は短く相槌を打つ。その反応にエミーゼルは改めるべきではなかったかもしれないと、前置きをしてしまった自分に後悔しながら唇を軽く舐めた。
「たまに、ほんとにたまに思うんだ。もし……、『断罪者』が生まれていなければ、魔界を牛耳って弱体化させようとしなければ、父上やボクは、今頃どうなっていただろうって」
「小僧、それは」
 吸血鬼の声に強張りが生まれる。短くとも非難めいた響きに、やはり言うべきではなかったと思いながら慌てて少年は首を振った。
「い、いや、あいつを責める気はないぞ! ボクだってあいつが四百年間頑張ってたのは聞いてるし、あいつが完全に悪いなんてことは思っていない!」
「……わかっている。お前が本当にあいつに悪意を持っているならば、今この場で名前を言うはずだからな」
 意図を読まれ、エミーゼルは安堵の息を吐きながら歩を進める。その通り、『断罪者』が生まれた原因までは現在魔界には知らされていない。『恐怖の大王』に潜った一部の面々、つまりヴァルバトーゼを始めとする一行だけが知る秘密。魔界が腐敗した原因の人物と、関節的な原因でしかなかったにせよそれを誕生させてしまった原因の人物の真相を知れば、彼らを責める悪魔が確実に出てくる。そして現在その話題を引っ張っているふたりの悪魔は公衆の場にいるため、女のほうの名前を出すのは彼女を何よりも危険に晒す行為となった。
「……でさ。それだと今みたいに『畏れ』エネルギーの問題も深刻じゃなくて、父上は立派に、魔界にこの悪魔ありと言われるくらい堂々と、末永く統治していたんだろうと思う」
 ヴァルバトーゼの表情から柔さが消え、代わりに険しさがどことは言わず現れる。それを背中に受ける視線で感じ取っていながら、少年は一度だけ、短く息を吸った。
「けど、それだとボクは、今頃あのときよりもっと酷い奴になってたんじゃないかな」
 吸血鬼にとって不意の一言であったらしい。息が詰まる音が聞こえた代わりに足音が消えてしまい、エミーゼルが振り向くと予想通り。そこには軽く目を見開く、暴君のなりをしたヴァルバトーゼが立ち竦んでいた。彼の反応に、少年悪魔は大げさな反応だと薄く笑いながら先行する。すると、彼も我に返ったか多少歩調を急かしてついてきた。
「……不安にさせるものがないんだ。多分、死神としての役目ができていたとしても、お前たちと初めて会ったときより、もっとへたれなのに傲慢で屑な性格になってたかもしれない。それは悪魔として正しい性格なんだってのはわかってるんだけど、やっぱりボクは、そうならなくて良かったと思ってる」
 そう思えば『断罪者』による余波を受け、逆境続きに見舞われた今のエミーゼルは幸福と言えた。甘ったれた性根を叩きのめされ、成長を促され、現在の少年は血縁の繋がりによる利害を受け入れながらも魔界大統領を目指していられる。そうなってむしろ切欠を生み出してくれた誰かには感謝しているくらいだと、ヴァルバトーゼは理解できているだろうか。虚勢を張らねば同じくらい、複雑な気持ちも抱いてはいるのだが。
「ま、それはそれでやっぱり悔しいんだよなー。父上が魔界大統領として立派に憂いなく魔界を統治していられる状況と、ボクが父上の威を借りず死神として頑張れる状況とは、成り立たないんだなって思えてさ」
「世代交代とはそう言うものだ。……贅沢が過ぎるぞ、小僧」
 嘆息と共に冷静な指摘を受けて、エミーゼルはまあなあとのんびり笑う。
「多分、どっかの我ばっかり強くて協調性なんか欠片も持たない酷い連中の性格がうつったんだろ。ボクだって、自分でもわがまますぎるって思うくらいだしな」
「ふむ。かような連中との付き合いは、今後見直したほうが良いのではないか」
「ああ。自分でもそう思うから、追い追いあいつらとは距離を取るつもりだよ」
 その追い追いがいつになるのか、とんと見当がつかないのが目下の悩みだが気にするまいとエミーゼルは自分に言い聞かせると、とある垂れ幕の前で立ち止まる。ようやく目的地にまで到着したのはいいのだが、ここで一つ彼は伝えておくべき言葉を思い出し、くるりと吸血鬼のほうへ体を反転させた。
「そうだ、ヴァルバトーゼ」
「どうした」
 吸血鬼の表情からは全く気にしている様子など伺えはしないが、それでも少年は一応気になってしまうから人差し指を自分の唇の前に立てた上で垂れ幕をめくり、その奥の壁に手を入れる。黒大理石のはずの壁を湖面のように揺らめかせながら、エミーゼルは頼んだ。
「あいつには、さっきの話言うなよ」
「……ああ、言わん。約束する」
 ヴァルバトーゼの完璧な返事を聞き、少年は満足げに頷くと共にまた体を正面に戻し奥へと進む。
 壁の向こうは小規模ながらも趣味の良い応接室で、しかし窓を開け放っていたそこには誰もいない。それでもエミーゼルは僅かに緊張に身体を硬くして、背後の吸血鬼と窓の向こう、テラスに腰掛ける恰幅の良い悪魔を意識しながら腹の底から声を出す。
「ヴァルバトーゼをお連れしました、父上」

◇◆◇

 主を捜している最中なのに、耳に届いたくしゃみの声は女の、しかも忌々しくもしっかり記憶にあるもので、フェンリッヒは思わず怪訝な顔を隠しもせずにそちらに視線をやる。すると悪い予感はしっかり的中し、ベスト姿で上着を着込む、桃色の髪を一まとめにした男装の娘と目が合うのだから今日は厄日と記録しても構わないほどだと思い知らされる。
 ここで無視してまた雑踏に紛れることもできはしたのだが、改めて時計を見れば恐らくにもう人狼の主が前大統領と会合中の時間のはずだ。このまま相手を見逃した結果、謎めいた天使の力を発揮し密会を発見されてしまうのも些か困る。なればと判断したフェンリッヒは、絹手袋のもう片手を探している彼女に嫌々ではあるが声をかけた。
「ついに追い剥ぎにでも遭ったか、泥棒天使」
 アルティナは話しかけられるとは思っていなかったのか。ポケットの中を探りながら、軽く目を瞬いて渋い顔の人狼の青年を見上げる。青い瞳に自分の姿が映っていると目視するだけで、彼の口の端から重い吐息が漏れるが悔いたところで今更遅い。
「……似たようなものですわ。けれど、どうにか無事に逃げおおせたので良しとします」
 確かに絹手袋を片方だけの被害ならまだ軽いと言えるだろう。つまらない結果に鼻白むフェンリッヒではあるが、彼女の体臭にしてはむせ返りそうに甘く、粘っこい官能的な空気に何事かと軽く身構える。それを受けて、心当たりがあるらしいアルティナは乾いた笑いを漏らした。
「一応熱は完全に引いたのですけれど、まだ残り香は酷いみたいですわね。……あまり近付かないほうがよろしくてよ?」
「言われずとも、お前に近付くつもりはない」
 だがある程度引き止めなくてはならないので、人狼は結果的に彼女の言葉通り距離を取ってその隣に立った。天使は小首を傾げるものの、無言で衣服についた皺を手で払う。
 そうやった上で改めて背筋を伸ばし口を閉じれば、成る程。フェンリッヒの目からであっても、今の天使は壁の染みをやっているには違和感を持つ程度に貴公子然としていた。おおかた色狂いの女悪魔に迫られでもしたのだろうと察すると、彼はそのままそちらの世界に帰ってこなければいいだろうにと思わずにはいられない。
「容受が天使の信条だと思っていたがな。お前は相手の求めに応じてやる慈悲などないらしい」
「生憎、わたくしは殉教者と言えるほどお人好しではありません。信念は持っていますけれど、自己犠牲の線引きくらいはしますわ」
「はん。四百年、閣下を差し置いてたった一人の人間の男のみに奔走したのも、その高慢な信念とやらが原因か?」
 人狼の冷ややかな言葉に、アルティナの頬が僅かに強張る。青年悪魔はその反応を見受け、そこを突く気はなかった、などと自己弁護めいたことは考えやしない。むしろいつか聞かねばならなかった話だから、天使の表情の変化を一時たりとも見逃すまいと目を細める。
 フェンリッヒの放つ威圧を気にするつもりもないのか。アルティナは軽く瞼を伏せて静かな表情のまま、だがはっきりと顎を引いた。
「ええ。彼はわたくしが信念を貫いた結果に生まれたものですから。その尻拭いをするのは、わたくしでなければならないと思うのは当然のことでしょう」
 その当然のこととやらができなかっただろうがと、フェンリッヒは鼻で笑い飛ばす。できなかった理由は知っていたが、それでも青年は彼女に対して同情など示す気になれなかった。この天使があの人間のために足掻いた四百年は、つまり人狼の主が血を絶つ苦しみと屈辱に見舞われた四百年でもある。恨みこそすれ、憐れみなど誰ができようものか。
「とっとと諦めてしまえば良かったものを……。貴様が無駄に足掻いたせいで、閣下は四百年経った今でも魔力を取り戻されん」
「あら。それはわたくしが早々にあの方に頼れば良かったのに、と言う意味として受け取っても構いませんの?」
「ふざけたことを抜かすな」
 とは言いながら、実際にそんな場合があればまだ今よりもこの天使に対する憎しみは薄く、また主もとうに魔力が戻っていたかもしれないと人狼の冷静な部分は判断する。彼女の存在自体を忌々しく思っているフェンリッヒにとっては、そこまで冷静な部分など数多に巡る思考の一筋程度でしかないが。
「ふふ、そうですわよね。わたくしが引き起こした問題なのに、約束を交わしただけのあの方にそこまで頼るなんて……おこがましいにも程がある」
 アルティナの声は人狼が踏み込んだ問いをしても普段通り柔らかく飄々としていたはずなのに、最後の一言だけは奇妙に重々しい。その重みは覚悟とも責任感とも言い換えられて、フェンリッヒは内心舌を打つ。この女の根が生真面目で、融通が利かないと表現できるほど頑固な点は、彼であっても否定できない。それはいやがおうにも、彼が誰よりも重んじ自分のすべてを捧げる対象たる吸血鬼の姿勢を連想させる。
「けれどそう思ってずっと行動していたのも、結果的に無駄になってしまったのは、……いえ、仕方ないものとして受け入れるしかないのでしょう。今どれだけ後悔したところで、過去は変えらないのですし」
「その通りだ。だからこそお前はとっとと天界に帰り二度と魔界に足を踏み入れるな。もしくは閣下に約束を反故にしても構わないと説得した上で独り喉を掻っ切れ」
「そんな方法であの方を放っておいてしまった罪が償えるなら考えないこともないのですけれど、それで溜飲が下がるのは狼男さんだけでしょう?」
 だからお断りしますと、死ねと言われても笑みさえ含んだ口調のままアルティナは人狼の提案を蹴る。どうせこうなることは予想していたフェンリッヒは、全くもってつまらない受け答えにわざとらしくため息をついた。無論こんなことで彼女の心が痛むはずがないと、彼は知っているがそれはそれ。
「……ですけど、あの方に甘えっ放しの現状も、わたくしにとってはなかなか心苦しいものがありますのよねぇ」
 アルティナにしては苦く、心の底からの本音と表現できるであろう言葉に、人狼は少しだけ瞼を震わせる。この天使が弱音、ではないがそれに近い愚痴を吐くなど、誰が相手でも想像できなかった。俯いた女は、彼の視線に気付きもせず短く吐息をつく。
「今回でよく学びましたわ。赦されるとは、つまり自分で自分の罪を決めねばならなくて……それだけとても大変で難しいことなんだって……。相手が大切なひととあれば、尚更に」
 アルティナの脳裏には、生前ささやかな幸せと憧憬を感じた悪魔と、改めてふたりきりで話したときのことが思い返されていた。自分との約束のせいで地獄に堕ちたこと、四百年苦しませてしまったこと、それらをどうにか謝ろうとした彼女に、あの吸血鬼は静かな声で約束を守っただけだと罪そのものを否定した。
 特別扱いを受け、嬉しく思わないものはいない。それはアルティナも例外ではないが、かと言ってあなたがそう仰るならばそうなのでしょうとあっさり気持ちを切り替えられるのかと言われればそうではなく。大切な思い出のひとが相手となるなら、更にその今まで味わった苦しみをどうにか和らげたいと強く思うし、そのためなら何だってする覚悟があるのに。やり場のない責任感だけが、彼女の心を締めつける。
「……狼男さんが仰るようにこの命でもってその罪を償えるなら、わたくしは結構喜んでこの身を投げ出しますけれどね。今そんなことをしたとしても、きっとあの方は俺に約束を守らせない気か、なんて怒るんでしょうし」
 その姿ならばフェンリッヒとて想像できた、否いつかのことを思い出した。この天使が厄介な病魔に侵された悪魔の攻撃から彼の主を庇ったとき、気を失っていただけなのに酷く吸血鬼は取り乱して。女を抱え上げ周囲に有無を言わせず地獄に連れ帰り介抱を命じたその様子が、痛みを伴い彼の胸に蘇る。
 対して人狼が演技とは言え死にかけたとき、吸血鬼はどうした。ああそうだ、取り乱したとも。あの天使が倒れ伏したときと勝るとも劣らないほどに、死ぬことを許さぬと、約束を違えるなと怒りと悲しみを滲ませて。しかし最期の懇願を、忠義に対する見返りを求めたフェンリッヒに、慈悲深くも誇り高い『暴君』はどう応じた?
 アルティナは自分が死んでしまえばあの吸血鬼が約束を守らせないことに怒るだろうと予想する。だからそう、人狼の主はこの娘が大切なのではなく、約束を守ることに固執するのだと、フェンリッヒはまだどうにか信じられていた。その点この女は弁えている。吸血鬼の約束の女としての地位を崩さず、あの気高き悪魔に約束を破らせるような真似を、自分は特別な存在なのだと周囲に知らしめる真似をしなかったし、しようともしないのだから。
 けれど人狼はした。吸血鬼にとって特別が許される傲慢さを抱いているからではなく、それが忠実なる僕として正しい行動だと信じているから。ときに直球に懇願しときに狡猾に企み何度となく約束を破らせようとして、そのたびに吸血鬼にとっての約束の重みを思い知らされた。そう、約束の重みだ。決して、絶対に、約束を交わした人間の娘への固執ではないとフェンリッヒは今も信じている。でなければ、彼の忠誠は。
 ――そいつを忠誠と呼ぶのかい、お前は?
 ぬばたまの声が耳に蘇る。『道化』の魔王、忌々しくも鮮やかな紅玉の、総てを見抜いているかのごとき嘲笑を含んだ視線が、騒がしくも着飾った悪魔たちを見つめるはずの人狼の目にも確かに顕れる。それを打ち払う言葉と気持ちを、忠義を誓う相手から確かに得たのに、励まされたはずなのに、今の彼にそれらは黒い楔の傷痕痛む胸にまで響かない。
 何故なら人狼の忠誠がまことに清く忠誠と言えるのだと、芯から思えないのは彼も同じだから。しかしあの満月の夜、命を救った『暴君』へと抱いた気持ちを心酔、もしくは畏敬や崇拝と呼ばねば今までの彼の総ては無駄に、間違っていたことなってしまう。それが恐い、彼にとっては何よりも。
「……本当、よく似てらして」
 なのに耳に飛び込んできた女の声は不意にフェンリッヒの頭の中にまで届き、しかし意味が掴めないため弾かれたように顔を上げた彼の視界には憎むべき天使の笑みが映っていた。こちらを見上げ、ほろ苦い目元に浮かぶ微笑には青年の心境など一滴たりとも汲んではいない。なのにどうして、そんな顔をするのか。
「少なくとも四百年以上、ずっとおそばにいましたものね……。本当、狼男さんたらあの方に似て頑固ですこと」
「……何だと?」
 それは人狼こそがこの女に抱いてしまった印象だと言うのに、アルティナは少し複雑そうに彼から目をそらし、次にふうと高い声を一つ漏らした。
「随分と難しい顔をなさっていたんですもの、どうせ考えていたのでしょう? あの方が納得できる上でのわたくしの追い出し方とか、約束を反故にしても構わないやり方とか……あなたなりの信念を貫く方法を」
 掠りもしない予想だったが、その読み違いこそに救われてフェンリッヒは心底安堵の、しかし外見上では不快さを前面に押し出した息をつく。精神的には取り繕う余裕はまだないかもしれないが、この世にいる誰よりもアルティナだけには、胸にわだかまる感情を悟らせたくないから無理をして。
「当然だ。オレは貴様が閣下と交わした約束など認めない。たかが三日しか会っていない人間の女風情にあの方が縛られるなど、あってはならん」
「はいはい、よくわかっていますとも」
 肩を竦めて天使は苦笑する。その余裕が、それ以上に彼が自分に言い聞かせた言葉自体が更に人狼の癪に障るとも知らず。
 そうだ。三日。たった三日でそれまでフェンリッヒが仕えた年月を越える影響力を与え、以降四百年彼の主を鮮やかな手際で拘束した女に、彼は吐き捨てる。
「あの方を誰よりも理解し、あの方の隣にいて当然の権利を持つのはこのオレだ。ただの三日しか出会っていないお前に、あの方の隣に立つ資格などない。……お前は、閣下を縛る忌むべき約束の女でしかない!」
 それらの言葉に間違いはなく、なればこそ自信に満ち溢れているのが道理なのに、理由もわからず猛烈な虚しさを覚えたフェンリッヒは天使から顔を背けてそのまま歩き出す。それは言い逃げだと誰かが指摘したのならば、公の席であっても彼は自らの戒めを解いて黒い獣の姿で暴れ回ったかもしれない。けれどその耳に聞こえてきたのは、今最も彼が恐れるのにやけにはっきりと響く、やはり忌々しいままのあの女の声。
「……ええ。だからわたくしは、あなたが羨ましい」
 立ち止まりかける。振り向きかける。だがそうはすまいと自らに強く言い聞かせ、フェンリッヒはひたすらに前を向いて天使から距離を取る。腸が煮えくり返って仕方なかった。怒りのあまり口の端がつり上がりそうになって、薄く開いた唇から確かに引きつった笑い声が漏れる。あの女が自分を羨むなんて、今まで聞いたどんな話よりも滑稽で、愚かだから。
 しかし知るまい人狼の執事よ。事実天使は羨んでいた。四百年を越えて吸血鬼のそばにいられた彼のことを、いつも隣にいることが許されるその立場を――強く想うひとのそばにいられれば、それだけで十分に幸せだと彼女は思うし、今もまたそう感じていたから。急に遠ざかってしまった悪魔はその幸せを当たり前のものにしているから、それにも気付かずあんなに泣きそうな声でいたのだろうと判断して。
「悪魔なのですから、傲慢だの欲深いなどとは……言っても責めることにはなりませんわね」
 やれ仕方なしと人狼の後ろ姿が見えなくなるまでぼんやりと眺めていた彼女は、緩く首を振る。あの悪魔の最後の一言は、吸血鬼との再会を果たして以降ずっと彼女の中で繰り返した文句と一文字違わず同じで、だからこそ彼女は漏らす気もなかったのに本音をついつい口に出してしまった。
 約束の女でしかない。そうともその通り。だから彼女もまた自分の胸にわだかまるおこがましさを自覚させられて、そんな醜い自分に呆れの息をつく。
 このまま大人しくしているのが無難なことくらいわかっている。けれど眼前であんなわがままを見せつけられて、大人しく受け流すのも少々癪に障るもの。なれば自分もちょっとは欲を出してみようかと頭の中を切り替えて、とっととアルティナも退散する。ひとりの吸血鬼に対し、強く想うが故に強く互いを羨む男女が言葉を交わした場所から。

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20:39

2011/07/06

 綺麗なもの輝かしいもの整ったものばかりに見慣れると、今度は醜いもの目を疑うもの奇抜なものに目を惹かれてしまうのは個人の趣向の問題か人の性か。引き締まった男性悪魔の黒い裸の尻を目で追い、金髪碧眼の美少年を守るように蠢く生ごみの集団を発見した少女は、次にどんな悪魔が見つかるだろうと期待していたのに。野暮な声が彼女の集中を阻害する。
「お前っっ! ちゃんとデスコ探してるのか!?」
「もー……当たり前でしょ。でなきゃこんなあちこち見て回らないっての」
 こんなときでもお堅いエミーゼルに、フーカはやれやれと落胆の息をつきながらも背中に迫りくる気配に身を翻す。それで少女はどうにか脳天気なカップルとの接触を避けられたのだが、彼女の腕の中にいる少年は情けない悲鳴を漏らして細い肩にしがみついた。
「フーカっ! パートナーを振り回してどうすんだよ!」
「振り回してなんかないわよ。ちょっとよそのやつとぶつかりそうになったから避けただけ」
「ならもうちょっとタイミングを見極めてからやれ! お前さっきから独りよがりな動きばっかりしてるから、こっちは足踏まないようにするので精一杯なんだぞ!」
 ぶつかりそうになったのを避けたのだから感謝の言葉の一つくらいあってもいいはずなのに、反対にぎゃあぎゃあとわめき立てられて、フーカは幻滅しながら少年を回旋させる。すると彼は慌ててそれに従い口を噤むのだから、少女は相手がうるさく感じたらこれを使おうと思い立った。
「……お前、なんか今やなこと考えただろ」
「そんなことないわよ? あんたってば結構、被害妄想激しいわよね~」
 誰の影響かさらりと嘘をついて、フーカは今度こそ集中しながら彼女の妹を雑踏の中から見つけだそうとする。エミーゼルは彼女の顔つきが変わったことを見止めて、ただちに自らもまた周囲に気を配りながらちらちらと辺りを見回した。
 いつの間にか妹とはぐれたと知ったフーカは、その名を呼びながらあてもなく彷徨った結果、エミーゼル、ではなく彼から仲間を捜すように仰せつかっていた給仕に捕まった。それからこの少年と合流し、彼もまたデスコを捜索中らしいから一石二鳥だとソファに座って報告を待っていたのだが、時間は無駄に過ぎるばかりでなかなか芳しい報告が返ってこない。
 ならもう自分たちが探すべきだと待つのに飽きたフーカは立ち上がり、ノルマ消化も兼ねつつ縦横無尽に動き回れるからと言う理由で隣の少年を踊りに誘った。そこまでなら、エミーゼルもまだ大人しかった。
 重い腰を上げ、給仕たちに自分はここにいると指定した場所を再度確認してから、そのように躾を受けている少年は優雅な仕草でフーカの手を取り会場中央へと向かおうとしたのだ。なのにそこで少女はとんでもないことを提案した。
「ねね。あんた女役やんない?」
「……はぁ?」
 呆気に取られたエミーゼルを尻目に、少女は天使に教わって以降男性役に興味があったこと、三回も女役をやらされてそこそこ飽きたこと、しこたま尻尾で足払いをしてきたのに男役を貫いた妹のステップの出来がああなら自分はどうなるだろうと疑問を抱いたこと、もうそろそろ自分のペースで踊ってみたいこと、などを理由に挙げ説得を始めた。
 当然、好奇心が疼いた程度で足をヒールで抉られたくない死神の少年は、必死で首を振ってその案を却下した。なのにフーカは最後にもう一つ、と止めとばかりに少年をちらと見下ろして。
「あと、あんたアタシより背低いし。いくら丁寧でも背の低い男にエスコートされるって、ちょっとねぇ……」
 成長の問題なんだから仕方ないだろう、とエミーゼルが猛然と抗議したが、それではいそうですかと受け入れるほどフーカは寛容ではない。結果的に少年が折れる羽目になり今に至る。
 当然、三回踊った程度で男性側の足さばきなど覚えられるはずがない。フーカもその点は理解しているので複雑なステップを踏むのではなく、先行してあちらこちらへと回旋しながら移動することに重点を置き、同じく踊るカップルたちとの接触を避けつつ好き勝手に移動して男性役を楽しんだ。
 だがそんな人間の少女に振り回されるエミーゼルの苦労は尋常ではなく、ついていくのに精一杯。たまに姿勢を崩してパートナーの身体に接触しそうになっては、慌ててそれを避けて背筋を正し、休む暇もなく自分の足を無意識に狙ってくるようなヒールのほうも避けてと大変だった。そんな状態なのにデスコ捜しも忘れようとしないのだから、この悪魔の少年の根の真面目さが伺える。
「で、そっちはいた?」
「……いない。全く、あいつどっか別のホールで飯食ってたりするんじゃないのか? それか外に出たとかさあ」
 少女は多少速度を落ち着けてエミーゼルに訊ねたものの、返ってきたのはさっきと同じ実のない返事。確かにこの大ホールの中央部、最も見通しの利くはずの場所で色々と見て回ったはずなのに、あのくすんだ紫の小さな頭がとんと見えないとあっては別の場所に移動した可能性もなくはない。
 だがデスコはフーカほど脳天気ではないし、姉をよく慕うため姉と離れることも厭う。さっぱりしている性格の自覚がある彼女でさえ、一人で妹を探しているときは心細くなったのだ。あの甘えたがりの妹なら、その気持ちは尚更だろうと彼女は確信していた。
「それはないわよ。多分、あの子もこっちでアタシらを探してるはず。……それでもこうして会えないってなると、余程運が悪いのね」
「幸運値低いラスボスって……ああいや、ラスボスなんて大体そんなもんか?」
 生まれ育ちはともかく、要所で不幸や絶望を味わったからこそラスボスになるのだろうかと判断したエミーゼルに、どうかしらねぇとフーカは疑わしげな声を漏らす。
「あんた、踏んだり蹴ったりな振り回されキャラだし、そっちの運の悪さが原因じゃないの?」
「どうしてそうなるんだよ! お前だって、蓋を開けたらヒロイン(笑)だっただろ!」
「あれはアタシのせいじゃないし! フラグ立てんの邪魔したフェンリっちとイワシ・約束一辺倒なヴァルっちとそれまでのキャラ立ち総ざらいでヒロインポイントに換えたアルティナちゃんが悪いの!」
「他人のせいにするなよ、しかも後半に伏線回収する主要人物だぞ!?」
「それ言うならアタシだってそうだもん! アタシいなかったらデスコが生まれもしなかったのよ!?」
「お前ほんっっと大人げ……いや、こいつガキか。そうだなガキだったな」
「ガキのあんたがガキガキ言うんじゃないわよ!」
 まあそんなやり取りをしながらも躓きもせずぶつかりもせず――後者についてはほかの賓客たちがあえて避けた疑いもある――旋回していたふたりだが、ふとフーカの目にとあるホールへの通行口が目に入って姦しい会話が止まった。
「……あ、そうそう」
 自分の側からは背になって見えないので、少女が何を思い立ったかわからないエミーゼルは相手の表情が変わったことに眉を跳ね上げながらも首を上げる。そう、少年としては悔しい話が彼女の指摘通り、パートナーの頭の位置のほうが自分の視線よりも高いため見上げてしまっていた。
「ありがとね、エミーゼル。スイーツ、色々わがまま叶えてくれてさ」
 真正面から、しかも踊りながら感謝の言葉を捧げるなんてちょっと仰々しい気がして恥ずかしいけれど、やっぱり思い出した今伝えておくべきだと判断したフーカは、言ってエミーゼルに笑いかけた。
 しかし恥ずかしいのは少女だけではない。誰かに真正面から感謝されることさえ珍しいのに、しかも相手があのフーカで、更に今は着飾っているため別人めいている彼女にそんなふうに笑顔を見せられるのは、エミーゼルでさえ居心地の悪さがこみ上げてくる。少年は思わず、相手の足さばきを見ることさえ忘れてそっぽを向いた。
「べ、別にいいよ……そんな、改めて言わなくてもさ」
「や、今言わないと忘れちゃう気がしてね~。ついでに、お礼の気持ちも込めてアレやってみたかったのよ」
 前半まではなら良かったのに、後半の台詞に妙な予感を覚えたエミーゼルは、このときはまだ首を傾げるだけの余裕がある仕草で受け答えができた。
「アレって?」
「見てなかったっけ。アタシとアルティナちゃんが踊ったときにやってたやつ。ほら、あのお姫様抱っこしてからぐるぐる回すアレよ」
 フーカの無邪気な説明に、ぞわと少年の首筋に悪寒が走った。女相手に公衆の面前で姫抱きをされることだって恥ずかしいのに、今この速度で立ち止まりもせずそんなことをされるなんて、失敗の予感しかしない。
「いいよそんなもん! て言うかそれ、男相手だと礼でもなんでもないぞ! お前がやりたいからやるってだけだろ!」
「あ、わかる?」
 あっさりと肯定されて、エミーゼルは本気で唖然とした。血を吸わない吸血鬼を始めとする不可思議な一同に驚かされたのは数えきれないが、今このときの衝撃はそれらの記憶の中でも五指に入る程度には強い。もう一度繰り返すが相手はフーカなので、振り回されることも珍しくないがそれにしたって限度がある。
 しかしフーカは相手のことを全く気にせず、大人しくなったのを好機と見て片手を軽く掲げて、もう片手を独楽紐のように使いエミーゼルを力任せに勢いよく弾く。
 我に返った悪魔の少年が、半ば足を浮かしそうになって悲鳴を上げながらどうにかバランスを崩すことなく旋回し、そうしてまた重力の法則によってフーカの腕に戻ろうとしてきたところで、少女は相手の膝に手をやってからがくりと崩れ落ちかけた肩をもう片手で掬って持ち上げる。そこで金色の瞳と不意に目が合ってそちらを勢いよく振り向いた、のだが。
「あ」
 エミーゼルを取り巻く時間の流れが急激に遅くなる。さっきから肝を冷やし続けていたから時間の流れはもとより遅く感じていたが、この瞬間は時間が停まったと言えるほど。
 無理くり全身を傾けられ、微かな冷気を普段感じない部分で感じながら、少女の腕に体が触れた自覚を得たのも束の間。旋回からの勢いを保持していたためだろうか。急に体ごと引っ張られるような強い感覚が頭の先から靴の先まで少年をどこかへと導いて、彼の全身は風に包まれた。――いやお前、戦闘中そんな投げくせつけてたか。などと言いたくても舌は錆びたように動かず。
「……あれ?」
 気付いたときにはフーカのかいなに少年の重みは皆無だった。滑り落とした、ならまだいい。だが現実はそれ以上。普段から馬鹿に巨大な斧だの大剣だのを平気で掲げ振り回しているフーカに腕力があるのは否定しようがなく、ついでに仲間をどこかへ投げ飛ばすことも割合と平気で、慣れていると言えた。まあ、無意識でうっかりやってしまうくらいには?
 ともかく、ともかく。エミーゼルを抱えた勢いが強かったのか余程運が悪かったのかいつものくせがつい出たのか。少年の体は宙に浮いた。フーカの腕から解き放たれてそのまま飛んだ。まるで野球のボールのように。
「わぁぁああああああああ!?」
 この祝宴の主催者である前大統領死神王ハゴス、の息子の悲鳴が豪奢なホールに響き渡る。それでも悪魔どもの賑やかな声や音楽は止むことはない、どころか全員気付いているかも怪しい。それくらい少年はこのホールにはちっぽけな存在だったし、また天井に届くほど浮遊してもいなかったから目立てなかった。いやまあ、目立つ目立たないの問題ではないか。
 とりあえず、自分が見えない位置にまでパートナーを放り投げてしまい愕然と立ち尽くす少女に、意外と現実は優しかった。一連の事件を目撃した悪魔たちによる時間が止まったような静寂がフーカ周辺を包んでいたのだが、そんな彼らの耳に遠くから何かがぶつかった音やら壊れた音やら聞き覚えのあったりなかったりの悲鳴のあとに、死神の少年の怒号が届いたのだ。
「フゥゥウウカァアアアッッッ!!!」
「…………ぁ!」
 エミーゼルのものにしては初めて聞く、地を這うような怒りに満ちた咆哮ではあるけれど、相手が無事と知りフーカはようやく息を吹き返す。彼女の周囲も同じく、少年の声のおかげで緊張感がほうと霧散し、周囲のカップルたちはおずおずとワルツを再開し始めた。
「お前っっ!! あとでそっち行くから、動くなよ!!」
「うん、わかったー!!」
 エミーゼルに負けないくらい声を張り上げたのに、フーカは言ったそばからのこのこと歩き始める。まあ場所が場所だ。言いつけを忠実に守ってぼうっと突っ立っていられるほど安全ではないため、壁際に移動するその判断は仕方ない。
 だが何故か。一連の事件の目撃者の一人である彼にとっては本気で何故なのか理解できずに少女は彼の前で立ち止まり、真正面から言ってのけた。
「フェンリっち、踊って!」
「断る」
 雑踏の中からしっかり自分を見つけられたフェンリッヒは驚いたものの一秒も経たず鮮やかに返事をしたのだが、フーカは盛大に眉をしかめて大きな落胆の声を漏らす。
「ええ~~~~!? エミーゼルがあんなことになったの、フェンリっちのせいなのに!」
「……おい待て。なんでそうなる」
 どう見ても少女に問題があって、どう考えても少女に責任がある事件だったろうに。周囲でフーカの主張を聞く気もないのに聞いてしまった第三者でさえ目を見張った発言に、彼女は案外真面目な顔で人差し指を立てて説明する。
「だってフェンリっち、アタシたちのこと見てたでしょ? て言うかばっちり目合ったわよね。それでアタシもあれっ? って思ってよそ見しちゃって、それでついついエミーゼル投げ飛ばしちゃったんだから。だからあれは、あんたが悪いの!」
「そんな話、誰が納得するか!!」
 無茶な理論の飛躍に頭痛を患いながら人狼が一喝するも、フーカは頬を膨らませて不満と抵抗を色濃く見せる。本気で青年が原因だと思い込んでいる顔だ。
「だってそうなんだもん! フェンリっちがアタシたち見なかったらそもそもアタシあんたに気付かなかったし。そうしたらエミーゼルもあんな華麗に吹っ飛ぶこともなかったし!」
「それなら前提としてお前があの小僧を抱えようとしなければいい話だろうが!」
「よし、見てたの否定しなかった!」
 嫌なところをしっかり食いつかれ、フェンリッヒは舌打ちをするがそれはそれだ。あの少年を投げ飛ばした少女にすべての責任をなすりつけられるほど致命的な問題ではない。
「それがどうした。見知った阿呆どもを見つけて呆れることの何が悪い。大体、あの小僧にお前の主張を説明したところであいつがそれを受け入れる訳がなかろうが」
「そうかな~? とりあえず七、三くらいでフェンリっちも怒られるんじゃない?」
 脅すつもりなのだろうがそれにしたって楽観的にも程があるフーカの笑みに、人狼は反論する気力も失せるほど脱力した。この現実を夢だと主張するときのように、誰がどうまともに説き伏せようとしたところで眼前の小娘はこのままの調子でいるだろうと思えば、さっき彼を襲った思考と比較して、見事に自分にだけ都合のいい思考回路にはいっそ羨ましささえ覚えてしまう。
「……勝手に言っておけ」
 だが見習いたいほどではないので、とっと彼女と距離を取ってしまおうと踵を返すフェンリッヒの片腕を、フーカはしっかり掴んで逃亡を阻止した。
 バランスを崩しはしなかったが不意を打たれたフェンリッヒは、眼光鋭く少女を睨みつける。いくら着飾っていようが上目遣いで見つめられようが、彼には性としての女の主張は効力が薄い。我が身を削るほど女との約束に囚われた悪魔に仕えているが故に、むしろ恨んでいると言ってもいい。
「逃げない! あと踊ってってば!」
「断ると何度言わせる気だ」
 これでフーカが慣れない媚びでも売っていれば、今のフェンリッヒは機嫌の悪さも相まってその細首に自由なほうの片手を回していたかもしれない。だが幸いにも着飾っているはずの少女は色気の欠片もない真っ直ぐな栗色の眼差しを彼に向け、言葉も普段の調子でいたため、彼は短く言葉を吐き捨てるのみで拒絶の意思を示した。それから僅かに会話をすることで冷静になった頭が、この状態を客観的に捉えた上での疑問点を浮かび上がらせる。冷静を超えて冷酷になってしまえばそのまま無言で腕を振り払えたろうに、人狼が次に取ってしまった行動は唇を動かすことだった。
「そもそも、どうしてお前はそこまで今オレと踊ることにこだわる。小僧がお前を探しに来るまでの時間稼ぎか? それともオレを道連れにする気か?」
「おっ、ナイスアイデア! じゃあそれで」
 フーカの目が煌めき、何も考えていないと正直に答えられるより疑いもなく何も考えていないと思い知らされた答えが返ってきて、人狼は天井を仰いだ。あまりの馬鹿馬鹿しさに頭痛さえ覚えかけ、ようやく腕に力を入れる気になる。
「とにかく断る。さっさと手を放せ」
「えぇー! ヴァルっちの前で言ってたじゃん! あんた約束破る気!?」
「『約束』は口にしていない。閣下にもお前にもな」
 そうして今度こそフェンリッヒはフーカの手を振り払えたのだが、対する少女はなかなかにしつこい。すぐさま翻った燕尾服の裾をつまむと――尻尾を触ろうとしない点は小さくも進歩と言えよう――、青年悪魔の腰の動きを止めて不敵に口の端を歪ませる。
「だったらヴァルっちにチクるわよ? フェンリっちがアタシと踊らなかったのーって。だから罰としてフェンリっちの魔ビリティにパワーオブエロスつけてって」
「それは止めろ!」
 反射的に声を荒げてしまったとフェンリッヒが自覚したときにはもう遅い。手応えを得たフーカはにやあと笑って人狼の燕尾服の裾を両手で握り、無言で脅迫する。本人はそこまで頭が回っていなかろうが、相手が勝利に酔いしれた隙を突いて逃げる術さえ封じられた悪魔の成年は舌を強く打ち鳴らし、忌々しさを隠しもせず頭を振って降参の意を示した。
「……付き合ってやるからいい加減に手を放せ。オレは服なぞさして気にせんが、閣下をみすぼらしい姿でお迎えしたくない」
「はいはーい」
 言われた通り手を放すが、やはり片手だけでもう片手はしっかり裾を握ったまま、フーカはエスコートしろと言わんばかりに青年の前に手を差し出す。ここまで徹底するとはわざとなのかと疑いかけたものの、そんな脳味噌はないと判断したフェンリッヒは嫌々その手を取った。
 ようやく燕尾服から完全に手を放したフーカは人狼の予想外に大人しくなったが、雑踏を掻き分けホール中央部にまで向かう足取りは幼い子どもめいて弾んでいる。その様子は嬉しさあまって、と言うより退屈をもてあました児童の一人遊びのようで、やる気がないはずのフェンリッヒは思わず手を軽く引いてそれを止めさせた。
「お前はガキか。少しは落ち着け」
「ん、あはは……。まあ、ちょっとテンションおかしいのはアタシも自覚あるのよね」
 適当なスペースを見つけて向かい合い、音楽が始まるまで軽く姿勢を正したふたりのうち人間の少女のほうがほろりと笑う。珍しく落ち着いた態度に、なら始めから自分でどうにか制限しろと悪魔の青年は眉をしかめた。
「そんな訳でさ、ごめんね。フェンリっち」
「……はん?」
 しかし次に聞こえてきた言葉とは繋がりが見出せず、思わず人狼がフーカの表情に目を見張れば、少女は居心地が悪そうに小さく肩を竦めた。それで今更フェンリッヒは、眼前の娘の体臭が微かに甘い女ものだと理解したのだが、薄荷に近い印象のそれに嫌悪感は不思議と淡い。
「フェンリっちが今日イライラしてんの、アタシのせいなんでしょ? だったら謝るわよ。機嫌悪くさせたまま踊ったらわざと足踏まれそうだし」
 そのまま多少落ち着いた会話が交わされるかと思ったのに、しみじみと自分の利害しか考えていないと告白されてフェンリッヒは匂いの不可解も忘れ呆れてぼやく。
「とにかく謝ればどうにかなると思っていそうだな」
「エミーゼルやデスコにも言われたの。今日のアタシ、はしゃぎすぎって。そんなだから絡まれまくったフェンリっち超イライラしてるって」
 結局他人からの指摘でその結論を弾き出したのならばさして大きな意味はない。ならばさっきの謝罪自体も芯から反省はしていなかろうとますます馬鹿馬鹿しさを覚えた人狼が鼻から呼気を抜けば、その仕草にいかな少女でも口先を尖らせる。
「あんたねえ、この夢の世界の支配者たるアタシが謝ってるんだからとっとと素直に受け入れなさいよ! 男のくせにちっちゃいこと気にしてっ!」
「緻密に物事を考えているだけだ。お前の大雑把にもほどがある頭と一緒にするな」
 フェンリッヒとしては当たり前のことを毅然と言ってのけたのに、少女はぷっと吹き出してまたも嫌な予感を誘う笑みを浮かべる。我知らず後ずさった人狼へ、フーカは単刀直入に指摘した。
「ヴァルっちのこと持ち出したらすぐ態度変える辺り、あんたの頭だって相当わかりやすいわよ? もしかして、今の今まで自覚なかったりする? 馬鹿?」
 容赦なく図星を突かれた上に挑発までされて、フェンリッヒは今までの余裕をかなぐり捨てて毛を逆立てる。もう音楽が始まってしまい、まさしく弱点を突かれたためこれから踊らない訳にはいかなくなったが、彼はパートナー相手に大人げなくも牙を剥き出して言い放った。
「叩けば治る家電級の脳味噌しかないお前に言われたくはないな! 相変わらず都合が悪くなったら夢だ夢だと抜かしおって、一瞬でもお前も成長したかと感心したオレが馬鹿だった!」
「あ、自分で自分のこと馬鹿って認めた! やーいばーかばーか! フェンリっちのばーか!」
 反省したはずなのにやはり反省を忘れたフーカは言葉尻を捉えてはしゃぐも、それこそ彼女はもう少し考えるべきだった。自分のおかれた状況を、自分が誰の腕に掴まり誰と踊っているのかを。彼女は知っていたはずなのに。
「……フッ」
 まず穏やかに笑ったフェンリッヒは、優雅に回旋するはずの足を不意に予定進路とは全く別の方向――平たく言おう、フーカの足を狙って下ろす。それを紙一重でフーカは避けるも、ラメが編まれたタイツに触れる風の強さはついうっかりのレベルを遥かに凌駕している。いやそもそも、踏むどころではなく踏み潰すほどの勢いだったものだから、彼女は背筋に冷たい汗が流れることでようやく現状を把握した。
「……え、えーとね。フェンリっち?」
「仕方ない。……お前の言う通り、オレは馬鹿だと認めよう」
 声の調子もまた彼が湛えている笑みと同じく静かなもので、その場面だけを切り取ってしまえば祝宴の一つの物語としてあっても悪くない、ほのかな甘さを感じさせる。人狼の心境を隠しきれないこめかみや首筋に浮かぶ血管、口の端の震えさえも無視すればの話だが。尤も、フーカのほうもどう見ても笑顔がぎこちなかったり腰が奇妙に引け気味な点も見逃さねばならない。
「うむ、確かに馬鹿だ。愚か者だな。だからこそ、今踊っている相手のお前の足を再起不能なほど踏み潰してしまっても仕方ない」
「いや仕方なくないし! どんな理屈よそれ!」
 叫ぶフーカのヒールに、黙れと言わんばかりの勢いでもってフェンリッヒの足が再び振り下ろされる。今度もまた少女はどうにか避けたものの、次はそれが連続した。風圧の衝撃に片足立ちしたままの少女のその片足を、人狼は遠慮の欠片もなく蹴飛ばそうとしてついに少女はきゃあと悲鳴を漏らし身を捩る。
「……って、フェンリっちマジ大人げない! インケン! インシツ!」
「ああ、そうだな」
 凶弾するもあっさりと認められたフーカの心情たるや筆舌に尽くし難い。だがこの結果を招いたのは彼女自身だし、またこの場において彼女を庇うものは誰もいないため、悲しいかな少女はかつては仲間であった悪魔を相手に孤立無援の戦いを強いられることになった。しかも相手は彼女の片手もしっかり掴んで逃がそうとはしないし、この調子では真っ当にワルツを踊る気などフェンリッヒに皆無だろう。
 フーカにとって異性に片手をこうも力強く握られたのは初めてだが、そこに宿る感情を思えばお花畑と揶揄される頭の持ち主だって本格的に危機感を募らせる。そうして眼前の青年が疑問を浮かべたように、さっきまでのどうにかして彼と踊ろうとしていた自分に対して強い疑問と後悔をこめて、少女は情けない声を上げる。
「んぁ~もう!! フェンリっちダンスに誘うんじゃなかった~~!」
「何を言おうが今更遅いわ! 観念しろ、小娘ぇェエっ!!」
 そしてフーカと少年を見つけてしまうまで暗鬱な気持ちでいたフェンリッヒは、剣呑に笑って相手の足を再び容赦なく狙う。もうその声にも表情にも、どろりと濁った思考など一つだって残っていなかったのだが今の彼がその胸に滾らせ表情に浮かび上がらせるものは正直なところ、あまり褒められたものではあるまい。
「いーやーあ~~~~!!」
 魔界の頂点、大統領府。その中でも豪奢なホールの一角に、少女の悲鳴が響き渡る。それに被るようにして人狼の心底愉快そうでかつお手本のような悪役めいた高笑いが響き、ほかの賓客たちは急に何事かと色めき立ったり戸惑ったらしいが。ことの真相を知るのは、ほんの一握りしかいない。

◇◆◇

 フーカに投げ飛ばされたエミーゼルは、投げ飛ばされたこと自体は運が悪かったものの被害そのものは軽いため、運がない訳ではないとまだ主張できた。今の彼は知らないが、少なくともその後の少女を襲う自業自得気味な展開に比べれば幸運と言っても差し支えない。
 何せ落下中の少年と目が合ったのは時間を司ると噂される別魔界の大貴族ズルワン卿で、彼は頓狂な顔を見てほんの気まぐれを起こしてくれたのだろう。エミーゼルが突っ込みかけた、使用済みの皿を下げにホール外へ出ようとする給仕の一行と接触する時間を僅差でずらしてくれたことにより、彼は注目を浴びながら床を転げ回るだけの被害で済んだ。――天井からよりにもよって前大統領の一粒胤が降ってくるとは思いも寄らない給仕たちが皿を放り投げるほど驚いてしまったせいで、結果的に彼らの給金がこの瞬間から泡沫と散ったがこれは少年には関係ない。
 死神の少年は受身を取っていたため大事には至らなかったものの、全身を強打したのは紛れもない事実。だがそれにも増して自分を放り投げた少女への強い憤りが勝り、起き上がったエミーゼルは自分が今どこにいてどこを向いているのかもわからないまま腹の底から唸った。
「フゥゥウウカァアアアッッッ!!!!」
 急に少年が空から降ってきて驚き戸惑っていた悪魔たちが、彼の怒号に硬直さえする。自覚した以上の荒んだ声に少年もまた内心鼓動が跳ね上がったが、それよりも怒りが納まらずエミーゼルは聞こえもしない相手の反応の間を置くと、全身に痛みを感じながらも立ち上がって叫ぶ。
「お前っっ!!! あとでそっち行くから、動くなよ!!!」
「うん、わかったー……!」
 自分へとまとわりついた視線も気にせず言い放てば、音楽と脳天気なざわめきの向こうから微かに自分を放り投げた犯人の声が聞こえてくる。あの少女ならばそのまま大人しく待っていると思えないが、一応釘を刺せた少年は満足して、いまだ注目を浴びるのも気にせずソファに座って休もうと歩き出そうとしたのに。
「う……ぐっ」
 強い怒りが一旦落ち着いてしまったせいだろう。全身に走る痛みにまず背骨が軋んで膝が悲鳴を上げて、エミーゼルは体を屈める。誰か回復魔法を使える奴がいないのかと周囲を見回したくなっても、それさえもできないほど後頭部が熱く神経が衝撃のあまり遠のきかけたとき、目映い光とともに体から重々しい熱が消え、代わりに浮遊感が彼を包んだ。しかし今度は比喩表現としてであり、死神の少年の両足は黒大理石を踏み締めたままだ。
「……あ、あれ?」
「大丈夫ですか、エミーゼルさん?」
 痛みのせいでまともに動かせなかったはずの指さえ、唐突にさしたる問題なく自由に動かせるようになったエミーゼルは反射的に首を声のした方向に動かすと、鮮やかな水色の瞳と目が合った。手袋に包まれた細指を差し伸べられ、それを伝って立ち上がると少年は大きく息を吐き出す。
「はあ……助かったよ、アルティナ」
「いえ、お気になさらず。けれど回復魔法は応急処置みたいなものですから、油断は禁物ですわよ」
 深刻な表情で心配してくるアルティナに、少年は緩く首を横に振った。武器を手にしていないため効果のほどに自信がなかったのだろう。万全の体制を期してギガヒールをかけられたエミーゼルは、さっきまで全身を襲う痛みさえ忘れられるほど清々しい心地でいた。
「そこまで気にするほどの大怪我じゃないから心配するなって。お前だって、血が出てないのは見ただろ」
「……ええ。ですけど、羽も持っていないエミーゼルさんが上から降ってきたときは、本当に我が目を疑いましたし」
 しみじみと目撃談を聞かされて、エミーゼルも乾いた笑いを浮かべながら同じくしみじみと頷く。
「…………うん。ボクもああして自分が飛ぶとは思わなかった」
 戦闘時にはどんな高さから放り投げられようが文句の一つ程度で済ませるのに、こんな場所では不用意に投げ飛ばされること一つでさえ一生の記憶に刻むほどの強烈な経験として捉えてしまうのだから、つくづく戦地とは日常からほど遠い環境なのだと少年は思い知らされる。だがそこで自らの力を鍛え上げ、生き抜き、またそうして共に生きる仲間との信頼関係を築いていった彼は、あの場をおいそれと退けられない。
「それにしても、どうしてあんなことになりましたの? さっきの怒鳴り声を聞くに、フーカさんが原因のようですけれど……」
 奇妙に重い方向に思考を転がしてしまったエミーゼルは、天使の声に我に返って曖昧な返事を寄越すと辺りを見回す。ちなみに周囲の悪魔たちは彼が無事だとわかって、顔見知りの女が回復魔法までかけるのを見届けると、安心したのと自分たちが手出しする理由もなくなったとばかりにすぐさま彼らに興味を失い、今はふたりを気にかけるものなど一人もいなかった。
 とにかくさっき見つけたソファを指で示すと、エミーゼルは自分を起こし上げてくれた手を今度は自分が下になるように握り返して彼女を誘導する。
「詳しい話はあっちでするよ。あんなことがあったから、体はいいけど心のほうが疲れたし……」
 それは仕方ないとアルティナは苦笑を浮かべて彼のエスコートに従うと、まだ割れた皿をかき集めている給仕たちを遠巻きに眺めているプリニーを呼び止めて、軽い飲み物とお絞りを受け取る。
 紫の天鵞絨張りのソファに深く腰を下ろしたエミーゼルは天使から細いグラスとお絞りを受け取り、それらを使ったところでようやく一息つき、なるべく簡潔に自分が宙を飛んだ理由を説明したのだが。
「そ、それでは、エミーゼルさんがあんな目に遭った原因は、わたくしにもある、とも考えられるのでしょうか……」
 浅く眉根を寄せた天使に、悪魔の少年は違う違うと手を振る。
「別にアルティナには責任なんかない。フーカのやつが変なこと思いつくのがおかしいんだ。……大体男があんなのされて喜ぶなんて、普通誰も思いやしないだろ」
「そうなのでしょうけれど……フーカさんにあんなことを教えたのはわたくしですもの。少しは責任を感じてしまいますわ」
 相変わらずお堅いことだと強張る肩を眺めたエミーゼルは、慰める気などなく冷静に桃色の髪に言葉をかける。
「ま、お前がどう受け止めたってボクはアルティナが原因だと思ってないよ。けど、そんな調子ならフーカには暫く会わないほうがいいんじゃないか?」
 自分が怒られるのを嫌がった少女が、無茶な理屈で彼女を巻き込みかねないと予想するエミーゼルに、アルティナはどうでしょうと淡く笑う。
「むしろ責任はわたくしにもあると言ったら、フーカさんが庇おうとしてくれるかもしれませんわよ」
「ああ……、アルティナだと曖昧なところだな。あいつ同性には結構甘いし。年上で甘やかしてくれる相手だと特に」
 少女が天使を庇う方向も、天使に罪をなすりつける方向も両方違和感なく頭の中で再現されて、エミーゼルは五分五分の可能性に気の抜けた笑みを浮かべる。会話内容はともかく、こうも落ち着けるやり取りを誰かと交わしたのは随分懐かしい気がしたからこその、穏やかな表情だった。アルティナも少年の表情筋の緩み方に親近感を抱き笑うも、こちらはそこまで眠そうな猫のようではない。
「あのお年頃は親も含めて異性にはなかなか素直になれない時期ですもの、仕方ありません」
「って言ってもあいつ、照れ隠しとか異性を意識し過ぎてつっけんどんになったりはしないと思うけど。あんたと違って自分の本音隠そうとしないし」
「あら。エミーゼルさんたらわたくしまでツンデレ扱いですの?」
 動じることなく含み笑いを浮かべてこちらを振り向くアルティナに、背もたれに上半身を預けていた少年はよっこらと腰を持ち上げ首を小さく左右に振る。
「いやあ、あんたの場合はどっちかって言うと意地っ張りかな? ツンデレの正確な言葉の意味はよくわかんないから、違いも知らないけどさ」
 その指摘は自ら茶化されるつもりで身構えていたアルティナにはなかなか効果的だった。微かに頬を赤らめて押し黙り、少年のほうに捻っていた身体を静かに真正面に戻すが、ここで張る意地はないのであっさり降参する。
「……ま、ばれてしまいますわよね」
「そりゃあなあ。て言うか、ヴァルバトーゼの奴と今日は全然話してないだろ。ボクと会うまでにちょっと会ったって言うんなら完全に気のせいだけど」
 彼の言葉にアルティナは静かにかぶりを振ることで否定して、つまり死神の少年の気のせいではないと奥ゆかしく示す。
 予想通りの回答に肩の力を抜いた少年は、すぐさま自分を伝令役にした人狼の執事の鼻を明かすにはまさに最適な方法を思いつく。それにさっき彼女には回復魔法をかけてもらった恩もあるしと自分を納得させてゆっくり立ち上がり、天使の前で大きく伸びをした。どうしてわざわざ自分の前でそんなことをされるのか理解できていない顔のアルティナは、微かに首を傾けて少年の次の言動を待つ。
 そんな彼女に、エミーゼルはなんともない顔で顎をあさっての方向にくいと動かして見せた。
「ついてこいよ、アルティナ。あいつが今いる場所、教えてやるから」
「……エミーゼルさん?」
 唐突な発言に目を瞬いた天使に向かって、少年は片目を瞑り笑う。子どもらしく無邪気で微笑ましいものではない。悪魔らしく、自分の損得を感情的に判断した結果の、意地悪とさえ表現できるのに奇妙に目を惹くものを滲ませて。
「言っておくけど、お前のためじゃないぞ。ボクだって悪魔だ。誰かにいいように使われる、人畜無害な使いっぱしりは真っ平御免だ。ちょっとは場をかき乱すくらいの行動だってしたいのさ」
 澄まして告げる少年に、アルティナは目を瞬いてからくすりと瞼を伏せた。
「……ま。ではわたくしはあなたに使われる側ですのね」
「そう言うこと。でも、お前にだって損はないんだ。黙ってついてきてくれよな」
「ええ、そうですわね……。幸い、今のエミーゼルさんにあの青い鬼火はありませんし、信じることに致しましょう」
 天使は一度大きく肩を竦めてからゆっくりと立ち上がると、ワルツに今から参加する一組のカップルのように死神の少年の手に導かれて移動を開始する。しかしその目指す先は華々しい悪魔たちが舞う、きらびやかなホールではない。彼女にとってはそれ以上に、想うだけで胸を締めつける存在の――。

◇◆◇

 喧噪から遠ざかった静かなテラスで行われた紫紺の外套の死神王ハゴスと黒い外套の暴君ヴァルバトーゼの会合は、月下と爽やかな夜風の中、剣呑な空気も放つことなく行われた。
 魔界大統領を引退したもののいまだこの魔界に多大なる影響力を残すハゴスは、政拳交代時以来吸血鬼とは顔を合わせていなかったのだが、随分と穏やかに彼を出迎え、それだけ『断罪者』の存在は、死神王と呼ばれたこの悪魔にでさえ重荷だったらしいと伺い知らせる。
 しかしハゴスは馴れ馴れしい性格でも恩着せがましい性格でもないのに、吸血鬼に自ずから酒を満たしたグラスを渡すとまるでその見返りを求めるようにして彼が反旗を翻してから今までの話を聞きたがるのは、ヴァルバトーゼにとって違和感が過ぎた。
「……わざわざこんな席まで設けておいて、話すことがそれとは。そんなもの、お前の息子に聞けば良かろう」
 呆れてヴァルバトーゼはグラスの中身を嘗めるも、今までの彼は血とイワシ以外に興味を持たずに生きてきた悪魔である。この酒がどれだけ高価でどれだけ甘露であろうが、それを味気なく喉の向こうに流すぶんには彼にとって、酒も水も大差ない。
「余とてお前の自伝など聞きたい訳ではない。……過去をなぞれば自然と現在、そして未来の話になる。お前が改めて過去を振り返れば、真に求めている未来の選択が自然と浮かび上がると思っただけよ」
 結局のところこの祝宴の主催者は主賓に最大限に気を遣っているだけと知らされ、ヴァルバトーゼは肩を竦めた。
「……世話焼きなのは相変わらずだな。それほど直接己の実にならんことが好きか。暇な奴よ」
「本気でそんなことを言っているのなら、貴様の顔面に鏡を突き立ててやらんこともないぞ」
 物騒な言い回しに、吸血鬼は失笑する。勿論、プリニー教育係の職に誇りを持ち、また新党を立ち上げ党首として多数の悪魔の鍛錬に付き合った彼が、今更誰かの面倒を見ることなど嫌う訳がない。地獄に堕ちるまで一匹狼――正確には人狼を一人従えていたが――であった彼であれば、考えられないことだったけれど。
 しかしそんな青年の感慨など、ハゴスの目には入っていない。長考の間を置くと、恰幅の良い悪魔は柔らかな顎髭を撫でながら頷いた。
「しかし、確かにお前からこれまでに到る経緯など聞いても面白くも何ともないな。お前は語り部として客観性と語彙に欠ける」
「どこぞの小娘ではないのだ。客観性と語彙くらいある」
「小娘とは誰のことだ。お前の仲間か」
 指摘を受けて、ヴァルバトーゼは肯定した。そう言えば祝宴の席でも他の魔界の連中から、今回の戦果を詳しく聞かせてほしいとせがまれるとは何度となくあったが、共に戦った仲間については誰も触れなかったと思い出し、彼は自然と身を乗り出した。
「ああ、プリニーもどきの人間の小娘だ。当然死んでいるのだが、この世界を自分の夢だと思い込んでいてな。なかなか自分をプリニーと認めようとせん。実に厄介な奴よ……」
「ほう」
「プリニー殲滅部隊の頭をやっていたのだが、お前は知らぬか。当然、お前と戦ったときにもいた」
「……ああ、あの被りものの人間の娘か」
 納得した顔でハゴスもまたグラスを口に運ぶが、次にそこから唇を離すと愉快なものを見た顔でいる。理由がわからず疑問の視線を送ったヴァルバトーゼに、死神の王は喉の奥で笑った。
「そうさな。確かに自分の言動を振り返るなど飽きるほどしているだろう。では此度はお前の仲間とやらについてお教え願おうではないか」
「……仲間か」
 その物言いで、ようやく青年は自分が仲間を語ることで饒舌になっていたのだと自覚した。しかし恥ずかしさはない。何もかも自分だけの働きではなく、彼らの助けあって今に至ると信じているヴァルバトーゼにとっては、それはむしろ誇らしくも大切なことだ。
「そうとも。お前が一人でここまで来たのではないと言うのなら、ほかの連中もそれだけの力を持っているのだろう。教えてみろ、余にその自慢の仲間とやらを」
「いいだろう。お前に仲間の話をするなど考えもしなかったが、自伝を語るよりも気は楽だ」
 そんな前置きをすると、吸血鬼はまず人狼の執事のことを考え言葉を導き出そうとする。しかしそれは、同時に彼にとっての今までの他者との出会い、まさしく過去そのものを振り返ることにもなると、彼は気付いていただろうか。
 そうしてヴァルバトーゼによる仲間の自慢が始まった。始まるまでは多少間があったものの、始まってみると吸血鬼は立て板に水とばかりの説明や賛辞を仲間へと送り、その合間にハゴスが的確な相槌や質問が入ってより明確に彼の仲間たちの人となりが補完されていく。今のふたりの会話を聞けば、彼らに直接会ったことがない者でさえ、吸血鬼の仲間の個性と、またこの悪魔がどれだけ彼らに親しみ、大切であるかがよくわかったろう。
 人狼族の青年フェンリッヒ。吸血鬼の忠実な僕について語る際、ヴァルバトーゼの口調は誇らしげな喜びと彼への感謝に満ちていた。命を救ってやったのは暴君時代だったと言うのに、魔力を失い地獄に堕ちて以降も忠誠を忘れず、ここに到るまで自分のためにあらゆることを為してきた彼こそ、約束を破らない誇り高き吸血鬼たる自分の僕として相応しく、この魔界にも二人といない悪魔だろうと彼は執事を褒め称えた。反面、自分に血を吸わない約束を破らせようとすることだけが唯一の欠点だと、彼の気持ちもわかるだけにどうにも割り切り難い愚痴も滲む。
 プリニーもどきの少女フーカ。吸血鬼にとって教育対象たるプリニーにして、しかしこの現実を夢と捉える小娘の話題となると、ヴァルバトーゼの表情は小憎たらしげではあるが、語り口調はあくまで軽く、貶し言葉もまた清々しさを含んでいた。プリニー殲滅隊として自分たちの前に立ちはだかった出会いから誤解を解いて仲間となり、友として主従に接してきた小娘は、現代の救い難き人間であるにも関わらずどうにも憎めぬ部分もあり、憎まれ口も叩きつつ程々に甘やかしてしまうのは、教育対象として見ているのか。それとも本当に友として見ているのか。
 人造悪魔である最終兵器デスコ。フーカのために造られた妹であり、彼女の夢を叶えるためラスボスを目指す健気な少女へと話が移行すると、ヴァルバトーゼは優しくも厳しい教育者として彼女を評価する。破壊力だけならばラスボスになれる日も遠くないほど切磋琢磨を重ねているが、何よりもの知らずで知識に偏りがあるのが痛い。しかしあの容姿を生かすならば、下手に威圧感だの悲愴感だのを出すのではなく、無邪気無垢なままのラスボスとしていたほうが良かろうかと吸血鬼はハゴス相手に相談し、しかしそれはその小娘と相談しろとの冷静な一言であっさり打ち切られた。
 死神エミーゼル。出会った当初はハゴスの息子ゆえ甘やかされて育った、しかし今は一人の悪魔として現大統領からの政拳交代を目指す悪魔の少年について触れる際、ヴァルバトーゼの口調には静かな熱と感慨が含まれる。お飾りの鎮圧部隊として反乱当初から立ちふさがった父親の臑齧りが、仲間となって以降は目覚ましい成長を見せたことを、彼は我がことのように喜んでいたし、同時に少年の心根の強さと正しさに感服していた。面映ゆそうな父に、彼はあの少年がいつしか父をも越える立派な悪魔になるだろうと予言し、その日を楽しみしていると伝えた。
 そこまでは順調だったのに、なのにヴァルバトーゼは最後の一人、業欲の天使ブルカノ改めアルティナの話題になると、初めて言葉を詰まらせた。
「……あいつか」
 今まで仲間たちのことを語る際は誰に対しても淀みなく動いていた唇が、勢いをつけて開いたと思ったら、しかし躊躇いがちに何も生み出さず閉じられる。その様子を受け、息子からある程度彼らのことを聞いていたハゴスは苦笑を薄く目元に刻んだ。
「エミーゼルには、お前が地獄に堕ちる切欠を作った約束の女だと聞き及んでいる。そして、あのネモを生み出した女でもあると」
「……ああ。罪深い女だと、お前も思うか」
 そこについて、吸血鬼は自分から触れるべきか悩んでいたらしい。後ろ暗くも少しは安心したように肩の強張りを和らげて、グラスを口に含み喉に湿りを帯びさせる。そのための用途でしか口に含んでいないのだが、もう瓶は一本空になりつつあった。
「お前が危惧するほどの怒りはない。話を聞く限り、余にとっては運の悪い女としか思えぬ」
「そうだな……」
 客観的な発言なのに、ヴァルバトーゼの表情からは陰りが消えない。その理由がわからず、ハゴスは建設的な話題の方向へ彼を引っ張ることにした。かの天使とやらについては息子が語ったこと以外は知らないため、もう少し詳しい話を聞きたかったのだが吸血鬼がこの調子ではそれも難しかろう。
「あのネモと言う人間には随分と苦しめられたが……改心し、お前がプリニーとなった奴に徹底した教育を施すのならばむしろ安心して任せられる。頼んだぞ、ヴァルバトーゼよ」
「ああ。今後いかに忙殺されることになろうとも、あいつだけは徹底的に俺の手で教育してやる」
 はっきりと言ってのけはしたものの、青年の表情に変化はない。何の理由があるものかと考えを巡らせたハゴスの耳に、不意を打って見知らぬ女の声が響いた。
「……はい。ありがとうございました」
 声は応接室から聞こえてきたようだ。酒の肴など頼んでいないし、人払いさえ命じたのにどうして女の声など聞くのかと首を傾げたハゴスは、対面するヴァルバトーゼが硬直していることに目を瞬いた。今までその格好も含めて昔に似た威厳を滲ませていたのに、現在は室内に目を向け、それこそ一時停止の魔法にでもかかったように、グラスをテーブルに戻そうとしたままの姿勢でぴたりと止まっている。
 そうなる理由は――捻りもなく考えれば女の声と姿に心当たりがあるからで間違いない。成る程そう言うことかと吸血鬼の青臭い反応に笑いを噛み殺すと、ハゴスは立ち上がって応接室を目指しながら、扉の前でこちらを慮ってか立ち尽くす女に対し柔らかく話しかけた。
「ヴァルバトーゼをお探しかな、ミス・ウィルヘルミナ」
「あら……。ルーシーではありませんのね」
「吸血鬼の最後の捕食者の肩書きを持つのなら、貴女にはミナのほうが相応しかろう」
 人間界で最も有名な吸血鬼にまつわる書物を用いた会話を交わすと、桃色の髪の女が微笑を湛えてようやく窓の外にまでやって来る。さっきの吸血鬼の反応は過剰だろうが、ハゴスの目から見ても確かに美しい天使だった。
「そうかもしれませんが、彼女は既婚者ですわ。かと言って、わたくしはルーシーほど何人もの殿方から婚約を申し込まれた経験も、二人のように吸血鬼さんに血を吸われた経験もありませんけれど」
「ならば貴女の名前を伺おう。『業欲の天使』の名なら耳にしたこともなくはないが、暴君と約束を交わした女の名は知らぬのでな」
 女はハゴスの物言いを軽く咎めんばかりにまあと小さな声を漏らすが、前大統領に対し敬意を払う気はあるようだ。公式の席として折り目正しく丁寧な仕草で膝を折り、続いて堅苦しくも涼やかな口調で死神王に挨拶をした。
「ご尊顔を拝するは光栄と存じます、前魔界大統領閣下。わたくしの名はアルティナ。『暴君』ヴァルバトーゼと約束を交わした、人間から天使となった女です」
「原初の娘御たる天使にそのように敬意を表していただき、こちらも光栄に思う」
 その片手を取って紗に包まれた手の甲に軽く口付ける仕草をすると、ハゴスの背後から騒々しく何かを床に落としたような物音が聞こえてきた。ついでに誰かが咳き込む音も。先まで誇らしげであったはずの青年のみっともない姿を目にするのは忍びないと思った恰幅の良い悪魔は、天使から手を放すと眉根を指で解してぼやく。
「……あれのお喋りに長らく付き合うのは疲れたのでな。よろしければ、貴女に交代してもらいたく思うのだが」
「わたくしでよければ喜んで……と言いたいところですけれど、あの方のご意思は伺わなくてもいいのですか?」
 吸血鬼の姿が見えないからか、さっきの騒音を気にしながらも不安げにこちらを見上げてくる天使に、なんともない顔でハゴスは一度だけ首を横に振った。
「なに、どうせ構いはすまい。……ここが退屈とあれば庭でも散策すればよろしい。危ないものは放しておらぬ故、安心なされよ」
「お心遣い、ありがとうございます」
 もう一度膝を軽く折り、ハゴスと入れ替わるようにしてテラスの庭に面する側へと体を向けたアルティナの姿を改めて見せられ、ヴァルバトーゼは慌てて咳払いをする。気持ちを無理に切り替えいけしゃあしゃあと彼女の手に接吻をした死神王の後ろ姿を睨んでも、こちらの視線に気付いているはずなのに完全に無視して振り向きもしない。
 吸血鬼の様子を気遣ってか、おずおずと近付いてくるアルティナを視界に収め、彼はしかしなるべく動揺を表に出すまいとしながら深くも短く息を吐き出す。それからようやく、声を裏返らせることもなく彼女に訊ねた。
「……い、いつの間にそうなった」
「ついさっきですわね。……時間は忘れてしまいましたけれど」
 小首を傾げたアルティナの、緩く波打つ桃色の長髪がふわりと揺れる。小さな頬に添えられた手は二の腕半ばまで届く純白の紗の長手袋で、チョーカーも揃いの白のレースを施していた。胴体もまた白絹の、飾り気もなく目を見張るデザインでもないがそれだけでも十分に彼女のきのままの魅力を引き立てるドレスに包まれており、男装をしていたはずの彼女の変貌に、彼は顔に熱が篭る自覚を持ちつつ首を振る。
「何故、その、わざわざ着替える?」
「はぁ、まあ……ええと……ですね……」
 訊ねられたアルティナは、暫く言い辛そうになにやら口ごもっていたが、少しするとはにかむように微笑んで、彼の頭をますます混乱に追い込む。祝宴当日、彼女がこんな格好でいることを淡く期待していたはずなのに、それ以上の衝撃と動揺が酷い吸血鬼の内面など気付きもしない様子のまま。
「……あなたにお会いしたかったものですから。おめかしでもしようかと」
 その言葉を耳にして、吸血鬼の思考が完全に一時停止したことは――最早今更、言うまでもない。

[↑]

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2011/07/06

 アルティナを例の場所まで送ったエミーゼルは、ドレスの裾が黒大理石の壁に飲み込まれるまで見届けてから一仕事終えた気分で息を吐き出す。少しの間、彼女を連れ歩いた程度でしかないが爽やかな達成感が全身を包むのはどうした理由か。
 しかしこれで腹黒い人狼の思惑通りにことが進まなくなったのは確かなので、少しは清々した気分で踵を返す。祝宴の最中に父に会っても変に緊張してしまい、ろくに会話内容を覚えていないのは、ヴァルバトーゼと会ってほしいとの用件がずっと頭に残っていたせいだ。仲間と家族を繋げる頼みが異様に緊張させられることを、あの悪魔の青年は知らないのだろう。
 とにかく次はフーカを怒鳴りつけるべく給仕を呼び止めようとしたエミーゼルは、しかし背後から猛烈な勢いで体当たりを食らってその後諸々の予定を変更させられた。
「えっ、えっ、え゛っ、え゛み゛~ぜるざぁあああ~~ん!!」
「ぐぎぁああ!?」
 背面から踵を浮かされかけてまた床を転がされるのかと心なし身構えた少年だが、幸いにして後ろから胸を赤い手に拘束されたため、衝撃を受けるだけで済む。更にその手と特徴的な声で誰がどうしてこんなことをしたのか理解して、ついでにエミーゼルはようやく吸血鬼との約束が果たされたことを物理的に苦しみながらも安心した。
「もっ、も゛うっっ、いぢめだりじまぜんがら、っっ、デスコっ、お゛い゛でがな゛い゛でぐだざいいぃいい~~!!」
「おまっ、えっっ!! めちゃくちゃ探したんだぞ、一体どこにいたんだよ!?」
 少年の背中に抱きついたまま嗚咽を漏らすデスコの小さな頭が、前のめりになってエミーゼルの背面に温かくのしかかる。背広の生地が分厚いためそこに触れるものがどんな状態なのかは明確に掴めなくても、鼻を詰まらせている少女の様子を鑑みて、彼は嫌な予感にこめかみの辺りを軋ませた。
「で、デスコも、いっぱいいっぱい探したデスよぉ~! な゛っ、なのにっ、み゛な゛ざんっ、全然見つからなくっでっ、……!」
 エミーゼルの耳に、ああこれは確実に鼻水が出たんだろうなと思われる不細工な水音が届く。自分の背広に晒された危機的状況が不安から確定に切り替わった少年は、吐息をついて自分の胸を掴む赤い手をぽんぽんと撫でた。
「……わかったから。泣き言は聞いてやるからまずは手を放せ。お前、誰のスーツで鼻水拭ってると思ってんだよ」
 丁度こちらを奇妙なものを見る目で通りがかった給仕からお絞りを受け取ると、おずおずと手を放したデスコの予想通り酷い泣き顔に向かって死神の少年は温かく湿った布を広げる。すると少女は誘導通り――なのか?――顎をエミーゼルがかざした手の中へと突きつけて、涙や鼻水やらでぐしゃぐしゃになった小さな顔をされるがままに拭われる。
「……鼻かむのは自分でしろよ」
「ぁいデス……」
 ゆっくりとエミーゼルが手を放そうとするのと同時に、デスコの手が広げたお絞りを自分の顔に固定して、次にぢぃんと一際酷い水音を立てる。それ以降続く長い長い騒音の末に、もう一度瞼の辺りを拭った悪魔の少女は、小さな息継ぎをしてようやくお絞りから顔を上げた。
 少年の予想通り、粗方の体液を拭い取っても、デスコの顔はちらほらと赤く腫れ上がり、号泣の痕跡が色濃く残っていた。この調子では確実に、エミーゼルと合流するまでの時点で泣いていたと見て間違いない。
「……うう。寂しさのあまり、デスコは絶望による暗黒覚醒とかするかと思ったデス」
「ラスボスとしてはそっちのが良かったんじゃないか?」
「……覚醒覚えるのは、もうちょっと後でいいデス……」
 普段の彼女ならば一も二もなくラスボスとして成長する道を取るはずなのに、それほど心細かったのか。とにかくさっきもう苛めないと言われた手前、今はこちらも礼儀としてあまり苛めないほうが良さそうだと判断したエミーゼルは、したくない気持ちはあるが一応被害を確認するため上着を脱ぐ。予想通り、鼻水と涙がべったりと張り付いたそこは熟練の洗濯係でさえ頭を抱えそうな状態だった。
「ほんっと、遠慮なくやったなお前……」
「うぇ? ……何がデスか?」
 エミーゼルは凄惨な状況に苦虫を噛み潰した顔でぼやくも、デスコはいまだ手拭いでちょいちょいと目やにだの鼻水の名残りだのを取り除いて彼の被害を髪の毛一本ほども気にしていない。
 楽観的に受け止めれば服の被害で済んで良かったと、少女の姉にやられた仕打ちを思い出した悪魔の少年は、またもそばを通りかかった給仕を呼び止めてデスコの使用済みの手拭いと自分の背広を手渡すと、サスペンダー姿で所在無さげな赤い手をしっかりと握る。
「とりあえず、今からフーカを探すからな。大人しくついてこいよ」
 普段なら生意気だとからかうだろうに、このときばかりはデスコも従順にこくりと頷いて、エミーゼルに手を引かれるまま少年の後をついていく。低空飛行でいるものの尻尾を出していないこともあり、少女が自分より背が小さな女の子なのだと遅まきながらに意識した少年は、なるべく穏やかな口調で背後に訊ねた。
「……それで、今までどの辺りにいたんだよ。別のホール行ってたりしたのか?」
「わ……わかんないデス。とりあえずうろうろしてたら、ヴァルっちさんと待ち合わせする場所も思い出せなくて、壁沿いにひたすら歩いていたデスよ……」
 背丈の小さなデスコに壁際を歩かれれば、ホール中央からでは当然見つけにくくなる。しかも壁伝いとなればごく当たり前に別のホールへも入っただろうと想定すると、少年は納得しつつも柔らかく言い聞かせた。
「お前な、また今度こう言う場所ではぐれたりしたら、素直にプリニーとかボーイの連中に言えよ。ラスボスが迷子とか嫌だろ」
「わかりましたデス……」
 うなだれるデスコは少年の指摘通り、迷子になった事実を認めたくないからこそ、いつか顔見知りの誰かと出会うことを信じて無難に壁沿いをひたすら歩いていたのだが、いみじくもエミーゼルがいつかぼやいた通り、運が悪いせいで今の今まで誰とも出会えなかった訳だ。
「それと、ヴァルバトーゼが心細い思いをさせたら悪かったなってさ。……あいつもお前と同じで、集合場所わからなくなってたから」
「ヴァルっちさんも……デスか……」
 迷っている最中、心細さも相まって待たせてしまったら申し訳ないとひたすら思っていたデスコは、自分も待ち合わせ場所に辿り着けなかったから謝られる資格はないのに、そのことを耳にして僅かばかり救われた心地になる。と、ここで少女は疑問を抱いてエミーゼルを見上げた。
「あれ。けど、だからってなんでエミーゼルさんがデスコ探してたデスか?」
「ヴァルバトーゼに用事があったのに、あいつがお前探すって頑固だったからだよ。ボクが代わりに探すから言うこと聞けって交換条件飲ませて、あいつその前にフーカかフェンリッヒ探してたって言うから、まあついでに……」
「その辺りはデスコもわかるデス。それで、おねえさまは見つかったのデスか?」
 どうして疑問系で聞かれるのかと思ったエミーゼルだが、さっきの自分の説明ではいまだフーカが見つかっていないようにも受け取れると察して首を振る。
「お前より先に見つかったよ。さっきまでちょっと色々あって、別行動中を取ってた」
「色々……? さっきの白いドレスのお姉さんも、関係あるデスか?」
 アルティナとのやり取りはほんの少し見られていたようだが、どうやら相手が誰かまでもはデスコはわかっていないと知りエミーゼルは曖昧に言葉を濁す。
「微妙なところだな……。ま、あいつに会ってないとこうしてお前にも会えてなかったんだろうけど」
「確かにそうデスね。……それで、おねえさまとの色々って何なんデス?」
 色々、に甘酸っぱいものが含んでいないか警戒しているのかデスコの視線がやや強めにくせのある金髪を刺すが、それならそれでまだいくらかましだと少年は重く息を吐き出した。
「……あいつに酷い目に遭わされたんだよ」
「酷い目って、どんなデスか?」
 訊ねられ、改めるように振り向いたエミーゼルは、まだ目やにでもついているのか自由なほうの片手で目頭をこするデスコに、それはなと教えるつもりだった。なのに全く予想外な方向から、嫌に聞き覚えのある少女の声が彼らの鼓膜を震わせるものだから。
「も――っ、フェンリっちのせいで酷い目に遭ったじゃん!」
「オレのせいではないだろう! 大体貴様が考えなしに挑発するのが悪い!」
「その前にあんたがつんけんするのが悪い!!」
「貴様が絡んでこなければいい話だろうが!!」
 声のするほうに首をやったふたりは、視線の先の光景に片や大きく脱力し、片や喜ぶべきなのか呆れるべきなのかの複雑な表情を浮かべる。
 雑踏の中でも注目を浴びていることにさえ全く気付いていないらしい。互いにカウチソファの両端に座って向かい合い、グラスを片手に彼らが良く見知っている人間の少女と人狼の青年が憎々しげに言い争う姿がエミーゼルとデスコの目に映った。
「……ボーイにどこにいるのか場所聞くつもりだったけど、必要なかったな」
「そうデスね……」
 ひたすらに続く侃々諤々の低レベルな言葉の応酬に、関係者として気まずい思いをしながらもふたりは少しずつ近付いていく。予想外なことに、刺々しくも移動しようとはしないふたりは見た目より冷静で周囲の変化もきちんと視界に入れられる程度に頭はまともに働いているようだ。すぐさま身構える幼い仲間のふたりを見つけ出し、まずはフーカがデスコに向かって両腕を広げた。
「デスコ!!」
「おっ……おねえさまぁぁあっ!!」
 促されるままフーカの腕の中に飛び込んだデスコは、懐かしい匂いのする腹に両腕を回して、確かに触れているひとが夢幻でないことを実感し、再び目頭を熱くさせる。そうして気を緩めた彼女の頭が十指で思いきり掻き撫で回されると、悪魔の少女は不満を露わにしつつも喉の奥でくすぐったそうに呻いた。
「ぁぅぁうあう……お、おねえさま! なんでそこまでわしゃわしゃするデスか!?」
「だって、さっきまであんた確実に泣いてた顔してたし。久しぶりに会うから、このくらいしたほうがいいかなって」
 散々泣いたことを見破られ、デスコは文句を封じられた気分でフーカの指にされるがまま目を細める。そんな妹の様子に、姉は微かに安堵した。心細さは悪魔の少女ほど感じなかったけれど、彼女もまたこの少女がそばにいないのは落ち着けなかったから。
 その隣では姉妹の感動の再会を感慨深げに眺めることもなく、むしろ一瞥もしないフェンリッヒはようやく振りに顔を合わせたエミーゼルへと確認を取る。
「小僧、ヴァルバトーゼ様を案内したのだろうな」
「ああ。あっちがいつお開きになるのかは聞いてなかったけど、もうとっくにしたよ。……て言うか、なんでお前フーカと一緒にいるんだ?」
 嫌なことを訊ねられ、露骨に眉間に皺を作るフェンリッヒだが説明したくないほどの気分ではないらしい。デスコを撫でる隣の少女を獣の死体にするように指さして口を開く。
「この小娘に、お前を投げ飛ばした件で責任を擦り付けられた」
「はあ?」
「……なっ、投げ飛ばしたんデスか!?」
 がばとデスコが姉の膝から顔を持ち上げ、驚愕の眼でフーカを見上げる。ラスボスを目指す妹にでさえ信じられないものを見る目を向けられた人間の少女は、珍しく曖昧に、と言うより正確にはなんともない問題であることを望む弱気さで笑った。
「まあねー。踊ってるときにエミーゼルをこう、お姫様抱っこでくるくる回すやつやろうとしたらさ、フェンリっちと目合って、ついうっかり投げ飛ばしちゃったのよ」
 その現場に居合わせた目撃者と被害者が、何がついうっかりだだの、どうしてオレのせいになるんだだのとぶつくさ呟く。それらを綺麗に無視するフーカの厚かましさと突飛な行動に、デスコは言葉を失い姉を食い入るように見つめることしかできなかった。
「……で、それで。エミーゼルがこっち来るまでに、折角フェンリっち見っけたんだからノルマ達成で踊っちゃえーってなったんだけど。フェンリっちが心狭いの、みんな知ってるでしょ?」
「当たり前デスけど、普通に断られたデスか?」
「心の狭さって……悪魔でさえ、言いがかりつけて踊りに誘われたって快く受け入れる奴とかいないと思うぞ」
 悪魔のふたりにでさえ冷徹な反応を取られてしまい、フーカは頬を膨らませる。
「あんたたちも結構心狭いわよね! ……ま、それでどうにか一応踊りは誘えたんだけど、さ」
 唐突にフーカは下を向くと、膝に上半身を預けるデスコを退けて、自分のヒールを見せつける。ここに来た当初はドレスに合わせて吟味したのだろう、高く細いヒールと踵を覆うように縫いつけられたリボンがアクセントとなっていた金に輝くはずのそれは、今や擦り傷だらけ。リボンを靴に縫いつけていた糸さえもはずれかけ、この靴のまま針山でも歩いてきたのかと思うほどの状態になっていた。
「うぇ……! なんだよそれ!?」
「な、何があったデスか……!」
 あまりの惨状に息を呑んだふたりの子どもたちに、フーカは恨めしそうな顔で顎で横を指す。つまり隣の人狼がそうしたのだと示しているのだろうが、それで彼が大人しく突き刺さるような視線を受ける訳がない。
「待てお前たち。そいつの話ばかり鵜呑みにするな」
 フェンリッヒもまた面倒臭そうではあるが鼻から息を抜き出して、ふたりに自分の下半身に注目するよう一度だけ足を踏み鳴らす。そうして再び、デスコとエミーゼルはなんとも言えない呻き声を漏らした。
 恐らくは人狼の靴もよく磨かれた革靴だったはずだろうに。黒いエナメルの表面は全体的に白く掠れてしまい、糸も所々解れて見苦しいことこの上ない。しかも穴が開くほどではないが、小さな円状の凹みが満遍なくできており、靴職人ならば料金の計算をするよりも先に修理に取りかかりたがるような被害がそこに現れていた。
「……つまり、お前らはワルツを踊るんじゃなくて足の踏み合いをしてたんだな」
「靴がこれだけボロボロなのに、よく足は無事でしたデスね……」
「んな訳ないでしょ!!」
「そんな訳がない!!」
 ほぼ同時にデスコの言葉を否定したふたりは、怒り心頭の面もちで以降を、やはり責任を擦りつけ合いながら説明してくれた。
 曰く、途中まではフェンリッヒの一方的な攻撃にフーカが上手く避け続けていた。曰く、しかしそれも次第に無理になったフーカが容赦ないフェンリッヒの足蹴を食らうと、ついに彼女も怒って反撃するようになった。曰く、そこからふたりで足蹴のみの殺し合いかと思われるような攻防戦が続き。曰く、ついに曲が終わってふたりの足下だけが惨憺たる有様になった際、別魔界の『癒しの魔女』とやらに猛烈な勢いで怒られたらしい。
「……まあ楽しんで騒ぐ場で足技だけとは言えガチの殺し合いなんかやられたら同じ参加者として怒るよな。空気読めって話だし」
「アタシらの足は傷痕一つ見あたらないくらい綺麗に回復してくれちゃったからいいんだけどさ。そいつ、お説教したのよ、お説教! しかも正座強制! この床に!」
「それで済んで良かったと思うデスよ……」
「ふざけるな! 公衆の面前であんな屈辱を与えられたのは、ここ数百年の中でも五指に入る!」
 しかも反論する場合と反省の色が見られない場合はそのままの状態でただちに足をもとに戻すと脅されたため、ふたりは正座のまま懇々と叱られて、つい先程ようやく解放されたらしい。
 つまりふたりがお互いに喧嘩腰でありながらも座ったまま動こうとしない理由が、なんのことはない足の痺れと知らされて、エミーゼルは頭痛と安堵をほぼ同時に覚える。しかし安堵のほうが強いのは、一体どうした訳か。
「とりあえず、これでみんなへの用件は済んだな。じゃあボクは……」
「待て小僧。ヴァルバトーゼ様がどこにおられるのかオレはまだ聞いていない。好きに動くなら場所を教えてからにしろ」
 フーカへの怒りも忘れてまた別行動をするつもりが呼び止められ、エミーゼルは普段通りの会話をしているつもりだろうがあからさまに声を潜めて聞き耳を立てている姉妹に呆れの視線を送りながら首を振る。
「口頭では説明しづらいところだぞ。別に案内しろって言うんならそれでもいいけど、お前まだ歩けそうにないだろ」
 エミーゼルの指摘は否定しようがないらしく、人狼は苦々しげな呻きを漏らす。ならばと具体的な話が来ない辺り、少年はフェンリッヒの態度は事実上の待機命令を放っているものとして受け止めた。そこまでならばまだ良かったのに。
「……はれ。もしかして、……あそこに、ヴァルっちさん、いたデスか?」
「なにデスコ、あんたヴァルっちいるとこ知ってるの?」
 吸血鬼にもう一度踊ってもらうつもりなのかはわからないがフーカもその話題に食いつくと、フェンリッヒがけん制するように毛を逆立てる。しかしそれらの反応に丸々気付かず、小さな欠伸をしたデスコはエミーゼルのほうへと身体を微かに傾けた。
「えーと、……エミーゼルさんが、女の人を不思議なところに案内してたのは、ん、見たデスよ。あそこに、ゲートを隠していたんデスか……?」
「ああ、まあそうなるかな」
「女の人? じゃあ別にヴァルっちと関係ないんじゃない? エミーゼルのほかの知り合いとか……」
「……女?」
 フーカの指摘する通りの流れになってほしいとエミーゼルが密かに願っていることに勘付いたか。フェンリッヒの金の瞳がすうと細まりぎこちない少年を睨むと、その視線に何かあると本能的に嗅ぎつけた姉妹の姉のほうも死神の少年をひたすら見つめる。
「……な、なんだよ」
 尋問を受ける被疑者の心境で、エミーゼルが抵抗するように彼らを見返しても、返ってくるのはフェンリッヒの冷たい眼光とフーカの遠慮する気なんぞ欠片もない視線ばかり。靄のような緊張感が脳髄の辺りで濃厚になっていくのを感じながら、しかし度胸のない少年はここで唐突に逃げることもできなかった。
「痛い目に遭いたくなければイエスかノーで答えろ、小僧。その女はお前の知り合いか」
 そのうち痛い目に遭いそうな質問だが、これくらいならとエミーゼルは素直に頷いてしまう。つまり尋問を彼が受け入れてしまった証拠なのだが。
「……イエス」
「オレたちも知っているか」
「……い、イエス」
 エミーゼルの背筋に冷たい汗が流れる。質問の方向性からやっぱり気付かれている予感がして鼓動が高鳴る。別に自分がやったことに後悔はないが、かと言ってこうも簡単にばれてしまうのは少年として有り難くない。眼前の悪魔の青年が確実に怒るとがわかるだけに尚更。
「お前がその女を案内した先と、ヴァルバトーゼ様を案内した先は同じか」
「…………」
 致命的な質問に少年の思考が硬直する傍らで、フーカもまたぼんやりとしているデスコに質問をするがこちらは両者ともども緊張感がない。しかし、エミーゼルにとって危険な点でもまた変わりなかった。
「ねえねえデスコ。エミーゼルが案内したって女の人って、どんな感じ?」
「……えーと、遠くからでよくわからなかったデスが……白いドレスを着ていたデスよ。あとながーくてふわふわした髪の……」
 デスコは説明の途中なのに、大きく口を開けて欠伸をする。小動物めいた彼女の歯は案外に鋭いため、大口を開いて歯を剥き出しにした彼女の姿は可愛らしいどころか物騒な印象さえ持つのだが今更これに仲間たちは怖じ気付いたりしない。ともかく涙さえ湛えて大きく長い欠伸を終えた少女は、いつも以上に目付きを据わらせて緩く首を振った。
「……うう。頭がぼーっとするデス……」
「なによあんた、もう眠いの? ……泣き疲れたとか?」
「そ、そんなことはないデス……! デスコは、お子ちゃまじゃありませんデス……!」
 姉の言葉をからかいと受け止めて自分の疲労を認めようとしないデスコだが、死神の少年と合流するまでひたすら孤独に耐えながら涙を流しても歩き続けていたのだ。回復魔法なぞでは癒せない方向性の疲労が彼女を襲っているのは、誰の目からも明らかだった。
 それで話が逸れてくれれば良かったのだが、フェンリッヒは最早瞼を開けていられなくなったデスコよりも遙かに勝る確かな予感と吸血鬼への執着を取って、エミーゼルをあからさまに睥睨する。
「どうなんだ。早く答えろ、小僧」
 フェンリッヒは指の関節を慣らすことで暴力の匂いをちらつかせるも、これは少しばかりやりすぎだった。俯いてじわりじわりと追い詰められていたはずのエミーゼルはついに覚悟を決めてしまい、カウチソファから後ずさり距離を取ると急に顔を上げ、逃げる気を下半身に漲らせながら言い放つ。
「……そうだよ! ヴァルバトーゼのところにアルティナを連れて行ったさ! お前から父上とあいつを会わせろとは聞いてたけど、ほかの誰も案内するなとは聞いてないからな!」
「マジで!?」
「貴様……!」
 フーカとフェンリッヒがそれぞれ正反対の気持ちを顔に出して反射的に立ち上がろうとするが、人間の少女は膝に船を漕ぐ妹を絡ませていたため、悪魔の青年はいまだ足に痺れが残っているためエミーゼルを捕らえるほど機敏には動けない。
 しかし一歩リードしたのは野次馬根性たくましいフーカだった。すぐさま妹の両脇を抱えると隣の人狼に投げつけて、思わずデスコを受け止めるフェンリッヒを尻目に立ち上がりエミーゼルの腕を掴む。
「ぅっぐ……、行くわよエミーゼル!」
「い、行くってどこに……!」
 足の痺れを噛み殺しながらも率先しようとするフーカに、体にはなんの不自由もないはずで、しかも合流した当初は彼女に怒鳴りつけるはずだったエミーゼルはそれも忘れて引っ張られる。
「そんなの決まってるでしょ! ヴァルっちとアルティナちゃんのデートをフェンリっちに邪魔されないよう、アタシたちが見張るのよ!」
「……きさっ、!? 待て小娘、貴様、自分の妹は放置か!?」
 投げられても飛間距離、衝撃共々死神の少年が体感したものより小規模なためか。腕の中でよろめくばかりのデスコをフェンリッヒは掲げて見せるも、フーカは小さく振り返り、エミーゼルの背中を軽く押したまま毅然と答えた。
「うんっっ!!」
 最悪だこの姉――と悪魔ふたりが心底思う。しかしそんな評価を下されても尚、出歯亀心に欲望な人間のフーカは実に手際が良かった。
「じゃ、デスコの世話任せたからね、フェンリっち!」
 言付けると愕然としたままのフェンリッヒの隙を突いてすぐさまエミーゼルと逃げ仰せ、人狼が衝撃から立ち直ったときにはもうあのツインテールもくせのある金髪も雑踏の中に紛れて完璧に見えなくなっていたのだから。
「……あんのガキどもが!」
 残されたのは自分が見捨てられたといまだ知らずにうつらうつらと船を漕ぐデスコと、案内役を鮮やかにフーカに奪われたフェンリッヒのみだ。しかし彼は諦めなかった。少女の言をある意味肯定してしまうことになるが、それでも吸血鬼と天使の逢瀬の時間など作らせるつもりはなかったし、作っているのならば一刻も早くそれを排除すべきなのだから。
 深呼吸をして頭を冷やし、どうにか思考を巡らせる余裕を生み出したフェンリッヒは、具体的にどうして彼らを捕らえるか、主たる吸血鬼のもとへたどり着くかを考える。だが地の利は圧倒的に死神の少年が有利だし、こんな密度の高い場所では鼻もすぐ馬鹿になる。それに彼は少年を脅してしまったから、内部分裂を狙うのも難しい。
 盛大に舌打ちした人狼は、何故かデスコの両脇を抱えたままの状態で考えを巡らせていた自分に気付いて、吐息とともにカウチソファに横たえらせようとした。そこでようやく悪魔の少女が身じろぐ。
「……うぅぅ……誰デスかぁ? デスコはまだ起きれるデスよぉ……?」
「どう見ても寝ている奴が言うな」
 姉に見捨てられた憐れな存在ゆえ、彼としてはそこそこに優しくカウチソファに横にさせようとしたフェンリッヒの腕を、デスコは緩く首を振ることで拒絶しようとする。だが彼の指摘もまた正しく、完全に糸目状になっている今の少女は夢の世界に片足とは言わず七割ほど体を突っ込んでいるありさまだ。
 しかしそれでも、デスコは眠りそうな自分を否定した。
「ちがうデス……寝てないデス……寝たら、皆さんに、おいてかれるデス……」
「当然だろうが。お前はここで大人しく寝ていろ。オレはあいつらを追わねばならん」
 言ってさっさと足の痺れを我慢して立ち上がろうとしたフェンリッヒの手を、悪魔の少女は目を瞑ったまま手探りで掴む。血の繋がりもなければ僅かな時間しか共有していないにも関わらずしっかりと姉に似てきたデスコに、今夜その姉に大いに振り回された青年が眉をしかめた。
「……だめデス……ひとりぼっち、いやデス……」
 なのにデスコの心底寂しそうな声ときたら。眠そうと思わせる以上に泣き出しかねない掠れ気味の声音に、女子どもにたやすく同情を寄せる性質でもない人狼でさえ放置しようとした自分に後味の悪さを覚えかけ、慌てて左右に首を振る。こんな状態のデスコを連れても利益などない。そう、このときの彼は思っていたから。
「これからお前がすぐさま目覚めてオレの足を引っ張らないと言えるのならば同行を許さんこともないがな、それも無理なら大人しくここで寝てい……」
 ろ、と告げるつもりが悪魔の青年ははたと引っかかりを覚え、少し以前の記憶を掘り返す。デスコが役に立たないと断言するのはまだ早いと、彼の冴えたどこかが一切の情も持たずに判断した。
 確かに今の少女は同行したところでお荷物以外のなんでもない。だがよく思い出してみると、デスコはエミーゼルが天使を案内している姿を見たと言っていたはずだ。更にそこからあの少年と合流したのならば、自然とゲートがある場所が割り出される。ふたりを捕まえなくてもそこに、並べては吸血鬼がいる場所に辿り着けるのならばそちらのほうがより合理的だ。
「……おい、デスコ。独りにせんから起きろ」
 寝らせるつもりだった少女の脇から手を離し、フェンリッヒは小さな頬を軽く叩いて目を覚まさせようとする。睡魔と格闘していたデスコはその刺激か発言でぴくりと瞼を震わせて、僅かな反応を示した。
「ん……なんデスかぁ……ヴァルっちさん……」
「お前、どこまで寝ぼけている。オレが閣下に見えるなど……」
 ことは一刻を争うと言うのに、いまだ事態の緊急性を察しもしないデスコへ半ば憤慨するつもりが、しかしフェンリッヒはまたも少女の寝言に理屈に徹した思考を乱される。
「……めんなさい……ごめんなさいデス……ヴァルっちさん……」
 少年と合流するまでひたすらそんなことを思っていたのか。か細い声は万の言葉を越える悲哀に満ちており、いまだデスコがどんな道筋を辿って彼らと合流したのか知らない人狼でさえ微かに目を細めかねない物言いに、ついに彼は迷いを吹っ切った。何よりの止めはこの少女の口から彼の主たる吸血鬼の名が出たことだが、それに彼がかの悪魔の性格に引っ張られたと意識したのか、かの悪魔を慕うものとして少女についぞ他者には抱くまいとする感情を持ったと認めたからかは本人にだってわからない。
「デスコ!」
 鋭く名を呼ばれて、少女の全身がびくりと震える。ようやく覚醒らしい手応えを得たフェンリッヒは、相手の心を揺さぶる言葉を頭の中で的確に選択しつつそれを唇に乗せた。
「お前の姉は小僧と一緒に早々に閣下を追ったぞ! お前もここで起きねばまた独りだ、それでも構わんのか」
「……い、いやデス。起きますデス……」
 難しそうだがどうにかデスコが薄く瞼を開けて表情を作ろうとするのを見届け、人狼は微かに得られた流れに口角を上げる。そうとも人心把握はお手のもの、自分の目的のためならばどんなことも割り切ってやるのが彼の方法、または生き方。だからこれから取る方法は、彼にとってなんでもない。
「ならば思い出せ、デスコ。小僧を発見した場所、小僧が白いドレスの女とやらを案内したところを明確に!」
「……あれ。やっぱり、そこにヴァルっちさんいるデスか?」
「そうだ。そして今はお前の姉もそこに向かっている!」
 話を聞いていなかったのかと怒る暇さえ惜しみ、フェンリッヒはデスコの心を揺さぶる言葉をひたすら繰り返す。それでようやく、少女は薄目の状態から普段の半分程度だが目を開けて、意識を覚醒させる方向へと自らを導いた。
「……エミーゼルさんを、見つけた場所は、覚えているデス。ここから五分から十分くらいの、黒い垂れ幕が覆っている窓際で、近くの花瓶は……」
 いまだ完全にデスコの眠気は吹き飛んでいないものの、それでも得られた情報にフェンリッヒは小さく握り拳を作りつつカウチソファに突っ立ったままの少女に背を向けた。唐突な人狼の行動に意味がわからない少女は呆然としていたが、それにこそ苛立った悪魔の青年は軽く背面に身を捩って相手を急かす。
「早く負ぶされ、デスコ! 今のお前を連れるならこの手しかない!」
「……ぁ、はいデス!」
 言われた通りフェンリッヒの肩に掴まるも、小さな脚は人狼の両脇に抱えられる尺にはやや足りない。やむを得ず彼はカウチソファより腰を下にやり、デスコを肩に跨がせる。爪のない赤い手が白銀の柔らかな頭に手を添え、急遽負んぶから肩車に移動形態を変更したふたりは、それぞれ背負われる側背負う側共々緊張感と違和感を持って小さな呻きを漏らしたが、今更それも気にしていられない。特に悪魔の青年は肩にかかる圧力と頬を挟むシフォンのくすぐったさだけでなく足の痺れも重荷ではあるものの、体感の不快など心の疲弊に比べればましだと、やけくそ気味に己を奮い立たせる。
「とりあえず行くぞ。お前はそこから記憶にある場所を見つけ次第オレに声をかけろ!」
「……あれ。おねえさまは見つけなくていいんデスか?」
「目的地が同じなら結果的に合流する!」
 デスコは深々と納得し、尻尾を伸ばしかけるも慌ててそれをもとに戻す。一瞬首を背面に引き倒されそうになった青年はその気遣いに感謝しながらしっかりと腰に気合いを入れて立ち上がった。
 デスコは触手を内包しているため見た目より重いが、それでもフェンリッヒが動けないほどではなかった。どうでも良かったはずの仲間とやらをかような形式で助けてしまった自分の意固地や、周囲の悪魔たちの奇怪なものを見る目さえ無視した今の彼にとっては、最早怖いものなど一つたりともないとも言えたが。
 フェンリッヒは雑踏を器用にかき分けながら、エミーゼルの来た方向をデスコに確認して件のゲートが隠された壁を探す。視界の急激な変化にも少女は割合と順応に対応し、はしゃぐこともなく的確に記憶を探って人狼を導いた。
 だが道中の目印はそう多くない。特徴があるとすればそれは今も一秒として同じところにいやしない悪魔の賓客たちそのものだ。窓際の垂れ幕が下がる壁沿いにひたすら手を当てていったほうが手っとり早いのではないかと思うほどの面倒さはあったが、それでもふたりはこの体勢で探すことを諦めなかった。少女の側は流れに身を任せた結果だか、青年の側はもう吹っ切れた勢いのままを貫き通したかったため。
「……そこ、あそこデス!」
 そうして今や眠気などすっかり失ったデスコが声を高くして目撃した場所を指し示すが、その仕草にこそフェンリッヒは怪訝に眉根を寄せた。
 ゲートの隠し場所であろうところは少年の指摘通り、口頭で案内するには難しいほど特徴がなかった。事実、人狼でさえ指摘を受けてもそこだと手応えを得られないほど、ついついよそではないかと目をそらしかねない程度に特徴がない。生き物が無意識に見過ごす位置として計算された結果ここに隠しゲートを設置しているのだとしたら、さすがは大統領府だと今このときでなければ彼でさえ呆れつつ賛辞を述べただろう。
「あいつらはいるか……?」
「ここからだとわからないデス。おねえさまもエミーゼルさんもちっちゃいデスから……」
 普段のデスコは更に小さいが、そんな野暮な指摘は今は捨ておく。ともかく確かにここかどうかフェンリッヒは静かに幕へと近寄って、今も姉を捜して周囲を見回す自分の肩に乗った少女に顎で触ってみるよう指示した。
 言われた通り少女がそこをめくり上げてみると、冷たく硬い印象の黒大理石の壁があるだけでしかないように見える。それでも赤い手が触ればそこは湖面のように揺らめいて、ここが単なる壁ではないと教えてくれた。
「……どうするデスか? もう中に入っちゃうデスか?」
「安全と正確さを配慮するならここで小僧と小娘を待つべきだろうな。……だが、もしあいつらが先にゲートを通っていたのならば時間を無駄に浪費するだけになる」
「つまり、中に入って待ち伏せか様子見デスね!」
 フェンリッヒはデスコの言にしっかりと頷くも、バランスを崩しかけたため頭をただちにもとに戻す。それで彼は一瞬肝を冷やしたが、お陰で人間と死神の若年者たちがここに先に到着したとしても、自分たちが通ったあとのゲートまで操作するほど慎重な性質だとは考えにくいとの発想も浮かんだ。
「そのまま幕を上げていろ、デスコ。お前はゲートを通るまでで構わんから、そっちであいつらが来るかどうか見張っておけ」
「了解デス!」
 打てば響くような返事を得て、油断なく相槌を打ったフェンリッヒは足音さえ立てずに壁へと顔を近付ける。そうして幕を横にずらしたまま背面を見張るデスコを見、自分の指示通り見張っていることを確認してからゲートに頭から突っ込んだ。
 果たしてデスコの言葉通りにしてフェンリッヒの予想通り、ゲートの向こうは貴人を迎えるべく誂えられたような趣味の良い応接室に繋がっていた。周囲の音はうんと小さくなり、窓を開けているためか夜の薫風は瑞々しく、ほのかに甘い花の香りも混ざって心地良いが、しかしそれ以上に彼の気を引く存在がある。開け放たれた窓のカーテンに隠れるようにして外を伺う茶髪にツインテールの娘と、くせの強い金髪にサスペンダー姿の少年だ。
「……て言うか、デスコはいいのかよ」
「さっきも言ったでしょ。あんな眠そうなのに無理に叩き起こすのも可哀想だって」
「だからって放置するのも……」
「まあ、あれは勢い任せとは言え割と……ううん、結構後ろめたいけど……けどさ、アタシがあんなこと言っちゃった手前、フェンリっちが可哀想だと思ってくれて、案外面倒見てくれてたりする可能性もなくない?」
「都合良く考えすぎだろそれ。……で、あいつらはいるか?」
 どうやらこのふたりは、置いてけぼりを喰らったふたりとそう間を開けずにここに到着したらしい。窓の向こうを警戒心たっぷりに覗き込もうとし、しかし自分たちの存在をそこにいるはずの天使と吸血鬼にばらしたくないためかなかなか顔を出せないでいた。
 つまり彼らは人狼の目的を阻めなかった訳だ。残念な結果に一笑したフェンリッヒは、隠れ潜もうとする死神と人間の年若い男女へと足音を立てて堂々と近付き、振り返って表情を強張らせるふたりを見下す。
「小僧の言う通り。自分に都合良く物事を考えすぎだな、小娘」
「そうデス。置いていくとか酷いデスよ、おねえさま!」
 彼の頭の上のデスコも立腹して自分の存在感を示すと、エミーゼルは驚愕の眼で固まり、フーカはぶっと吹き出し慌てて口元に手を当てるが忍び笑いはなかなか止まらない。
「なっ、お前たちどうして……! まさかデスコ、お前か!?」
「はいデス。デスコのメモリーチップは、普通の生き物の記憶媒体とはひと味違うのデス!」
 自慢げに胸を張っておきながら、しかしデスコは吸血鬼との待ち合わせ場所を記憶していなかった自分に矛盾を感じたらしく、少し居心地が悪そうによそ見をする。だがそんな彼女の内面を伺えるものなどこの場に一人もいやしなかった。何せ一番それを指摘できるはずの彼女の姉ときたら、膝をつくほど笑っているのだから。
「ふぇっ、フェンリっち、なんでっ、デスコ、肩車……! しかもそれでドヤ顔とか……!」
 これからのことを考えれば彼女にはつまらない展開しか待っていないはずなのに、フェンリッヒがデスコを肩に担いだ上で勝ち誇った顔を見せたのはフーカにとってかなりの破壊力に満ちた光景だったらしい。とうとう絨毯に手をついて、ひいひいと喘ぎ声さえ漏らしながら自分の笑いの発作を押さえようとするが、無理を強いると反対にその感情は彼女の中で大きくなっていく。
「……っあ、も、だめ! やばい、お腹いたい……!」
「お前笑うな! あっちに聞かれたらどうすんだよ!」
 対照的に冷静になったエミーゼルは、フーカの肩を掴みつつ逃げ腰でフェンリッヒの動きを警戒していたのだが、その言葉こそ油断の証。死神の少年はともかく人間の少女から手応えのある反応を得られなかった人狼は、その通りと深く頷き――かけてまたもバランスを崩しそうになる。
「そうだな。貴様らのことはあとで済ませることにして、今はオレの目的を達成させてもらおうか」
「……まずっ!」
 人狼の一声でようやくフーカが我に返るももう遅い。フェンリッヒはそのまま彼らの横を悠々通り過ぎ、テラスにいる主に声をかけようとしたのだが、それより先に彼の肩に乗ったままのデスコがカーテンで作られたオーロラの向こうを覗き込んで高い声を漏らした。
「……あれ。おふたりともいないデスよ?」
 残りの三人がその発言に目を剥いて、慌てて窓の外に顔を出せばデスコの言葉通り。二脚の肘掛け椅子と酒の用意が残されたままのテーブルが設置されたテラスには、人っ子一人いなかった。

◇◆◇

 本人としてはそこそこに勇気を出して放った一声が、さしたる反応もなく流されてしまって彼女は僅かに肩を落とした。しかし冷静になって考えてみれば、ただ彼と会って話がしたかった程度で着替える手間をかけるのはやりすぎたようにも思い、暴走を起こした自分に早々後悔する。
 だが吸血鬼は寛容なもので、踵を返そうとした彼女にまたわざわざ着替えに戻る必要はないと制してくれた。それに彼女は少し救われた思いで笑って感謝したのに、またも相手に顔を盛大に背けられてしまい、じんわり後悔を胸に滲ませる。
 基本的に何をするにも冷静で慎重な行動を心がけている彼女にとって、この吸血鬼に関する行動の多くは感情的で衝動的で、自分らしくないと戸惑いさえ覚えていた。それでもやはり根底に漂う切なさが尊いから、理屈をねじ曲げ無理をしてしまうことも多々ある。――例えば四百年振りに再会した際、庇う目的とは言え彼の体に腕を回してしまったことや、任務の最中なのに適当な理由をつけて彼のそばから離れまいとしたことや、天界の法を多く破ってしまったこと。それらは理性の面では反省すべきことばかりなのに、今思い返せばあれで良かったと重苦しいながらも誇らしく思ってしまうのはどうしたことか。
 今も吸血鬼とつかず離れずの距離を保ち黙々と歩くアルティナの胸の内は、後悔と言葉にはなかなか言い表せない、甘くも切なく、そのくせどうにも後ろめたいようなむず痒さばかりがこみ上げていた。
 テラスで向かい合っていてもなかなか会話が弾まないからと、主催者の言葉に甘えて庭の散策へと繰り出したふたりを包む空気と距離間はいまだにぎこちなさを保ったままだったが、それさえも奇妙に心地良い。大統領府で開放されているホールの明かりと喧騒はここからでは遠く、しかし寂しさを感じない程度に存在感を放っているからか。ふたりの間を包んでいた長い沈黙を、彼女は明確に耳に響く鼓動とともに落ち着いた気持ちで打ち破った。
「……不思議ですわね」
 甘さを孕んだ夜風に滑り込むようなアルティナの声に、吸血鬼が思わず足を止める。彼が動きを止めても何枚も重ねた蝙蝠の羽状の外套は夜風に軽くなびいており、その様子が彼女の脳裏に彼と初めて出会った頃を連想させた。
「あなたがその姿でいると、昔に戻ったような気分になります。あれからもう、四百年も前のことなのに」
「……俺もだ。普段はそうでもないと言うのに、今はお前のその背中の羽を、一瞬忘れかける」
 桃色の髪を夜風にもてあそばせる彼女を眺めての発言に、お互いに同じ気持ちだとそれぞれの胸のうちを確認したふたりは、ようやくまともに視線を交わして微かに笑い合う。それだけで、さっきまでの緊張感が随分と解れた気がした。
「今宵は楽しめたか。……と言っても、こんなものは大体朝まで続くが」
「ええ。さすがは魔界の祝宴ですわね、華やかなのは想定の範囲内ですけれど、危険な目にも遭いましたもの」
 それはそうだろうと、ヴァルバトーゼは肩を小さく竦める。そんな言葉を聞かされても彼の胸に不安の陰はない。見た限り今の彼女には傷一つないのだから、その危険な目とやらもどうにか切り抜けられたのだろう。
「怖いもの知らずのお前にはこれくらいが丁度良かろう。尤も、俺を差し置きどこぞの馬の骨に恐怖を覚えたのならばそれはそれで癪に障るが」
「貞操に危機に直面した際に抱く感情は、突き詰めれば恐怖なのでしょうか?」
「……ん?」
「いえいえ、お気になさらず」
 聞き逃すにはどうかと思う発言を耳にした気がしたが、言われた通りヴァルバトーゼは彼女の言葉を深く考えないことにしてようやくふたりはぽつぽつと歩きながら会話を交わし始める。
 話題はほどほどに豊富だが、静かな庭園の中に溶け込むようにふたりの口調は穏やかさを保って薄闇の中で響き合った。今夜の祝宴の感想や、それぞれ祝宴の最中にあった特出すべき出来事や仲間の様子。ヴァルバトーゼがフーカたちへの踊りを褒めてからふたりの教育方針の相違も浮き彫りになり、熱い議論が交わされそうになったもした。当然、彼女が男装を選んだ理由も話題に上り、年若い面々に説明した以外のものも含めたその理屈っぽさに彼は心底呆れたものだ。
「天使の身で魔界に忍び込み『徴収』をしていたお前が、今更誰かの目を気にするなど……。随分とおかしな話ではないか」
「言われてみればそうですわね……。では多分、あのときのわたくしは気後れしたのでしょう」
「何にだ?」
「あなたにこう言う格好をして見せても、素っ気ない態度を取られることに」
 真正面からずばりと指摘を受け、ヴァルバトーゼは危うく舌を噛みかけその隣に置かれた悪魔の石像と同じような顔をする。それをどうにか回避して派手にしかめ面をする彼に、アルティナはくすりと笑ってから嘆息した。
「けれど、予想通りの態度を取られてもどうにかなるものですのね。お話をする分には問題なかったのですから、最初からこの格好でも良かったかもしれません」
 しかしその笑顔を眩しく眺めたヴァルバトーゼは、反対に当初からアルティナがドレス姿でなくて良かったと今になって安心した。『業欲の天使』としてこの魔界の中でさえもある程度の人気を博していた彼女がかような姿でおれば、相手が天使であっても気にしない、良く言えば寛容な、悪く言えば悪食な悪魔たちが取り囲んだ可能性もある。男装の彼女にでさえ、同性であっても魔手を伸ばそうとした悪魔がいると先ほど聞いたからその可能性は尚更に高い。
「……それにしても、そんなものいつの間買った。まさかと思うが二着作ったか」
 服になどあまり興味がないが、その話題に固執されたくない彼は慌てて視線と話をそらす。お陰で丁寧に刈り込まれた芝生を見ているだけのなかなか格好がつかない状態になった彼に、アルティナはいえいえと暢気に首を振って見せた。
「フロン様に今月と来月の『徴収』代が危ういと説明したときに、理由を根掘り葉掘り聞かれまして……。ならこれを持っていきなさいと大きな衣装箱を渡されましたので一応言われた通りにしましたの」
 その中身を確認した際、ヴェールと青いリボンが付着したガーターベルトが混入されていたがそれらを彼女は丸々無視した。尊敬する上司とは言え、自称愛の伝導師が暴走を起こすことはよくあるので、こうして部下たる彼女がフォローすることも少なくない。いやまあ、いつぞやの調合金ロボはフォローできなかったか。
「……用意が良すぎるな。まさかと思うが、その金も」
「多分、わたくしの『徴収』費から抽出したのでしょうね。だから着る気もなかったのですけど……」
 けど何か。視線のみでそのあとに続く言葉を促したヴァルバトーゼに、天使は一足先に小さな桟橋に駆け上がるとほろりと笑った。睡蓮が転々と浮かぶ小池を跨ぐように設置されたそこは風通しがいいのか、彼女の桃色の髪が先よりも大きく浮かび上がる。背中を覆う髪の隙間から、白い肌が微かに輝く。
「狼男さんと少しお話した際、吹っ切れてしまいまして。……正確には勇気を貰ったと言いますか、自棄を起こすよう煽られたと言いますか」
「ほう、あいつとここで多少は親密になったか」
 天使の説明を譜面通りに捉えて喜色を見せるヴァルバトーゼに、さあとアルティナは肩を竦める。しかしあの人狼との会話がなければ、今彼女はここにこうしていなかっただろう。
「煽られたと言うなら、ほかの皆さんもですけれどね。……フーカさんにもデスコさんにも、エミーゼルさんにも」
 皆が皆、アルティナの背中を少しずつ押していって今こうしていられると思うと、彼女は仲間たちの顔を思い浮かべるとともに胸の奥に熱さを覚える。
 あのときだってそうだ。どうにか自分の罪の責任を取ろうと、四百年を孤独に足掻き続けた彼女に手を差し伸べてくれたのは、清らかな羽を持つ金髪の天使だけでも、四百年前のたった三日の約束を覚えてくれていた黒髪の吸血鬼だけでもない。勿論、自分の住む世界を、大切なものを壊されたくないと強く願う気持ちがあると理解できているけれど、それでもアルティナは彼らにも救われた。自分の意思を認め、助けようとしてくれる仲間がいることが、ひとりではないしふたりでもないと教えてくれるひとたちがいることが、何よりの励みになった。
「……今わたくしがここにいられるのは、皆さんのお陰です。ですから感謝していますわ。勿論、あなたにも」
 すべてのはじまりの娘の笑みに、吸血鬼は軽く目を見張る。
 星が瞬く魔界の夜空を背に、鮮やかな桃色の髪が優雅に広がる。その隙間から純白の天使の羽を覗かせて、肌も服も穢れのない白に身を包んだ青い瞳の娘が、たおやかにもしなやかな強さを滲ませて浮かべるその笑顔は、今の彼の心に何よりも印象深く響く。恐らくはその言葉もまた、彼の胸に光を伴い響いたためか。
「俺もだ。……いまだお前との約束は果たされていないが、それでも約束に固執することで得られた結果として今があり、この状況が続くことは純粋に誇らしいし――そう、楽しい」
「ええ、それに嬉しい」
 木霊のように言葉を告げあったふたりは、互いの距離が少し近いと自覚し慌てて距離を取りながら歩を進める。苔と水の匂いとほのかな冷気が心地良かった桟橋をやや焦り気味に下った先は白い花々が咲き誇る生け垣で、アルティナはその周辺の空気を臓腑に染み込ませるように深呼吸をした。
「……いい香り。梔子ですわね」
「俺には多少強すぎるな。……この匂いに酔いかねん」
 事実、ヴァルバトーゼはこの生け垣にたどり着いてから、いやそれより以前から少しずつ、目眩さえ覚えかねないほど胸を切迫する感覚に襲われていた。多分にここの匂いが原因だろう。先んじるアルティナの姿を目にする度に強くなるのはきっと錯覚だ。
「あらあら。……では、少し戻ります? それとも急ぎます?」
「急げばよい。匂いが惜しいなら拝借しておけ」
 言って吸血鬼は手近にあった生け垣の花を摘み取り彼女に手渡すが、それを白手袋越しに受け取る彼女は口元に苦笑を刻む。
「拝借しておけと命じたあなたが手折るのはどうなのかしら?」
「安心しろ。ないとは思うが賠償金を払えと言われんよう、俺の責任にしてやったまでだ」
「それはどうもご丁寧に」
 受け取ったアルティナは、しかし花の茎の短さから手に持つにはすぐ落としそうだと判断したのか。暫く花とにらめっこをしていたが、胸につけるにはブローチなど引っかけるものがないし谷間に指すのも何か違和感がある。かと言って首のチョーカーに巻きつけると痛くなりそうで、結果的に耳の上、髪飾りのように刺すことにしたらしい。
 静かに金の留め金をかき分けて耳の上に白い花を乗せた彼女は、一部始終を自然と眺めていた吸血鬼に微笑みかけた。
「大丈夫ですか?」
「……な、何がだ」
 慌てて吸血鬼に目をそらされ、いつの間にかドレス姿を見せたときと同じような態度を取られたアルティナは吐息をついて説明する。
「花が落ちないようにしっかり付いているかと伺っているんです。こちらからはあまり見えないからちゃんと……」
 彼女の危惧は的中した。花はアルティナが微かに動いただけでゆっくりと前のめりに動いて、彼女の肩に一度弾んで着地すると続いて胸を伝い、腹を通ってスカートの滝を滑り落ちかける。それを慌てて紗の手袋が掬い上げようとすると、同じく地面に花が落ちるのを阻止するためか。厚手の白手袋が同じく彼女の臍の辺りで花を掬い上げ、ふたりの手がぎこちなく重なる。
「っ……」
「……あ」
 今までは腕も組んでいなかった。手も重ねていなかった。隣に並んだときだって肘さえつかない距離でいたし、花を受け渡すときだってその偶然は貫けたのに、不意にこんなところで互いに触れて、ふたりは僅かに身体を強張らせる。
「ヴァルバトーゼ、さん……」
「……アルティナ」
 顔を上げ、互いに名を呼んだだけなのに、胸にこみ上げる想いが強くなる。とろりと器の縁から蜜のようなものが溢れかける。理由はわからない。否、わからなくても構わない。けれど今は、その偶然に甘えてふたりは互いの距離を詰めた。黒と桃色の前髪がさらりと混じる。
 手にも布越しなのに互いの鼓動と熱と、匂い立つ周囲の花々よりも尚はっきりとした体臭を感じ、女は微かにはにかんで、男は小さく呻きを漏らす。しかしその仕草でさえも、ふたりの気持ちをますます高めるようで。
 女の細腰に手が添えられる。男の胸に手が添えられる。瞼がゆっくりと伏せられるが、これはどちらのものかはわからない。確認しようがない。そう、ならば互いのものなのだろう。更に薄く開いた唇から、相手の息が自分の肌に触れて、それから――。

「……ぇぇえええええい!! みんなっ、オレ様のコンサート、楽しみにしてくれてたかぁああああ!?」

 突如として聞こえた割れ鐘めいた拡張機の音声に、ふたりはそのまま硬直した。



◇◆◇

「あんの馬鹿っっ!! 折角のキスシーンを邪魔とかなに最悪なことしてくれてんの!?」
 生け垣の向こうから一連の光景を覗き見ていたフーカが猛然と立ち上がるが、その隣では同じく立ち上がったフェンリッヒが彼にしてはこれ以上ないほど力強い喜びを噛みしめる顔で握り拳を作る。
「……よくやってくれたアクターレ! オレの票は常に閣下のものだが、今期ばかりに限って言うなら貴様を支持してやる!」
「キスの邪魔で支持ってどうなんだよそれ……」
 その下ではいまだ座ったままのエミーゼルが、姉の指示通り、人狼の口と目にしがみついて今の今まで彼の阻止の邪魔をしていたのについに振り落とされて目を回すデスコの頭を撫でてやっていた。しかしそんな少年の襟首をひっ掴んで、フーカがついに生け垣の外に出る。
「どうでもいいわよんなこと! てゆーかエミーゼル! あんたのせいでやっぱりあの馬鹿戻っちゃったじゃないのよ! どう責任取ってくれるの!?」
「えー……あれ、ボクのせいか?」
 そう言えば祝宴にたどり着くまでの廊下でそんな会話があったかもしれないが、会場から遠いはずのここでさえも届く大音量で微妙な歌声を響かせている今期大統領の異常な悪運の強さと粘り強さがこの結果を呼んだのではないかと思った少年に、人間の少女はツインテールをたわませるほど激しく頷いた。
「当然でしょ! あんたが気楽に約束なんかするからフラグ立ってこれよ!?」
「……あぁ、まー、約束……しちゃってたなあ……」
 気楽に交わしてしまった約束を思い出したエミーゼルは、こちらを見て硬直しきっている吸血鬼と天使ふたりとしっかり目が合う。自分のせいではないけれど、異常に居たたまれないのはやむを得ぬ。
「い……いや、ボクらは別に覗いてた訳じゃ……!」
 さすがにこれは失敬だから言い繕おうとする気持ちはあったのだが、四人の中で誰よりも客観性を持っている少年は振りかざしかけた手を諦めて下げる。誰がどう見たってその言い訳は無理だと考え、申し開きもできないものとエミーゼルは天を仰いだ。
「いや、うん。覗いてた。ふたりとも、悪い」
「アタシらは別に悪くないわよ。邪魔しようとするフェンリっちが悪いんだし」
「真っ先に嗅ぎ付けて真っ先にオレにデスコをけしかけたお前がそれを言うか!」
 フェンリッヒの怒号をフーカは涼しい顔で受け流し、やれやれと肩を落とすといまだ目を回していたデスコのほうに振り返り、微妙に音を外し気味のホールへ向かって傲然と指さす。
「デスコ! 折角のラヴシーンを邪魔したあいつをはっ倒しに行くわよ!」
「……ぁう?」
「あうじゃない! 鋼の掟を思い出せないってんなら今ここで置いてくわよ!?」
 脅されて悲鳴を上げたデスコは、さっきまでフェンリッヒの頭の上にいた自分がいつの間にか芝生の上で横になっていた不思議にも気付かず立ち上がり、いつの間にか生け垣の向こう側にいる姉のあとを追う。
 妹が自分の命令を聞き入れてこちらに向かってきたと確認したフーカは、その姿に短くも満足げに頷くと、呆然と立ち尽くすふたりの横を笑顔で横切った。
「安心してね、ふたりとも! ちゃんと仇は取るから!」
「……おねえさま。それ多分、意味通じてないと思いますデス」
 恐らくは無念を晴らすと言いたいのだろうが、それもわかっていない表情で目を瞬くフーカの手に飛びつくと、デスコはまず吸血鬼に頭を下げた。
「ヴァルっちさん、デスコを探してくれてありがとうございましたデス!」
 続いて遠慮なくふたりを追い越していく姉へと一端背を向けて、デスコは天使に対し小さく胸を張る。
「アルティナさん、デスコはきちんとおねえさまと踊りましたデスよ!」
「エミーゼル! あんた約束どうすんの!」
 妹の言葉のあとに、まだ生け垣の前で突っ立ったままの死神の少年に対しフーカが呼びかけると、ああと我に返った声が上がった。
「……仕方ないな。行くよ、行けばいいんだろ!」
 重い吐息をついたエミーゼルは、姉妹と同じくふたりの横を通ると、吸血鬼の腕を同情を込めてそっと叩いた。
「あと、お前もこの約束に付き合わせる……よな、確か。ほんとごめん」
 それだけ言って申し訳なさそうに早歩きでふたりを追い越すと、そのあとをいつの間に歩いていたのかフェンリッヒが姿を見せ、一つ派手な咳払いをして大仰に礼をする。
「……お迎えに参りました、閣下。我々もあちらに戻るべきかと」
「う、うむ。小僧の言う通り、約束はしていたからな」
 そこでようやく我に返って体を離したふたりのうち、当然フェンリッヒは吸血鬼の手を取り大統領府のほうへと導こうとしたのだが、主たる悪魔はそれだけでは足りないとばかりに軽く身を捩ってひとり立ち尽くす天使に手を伸ばす。
「お前も来い、アルティナ」
「……あ。は、はい」
 右手で執事の手に導かれ、左手で自ら天使を導くヴァルバトーゼの体勢は、彼を間に挟むふたりにとって多少に滑稽に見えたのだが。そんな彼をこそ慕う男女はなんとも言えない顔をして吸血鬼に視線を注ぐ。
「どうした、お前たち。言いたいことがあるなら言え」
「では恐れながら、閣下……。その体勢は少し、なんと言いますか……」
「ラインダンスの上半身の振り付けみたいですわね」
 適切な表現だったらしいが相手がアルティナなので動揺を押し隠せずも睨みつけるフェンリッヒに、止せと一言吸血鬼が制すると彼はなんともない顔で肩を竦めた。
「仕方あるまい。俺はお前たちのどちらも必要なのだから、お前たちを手放すわけにはいかんのだ」
 あっさりとした吸血鬼の本音の吐露に、人狼は戸惑いながらはあと一声漏らし、天使はこらえきれぬように自由なほうの手で口元を隠してくすりと笑う。
「まあまあ、ヴァルバトーゼさんたら欲が深くていらっしゃること」
「俺は誇り高き吸血鬼にして悪魔だぞ。悪魔の欲が深いのは自然の摂理、当然のこと」
 それもそうでしたと納得したアルティナに、苦い視線を送っていたフェンリッヒは少しは調子を取り戻したか。吐き捨てるようにせせら笑う。
「……思い上がるなよ、アルティナ。この場ではお許し頂いたが慈悲深い閣下のご厚意あってそこにおられること、ゆめゆめ忘れるな」
「わかっていますとも、フェンリッヒさん。わたくしはヴァルバトーゼさんが手を差し伸べてくれる限り、このひとの隣にいるだけです……。そもそも隣と言いましても、左右ある訳ですからひとりだけではどうしても片側空いてしまいますのよ?」
 吸血鬼を挟むふたりの間でのみ交わされていたはずの会話に、ヴァルバトーゼは申し訳なさも話についていけないとも全く感じていない顔で、深く頷き割って入る。
「左右ならまだ圧迫せんな。前後は異常に歩き辛いが」
「いるとするなら、背中を押す方と先を導く方でしょうか」
「はん、閣下の先に道を造るものなど……いえ、僭越ながらこのフェンリッヒ、閣下の露払いであれば粉骨致しますが」
「そう身構えずともよい、フェンリッヒ。先のアルティナの説明を当てはめても、お前たちで十分前後も事足りる」
 軽く澄ました顔で告げるヴァルバトーゼに、今度こそアルティナはおかしそうに声を立てて笑う。フェンリッヒは無礼だぞとそんな彼女に噛み付くも、天使の反応を見ても不敵そうに口元をつり上げる主の手前、どうとも言えない顔で視線を彷徨わせた。
 そんな三人を遠目に見ていた――訳ではないだろう。騒音一歩手前ほどのギターだのドラムだのキーボードだのの音が響き渡る大統領府の大ホールに繋がるテラスの前で、エミーゼルとデスコを引き連れたフーカがそれらの音に負けないように声を張り上げる。
「ねーヴァルっちー! ヴァルっちはアクターレのライブに付き合うのー!? どうすんのー!?」
「ほかに何か策があるのか、小娘!」
 同じく大声で問いかけるヴァルバトーゼに、少女は遠目からでも不敵なものとわかる笑みを作って見せて、いつの間にかデスコの背中から引っ張り出したらしい。馴染みのバットを肩に担ぎ、プリニーの帽子を目深に被って言い放つ。
「いやー! 歌を大人しく聞くのと、一曲辛うじて歌わせる程度に邪魔するか、やっつけるのはさ、全然違うじゃない!?」
 物騒な発想だが、ヴァルバトーゼにとっては悪くはない提案であるらしい。目を瞬いて顎に手を添えた彼は、感心したように唸った。
「……ふむ、小娘にしてはよく頭が回るな」
「今日のあれの頭の回転は異常です。オレも何度振り回されたことか……」
「若いひとに振り回されるとぼやくなんて、お年寄りみたいですわね」
「五月蝿い。人間の年齢で言うなら貴様もその部類だろうが」
 ステレオで聴こえてくるやり取りをそこそこに無視しながらヴァルバトーゼは自分たちの返答待ちのフーカに向けて、確かな意思を伴い朗らかに言い放つ。
「ではお前の好きなようにしろ、小娘! 俺たちはお前を援護する!」
「アイアーイ! ……よっしゃ、ヴァルっちのお墨付きが出たわよふたりとも!」
 やる気満々のデスコと、少し申し訳なさそうだがやはり大人しくライブに付き合う気はないらしいエミーゼルとそれぞれ頷きあったフーカは、テラスから窓を開けて更に音量を増したホールに向かって叫んだ。
「たーのも―――!!」
 呆気に取られた賓客たちのどよめきが、先手の三人に強い視線とともに降り注ぐがそれを彼らは平気な顔でホールの中へと踏み入って。その背中に少なからず頼もしさを覚えた後手の三人は、ようやくホール前のテラスにたどり着くとそれぞれ静かに手を離し、フーカたちと同じく胸を張って歩き出す。
「アクターレ!! 貴様との約束、果たしに来てやったぞ!!」
 その中でも中央に立つヴァルバトーゼが、フーカに負けないくらいの大声を放ちホールの空気を微かに振動させる。
 それが切欠。それが転機。魔界の上品ぶった祝宴が、悪魔らしく化けの皮を剥がして、己が暴と暴をぶつけ合う大乱闘を巻き起こす。それがスイッチ。それがレバー。地球を救ったとされる六人の、新たなる戦いの日々を引き起こす――

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2011/07/06

 大統領府の頂点にそびえる大時計の短針と長針が、ついに重なり日を跨ぐ。その古い、幾千もの歴史を積んで奏でてきた鐘の音になんの感慨を受けてかふと聴き入ってしまっていた一行は、それが五回目にも突入した辺りで誰からともなくほうと肩の力を抜いた。
 全員で大人しく鐘の音なんぞに聴き入ることが珍しいし、らしくないと意識したからか。このまま何も言わずに自分達に振り当てられた部屋まで戻るつもりだったフーカは、タイツであった物体を別の手に持ち替えながら舌を動かす。
「えっと、なんだっけ。地球って言うかアタシのいた国ではさ、年越す前に百十回くらいこんな鐘の音が聞こえてくるのよね」
「おねえさま、除夜の鐘は百八回デス。煩悩の数で、それらを一つずつ打ち消していくことで新年を迎えるときには清らかな気持ちになると言われていますデス」
 だからなんだと言われそうではあったが、それでもこの場に適した話題の持ってきたはずのフーカに、いつも以上の低空飛行でいたデスコが明確なフォローをする。しかしある程度もの知らずの自覚がある少女は、妹の補足に苦しゅうないとふざけて頭を撫でる程度の余裕はあった。
「へぇー……。けどフーカの煩悩じゃ百八個で足りないだろ」
 失礼なことを言われたフーカだが、サスペンダーで浮き彫りになったシャツを黒く汚したエミーゼルの言葉に怒るどころか鼻で笑い、デスコの頭に触れていたのとは別の人差し指を突き立ててそれをちっちと横に振る。
「アタシのは煩悩じゃなくて野望よ。ついでに夢はでっかく世界規模なんだから、片手で数えても足りるくらいだし」
「お前のその野望とやらが煩悩まみれなら意味もないだろうが」
 上着を汚してしまったため、ベスト姿で肩を竦めて辛辣に指摘するフェンリッヒに、今度はどうにも琴線に触れるものがあったのか。単純に煽られることへの耐性がすぐに限度を迎えた可能性も高く、茶色のツインテールが翻り怒りの視線を投げかける。
「フェンリっちの野望もどうせおんなじでしょ! 閣下のためとか言いながら実質自分とヴァルっちだけのためのパラダイス造りとか、ぶっちゃけ退くわよ!?」
「だっ、誰がいつそんなことを言った! オレは閣下にこの世界の頂点に立っていただきたいだけであって……!」
 何故か動揺を示す人狼と、それをからかう少女のやり取りに、アルティナは薄らと笑みを目元に刻む。彼女の脳裏には、本当に機材を持ち帰ったアクターレの突発ライブに彼らが襲撃したことを切欠に始まった大乱闘の最中の、近接攻撃手のふたりのいつも通り八面六臂の活躍が鮮やかに思い描かれていた。ちなみにその大乱闘は彼らが退出するつい三十分前まで続けられていたのだから、別魔界も含め悪魔とは概ね血気盛んな種族なのだと一行は心底思い知らされたものだ。
「あれだけ暴れ回っていらっしゃったのに、お二人とも随分と元気ですこと」
 戦線に特攻する戦い方ではないため幸いにして目立った損傷がなったアルティナの隣では、こちらも傷も汚れも一つないがそれは明確な強さあってこそのヴァルバトーゼが戦場では見せない穏やかさで瞼を伏せて彼らを気遣う。
「しかし最後まで居残る訳ではないのだ。あいつらももう疲れたのだろう」
「ふぁい……デスコももう限界デス……」
 ドレスの刺繍とよく似た染みをつけているため衣服の汚れが目立たず、乱闘が収束するまでラスボスを目指すに恥じない働きを見せたデスコの大欠伸に感染したか。それを眺めていたエミーゼルもまた欠伸がこみ上げるもこちらはどうにか噛み殺し、続いて大きく背伸びをする。
「ボクも疲れた……! ああもう、まさかこれで終わるだろってときにあんな大技ぶちかますなんて……どこの誰だよって話だし。……本気で死にかけたぞ」
 そんな局面でもどうにか今はシャツを煤だらけにする程度で生き残った少年に、ああとヴァルバトーゼは高い声を漏らして、心当たりのある悪魔の特徴を述べた。実際にはホールの熱が引く二時間ほど前、流れで彼らと戦っていた悪魔たちの攻撃が一旦衰えたのだが、浮ついた空気を裂くようにして新手が現れたのだ。その新手の挨拶代わりの一撃は実に効果的で、彼らは一挙に後手へと追い込まれた。勿論、今の彼らは五体満足でいるのだから、その危機はどうにか退けられた訳だが記憶のほうには色濃く残る。
 その悪魔について外見と名前を記憶の中で一致させたエミーゼルは、あのひとは温厚で紳士的だと思ったのにと落胆するも、騙されるほうが悪い魔界において同情の空気はごく薄い。だがフェンリッヒもその悪魔には痛い目に遭わされた思い出があるため苦い顔で直接手を下したかったと吐き捨てて、そんな人狼にアルティナは珍しく彼のほうから支援を求めていた理由にようやく合点がいったと手を叩いた。
 以降についてのやり取りは普段通り。誰それが手強かっただのあそこであんな真似をしたのは誰だだの。効率的な戦法を好むものから猪突猛進型までいる面々では、毎度のことながら戦いが終わったあとの感想を話す場を設けると――つまりそれは反省会とも言える――収拾がつかなくなる。意見を合わせないしお互いろくに褒めやしないものの、それでも今まで彼らは数々の勝利を収めどうにか生き抜いてきた事実によって深まる関係を築いている。だからこのときも概ねそんな具合で、険悪なようで円満なような、じゃれているようで殺伐としているような相反する雰囲気に浸りながら、それぞれ好き勝手に言い合っていた。
 そんな中で、本人としては別段収集をつける気もなかったのだろう。しかし一際高い声で宣言したフーカの笑顔に、話題が緩やかな変化を遂げた。
「けどま、良かったわよね!」
 デスコがいつも通り一も二もなくこくこくと頷いて、エミーゼルは勢いに引きずられるよう思わず同意を示す。フェンリッヒは肩を軽く竦めて返事を濁すが否定の声はなく、アルティナがはいと笑って、ヴァルバトーゼも薄く笑いつつ顎に手をやる。
「ああも多数を相手に戦うのは実に久しい経験だった。しかも敵も味方も大きな目印がない故に、巻き込みはなるべく避ける方針のため不意の攻撃もできんと言うのはなかなか……」
「違うわよヴァルっち! そっちじゃなくてこのパーティー自体のことを言ってるの!」
 指摘を受け、ヴァルバトーゼは目を丸くする。本気で乱闘しか頭になかったと見て呆れたフーカは、彼のほうへと回り込むと肘で相手の腕を小突いて盛大にからかった。
「アルティナちゃんとデートできた感想聞かせなさいよ~。いやまあキスは予想外の邪魔入ったけどさあ、そんでもやっぱり良かったんでしょ~?」
「なっ、何を急に……!?」
「ふ、フーカさんっっ! そう言うフーカさんは、結局王子様は見つかったんですか!?」
 声を裏返らせるふたりの、まだその手の話題には頭を回す余裕があるアルティナが慌てて少女に訊ねると、そこはフーカにとって触れられたくない部分だったらしい。ううと小さく呻くとプリニーの帽子を脱いで、苦々しげに呟いた。
「それがいなかったのよね~。まあ正確には見つける暇なかったって言うか。デスコとはぐれてそれどころじゃなくってさー」
 話題をそらす目的以外にも多少は甘酸っぱいロマンスの片鱗を期待していた節があるのか。残念そうにそうでしたのと声を落とすアルティナに、そうなのよとフーカはしみじみ帽子を弄ぶ。
「ま、乙女チックとは程遠かったけど、人生初のパーティーにしては上出来ってくらい色々面白かったから、そのくらいはいいかな。みんなとも踊れたし……」
「ボクはお前に投げ飛ばされたけどな」
「オレはひたすら足を踏まれた」
 吸血鬼以外の男性陣の補足説明に、全容を聞かされていなかったヴァルバトーゼとアルティナが信じられないものを見る目をフーカに向ける。特に吸血鬼は祝宴の最中に行われた彼女の破天荒な振る舞いを全く知らずにいたため、足を止めて身構えるほどだった。
 当然、妹さえも似たような反応だったのを思い出し、フォローする者もなく自分の株が猛烈な勢いで下がっていると知らされたフーカは、両手と首を振って誤解を解こうと試みる。
「いやいやいや! エミーゼルのは事故よ事故! ……けど、あれね、謝ってなかったのは悪いわよね。ほんとごめん!」
「軽っ!? つか謝るの今更かよ!?」
 遅すぎると容赦なく且つ真っ当にエミーゼルは指摘するが、フーカはあまり反省の色も見せずに口先を尖らせる。まあ少年だってアルティナにすぐに回復魔法をかけて貰えたし、そのあとこの少女が足の痺れが残るほど長期間正座をさせられたと知っているからこそその程度の反応で済ませられるのだが。
「あんたも全然その話持ち出さなかったでしょ……。あとフェンリっちのほうは、まぁ、えぇーっと、その……相討ち?」
 討ってない、とフェンリッヒが無言で頭を振る姿を見届けると、暫く五人はフーカが何を言いたかったのかを推理する時間を設ける。誰もそんなことは言ってないし望んでいないのだが、今の会話の流れの中で自然とそうなってしまったため。
 協議の末、痛み分けが最もフーカの言いたいことに近いのではとの結論を導き出して満足する五人に、雰囲気的にそうなのだろうと受け止めるくらいに少女は空気を呼んだ。
「うん、それだからさ。アタシは謝らないしフェンリっちにも謝ってもらわなくていいかな」
「当然だ。誰が貴様なんぞに謝るものか」
 彼女としては海よりも広い寛容な態度を取ってみたと言うのにつれない反応をされてしまい、フーカは軽く頬を膨らませる。しかし今は全身が乳酸で凝り固まったような疲れが巡っているため、肩の関節を解して回す程度で胸に込み上げる怒りを受け流す。
「あとは、もう一週間くらいはいいかなってくらいスイーツ食べれたし。……あと映画みたいなラブシーンも見たし~」
 最後の一言でまた話題を戻されるかと慌てた男女の姿を見ていなかったらしい。姉とは対照的な薄暗い様子で、デスコがぽつりと呟いた。
「けどおねえさま、寝そうだったデスコ放置したデスよね……」
 デスコ本人にそれを指摘されてしまうと、さすがのフーカも気まずさを覚える。勢い任せだからその通りに違いないが、そればかりはあっさり認めて謝り難く、彼女はそっぽを向いて言い訳を口にした。
「せ、戦略的判断とかそう言うやつよ、あれは! まさかフェンリっちが自発的にデスコに肩車するとか思わなくって……!」
「ぐ……っっ!」
 フーカの話題だったのに急に巻き込まれたフェンリッヒは毛を逆立てるが、それでも彼もまた疲労を感じていたため人間の少女を視線のみで脅す。しかしその視線に気付きもしないヴァルバトーゼは、感慨深げに執事を見やりその話題に食いついた。
「ほう。フェンリッヒがかような真似をするとは……お前もついに、こいつらに心を開いてきたと言うことか」
「ご、誤解ですヴァル様! あれは止むに止まれず、その場で最善の選択を取ったまでのこと!」
 言い繕うフェンリッヒの発言を受け、ならばと素朴な疑問が湧きあがったエミーゼルが不思議そうな目をしているデスコへ落ち着いて訊ねる。
「けど、ボクらとまた会ってからお前らずっとあのままだったよな。あれはなんかそれっぽい事情があったのか?」
 自分にではなく肩に乗せていたデスコのほうに訊ねられ、更に動揺を示すフェンリッヒだが、その話を遮ろうと舌を動かすには少しタイミングが遅かった。悪魔の少女はさして思考に間をあてることもなくあっさり答えてしまったのだ。
「特に理由はなかったデスよ? フェンリっちさんに降りろって言わなかったから、デスコはずっとフェンリっちさんの肩の上に座ってたデス」
「うわあ。なんかもうそれはアレね。馴染んでるってレベルじゃないわね……」
 普段のように茶化すのではなく、趣向を変えてフーカは腕を組みしみじみフェンリッヒに生温い視線を送る。普段以上に神経を逆撫でされた気分の人狼は、それは止めろと牙を剥くが当然それで大人しくなるような少女ではないし、外野もまた同様にちゃっかりしている。睨まれていない天使がまず口元を押さえながらも忍び笑いを漏らすと、吸血鬼もまた廊下に響く声で喉の奥を震わせた。
「いいことではないか、フェンリッヒ。お前が俺のように仲間を信じると言うのなら、主たる俺もまた嬉しく思うぞ」
「……再三申し上げております通り、わたくしが信じるのはヴァル様のみでございます。こいつらは体のいい駒、利用価値がなくなれば切り捨てるものでしかありません」
 酷い物言いをされてしまっても、フェンリッヒの表情は奥底の感情を意識して作ったような、わざとらしい苦々しさに満ち溢れていたためか。発言を受けて主従から一端距離を置いてやった女子どもの四人はさして憤慨することもなく、それどころかああはいはいと適当に受け流して人狼の神経を更に煽り立てる。
「フェンリっちってほんとデレないって言うか、デレた自分を認めようとしないわよねー」
「ツンデレがアイデンティティの方ですもの、仕方ありませんわ」
「デレてしまった過去はもう否定しようがないんデスけどねえ……」
「ま、そう言う奴だってわかって付き合ってやるのが仲間ってもんだろ。ヴァルバトーゼ以外にデレてるフェンリッヒとか、誰か想像できるか?」
 エミーゼルの問いかけに、女性陣が歩行も含めてぴたりと動きを止める。そうして三人は各々先ほどとは打って変わった深刻な表情で、絶賛放電中かと思うほど毛を逆立てててこちらを睨みつけるフェンリッヒからようやっと視線をそらすも、その動作にしおらしさなど一片たりとも見えやしない。
「……なんか急に寒気が走ったわ。どうしてかなー、アタシ今まで普通だったのになー」
「そ、想像しようとしたのに頭がそれを拒否したデス! これはラスボス改心コースよりも高難易度デス……!」
「もしそんなことが起これば、それは世界の終焉の始まりかもしれませんわね……」
「世界ではなくお前らを終わらせてやるぞ、今ここで!!」
 ついに堪忍袋の尾を切らし牙と爪を容赦なくぎらつかせて咆哮したフェンリッヒの銀髪を、彼の主が嘆息とともに軽く白手袋で触れて理性を取り戻させようとする。
「この程度で本気になるな、フェンリッヒ。それとお前も余計なことは言うな、小僧」
「え……フェンリッヒがキレたのボクのせいか?」
 人狼から距離を置いて、それでもふたりからの距離を取り戻すため歩き始める不満げな顔の少年の視線に、吸血鬼はさも当然と言いたげに振り向き頷いてみせた。
「お前は此度の祝宴の開催に深く携わったと聞いているぞ。今まで見事な采配を振るっていたのだ。仲間内とは言え、最後の最後まで荒波を立てぬよう振る舞わなければ画竜点睛を欠くことになろう」
「いやいや、もうそれどころじゃない大惨事が起こっただろ」
 エミーゼルはひらひら手を振り否定するが、賓客たちは皆理解した上で乱闘に加わっていたのだろう。ホールの床や壁の被害総額は罪務大臣でなくても頭が痛くなるほどだったし負傷者は山のようにいたが、手足がもげて返ってこない見つからないだの死者だのは一人もおらず、穏やかに遺恨なく閉会できる程度の被害に収まっていた。
「あと部屋に戻るまででまた一悶着起こされるのは嫌だけどさ、それだって別にホストとしてとかじゃないし……」
 別に彼らに隠すつもりはなかったが、それでも主催者に程近い位置にいた自分に居心地が悪くなって言い返すエミーゼルに、フーカはしかしてさらりと笑った。
「なに後ろめたそうにしてんのよ。アクターレのことはともかく、今日のためにあんたが色々頑張ったのはもうみんなわかってるっての」
 ドレスの発注先の手配から、今夜はデザートビュッフェのわがまままで数多く自分の願いを叶えてもらっているフーカが少年の尽力を認めると、普段は意地悪なことを言いがちなデスコも大恩があるためかこのときばかりは素直に同意する。
「おねえさまとはぐれたデスコを見つけてくれたの、エミーゼルさんデスしね。あのときは本当にありがとうございましたデスよ~」
「いや、……別に、そんなこと……」
 姉妹に感謝の言葉を投げかけられ、こそばゆい思いが胸に詰まって舌をもつれさせる少年の頭上から、多少は落ち着いたようだ。怒りを無理くり抑えたためか、今は随分と疲れた様子を隠しもしないフェンリッヒの吐息が降り落ちる。
「阿呆どもの評価はともかくとして、今日のお前に大きな落ち度はなかった。それに何より、閣下にお褒めいただいたのだ。光栄に受け止めろよ、小僧」
 姉妹ほどくすぐったい表現ではないにせよ、自分の仕事を人狼にでさえ評価されたのはまだいい。それよりもそんなことはないと逃げ場を封じられたほうが、エミーゼルの舌と思考をますます錆びつかせた。
 普段は好き勝手に振る舞って、ろくに自分の気苦労を慮ろうとしないくせにこんなところで自分を真っ向評価するなんて。気恥ずかしさも相まって卑怯な連中だと腹立たしくなった死神の少年の耳を、天使の笑い声がふわと撫でる。
「フェンリッヒさんはほんとうに、ヴァルバトーゼさん以外の方は素直に褒めもできませんのね」
「正当な評価を下したと言え。それと閣下のお褒めの言葉を拒否するなと事前に注意したまでだ」
 アルティナのからかいにフェンリッヒが力強く抗議するも、彼女ははいはいと適当な相槌で受け流してから少年の前へと滑り込んで軽く膝を折る。
「わたくしからも感謝させてくださいな、エミーゼルさん。本日はとても有意義なひとときを過ごさせていただきましたわ。ありがとうございます」
 真正面から拒否をするには難しい言葉を投げかけられ、とうとう、ついにエミーゼルは降参した。歩みを止め、頬がほのかに赤く染まっている自覚を持ちながら、それでも俯くことなく逆に胸を反らして無遠慮に反応の催促をする五人へ告げる。
「ああはいはい、どう致しましてこちらこそだもうっっ! ……お、お前らあれか、オレ様を褒め殺してどうにかしたいのか!?」
 自棄気味に言い放つも、同じく立ち止まってなんとはなしに少年を囲む五人は余裕綽々彼の様子を眺めるばかり。姉妹もにやにやと意地悪く笑っていたが、それにも増して今のエミーゼルには天使の駒鳥のように首を傾げる仕草が嫌な予感を強く誘った。
「はて。どうにか、とは具体的にどう言ったことでしょう?」
「い、いちいち揚げ足取ろうとするなよアルティナ! ドレスに着替えたことあんまり突っ込まないでいてやったのに、恩を徒で返す気か!?」
 そこは剥き出しではあるものの彼女にとってあまり触れてほしくない部分だったようだ。桃色の髪を裂いて輝く羽を軋ませるほどの動揺を見せるアルティナに、フーカもにやりと金糸雀を見つけた猫の笑みを向ける。
「やっぱそっちに着替えたのよね~アルティナちゃん。ドレスは破れたときの予備でしかありませんとか言ってたのに、どうしてかな~?」
「それは、その……! フェンリッヒさんとお話し中に……」
 自分との会話が切欠とはとんと気付かなかったフェンリッヒは、歩き始めつつ周囲の詳細を希望する視線に本人も理解していない顔でもってさらりと応える。
「なんの話だ。もしやオレがお前に約束の『女』だと言ったことを改めて意識した結果がそれなら、お前もまたオレの中で阿呆の烙印を遠慮なく押すが」
「……今までそうではなかったことは少しだけありがたく思いましょう。ですけれどそうではなくて、その……!」
 珍しく言い淀むアルティナと怪訝な顔をするフェンリッヒの図解に何を思ったか。鮮やかに姉妹が顔を寄せ合い、それぞれ頭に過ぎったらしい物騒な発想について囁きあう。
「え……何これ、本物の三角関係フラグ? アルティナちゃんいつの間にかフェンリっち名前で呼んでるし」
「だとするとガチで泥沼デスねおねえさま……!」
 しかしその妄言はしっかり他の面々に聞こえているため、怖気を震う人狼や視線を泳がせる吸血鬼はともかく、特に誤解を受けた天使は彼女にしては実に珍しく、こめかみを震わせてふたりにそれはそれは美しい笑顔を向けた。
「あらあら。お二人ともそんな発想をなさる余裕がおありなら、これから頭に乗せた缶を落とさないよう小銭一万ヘルを等間隔に並べる修行に取りかかっても構いませんのね?」
 どんな脅し文句だと男性陣は思う訳だが、それは姉妹に絶大な効果を発揮した。基本的に人狼がどれだけ脅したってそんな真似はしないくせに、今のふたりは一気に血を抜いたかと思うほどに顔色を白くして、ひしとアルティナにしがみつき許しを乞う。
「勘弁してアルティナちゃんっ、アレほんときつかったから……!」
「嫌デス……! 缶が床に転がり落ちる音はもう聞きたくないデス……!」
 必死なふたりの懇願にこちらもやはり三人に微妙な視線で詳細を求められたアルティナは、なんともない顔で肩を竦めて軽く説明する。
「踊りの基本姿勢を染み込ませるための修行ですわ。大したことはしていないと思うのですけど……」
「いやいやいや、達成するまで休みなし徹夜コースとかあり得ないから! 正直どれだけ失敗したってアルティナちゃんが一切怒らなかったのも含めてトラウマ入ってるんだからそれだけは止めて!」
 フーカの言葉の何がおかしかったのか。アルティナはころころと金の鈴を鳴らすように笑うと、穏やかな表情と軽やかな口調のまま指摘した。
「まあ、フーカさんたら。本当にトラウマがあるひとは簡単にあれこれがトラウマだ、なんて言いませんのよ?」
「わからなくはないですけどなんだかとっても重い発言デス、アルティナさん!」
 デスコの突っ込みもあっさり受け流すと、天使は自ら話題を戻す気になったらしい。姉妹の肩や頭に軽く手を添え、軽く身構えるふたりに対して安心と感謝を籠めた笑みを浮かべる。
「フェンリッヒさんとの会話だけではなくて、お二人にも色々感化されてしまいましてね。もうこれに着替えてしまえと思ったまでですわ」
「……ふぅん」
 軽く目を細めるフーカの表情は完全に納得してはいないが、一応引き下がる気にはなったようで。あとで詳しい話を聞こうかと企んでいそうな顔の隣のデスコが、こてんと首を傾げつつ引き離されそうな男性陣との距離を慌てて詰める。
「けど、ヴァルっちさんとは結局踊れてないデスよね? 構わないんデスか?」
「ええ、十分ですわ。……デスコさんが仰っていたように、二人きりでいる時間はありましたから」
 沢山のひとの中で自分だけと会話して息を合わせる短い時間を共有するよりも、自分たち以外言葉を交わす相手がいない庭園でのんびりとした時間を共有できたことが嬉しかったのだろう。まさしく輝かんばかりの笑顔を浮かべるアルティナに、少女は思わず納得させられた。
「なるほどデス。デスコもあそこではぐれなかったら、もうちょっとおねえさまと二人でいれたデスが……」
 今夜の反省点を述べてうなだれるデスコの頭を、しかしフーカはうりうりと片手で掴んで前へ押すように撫でる。悪魔の少女はそれだけで奇怪な悲鳴と呻きの中間くらいの声を漏らすも、相変わらず抵抗は一切見せずにされるがままとなった。
「なに言ってんの、十分じゃないのよ。大体あんただって、アルティナちゃんと踊ってアタシと踊ってスイーツ食べ放題して、……あと?」
「俺と会ったな。小娘にとってはどうでもいいかもしれんが、デスコのラスボスとしての意欲と意識の向上を改めて感じ取ったぞ」
 先んじていた師たるヴァルバトーゼが賞賛の言葉とともにデスコに薄らと笑いかけると、真正面から褒められた少女は弾かれたように顔を上げ、感動の面もちで吸血鬼を見て。
「次はボクだっけ? アルティナとのことがあんなに早くばれるなんて思わなかったけどさ、まあそれでも見つけられて良かったよ」
 エミーゼルもまた安心を滲ませた優しい表情で悪魔の少女に視線を寄越す。このときデスコは本当に、これからはあまり彼をからかったりしないようにすると心に強く言い聞かせた――とのちにフーカに語った。
「それはオレにとって僥倖だったがな。デスコはどこぞの馬鹿な小娘と違って暴れもせんし命令にも従順で素直な奴だ」
「皆さん……」
 じわりと涙腺を緩めるデスコの頭上で、フーカが澄ましてほかのふたりと同じように悪魔の少女への気持ちを告げたとでも言いたげな顔をしているフェンリッヒにがあっと抗議する。
「うらそこっっ! デスコを持ち上げる流れでアタシを貶さない!」
「オレはどこぞの馬鹿な小娘と言った。つまり阿呆な貴様のことは指していないはずだが?」
「似たようなもんじゃないそれ!」
 尤もな指摘だと対峙するふたり以外の面々が頭の中で思ったが、言葉に出すと巻き込まれそうな予感をひしひしと感じ取ったため無言を貫き通す。馬鹿にされた怒りは治まらないもののこれ以上のやり取りは脱線すると判断するだけの余裕があったフーカは、人狼を一度きつくねめつけてからデスコに話しかけた。
「とにかくさ、あんただってアタシほどじゃないにしろ、結構充実してたからいいじゃない。そりゃまあ、アタシのせいで寂しい思いさせちゃったのは悪いと思うけど……」
 殊勝にも口ごもるフーカに、仲間の一部が冷静に、または野次かと思わせるほど冷酷に彼女の言葉に同意を示す。
「確かにな。妹のデスコに寂しい思いをさせたのは姉たるお前の責任だ」
「責任感の薄いこいつには、その程度のお言葉ではなんの効果もないかと思われます閣下」
「お前、ペット飼ってもうっかり飢え死にさせたとかそんな経験ありそうだよな……」
「失礼ね! 金魚とザリガニを一緒の鉢に入れてから命の大切さとか責任感とかはしっかり学んでるわよ!」
 どんな惨事が待ち受けていたのか想像に容易い追憶を持ち出したフーカが言い返せば、そんな姉のどこが彼女の琴線に触れたのか。感涙で顔を崩しそうだったデスコがふふっと小さく高い声を漏らした。
「なによっ、あんたまで笑うとか生意……!」
「違うデスよ、おねえさま」
 絶対的な味方であり妹であるはずのデスコにさえ嘲笑われたのかと眉間に皺を寄せるフーカに、けれどその健気な妹は穏やかで、どことなく誇らしげな笑みを浮かべながら首を横に振る。
「デスコは幸せと思っただけデス。大切な大切なおねえさまがいて、デスコにラスボスのなんたるかを教えてくれるヴァルっちさんやお仲間のひとたちがいて、それでデスコはますますラスボスになれるくらい強くなっていって……」
 デスコは軽く目を見開いた姉を見上げ、尻尾で位置を調整するとその腕の中に改めて身を投げる。滑る触手がないためか、フーカはさしたる抵抗もなく小さな肩を軽く抱いた。
「地獄の牢屋に閉じ込められてずーっとラスボスのお勉強をしていたときよりも、一人でいることには弱くなっちゃったデスけど、それでもデスコは今、とっても幸せデス!」
 断言したデスコの笑顔とその気持ちに感じ入るものがあったのだろう。少女の声を聞いた全員の表情がどことなく柔らかさを帯び、その言葉に共感を覚えるような、噛みしめるような空気が六人を包む。ほかの五人はこの少女ほど素直ではないし、そんな言葉を公衆の面前で言えるほどの性格ではない。けれど彼らにとって、それぞれ似たような感情を抱いていると自覚させてくれるこの悪魔の少女の存在は、悪いものではなかった。
 そしてやはりそんな暖かい沈黙を打ち破ったのはデスコの姉にして一同の中のムードメーカーとも言えるフーカで。
「おーおー。なんかもうラスボスじゃなくて主役級のこと言っちゃってるわよ、あんた?」
「つ、つまりそれって勇者さんになるってことデスか!? それはちょっと、困るデスよ……!」
 照れを誤魔化すためおどけたフーカの発言に、馬鹿正直に衝撃を受けるデスコ。しかし戸惑う彼女の背へ、師たる吸血鬼が励ましの言葉を投げかける。
「だが、満足していない点は評価はしよう。いまだ修行の最中だと言うのに満足だのとのたまえば、向上心の大幅な欠如と見なしていたからな」
「それはないデス、ヴァルっちさん! デスコはおねえさまの世界征服を叶えるため、ラスボスになるのが目的なんデスから! 今はまだその野望に向けての準備段階でしかないのデス!」
 鼻息荒く意気込むデスコの姿を見て取り、ヴァルバトーゼはその意気だとばかりに喉の奥をくすぐらせる。そして妹に自分の野望を語られたフーカは、流れで閉会の挨拶のときの彼の言葉を思い出した。どうにも言い難い表情を作り、ちらりと隣の悪魔の青年に視線をやる。
「……で、結局ヴァルっちはあんなこと言っちゃったのよね」
「うん? ……ああ、今後のことか」
 なんともない顔でその視線を受けると、ヴァルバトーゼは自分の放った言葉に全くもって悔いはない、むしろ堂々とした笑みを口元に刻んで自信たっぷり胸を張ってみせた。心なし、いつもと違う外套の裾が嬉しそうにざわめく。
「あれが今の俺にとっては最善の選択と言えよう。我ながらよくぞ考えついたものだ」
「何が最善の選択だよ! あんなの無責任で、卑怯もいいとこじゃないか!」
 エミーゼルが眉間に皺を寄せて声高に批判するも、デスコは反対の印象を持ったらしい。そのときのことを思い出し、憧れの眼差しで吸血鬼を見つめる。
「あそこでああ言えるのは格好いいデスよ? ラスボスっぽいかはどうかはあんまり関係ないかもデスが、きちんと悪魔っぽいデス!」
 デスコの反応にそりゃあ悪魔だけどと死神の少年は口の中でなにやら反論したが、その声は力なく明確な言葉にもなりはしない。そんな彼と同じ気持ち、と言うほどではないにせよ自分の思う通りに行かなかったことは多少に不満があるらしい。フェンリッヒが昨今では珍しく、主の行動に対して重いため息を吐き出したのちに俯いた。
「……閣下があの場であのようなことを仰るとは。考えないこともありませんでしたが、まさかと不意を打たれた所存でございます」
 そんな態度を取られてもヴァルバトーゼは自らの選択に後ろ暗さなど感じやしない。だが別の感情は沸き上がったようで、鋭くも挑発めいた目付きで人狼に笑いかけた。
「ほう、どうしたフェンリッヒ? まさかとは思うが、お前はあの程度で俺に失望したとでも言うのか?」
「決して。閣下の御意志にわたくしが失望することなど未来永劫一切ありえません」
 毅然と言い放つ執事の自信と確信に満ち溢れた姿を目にし、ヴァルバトーゼは満足げに深々と頷く。
「それでこそ我が僕。今後何が起こるかはわからんのだ。お前の働きを期待しているぞ」
「ははっ。すべては我が主のために――」
 と、フェンリッヒのお定まりの言葉と仕草を邪魔せずに見守っていたフーカだが、それであっさり引き下がる気はないらしい。祝宴が始まる一ヶ月前から彼女が訊ね、踊ったときだって迷っていた素振りがあったのに今や誇らしげにあんな宣言をしたヴァルバトーゼの思考が理解できず、彼にしつこく食い下がる。
「ヴァルっちは満足してるっぽいのはいいんだけどさ、どうしてその結果があれなのよ。アルティナちゃんも気にならない?」
「あまり。わたくしは、ヴァルバトーゼさんの選択はどんなものであれ支持すると決めていますから」
 顔色一つ変えずに吸血鬼の行動を全肯定すると告げたアルティナに、おおうと姉妹が小さな歓声を漏らす。その後ろのヴァルバトーゼは、自分の心のうちをどうにか抑えたようなわざとらしいしかめ面を作って吐き捨てた。
「……天使が簡単に悪魔の言動を支持するな。この考えなしが」
「まったまた~、照れちゃってさ。……けど、ほんとにそう思ってる?」
 吸血鬼を茶化しながらもアルティナに再度訊ねたフーカの目は、からかい目的だけではなく単純な心配も垣間見える。それが天使である女に対する立場を考えた上の気遣いか、いくら大切なひとだからって全肯定とは危うすぎやしないかと思っているのかは彼女にはわからない。けれどそれでもヴァルバトーゼと約束を交わした元人間の女は、あっさり笑って肯定した。
「フーカさんも、これはヴァルバトーゼさんが色々と考えた末の結論だって、ご存知なんでしょう?」
「いや、迷ってたぽいのは知ってるけど……でもさ、今でもあれってちょっと納得できないのよね~」
 フーカでさえ疑問を抱く選択。けれどアルティナが容易く肯定した決断。フェンリッヒがまさかと吐息を漏らした選定。デスコが感心を示し、エミーゼルが卑怯と誹った英断はやはり、人間の少女の言葉通り選択と言えるのかどうかさえ曖昧な。
 乱闘の終盤まで――奇跡的にと表現すべきか、それとも彼が今まで発揮してきた生命力と悪運の強さを考えればごく自然な流れか――どうにか生き長らえていたものの、ついにデスコとフーカの猛攻に倒れ伏したアクターレが、遺品のように残したマイクと言う曰く付きの品を使用して閉会の挨拶を求められたヴァルバトーゼは、またもこの場であのときと同じような言葉を繰り返す。
「俺は俺の好きなようにやる。誰に何をどう期待されようと、俺が誰の言葉に耳を傾けようと、いつ俺がどのように行動しようと俺の自由だ。そう言うことの何が悪い」
 つまり、言い換えてみれば現状維持。相変わらず魔界はこの吸血鬼の顔色を伺っていて全体的に落ち着かないと言うのに、無責任にも彼はそんなことを言ってのけた。
「我が党が政拳交代を果たした以上、党首としての責務は果たそう。しかし最終的な決定権はアクターレのものであり、この魔界の大統領の座も奴のものだ」
 戸惑う賓客たちを前にしてヴァルバトーゼは、やはり似たようなことを告げた。無責任だとの反論の声も挙がりかけたが、それより先に現在の魔界において最も重要視すべき問題は『畏れ』エネルギーの回復であり、そのために自分ができることがあるならば尽力すると彼が言い切るとそれらの声も見事に封じられた。
 しかし――ヴァルバトーゼは正直に言った。勿論、彼自らの手によってこの魔界と人間界を地獄に変える気概は忘れていないが、今の人間界について自分は詳しくない。段取りを無視して手前勝手に動き、他者の足取りまで乱すのは本意ではない。その点、前政拳の悪魔たちは人間界との交渉もいくらか速やかに行えるものと判断する。故に現段階では人間界との接触は彼らに任せるが、監視役や引継役として現与党員を何割か回すと宣言し、前政権に権力を丸々返上する気はないこと、与党と野党として互いに牽制、ときに協力して『畏れ』エネルギー回復を第一に取る姿勢だと示した。
 とは言え、人間が悪魔を恐れなくなったのも、魔界の腐敗が始まったのもとある一人の人間の暗躍あってのこと。人間が科学の進歩により闇を恐れず、悪魔にとって手強くなったのは今後魔界全土で取り組むべき大きな課題として、魔界の腐敗については速やかに解決できるものだと彼は信じている。
 そしてその、魔界を腐敗にまで追い込んだ一人の人間の罪を償う姿を見届けるために。同時に彼自身が今まで歩んできた選択に後悔はないと示すために。そしてこれからも、今までの自分のすべてに誇りと自信を持っているから。血を吸わない吸血鬼、過去は悪魔であってもその名を恐れた『暴君』と呼ばれたヴァルバトーゼは、仲間の中においても改めて胸を張る。
「それに俺は、プリニー教育係として魔界政腐に反旗を翻した。政拳交代をしたから、人間界と魔界の腐敗する原因を排除したからと言ってその職を手放すつもりは更々ない。『プリニー教育係』は重要な使命と名誉ある俺の天職そのもの! 故に俺はこれからもこの肩書きを背負い続けるとここに誓う!」
 ちなみにこれと同様の演説を祝宴の場でぶちまけた際、後半はまだ彼も節度が残っていたらしく『宣言する』でどうにか収まっていて、苦笑や呆気をも超えて最早感心の域に近い反応を得られたのだが。ヴァルバトーゼをよく知る五人は唐突にそんな誓いを、つまり約束をされて、それぞれ一体感のない反応を寄越した。
「……閣下。それを約束なさることだけはどうにか反故していただけませんか」
 特に今夜、この吸血鬼を世界の支配者として宣言させようと目論んでいたフェンリッヒは地を這うような吐息のあとに懇願したが、ヴァルバトーゼは隙のない自分に陶酔する顔で笑う。
「安心するがいい、フェンリッヒ。さすがに俺も一生涯とは言わん。この俺よりも更にプリニー教育係として相応しいものが現れれば、俺は喜んでそいつにこの職を譲り渡そう」
「だそうよ。良かったわね、フェンリっち」
 フーカが本当にそう思っているのかいないのか軽薄な調子で人狼に笑いかけるが、彼は五月蝿いと煩わしげに手を振り払ってつれなく応じる。その下では、デスコが顎に人差し指を添えて素朴な口調で疑問を述べた。
「けど……プリニー教育係にここまで熱心な悪魔なんて、ヴァルっちさんのほかにいるんデスかね?」
「いないよな。ボクの知る限り数多の別魔界の物好きをかき集めたって確実にいない」
 力強く断言するエミーゼルに、アルティナは何が面白いのか目元に笑みを宿しながらさあと大げさに肩を竦めて吸血鬼を見る。
「わかりませんわよ? ヴァルバトーゼさんの仰る通り、いつの日にかプリニー教育係になるに相応しいひとが現れるかもしれません」
「できれば早々に現れて欲しいところだな。そうして閣下に別の天職と野望を見出していただきたい」
「ならこんなときこそ祈ってみたらどうなんだ? お前の『敬い』エネルギー結構凄かったってあの天使長言ってたし、案外利くかもしれないぞ」
 趣味の悪い冗談だとばかりにフェンリッヒは鼻で笑い飛ばすと、当然そのつもりだったエミーゼルは強気に笑い返す。そんな少年の成長の様子を見て、感慨深く姉妹が目を細め、また程良い手応えを得て今度は別の意味合いで人狼が口の端を歪めたときだった。
 足音の響き方が極端に変わり、視線を進行方向にやれば一行はようやくロビーに出たと知る。ここから枝分かれした短めの通路を歩けば、すぐにそれぞれ割り当てられた控え室と言う名の今宵の寝所に辿り着く。つまり六人が六人で集まるのは、今夜はこれで最後。
「っよし! そんじゃ皆おやすみ!」
「おやすみなさいデス、皆さん!」
 けれど当然、昨日も明日も顔を合わせた仲間たちなのだから別れを惜しむことはない。だからフーカは夜中だと言うのに五月晴れの空のようなからりとした笑顔で手を振ると、デスコを連れて部屋へと向かう。
 その光景も笑顔も仕草もやはり常日頃から目にするもの故、誰もその背中を見送ることなく、ただ少女の笑顔が感染したようなものを口元にうっすらと滲ませる。そんな中、続いてはアルティナが深々と残りの男性陣に会釈をした。
「それではわたくしもこれでお暇させていただきますわ。皆さんおやすみなさい」
「……ああ」
「また明日な」
 意外にも主に対して何もせずあっさりと引き下がった天使に多少の違和感を持ちながら、フェンリッヒはその背を見送る吸血鬼の肩に無遠慮なくらい声をかける。
「それでは閣下……」
「うむ。今日はお前もご苦労だった。下がって良いぞ、フェンリッヒ」
「は。おやすみなさいませ、閣下」
 労いの言葉を受けながらも、主の部屋への扉を開けて吸血鬼がその奥へと消えるまで見送り続けた人狼は、静かに扉を閉めると残る少年を一瞥しただけで自分に振り当てられた部屋に行く。尤も、ホスト役兼案内役のエミーゼルだって、彼らのやり取りをすべて眺めてから自分の部屋へと帰るほど、この一夜の別れに感慨めいたものを持つつもりはない。
 けれど静まり返った廊下を一人で歩くと、さっきまでの空気や会話や音の響きが奇妙なくらいくすぐったくて懐かしくて、それが今はないだけに、ほんの少しだけ寂しいから。
 少年はうんと背伸びをしながら、衣擦れの音さえ響く静けさに満ちた廊下の中、ぽつりと一言声に出す。
「おやすみ、みんな。今日は……楽しかったな」
 陳腐な言葉だ。ありきたりで安っぽくて薄っぺらくて月並みで目新しさはどこにもない。なのにその気持ちは本物で、心底そうだと思ったから、エミーゼルは誰も聞いていないはずなのに自分の言葉に大いに恥ずかしさを感じて、内面を誤魔化すような笑みを浮かべながら早めに歩く。けれどそれも難しくなったから少年の足取りは次第に速度を増し、いよいよもって走り出す。
 けれどきっとほかの五人がその呟きを耳にしたって、誰もその言葉を嘲笑うまい。否定はすまい。少年が吐き出した気持ちと同じ思いを、彼らもまた胸に抱いていたのだから。


―完―

[↑]

後書き

2011/07/07

 オールキャラでパーティーでダンスでつまりワルツだからペアでええいもうこの際全員それぞれペア組んじまえ的発想から生まれました。もう1ペア男女がいれば題名はカドリーユ関連のもので即決定したんですがねー……。
 某所で投稿したての頃よりも意図的に薄めたんですが終盤やっぱり結構ヴァルアル率高めになっちゃいましたね。それはまあノーマルエンド=アルティナちゃんエンドな閣下のアレっぷりに文句言ってくだち……。

一話
 やだ……アルティナちゃんに比べたら初期三人(四人)の絡みマジ書き易い……と愕然。フーカすんがフェさんにどーんした辺りからそれぞれのスキンシップや距離感を意識的に描写しようと心がけました。フーカすんは誰が相手でも壁がないから平気でべたつけるイメージ。
二話
 衣装お披露目兼キャッキャウフフ。おなご組は何気にフーカすんの衣装描写が一番手間かけました。請求書は何気にフラグ回収するつもりができませんでした。暴君閣下の衣装は私大肯定派ですむしろ本格的だったことキャッホーしたくらいだ。アクターレも書く前はあー鬱陶しいなああいつ書かなきゃならんのかーと思ってたのに実際に書くと予想外に動かしやすくて参った。結論:アホは楽。
三話
 少女漫画っぽくアルフー!(こう書くと某猫食い宇宙人だ) って息巻きながら書いてました。美味しいと思うのに同士いねえ。ディスガイアシリーズってどっちかってとプレイヤー層は男性向けなのに! フェさんとエミちんはボケがないから非常に話がスムーズに進んでありがたい。悪魔らしく性格を把握してるけど心まで許してるわけじゃない悪態つきながらの適度なドライなやり取りもできるしね。
四話
 お互い「羨ましいです(デス)わよ「ねー」」って言い合えるのが可愛いかなと。フーカすんと閣下の関係は程良く漫才コンビで友情だと主張する派なので色んな会話できるのが楽しい。つか閣下は人狼を友と言うけどフーカさんとのやり取りと比べるとやっぱり二人の間にあるのは友情ではないんでないのと思います。個人的な解釈でしかないけどフェさんは閣下のヒロインになりたかった男っぽいし。
五話
 何気に一番書き甲斐があった(と思う)。幼い二人の成長を見せられた閣下の裏で、同じ大人組の二人はさてどうかと言うと、な構造。フェさんもアルティナちゃんも両者痛み分けじゃよーと思って書いたんですが、フェさんは対アルティナちゃんにはメンタル弱いせいで痛がり苦しがりとかマジ面倒臭えこいつ……。
六話
 フーカさんのターンに見せかけてはいヒロインドーン☆ 流石アルティナちゃんは生粋の泥棒猫やでえ。男衆はともかくとしてフーカすんはまだ恋愛はしなくていいかなと思います。無邪気ではちゃめちゃやってるときが本人的に一番輝いてて楽しんでる、色気の無さが可愛い子。ハゴスパパンと閣下の会話はゲームで最後に仲間になる奴さんのイベントをリスペクト。古典『ドラキュラ』をベースにしたやり取りはこの二人なら出来るよね! って思ってやった。
七話
 前半デスコのターン。保護欲煽って仕方なかったので男性陣は皆保父さんになってもらいました。デートシーンはED曲の雰囲気を出したかったんだがどうにも難しいですね。梔子はもともと香りが好きなんですが花言葉と男性から女性に贈る花と知り選択。個人的にキス…→予想外の妨害→野次馬ぞろぞろのテンプレは初めて書いて超恥ずかしくて悶絶した記憶があります。あと途中ドラマCD聴いてたらアルティナちゃんがフェさんを名前呼びしてたのがようやくわかったのでここからそう変換。
八話
 祭りの後のキャッキャウフフ。自分でも気持ち悪いくらいいちゃいちゃしすぎだと反省しております。閣下の演説はぶっちゃけあんまり引っ張るような内容でもないですよねすみません。エミちんは実際に最大の功労者なので〆て貰いました。あと4の中では彼が一番ディスガイアシリーズの悪魔らしい価値観の子だし。

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女子会

2011/07/07

 割合と今更な話かもしれないが、風祭フーカは乙女である。そりゃあ子どもの頃は男の子に混じって外遊びだ喧嘩だと活発に遊び回り、両親に世界征服出来る妹が欲しいと無茶を言って困らせたりしたが、今は立派に乙女だと胸を張って宣言出来る。
 どの辺りがと問われれば、堂々と趣味趣向と答えよう。家事は得意ではないけれど、昨今の科学文明の進化により面倒で仕方ないが適当に済ませるられる。一人暮らしの独身男性だってできるくらいなんだから父子家庭で家事を一任されたフーカにできないはずがない。
 閑話休題。とにかく今のフーカは、自分の新たに生まれた乙女チックな趣味を満喫していた。具体的には同性との深夜のお喋り、一昔前の表現ではパジャマパーティーと言うやつをだ。
 学校がない上に毎日が似たような戦いの日々だと時間が過ぎる感覚は麻痺する。そんな調子であっても少なくとも一年以上はこの地獄の夢を見続けている――と言うことにしないと暑苦しいプリニー教育係にプリニー鉄の掟とやらを体の芯まで教え込まれる――フーカとて流石にここの生活にも慣れ、新しい刺激を求めに小さな冒険をしてみるのもおかしな話ではない。そして最近になって始めた新しいことが、夜中の気楽な雑談を目的とした仲間の部屋への訪問だった。
 仲間のもとに適当なお菓子を持って訪れ、夜更けまで他愛ない会話で盛り上がる。日中の脳天気なんだか殺伐としているんだかな食物のかけ声響く戦いの最中と比べて基本的にゆったりと過ごせるこのは、ここ最近のフーカにとって三度の食事よりも心が躍った。相手の数多くが耳が尖っており、更には鏃型の尻尾や獣の耳が生えていたりする、平たく言えば人外であることに始めは戸惑ったりしたが、最近では種族や価値観の違いを教え合うことさえ楽しい始末だ。
 当初は物騒だが愛らしい妹を連れてはいたけれど、あの子が聞かせるには多少刺激が強すぎる話も出てくるようになって以降は一人で誰かの部屋に訪れることも多い。可哀想かもしれないが、夜魔族の蜜が滴りそうなほど濃密な経験談を聞いている最中にたびたび質問して雰囲気を壊されるとその判断は間違っていないはずである。
 今晩の訪問先の相手もまたその手の話題は出るだろうと判断したため、フーカはいつものように手早く入浴を済ませてパーカーの寝間着に着替えると、クッキーとマカロンを手土産にとある扉へと直行した。
「アルティナちゃーん、来たよー」
「お待ちしてましたわ、フーカさん」
 笑顔で扉を開けてくれたのは、フーカと同じ元人間でありながら天使となったアルティナだ。以前は『業欲の天使』と呼ばれた賞金首だが、現在は党首との関係や窃盗の理由が明確になったため以前ほど彼女に対する周囲の風当たりは強くない。彼女もまた入浴を済ませたところらしく、桃色の髪の先がやや湿っていて、頬に赤みが指していた。
「はいお土産。苦手な味とかない?」
「ええ、なんでも美味しく頂けますわ。さ、どうぞこちらへ」
 アルティナは紙袋を手渡されると扉から身を引きなめらかな動きで客人を招き入れる。フーカはその流れに沿ってお邪魔するねと一言告げ、天使の部屋に足を踏み入れた。数歩彼女のテリトリーに入っただけなのに、鼻腔に仄かな柑橘類の香りが漂う。
 匂いのもとを探しに薄暗い部屋をぐるりと見返すも、花瓶に活けられた花は薔薇だし、果実らしいものはない。どう言うことかと疑問を抱いたところで、薄く開いた窓から葉ずれの音と共に思い当たる香りが風となって流れ込んだ。
 常に溶岩が流れる不毛のはずの地獄に、どんな奇跡かここに唯一そう設計された場所があるのか、植物が育つ環境があるらしい。窓に近付くと確かに瑞々しい酸味と苦みを併せ持つ香りが強くなり、それだけで地獄に吹く風が随分と爽やかな印象に変わる。
「うわっ、こう言う演出するんだ。ヴァルっちってば案外きざったらし~」
 早速フーカは口元を緩めながら、この部屋にいない人物を大いに冷やかす。恐らくにこの部屋をアルティナに宛がったであろう誰かはこの手の心配りをするように見えないのだが、どうにも彼女にだけは別の神経が働くらしい。
 しかしにやつくフーカの考えを否定するように、アルティナは用意したワゴンの上で紅茶を淹れながら微笑を浮かべる。
「あら、ここであの方の名前が出るのは思い違いですわ。この部屋を選んだのはわたくしですもの」
「えぇ~……」
 素っ気ない真相に口先を尖らせると、フーカはクッションが敷かれた椅子へ腰を下ろす。そうして改めて室内を眺めると、確かに件の人物が直接この部屋を選んだ訳ではなさそうだと彼女は考えを改めた。
 アルティナの部屋はまずフーカの部屋に比べて狭く、掃除は行き届いているし家具のセンスも悪くないが、どうにも質素な印象が拭えないのだ。備え付けの家具も彼女の私物も最低限と思われて、これならものがある分、自分の部屋の方が豪華なくらいだと内心判断し、彼女は首をもとの位置に戻す。
 フーカの眼前にいるのは当然アルティナだ。羽の位置に切り込みを入れたワイシャツを羽織っただけの寝間着の下は何も着けていないのか、三つボタンを開けたその隙間から胸の谷間が覗いて彼女が動く毎に細かく揺れる。襟の下からは程良く肉付いた太股がすらりと伸びて、その脚線美を惜しげもなく披露していた。
 これでも普段の方が高露出なのだから男性悪魔にとっては目の毒極まる話だ。いや、むしろ今のような肝心の部分が見えそうで見えない方がいやらしいのか。アンダーウェアまで見せているといっそ潔くてさほどいやらしくないのか。
「って、なんか見てるところがおっさんっぽいアタシ!」
「はい? どうかされました?」
 小首を傾げて湯気の立つカップを渡してくるアルティナに、フーカは何もないと手を小さく振ってからそれを受け取る。
「アルティナちゃんの部屋って思ったよりさっぱりしてるね。もっとこう、お姫様みたいな感じだと思ってた」
「あら、どうしてそう思われたんです? これでもわたくし、貧乏には慣れていますのよ」
 続いてアルティナは差し入れを皿に取り出しテーブルに乗せ、自分の分の紅茶とポットを同じくテーブルの上にまで持って来て、ようやくフーカの対となる椅子に座る。これでお茶会の始まりだ。
 一人ずつきちんと椅子に収まってテーブルの上でものを食べるのはフーカがよく行うパジャマパーティーではないけれど、これはこれで新鮮なので彼女は機嫌良く紅茶を口に含む。対するアルティナは聖句を呟き祈りを捧げる。律儀なものだ。
「だって、天使だし。イメージ的に天使の部屋って聞いたら、ふわふわきらきらしてそうじゃない。あと、ヴァルっちが気遣いそうだし」
「まあ。そんなあからさまに甘えてしまえば、狼男さんにどんな嫌がらせを受けるかわかったものではありませんわ」
 わざとらしく目を見開いてクッキーを手にするアルティナに、現在口に何も含んでいない自らの小さな幸運を喜びながらフーカはぷっと吹き出した。
「言えてる。盗聴とか罠とかしかけそう……! それも絶対、一つじゃないよね!」
「ええ。最低でもそれぞれ三つ四つは覚悟しておくべきでしょうね」
 アルティナはなんでもない顔で頷くと、半口かじったクッキーをソーサの縁に置いて紅茶を口に含む。フーカはこっくりとしたキャラメル色のマカロンを手に取って、同じく半分だけ口にする。
「けどアルティナちゃんもしたたかだし、そんなことになっても案外平気なんじゃない?」
「フーカさんたら……。さっきから吸血鬼さんとわたくしのお話ばかり」
「だって仕方ないって。うちの党の女子で二人に注目してない子いないよ~?」
 今までに数多くの女性党員の部屋を訪れているフーカは、軽く胸を張って断言する。熱意や興味の示し方は個人によって異なるが、基本的に女性は悪魔であろうと人であろうとゴシップを好むものらしい。党首と生前から縁ある元人間の天使となれば、党内での注目度も俄然上がるもの。
 そんなフーカの説明に皆さんお暇ですのね、とややも呆れた目つきでアルティナは呟くが、その話題を嫌っている訳ではなさそうだ。かと言って聞かせたがっているようにも見えず、そも様子の変化がないため、少女は相手の反応の薄さに違和感を覚えた。だが直ちに残りのマカロンを口に軽く押し入れて、口の中いっぱいに広がる濃厚な味わいでふと頭に過ぎった考えを塗り潰す。
「……けどそんなもんだよ。やっぱり党首『閣下』のこととなると、気にならないほうがおかしいってば」
「そう、ですか……?」
 アルティナの反応からすると、天使はあまりゴシップを好まないのか。その辺りは彼女の上司にもたっぷり事情を教えてもらう必要性がありそうだとフーカは頭の中でメモを取ると、カップを手に取り中身を口に流し込む。仄かな甘味とオレンジの香りが彼女の咥内を清めてくれた。
「そんでさ、……聞きたいんだけど、アルティナちゃんとヴァルっちって、毎日会ってるの?」
「いいえ。戦闘でご一緒する際以外は、あまり」
「え、なんで!?」
 身を乗り出して仰天するフーカに、アルティナはやはり大きな反応も見せず肩を竦める。
「フーカさんだって、今のあの方が昼夜を問わずお忙しいのは知っているでしょう? わたくしも政党に属する一員として用件があるならお会いしますけれど、用もないのに顔を見せたところで邪魔にしかなりません」
「……お、大人だ」
 そうとしか言いようのない冷静な返答を受け息を呑むフーカに、アルティナは浮かれた相手に冷や水をかけて満足したのか茶目っ気のある笑みを口元に浮かべると一言続ける。
「ですから二人でお話できるのは、吸血鬼さんが暇を見つけてわたくしのお部屋を訪ねてくれたときくらい、になりますわね」
「ん……?」
 唐突に付け加えられたアルティナの発言を三回ほど頭の中で繰り返すと、フーカはその言葉が何を意味するのかようやく理解した。クッションに触れかけた臀部をまた浮かし、らんらんと目を輝かせ掴みかからんばかりの勢いで天使に詰め寄る。
「それって部屋デートってやつ……!? なになに、どんなことするの、どんな話する!?」
「会話内容……、ですか?」
 鼻息も荒く訊ねられたアルティナは、しかしこちらはペースを崩すことなく片頬に手を添えて思い出す姿勢を取る。落ち着きのないフーカの催促を受けても尚、彼女は調子を崩すことなく間延びした声を漏らした。
「普通、ですわね。お互いの最近あった出来事や他愛ない昔話と、イワシの豆知識はよくお聞きします。それから、わたくしたちの約束について、くらいかしら」
「約束って、あの、ヴァルっちがアルティナちゃんを怖がらせるまで誰の血も吸わないってやつ?」
「ええ」
 なんでもないようにアルティナは頷くが、部外者たるフーカは我知らずため息を漏らしてしまう。人間の感覚で四百年前の約束を、今もまだ当事者同士で振り返ることがあるのかと思うとそうなってしまうのは自然なはずだ。と言っても、二人が再会したのはついこの間のことだが。
「……二人とも真面目だよねー。アタシまだ十五だからわかんないけど、四百年ぶりに会って相手が自分のこと覚えてたりしたらさ、約束とかもうどうでもよくなんない?」
「相手は、悪魔の方ですからね。わたくしも元は人間でしたからフーカさんの仰ることもよくわかりますけれど、彼らは基本的に自由なんです」
 唐突に悪魔は自由、などと言われても理由がわからないフーカは首を傾げる。アルティナはピスタチオのマカロンを手に取ると、不思議なものを見る目でそれを真ん中から二つに割った。どうやら初めて見るらしい。
「悪魔は原則として人間を恐怖によって戒めると言う役割を持ってはいますが、人間をどれだけ恐れさせるかは本人次第。ノルマもないしお給料も出ないしそもそもお金は生きていくのにさして必要ない、悪魔は生を受けた瞬間から自己満足が追求できる種族なのです」
「うんうん、それが?」
 悪魔と聞いた際のイメージも概ねその通りなので、フーカは約束の話とどう繋がるのかをあまり想像もせず話の先を促す。アルティナはマカロンの欠片をこぼしながら半分に割ったもう半分を口に運ぶと、慌てるように残りをソーサに置いた。
「ですから約束や契約も、……人間界での約束や契約とあまり変わりない、ほとんど個人の受け取り方次第のもので」
「そんなこと、エミーゼルも言ってたよね」
 アルティナはこぼれ落ちたマカロンの欠片を丁寧に拾いながら、やや俯きがちに笑みを浮かべる。目元は隠れて見えないから、どんな顔で笑っているのかフーカにはよくわからない。
「まあそんな感じですから、ヴァルバトーゼさんは本来なら、約束をいつ破っても良かったんです。たかだか人間との約束なんて、相手が死んでしまえば何の意味もない。忘れてしまっても、誰も咎めないし魔術的な契約でもなければ魔力を失うこともない。そう言うものですから」
「けど、ヴァルっちは約束を守った、って言うか守り続けてんでしょ? そんだけ大事だと思ったから、自己満足でさ」
 人間であるアルティナと交わした約束を絶対のものに仕立て上げたのは、件の吸血鬼の意志によるものだ。そうする理由はフーカの目からは単純明快、彼は彼女に一目惚れしたから。当事者たちはいまだに否定しているけれど紛れもない事実だとクッキーを頬張る少女は思う。
「……ええ。約束を交わしたわたくしにとっても、驚くほど頑固に」
 呟いたアルティナの口元に、吐息が漏れる。それからなんだか辛そうにもむず痒そうにも見える、泣き笑いになりかけたような曖昧な表情を浮かべ、フーカはそんな表情を浮かべる彼女に疑問を抱く。わからないと言えば――、頭の隅にまた別のささやかな疑問が浮かび上がる。
「そういやアルティナちゃんにとって、また会うまでのヴァルっちとか約束とかって、……ええと、どう、思ってた、かな? うーんと、覚えてた?」
 それらしい言葉が思い浮かばないフーカの悪戦苦闘に、アルティナは欠片と化したマカロンを食してからやんわりと笑みを浮かべる。
「わたくしの四百年におけるヴァルバトーゼさんの重要性とか、ポジションとか、そんなことをお訊ねしたいのかしら?」
「そうそう、それそれ!」
 政党の党首たる吸血鬼にとってアルティナは高潔な、四百年の歳月をかけても約束を守るに値する魂の持ち主。しかもそれまで誰の血も吸わないなんて、吸血鬼には致命的な約束を交わしても強固に守り続けるほどの。
 フーカはこの情熱ぶりに身悶えしたくなる。下手な愛情表現なんかより相手への強い想いを感じさせて、冷静であろうとすればするほど第三者のこちらは口元が緩んで仕方ない。悪魔や天使にとって四百年の歳月はやはり長かろうに、それでもその約束を貫き通すなんて、化生だからこそ可能となったロマンチックな話だ。
 そうやって内心浮かれるフーカの耳に、しかし飛び込んできたのは予想に反した返答だった。
「わたくしにとってあの方や、あの方との約束は、人間の頃の思い出の一つ、に過ぎませんでしたわ」
「……ぇええぇえ!?」
 恐ろしいくらい冷静な発言を受けて、フーカは対面する人物を相手に目を剥く。アルティナは、平気な顔で紅茶を飲んでいた。
「そ、そんなもんなの!? あんなにヴァルっちは約束を守ってたのに、アルティナちゃんは……」
 もしかしてアルティナにとってこの四百年で吸血鬼を思い出す回数は、彼が彼女との約束を思い出すより遥かに少なかったのか。四百年前の初恋を互いに忘れていないからこそ結ばれた重みがあるものなのに、再会してから片方が過去を振り返る展開なんて、待たされる側が不憫だ。途端に物語めいた雰囲気が取り払われてしまい、しょげるフーカへ彼女は穏やかな声をかける。
「よく考えてみて下さいな、フーカさん。あの方と交わした約束はわたくしから見れば『自分があのひとを怖いと思ったら、自分の血を与える』です。わたくしが約束で持つ不利益は、約束が果たされた後に生まれるもの」
 そして約束を果たすまでの不利益は、吸血鬼側が負う。現時点でも約束は果たされていないため、いまも彼は不利益を被っている訳だ。当然両者が感じる約束の重みは全く異なる。
「……まあ、なんとなくわかったけど。でもそれって……」
 ドライな物言いに、件の吸血鬼に対しフーカでさえも憐れみが自然と湧いてしまう。今でこそイワシと気合いと根性で魔界の政拳交代までしてしまったが、血を吸わない吸血鬼なんて、人間でさえ違和感を感じるくらいなのだから悪魔にとっては何故存在しているのかわからないレベルだろうに。そんな彼を慮ることはなかったのかと、少女は彼への同情心半分、天使と悪魔の組み合わせに盛り上がる出歯亀心の半分で食い下がる。
「アルティナちゃんは……、こうなるまでの間にヴァルっちに会いたいとか、なかった?」
「……さあ、どうでしょう」
 肩を軽く竦めてアルティナははぐらかそうとするけれど、その目に宿る輝きはフーカが嫌な連想として思い浮かぶ誤魔化しは感じない。後ろめたそうではあるが、それは彼女のどうにも隠しきれない気持ちを代弁しているようだ。
「あった?」
「正直に言うと、……そうですわね。けれどわたくしは断罪者ネモの企みを阻止せねば、彼を救わねばならなかった」
 そのために天使アルティナの多くが費やされたことを、フーカは知っている。結果的にこの四百年は無駄ではなかったけれど、彼女一人きりの奮闘が計画阻止にどれほど繋がったのかは定かではない。恐らくにその無力さなり手応えなりは、彼女のほうがより明確な感覚を得ているだろう。けれど、とカップに残った紅茶を飲み干し少女は思う。
「それまでの間にさ、ヴァルっちを探して協力してもらおうとか、思わなかったの?」
「あら、フーカさんたら随分と酷なことをおっしゃいますのね」
 残酷なんて指摘を受けると思っていなかったフーカは目を瞬き、アルティナは毅然と彼女を正面から見据える。ほんの少し、咎めているような視線で。
「それは、利用することになりますのよ。わたくしが撒いた厄災の種を、吸血鬼さんの手で刈り取らせるなんて図々しいにも程があります。狼男さんだってそう言うでしょうし、あの方が内心そう考えても不思議ではありません。わたくしたちの繋がりは、ただ一つの約束でしかないのに」
 何より再会するまでの四百年間、吸血鬼が愚直にも自分との約束を守っていたことをアルティナは知らなかった。吸血鬼との出会いや約束そのものを人間時代の思い出の一つとして切り替えた自分と同じく、また彼も過去の無念として切り替えているだろうと想定していた彼女にとって、真実を知った際の衝撃はどれほどのものだったろう。
「アルティナちゃんの言うことも、わかるんだけどさあ……」
 それでもフーカの胸のもやは晴れない。吸血鬼がアルティナとの約束を守り続けていただけに、その彼女が彼よりも断罪者ネモ、平たく言えば他の男を懸念していたと言うのがどうにも――野次馬根性丸出しで表現すれば――、面白くない、ロマンチックじゃないのだ。口中に広がる苺ジャムのクッキーが甘酸っぱいだけに、会話内容にもそれ相応のものを求めてしまう。
「じゃあさ、もしアルティナちゃんが魔界に来なくて一人で……ネモ、だっけ。あいつのことをどうにかできてたら、ヴァルっちのこと探そうと思った?」
「仮定のお話は不毛ですわよ、フーカさん」
 ぴしゃりと言い切られ、フーカは口先を尖らせる。以前から知ってはいたが、アルティナは現実主義者だ。吸血鬼は没した人間との約束を忘れられない浪漫主義者だからふたりの相性は凹凸として悪くないのかもしれないが、女子のお茶会にはあまり良い効果を生み出さない。故に少女はむきになって叫ぶ。
「そうかもしれないけど聞きたいの! アルティナちゃんだってヴァルっちのこと好きなんでしょ!?」
 フーカの問いかけに明確な返答はなかった。暫くの沈黙が広がったのちに、けほ、とどこからともなく咳が聞こえてくるだけだ。
 どこからとは、フーカの目には明確そのもの。向い合うアルティナが急に屈み込み、紅茶が気管に入ったのか咳き込んで、彼女の羽がもがくように揺れる。それまで一度も動揺を示さなかった彼女のこの態度に、少女はようやく気付いた。
 アルティナが吸血鬼を頑固だと言ったときに浮かべたむず痒そうな表情は切なさと表現できて。会いたくないのかと尋ねられ、返答を濁した理由は後ろめたさと考えられて。利用するなんて残酷だと告げたときの心情は、対等であろうとする意志と迷惑をかけまいとする思いやりがあって。それらは彼への、たった一つの感情に繋がっている。即ち。
「……て言うか、大好き?」
 アルティナの肩が一瞬止まった。と思った途端に再び激しく咳き込み、彼女が掴むテーブルまでもが地震でも起きたように細かく揺れる。洒落にならない様子に流石にフーカは慌てて立ち上がり、羽の隙間へ手を当て撫でさする。
「ご、ごめんね! そこまで反応されるとか、アタシ思ってなくて……!」
 その発言こそがアルティナの動揺をますますもって激しくさせていることに、気付いているのかいないのか。フーカは緩んでしまう口元をどうにかしようと開いた片手で顔の下半分を覆い隠しながら、華奢な背中が熱を持ちそうなほどさすり続ける。
 結局アルティナの咳が完全に納まったのはそれから一分以上も後で、ようやく顔を上げた彼女はナフキンで口の周りを拭いながら、赤い顔ではあと大きく息を吐いた。
「……四百年振りに、こんな痛みを味わうなんて、思ってもみませんでした」
「いや~、ほんと、ごめんね……?」
 下手なことは言うまいと心に決めておきながら、フーカの表情筋はアルティナが咽る前よりも緩んでいた。単純に彼女の気持ちが確認できて嬉しいからだが、天使にとってはさぞかしいやらしい笑みに見えたことだろう。鼻をかみながら彼女は少女を軽く睨む。
「謝罪に気持ちが篭っていませんわね、フーカさん。慰謝料でも請求しましょうかしら?」
「えぇぇえー! お、お菓子持ってきたんだからそれで勘弁してよ!」
「あら、それならわたくしはお茶を用意しましたもの。フーカさんが持ってきて下さったお菓子に見合うように、そこそこお高いものを選びましたのよ?」
 そう返されると紅茶を清涼剤替わりでしか飲んでいないさっきまでの自分にもっと味わえと言いたくなるが、今そんなことを思っても無駄だ。『業欲の天使』の手腕を堪能したくないフーカは、全面降伏することで眼前の危機を回避しようと試みる。
「ごめんなさい、アルティナちゃん。今度から絶対にあんなこと言わないから、だから、許して……!」
 祈りを捧げるポーズでフーカが頼み込むと、アルティナはため息を漏らして肩を落とす。
「……そこまでせずとも構いません。そんなに怖がられますと、天使として逆に傷付きますわ」
 許されたフーカは怒られない程度に万歳をすると、あっさり思考を切り替えて自分の持ってきた菓子の皿に手を伸ばす。密かに狙っていたココアのマカロンを無事確保すると、更に機嫌は上昇した。
「ああっ、やっぱり天使は心が広いわあ……! じゃあお金は差し出せないけど、アルティナちゃんが困ったことがあったらいつでもアタシを頼って! できることならなんでもやるから!」
 明るく借りを作ったフーカの脳天気な笑みに、さしもの天使も呆れたらしい。自分の眉間に指を軽く添え、アルティナはぽつりと呟いた。
「今から馬車馬のように働かせたくなりましたけれど……まあ、いいですわ。持つべきものは人の縁、ですものね」
「そうそう! お金で買えない価値があるって、きっとこう言うことよ!」
 その買えない価値の象徴たる平和と贖罪のために金銭に固執し、魔界で大泥棒として活躍していたアルティナにはかなり皮肉めいたフレーズなのだが、そこは中学三年生の神経の図太さよ。彼女の笑みに薄い陰が被さっているのも気付かず、フーカはココアのマカロンから溢れる程良い苦味と間に挟まるこっくりとしたチョコレートソースの調和を堪能する。いつの間にかカップにはお代わりの紅茶が満たされていたし、全く以て何も言うことはないほどの満足感を覚える。
 けれど人とは満たされ過ぎてしまうと、不安や悲しみも不意にぶり返してしまうものだ。負けん気の強いフーカにはあまり縁のない心のバランス感覚だが、このときは自覚があるほど珍しく、するりとテンションが下がっていった。
「けど、よかったぁ」
「何がです?」
「アルティナちゃんがヴァルっちのこと、四百年なんとも思ってないとかじゃなくて」
 フーカのさして知識が詰まっているわけではない頭から、とある言葉が海底で生まれた泡みたいに浮かび上がってくる。昔――とは言っても四百年に及びもつかぬ二年前だが――ならよく思い出し、彼女を悲しい気分に浸らせたりした一言だ。
「好きの反対は無関心、って言うじゃん。その言葉を思い出すたびにね、アタシはその通りだなーって思うしかなくてさ。アルティナちゃんがさっき思い出って言ったとき、じゃあ興味なくしたのかなって……」
「そんなことは、……ありません」
 アルティナも、フーカの声音に合わせるかのごとく静かな調子で否定する。自分のカップにも紅茶のお代わりを注ぎながら、けれどその中身を見ているのかいないのか曖昧な視線で。
「ただわたくしは、天使として召し上げられてしまいましたから。視界に入る命を救うため奮闘してきた功績として、天界の方々から評価を得たことは嬉しく思います」
 けれど、とアルティナは言葉を切る。
「けれどね、フーカさん。それはつまり、たった三日しか会っていない吸血鬼さんと交わした約束は、天界の方々にとっては意味がないのです」
「天使たちに無視されてるからって、別にアルティナちゃんがヴァルっちのことどう思っていようと勝手でしょ?」
「いいえ、そうはいきません」
 清浄な空色の瞳に籠る光は力強く、アルティナの性格を言葉よりも一層明確に示す。つまりは生真面目、頑固、融通が効かない。そんな意味合いのことを。
「わたくしが生前の記憶を引き継ぎ『アルティナ』として天使となれたのはフロン様や天界の方々のお慈悲あってこそ。御方々からの御恩に報いるためでしたら、何よりも我が身に帯びた使命と、わたくしが背負うべき責任を最優先すべきです」
「……何よりもって、それ……」
 淀みなく告げるアルティナの言葉の裏には、それこそあらゆる感情が潜んでいるのだろう。折角新たな肉体を得たにも関わらず、彼女は生前他者のために切り捨てたはずの欲を今度もまた自ら捨てたのか。責任なぞ自主的に感じたことのないフーカにとっては考えられない感覚だけれど、だからこそ彼女は天使となったのかもしれない。
「ですからわたくしは、断罪者ネモを止める道を選びました。その結果が今なのですから、後悔はありませんわ」
 彫刻みたいに綺麗な笑顔を浮かべるアルティナだが、フーカは釈然としない。そりゃあ世界の破滅を防ぎネモに贖罪の意識と希望を植え付け、更には思い出として自分の中で完結させていた恋を実らせたのは誰だって花丸を付けるほどの僥倖だろうが、だからと言ってそれでは――。
「……あの方の気持ちを考えたら、そんなこと、ご本人の前で言えませんけれど、ね……」
 そうなる訳だ。
 だが先にもアルティナが指摘した通り、天使となってから吸血鬼に会いに行くのはネモのことが頭にある以上、彼らを利用する展開になりかねない。それは最も彼女が厭う手法だろうが、その手を取らねばかの吸血鬼の心の傷と喉の渇きは癒されぬまま四百年を過ごすことになる。結果的に情であれ大儀であれどちらを選んでも、彼女の心は苛まれていたのだろう。
 後悔はないと告げた際の笑みが作りものだとわかるほどぎこちなく、震える目元や口元に刻まれた笑みをじわと薄らげていくアルティナの姿は、フーカの目に痛ましく映る。温い紅茶は仄かに甘くて美味しいけれど、それでもどうにもできないほどに彼女の胸は苦かった。恐らくそれ以上に、天使の胸は苦痛と後悔にまみれているはずだ。
 しかしフーカは眼前の雁字がらめを憐れむだけの趣味などない。夢にせよ現実にせよ、できれば最短ルートでハッピーエンド、誰も傷付かない大団円を目指したいのが世の常人の常だと思うから、彼女は不幸を感じる許容範囲が振り切ったと自覚した瞬間に甲高い呻き声を漏らし、両腕を天井に向かって突き上げた。
「んも―――! めんどくさい!!」
 急な行動に唖然とフーカを見るアルティナの鼻先へ、怖いもの知らずの少女は勢いのまま立ち上がると人差し指を突き出す。
「そんじゃあほんとに心の底から後悔しないためにとっととヴァルっちとくっつけばいいじゃん! 四百年も待たせちゃったし、ネロのことは解決したんだからそんくらい他の天使だって許すわよ!」
「いえ、それは……」
「てゆーかアタシが許す! 大体ね、アルティナちゃんもアタシの夢の中のキャラなんだからそんな頑固になんなくったっていいの! アタシ天使を苛めてスカッとするような性格じゃないし、逆にアルティナちゃんが悲しそうなの嫌だもん!! だからとっとと幸せんなって!! そんでアタシに感謝して!!」
 散々好き勝手に喚き散らしたフーカの険しい顔を見て、呆けたように口を開けていたアルティナが何故だかぷっと吹き出した。どこへぶつけるべきかわからない怒りで体中が熱い少女にとっては突っかかりたくなる反応だったが、くすくす笑って立ち上がった天使の次の行動で、それは見事に封じられる。
「わたくしのために怒って下さって、ありがとうございます、フーカさん」
 近付いて両脇から腕を回され、そのまま強く抱き締められる。アルティナのほうが僅かに身長が高いためかフーカの胸の位置より少し上に柔らかな脂肪の塊が圧しかかり、彼女の意識がそちらに向きかけるがそれよりも。日常的にスキンシップさえしない国で生まれた少女にとって、この感謝の示し方そのものに戸惑いを通り越して硬直してしまった。
「……え、ちょっ、ちょっと!」
「そのお気持ちだけで、わたくしはとても嬉しいし、幸せですわ。それと、彼は断罪者ネモです、ネロ、なんて純朴そうな名前ではありません」
 抱き付かれたため顔は見れないけれど笑みを含んだ声は晴れ晴れしく、アルティナの言葉が本心から発せられているとわかるのが逆にフーカの腹の底を熱くする。気持ちだけで十分なんて言われてますます腹立たしくなることに、天使は気付いていないようだ。
 けれど抱き締めるアルティナを、フーカは振り払わなかった。肌が触れているせいだろうか、彼女への怒りは強いけれどそれ以上に親愛の情がじわりと胸から溢れそうになって。
「アタシ……、諦めないからね」
 ようやく抱かれることの心地良さを受け入れながら、けれどやはり腹立たしくて仕方ないフーカは瞼を伏せて宣言する。
 お節介なのは十分承知。だがそれでも、程よく自分を誤魔化せない、幸せになろうともしないこの天使を無理やりにでも幸せにする。それから天界に行って、天使に恩を売ってやったのだからプリニーではなく天使にさせろと交渉しようではないか。
 フーカは決めた。でなければ腹の虫が納まらないなんて、物騒な理由で彼女は心の奥底から、自分に向かって『約束』した。





後書き
 何気に一番最初に書いたディスガイア4二次SS。今の解釈と多少違う部分もありますがまあその辺りは寛容に目を瞑っていただけるとありがたいかと。
 しかしヴァルアル前提アルフーもどきとか本当自分に素直だな!

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・おとめ

2011/07/07

Q.女性とは何で構成されていますか。
「そうですわね……確か、脳みそ、肺、心臓、胃、肝臓、すい臓、小腸、大腸とあと子宮……」

「えーと、なんだっけ。
パパは大雑把にたんぱく質とかどうとか言ってた気がするけど……」

「野望と乙女心とガッツとおもちデス!
少なくともデスコはそれで構成されているデス!」

「……アルティナ。お前がヒロイン内で人気投票最下位だった理由が判明したぞ」
「はい?」

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・if版初対面

2011/07/07

The Brides of Vampireネタバレ

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・書簡バレ

2011/07/07

The Brides of Vampireネタバレ

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対比

2011/07/07

 ディスガイアのキャラ設定は方眼用紙に書いて構成したのかってほど対称が多いなあとしみじみ。
 今更過去のメインからざざっとなぞる気はないですが(余談ですが今回ふたりとも髪型とか服のパーツとか部分的な類似点多い気がする)、近作もまたくっきり正反対ですよね。あと内面的に、果たせなかった私的な約束を自分の魔力を失っても守り続けるヒロイックでロマンチストで馬鹿正直なヒーローと、自分の信念貫いた結果の尻拭いに縛られるごく真っ当な感覚で恋<義なリアリストで世界を救うために足掻き続けたミステリアス系ヒロインって構図が普通のヒーロー&ヒロインと立場逆転させてて面白い。まあお蔭さんでヒロインが真っ当な意味での優等生さとヒロインにステ振りすぎてて愛着湧きにくくなりましたが私は彼女のそんな器用貧乏なところも好きです。
 ふたりとも意固地で生真面目で品性高潔でお育ち良さそうだけど、誇りを意識している閣下と、意識してないのに気高いだの清らかだの言われた天然培養なアルティナちゃんもわりと対照的。
 アルティナちゃんを挟んだ上で閣下、ネモの構図もドキドキ。10代黒髪痩身生真面目青年紳士⇔30代金髪筋肉質おふざけ中年親父で、主人公とラスボスで、ひとりの女に自ら人生を狂わせた悪魔と人間で、羅列するだけでも呼吸が乱れかねない。だからテンポ悪くてもネモと閣下が対面する場面が多い八話以降はきゅんきゅん来ます。そこに曇り顔のアルティナちゃんが加わると正直興奮する。
 フェさんとネモの対称も良い。命を救われて忠誠を誓い主をより高みに導こうと付き従う悪魔と、命を救われて恩義を感じたがために彼女を見放した世界を壊そうとした人間。味方であり続けた策士と敵であり続けた策士。最大の足枷の憑き物はきれいさっぱり落ちちゃったから器はぐんと広くなったし、策士としての実力も含めてネモ>フェさんだろうなと思うと絡みにそわそわする。
 なので主従とアルティナちゃんネモのくくりで見てもたのちい。悪魔なのに実に真っ当な主従関係の主従、彼女が求めていないことを貫く崇拝者たる男とそれを嘆き続ける崇拝される女。プリニーネモんなったら幾分か健全になりそうだけどいつ配信来るかなー。
 主従の対称は見た目も内面も含めてはっきり描かれてるから今更書くこっちゃないですが、むしろ対照的に違いが描かれているから類似点のが目に付きやすいですよね。頑固な点とか随所に垣間見える子どもっぽさとか図星指された反応とかの似通い具合がしみじみ付き合いの長さを窺わせる。個人的にフェさんは閣下をアホとかさらっと言ってたけどなんだかんだ言ってフェさんも閣下とお脳のレベルは大差ないと思っています。何に情熱を注ぐかのベクトルが違うから知性の差があるように感じるだけで。
 閣下を挟んだフェさんとアルティナちゃんの対称も好き。閣下が命を救ってやったことで自ら彼のものになった男と、閣下が命を救えなかったことで彼の心を得た女。数百年付き従っても彼の信念を変えられなかった男と、たった三日で彼に多大なる影響を与えた女。恋は強いと言うべきか、フェさんはもうちょっと別のアプローチ考えろよ四百年間なにやってたんだよと思わずにはいられない。けど彼のそんなお間抜けなところも好きです。あと閣下を思う通りに動かしたいけど結局振り回される側、閣下の言動を全て受け入れる姿勢を見せつつ割と振り回す(閣下が自分から首突っ込んじゃう)側でも楽しい。ほんにこの三人の対比は好ましいわあ。
 子ども組はそれほど対称を感じないかなと思ったけどこっちはそれぞれの立場や設定を比べると言うよりも、親との関係にピント合わせたほうが綺麗に整う感じですよね。親に愛されていたが故に捨てられて変わった子どもと、親に愛されていたことを知らずに死んで己の不変を貫く子どもと、親にどうあっても本物の愛を注いでもらえないとわかっていても自分の存在意義に忠実な子ども。子ども組は三人とも父親が出てて、しかもその父親が有能だけど性格容姿立場ネモとの接し方諸々が正反対なタイプだし、四話で親に捨てられた者同士のシンパシー的な発言以降、1セット扱いされてるから意識されたのはやっぱそっちだと思う。恋愛ネタと家族との和解・絆ネタはディスガイアシリーズでの核だし、今回はそれをさっくり二チームに分けて担当させたのは個人的に明確でありがたい。そしてそのお蔭でいまだ子ども組の本格的な恋愛あれこれが考えにくい。
 大人組と子ども組のそれぞれの面子で対称を意識してるのかなーと思わせる組み合わせは個人的にぱっと思い浮かばないんですが、マンセー要員のお付きと常識型弱ツッコミ役を侍らしてて、恋愛サイドと家族サイドそれぞれの主役と考えればやはり閣下とフーカすんになるのかしら。けどこの二人の場合、それまでの背中合わせの対称や鏡合わせの対比ではなくてさしてお互い意識せず好きな姿勢で肩並べてる感じですよね。つーかこれって対称って言わなくね……?

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mail

2011/07/07

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アレンジサントラー

2011/07/10

 某生放送で『Arcadia Vampire』フルverが収録されてると聞いてくやビクしながら購入決定したものですが、一番心を捉えて離さないのは『Sparking』のやたら情熱的なバイオリン無双っぷりです。あんなにやだ…格好いい…ってなるのに本編で使われたのは次回予告だと言う……。しかも閣下がイワシイワシうるさかったのも自動的に思い出して曲の格好よさとのギャップに腹筋がつらい。けど閣下のイワシ知識wikipediaからのモロパ…っぽいよね。それ知ったときの複雑さったらなかった。
 『Golden Memories』の歌詞はぐぐる先生の翻訳使ってざっと意訳したけどほんとフツーだったのでネタにはなりそうにない……。ああ購入決定させた『Arcadia Vampire』は予想通りエロ可愛かったので満足です。ツンデレっぽく歌うよう指示されたらしいけどあれはツンデレ言うより夜魔さんがたレベルのエロ媚びっぽく聴こえた。
 アルティナちゃんテーマの『セピア色の夢』は綺麗だし、「だ、誰がいつ初恋などと言ったァ!?」を思い出すのでニヤニヤするんですが、インパクトのあるパートがなくてわりと聴き逃し率高いのが難点。閣下見せ場シーンで流れる『飛べない翼』が好きなのにこれは収録されてないんですよねーそれが個人的には画竜点睛を欠くわあ。

 以下web拍手お返事となります。

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・救ってくれたひとだから

2011/07/13

「ああ、ヴァルバトーゼ君。ちょっといいかな」
「……いい加減、貴様も『ッス』をつけんか」
「今くらいはいいじゃないか。ちょっと話をするだけなんだしさ」
「プリニーにはちょっとも糞もない。特に貴様は、この魔界の歴史の中でも最高額を設定された最も罪深きプリニー。
こんなところで油を売っている暇があるなら、とっとと働け」
「おお、恐い恐い。じゃあ用件も最低限にするとしよう」
「お前、俺の話を聞いて……」
「――ヴァルバトーゼ君。アルティナさんのこと、本当にありがとう」
「……何だと?」
「じゃあこれでボクは失礼するよ。君の言う通り、時は金なりだしね」
「待て、ネモ。それだけでは俺が納得せん。
どうして貴様があいつのことで俺に礼をするのか、理由を教えろ」
「今後、君が彼女を守ってくれるんだろう?」
「……それは無論。約束した以上は、当然だ。
そもそも、これでまたあいつを死に逃がせば俺は再び血を吸う機会を失うことになるからな」
「今更照れなくたっていいと思うがねえ。
あんな大告白ぶちまけたんだからさ~」
「あ、あれは告白ではないわッッ!!」
「あーはいはいそうだねそうだったねー。……ま、正直なところを言うとね。
四百年前から君が彼女を気にかけてくれていた。それだけでも、ボクは随分救われたんだ。
だから礼を言ったのさ」
「……四百年前、か」
「ああ。四百年前、君が彼女を守れず辛い思いをしたのは理解しているつもりだよ。
それはボクだって同じ。あのときベッドからほとんど動けなくて、アルティナさんが急にいなくなった理由もすぐにはわからなかった。
彼女が死んだと知ったときだって、あの日からいくらか経ってからでね……」
「…………」
「ボクはね、ヴァルバトーゼ君。
あのとき、彼女を救おうとするひとがいなかったこともそうだけど、死んだ彼女を悼むひとが、自分以外一人もいないと思い知らされたのが何より辛かった。
あんなにボクたち怪我人を生かすために努力していたひとが、他人のために自分の身を削るような優しいひとが、誰からも顧みられないなんて。
無償の愛を振り撒いていながら孤独の只中にいて、単に利用されていただけだなんて思ってもみなくて……本当に辛くてね、絶望さえ覚えた」
「…………」
「慕っているひとがいたからこそ、彼女はきちんと弔われたんだと後々気付きはしたがね。
当時彼女はスパイ容疑をかけられて死んだから、その墓の周辺に近付けばまた自分も同じように怪しまれるかもしれないと恐れた奴はいたんだろう。
しかしそれだって結局、生きるための理屈を優先させた結果だ。ボクみたいに、墓を見つけ次第咽び泣くほど彼女への気持ちを優先させた奴はいなかった。
……ボクみたいに、彼女をずっと憶えていようと思う奴もね」
「……だからお前は、あいつのために世界への復讐を企てたのか」
「そうなるかな。……多分ね、ボクがあのとき君の存在を知っていたら、復讐なんて思いつかなかった。
ボクと同じように、彼女を想い、いつまでも憶えていて、あのとき何もできなかった自分に強く後悔していた誰かがいると知っていれば……。
まあ尤も、それならそれでどうして君は彼女を救えなかったんだと怒っていた可能性はあるがね」
「俺はあのとき、あいつを守れなかった。あいつを殺した連中を殺さなかった。……それについて、弁解の余地はない」
「ホント悪魔だってのに真面目だねえ、君は。
けど、そこまで気に病む必要はないよ。君は四百年前から彼女の味方だったんだろう。それを知っただけで、ボクは……」
「…………」
「まあ君だけじゃなくて、天使長さんだったかな。彼女にも、アルティナさんのことについては感謝してもしきれないほどだけどね」
「うむ。それについては同意しておこう」
「ああ。……今になって思えば、彼女はボクが思っていた以上に幸せだったんだ。数は少なくとも、彼女を見て、慕うひとはきちんといたんだからね。
そりゃあ絶望なんてしないはずだよ。世界を壊しちゃいけないと、四百年間、必死になってボクに呼びかけるのも頷ける」
「……反省しているようだな。結構なことだ」
「はは、そりゃあねえ。
じゃあまあ、今度こそ失礼するよ」
「うむ。ひたすら働き罪を償うが良い、それが今のお前の唯一の贖罪なのだからな」
「へいへい、了解致しましたッス!」

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強い王さまのおはなし

2011/07/15

 とある世界に、とても強い王さまがいました。
 とても強い王さまは、身ひとつでもとの王さまをうち負かして王さまになったひとでした。
 王国の住民は、あらたな王さまをたたえました。
 なんて強いひとなんだろう。なんてすごいひとなんだろう。たったひとりで王さまにいどんで、あんなにたくさんの兵をたおして、それで勝ってしまうなんて。
 すばらしい王さまに、住民たちはお祝いしました。
 王さまは、それまでたったひとりでいたのに、5にんものお嫁さんをもち、50もの宝物をもち、500にんものしもべをしたがえる王さまになりました。
 けれど王さまはそれらをもらってもちっともうれしくありませんでしたから、ぜんぶそのままにしておいて、世界じゅうを旅することにしました。
 王さまは、ほんとうはただ強いひとと戦いたかっただけなのです。王さまになる気なんて、なかったのです。


+++++++++++++++++



 王さまのことはどこにでも知れわたっていましたから、たくさんのひとが王さまを打ち負かそうとしたり、だましてあやつろうとしたり、こびを売って取り入ろうとしました。それを王さまはみんな、みーんな、たおしました。
 そうして王さまは、旅をする前より、もっともっと有名になりました。命をねらうひとや、こびを売ろうとするひとはもちろん、王さまを一目見ただけでこわがるひとまでいました。
 王さまはいい気分でした。ちやほやされてうれしいのはちょっとのあいだで、すぐにたいくつになりましたが、にくまれるのもこわがられるのもあっと言う間だからすきでした。
 あるとき、王さまはたくさんの敵にかこまれているオオカミを見つけました。
 きずだらけのオオカミは、ぜえぜえはあはあ苦しそうなのに、にげようともせず敵に立ちむかおうとしていました。
「なんと勇かんなオオカミか。しかしそうでなくてはおもしろくない!」
 オオカミのすがたを見て、とても昔、まだ弱かったころの自分を思いだした王さまは、その気持ちがなつかしくってオオカミを助けることにしました。
 助かったオオカミは、けれど王さまに生いきな口をききました。
「あんたは知っているよ、とても強い王さまだろう。オレを助けて、『えつ』にひたるつもりかい」
 旅をしてから王さまを知っているのにそんなことを言いだすものははじめてで、王さまはおかしくって笑いました。
「おれはそのようなことはせんよ、オオカミよ。お前の死にそうなのに立ちむかうすがたを見て、おれはひさしくわすれていた気持ちを思いだしたのだ。命を助けてやったのは、その礼だ」
「はん、なんてやつだ! オレはこの世界でいっとう強い王さまをたおす気でいたのに、こんなところで手助けをされてしまうなんて!」
 王さまは、それを聞いておどろきました。ながらく旅をしてきたこの世界で、自分よりももっと強い、世界でいっとう強い王さまがいるだなんて。
 戦いたいと、王さまは思いました。だからオオカミにたずねました。
「オオカミよ。このおれが助けてやったのだ。世界でいっとう強い王さまとやらがどこにいるのか、教えてくれないか」
「いやだね! オレはあんたに助けてくれなんてたのんでいないんだ! あんたがかってに助けたんだ! だから礼なんてするものか!」
 なんてやつだろう、と王さまはびっくりしました。けれど同じくらい、たのしくもなりました。だれかにこんなことを言われるなんて、生まれてはじめてのことでしたから。
「それではしかたない。世界でいっとう強い王さまと戦うというお前のあとをついていくことにしよう」
「かってにしろ! しかしこれはいい『つれ』を手に入れたかもしれない。こいつはめだつからおとりにしてやって、このオレがずぶりと世界でいっとう強い王さまのあごをかみくだいてやるのだ」
 王さまは、またオオカミのことばにびっくりさせられました。この自分をおとりにつかうだなんて、このオオカミはなんて『ひきょう』で、けれどおもしろいやつなんだろうと思ったのです。
 そうして、ひとりといっぴきの旅がはじまりました。
 オオカミは王さまに心をゆるそうとせず、王さまにきついことばかり言いましたが、王さまは笑ったりおもしろがってそれをうけいれました。


+++++++++++++++++



 世界でいっとう強い王さまのもとにたどりついたふたりは、さっそく王さまと戦いました。
 世界でいっとう強い王さまは、やっぱり世界でいっとう強いだけのことはありました。
 その王さまは、死そのものでしたから。だれもかれも、どうやったってみーんな死んでしまうのです。
 けれどひとりの王さまとひとりのオオカミは、死にませんでした。なんどもなんどもころされそうになって、けれどなんどか世界でいっとう強い王さまをころしそうにもなって、なんどもなんども太陽と月がめぐっても戦いつづけて、ついに。
 月がまん丸になったある夜、世界でいっとう強い王さまが、とうとうぐらりとたおれたのです。けれど王さまもオオカミももっとぼろぼろでしたから、とどめをさすことはできませんでした。
 ですがここまで戦わされたのは、世界でいっとう強い王さまにとってはじめてのことでしたから、世界でいっとう強い王さまも、ふたりにとどめをさしませんでした。
 けれど世界でいっとう強い王さまのしもべたちは、ひとりの王さまといっぴきのオオカミをこわがりました。
 もしかして、ここで生かしておいたらいつか自分たちの王さまをころしてしまうかもしれない。そうなったら、今の自分たちの『ちい』もおじゃんになる。
 みんな、王さまとオオカミをころそうとしました。とくにオオカミは王さまよりもふかくきずついていましたから、ころすのはきっとかんたんです。
 けれど、それを王さまがまもりました。自分だってきずついているのに、オオカミをころさせまいと戦いました。
「あんた、なんでそんなことをするんだい。オレなんかおいて、とっととあんただけでにげればいいじゃないか」
 オオカミがたずねました。すると、王さまはこたえました。
「そんなことはしたくない。これまでともに旅をしてきたお前を、世界でいっとう強い王さまをたおそうとともに戦ってきたお前をおいてにげだすなどと、おれはぜったいにいやなのだ」
 オオカミは、びっくりしました。生まれてこのかたそんなことを言われたのははじめてだったのです。
 どうにかしもべたちからにげだせたあと、オオカミは王さまにむかって、ほろほろと泣きながら言いました。
「どうかわたくしのこれまでのぶ礼をおゆるしください、王さま。命をすくっていただいたお礼として、わたくしをあなたのしもべにしてください」
「どうしてそんなことをいうのだ。せっかく生きのびたのだから、お前の命はお前のすきにつかえばいいだろう」
「ええ、すきにつかいますとも。ですからこれからはあなたさまのしもべとして、のこりの命をつかいたいのです!」
 王さまは、このオオカミと旅をするのがたのしかったのですから、オオカミが急にそんなことを言ってもにあまり気にしませんでした。それどころか、これからいっしょにいられることになってうれしいくらいです。そうして、きっとこれが友だちだと思いました。
「わたくしはこれまで『ひきょう』に生きてきたオオカミですが、いまならチカラのみなもとの月にだって、あなたにつくすとちかえます!」
「そうか、ならばここでちかってもらおう。オオカミよ、お前はおれに、月があるかぎりつくすのだ」
「ええ、ちかいましょう! 約束しましょう! あの月があるかぎり、わたくしはあなたさまのものでございます!」
 そうしてひとりといっぴきはふたりになり、ふたりはあるじとしもべになりました。


+++++++++++++++++



 ふたりは、まだ自分たちの知らない強いだれかと戦うため、旅をつづけました。
 王さまはひとりっきりの旅になれていて、それがあたりまえでしたが、しもべとなったオオカミとの旅はたのしいものでした。
 オオカミにいわれてからは、たまに王国に帰ったりもしました。
 王国の住人たちはいつでも王さまをうけいれて、王さまがまた強いだれかと戦うために旅をしてもそれをうけいれました。
 王さまはやりたいことならなんでもできました。となりには王さまのしもべのかしこいオオカミがいます。
 王さまはじゆうでした。じゆうすぎて、もうすっかり旅にも王国にいるのにもなれて、たいくつでした。
 そんなある日のことです。
 オオカミもつれずひとりでいたくなった王さまは、ある女の子にであいました。女の子は、王さまを見ていいました。
「あなたはかわいそうなひとなのね」
 はじめてそんなことをいわれた王さまは、びっくりしました。だって王さまはとても強くて有名ですから、いまの王さまを一目見たひとたちはみんなこわがるのがふつうなのです。
「みなおれをこわがるのだぞ。お前はおれがこわくないとでも言うのか」
「わたくしは生まれてからいちどだって、こわいと思ったことなんてありませんから。こわがられるのがふつうだなんて、やっぱりかわいそうで、それからへんなひとね」
 笑って言われてしまい、王さまはちょっとはらだたしい気持ちと、たいくつがまぎれてうれしい気持ちとが『ごった』になりました。
「おもしろい女だ。ならばおれがお前をこわがらせてやろう」
「まあ。それはたのしみです」
 それから王さまは、女の子をこわがらせようと、思いつくかぎりのことをしました。けれど女の子はにこにこ笑ってばかりで、王さまはなんどもくやしがりました。おなじくらい、そうでなくてはおもしろくないともおのれをふるい立たせました。
 王さまは、女の子をこわがらせようとすることがたのしくなってきました。
 女の子といっしょにいると、ふしぎな気持ちになるのです。こわがらせるつもりなのに、女の子とずっとこうしていたいと思いました。
 なのに女の子はある日、死んでしまいました。
 王さまはおこりました。女の子をまだこわがらせていないのにかってに死んでしまっておこりました。
 王さまは泣きました。女の子ともういっしょにいれないことに泣きました。
 王さまはこうかいしました。自分はとても強いのに、強いからこそ王さまになって、じゆうでいたのに、女の子ひとりまもれなかったのですから。強いからこそなんでもできると思いあがっていた自分がばかだと思いました。
 だから王さまは、強くなるのをやめました。王さまを、やめることにしました。


+++++++++++++++++



 王さまの5にんのうつくしいお嫁さんはそれぞれべつのだんなさんのもとへとつぎました。王さまの50の宝物は、てんでばらばらに売りはらわれました。そのお金で、王さまの500にんものしもべたちはあらたな主をみつけるまでをくいつなぐことにしました。
 王さまをやめた王さまにのこったのは、オオカミだけになりました。けれどそれでじゅうぶんです。王さまは、王さまになるまえはひとりぼっちでいたのですから。
 オオカミは、王さまが口をひらくまえに言いました。
「わたくしは、どうあろうとあなたさまのしもべでございます。命がつきるまで、あなたさまにおつかえいたします」
「そうか。ありがとう、オオカミよ。お前はおれの大切な友だちだ」
 ほんとうに、王さまはそう思いました。
 けれどオオカミはあまりうれしくありませんでした。きっと王さまはオオカミにも、じゆうになりたいのならなっていいぞと言おうとしたのだと思ったのです。それは王さまにとって、オオカミは5にんのお嫁さんや50の宝物や500にんものしもべとあまりかわらないものになるのです。
 そんなのはいやだから、オオカミは王さまがなにを言おうとしたのかわからないままずっと王さまといっしょに旅をすることにしました。そうして、王さまをもとの王さまにもどそうとしました。
「王さま、王さま。また強くなりましょう」
「強くなることになんのいみがあるのだ」
「強くなればもっとうつくしいお嫁さんがもらえます。宝物がもどります。あらたなしもべもたくさんできましょう」
「いらない。いらない。そんなものはいらない」
 王さまはがんこでした。オオカミはとまどいましたが、やはりあきらめませんでした。
「強くなればきっと、あなたさまのほしかったものが手にはいります。だからまた強くなりましょう」
「オオカミよ、おれがもっともほしいのは、かこにもどるチカラだ。うしなった命をとりもどすチカラだ。それは強くなれば手にはいるのか」
「……いいえ王さま。強くなることでそんなチカラをえたものなんて、わたくしでさえ聞いたことがありません」
「そうだろう。だから強くなってもいみはないのだ」
 ほんとうに、王さまはそう思いました。だから王さまはすこしずつ弱くなっていきました。


+++++++++++++++++



 ついに王さまは、だれかにおそわれればすぐに死んでしまうかもしれないほど弱くなりましたが、それでも強くなろうとは思いませんでした。また強くなっても、まもりたかった女の子はもういないのですから。
 けれど王さまは、死にたくなったわけではないのです。むしろいくら弱くなっても、自分から死ぬようなことはしないと、きっともっと生きたかったはずの女の子のぶんも生きなければと、思っていました。
 オオカミは強い王さまに助けてもらったので、王さまが弱くなるのはいやでした。けれど王さまに死なれるのはもっとずっといやなので、王さまを生かそうとしたし、自分もまたひっしに生きました。
 そうしていくなかで、王さまはじゆうなころよりもオオカミをたのもしく思いはじめました。
「ありがとう、オオカミよ。お前はおれにとって、かけがえのない友だちだ」
 お礼をされても、けれどオオカミはあまりうれしくありませんでした。なぜと言って。
「そう思ってくだすっているのならば王さま。どうかまた、あのときのように強くなってくださいませ。それがわたくしのねがいでございます」
「それはできない。強くなったところで、守りたかったあいつはもういないのだ」
 オオカミは、弱くなっていった王さまからどうして王さまをやめることにしたのか。そのわけを聞いていたので、むっとしながら言いました。
「そのとおりでございます、王さま。王さまをこわがらなかった娘はもうどこにもおりません。ですから王さまがそこまですることはないのです。どうしてあの娘のことを、こんなに引きずっておられるのですか」
「わすれたくないからだ、オオカミよ。あいつのことをわすれてもとにもどるくらいなら、おれはこのままでいい。死んでしまってもかまわない」
 オオカミは、そのことばを聞いてびっくりしました。そうして、おそろしくなりました。
 王さまにとって、かけがえのない友だちのオオカミは、女の子よりも大切なのでしょうか。オオカミが命がけで王さまにたのんだら、王さまはなんと言うのでしょうか。
 それを知るのがとてもおそろしくなったので、オオカミはそれだけはすまいと思いました。
 オオカミは王さまをおいて死にたくありませんでしたし、もし王さまに命をかけてたのんでも、やっぱり強くなりたくないと言われやしないかと思うと、それこそ死んでしまいたくなるから、ぜったいにぜったいにそんなことはすまいと思いました。
 だからオオカミにできたのは、王さまにひたすら強くなりましょうとよびかけることだけでした。けれど王さまは、やっぱり女の子のために生きていて、女の子へのこうかいから弱いままでした。

 そうしてオオカミと王さまは、今日もおなじことばをかわします。
「王さま、王さま。強くなってくださいませ」
「それはできない、オオカミよ」
 きっと明日も、あさっても、しあさってもおなじ。
 がんこな王さまは、女の子のことをわすれられないから。おくびょうなオオカミは、命がけでたのめないから。ふたりはずっと、ずうっとこのまま。
 ながいながい旅のすえ、さいはてにたどりついたそのさきでも。
 ふたりはずっと。まるで太陽と月が空をかわりばんこするように。
 おなじことをくりかえし。
 ずっとずっと。そのまんま。

 強い王さまのおはなし。これで、おしまい。









後書き
 フェさんが暴君閣下には最初ツンってたらいいなあと思って……。
 簡略化しようとして悪魔とか吸血鬼の要素とっぱらったらアルティナちゃんとのエピソード以降がちょっと苦しくなりましたねー。反省点です。

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フェンリっち考

2011/07/18

 4の中で一番変わってないのはフェさんですよね。キャラ公開時から「裏切る? ねえこれ絶対裏切るキャラだよね?」って予感させておいて結果は「残念! 一貫して閣下ラヴでした!」なのは別にいいんだけど(余談ですがフェさんが閣下とアルティナちゃんのラヴは細々否定するのに、自分の閣下へのラヴを言及されたときはスルーつか否定していないと気付いたときは笑いました。悪魔なんだから愛は全般的に否定しろよ自分に甘い奴だなこの人狼!)、じゃあ彼はこのストーリーの中でどんな変化を経たのかって問題に関しては曖昧になってしまうと言うか。「閣下以外屑だしー信じないしー」からエミちん励ましたりさりげなくデレポイントは見せてくれるけど、再会を果たしたふたりや姉妹ができたGGC(Golden Gorgeous Combi)、甘えたへたれから成長するエミちんに比べてたら些細なもんだし。つか「裏切ると見せかけて裏切らなかったキャラ」としてキャラを立ててしまっているせいで変化させられなかった、と言うべきなのかな。
 3の執事やエトナさんとちょっと被っちゃいますが、個人的には敵対してから改めて仲間になるくらいのほうが展開としては好みです。ヤンデレホモが好きとかそんなんじゃなしに、明確な進歩や変化があってくれたほうが物語が始まる前後でメリハリが生まれるし、きちんと閣下との『友情』が描けたんじゃないかなーと言うか。特にフェさんは閣下に対して基本イエスマン姿勢だから、はっきりとした拒絶や否定や本音をぶちまけて積年の鬱憤を晴らしてほしかった。まあイエスマンじゃない部分ってなるとアルティナちゃんに関わる問題くらいだけども……そこについてもこの人ストーリー中の姿勢一貫してるし。つかフェさんの変化形態は「有無」じゃなしに「軟化」や「深浅」か。わかりづれなーもー。
 月の事件はそれぞれ、主従がお互い本気になって月の危機に取り組んで、それぞれの態度にお互い本気なんだなって実感して信頼関係を再確認する流れだから、どうにも地味な印象が拭えないんですよね。あとやっぱりフェさんの閣下のヒロイン願望的なものが透けて見えて友情かー? ほんとに友情なのかー? って気分になる……。つか自分の中で構築した通りに主従をカップリングとして考えたら、体格的に攻めだけど願望として受けのフェさんと、精神的には攻めだけどそも攻める気を持たない閣下ってなって、……複雑すぎて私にはお手上げだ。
 あと暴君編シナリオ次第になるんでしょうが、冷静に考えてみても自分の命助けてもらったくらいで「この方こそ世界を支配するに相応しい英雄だー!」って思ってその野望を今の今まで引きずるって、フェさん閣下と同レベルかそれ以上のロマンチストですよね……。つか中身の恥ずかしさ具合では一番フーカすんの妄言笑えないじゃないかなー。なのにフーカすんに厳しいのは無意識下の同属嫌悪なのかい。…………うん、それで合ってる気がしてきた。

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・返事

2011/07/20

 長くなったのでワンクッション。
 自分の誕生日なんだから好き勝手にキャッキャウフフ書いていいよね!

Read...

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擬調味料化

2011/07/22

 どこぞでアルティナちゃんを「地味」と評した感想を見かけたとき、まあねそうだよその通りだよ否定なんかできやしないよ、けどあの子は4のストーリーの土台の役割として必須なんだから言わばお出汁のようなもんなのよ…! と思ったことがあります。
 その流れでいけば閣下は醤油で(魚醤的な意味で)、フェさんは閣下と一心同体らしいからお塩? じゃあフーカすんはお砂糖かしら。姉妹だから同系統でデスコは味醂? それとも味醂はエミちんかしら、調理酒でもいいと思うけど。アクターレさんはキャラ的に酢だねこれは譲れないね、などと割合真剣に当てはめようとしてましたがいまだ納得のいく組み合わせが思い浮かびません。あ、味噌いねーや。出汁と合いつつ砂糖、醤油とも合うからデスコかなあ…。
 まあ結論としてはアルティナちゃんはお着物+割烹着が案外似合いますよねと言うことで。ED一枚絵でほっそりとした白首を見せてくれた子なのでうなじアピールできるキモーノはとても良い効果をもたらすと思います誰にって訳じゃないけど。

 あともうそろそろ更新します。
 基本は某所に新作投稿してからこっちに一個前のを修正したものを投稿ってスタイルになるかと思っています。まあずっとこっち投稿でもいいっちゃいいんですが、どっちが宜しいんでしょう。

 以下お返事です拍手だけの方々もありがとうごさいます!

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無限清拭

2011/07/23

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・フェンリッヒさんの帰宅が遅くなります

2011/07/25

 ディスガイアートの表紙に興奮してお仕事のーとの裏表紙に興奮したので唐突に現パロ。現代パロのヴァルアルはがっかりップル度三割り増しと主張し隊。
 あと多分フェさんは隠しておいたはずの家計簿にレシートきっちり貼られてるの見つけちゃって両手で顔を覆う。

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理系女子でも眼鏡っていいよね!

2011/07/27

 冒頭ラジオドラマでソウルジ○ムとか「わたくしって本当バカ……」とか前回はまだ大人しかったのにキタエリは今回はっちゃけ過ぎだぞンモー! けど四人でやってほしかったのは同意しよう。ついでにブルカノ(?)で徹底してたからネタバレしてほしかったよ……。
 画集は八月発売のほうが個人的にウヒウヒ出来そうなのでそちら待機中です。4で描き下ろしがあったら購入するだろうけど裏表紙しか今んところ食指動かない。つか大王の連載今回4ページとか夏祭りの影響かともかく超肉頑張れ超頑張れこれじゃ10話まで完走できるのか先行き不安すぎる。

 ここ最近フーカすんは案外理系脳だったりするとイイナーとぼんやり妄想中です。
 親父さんの血をしっかり受け継いだ外見なのに中身ああなのは多分ご母堂の血なんだろうなと思うんですが(そして家庭的で女性らしい母にも反発して野球サッカーその他に走ったんならもっといい)、何気に英才教育受けてたりするといいですよね。インドかってレベルの九九とか周期表とか黄金比とかその他色んな数学科学必須知識を暗記してたりするけど、日常生活には使わないしまだ中学生じゃその価値がわからない上に地獄に来ることでその能力を発揮する場も失ってほぼ無駄知識状態とか。教養は生活に無意味なこととはよく言うたものです。
 けどそれじゃやっぱり寂しいからフーカすんの計算に対する頭の回転速度は何気に皆理解してたり認めてるとちょっと報われる。本人もバーゲンやセールや値段交渉のとき以外に使う気ないけど駆使してると嬉しい。てゆかあの子は圧倒的に国語力とか語彙が足りてない感じなのでそこフォローしたらデスクワークもできる子になるんじゃないのかな。そんなキャラじゃない。ですよねー。
 しかしご父君の開発したバトルスーツの能力説明口上丸々覚えてる辺り、その片鱗はあるような気がしないでもない。父子家庭になった寂しさから父親の仕事に興味を持って会話の糸口を掴もうとしていたんだろうけど、実際のところ父親がどんな仕事してるのかはともかくああも具体的に発明品を理解してるのは感情が先走っただけには感じないんですよね。最新鋭技術の虎の子たるデスゼットに殺された点から研究所にはそこそこ単独行動が許されるレベルで足を運んでたっぽいし、尋ねる理由の下地には親恋しさと同じくらい科学への純粋な興味があるからだといいなあ。
 アルティナちゃんも理系脳ですよね。とは言え数学的な意味ではなくて思考的な方向性になっちゃいますが。行動原理は理屈>感情で自分の偽善を理解した上で偽善に走るリアリスト。その結果から世界を危機に晒したって理解してんだからタチが悪い(って思われてることも理解してんだろうなー)。『徴収』額は語呂合わせだけがメインだったけどわざわざ数字出してる辺り、この子は糞真面目だなとしみじみ思う。
 ついでに真っ当な感覚で協調性重視してるから、どんな悲惨なことが振りかかっても手前の身勝手で周囲を傷つけたりヤンデレったりはまずしないかなと。4の中では一番ヤンデレ妄想が難しい子ではないですかしら。まあ惚れた男が他者を『操る』側で、その男に周囲が傷付ついてくのを見てしまいながらも自分もまた雁字搦めに縛られて操られてるとか、平たく言えば頭のいいド屑男に引っかかってずぶずぶとかそんな状況だったら死んでもらうと決める可能性はなくはないんでしょうけど。ネモは『操る』側だけど崇拝者だし、閣下はしっかり尻に敷けるレベルのベタ惚れで年下彼氏気質だしで良かったねアルティナちゃん……。
 デスコは推定二歳児だから理系も糞もあったもんじゃなさげ。男性陣はまあ……頑固なロマンチスト主従ががっつり理系脳なはずないし。エミちんもどっちかってと文系ですかね。理系は現場、文系は管理職って視点からでは正しいんではないかしらー。

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・そしてそんなやり取りを冷静になっても憶えてたりすると超恥ずかしいよね

2011/07/29

「ふふふふふんふん、ふふふふふん……♪」
「……?」
「Roses are red, Violets are blue, Sugar is sweet,」
「And so are you?」
「……ど、どうしてそこだけ歌いますの」
「い、いや、別に。……お前の口ずさむそれが確かそうだったかと思っただけで、他意は……」
「そう、なんですか?
でしたら、別に構いませんけれど……」
「そうだ。……別にお前がどうとか考えたとかそんなことは……」
「なっ、何も思っていないのでしたら、そんな、余計なことは仰らないでください……」
「ん、ああ……その、すまん……」
(なんだこの空間……)
(死にたい)

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・雰囲気に酔うと恥ずかしいこと平気で言えるよね

2011/07/29

下のを読む前にまずこっちから読んでね。

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・「世界とは何でできていると思う?」

2011/07/29

 中二メンタルを育んだ独自解釈のディスガイア4流神さま像注意。

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